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山東西部における刻経事業について

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Academic year: 2021

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山東西部における刻経事業について

田熊信之

はじめに 泰、 、徂徠の山並が山東西部の脊梁を形作る中それらの支脈の西辺を 黄河の水が北東へと流れる。この黄河流域を東端としまた北界とした山東 西部の南北にわたる地内に、一九九〇年代半ば以降次々と北朝後期の仏経 石刻が発見されている。この地の仏経石刻は造像を離れて仏経の字句乃至 仏名等を岩石に刻むことを主体としている。本小論ではこうした刻経の全 体を具体資料によって把握しつつ、それらを興した人々の実態とその展遷、 またこれに関わる 都の仏教やその歴史的な意味について前後の二章に分 けて考述を試みたい。 Ⅰ 山東西部における北朝後期の仏経石刻 山東地方全体を鳥瞰すると、概ね各地の花崗岩山岳の半腰、麓部には石 窟造像が、山岳を離れたより低平な地には造像碑などのものが建造される 傾向が見られる。これらは僧衆の活動する寺院等の所在とも関わるようで あるが、北朝後期の仏経石刻の一類はそれらの中の二、三を除けば概ねの ものが岩塊の露われる山東西部の山丘の麓部に修造されている。 本章では、先ずその所在の把握と刻字内容を通覧し、次いでその刻成年 代と修造者の実態を確認して、さらにその現状と内容を含めた展開の特質 について考察を進めたい。 一 その所在と遺址、刻字の現況 現在遺存が確認されるものを総集すると、約三〇の地点の一一〇余の書 刻が把握される 〔注1〕 。それらは次表に示す通りである。 学苑 第八四五号 一一~三三(二〇一一 三) 同 臨 明道寺遺址 同 済南黄石崖摩崖 旧曲阜勝果寺 遺址等 表 1  佛經刻字 (含 摘刻語句等) 大方等陀羅尼經 佛菩 名 妙法 華經 序品 佛弟子 名 妙法 華經 門品 大般涅槃經 行品 無 偈 金剛般若波羅蜜經 経句等原拠 北涼法衆 姚秦鳩摩羅什 姚秦鳩 羅什 北涼曇無 讖 姚秦鳩 羅什 譯出者 東 魏 東魏 東魏 ~ (北 東 魏 ~ (北 東 魏 天 平四 (五三 七 ) 正月 刻成時期

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東平銀山 同 州泗水出土 巨野石佛寺 泗水天明寺 東平海檀寺 同 同 同 同 平陰洪頂山 同 同 東平司里山 訶般若波羅蜜 佛 觀無量壽佛經 引句 文殊師利所  訶般若波羅 蜜經、文殊師利所 般若波 羅蜜經 四種 大方廣 嚴十惡品經 葉 菩 品 維 詰所 經見 阿 佛品 妙法  經 門品 (觀音 經) 式佛名 (維衞佛~安樂佛) 大集經 穿 ( 慧) 菩 品 佛 仁王般若波羅蜜經 受 持品 訶衍經 ( 訶般若波羅蜜經 問乘品) 文殊師利所  訶般若波羅 蜜經 文殊師利所 般若波 羅蜜經 三種 大般涅槃經 小品般若波羅蜜經 訶般 若波羅蜜明呪品 大般涅槃經 行品 無 偈 宋西域三藏 耶舎 梁扶南三藏曼陀羅仙、 同 伽婆羅、等 姚秦龜 國三藏鳩  羅什 姚秦龜 國三藏鳩  羅什 高齊那 提耶舎 姚秦龜 國三藏鳩  羅什 姚秦龜 國三藏鳩  羅什 同 梁扶南三藏曼陀羅仙、 伽婆羅 北涼曇無讖 姚秦龜 國三藏鳩  羅什 北涼曇無讖 北齊? 北齊~ (五六四) 北齊河清三年 七月 八日 (五六〇) 北齊皇建元年 一二 月二〇日 (五六〇) 北齊皇建元年 一一 月二三日 清 北齊天保~河 北齊~隋 北齊 (皇建以 前) 北齊 (皇建以 前) 同 鄒城 崗山 泰山 經石峪 滕州 龍山 滕州 陶山 鄒城 山 鄒城 鉄山 鄒城 陽山 同 同 同 鄒城 尖山 同 妖精洞 同 鄒城 山五 華 峰 同 上 水牛山 同 英佛巖 新泰徂徠山 山 麓 (光化寺域) 入楞伽經 佛品 佛 觀無量壽佛經 金剛般若波羅蜜經 文殊師利所 般若波羅蜜經 只刻三字 般若波羅蜜 維 詰所 經見 阿 佛品 大集經 穿 ( 慧) 菩 品 文殊師利所 般若波羅蜜經 文殊般若 大般涅槃經 行品 無 偈 思益梵天所問經 文殊師利所 般若波羅蜜經 文殊師利所 般若波羅蜜經 般若 文殊師利所 般若波羅蜜經 文殊師利所 般若波羅蜜經 (碑) 文殊師利所  訶般若波羅 蜜經 ( 崖) 文殊師利所 般若波羅蜜經 大般若經 (大般若波羅蜜經) 元魏天竺三藏菩提流 支 宋西域三藏 耶舎 姚秦鳩 羅什 梁扶南三藏 伽婆羅 姚秦鳩 羅什 高齊那 提耶舎 梁扶南三藏 伽婆羅 北涼曇無讖 姚秦鳩 羅什 梁扶南三藏 伽婆羅 梁扶南三藏 伽婆羅 梁扶南三藏 伽婆羅 梁扶南三藏 伽婆羅 梁扶南三藏曼陀羅仙 梁扶南三藏 伽婆羅 姚秦龜 國三藏鳩  羅什 北周代? 北周大象二年 北齊代 北周大象二年 北周大象元年 北齊武平五年 ? 北齊河清三年 北齊武平元年 北齊武平元年

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こうした各々の書刻の立地そのものや、その環境を類別すると、概ね次 のような結論が得られるように見える。 *山巓、山上 (頂部) の浄明な地の小刻 (雲翠山、大寨山、神童山 等) *山麓、山下 (阜丘) の閑寂な地の大刻 (洪頂山、鉄山、尖山 等) 二 その刻成年代と修造者の実態 では、ここで、こうした遺刻の刻成年代と修造者の実態を確認してみた い。 山東西部地域に遺存する北朝末の (一部小造像を伴う) 刻経、仏名刻字は 半ば以上が無紀年である。しかし、刻成年代或いは修造年代を記し残すも のの内に修造にかかわる事柄を少しく綴るものがある。 それらは次表 ( 図版2  図版4  図版5  参照) の如きであるが、 それらを一覧すれば 知られるように、そこには、経主、像主、齋主、仏心主、建心主、邑主、 邑子、維那、都維那等々と修造に関した各種の呼称の刻出が見られる。比 丘僧、比丘尼に主導され、地方の有力者及びそれに関わる在俗者がかなり の数結集、組織されてこれが起こされていることがわかる。 表 3  題記、願文 等 (主要刻字部分) 東平海檀寺碑 「大頌主 劉珍東 大建心主 張曇 /大都維那 張法敬 大都維那 張苗/大都維那 王 義二百人等/敬 經像一區」 「願今善 (力) 使国祚永□□□獲益□□蒙恩眷属、 美受天福、 一切衆生、 登彼岸……」 寧陽水牛山碑 「經主白石寺比丘□□□他□□□□□高万太□□□石窟寺主法高□□□□□、 邑人 州主羊穆□□邑人羊釋子□□□、經主 威將軍 州東陽平太守□州 五城郡太守太山羊鍾、郡功曹束市貴、邑人奉朝請羊善、邑人羊万歳、白石 * 図版 1  ~ 図版 6  参照 鄒城 崗山 (徐州 雲龍山) 滕州 陶山 鄒城 尖山 鄒城 山五華峰 新泰 徂徠山英佛巖 新泰 徂徠山山麓 寧陽 神童山 平陰 大寨山 平陰 二鼓山 平陰 天池山 平陰 書院東山 平陰 洪頂山 平陰 雲翠山 遺址等 表 2  佛名刻字 大空王佛、阿弥 佛 釋 文佛、弥勒尊佛、阿弥 佛 (阿弥陀佛) 阿弥 佛、 觀世 音 佛、 ( 般若波羅蜜 ) 大空王佛 (文 殊般若 )( 般若 ) ( 般若波羅蜜 ) 大空王佛、弥勒佛、 觀世 音 佛 弥勒佛、大空王佛、華 光 佛 阿弥 佛 大空王佛 大空王佛 大空王佛 大空王佛 (北峰一、 南 峰 四 ) 大山巖佛、 高山佛、 安 王佛、 式 佛 〔 維 衞 佛、 式 佛、 隨葉 佛、 拘樓秦 佛、 拘 那 含牟 尼佛、 葉 佛、 釋 牟 尼佛、 弥 勒佛、 阿弥 佛、 觀世 音 佛、 大 勢至 佛、 釋 牟 尼佛、 具 足千 万 光 相 佛、 安 樂 佛 〕、 藥 師瑠璃 光 佛 (北峰) 大空王佛 佛名

