虚
構
道
元
思
想
学
会
第
二回
討
論
会
宗
学
と
は
何
か
角
田
泰
隆
* こ の 「 道 元 思 想 学 会第 二 回 討 論 会 」 は、 文 字 通 り 「 虚 構 」 で あ り、 実 際 に 行 わ れ た も の で は あ り ま せ ん 。 し か し、 す べ て が 虚 構 な の で は な く、 今 時、 駒 澤 大 学 ・ 駒 澤 短 期 大 学 の 一 部 の 仏 教 学 者 の 間 で 問 題 と な っ て い る 「 宗 学 と は 何 か 」 と い う 議 論 を 取 り あ げ た も の で す 。 本 稿 の 目 的 は、 駒 澤 短 期 大 学 仏 教 科 の 学 生、 お よ び 本 論 集 の 読 者 に、 こ の よ う な 議 論 の 存 在、 及 び そ の 内 容 を 知 っ て い た だ く こ と に あ り、 出 来 る だ け わ か り や す く、 興 味 を 引 く よ う に す る た め に、 便 宜 的 に 「 討 論 会 」 と い う 形 を と っ た も の で す 。 私 自 身、 こ の 議 論 の 論 者 の 一 人 で あ る た め、 自 ら の 立 場 の 主 張 に 力 が 入 る 部 分 が あ る と 思 わ れ ま す が、 で き る だ け 客 観 的 な 立 場 で、 こ の 問 題 を 取 り 扱 う こ と に つ と め た つ も り で す 。 登 場 人 物 ( こ の 討 論 会 の 出 席 者 ) 、 及 び そ の 発 言 は 当 然 の こ と な が ら す べ て 虚 構 で す が、 そ の 発 言 の 内 容 に は、 こ の 議 論 に 関 心 を 持 つ 様 々 な 人 ( 先 生 、 学 生、 学 生
OB
な ど ) か 駒 澤 短 期 大 學 佛 教 論 集 第 四 號 一 九 九 八 年 十 月 ら 私 が 聞 い た 意 見、 感 想 等 も 含 ま れ て お り ま す 。 ま た、 特 別 に 、 私 の 意 見 の 代 弁 者 と し て 「 大 円 ( お お ま る ) さ ん 」 を 参 加 さ せ て お り ま す 。 い や 「 大 円 さ ん 」 は ま さ に 私 で す 。 お 気 を つ け 下 さ い 。 最 後 に、 本 稿 に は 「 角 田 先 生 」 が 出 て ま い り ま す が、 本 稿 の 性 格 と いう
か 体 裁 上、 自 ら 「 先 生 」 と 付 さ ざ る を 得 な い こ と を ご 了 承 下 さ い 。 一 九 九 八年
七 月 十 日 ( 金 )曇
り 道 元 思 想学
会第
二 回 討 論会
午 後 一
時
開
会 〔 司会
〕 そ れ で は、 ロ ハ 今 よ り 道 元思
想 学会
、第
二 回討
論
会
を 開 催 い た し ま す 。 私、 司 会 を つ と め さ せ て い た だ き ます
、 久 保村
で ご ざ い ま す。 よ ろ し く お 願 い い た し ます
。今
回 の テ ー マ は 「宗
学
と は 何 か 」 と いう
こ と で ご ざ い ま す 。 今 般 、 「 宗学
」 に つ い て の 論 議 が 起 こ っ て い る こ と 一 九 三宗 学 と は 何 か ( 角 田 ) は ご 承
知
の 通 り で ご ざ い ます
が、 そ の 辺 の 動 向 に つ い て 、 まず
「宗
学
」 を専
門 分 野 と さ れ て お り ま す横
山 先 生 の 方 か ら 、 ご説
明 い た だ き ま し て、 そ の あ と 自 由 討 論 と いう
か た ち で 、 い ろ い ろ と 自 由 に ご 発 言 を い た だ き た い と 思 い ま す 。今
日 は 当事
者
の先
生 は お 招 き し て お り ま せ ん の で 、 そ れ ぞ れ どう
ぞ 忌 憚 の な い ご 意 見 を お述
べ い た だ き た い と思
い ます
。 そ れ で は 、 横 山 先 生 、 よ ろ し く お 願 い い た し ます
。 〔 横 山 〕 横 山 で ご ざ い ます
。 私 も 「宗
学 」 を専
攻 し て い る も の で あ り ま し て、 私 に は 私 な り の 意 見 も あ る の です
が、 そ れ は ま た 後 ほ ど、申
し 上 げ る機
会 が あ る と 思 い ます
の で 、 こ こ で は 「宗
学 と は 何 か 」 と いう
こ と に つ い て の 論議
の 動向
に つ い て まず
、 私 な り に 捉 え て い る と こ ろ を 申 し 上 げ て 、 こ の 討 論会
の た た き 台 に し て い た だ け た ら と思
い ます
。 資 料 を作
り ま し て 配 布 い た し ま し た。 近 時、 提案
さ れ ま し た 四 つ の 「宗
学 」 の 定義
を 挙 げ て お き ま し た 。 そ の 資料
を ご 覧 い た だ き な が ら、 論議
の 経緯
を お 話 さ せ て い た だ き ます
。 一 九 四 配 布 資 料 「 批 判 宗 学 」1
. 「 い か な る 対 象 も 絶 対 視 ・神
秘 化 す る こ と な く、 絶 え ず 自 己 自 身 を 否 定 し つ つ 、 宗 門 の 正 し い 教 義 を 探 求 す る こ と 」2
「 い か な る 対 象 」 と は 、 “ い か な る 人 物 ( 宗 祖 ) 、 テ キ ス ト ( 宗 典、 経
典
) 、 行 ( 坐 禅 ) 、 教 義 ( 縁 起 説 ) 等 ” を 意 味 す る。3
従 っ て、 批 判 宗 学 は 、 密 教 の 否 定 で あ る。4
批 判 宗 学 は、 宗 祖 無 謬 説 に 立 た な い 。 一 切 の醫
歪 ( 尊 師 ) 崇 拝 を 排 除 す る 。5
道 元 の 思 想 的 変 化 を 認 め、 道 元 が 目 指 そ う と し た も の ( 正 し い 仏 教 ) を、 目 指 す。
6
批 判 宗 学 自 身 の 見 解 は 、 縁 起 説 で あ り、 行 は、 縁 起 説 に も と つ く 誓 度 一 切 衆 生 ( 自 未 得 度 先 度 他 ) の 行 で あ る 。
7
批 判 宗 学 は、 本 質 的 に、 社 会 的 ( 「 誓 度 一 切 衆 生 」 ) で な け れ ば な ら な い 。8
曹 洞 宗 は、 『 弁 道 話 』 の 見 解 と 行 、 即 ち、 如 来 蔵 思 想 ( 「 仏 性 顕 在 論 」) と 神 秘 的 密 教 的 坐 禅 ( 「 一 寸 坐 れ ば、 一 寸 の 仏 」 ) を 捨 て、 後 期 道 元 の も の と 思 わ れ る 「 深 信 因 果 」 ( 縁 起 説 ) と 「 誓 度 一 切 衆 生 之 坐 禅 」 に ま で、 進 む べき も の と 思 わ れ る 。 ( 松 本 史 朗 「 伝 統 宗 学 か ら 批 判 宗 学 へ 」 第 四 〇 号、 一 九 九 入 年 三 月 〉 ) 「 信 宗 学 」 〈 「 宗 学 研 究 』 イ、 広 義 に お い て 、 宗 学 を 「 曹 洞 宗 に 関 わ る 学 問 」 と 見 る 場 合、 基 本 的 に 左 記 に
