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『宗教研究』第2巻第5号(*5号)

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(1)

――目次―― 1,口絵 2,宗教研究の根拠と其区分,鈴木宗忠,Sōchū SUZUKI,pp.1-44. 3,宗教の社会的見解と個人的宗教,宇野円空,Enkū UNO,pp.45-98. 4,我国初期の仏像より見たる当時の信仰,津田敬武,Noritake TSUDA,pp.99-124. 5,梵文無量寿経批議,荻原雲来,Unrai OGIWARA,pp.125-168. 6,シュタイン氏蒐集 燉煌地方出古写仏典ロートグラフ解説目録,矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.169-185. 7,批評紹介,pp.186-188. 8,学会彙報,pp.188-191. Posted in 1917(大正6)年

(2)

■■ Lノ● l 〃、I l 二.11 ′ 軌 川 ∼ ∫ 還; 潮 ■ 汁 しノ

(3)

(班硫相見冷) 。上郡甘幹部口重轟瀬。ヰ・巧臨丁随韓芯朝粥七8 0 江〉l血道。誓酎叫S声箭か.寸ヱ帥ヰ弾道章浮。こ廿$㌣ご「硝 00 ∴謎漫々覇.滞e証覇ヰ。か細「か−l叶渾中聖母J識薄絹「禅譲 憫バ「什棚ミ(=l相聞闇)削l!削M錮帽瀞蒜朋銅摘憫.寸評 帝声eナ亡−・ほ沌牒瞞㍍い牒偶.せ落湘叶票匪牒朋隕楢川ユバり 開3諷=>出道鮮相対鮎一削順路悩胤 繚頴持埼賦中海頼政叫憫締滑幕藩 置場諌梅革袴葛藤如n陥劃㊥碑窃題辞浄輔滞 空帰諦常備辞清閑恕聴筒浄諦観至国頭醇詩 碑悶押掛寄掛昂壱姉辞印拝お帝劇偏屈塵倒 さ笥認堆ヰ浩海苺湘室脚淳勒紗囲覇帥軋滞孫 厨淵詳霞馳楢Ill組諒神都翠碍衝綱彗苓遜等諦n 泣紳籾帥匡諦桓菜鴇確匡閥掛泣弾雨辞叫l津耶琶汁 帥 匪 ヰ 踪 遜 Il闇 鶉郡部嘲

(4)

分匝共と頂租の成研教宗 ▲■

鈴 木 宗 忠

予托維水宗教嬰在瀾立の撃として組械守ろには如川ドしたらば上からうかと云ふ=と

l二枕て断えす苦心Lて爪た。共著心の棟木と†る桝ほ、宗秋型みば宗教史と︰邪欲管撃と▲

り分離し、之む和立の 山 科撃とし㍗いと云ふ鮎に存し圭。此聞に宗教督撃に陶†る飛光ろ 着帯九こ洞み、宗教史に閲†る常習も誼み、又宗教心理事ねも殖や此やと薄塩L、時にl工仲秋に 閲†る乱立の研究九∵も尤L、其他彿敬慕せ敬等の祝典をば必要と恩ふ隈り原溝光り押帝尤 りに兢て二∴伐り詔んで、やつと脱げにカ針がつ い:㌔ それほ∴材料ね歴虹に探り、説明力沈む 心理撃と恥骨撃とに探ると嘉ふのてぁるり そ=で此力針に≠耶きこ三の論文わ公lこした. 桝が北ハ捜特lこ宗軟督撃なやって見たいと云ふ折から酉絹珊洩畢派の督撃む糾べ、基文化科 現に封†ろ忠見に付き符り、鼓lこ宗救畢のカ針な一班†るの必要在焙じた。そ=で基一端

宗教研究り根嫁と其儀介

− ノ ー

(5)