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寺□□朔建□□□比丘、………中正束扈姜………龍華寺□起束□□持□□ □大………中正………束願………束三………明達、都維那束………」 州泗河出土經碑 「邑子別肆 邑子………/邑子………/」 州泗河出土造像記断石 「……於沙丘東城之内、優婆夷比丘尼之寺、率彼四衆、奉為 太上皇帝陛下、 師僧父母、俾閏含靈、一切有識、於是 法堂魏魏、廊廡赫 、磊落而重畳、 峨峨以 属、又乃敬 阿弥  座三佛。……」 東平司里山造像銘 「佛弟子□ □/敬 弥勒下生/皇家師僧父母/尊爲一切衆生/ 善願」 * 参 考 泗 水建興寺 軌禪師碑 (比丘尼智度等 像碑) (武平五年(五七四)七月二 二日戊寅刊書訖) 〇 像主比丘尼智度/像主比丘通□ 像主比丘尼僧練/菩 主□□圓□道休□ 〇 ……大聖滅應歸真……自尓以來餘逕千記、今像教之中、齊國大沙 門建興寺軌禪師、 德峻巖、 越 万嶺而抽峯懷珠、 演 説若千河、 …… 故能廣發四弘之慈悲、拔彼衆生猛炎之湯炭、復能合率 俗一百人 等、恨生身不値佛…… 俗人等敬 金像廿 、 玉石像廿 、  一切經□□并像五 、以此功徳、仰恣皇帝陛下□□官□郡令長、 師僧父母、 一切衆生、 蠢動之源、 同□聖道法義人等、 仰寄 慈 ? □ 轉□流名後代 これらの刻経は、東平、陳留、任城、河間、 、鄒、魯等に活動を進め た僧衆、殊に僧太、道 、僧安、法洪、 門、僧齊、僧岸、僧万、比丘尼 法高、法會らに導かれたものであり、これを支えた人々が、在地の権門で ある太山の羊氏、鄒魯の韋氏、李氏、魯郡と係わりのある唐氏を 始 めと し た太 守 、 刺史 、郡中正 及びそ の 府 下の属 領 、主 簿 、功 曹ま た衆人である。 こ う し た地 方 の 豪族 等との 脈絡 の中から山東の 仏徒 、殊に僧安らの 集 団 と 中 央 の 貴顕 、 例 え ば 高 元 や 唐 、 趙妃 、陳德 成 、德 信 、 董 妃 など との がりが 得 られ ていっ た 可 能 性 があることは 次章 で記 述す ることに し た い 〔注2〕 。 三 その形状 内容と展開の特質 さ て 、刻 成 遺品 に つ いて 、ここで そ の 形状 と内 容 とを 確認 し つつ 、 そ の 展開 が 如何様 であ っ たかを 省 し て みよ う 。 先ず 形状 等であるが、 そ れら は、 概括 す れ ば 、 ・ 形状 碑 摩崖 ( 仏 堪 、 仏 龕 、 小 像をとも な う ものと 否 のもの) ・ 刻書 隷 書 隷楷 書 (一 部篆 体 を 混 う ) 楷 書 ・ 字 大 数 ㎝~ 数 m と い う ことに な ろ う 。山東 西 部 地 域 では石 窟 内 壁 や 摩崖 の 壁面 を 丹念 に 磨 き 上 げ て 細 字 で長大 な 経 文 等を刻 む ものが 見 られ ない 実態 があり 〔注 〕 、 そう し た刻経、 仏 名刻 字 等を 概 観 す ると、刻 字 を 盛 る 素材 の 形状 に碑、 摩崖 の別 はあるが、 刻 字 は 小 から大 へ 、 粗 ( 寡 ) から 密 ( 多 ) へ と 移 り、 標幟 、 標 語 と し て の 語 句 や 仏 名から教義、 思想 を す 経 文 の 文 ま でが 口誦 と 視 認 に 至便 な 姿 と さ れ てい ることがわかる。 この さ ま は、 堅固 な 露岩 に 文 字 を刻 む 中での、 執拗 な ま でに碑 形 の 造出 に 拘 り、 そ の 規模 を 拡 大 し て ゆく さ ま (洪 頂 山 訶衍 經碑、 僧安 壹題 名、

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図版 1 山東西部仏教石刻(刻経等)所在地

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図版 2 造像題記、刻経碑 等 ① 黄石崖刻経 ② 司里山摩崖刻経 ③ 州師泗河出土造像記断石 ④ 東平海檀寺造像刻経碑 ⑤ 泗水建興寺造像碑 ⑥ 曲阜勝果寺旧蔵造像 ⑦ 寧陽水牛山刻経碑 ① ② ③ ⑥ ④ ⑤ ⑦

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図版 3 刻経残碑、摩崖刻経 等 ①~⑨ 州師泗河出土刻経碑残石 ⑩ 司里山摩崖刻経 ⑪ 雲翠山摩崖列名 ⑫ 二鼓山摩崖仏名等 ⑬洪頂山摩崖仏名 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ 原石影 ⑩ ⑪ ⑫ ⑬

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図版 4 摩崖題記、刻経 仏名 等 ①~⑤ 洪頂山摩崖題記、刻経 等 ① ② ③ ④ ⑤

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図版 5 摩崖題記、刻経 等 ① 洪頂山南峰洞穴壁刻卍 ② 山五華峰摩崖刻経 ③ 山妖精洞摩崖刻経 ④~⑧ 尖山摩崖刻経題記 ⑨ 鉄山摩崖刻経題記 ⑩ 鉄山摩崖題記(石頌) ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩

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図版 6 摩崖刻経、題記 等 ① 泰山経石峪摩崖刻経 ②~④ 崗山摩崖刻経題記 ⑤ 寶山霊泉寺石窟題記 ① ② ③ ④ ⑤