関
す る 学 問 で あ る 。両 祖 に 関 す る 歴 史 的 ( 伝 記 ) ・ 書 誌 的 ( 著 作 ) ・ 思 想 的 研 究、 お よ び 、 そ れ と 関 わ る そ の 周 辺 の 研 究 。
両 祖 の 思 想 的 母 胎 ( そ れ 以 前 の 仏 教 教 理 ・ 人 物 等 総 て を 含 む ) に 関 す る 研 究 。 但 し、 両 祖 の 思 想 と の 関 係 を 問 題 と し た も の 。
両 祖 以 降 の 曹 洞 宗 に 関 わ る 人 物 の 歴 史 的 ( 伝 記 ) ・ 書 誌 的 ( 著 作 ) ・ 思 想 的 研 究 、 お よ び そ れ と 関 わ る そ の 周 辺 の 研 究。 曹 洞 宗 に 関 わ る 事 象 の 研 究 。 ロ 、 狭 義 に お い て、 宗 学 を 「 宗
旨
の 学 問 」 と 見 る 場 合、 基 本 的 に 左 記 に 関 す る 学 問 で あ る 。道 元 禅 師 の 教 義 に 関 す る 研 究 。 * 瑩 山 禅 師 の 教
義
に 関 す る 研 究 も 同 等 に 重 要 で あ る が、 教 義 に お い て は、 道 元 禅 師 が 歴 史 的 に 瑩 山 禅 師 に 先 行 す る こ と、 お よ び 主 な 研 究 対 象 で あ る 著 作 が 膨 大 な こ と 、 ま た 瑩 山 禅 師 の 教 義 も 基 本 的 に 道 元 禅 師 に 依 っ て い る と 考 え ら れ る ( 但 し、 両 祖 宗 学 と は 何 か ( 角 田 ) ハ 、 は 別 人 物 で あ る た め、 当 然 教義
の 差 違 は あ り 得 る ) こ と か ら、 こ こ で は 一 応 道 元 禅 師 に 限 定 す る。 *は、 現 存 す る 道 元 禅 師 に 関 わ る 文 献 に 基 づ く 研 究 で あ り、 そ の 結 果 に お い て 「 道 元 禅 師 が 目 指 そ う と さ れ た も の 」 を 研 究 者 が 推 測 し、 研 究 者 が そ れ を 目 指 す こ と は、 研 究 者 の 私 的 生 き 方 の 問 題 で あ り 、 「 宗 学 」 と は 言 え な い 。
の 研 究 に 不 可 欠 な 歴 史 的 ( 伝 記 ) ・ 書 誌 的 ( 著 作 ) 研 究 。 ロ に お け る 宗 学 は、 左 記 の 研 究 方 法 を と る べ き も の で あ る と 考 え る。
道 元 禅 師 無 謬 説 に 立 つ 。 * 無 謬 説 に 立 た な い 場 合、 道 元 禅 師 の 教 義 に つ い て 、 自 ら の 判 断 に お い て 正 邪 を 決 し 取 捨 選 択 す る こ と に つ な が り、 研 究 の 基 盤 ( 土 俵 ) が 崩 れ る 。 道 元 禅 師 の 著 作 に つ い て、 己 見 を 持 っ て 取 捨 選 択 し な い 。 * 初 期 の 著 作 を 排 除 し た り、 晩 年 の 著 作 の み を 重 視 し な い 。 * 道 元
禅
師 の 著 作 に つ い て、 道 元 禅 師 自 ら が 書 き 改 め る か、 あ る い は 自 ら そ の 誤 り を 明 示 し て い な い 限 り、 道 元 禅 師 の 著 作 総 て を、 道 元 禅 師 の 研 究 の 資 料 と し て 認 め る。 道 元 禅 師 が 明 言 し て い な い 限 り、 道 元 禅 師 が そ の 著 作 の 内 容 に つ い て 認 め ら れ て い た も の と 受 け 取 る 。 一 九 五宗 学 と は 何 か ( 角 田 ) 道 元
禅
師 に 思 想 的 変 化 を 認 め な い 。 * 道 元 禅 師 の 説 示 の 違 い を 、 思 想 の 変 化 と 受 け 取 ら な い 。 即 ち、 説 示 の 変 化 ( 相 違 ) に つ い て は、 道 元 禅 師 が 自 ら 述 べ ら れ て い な い 限 り、 短 絡 的 に 思 想 ( 自 内 証 ) の 変 化 と は 受 け と ら ず、 外 的 要 因 に 応 じ て の 変 化、対
機、 真 実 と 方 便、 弘 法 と 救 生、 そ の 他 に つ い て、 種 々 の 可 能 性 を 考 究 す る 。 道 元禅
師 の 教 義 を、 そ の 文 献 に 基 づ い て、 可 能 な 限 り 客 観 的 ( * 主 観 を 完 全 に 交 え な い こ と は、 お そ ら く 不 可 能 で あ ろ う か ら ) に 研 究 す る 。 道 元 禅 師 の 教 義 を、 あ ら ゆ る 思 想 ( 縁 起 説 ・ 人 権 思 想 等 ) に よ っ て 切 ら な い 。 ( い か な る 論 説、 思 想、 主 義 主 張 で あ っ て も、 そ れ に 基 づ い て、 道 元 禅 師 の 教 義 を 価 値 判 断 し、 優 劣 ・ 正 邪 を 論 じ な い 。 も ち ろ ん 、 そ の よ う な 学 問 は 当 然 認 め ら れ る が 、 そ れ は 「 宗 学 」 に は 属 さ な い 。 ) ( 角 田 泰 隆 「 宗 学 考 」 〈 「 宗 学 研 究 』 第 四 〇 号、 一 九 九 八 年 三 月 〉 ・ 同 「 「 批 判 宗 学 」 批 判 」 〈 『 駒 澤 短 期 大 学 研 究 紀 要 』 第 二 六 号、 平 成 十 年 ( 一 九 九 入 ) 三 月 〉 ) 「 新 宗 学 」1
研 究 対 象 は 道 元 禅 師 と す る 。2
道 元 禅 師 の 「 信 念 」 の 相 対 化 を 目 的 と す る 。 如 浄 禅 師 の 教 え の 道 元 禅 師 の 表 詮 の 意 味 を 問 う 。 「 道 元 禅 師 の 日 本 一 九 六 的 展 開 L と は 何 か L と 言 い 換 え る こ と が 出 来 る 。 歴 史 と 超 歴 史 の 解 明 。3
. 道 元禅
師 の い う 仏 祖 の 言 葉 の 仏 教 化 を 明 ら か に す る。 禅 宗 批 判 の 内 面 化 で あ り、 禅 宗 否 定 で は な い 。 道 元 禅 師 の 「 誤 史 」 と 「 誤 読 」 の 「 要 請 」 を 究 め る 。4
道 元禅
師 の い う 仏 祖 の 行 の 正 伝 の 仏 法 化 を 明 ら か に す る。5
研 究 の 主 体 は 正 伝 の 仏 法 の 信 者 で な け れ ば な ら な い 。 仏 教 信 者 で な い 道 元 禅 師 の 研 究 者 を 意 味 し な い し、 曹 洞 宗 の 僧 籍 は 問 わ な い 。6
方 法 論 と し て は、 思 想 史 を 使 用 す る 。7
新 「 宗 学 」 の 思 想 史 は、 過 去 の 「 仏 教 学 」 か ら も 未 来 の 教 化 学 か ら も 批 判 を 受 け な が ら、 自 己 否 定 を 通 し て、 常 に 「 新 し い 」 宗 学 を 目 指 す 。