兢五節 聡二軒 先研歌謡 ねげ﹁や埋骨﹂l二於て﹁人文科事としての宗教撃と超して捕試し㌔ 此講演みば直に有壁雑 夢ド杏くつLリで二寸其的中ね献ぜて札、引撹斗・甚−→考でぁつたが面白く行か互いので蓬 に之九二叩止L、Ⅴソカートの文化科現に封†る批評と予の宗教撃に閲†る意見ほ、別々﹁∵繁 華†ろのが沈潜でぁると考へ、先づ後者む過=r宗教研究令﹂の大骨で述べる串1ニし㌔ 此論 文圧かの錘筑か基礎にし㍗︼bのでぁる。後者け何れ∴基山拍・に﹁督撃細野−こ範ぜるつもりであ ろ。北も千代此滋見の一現在ば、過般﹁チ戊宗故畢以諭﹂り序文に遁べて置い㍗が、祇盛ではチ ーレの畢誠む批評†るのが童でぁつt∵から卓白月の〓芯軋∵ト和して托、唯基結論のみを尊け て狂い㌔ 比論文lI之ね委Lくし㌣︼bのt⊂L見る=とが山水やう。研究者紙皿の十分光 ろ批評ね噺ひたいり

初めに題意を述べて置く。 串間には一般に対象と方法とがあもが、些哀が客鵬的確饗樵な纏って屠るものであつて、 初めて臓密な窓妹の学問と糾す㌢Jとが出水やう。宗教研究も準問たることを要求するには、 基対象と其方扶とが客観的碓野性を邦たなくてはなら氾。然らば㌫敬研究の判象と方法とは如 何にして客観的碓賓性を持つことが揖凍るか。之を詭誠諭の上から研究して.宗敦研究智論談 ′I ■■■■■■・■・■・■■

(6)

分院基 と 収税の究机敬;;:

的に瞑介しやうと云ふのが、此小論文のま意である。

宗教研究の対象は、云ふまでもたく、宗致である。故に吾人の第]の岡泡は、㌫歓は撃間の

対象として、如何にして客肌的確賓性を狩るかと云ふことでわ乙。若し之を論理的に基礎つけ

ることが揖凍ないならば、宗教研究は基板抵を縛ないことになろ。宗敢の客規恍に闘する問題

は、祝融御上の立脚を異にするに従って色々に解押せられ符ると思ふのであるが、吾人は錠で

は吾人り是認する観念論の立脚地に立って鮎澤しやうと思ふ。

観念論の立脚地から見ると、試改も、他の重岡の判象と等しく、共に構成せられるい・である。

眈に構成せられると云ふ以上は、構成する所のま馳を臓足するは云ネまでもない。主観に勅て

は、吾人ほ仰人的ま槻と超偶人的ま馳とを立てろことが出凍ろ。個人的ま軌は硯賓に存在するも

のであるが、超偶人酌ま観は非現質的のものである。これはカントの桝珊⋮忠織一般である。そ

こで構成せられるもりが偶人的ま翫に依るときは.それは仙人的.韮軌的のものであつて、客観

的の碓野性を抑つて居るとは云へない。超個人的ま鶴に依って構成せられろものであつて、初

lヽ 一■−・・・−・−・・一 l′ ■■■−■■■■■■■■■■■■

(7)

蚊五節 怨二郎 究研教宗 めて客観性を持つと云ふことが出凍る。故に宗教が客観性を持つならば、それは超個人的ヰ軌 に依って構成せられなくてはならぬ。かくの如く考へて凍ると、宗教が如何にして客観性を得 るかと云ふ問題は、それが如何にして超偶人的ま軌に放って柿成せられるかと云ふことであ る。客観性の問題は、つまり構成の問駕である。 然らば宗教は如何にして構成せられるかと云ふに、吾人の考では、基構成の論理的過程は、 ヽヽ 他の串間の封象と異る所はない。宗敦ほ他の笹岡の封象と等しく、現顆に存在Lて居るもので ヽヽ ある。存在と云ふ語が通常でないならば.現賓に知覚せられて屠るものと云ってもよい。か∼ る所から、吾人は串間の封象を一般に現賓界と椰する。其故に宗故の柿成に関する問題は、現 賓界の構成に閲する開腹であつて、現賓界の構成問蔑を離れて、特別に宗教の構成問趨を諭す るの必要はなからうと思ふ。 併し、宗敢は現賓に存在して居るとは云ふものヽ、所謂現賓非とは伶程建って居るではない かと云ふ疑が起る。そこで現賓界は如何なるものであるか。現賓に存在する宗政は、一の現賓 界であるには蓮ひないが、これは所謂現賓界と如何なる関係を持って捕るか。吾人は宗敢の構 成を諭する前に、此等の問題を解くの必要がある。 一 々 ー