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安公之碑、 鉄山大集經碑、 …… ↓(泰山金剛經刻石) ) を観察させ、 また、 この 元にうごめく山東独自の刻字文化や 〔注4〕 、効験の霊妙さを表わす文字に託され た道士らの伝統的書法 (刻書中で用いられる篆体の文字) からの影響の痕跡 を推測させることである 〔注5〕 。 ところで、刻経、仏名等の刻成の由来を明確に表記したものは数が少な いが、例えば鉄山の「石頌」に、 「釋 本演之世、 □時十二那由他、 衆生發菩提心、 一万六千天子、 得无生法。 …… 今鐫拘 劫火、 而莫燒神□、 □□對炎風、 而 住尓其丹靑□。 所以圖其 盛法。金石長存、□以□之不朽、此巖不 、後葉何觀璋才。…… 敢緝 訓、 式彰餘烈。 竹易銷、 金石 滅。 託以高山、 永 留不 。 … …樹標永劫。 」 図 版5 参照) との記述があり、その末期には仏経の保全と先師の署経の永劫への伝存を はかる志願が確認される。この記述は、平齊の破仏に至る乱世の現実を身 にする僧俗が 「□林 後 千□□□□□」 「雙林後千六百二十年」 「雙林後千 六百二十三年」 等と記す ( 図版4 参照) 釈 牟尼仏滅度後の年季を意識 する末法到来への覚醒をもち、山林の霊気に触れながら、刻字、礼拝、口 唱に託して、懺悔、解脱、滅罪、除障を導く信仰活動を進めていたことを 証すようである。 「雙林後………年」 と の表記は、 明 らかに仏滅年を基準とした紀年であ る。 本来 「娑羅雙樹林に於ける釈 牟尼仏の般涅槃の後………… (年に当 たる) 年」 とすべき表現が、 「雙林涅槃後………年」 と節 略 され、 さ らに 「涅槃」の 語 をも 省去 して「雙林後………年」としたものと 見 られる。 「雙 林後」という当時の仏 徒 の 作 り 上げ た釈 入 滅年 次 を 示 す 術 語 は 彼 らの 異 様 なまでの末法意識を 如 実に伝えるものと 言 うことができる。 「雙林後千六百二十年」 と の表記に つ いては、 筆者 お よ び張総氏 が 個別 に、 さらに 桐谷氏 が、 南嶽慧思 の 立誓 願文、 法 顯 の 『 佛國 記 』、 費 長 『 代 三 寶 記 』 等の記 事 を用いて、 慧思 の基準に 従 えばとの 仮定 で、 北 天保 四 年 ( 五五 三) と 比 定 できることを 考 証 し ている 〔注 6 〕 。 司里 山刻経の年 をも っ てすれば僧安らの活動は天保年 間 より存 在 したように 想像 されるが、 この紀年に つ いては、当時仏滅年 代 に 関 する 多 種 の 異 説 が存 在 していた 実があるのでさらに 詳細 に 検討 する 必要 がある。 因み に、僧安が活動していた当時、 鄒 の 地 では 泗水建 興寺 に 軌禪 師が 居 り僧尼、衆 人 を集めて 造 像 、一 切 経書 写? な ど を 行 っ ているが、この 師は当 代 を 像 法の世と 考 えていたことが 造 像 碑の 文から確認される ( 表3 参 考 項 参照 〔注 〕 ) 。 こうしたことからすれば僧安らの末法意識は当時 としてはかなりの先進 性 をも つ ものと 評 することができ、このもとには 都 仏 教 、 殊 に 跋陀 、僧 稠系流 の 習 禅 者 、 乃 至天 竺 僧法 洪 らを 背景 としたも のがあるように 想像 される。 な お 洪頂 山 北 峯 の 題 記に 「僧安 又 名 壹 、 廣 大 郷 善 見 里 人 也 。」 ( 図版 4 参照) とある僧安の 出 自、 貫籍 に つ いては、 主 要 活動の 範 囲 から東平 と 見 てこの 郷 里 名を実名と推測する 向 きもあるが 〔注 8 〕 、これを確証する 資料 現 在 のところ 発 見 されてはいない。この刻字は、現実の 地 名と 見 るよりも、 僧安と 関 りのある中天 竺 人 僧法 洪 (法 鴻 ) の「 娑 婆 國 土閻浮聚落 」と い た刻記と 同じ く、名 儀 上 のもの、 仮 託 辞 と 見 た ほ うがよいように 思 われる。 次 に 内容 等であるが、これらは、 彫 像 を 伴 うものと刻字の み の 場合 があ り、 彫 像 は、釈  弥勒 観 音阿 弥 陀 等の 小 像 が 見 られる。仏経に つ ては、 次 表に表 示 することにしよう。

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表 4  刻經の典拠と内容 抄刻經名 抄刻内容 大般涅槃經 ( 行品) 無 偈 諸行無  小品般若波羅蜜經 ( 訶般若波羅蜜明 波羅蜜 (明呪) による十善道の成就 呪品) 文殊師利所  訶般若波羅蜜經 智、観仏 大集經 (穿 ( 慧) 菩 品) 調心~観真実、施、戒、忍、精進、三昧、 智慧 (六波羅蜜) 佛 仁王般若波羅蜜經 (受持品) 般若波羅蜜 訶衍經 (大品般若波羅蜜經 (問乘品) ) 空 文殊師利所 般若波羅蜜經 般若波羅蜜、无念无作、一乘 大品般若波羅蜜經 空 思益梵天所問經 六波羅蜜 大集經 (穿 ( 慧) 菩 品) 六波羅蜜、発阿耨多羅三藐三菩提心、得无 生法忍 維 詰所 經 (見阿 佛品) 正観、无分別、一切言語道断 金剛般若波羅蜜經 受持讀誦此功徳、罪業消滅、當得阿耨多羅 三藐三菩提 佛 觀無量壽佛經 慈悲、八戒 入楞伽經 ( 佛品) 无量自在三昧 金剛般若波羅蜜經 布施、書写、受持、讀誦、解説、功徳 觀音經 (妙法 經 ( 門品) ) 自在之業、示現神通力、発阿耨多羅三藐三 菩提。称名、得解脱、災厄、苦悩 さて、これらを見ると、諸法無常を説く『大般涅槃經』の無常偈、波羅 蜜の十善道を説く『小品般若波羅蜜經』の抄刻からはじまる一連の山東西 部の刻経が、具体的には、空観の識取のもとの六波羅蜜の奉行による彼我 解脱とともに、慈悲心を深め戒行を進めつつ、経句の書写、受持、読誦、 解説の功徳をもって、衆庶の苦患と罪障の消除を導こうとするさまに展遷 していったように観察される。この一連の刻経の中で、末法下の仏経永伝 の企図が濃密になることがあるが、その末時に、慈悲、八戒を説く『觀無 量壽經』の一節や無量自在三昧を説く『入楞伽經』の部分が刻まれている。 このことは十分に注意されてよいと思われる。 なお、刻経に際して選択、依用された漢訳仏経には、旧訳の姚秦龜 國 三藏鳩 羅什訳の諸経とともに、北涼天竺三藏曇無讖訳の『大般涅槃經』 南朝梁代の扶南三藏の曼荼羅仙及び 伽婆羅訳の『文殊師利所 般若波羅 蜜經』が突出しており、当時最新の高齊那連提耶舎訳の『大集經』月藏分 や心識をも説く元魏天竺三藏訳の『入楞伽經』が 加え られる。このことも 注 目 される。の ち の時代、 『文殊師利所 般若波羅蜜經』 『入楞伽經』また 『金剛般若波羅蜜經』は中 国禅宗 の依 拠 経 典 に、 『觀無量壽經』は 浄土宗 の 根幹 の経 典 として 重ん じられて ゆ くからである 〔 注 9〕 。 刻まれた仏名は法 鴻 の刻 記 が示すように、 一連の 「式 佛 」、す な わ ち 法 会 に 関 わるものと 想 像 され、 後 代 靈裕 が 寶 山 靈泉寺 大 住窟壁上 に刻 ん だ 十六 種 の無常偈 ( 図版 6  参照 ) の 如 く、 おそらく法 式 の 折 に念じ 唱 え ら れたものと見られる。 僧信 行の 興 した三 階教 の六時 禮懺 にも連なる 唱 礼 を 伴 い 修 禅 と 結 びついたものであったようにも思われる。 因み に、 洪頂 山 遺跡 の 近接地 、 黄河 を西 渡 した東阿の 魚 山の 地 に、 陳 思 王 曹植創 始 伝説をもった 声 明、 唱 名、梵 唄 が 存 在したとされ 〔 注 〕 、これが