8
逆 に 新 「 宗 学 」 か ら 補 助 学 の 仏 教 学 へ 、 あ る べ き 教 団 の 教 化 学 へ 提 言 で き る 視 点 を 提 示 す る 。9
A
、 仏 祖 の 信 念 か ら、B
、 客 観 へ の 仏 教 学 を 基 礎 と し、C
、 新 「 宗 学 」 を 経 て、D
、 教 化 学 へ の 提 言 を 果 た し、 超 歴 史 的A
の 循 環 を 試 み、 純 粋 宗 学 へ の 道 を 問 い つ づ け る 。 [ 参 考 ]10
. 角 田 ・ 松 本 説 に 対 す る 新 「 宗 学 」 の 立 場 。 ( イ ) 道 元 禅 師 無 謬 説 に は 立 た な い 。 ( ロ ) 道 元 禅 師 の 「 正 法 」 と は 何 か、 の 追 求 に 限 定 す る。 ( ハ ) 可 能 な 限 り の 客 観 的 方 法 を 用 い 、 最 終 的 に は 主 観 の判 断 で あ ろ う 。 歴 史 学 と て 純 粋 の 客 観 と い う こ と は あ り え な い 、 と い う 立 場 に 立 つ 。 ( 二 ) 道 元 禅 師 の 思 想 的 変 化 は、 資 料 批 判 の 後 の 文 献 成 立 史 に 基 づ い て 認 め る。 た だ、 「 無 謬 」 「 正 し い 」 「 客 観 」 「 思 想 的 変 化 」 の と ら え 方 は、 常 に 新 し く 自 己 批 判 す べ き で あ る こ と は、 共 通 の 課 題 と し て お き た い 。 ( 石 井 修 道 「 宗 学・ 禅 宗 史 と 新 「 宗 学 」 ( こ 、 一 九 九 七 年 度 第 四 回 曹 洞 宗 宗 学 研 究 所 公 開 研 究 会 〈 一 九 九 八 年 ] 月 二 十 七 日 開 催 〉 発 表 資 料 「 ○ 頁 ) 「 や さ し い 宗 学 」
1
. 既 に 修 得 し て い る 既 知 の 知 識 を 大 切 に し、 次 に 未 知 に チ ャ レ ン ジ し、 更 に 無 知 を 恐 れ る 学 問 の 立 場 。2
. 出 来 る だ け 分 か り 易 く、 自 分 の 意 見 を 表 白 し、 分 か っ て い る こ と と 分 か っ て い な い こ と の け じ め を 付 け 、 予 想 も 出 来 な い 無 知 性 の あ る こ と を 認 め る 。3
. 研 究 対 象 を 出 来 る だ け 丁 寧 に 扱 い 、 優 し く 見 護 り、 そ れ を 最 大 限 活 か す 研 究 。4
. 自 分 を 卑 下 す る こ と な く、 高 ぶ る こ と な く、 我 慢 す る こ と な く、 道 元 と 対 対 の 視 線 を 持 つ 。5
. 道 元 に も 色 々 の 問 題 点 が 存 在 し、 批 判 す べ き 面 が あ る こ と を 認 め る。 但 し、 そ こ に 安 易 に 自 己 の 価 値 判 断 で あ る 正 邪 や 善 悪 を 持 ち 込 み 、 道 元 の 一 生 の あ る 部 分 の み を 肯 定 し、 他 を 否 定 す る よ う な こ と は 、 全 体 的 に 人 間 を 宗 学 と は 何 か ( 角 田 ) 理 解 す る 視 点 か ら は、 そ の 人 物 を 活 か し て 理 解 す る よ り も、 殺 し て し ま う こ と に な り か ね な い 。 人 間 研 究 に お い て 大 切 な の は 研 究 者 の 「 柔 軟 心 」 、 忍 辱 の 実 践 で あ り 、 我 慢 し て、 必 要 以 上 に 礼 讃 し た り、 批 判 の た め の 批 判 を し た り す る の で は な く、 相 手 の 問 題 点 を 相 対 化 し、 全 体 的 に 柔 軟 に 理 解 す る 。 現 実 の 生 き て い る 人 間 を 理 解 す る よ う に 道 元 に 対 す る 。6
. オ ー プ ン な 宗 学 単 に 曹 洞 宗 = 示 の 自 己 と 言 う だ け で は な く、 自 己 の 中 に 出 来 る だ け 多 く の 宗 派 を 位 置 づ け 、 ま た 仏 教 だ け で な く、 異 宗 教 を も 位 置 づ け て 、 観 察 し、 考察
す る 。7
. 責 任 性 が 問 わ れ る 宗 学 そ の 当 人 が ど の よ う な 社 会 的 行 動 を と り 、 ど の よ う な 内 容 を 発 信 し て 行 く か と い う 責 任 性 が 問 わ れ る。8
. 個 人 に 由 る 宗 学 集 団 的 に 何 か を 行 う と い う こ と で は な く、 個 人 の 具 体 的 行 動、 個 人 の 責 任 の 発 揮 、 個 人 の 自 由 と 責 任 の と こ ろ に 、 仏 教 自 立、 再 生、 活 性 化 の 道 が あ る 。 ( * 平 成 十 年 六 月 二 十 四 日 に 行 わ れ た 曹 洞 宗 宗 学 研 究 所 主 催 一 九 九 八 年 度 第 三 回 公 開 研 究 会 の 吉 津 宜 英 先 生 の 資 料 を も と に 吉 津 先 生 が 提 唱 す る 「 や さ し い 宗 学 」 を 私 が 恣 意 的 に 八 つ に ま と め た も の 。 ) 一 九 七宗 学 と は 何 か (
角
田 ) 「 批判
宗
学
」 と いう
の は 、 駒澤
大
学仏
教
学
部
教
授 の松
本 史朗
博
士 の 提 案 さ れ たも
の です
が、 こ れ は 、 曹 洞宗
宗
学 研 究所
公開
研 究会
に お い て 、 「 批 判宗
学
の 可能
性 」 と い う 演 題 で 三 回 ( 一 九 九 七 ・ 五 二 = 、 六 ・ 四、 六 ・ 一 入 ) に わ た っ て 行 わ れ た 松本
先 生 の 講 演 に お い て 提 唱 さ れ た 「 宗学
」 です
。 こ れ は ま た、 一 九 九 七年
一 一 月 一 入 日開
催 の宗
学 大 会 に お い て も 「 伝統
宗
学 か ら 批判
宗
学
へ 」 と 題 し て 発表
さ れ、 『宗
学 研究
』第
四 〇号
( 一 九 九 八 年 三 月 三 一 日 発 行 ) に 掲載
さ れ て お り ま す 。 次 の 「 信宗
学 」 と いう
の は 、 こ れ は 私 が便
宜 的 に付
け た も の です
が、 駒 澤 短期
大 学仏
教
科 助 教授
の角
田 泰 隆先
生 が、松
本
先 生 の 「 批 判 宗 学 」 に対
し て提
示 し た も の で、角
田先
生
は 自 ら 「 信宗
学 」 な ど と は 言 っ て い ま せ ん が、 信 仰 的 な神
学 的 な 印象
を 受 け ます
の で、 「信
宗学
」 と い た し ま し た、 角 田先
生 か ら は 異 論 が あ り そう
な 気 も し ます
が … … 。 こ れ は、 や は り、 一 九 九 七 年 一 一 月 一 八 日 開催
の宗
学
大
会
に お い て 「宗
学 考 」 と 題 し て 発 表 さ れ た も の で 、 『 宗 学 研 究 』第