(8)

分院非 と 城根の究研軟こ;く

現饗界は一方から見る、こ、連宿して居って、阿藤を捉へても、断種を股見することは出水ぬ

けれども、他方から見ると、現嘗界の何れの部分も、常互に基性質を異にし、同栗のものぬ一つ

もない。このことは、少しく考察すると、誰にでも分ることであらうと思ふが、かう云ふ研か

ら現野外蜜豆而に精分することが田津る.即ち一は其蓮績的方南であつて、他り一は基典男

的方面である。

此障分は一寸見ると、畢に常識に基いたもの∼やうに思はれるが、併しもつと深い根嫁がな

いだらうか。吾人の考に依れば、これは偶人的ま翫に裁くものであると恕ふ。即ち個人的ま軌

が、自己を離れて現賓界な見るときには、蓮積憤となつて現はれ、自己に榊係させて見るとき

には、典肇慨となつて現はれるのではなからうか。自己を離れて見ると、難物にしても、過程

にしても、其特色は現はれて水ない、他の串物にも、他の過程にも、基通するやう㍍方面ばかりが

現はれて凍る。そこで串物や過程は、ま軌には関係なく其自身で〃在するが如くに思はれる。

故に之を日食と名ける。之に反して、自己に㈲係させで見ると.成る輯物や或る過程の特色の ∵ 5 ・一−−

(9)

兢五節 聡二節 究研歓宗 みが現はれて凍て、他の事物や過程に共通な方面は現はれて凍ない。そこで式事物や基過程は 恰もま観が之を作−犯し柁る如き規を呈する。故に之を文化と名ける。 自然も文化も.個人的主観の見た現磨界であつて、此ま観を胱れては、臓密に之を芯別する ことが出水ぬと思ふ。一はま観が之を他のも、りとして鬼、一は之を自己のものとして見る研か ら、此廣別が生するのである。換言了れば低位の附若しないものが自然で、憎佑の附着したも のが文化である。何と㍍れば、憤伍はま現に附属しで生するからである。 かくの如くに、吾人が規整界を自然と文化とに協分すれば、宗教が此二者の中で文化に威す ることば、多く諭するの必婁はなからう。何となれば、宗故に惜鹿の附着せることは、殆んど自 明であるからであり㌔けれども文化は、畢に宗故のみではなくて、外にも樺山に存する。故に 宗教は如何なる文化であるか■貨別にしなくては、現蜜界に於ける小ポ致の位置に胸する問塩を解 辞したとは云へない。そこで、吾人は現賓界の性質から、文化の性貿へ藩葡の歩を進めやう と思ふ。 四 い−一−−− (; −一一−−

(10)

分院共 と 按根の究研歓宗

文化の性肇を吟味するには、之に附着せる低位を軒先すれば充分である。即ち債伍の分類は

やがて文化の分類である。

惰位の分蔚に就ては、カントが諭知的憤位、美的慣佑、倫理的慣備、宗教的偶倍の四椰頬を区

分してから−今日に烹るよで、殆んど通説となつて居るやうである。けれども此四分説は、心

的要素に閲する心珊準上の所謂三分詭に基いたものであるから、三分訟の倒れ化る今日に於て

は、眈に共根櫨な失ったものと云はなくてはならぬ。たとひ此根嫁が存するにしても、それは

心理的根披であつて論理的根嫁ではないから、学問上分類の標準としては確賓なものでない。

そこで、吾人はリッカートの詑に裁き、諭経と事賢との両方面から、惜佗の分緬を試みやう。

惜低の概念には、主観と相槌の慣現せる現賓界即ち基客悔とを汲犯する。先.つま軌の客観に

封する雄股を概略にすると、惜位は静観的伯伯と活物的愕位とに分頻せられる。静観的惜碕と

は、達観が客観に対して、箪に之を翫霜の封象とするもので、論理的倍位や蓑的侶位は之に属

する。活制的僧惰とは、ま軌が客観に対して班際的に働きかけるもので、倫理的惜位は之に威す

る。けれども此分類だけでは、吾人の問題とする宗教的僧構の如きは、包容せられないし、文

句容せられたもの、中でも、二仰の侶伯が、一椰類の中に入れられて居る如きものらある。そ

ー叫 7 −

(11)