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彼方の日本の地にも伝えられているとされるが、こうした梵唄は当時の法 会、行道にも由来するものではなかったろうか。 なお上下 9 m余に及ぶ「大空王佛」の仏名等が刻まれる洪頂山北峯南壁 に谷を挟んで対峙する同南峯北壁には、 「僧法洪題刻」 を遺す地の東隣に 北方に向かって開口した自然の洞穴 (高約 4 m×幅約 4 m×奥行約 7 m) が あるが、 この窟内の西壁上には多数の 「 卍」 の古刻があり ( 図版 5  参照) ここがかつて仏事行道の場となっていたことがわかる。この洞穴は 窟で ある可能性もないわけではないが、おそらくは修禅の場とされていたので はあるまいか。洪頂山遺跡は刻経、念仏、唱名、修禅等を推考させるさま ざまな資料、遺構を遺存させている。 ところで、泰山経石峪の大巌盤に大字で刻まれた『金剛般若波羅蜜經』 は、菩提流支訳出のものでなく当時既に僧俗間に相当に流布、親炙してい た鳩 羅什訳のものである。このためこの刻経が『入楞伽經』を刻み残し た僧衆とは異なった僧衆 (先行する僧衆) の手になるものであることを推 測させる。中国最大規模のこの刻経は、在地の有力者のみならず中央の官 人などがかかわったものと想像されるが、 末尾所刻の経文、 「以 言之、 是經有不可思議不可稱量无邊功 。 ……略…… 於後末世有受持讀誦此經、 所得功 、 ……… 當知是經義不可思議、 果報亦不可思議。 」 と の刻字と共 に、全刻字を総覧すると、この刻経が経句の書写、受持、読誦、解説の功 徳による罪業消滅、 無上の智 (阿耨多羅三藐三菩提、 無上正等正覚) の獲得 を期しての活動の賜物であることがわかる。こうした山東流の刻経行為は、 北齊末北周初の王朝の立替という 戦乱 を 伴 う 政治変 動を経て、経句に 拠 り 所を 措 かず、 専一 の 実践 行を最大 限 に 尖鋭化 させていく仏 教 の流れの中で 変 質 し、 廃退 していったように想像される。 北齊後期の沙門大統と山東  都の仏教石刻 一 僧安らの刻経活動と定禪師 河清 、 天統 、 武平 を中 心 とした 年代 には山東の 濟 、 、 鄒 等の地では僧 安 らの刻経活動が 見 られ、またこれに 関 わる活動の 痕 跡が 西北の 鼓 山、 山、中 皇 山中の石窟にも遺されている。それらのう ち 、 紀年 のより 分明 なものを 年代順 に 配 列 すれ ば次記 のようになろう。 ・ 山東 州泗 河 出 土造 像 記断 石 河清 三 年 ( の刻は 天統 か) 鄒 城 山 五華 峯 河清 三 年 新 泰 徂徠 山 光 化 寺 跡 武平 元 年 同 英 仏巌 武平 元 年 鄒 城 尖 山 武平 五 年 同 武平 六 年 ・ 西北 北 響 堂 山 ( 鼓 山) 唐 刻經 他 天統 四 年 ~ 武平 三 年 南 響 堂 山 ( 山) 文 殊 般若經 他 ~ 武平 初 年 年 前 後) 中 皇 山思 益 梵 天 所 問 經 他 ~ 武平年 間 ( 承 光 以 前 〔 注 〕 ) ( 図版 2  ~ 図版 7  参照) 因 みに、 当時南 響 堂 山 ( 山) 石窟 第二 洞中 心 柱 北壁上 部 には 昭玄沙門 統 定禪師 が 六 十 佛を 彫 り 供養 し題 記 を刻んでいる。この 定禪師 は 鼓 山 水浴

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図版 7 定禪師、僧賢関連刻字 等 ①② 水浴寺石窟西窟定光佛三童子像、題記 ③④ 定禪師供養佛彫像 ⑤~⑧ 南響堂山石窟第 2洞定襌師題記 ⑨⑩ 善應小南海全景 ⑪ 僧賢墓銘拓影 ⑫ 北響堂山山中 大般涅槃経刻経(紀年部分) ⑬ 北響堂山石窟南洞唐刻経記 ⑭ 南響堂山石窟第 2洞内壁刻経 ⑮ 中皇山梳粧楼背石壁刻経 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑭ ⑮

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寺石窟西窟の供養僧像、及び定光佛三童子像の題記から武平五年 (五七四) 時点で沙門大統となっていたことが判明する ( 図版 7  参照) 。山 東 西 部 で刻経活動を行った僧安らは何らかの由縁でこの定禪師らとの接点を有し ていたようである。この定禪師については、僧伝、史書等に記述を欠いて いるが、  の師弟「定」である可能性があるようにも推考される 〔注 〕 。 ところで、 こうした年代には、 山東 州の治府 (瑕丘) に儒、 仏、 道を 崇信する下記のような貴顕が刺史として赴任している。 斛律平、段 、畢義雲、高元 、 祖、斛律武 等 このうち高元 は、 渤 脩縣出自の高歡の従子である上洛王高思宗 (武 定末 州刺史) の子で、 武成帝の寵臣和士開の譖で河清二年 (五六三) 正月 斥けられ 州刺史に左遷され、のち天統初年に入朝、 らとともに朝政 の枢機に与った人物である。史書の文によれば、崇仏家の元 は、帝王の 崇仏行動に深く関わっていることがわかる。 「子元 、累 散騎 侍。願處山林、修行釋典。文宣許之。乃入林慮山、經 二年、 棄人事、志不能固、啓求歸。征複本任、便縱酒肆 、廣納 侍。 又除領軍、器小志大、頗以智謀自許。 」 (『北齊書』卷十四、 『北史』卷五十一 〔注 〕 ) 「性寛和、 頗 有武幹」 と評記されたその父と比べるとかなりの俗情をも った人物とみえる。ただし自ら願って出家し、林慮山中で修行して還俗し ている 経 歴 がある 。 元 は同じ く 州 刺 史 となっている 畢 義 雲 の 伝 中 に も 、 「孝昭赴晉陽、高元 留 、義雲深相依附。知其信向釋氏、 隨之聽 講 、 爲 此款密 、 無所 不 至 。」 (『北齊書』卷四十七、 『北史』卷三十 九 〔注 〕 ) と 見 え、 ま た、 『 續 高 傳 』卷 第八 義 解 四「 齊 州沙門 曇衍傳 」等 に も 法 師に 帰 依したことが記されて お り 〔注 〕 、 当 時の政 界 、僧 界 を知る上では 最重 要 な人物であり、この高元 と山東との関わりが注 意 されるのである。 な お 畢義雲については 在 任 地 で 豪族羊 氏と 州大中正を 争 った記事が 『北齊書』卷四十三 列 傳第 三十五「 羊烈 傳 」に 見 られる 〔注 〕 。 二 新出土の「昭玄沙門大統僧賢墓銘」 二 〇〇 六年初 冬 、北齊中 後期 の仏 教 界 の動向、 殊 に昭 玄曹 を統 括 し 全 の僧 尼 を 綱 領する沙門大統 位 に 就 いた僧 侶 の 実態 を明かす 青 石の刻 字資料 が出 土 した。この 墓銘 の 概 要 は 次 記の 通 りである 〔注 〕 ( 図版 7  参照) 。 出 土 地 西 野馬崗 の 墓 域 ( 現 安陽 市 北西) 形状 有 蓋 ( 覆斗形方角 、 帯鉄鐶 2 ) 無 題 額 、 身 上 界 格 を刻す 寸 法 縦 46.3㎝×横 46.0㎝× 厚 9 ㎝ 刻 字 方 2 ~ 2.5㎝ 、行 19字 詰 19行、 総 349字  僧賢に関する既知の記事 ところで、この 墓銘 に記された僧 賢 なる僧に関しては、僧伝、刻書にそ れ ぞ れわ ず か一 種ず つの記事が 遺 されている。 先ず 『 續 高 傳 』卷 第 二十 五「 禪六」 「 衞 州 霖落泉 釋 倫 傳 十一」の文を 引 こう。 「 …… 齊武平 九 年、 與 父 至 雲門寺 賢 統師、 珉 禪師 所 、 受 法 出家。時年 二師 問 其相 、 答 以 白 光 流臉 二 幡夾 之。 曰 、子 眞 可 度 。 因而剃 落 。 平齊、時年十六、 與賢 統等 流 離 西東、 學 四 念 處 誦 法 經。 …… 」 これによれば、僧 賢 は武平 九 年の時に雲門寺の統師となって、 倫 を 度 さ せ 、 周 の平齊の時に 倫 と 共 に西東に 流 離 したということになる。 は、 『 續 高 傳 』卷 第 十六「 禪初」の釋 稠 禪師 傳 末に、