四 〇号
( 一 九 九 八 年 三月
三 一 日 発 行 ) に 掲載
さ れ て お り ます
。 こ の 後、 松 本 先 生 の 「 批 判宗
学
」 に対
す
る具
体 的 批 判 で あ る 「 「 批 判宗
学 」 批 判 L を 発 表 し て い ます
が、 こ れ は 『 駒 澤 短 期 大 学 研 究紀
要
』 第 二 六号
( 一 九 九 八 年 三 月 ) に 掲 載 さ れ て い ます
。 一 九 入 次 の 「新
宗
学
」 です
が 、 こ れ は 駒 澤 大 学仏
教 学部
教
授 の 石井
修
道博
士 に よ る新
し い宗
学 の提
案
です
。 石井
先
生 ご 自身
は、新
「宗
学
」 と さ れ て い ます
が 、便
宜 上 「 新 」 も括
弧
に い れ て 、 こ こ で は 「新
宗学
」 と い た し ま し た こ と 、 ご 了 承 く だ さ い 。 こ れ は、 曹 洞 宗宗
学
研 究所
公 開 研 究会
に お い て、 「 宗学
・ 禅宗
史
と新
「 宗学
」 L と 題 し て 三回
( 一 九 九 八 ・ 一 ・ 二 七 、 二 ・ 三、 二 ・ 一 七 ) に わ た っ て 行 わ れ た 石 井 先 生 の 講 演 に お い て 提 唱 さ れ た 「宗
学
」 で す 。講
演 資料
の中
か ら 引 用 い た し ま し た 。最
後
の 「 や さ し い宗
学 」 です
が、 こ れ は 駒 澤大
学 仏教
学
部
教
授 の 吉 津 宜 英 博 士 の提
案
す る宗
学
論
です
。 こ れ は、 そ こ に も書
き ま し た が、平
成
十 年 六 月 二 十 四 日 に行
わ れ た 曹 洞宗
宗
学 研究
所 主 催 一 九 九 八 年度
第
三 回 公 開 研究
会 の 吉 津 宜 英先
生 の 資料
を も と に 吉 津先
生 が提
唱す
る 「 や さ し い宗
学
」 を 私 が恣
意的
に 七 つ に ま と め た も の です
。吉
津
先
生 ご 自身
が 箇条
書 き に ま と め て お ら れ ま せ ん の で 、 こ れ も便
宜 的 に わ か り やす
くす
る た め に、 私 が ま と め て み ま し た 。 こ の ま と め 方 は 、 吉 津 先 生 ご 自身
の も の で は な い 点 、 ご 承知
お き い た だ き た い と思
い ます
。 そ こ で、 こ の問
題 の 経緯
に つ い て 私 な り に うけ
と っ て い る と こ ろ を簡
単 に 述 べ ます
が 、 一番
先
行す
る の が 松本
先
生 の 「 批 判宗
学 」 で す 。 こ れ は 松本
先
生 ご 自身
が お っし
ゃ っ て い る よう
に 、袴
谷 憲 昭先
生 の 「 批判
仏
教 」 か ら大
き な影
響 をう
け て生
ま
れ て き た考
え方
です
。 こ の 言葉
が最
初
に 使 わ れ た の は 、 松本
先
生
が 曹 洞 宗 門 の 、 あ る 現職
研修
会
( 一 九 九 六年
二 月 ) で 「伝
統宗
学 の 諸 問 題 に つ い て 」 と いう
演 題 を与
え ら れ て 、伝
統宗
学 と は何
か と いう
問 題を
考 え て み た結
果
、伝
統宗
学
に対
立す
るも
の と し て 「 批判
宗
学
」 と いう
も
のを
構想
し た 、 と 言 わ れ て い ます
。 そ の 内容
は 、 資料
に あ る 通 り で す が、 そ の ポ イ ン ト は 、 「4
. 批 判宗
学 は、 宗 祖 無 謬説
に 立 た な い 」 と 「5
. 道 元 の 思想
的変
化 を 認 め 、 道 元 が目
指
そう
と し たも
の ( 正 し い 仏教
) を、 目 指す
」 で あ ろう
と 思 い ます
。 こ れ に 真 っ 向 か ら 反論
し た の が 、角
田先
生 の 「 信宗
学
」 です
。 つ ま り 、 ま っ た く 逆 の こ と を 言 っ た わ け で す 。 資料
の 「信
宗 学 」 の ハ のと
で
す
ね 。 「道
元禅
師 無 謬説
に 立 つ 」 と いう
の と 「道 元
禅
師 に 思 想的
変
化 を 認 め な い 」 と いう
と こ ろ です
。も
も 共 に 信
仰
的
な色
彩 が 強 い の で、 私 は 「 信宗
学 」 な ど と し て み た の で す が、 角 田先
生
が こ の よう
に 言 っ た背
景 に は、 信 仰 と いう
よ り も、 「道
元禅
師 の著
作 のす
べ て を 研究
の対
象 と し て 肯 定 的 に 受け
取 る 」 と いう
こ と を 基 本 に し て い る と いう
こ と が あ っ た よう
で す 。 特 に、 『 正法
眼 蔵 』 に つ い て は、 道 元禅
師 自 ら に よ っ て 晩 年 に 及 ぶ ま で 手 が 加 え ら れ たも
の で あ り 、 宗 学 と は 何 か ( 角 田 ) そ のす
べ て を 道 元禅
師 が 認 め て い た とす
る の です
。 こ の こ と が 宗学
の大
前
提 で あ る と す る わ け です
。 こ れ ら 「 批 判宗
学 」 と 「信
宗 学 」 に対
し て出
て き た の が 石井
修 道 先 生 の 「新
宗
学 」 です
。 「 新宗
学 」 で は、 「 批 判 宗学
」 と 「 信宗
学
」 を対
立す
る も の と み な が ら も 、 両 者 と も に “ 主 観的
”象
限 に 割 り 当 て て、自
ら の 「新
宗
学
」 を “客
観的
”象
限 に 入 れ て い る 点 が 特徴
的 です
。 「 批判
宗 学 」を
” 主 観的
”象
限 に 割 り 当 て て い る の は 、 松本
先
生 の 批 判 宗学
に お け る 「 正 し い 仏 教 」 の定
義
に は そ も そ も私
に と っ て 縁 起 と は、第
一 に 十 二支
縁 起 で あ り 、 私 は 『律
蔵 」 「 大 品 」 に従
っ て 、 釈尊
は 十 二 支 縁 起 を さ と へ も も っ た と 信 じ る 。 つ ま り 私 に と っ て 仏 教 と は 縁 起 に他
な ら な い 。 十 二支
縁 起 の説
が後
の成
立 であ
る こ と は 私も
認 め る が、 にも
か か わ らず
な お 私 は 釈尊
は 十 二 支 縁 起 を 悟 っ た と 主 張す
る 。 (松
本史
朗 『 縁起
と 空−
如 来 蔵 思 想 批判
』 ) と いう
信
( 主 観 ) が 根本
に あ る と 見 な し て い る こ と に よ る の で あ る と 思 わ れ ま す。 こ れ に 対 し て 石井
先 生 は あ く ま で も客
観 の 立 揚 に 立 つ と いう
こ と で あ りま
し ょう
。 そ れ と もう
ひ と つ、角
田 説 の 「 無 謬 」 と 松本
説
の 「 正 し い 仏教
」 に対
し て 批 判的
で あ る 点 が あげ