胱五第 啓二節 究研教完ミ こで此分類法に、ま軌が客観に於て憤撤を賓現する傾向を棟準とする分類法を加味して、更に 静軌的侶偵及び活動的倍位を萱二種妙に随分し、公憤で六種の何位系統を作る。 ま翫の饗現織向は、論理的に之を考へれば、三階段とする挙が出水るハ.客観の金憾を封象と して其傾向が完成しない・ものと、部分を対象として完成するものと、金鰭を対象として完成す るものとがそれである。此三階段は前に分類した各二郁茹の僧他にあてはめる串が出凍るので あるが、先づ静観的慣俄に就て見るに、北ハ第一段は智的侶伍の如きが基質例である。此侶伍の 静観的であることば、客観を観察の対象とするので明であるが、基客観は重態に捗ら、之を知 卜証すことは出凍ないのであるから、未完成的仝他に牌する低位と云はなくではならの。静観 的慣位の第二段は、美的憤他の如きは基貨例で、此低位は蓑的惰他と等しく静観ではあるが、基 対象とする客観は部分であつて、ま軌の賓現僻向は容易に甚終局に達することが出凍るのであ るから、完成的部分に㈲する低位と云はなくではならね。押脱的他伍の亜高階段に屈するもの は宗教的憤伍であるが、これは活動的侶位の最高階段に属するものと一緒にして説くのが便利 であるから、後姐はしにし、基前に活動的惜偲に就て考へると、基筋一階段は、倫理的慨伍の 如きが基賓例である。此億依は客観に射し野際的に働きかけるものであるから、活動的慣位に ∵ ぶ +

(12)

分院基 と 媒根の兜研敢宗

屈することは明であるが、基客観たる倫理的宇宙ほ無亜麻であつて、主観の僻向は容易に賓現

せられないから、智的倍伍と等しく、未完成的仝惜に関する侶僻と云はなくてはぢらぬ。活勒

的僧侶の第二段は、完成的部分に㈱する憤位で、人格の現在活動に㈲する憤伍、例へば友情の

如き愛情の如きがそれである。最後に審現俄向り節三階段に属する低位は、静観的のものも活

勒的のものも共に前三段の僧侶を組合せる如きもので、論理的には之を考へることが出来るけ

れども、兆して串賓に存するやは疑はしい。串饗に存する惜催としては、宗数的慨砥が最も之

に近い。リッカートは俳敦の紳秘的汎紳敢が静観的叔高階段の僧位の賓例であゎ、韮暦数が括

勒的最高階段の個位の賓例であると言つで居るけれども.吾人ほ逓瞥故に押動的方面の存する

ことを忍むると共に、俳故にも活動的方南の存すること恕温める。何れの宗数を見ても、静観

的方南もあると共に活動的方南もある。勿論宗敢に依っては、此二方南の中何れかい多く存し

何れかト少く存するけれども、筍も凝逢せる宗故には、些妄面が必ずあると息ふ。

要するに論理と串賓との両方面から考へると、侶他には五柵頻ある。故に文化も、之に相施

する五椰類に分類することが出来やうじ而して文化である宗教は、所謂第三階段の個位を有す

る鮎に於ても亦其有する侶位が静観的であると共に、活動的であると云ふ郡に於ても、他の文

ー 〃 −

(13)

粟立第 巷二郎 究椚秋宗 人或は云ふ、崇敬が文化に撃9ると云ふには異論はないけれども、自然と文化と↓三にして 同様に基構成を論じやうとするのは、果して正常であらうかとJ