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「余以貞觀初年陟  地。山林乃舊 事惟新、觸處荒涼、 興生滅之 。周 睇焚燼、頻噎黍離之非。傳 親 行圖、故 叙之于後耳。 」 と記している。この伝はおそらく 宣が親しく四伝の祖 稠禪師の故地を 訪れ、かつての雲門寺の旧跡などを尋ねて関連の情報などを得た上で綴っ たものなのであろうが、仏教史学者の諏訪義純氏がその著で年次の記述に 全幅の信頼をおき難いことを述べている 〔注 〕 。王朝の変遷を経た七十余年も前 の出来事がどのように伝えられるのか、こうした記事は混乱を排除して注 意深く読む必要があろう。 次に僧賢に関わる記事は意外なところに残されている。稠禪師が禅観の 実修を行なった龍山雲門寺の石窟の外壁の書刻で、安陽善應小南海所在の 石窟の左に彫り出された守門の金剛神像の坐下に次の刻字が見えるのであ る ( 図版7 参照) 。 比丘僧賢供養 雲門寺 僧纖書 伏 波將軍彭惠通刊 □ 如 来證涅槃 永斷於生死 若 能至心聽 當得无量樂 一切畏刀杖 无不愛壽命 恕己可爲喩 勿 勿行杖 書刻の偈句は北涼天竺三藏曇無讖譯の『大般涅槃經』卷第二十二「光明 照高貴德王菩 品」第十、及び 同 經卷第十「一切大 衆 所 問 品」第 五中 に 所 説 のものであり、こうした偈句は、稠禪師 日 常 の 口 説 で、それを 継 承す る僧賢らの 標語 とも 推測 され、窟前壁に刻 成 された稠禪師の禅観の要 諦 を 示す 『大 方廣佛 嚴 經』の偈 讚 、『大般涅槃經』 「 行品」 、及び「 梵 行品」 の偈 讚等 と 即応 す る 内容 をもっている。僧賢の 名 はこのようなところに 辛 う じ て残されているのである。  僧賢の閲歴と遷化 ここで 歴 史の 流 れに 埋没 しか け た僧賢の 人物 像を、新出の 墓銘 の 文 を 釈 読、 試訓 しながら 省察 して み ることに す る。 釋文 大 齊 故 沙 門大 統 僧賢 墓銘 昭玄 大 統 師 諱 僧賢 俗姓張 氏 桒乾桒乾人家有 舊 風名 徳相踵 師 風 尚英 體調閑秀早 著出 羣 之 望 夙立絶倫 之 表懷抱髙分獨拔 風 塵 貞心 峻 眇 俗 累 於 是矯迹緇 門 心 真寂長 玄 境 深 入 秘 藏 微言妙旨 獨 得如神 馳譽飛聲 於 遐 邇  廿九 敕脩 内 起居 集既而實 相 宗 淨業圓 異軫 同 歸 殊  入 懸河 注 水破 石 摧 金一 音 所 四 部 仰 龍 象 之 望 朝 野 推 焉詔 爲 沙 門 俄轉 沙 門大 統 持 興 聖國 之 福田又 詔 爲 二大寺 主 如師 子吼 常 轉 輪甘露津 流 被 於一 切 方 欲橋 !苦 海 拯 拔 危城 生滅非 常 遽従化往 "武平元 歳 在 庚寅 二 月乙卯朔 五日 己 未 # 神於興 寺 時 六 十 六 上下 嗟殤 緇 素酸感 " 其 月 八 日 $於 野 馬崗東 北二 里敬勒 玄 石 垂景

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行於不朽其銘曰 峩峨上人窮理入神慈悲弉 俗清淨居身天口非 河瀉誰倫超茲慾海邁彼 玄津時求懿徳弘風有因 輪恒 覺寶惟新此 生非我慈燈遽淪勒斯泉石用紀芳塵 私訓 大齊故沙門大統 僧賢 墓銘 昭玄大統 法師 諱は僧賢、俗姓は張氏、桑 さう 乾 けん の桑乾人なり。家は舊風有りて 名 徳 相ひ踵 つ ぐ。法師 風尚 英遠、體調 閑秀にして、早に出群の望 ほまれ を著し、 夙に絶倫の表 しるし を立つ。懷抱 高分、獨り風塵を拔く。貞心 峻節 眇 はるか に 俗累を遺 す つ。 是に於ひて 迹を緇門に矯 あらた め、 心を真寂に遊ばす。 長 つね に玄境に せ、 は 深く秘藏に入る。微言 妙旨 獨り神の如きを得、譽 ほまれ を馳せ 聲を飛 かけ らせ 遐邇 をちこち に遍 あまね し。  よはひ 廿九、 内 起居 法集を敕脩す。 既にして 實相 虚宗、 淨 業 圓教、 異軫にして同歸し 殊途にして 入す。懸河 注水、破石 摧金、一音 いっとん の 所説 四部 に仰ぐ。龍象の望 ほまれ 朝野 焉 これ を推せり。 詔ありて沙門都と爲り、 俄 にはか にして沙門大統に轉ず。 持 興聖は 國の福田、又 詔ありて二大寺主と 為る。 師子吼の如く、 常 に法輪を轉ず。 甘 露 津 流し、 一切に被 およ ぶ。 方に苦海に橋 し、 危城を 拯 拔せんと 欲 するに、生 滅 は非常にして、遽 にはか に 化往 に 従 ひ、 武平元 歳在庚寅 二 月乙卯朔 五日己未 を 以 ちて 神を興聖寺に 遷 うつ す。 時に 六十六 なり。上 下嗟 殤 し、緇 素 しそ 酸感 す。其の 月 八日 を 以 ちて 野 馬崗 の 東北 二 里 に ほふ り、 敬 つつし み て玄石に勒し、 景 行を不朽に 垂 る。 其の銘に曰 い はく、 峩峨たり 上人、窮理 神に入る。慈悲 俗に 奘 おおひ にして、清 靜 身に居 と ど む 。 天口は非 、河瀉 誰れか倫 たぐひ せ む 。茲 ここ に慾海を超 え 、彼 か の玄津に邁 ゆ く。 時に懿徳を求め、風を弘 む るに因有り。法輪 恒に 運 めぐ らせ、覺寶 惟れ新たな り。 此の生 非我にして 慈燈 遽かに淪 き ゆ 。 斯の泉石に勒して、 用 も ちて芳塵を紀 せり。 この墓銘から僧賢の俗姓 が 張 で あり、 そ の出 自 が 山西 の桑乾 郡 桑乾 里 あったこと が わ かる。 「 家は舊風有りて 名徳 相ひ踵 つ ぐ。 」 とあるの で 、 の家からは 多 くの人 材 が 現 わ れていたの で あ ろ う。 とこ ろ で 、銘 文 には出家の 年 が 記 されていず、このため法 臘 も 不 明 とな る が 、僧賢は 年 若 く緇門に入り、 そ の英邁な 性 を 発揮 した も ののよう で る。 年 廿九 で 内起居法集を 勅 脩している僧賢は内 外 の 典籍 に 通暁 して 皇 の 信 を得ていた も のと 見 られる。なお、師 承 について も 銘 文 中 には 記 ないの で ど のような 経緯 を 経 て一 代 の沙門となったかを 正確 に 明 かすこと が で きない。しかし、沙門都につい で 沙門大統に 転じ て、 王 朝の 官 大寺の 持、興聖の二大寺主となって法輪を 転じ ている僧賢には大いなる師 承 あったように推 測 される。 小南 海石 窟 の 刻字資料 から 見 て僧賢は 稠 の 弟 子の一人と 見 て 誤 りはないと 思 わ れる。 賢は師僧 稠 なき 後 の 北 齊 代 中 後 期 に 至 って 都 仏 教 界 の 雄 となり 老 いて 退隠 しようとする法上にか って、僧 尼 を 綱領 する沙門大統の 地位 についたの で はなかった ろ うか。 こうした僧賢は 惜 しいことに沙門大統二大寺主となって 久 しく時を 経