ら れ る で し ょう
か 。 と こ ろ で、 石井
先
生
は、資
料 の 「10
.角
田 ・ 松 本 説 に 一 九 九宗 学 と は 何 か ( 角 田 )
対
す る新
「宗
学
」 の 立場
」 を 示 さ れ て い ます
。 ( イ ) 道 元禅
師無
謬 説 に は 立 た な い 。 ( ロ )道
元禅
師 の 「 正法
」 と は何
か、 の追
求 に 限 定す
る 。 ( ハ ) 可能
な 限 り の客
観
的
方法
を 用 い 、 最 終的
に は 主 観 の 判 断 で あ ろう
。 歴史
学 と て 純 粋 の客
観
と いう
こ と は あ り え な い 、 と いう
立場
に 立 つ 。 ( 二 ) 道 元禅
師 の 思 想的
変
化 は 、資
料批
判 の後
の 文献
成 立 史 に 基 づ い て 認 め る 。 の 四 点 に つ い て で す が 、 ( イ ) と ( 二 ) に つ い て は 松本
説 と 同 じ で、 ( ロ ) に つ い て は 、 松本
説 の 「1
.宗
門
の 正 し い 教義
を
探 求 す る 」 と 同様
で あ り 、 角 田 説 と て 「道
元禅
師 の 教義
に関
す る 研究
」 と いう
点 で は 重 な るも
の が あ り 、 ( ハ ) に つ い て は 三 者 と も に 同 じ だ と 思 う の で す ね 。 「 批 判 宗学
」 の 根 本 に “ 主 観 ” が あ る と 言 っ ても
、 松 本 先生
は そ れを
文 献 に 基 づ い て客
観 化 し よう
と さ れ て い る わ け で す し、 ま た角
田先
生 も、 「 無 謬 説 に 立 つ 」 と は い え、 ハ のに あ る よ
う
に 「道
元禅
師 の教
義
を 、 そ の 文献
に 基 づ い て、 可 能 な 限 り客
観 的 に 研 究す
る 」 と し て い る わ け です
し … … 。 です
か ら 石井
説 は、角
田 説 と は ( イ ) と ( ロ ) に お い て 相容
れ な い と し て も、松
本
説 と は、 い ま ひ と つ 明 確 な 相 違 が見
え て こ な い よう
な気
もす
る わ け で す 。 二 〇 〇 さ て、 こ れ らを
見
据 え る か た ち で 出 て き た の が、 吉津
先
生 の 「 や さ し い宗
学 」 で す 。 「4
. 道 元 と対
対 の 視線
を
持 つ 」 と い う あ た り が ポ イ ン ト だ と 思 わ れ ます
。 具体
的
に 言 え ば 「 我 慢し
て、 必要
以 上 に 礼 讃 し た り、 批 判 の た め の 批 判 を し たり
す る の で は な く、 相 手 の問
題 点 を相
対
化 し 、 全 体 的 に柔
軟
に 理解
す
る 。 現 実 の 生 き て い る 人間
を 理解
す る よう
に 道 元 に対
す る 」 と いう
と こ ろ で し ょう
か 。 そ れ か ら、 「出
来
る だけ
分 か り易
く、 自 分 の意
見 を表
白 す る 」 と いう
こ と も 、 「 や さ し い宗
学
」 の特
徴 で す 。吉
津 先生
は、 こ れ か ら の コ宗
学
」 は そ う あ る べ き だ と 提案
さ れ た わ け で す 。 さ て、ず
い ぶ ん 長 く な り ま し た が、 以 上 、 「宗
学 」 に関
す る最
近 の 議論
を
私 な り に ま と め て み ま し た 。 〔 司 会 〕横
山先
生 どう
も あ り が とう
ご ざ い ま し た 。 お集
ま り の 皆 さ ん の 中 にも
、宗
学
大
会 や宗
学 研 究 所 主 催 の 公 開 研究
会 に 参 加 さ れ た方
も お ら れ る で し ょう
し 、 ま た横
山先
生 と は 違 っ た 受け
取 り 方 を し て い る 方 も あ る と 思 い ます
が、 そ の へ ん も含
め て 、自
由 に意
見 を 述 べ て 頂 き た い と 思 い ます
。 〔 唐 木 〕 ま ず、 「宗
学 」 と いう
言 葉 に つ い て です
が、 こ の 「 宗 」と い
う
の が、 ま ず 問 題 だ と思
い ます
。 つ ま り、 こ れ が、 ” 曹 洞宗
” の 「 宗 」 な の か、 お お も と 本 源 と いう
意 味 の 「宗
」 な の か と いう
こ と で す 。 “ 曹 洞 宗 ” の 「宗
」 と いう
こ と に な れ ば、 こ れ は 曹 洞宗
の学
問、す
な わ ち 「 曹 洞 宗 学 」 と いう
こ と に な り ま す か ら、 曹 洞 宗 に 関 わ る学
問 研 究 す べ て を含
む こ と に な り ま す 。先
の 「 信宗
学
」 の定
義
の、 「 イ 、 広義
に お い て、宗
学
を 「 曹 洞 宗 に 関 わ る学
問
」 と見
る場
合 … … L に あ た る と 思 い ま す 。 “ お お も と ” ” 本 源 ” と い う意
味 の宗
と いう
こ と に な れ ば、 言 葉 が 適 切 か 分 か り ま せ ん が 、真
実 ・真
理 を 探 求 す る学
問 と いう
こ と に な り ま す。 こ の 場 合 の宗
学
も、 さ ら に 二 つ に 分 か れ る と 私 は思
う の で す が、 まず
一 つ は、 道 元禅
師 が 「宗
門 」 と か 「 正 宗 」 と いう
よ う なも
の です
ね、 つま
り 「 正伝
の 仏 法 」 と い う こ と に な り ま す 。 道 元禅
師 は自
ら 伝 え た 仏 法 を 「 正伝
の 仏 法 」 と 言 っ て、決
し て 「 禅宗
」 と か 「 曹 洞 宗 」 と 言 わ れ な か っ た わ け です
か ら 、 道 元禅
師
の と こ ろ ま で も っ て い き ま す と、 「宗
学 」 と いう
の は 「曹
洞 宗学
」 と は な ち な い わ け で す ね 。 そ れ か ら、 もう
一 つ は 、 道 元 禅 師 を さ ら に 遡 っ て、 「 正 し い 仏法
」 を 「宗
」 と いう
こ と も で き る わ け です
。 だ か ら、 松 本先
生 の 「 批 判宗
学
」 の5
の 「 道 元 が 目 指 そう
と し た も の ( 正 し い 仏 宗 学 と は 何 か ( 角 田 ) 教 〉 を、 目 指 す L と い う のも
、 い う こ と に な る わ け で す 。 こ の意
味 で は 「 宗学
」 と 〔大
円 〕 私 も駒
澤大
学 で 学 び ま し た が、 や は り宗
学
を
中心
に勉 強 し ま し た 。
卒
論
の 指導
教授
は 石 附 勝龍
先
生 で し た が… … そ の 後 、 改 姓 さ れ ま し て
新
井先
生 と な ち れ ま し た… … ま さ に 新 井
先
生 は 自他
共 に 認 め る 「 伝 統宗
学
」 の先
生 で し た か ら、 私
も
「 伝 統宗
学
」 を み っ ち り と仕