吾人は此疑問を漁期して屠る。現浄罪と恵へば、之・ピ自然と同一に見る人が多か▲らう。カン

トの如きも、自然のみを以て串間の対象′∴圧し、之を現象界と呼んで居るごポ敢の威する文化の

如きほ、披から見ると、自然とは全く其性質哲異にし、串間の対象とは写らないやうである。

けれども奇人から見れば、かくり如き烹鬼は黒山のないことゝ恩ふ。

串間の封象は、現蟹に知螢せられたものとしては、整然たる統一胎である。現蜜に存在する

と云ふ研から、若くは現蜜に知凝せられると云ふ朗から、吾人は之を現既界と榊する。︵現賓界

は現象界とは注ふ。現象とか雷在とか云ふ語は、串間上之を用ふるには、除程注意しぢくては

ならぬ。︶これは基旛では白然とか文化とか名けらるべきものではない。之な自然とか文化とか

名けるのは、前にも遇べた如く、現寒ま翫に射するからである。此ま搬を離れては、自然と文

化に薫るのである。

ーーー J(フ・−・…

(14)

分院基 と 捷枚の兜桝秋読

現審界の構成に閲する問題は、認識論の根本岡題の一であるから、容易に決定的の講諭をな

すことは出水ないが、吾人は庄に宗数の構成を諭する根嬢として、落人の研究しっ∼ある未定

説を運べて置く。

吾人の埋僻する所に伐れば、税源界は超偶人的重税の輿へる形式に依りて、基内容を並理す

る朗から桃成せられる。内容は基自身では如何ともす云ことが招来ない。形式む待って鳩めて

整理せられるのである。そこで現寄掛を構成す旦祈り形式は、吾人ほ之を範噂と糾する。

㌻て範疇に依って現賓界が如何にして構成せられるかと云ふに、先づ桝輿石堰bellll長の

成に関する問題である。此ことは勿論宗故に裁ても典る所はない。

償現蟄界から錬るのであるが故に∵個々の里間の対象の構成に閲する問題は、結局呪寒界の構

ても.又文化にしても、吾人は先づ北ハ山つて凍る所を尋ねなくてはならぬ。而して自然も文化も

親してそうであるならば、嘩問の対象が如何にして構成せられるかを諭すろには、自然にし

化との別は北ハ忠魂を失ふ。

ーーー ニ‖ −−

(15)

献立郊 怨二郎 究研改宗 範時に依bて、内容が整理せられ、個々の串賓が知燈せられる。姫現せられる内容は、個々のも

のであるけれども、整理する所如の範噂は、個々の内容の何れにも㈲係するが故に、其限りに於

て一般的であると云ふことが出水る。かくの如く所奥の範疇は、一般的のものであるから、個

偶の内容に閥係して、個々の知兜を成立せしめることが出水るのである。けれども個々の知覚

は唯知螢せられたと云ふばか♭では、相もなければ形もなく、重く離れぐl−のものである。技に 時間︵Neit︶の範鴫が働きかけると、抱起と云ふことが起り、審問︵−㌻l凰の範鴫が働きかけ ると、延長と云ふことが起る。捜蓮が生じ延長が珪すると、離れぐllの個々の知聡が連結せら

れる。かくして連結せられた知覚に対しては、吾人は蒐な考へることは揖寒るけれども、菓を

考へることは出凍ない。故にこれだけでは、拳問の対象である現㌍界は未だ成立したとは云ふ

ことが出水ぬ。何となれば現賓界と云へば、吾人は之に封して蒐を考へると共に叉肇ぉも考へ

るからである。

然らば址結せられたる知魔は、如何にして栗を焦するかと云ふに、醗性︵E㌫蒜且 の範噂 と因果︵Rau賢哲︶の範噂に依るのである。膿性の範将に依りて、知覚は各自に恥有な性肇を 和することが出凍る。特有な性貿を有することに嵩ると.始めて知覚と知覚との問に暗別が壁 − Jク ー

(16)

分院其 と 娘根の究研歌謡 かくの如く、現賓界は、超個人的ま翫に依って作られるものであるが故に、個人的ではなく して遊個人的である、ま搬的ではなくして、客搬的確賓性を持って居る。従って現饗界の略升 である自然も、文化も、共に啓開の対象として、客観的であると云ふことが出水る。胱に文化が 自然と共に、客如的であるとすれば、其一つである宗教が、宗敢桝兜の対象として、又客観的 であることは、勿紛である。 に甲の知魔の特典となるのである。 は出水ない、此範噂に依りて、叩の知璧は必然的に乙の知魔の原因となり・、乙の知魔は必然的 る。因果の範噂がなければ.知覚は偶然的に関係することは出水ても.必然的に榊係すること だらう。そこで聯紡が必婆になつて凍る。因果の範噂は、知魔の嘲絡哲可能ならしめるのであ やる。併し賦別が存するのみでは、知覚が各日己を韮張し、基紙某は宜に孤立することになる 現賓界の構成は、之考簡畢に云ふと所輿の範疇に依って、基素材が作られ、時間及び客間の 範時に依って其最が作られ、鰭性及び因果り範噂に依つて基質が作られ、構成が全部完成する のである。 ー Jg −−