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武平元年 (五七〇) 二月朔五日に任住の興聖寺で六十六歳で遷化し、 同月 八日で野馬崗東北二里の墓所に られている 〔注 〕 。遷化の年からすれば、その 生まれは北魏宣武帝正始二年 (五〇五) 、師 稠 (北魏孝文帝太和四年 (四八 〇) 生、北齊癈帝高殷乾明元年 (五六〇) 四月遷化) とは二十五歳の差があった ことがわかる。 なお、 墓銘中の 「 持寺」 は、 大総持寺と称された河清二年 (五六三) 五月、 武 成帝建立の官大寺 (「五月壬午詔、 以城南南雙堂寺閏位之苑 大総持 寺。 」 (『北齊書』卷七 武成紀) ) で、 「大興 寺」は、河清二年 (五六三) 八月、 武成帝が曹魏時に築成された銅 、金獸、氷井の三臺を修改した金鳳、  應、崇光の三高臺宮をすべて施入して創立した壮大な官大寺 (「秋八月辛丑 詔、以二臺宮爲大興 寺」 (『北齊書』卷七 武成紀) ) である。 三僧 賢 定禪師と   僧安ら ここで、北齊の天統、武平年間に活動の時を持っていた僧賢、定禪師、  僧安らを再確認したい。 先ず、天統元年 (五六五) とされる 山 (南響堂山) 石窟の開鑿後、その 第二窟の修営を行なったのが定禪師である。この時僧賢は沙門大統の僧官 に就いていたと見られる。 僧賢の遷化が武平元年 (五七〇) 二月であり、 この後に沙門統であった定禪師が沙門大統位に昇叙されている。この昇叙 が僧賢の遷化の直後であったとすれば、 山 (南響堂山) 石窟第二窟の題 記はそれ以前の刻成となる (定禪師の沙門大統位昇叙が武平五年乃至その前年 であったとすればこの題記はそれ以前の刻、 武 平二~四年の間となる) 。 こうし た時に山東の僧安らは訪 したようであり、その時期の刻書がこの第二窟 等に残されている 〔注 〕 。僧安らの訪 が一度のみであったのか数度あったのか 不明でさらにその訪 が僧賢の遷化前であるのか後であるのかも現在確認 はできないが、この天統、武平年間を主とする時代に 都の仏教と山東の 仏徒が濃密な係わりを持っていたことが知られるのである。 また、 鼓 山 (北響堂山) 石窟南窟の  が主催した刻経は、 天統四年 (五六八) 三月から武平三年 (五七二) 五月の間に刻成されている。 この刻 経事業が進められてゆく折、僧賢は 都仏教界の統括者となっていた 〔注 〕 。僧 賢の先師稠禅師は帝室の寺、石窟大寺の寺主であった。石窟大寺の一角に 独自の刻経を行なう唐 が帝室及び僧界の支持をうけなかったとは考えに くい。おそらく唐 の刻経には、当時の昭玄沙門大統僧賢が深く関わって いたものと推測される。僧安らはこの刻経事業の終末時に際会していたも のと思われる。 なお北響堂山山中の柏樹下には『大般涅槃經』の刻経が遺存している。 このものは現在断裂、 落 が進み関 心 を持 つ人 が 少 ないが、 隷 書刻成で天 統二年 (五六六) の紀年をも つ極 めて 重要 な刻経 資料 である 〔注 〕 。山 の 半腰 の 露岩 に鑿られた数 箇 所の禅窟とともに 造 立されたと見られるこの刻経は、 稠ゆかりの沙門大統僧賢 ( 或 はその門 流 ) の 手 にかかわるものと推測さ れるとこ ろ がある。 とこ ろ で僧賢の墓銘中の 「一 音 所 、(四 部 仰 ) 」の 句 は鼓山 (北響堂山) 南 洞 の「  寫 經記」中に見られる「一 音 所 ( 盡勒名 山) 」の 句 に 表 現が 酷似 している。こうしたことは 偶然 の 場合 もあ ろ うが、同時代の同時期の 限 られた 人 々 の 手 になる記銘の中に現われた 両 句 は注 目 に 値 する。 「  寫 經記」 の刻書自 体 は、 山 (南響堂山) 石窟の 『文 殊 師 利 所 般 若波羅 蜜 經』 や 『 訶 般 若波羅 蜜 經』の刻書と書 態 を同 じ くするとこ ろ があり、 僧安らの 影 を 漂 わ せ ている。 では天統四年 (五六八) 三月一日に 起 こされ

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武平三年 (五七三) 五月八日に畢わったと記される 「寫經記」 の銘文自体 は如何であろうか。  が鼓山に刻経事業を起こした天統四年 (五六八) は、沙門大統となった僧賢が獅子吼、奮迅し僧衆を綱領していた時である。 この僧賢は曾て鼓山の石窟大寺主となった 稠ゆかりの沙門である。先師 の領した鼓山の山内で行なわれつつある刻経事業に沙門大統僧賢は大いに 関わりをもったように思われる。僧賢の墓銘の句と契合する寫經記の句は 唐 と僧賢の密接な結びつきを想像させるのである。 山東西部の刻経はこの時期以後、より長大なものとなり、巨大化の頂点 を過ぎる北周の大象初年を堺にその姿を忽然と消していく。政情、民生の 変容、主導者、支援者の遷変とともに、中国仏教が経文、経句、文字の限 界を見据えてその枠を破却し身行そのものを重んじてゆく流れの中で、山 東流の刻経は廃れていったと見てよいようである。 なお因みに記すと、仏経抄句、節文を石材に刻む流れは、東アジアの東 端の島嶼国日本にも遥かに及ぶことがあり、 奈良時代末には、 『大般涅槃 經』 の無常偈を抄刻する摩崖刻書を出現させて い る 〔注 〕 ( 図版 8  参照) 。こ のものは古代日本唯一の遺品であり、羅刹から聞取した真諦を岩上に刻記 したとされる雪山童子の話柄にあやかる所為から起こされたもので、直接 的に山東の刻経との係わりをもつものではないが、無常の世を意識する仏 徒の遺品として、その信仰、思想の根幹を類同するところがあるように観 察される。 むすびに 以上、山東西部の仏経石刻営造の流れが、少数の門侶とその支援者から 始められて次第に拡大し、在地の豪族と衆人を結んだ大規模な事業へと展 開していったさまを概観した。 地 方 の 有 力 者や 府 所に 赴任 した中 央官 人との関わりからもたらされた 朝 の 貴顕 、僧界との がりに 併 せて、変 乱 と 狂気 、 災厄 に 満ち る世の 蠢 の 下 に、末 法到来 に思いを 馳 せる意識がこうした刻書を生んでいったよう であるが、自 己解脱 とともに 女性 を 含 めた世の人 々 の 安楽 世界への導き、 苦患 、 罪 過の 滅除 を 果 たそうとする 緇素 の 切実 な 願 いがこれらの石刻の中 には 深 々 と 湛 えられている。 こうした石刻は、 視認 、 礼拝 、 口誦 する 対 象として 標 されたもので、 図版 8 宇智川仏経摩崖刻書(日本 奈良県五条市) ① 原石影 ② 拓影