込ま
れた こ と に な り ま す 。
卒
論 指導
で は、 よ く 研 究室
に 通 い まし て ね、 い つ も 何
時
間 も 指導
を受
け ま し た 。 よ く 面倒
を
見 て 下 さ っ た な と
感
謝 し て お り ま す。そ の こ ろ は 「 伝
統
宗
学 」 と は何
か と いう
こ と は よ く分
か ら な か っ た の で
す
が … … ま あ 、 い ま も よ く 分 か り ま せん が … … と に か く、 『 正 法 眼
蔵
註解
全
書
』 と いう
の が あり
ま し て ね、 あ れ に よ っ て 『 正 法
眼
蔵
』 を読
ん で い っ た わけ で す 。
* 『 正 法 眼 蔵 註
解
全
書 』 … … 『 正 法 眼蔵
』 の 段 落 ご とに 『 御 抄 」 ( 道 元
禅
師 の直
弟
子、 詮慧
の 『 御聞
書
』 とそ の 弟 子 経
豪
の 『 正 法 眼 蔵 抄 』 ) や、 斧 山 玄 鈿 の 『聞
解 』 、 雑
華
蔵 海 の 『 私 記 』 、 天桂
伝尊
の 『弁
註 』 、 父幼
老
卵
の 『 那 一 宝 』 な ど の 江 戸 期 の 宗学
者
の 注 釈 を編
集
し た も の。 二 〇 一宗
学 と は 何 か (角
田 ) そ れ に 加 え て、 西有
穆
山禅
師 の 『 正法
眼蔵
啓
逍 』 と か 、岸
沢 惟安
老
師
の 『 正法
眼蔵
全 講 』 と かも
拠 り所
と し た わ け で す 。 大学
院 で 河 村孝
道
先
生 の授
業を
受講
し た時
も 、 や は り 『 註 解 全書
』 を参
考
に し な が ら の 演 習 で し た 。最
終 的 に 『 正 法 眼 蔵 』 を受
け と る の は、自
分自
身
で あ っ ても
、 己見
に 陥 ら な い た め に も、先
学
の解
釈を
学
ぷ こ と は、 必 要 な こ と で あ る か ら で し ょう
。 です
か ら 私 は 、 「 伝 統宗
学
」 と いう
と、 『 註解
全書
』 や 『啓
迪 』 や 『 全 講 』 を 参考
に し て 『 正 法 眼 蔵 』を
よ ん で ゆ く 、 そう
いう
研 究方
法 だ と 思 っ て い た ん です
が … … 。 〔 横 山 〕「 伝 統
宗
学 」 に関
連 し て な ん です
が、 よ く 取 り あ げ ら れ る の が、 榑 林 皓 堂先
生 の 「伝
統宗
学
」 の定
義
です
ね 。 つ ま り 「 伝 統 宗 学 と は 、道
元禅
師 に 親し
く接
し た 直弟
子
で あ る 詮 慧 の 『 聞書
』 と 、 詮慧
の弟
子経
豪
の 『 抄 』 を最
高
の 注解
と な し、 そ の解
説
を 至 上 と し て 仰 ぐ 一 派 で あ る 」 ( 『道
元禅
の本
流
』 、 大法
輪
閣 、 一 九 七 七 年 十 月 ) と いう
定
義
で す 。 「 伝統
宗
学 と は 、 … … 一 派 で あ る 」 と いう
の は、 ち ょ っ と 変 な 表 現 です
が、 こ れ に よ る と、 『聞
書
』 と 『御
抄
」 を 重 ん じ る 学 派 と いう
こ と に な りま
す ね 。 私 は、 江 戸 期 の 注 釈 な ん か も 含 め た か た ち で 、 「伝
統 」 とす
る べ き で は な い か と 思う
の で す が、 こ の へ ん の 問 題 と 、 そ れ か 二 〇 二 ら、 「 伝 統 宗学
」 と いう
の は 、学
問
であ
る と 同 時 に 学 派 で あ る と いう
、 こ の 派閥
と捉
え
る問
題 と、 こ の 二 点 に 注 目 す る の で す が 。 〔 岡 田 〕先
ほ ど 大 円 さ ん が、 「 伝統
宗
学 」 と いう
の は 研 究方
法 で はな
い か と、 そう
い わ れ ま し た ね 。 そ の へ ん の と こ ろ が ポイ
ン ト だ と 思う
の で す 。先
日、仏
教学
部
の 岡 部先
生 と お話
し し て お り ま し た ち 、岡
部
先
生 が、 「 「宗
学
」 と いう
の は 、対
象
の 問 題 で は な く て、方
法 の 問 題 だ と思
う の です
が 、 い か が で し ょう
か ? L と 言 っ て お ち れ ま し た が 、 私 も 、 「宗
学
」 と いう
の は、方
法
論 だ と 思う
の です
ね 。 ま あ、学
派 と いう
受 け 取 り方
も あ る と 思う
の で す が、 現 実 的 に そ う い う学
派 は … … つ ま り 師弟
関
係 の 上 で の と い い ま す か、 そ う いう
一 派 は … … ほ と ん ど 消滅
し て し ま っ て い る わ け で す か ら 、 研 究方
法
論 と いう
視 点 で 「伝
統宗
学 」 を捉
え
た ほう
が い い と 思う
の で す 。 つ ま り、 『 正法
眼蔵
』 を解
釈
、 研 究す
る の に 『聞
書
』 や 『抄
』 に よ っ て い く と いう
研 究 方 法、 と いう
こ と に な り ま し ょう
か 。 こ れ に、 江 戸期
の 注 釈書
や、あ
る い は 『 啓 迚 』 と か 『 全 講 』 と か を 加え
る か どう
か は 、 ま た 、 そ こ か ら の 問 題 で す 。 〔 司 会 〕 と す る と 、 「 伝統
宗
学 」 と いう
の は 、 『 正 法 眼 蔵 』 の 研究
に限
ら れ る わ け で す か ? 〔 岡 田 〕 ま あ、 そう
いう
こ と に な ろう
か と 思 い ま す 。 し か し、 [般
に 言 わ れ て い る 「宗
学
」 、 あ る い は 、今
問 題 に な っ て い る 「宗
学 」 と いう
の は 、 「 正 法 眼蔵
』 の 研 究 に 限 ら れ て い る わ け で は な い です
か ら、 「伝
統宗
学 」 と 今 の 「宗
学 」 と は 切 り 離 し て 考 え て い っ た 方 が い い と、 私 は 思 い ま す 。 〔横
山 〕 そう
です
ね 。 「新
宗
学
」 で は 「1
. 研究
対象
は道
元 禅 師 とす
る 」 と あ り ま す か ら 、 瑩 山禅
師 の 研 究 は も と よ り 、他
の 曹 洞 宗 に 関 わ る 研究
は 含 ま れ な い こ と に な り ま す。 石井
先
生 は 、 他 の 曹 洞宗
に 関 わ る 研 究 を 何 と 呼 ば れ る の で し よう
? そ れ に 対 し て 「 批 判宗
学 」 は、 そ れ ら に 対 し ても
、 ま た あ ら ゆ る宗
派 の 宗学
に も 当 て は め 得 る よう
な と こ ろ が あ り ま す 。 つ ま り、 「 批 判宗
学
」 は 「宗
学
」 と か 「宗
門 」 と か の 部 分 を 「 仏 教 」 に 入 れ 替 え れ ば そ の ま ま 「 批 判 仏教
」 に な る よう
な 定義