(17)

罰五節 敬二郵 究研改宗 吾人は以上で宗教析究の対象に就て論じたか・・り、進で此封象を概念に構成する方法に㈲して 述べようと思ふ。対象に閲してに、北ハ客観性な諭するゎに、宗放と他の学問の封象、直ポ故を含 む文化と、之を合まない自然と才一つにした一故に韓糊の封簸である現賛界の上か.ら研究し㍍ のであるが、カ法に榊しては、少しく行き方な異にし、宗致を含む文化の認識と之を含まない 自然の認識と哲分けて、畢に文化の認識上から、宗教研究の方法と基客親性とな論じたい。 何れの封象も、眈に述べた如く、一般に超個人的ま机に㈲するものであるが、之に反して、 方法は常個人的ま翫に踊するものである。如何なる概念にしても、之を構成する詫蜘は、督個 人的である。超榊人的ま翫が概念を構成し椙るとは、如何にしても之−笠考へろことが出水ない。 而して超個人的ま軌は唯一撃一のものであるペきが故に、之に依って梢成せられる現矩界が、 二つもあるとは考へられない。故に吾人が串間の封象を諭ヰる際に、ウ盲現賓界に蹄一せしめ、 現暦外の上から、基客観鮎を研究するのは、常盤と云はだくてはならぬ。然るに現無界に置別 一でつけるのは個人的ま軌であるじ偶人的ま敷は、現賓に克つ・も存するが故に、現賓界な概念に収 一− り −

(18)

分院基 と 梯根の究析教宗 入れる際に、自ら此等のま脱に其遮音方面と各主観に特殊な方面とを踵別するやうにはる。尤 も吾人は前に税葦界に択て、既に自然と文化との臨別のあることを述べた。併し此格別は、基 際にも述べた如く、仰人的ま翫に裁くものであるが故に、蜜を云へば、対象上から鬼佗歯別で はなくて、方法上から見た駄別である。即ち個人的ま軌に共通な方面お自然と名け、之に特殊 な方面を文化と名けたのである。但し現蟹界にも既に連覇的方面と典貿的方面とがあつて、前 者は個人的主観に基油なカ甫に相常し、後輩は之に特殊な方面に和恰するのであるが、此囁別ほ 方法諭を離れては意味ななさない。連槽的方面が自然となら、界栗的方面が文化となつて、始 めて意味む捗って謀るのである。故に吾人が串間の方法む諭する際には、白然の認詞と文化の 詭職とを拡別し、若し基準問が自然に関する者ならば、自然の認識の土から、叉基が文化に㈲ する串間ならば、文化の認識の上から、其客机性な給するのが通常で有らう。前に票数研究の 対象む闊はば好一的に論じたる吾人が、技で其方法を桝兜するのに、祁ほー借分的の態皮に揖 づるのは、重く如上の理由に逝くのである。 吾人が宗敢研究の方法の客剛性を諭するにつき、先づ方法其物から述べると、宗教は前に去っ た如く、自然ではなくして文化であるが故に、宗教研究が自然の認識ではなくて、文化の認識 − Jう ー

(19)