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波羅蜜の奉行、仏名の礼讚、罪業の懺悔を含めた禅観の行法に係わるもの であり、 都の仏教、殊に 稠の門流とのかかわりの中にその姿を変えて いくところがあったようである。 山東西部の刻経は、王朝の交替と主導者の遷化、仏教思想の変容ととも に後の時代に形を同じくして承け継がれることはなかった。しかしこうし た刻経を生み出した思想、信仰のもとから、含霊救済の実践を念仏、修禅、 奉仕等の一行に帰結させる中国大乗仏教の諸宗が現われ出していることは 注目に値する。山東西部の仏教石刻はこの遥かなる道程を明かす極めて貴 重な遺品とも言える。 天保六年 (五五五) 天保三年 (五五二) 天保二年 (五五一) 天保元年 (五五〇) 武定八年 (五五〇) 正月 武定七年 (五四九) 八月 武定五年 (五四七) 正月 元象元年 (五三八) 冬 元象元年 (五三八) 秋 天平四年 (五三七) 天平三年 (五三六) 永煕三年 (五三四) 一〇月 二九日 年月 参考  関連事項略年表 帝 建国寺を建立。 国師大徳稠禅師 小南海石窟重修。 国に十統 (大統、通統) を置く。 僧稠 雲門寺、石窟大寺主となる。 諸国に禅肆を造る。 帝 僧稠を 都に迎う。 この頃 帝 僧達のために洪谷寺を立て定寇寺を 造る。 靈山寺方法師等 小南海石窟造営を始む。 高洋 即位 (文宣帝) 、天保と改元。 高澄 殺害さる。 高歡 没。 天下仏寺建立の禁 発詔。 都仏寺建立の禁 発詔。 慧光 没。弟子法上 沙門都統 (大統) となる。 高澄 入朝、輔政。 元善見 (孝静帝) へ遷都。 こののち 慧光 國統 (沙門大統) となる。 記事 武平元年 (五七〇) 二月 天統五年 (五六九) 四月 天統五年 (五六九) 正月 天統四年 (五六八) 一二月 天統四年 (五六八) 三月 河清四年 (五六五) 四月 河清二年 (五六三) 八月 河清二年 (五六三) 五月 河清二年 (五六三) 正月 皇建二年 (五六一) 一一月 皇建二年 (五六一) 九月 皇建二年 (五六一) 五月 乾明元年 (五六〇) 八月 乾明元年 (五六〇) 四月 乾明元年 (五六〇) 二月 天保十年 (五五九) 一〇月 天保九年 (五五八) 一二月 天保八年 (五五七) 八月 天保八年 (五五七) 七月 天保七年 (五五六) 五月 沙門大統僧賢 遷化。 この頃 (或はこれ以前?) 僧安ら来 ? 趙郡王高叡ら胡太后に和士開の退出を求む。高叡 殺害される。 この頃 高阿那肱 并省尚書令在任? 高元海 宮中に戻る。 後主 金鳳等未入寺のものを興聖寺に施入。 太上皇帝 (武 成 帝) 死 去 。 唐  鼓 山 ( 北響堂 山) 石窟に刻経を開始。 武 成 帝 帝 位を子高 緯 に禅 、高 緯 (後主) 即位 天統と改元。 この頃より 鼓 山 (南 響堂 山) 石窟開 鑿 。 この頃 僧賢 沙門大統に任 ず 。定 禪 師 沙門統 に在任? 帝三 台 宮を 捨 て大興聖寺を造営。 帝大 総持 寺造立。 高元海 和士開により 失 脚 、のち 州刺史 に 左 遷、 和士開 胡太后に通 ず 。 高 湛 (武 成 帝) 即位、大 寧 と改元。 この頃 高元海 執 政。 孝 昭 帝出 猟 時 落馬 し 死 去 。 僧稠弟子 曇詢 造 塔 建 碑 。 廢 帝 退位、高 演 (孝 昭 帝) 即位、皇建と改元。 僧稠 雲門帝寺に 於 いて遷化。帝 弔問 。 僧稠遺弟等 小南海石窟 璧面 に 鏤 石 班經 。 高 湛 斛律 金らと 謀 り 楊 らを殺害。 文宣帝 没。高 殷 ( 廢 帝) 即位。 この頃 ま でに 司里 山刻 經 刻 成 ? 帝大 荘厳 寺建立。 帝宗 不血食 の詔を発す。 この頃 高元海 朝政に 関与 。 帝 鷹鷂 禁 絶 。 帝 断酒 禁 肉 。

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注記 1 、実査及び次記先学の論著に拠る。 ① 頼 非 「僧安刻経考述」 (『北朝摩崖刻経研究 (続) 』(香港天馬図書有限司 〇三 一二 九二~一三四頁) ② 頼非『山東北朝佛教摩崖刻経調査与研究』 (科学出版社 二〇〇七 一二) ③頼 非 「 泰 山区刻経新資料的相關問題」 (第 54回 國際東方學者会議 レジュメ 二〇〇九 五 十五) ④ 樊英民「北斉沙丘城造像残碑考釈」 (『李白在 州』山東友誼出版社 一九九 五年一二月 七一~七五頁) ⑤徐 葉 、樊英民「記 州近年発現的 北齊河清三年造像記 」(『書法』一 九九六第三期 表紙 四一頁、八頁、図版 二三~四〇頁、他) ⑥ 馬忠理、 張 等 「渉県中皇山北斉摩崖刻経調査」 (『文物』 一九九五年 六六~七六頁) ⑦ 馬 忠理 「邯鄲鼓山、 山石窟北朝佛教刻経 (『北朝摩崖刻経研究 (続) 港天馬図書有限公司 二〇〇三 一二 一七七~二〇六頁) ⑧ 馬忠理 「邯鄲北朝摩崖佛経時代考」 (『北朝摩崖刻経研究 ( 三) 』 内蒙古人民 出版社 二〇〇六 七 二五~七三頁) ⑨ 張 総 「 北朝至隋山東佛教藝術査研新得」 (『漢唐之間的宗教藝術與考古』 物出版社 二〇〇〇 六 六一~八八頁) ⑩ 張 総 「 山東摩崖刻経経義的涵索探」 (『北朝摩崖刻経研究 ( 続) 』 香港天馬図 書有限公司 二〇〇三 一二 一~四四頁) ⑪ 桐 谷征一 「北朝摩崖刻経と経文の簡約化 選択から結要へ 」 (『大崎 学報』 157号 二〇〇一 三 一二五~一八九頁) ⑫ 桐谷征一 「北朝摩崖刻経の成立とダルマの壁観」 (『田賀龍彦博士古希記念 論集 仏教思想仏教史論集』山喜房佛書林 二〇〇一 三 一二五~一五五頁) ⑬ 桐 谷征一 「北齊大沙門安道壹刻経事迹」 (『北朝摩崖刻経研究 (続) 』 香港天 大定元年 (五八一) 二月 八月 七月 大象二年 (五八〇) 六月 大象二年 (五八〇) 五月 大象元年 (五七九) 六月 宣政元年 (五七八) 六月 建德六年 (五七七) 正月二 七日 承光元年 (五七七) 正月二 〇日 承光元年 (五七七) 正月 九月 武平六年 (五七五) 七月 武平五年 (五七四) 武平四年 (五七三) 五月 武平三年 (五七二) 六月 武平三年 (五七二) 五月二 八日 武平二年 (五七一) 十月 武平二年 (五七一) 七月 楊堅 北周を廃し、隋を建国、開皇と改元。 韋孝寛 尉遅迥を 城に破る。迥 自殺。相州を 安陽に 移 し 城、 邑 居 を 毀 廃。 崗 山刻経刻成。 北周 静帝 仏道二教を 復興 。 尉遅迥 自立し 反 朝。 北周天元皇 帝死 去 。天元大皇の 岳 父 、楊堅 実 権 を 掌握 。 北周宣 帝 子宇 文 衍 ( 静帝 ) に 譲位 、天 元 皇 帝 と な る。大象と改元。仏教 信奉 を 允許 。 北周宣 帝 ( 宇 文 贇 ) 即位 、大成と改元。 北周武 帝 ( 宇 文 ) 廃仏。 一 切 の仏 寺 、経 典 を 毀 破、釈 子 を 還俗 、 編戸 。 北周 軍 に より 都陥落 。 唐 北周に 降 る。 高阿那肱 北周 軍 を 退く 。 北周武 帝 北齊 討伐 の 詔 を 下す 。 こ の 頃水 浴 寺 石窟 西 窟造 営 。定 禪師 沙門大 統 に在 任 。 祖 失脚 、 陸令萱 ら 権 力 を もつ 。 解 德光 祖 の 讒で 殺 害さ る。 唐 刻経 畢 功 。 後主 胡太后 を北 宮 に 幽閉 。 陸令萱 、 祖 執 政 ( 令萱 の 姪 を 妻 と す る 高 元 海 も 朝政に与る) こ のの ち 祖 、 高 元 海 を 州に 転 出。 こ の 頃 慧順 、 曇 衍 らを国 都 と す る。 琅邪 王 高 儼 胡太后 妹夫馮 子 琮 と 謀 り 和 士開を 断 罪 、殺 害 。 こ の 頃 胡太后 沙門 曇 獻 と 通 ず 。 曇 獻 を 昭 統 と な す 。