で す か ら ね 。 言 葉 を 入 れ 替 え た 場合
の 「 批 判仏
教 」 が、袴
谷先
生 の 「 批 判 仏 教 」 … …袴
谷 「 批 判 仏 教 」 と で も 言 っ て お き ます
が … … こ の 定義
と 重 な る の か どう
か は 興 味 深 い 問 題 で す が、 こ の 「 批 判宗
学
」 は ま さ に、 松本
先 生 の 「 批 判 仏教
」 … … 松本
「 批 判 仏 教 」 宗 学 と は 何 か ( 角 田 ) で あ る と思
う
の です
。袴
谷 「 批判
仏 教 」 と松
本 「 批 判 仏 教 」 、 「批
判 仏教
」H
と 「 批 判 仏 教 」M
と でも
し ま し ょう
か … … こ れ は 面 白 い です
ね。 〔大
円 〕 だ から
で す ね 、 「批
判
宗 学 」 は 松 本 「 批 判 仏教
」 で い い わ け です
よ 。 別 に敢
え て 「宗
学
」 と し な く て も よ い と 思う
の です
。 松本
「批
判 仏教
」 に よ っ て 、道
元禅
師 な り 「 宗学
」 な り 曹 洞 宗 な り を 批 判 研 究す
れ ば い い わ け で 、 そ れ に よ っ て 「宗
学 」 の 外 側 か ら 、 「宗
学 」 や 曹 洞宗
を 刺 激 し て いけ
ば い い わ け で す 。 そ れ は 大 い に意
義
有
る こ と で す 。 し か し、 「宗
学 」自
身 が 「 批 判宗
学 」 に な ら な け れ ば な ら な い と いう
こ と に は 私 は 反 論 い た し ま す 。 〔唐
木 〕「 批 判
宗
学 」 の提
唱 は、袴
谷
先 生 の 「 批 判 仏 教 」 に 大 き な 影響
を 受 け て い る と いう
こ と で す が、 そ も そ も 、 「 批判
仏教
」 の 立 場 か ら 「宗
学 」 を 取 り 上 げ る こ と に間
違 い が あ る の で は な い で し ょ う か 。 つ ま り 、 そ の よう
な 方 法論
を 「宗
学 」 に当
て は め る こ と 自 体 に問
題 が あ る と 思う
の です
。 松本
先
生
は、 「 縁 起 説 」 と い う 「 正 し い 仏 教 」 で、 「宗
学
」 を 切 っ て ゆ く わ け で し ょう
。 そ れ は、 や は り 「 批 判仏
教
」 だ と 思う
の で す ね 。別
に 「宗
学 」 と 言 わ な く て も よ い わ二 〇 三
宗 学 と は 何 か ( 角 田 ) け で
す
。 つ ま り、 道 元禅
師 の 著 作 ( 文 献 ) を、 「 正 し い 仏 教 」 の 立 場 か ら、 批 判 し て 行 け ば 、 つ ま り、 正 邪 を 決 し て い け ば よ い わ け で、 な に も、 そ の よ う な方
法論
に、 あ え て 「宗
学 」 と いう
名 を使
わ な く て も い い と 思う
の です
ね 。 そう
じ ゃ な い で し ょう
か ? 〔 黒 岩 〕 私 は、教
祖、宗
祖 と い え ど も 、 神 秘 化 し無
批 判的
に 追 従 し て、他
の 批 判 に 全 く 耳 を 貸 さ な い態
度
は 否 定 さ れ る べ き だ と 思 い ます
。 そ の よう
な宗
学 や道
元 研 究 は、 世 界 か ら 相 手 に さ れ な い の で は な い で す か ?今
後 は や は り 「 批 判宗
学
」 や 「新
宗学
」 や 「 や さ し い宗
学
」 と い っ た 視 点 が 必要
に な っ て く る と 思 い ます
。 〔唐
木 〕 私も
黒 岩 さ ん と 同 じ意
見
で は あ る の です
が … …、 し か し、 一方
で は です
ね、 一 切 の崇
拝 を 排 除す
る と い う の は、 どう
か と 思う
の です
。宗
派中
の宗
祖崇
拝
は 当 た り前
の こ と で は な い の です
か ね え 。 た だ 、 「宗
学 」 と いう
よう
に学
問 と し て見
た場
合 に は 、信
仰
的 な 面 は出
さ ず に、客
観 的 研究
をす
べ き で す ね 。 〔 司 会 〕 と こ ろ で、 話 題 を か え ます
が、 釈尊
と道
元 禅 師 と ど ち ら を と る ん だ、 と いう
よう
な 乱 暴 な 発 言も
あ
り ま し た ね 。 二 〇 四 〔 横 山 〕 松本
先
生 が 『普
勧
坐禅
儀
』 の 「善
悪 を思
はず
、是
非 を管
す る こ と な か れ 。 心意
識 の 運 転 を 停 あ 、 念 想 観 の 測 量を
止 め て … … 」 と い う部
分 は 思 考 の 停 止を
言う
の で あ っ て、 思 考 の 停 止 は 仏 教 で は な い 、 つ ま り 『普
勧
坐禅
儀 』 の こ の 一節
は仏
教
に 反 す る も の で あ る と 批判
さ れ た と き です
ね 。 そ れ に対
し て角
田先
生 が、 「 も し、 そ れ が仏
教
で な い と す れ ば 、 私 は、 そ の よ う な仏
教 で あ れ ば 捨 て 、 非仏
教
で あ る 道 元禅
師 の教
え を と り た い 」 と 言 い ま し た ね 。 ま あ、 「売
り 言葉
に 買 い 言 葉 」 と い う か … … 失 礼、 「 開 き 直 り 」 と いう
か 、 … …袴
谷 先 生 も 「 学 問 に、開
き 直 り は、 ち ょ っ と どう
か な あ ? 」 な ど と言
っ て お ら れ ま し た が、道
元 禅師
の 教 え の 中 に、 「 正 し い仏
教
」 と違
う
部 分 が あ る と な る と 、 「 正 し い 仏 教 」 と は 何 か と いう
問 題 は さ て お い て、 こ れ は 大 き な 問題
に な る わけ
で す 。 つ ま り、 「宗
学
」 に と っ て 、 釈尊
と 道 元禅
師 と ど ち ら が 大 切 か と いう
議
論 にも
な っ て し ま う ん で す ね 。 そ こ で、 そ ん な 発 言 も 出 て き た の で は な い で し ょう
か 。 〔 小 林 〕 と こ ろ で 今 ” 思 考 の 停 止 ” と いう
問 題 が 出 さ れ ま した が 、 『
普
勧
坐禅
儀
』 の思
考
の停
止 は 、 相対
( 日常
) の 次 元 の 思考
を 停 止す
る こ と で、 そ の 停 止 と 同 時 に 絶 対 ( 本 質 ) の 次 元 に思
考
が 移 り ま す の で、 思 考 そ の も の の停
止 と は 違う
の で は な い で し ょう
か ? 相 対 か ら 絶 対 へ と 思 考 が移
る と し ます
と、 九 次第
定 で 言 え ば初
禅 の 段 階 に な り ます
。 『普
勧
坐禅
儀
』 は普
く 人 々 に 坐 禅 を 勧 め たも
の で す か ら、 そ こ で は 坐禅
中
に 相 対的
な 、 つ ま り 日常
の 次 元 の思
考
を
停 止す
る こ と を まず
説 か れ た の で は な い で し ょ う か 。 〔岡
田 〕 そう
です
ね 、伝
統的
な解
釈 で も、 決 し て あ の部
分 は、 思 考 そ の も の の停
止 で あ る と は解
釈 し て お り ま せ ん 。 「非
思 量 」 で す ね 。 「思
量
に あ らず
」 で は な く て 「非
の思
量 」 で す 。 具体
的
に は、 仏 に な ろ う と い う 思 惑 を 捨 て る と いう
こ と な ん だ と 私 は思
い ま す が、 そ れ が 「 正 し い 仏教
」 で は な い と言
わ れ る と ち ょ っ と 困 り ま す ね 。 〔 司会
〕 な ん だ か 「非
の思
量 」 な ど と い う 難 し い 話 に な り ま し た が 、 ち ょ っ と話
題
を戻
し ま し て、 釈 尊 と 道 元禅
師
の ど ち ら を と る の か 、 と いう
問 題 が で ま し た が、 そ れ に関
係
し て ど な た か い か が で す か ? 宗 学 と は 何 か ( 角 田 ) 〔 原 〕 ち ょ っ と よ ろ し い で し ょう
か 。 釈 尊 か 道 元 か、 と いう
こ と で す が 、 仏教
徒
で あ る か ら に は、 や は り釈
尊 が第
一 だ と 思 い ます
ね 。道
元 も 釈 尊 を非
常 に 信 仰 し て い る わ け です
か ら 。 〔大
円 〕 そ れ は そう
な ん です
よ 。 釈 尊 が 第 一 な ん で し ょう
が 、 そ の 釈 尊 を何
を 通 し て 見 る か と いう
こ と です
よ
。 ア ビ ダ ル マ と いう
穴 か ら 見 る の か、 大 乗 仏 典 と いう
穴 か ら 見 る の か、中
国禅
と いう
穴 か ら見
る の か、 道 元禅
師
と いう
穴 か ら 見 る の か … 。 角 田 先 生 が 「 釈尊
よ り も 道 元禅
師 を と る 」 と いう
よう
な こ と を 言 っ た の は、 開 き 直 っ た 感 じ で 、 そ の 点 が角
田先
生 の よ く な い 点 です
が 、 ど ち ら を と る と いう
の で は な く て、 道 元禅
師
を 通 じ て 釈 尊 を見
て い く と いう
こ と だ と思
い ま す 。道
元 禅 師 の 尊 敬 す る 釈尊
は、道
元禅
師 の 著作
の な か に 現 れ て い る の です
。 つ ま り 、 道 元禅
師
が 「 正 伝 の仏
法 」 と い わ れ る の は 、 ま さ に、自
ら の仏
法 が そ の ま ま 「 正 し い 仏法
」 で あ り 、 そ の ま ま 「 釈尊
の仏
法 」 だ と お っ し ゃ っ て い る の で す か ら 。 だ か ら、道
元禅
師
を学
ぶ こ と そ れ が 釈尊
を 学 ぶ こ と で あ る、釈
尊
を学
ぶ こ と は 、 道 元禅
師 を 学 ぷ こ と で あ る 。 ど っ ち を 取 る か と言
う こ と 自体
が お か し い 。 「 宗 学 」 は そ れ で い い と 思 二 〇 五宗 学 と は 何 か ( 角 田 )
う
の です
。松
本
先 生 は 、 「道
元 が 目指
そう
と し たも
の ( 正 し い 仏教
) を、 目 指 す 」 と 言 わ れ て い ます
が、道
元禅
師 が 目指
そう
と し た も の を、 我 々 が 『 正 法 眼 蔵 』 の中
か ら 私 の判
断 で 取 捨 選 択 し て 探 し 当 て る の で は な く て、 『 正法
眼 蔵 』 そ のも
の が、 道 元禅
師 が と ら え た 「 正 し い 仏教
」 だ と思
い ます
。我
々 が 「 道 元禅
師 が 目 指 そう
と し た も の 」 を探
求す
る の で は な く て、 す で に 明 ら か に さ れ て い る 道 元禅
師 の 「 正 し い 仏 教 」 を我
々 が 明 ら か に す れ ば よ い わ け で す 。 〔唐
木
〕 と こ ろ で 、 「 釈尊
か、道
元 か 」 と いう
話 で す が 、道
元 研 究者
が 道 元 よ り も 釈 尊 の 方を
重 ん じ る と い う の は ち ょ っ と変
で す ね 。 ど っ ち を 重 ん じ る と か、 ど っ ちを
と る か と か 、 そう
いう
こ と が もう
お か し い ん じ ゃ な い で す か ?道
元 研究
者 で あ れ ば、 道 元 の 著作
に 現 れ た 釈 尊像
を 研 究す
る わ け で、 そ れ と 原 始 仏教
の 釈 尊 研 究 者 や、他
の 分 野 の仏
教
に お け る釈
尊 研 究者
の 釈 尊 像 と を 比 較 研究
す
る、 と いう
よう
な こ と が 学 問 研 究 で は な い の で す か ね 。 正 邪 や優
劣
や善
悪 と 言 っ た 価 値 判 断 を 入 れ て は い け な い の です
よ
。 〔 原 〕 そう
で し ょう
か ?価
値
判
断 を い れ な い の が 学 問 な の 二 〇 六 で し ょう
か ?む し ろ 、 価
値
判 断を
す
る の に客
観 的 な 研 究 を 用 い て い く の が学
問
な の で は な い で し ょう
か ? 〔 横 山 〕 そう
い え ば 曹 洞宗
宗
学
研究
所 の 熊本
英 人先
生 が 、 昨年
の 宗学
大
会
で 「 現代
宗学
論
の 一 考 察 ( そ の 三 ) 」 と 題 して 発 表 し て い ま
す
が 、 そ こ で 、「 主 観 の 入 ら な い 研
究
は な い 」 と い っ た よう
な こ と をよ く
聞
く が、 こ れ は 、 論 理 の 展開
がず
れ て い る 。 主 観を 排 除 し て
客
観
を と る の で は な く、主
観 を客
観化
、普
遍 化 す る の が 科 学 で あ り
学
問
で は な い の か 。 そ の た めに は
客
観 的 な 論 拠 が 必 要 と な る の は当
然 で あ り 、 判 断は 主
観
に お い て 行 わ れ る の は 間 違 い な い 。( 「
宗
学 研究
』 第 四 〇号
、 一 九 九 八 年 三 月 )と 言 っ て い ま す 。 「 宗
学
」 は 学 問 で あ り 、 「 科学
」 で な け れば な ら な い と 。 こ れ は ポ イ ン ト と な る
視
点 で あ る と 思 いま す が … … 。 〔 黒
岩
〕 私 は 「宗
学
」 は学
問 で あ っ て も 科学
で は な い と 思 いま す 。
宗
学 は 、 宗 祖 を 敬 い、 参 じ て ゆ く た め学
ぶ道
を 示す
も の で あ っ て、宗
祖 や宗
典 を科
学的
に 批判
的 に 研 究す
る も の で は
な
い と思
う
の で す が、 こ の よう
な見
方
は 古く
さ い で し ょ
う
か ?〔 司 会 〕 問 題 が