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馬図書有限公司 二〇〇三 一二 四五~九一頁) ⑭ 大内文雄 「中国における石刻経典の発生と展開」 (『仏教の歴史的 地域的 展開 佛教史學会五十周年記念論文集 』法藏館 二〇〇三 一二 五八~八九 頁) ⑮ 大内文雄 「北斉仏教の一面 衰亡と再生 」 (『相川鐵崖古稀記念書学論 文集』木耳社 二〇〇七 一〇 七七~八四頁) ⑯ 田 熊信之 「 山東平陰東平縣発見の北朝仏経摩崖について」 (『昭和女子大 学文化史研究』第 3 号 一九九九 六 一七~二一頁) ⑰ 田熊信之 「北朝摩崖刻経与安道一」 (『北朝摩崖刻経研究 (続) 』 香港天馬図 書有限公司 二〇〇三 一二 二五一~二七六頁) 2 、田 熊 信 之 「 州泗河出土の造像銘断石、 刻 経残碑と北齊後期の沙門大統」 (二〇〇九 一 科学研究費研究成果報告会レジュメ) 等 参照。 3 、注 1 所掲の諸氏論著 参照。河北邯鄲西北所在の鼓山(北響堂山石窟、摩崖) 及び 山 (南響堂山石窟、 摩崖) 、 渉 県中皇山 (中皇山石窟、 摩崖) には、 選出 された長文の仏経を鐫刻する刻字が遺存するが、これと等質の違例は山東地 方の諸地には見られない。 4 、山東地方には秦始皇帝造立の六刻石以来、立石、造碑、刻字の遺品が多数確 認され、こうした地方の文化史的な背景も視座に加える必要があろう。張総 氏もこれに言及している。注 1 所掲⑩論著二八頁 参照。 5 、道教の徒の手になる篆体の書字の遺品は、後漢代以来のものがあり、呪 従 う書法の一面がこうしたものの基幹に関わることが観察される。当時の仏教 徒の一部もこのような文字表現を接受したこともあったのではあるまいか。 なお、道徒の符字書写の記述中に次のようなものが頻見される。 「玉 訣言、 以戊巳之日、 刻白石以 書九天玉文、 埋 所 住 嶽 西方。 臨 埋 時、 西 向 叩齒 九 呪 曰 、 …… 」 (『 洞眞太上 三九 素語 玉 眞 訣』 「帝 君 玉文 全眞 上 法」 上 『 藏』 第 33册 文 物 出 版 社等 一九九四 八 五〇〇~五〇一頁) ( ほ ぼ同種 の文言が 隋 代成書とされる 『 無 上 秘 』 卷 二十七 「 上 符品」 に 抄録 されている。 ) また後 世 のものではあるが、 『 書  契 』には、 禳妖除邪 のた め の「符文」 の記述に、 「古 人用 篆字、 今 之符文 似 之 也 。」 との文が見られる。 6 、注 1 所掲 ⑨ 張総氏論文、 同 ⑪⑫⑬桐谷 氏論文、及び 同 ⑯ 筆者 論文 参照。 7 、泗 水建興寺軌禪師 碑 ( 比丘尼智度 等 像碑 大齊 武 平五年七 月 二十二日刻) (『北 大學 圖 書 藏中 國 代石刻 拓本匯編 』北 朝 第 八 册 中州出 版 社 一九八九 六五 頁) 刻文による。 8 、 僧 安の出 自 を東平 乃至 東平一 帯 を 含む鄒魯 の 某 所と見る 説 は、 張 偉然 (「関 于 山東北朝摩崖刻経書 丹 人  僧 安道 壹  的 个問題 」( 『文 物 』 一九九九 三) (「 関 于 僧安道 壹 的再 思考 」) (『北朝摩崖刻 經 研究 (三) 』内 蒙 古 人 民 出 版 社二 〇〇六 七 七 八~八二頁) をは じ め とする研究 者 のものがあるが、 張総氏 (注 1 所掲 ⑨ 論文 ほ か) 、 桐谷 氏 (注 1 所掲 ⑫ 論文 ほ か) 等はこの見 解 をとら れていない。出 自自 体を東平及び そ の一 帯 に 推 断する必要はないのではある まいか。 9 、 柳 田 聖 山「 ダルマ禅 と そ の背景」 (『 禅 仏教の研究』 柳 田 聖 山集 第一 巻 法藏 館 一九九九 一一) 、 柴 田 泰 「中国 浄 土教の 系譜 」 (『 印 度 學佛教學』 1 一九八 六) 、 同 「中国 浄 土教と 禅 観 思 」 (『 印 度 學佛教學』 3 一九八八) 、 任継 「 曇鸞 和 弥陀淨 土信 仰 的発展」 (『中国仏教史』 Ⅲ 中国 社会科学出 版 社 一九八 八 五 六〇六~六一九頁。 な お、 柏 書 房 日 本 語 翻訳 版 一九九四 一二 六四三 ~六一九頁) 等 参照。 10、 劉 玉 新 「十一 故事傳 説 」 3 曹植魚 山 聞梵 ( 雷嘉正 、 劉 玉 新 主 編 『東 阿 縣方 輯 要』 山東 聊城 地 区 新聞 出 版 社一 九 九 七 七 一 四三~一四五頁) 、 岩 田 宗 「「 声明 」とは ど ういうものなのか、 「 声明 」は や わかり」 (東 寺 真 言 宗声明 大

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集刊行会 会員便り 一九九七 一〇 五四~五九頁) 等 参照。 11、注 1 所掲諸氏論著 参照。 12、注 1 所掲筆者⑰論文章末及び筆者 「 邯鄲 鼓山 水浴寺東山石窟の銘文について」 (『学苑』 783号 昭和女子大学近代文化研究所 二〇〇六 一 一三九~一五〇頁) 、 「邯鄲鼓山水浴寺東山石窟銘文考釋」 (『北朝摩崖刻経研究(三) 』 内 蒙古人民出 版社 二〇〇六 七) 参照。 13、 李百藥 『 北齊書』 卷 十四 列傳第六 「(上洛王思宗子) 元 傳」 (中華書局 一九七二 一一 第一册 一八三~一八四頁) ( 李延壽 『 北史』 卷五十一 列 傳第 二十九 「齊宗室 王傳 上」 「上洛王思宗子元 傳」 (中華書局 一九七四 一〇 第五册 一八五二~一八五四頁) 14、 李百藥 『 北齊書』 卷四十七 列傳第三十九 酷吏 「畢義雲傳」 (中華書局 一九七二 一一 第二册 六五九頁) ( 李延壽 『北史』 卷三十九 列傳第二十七 「畢衆敬傳 附 義雲傳」 )(中華書局 一九七四 一〇 第五册 一四二九頁) 15、  宣『 續 高 傳』 卷第八 義 解四 「齊 州沙門曇衍傳」 (『 大正 新脩 大藏經』 第五 十册 「史傳部 一」№二〇六八 四七八中~四八八頁 上) 16、 唐 李百藥 『北齊書』 卷四十三 列傳第三十五 「羊烈傳」 (中華書局 一九七二  一一 第二册 五 七六頁) ( 李延壽 『北史』 卷 三十九 列傳第二十七 「羊祉傳 附 羊 烈傳」 )(中華書局 一九七二 一一 第五册 一四三五~一四三六頁) 17、筆者の実査による。なお、筆者「大齊故昭玄沙門大統僧賢墓銘疏攷」 (『学苑』 833 昭和女子大学近代文化研究所 二〇一〇 三 五四~六七頁) 参照。 18、諏訪義純『中国中世仏教史研究』第二章 第四節 雲門寺 注 10(大東出版 社 一九八八 五 三〇七~三〇八頁) 19、  宣 『續高 傳』 卷第二十五 禪六 「衞州霖落泉釋 倫傳」 (『 大正 新脩 大藏經』 第五十册 「史傳部 一」№二〇六八 六〇一頁下) 20、注 17所掲筆者論文「Ⅱ 新出の僧賢墓銘とその刻文」 「 ○ 野馬崗東北二里」 (五五~六二頁) 等 参照。 21、 実 査による。 なお、 長廣敏雄 水野清一 「 河北磁縣 河南武安 堂山石窟」 (東方文化學院京 究所 九三七 六第 一 編 南 堂山石窟 三、 石窟 第二洞 二〇頁及び圖版一五、 二八、 四九、 石 刻例一、 三 等 ) 、曾 布 川 寛「 堂山石窟考」 二 南 堂山第二洞發見 の重修碑をめぐって (『東方學報』 京 都 第 六十三册 京 大學人文科學 一九九〇 三 一七八頁) 、注 1 所掲馬氏⑥⑦⑧論文等 参照。 22、注 17所掲筆者論文、釈文、拓影図版 等 参照。 23、注 1 所掲筆者⑯論文「Ⅲ 沙門僧賢とその法系」三 稠の遺弟僧賢、図版 等 参照。 24、 筆 者 「 宇智川摩崖仏経石刻」 (『武蔵野女子大学紀要』 二十三号 同編集委員会 一九八八 一 五九~八二頁) 参照。 (たくま のぶゆき 日本語日本文学科) 附図 龍山寨子頂摩崖刻経字 (拠 頼非氏「泰 山区刻経新資料及相關問題」図 3)

参照

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