親玉節 怨二折 究研軟宗 であることは、云ふ進もない。けれども既に説諭と云ふ以上、宗教削先の属する文化の認識も 何れかの鮎に於て、自然の認識と共通な研がなくてはならね。然らば此共通な鮎は何れに存す るかと云ふに、現野外を概念に取入れることが、即ちそれである。 然るに異栗的連絨惟である現蜜界は、異質的方面から云っても、無限に典男であ♭、又連縛的 方南から云っても、無限に通庸して居るが故に、個人的ま翫は之を基櫨に概念に取入れること は出凍ぬ。故に若し吾人が飽迄も認識論上の所謂模朱詑をま張するならば、認識ぉ餅合するよ り外に致方はない。之に反して、認識を救はうと恩へば、模架設を拾てなくてはならぬ。吾人 は今此十字術輯に立って、勿論後者の立場を庇るのである。そこで認繊が模焉でないとすれば、 それは現賓外の墟池でなくてはならぬ。何となれば此場合に於て、模範と麺造とは互に矛盾対 立の摘係を有するからである。即ち寵識は、現賓界を基億に収入れるのではなくて、之を造♭捷 へるのである。造♭捷へると云ふ以上は、何か標準お姿するのは勿論である。若し標準がなけ れば、韓造は出水ない。たとひ建造が出来たにしても、か∼る建造は任意的のもので、之に認 識の名を付けることは出凍ぬ。既に棟準があるとすれば現貨界が此嘩準に合するものと合せざ るものとに別れて氷るのは常然である。而して棟準に合するものは木葉的なものとして概念に ーーー・J6 −

(20)

分院其 と 漣棟¢光村敬宗

収入れられ、合せぎるものは非本栗的なものとして切捻られることになるのであるから、一つ

の棟準では重職の現塞界を概念に取入れることは出味ない。故に認識の棟準哲設定するとする

も、一つでは現貨界把捉の目的を達することは出離ね。此棟準は少くとも二つは必要である。

棟聯が二っあれば、一方では非本質的なものとして切治られたものが、他方では本貿的なもの

として収入られることにパ捗る。従って認識の棟池は、互に相拒否することを必要とする。かゝ

る性栗は認識の棟準の教室ぢに制限するのである。何となれば、棟準に二つなければ粕拒否

することが出華ないと北ハに、二つ以上あつても、亦亙に相拒否することが出水ないからである。

かくの如く考へて凍ると、現賓界の礎造を以て認識の本領とすることは、結局認識をば全然矛

盾対立の騙係に於て二大別することになるのである。

然らば認識の披革は如何にして設定せられるかと云ふに、吾人は之を韻融の枕木たる個八的

ま搬の上から定めなくてはならぬ。個人的主観は現欝に幾つも存するが故に、差箇♭考へられ

るのは、其れが現暦邪を慶枇杷する際に、現寛界の■中で、各ま軌に共油なカ絹を械畔とすること

及び各ま軌に僻殊な方面一曾棟準とすることである。北ハ沌な方面と特殊な方南とは、亙に矛盾対

立の閥係を有するが故に、此二つを梯単にすれば、認識を巌元にこ大別することが出水る。

− J7‘−

(21)

翫五節 懸二第 究析歌謡 けれども進んで考へるのに、各ま軌に共通な方面を標準として現賓界を把捉すれば、達観相 互の閥に自ら連絡が付くことになるが故に、現賓界の方から見ると、かゝる認識に照された規 畢界は.非運絡的方面に潜るのである。之に反して、各室翫に特殊な方面を梗準とすれば、壬 軌相互の間には雄紡が殆んどつか氾ことになるから、祝賀外の方から見ると、かくして把捉せ られた現賓界ほ、基異史的方面に普るのである。故に、苛ま翫に共通な方面を棟準とすること は、現賓界の逃惑的方面を梗準とすることであり、各ま軌に特殊な方南を瞭準とすることば、 現賓界の異質的方面を棟準とすることである。 吏に考へ右のに、ま軌から見ると共通な方面、現賓界から見ると遵繚的方面を認識の梗準に すれば、か∼る認潮には、自ら個人的ま粗の距跡が現はれて凍ない。何となれば、共通であれ ばぁるほど連績的であれにあるほど、各個のま観は其影を鼓するからである。故にかゝる場合 、現野外から に於ては、ま軌から見ると、ま軌に関係させないで税質界を観察することに打アり 見ると、かゝる認識に照された現貨界は、重くま翫に㈲係なく、自然に生滅起伏して屠る附加 くに思はれる。そこでか∼る現賓界な自然と名け、か∼る説諭を自然の認識、若くはま翫に㈱ 係せぎる認識と耕するのである。之に反して、ま粗から見ると聴殊な方面、現賓界から見ると ー .J∫ −一−

(22)

分院基 と1は根の究研秋;;三 典貿的方面を認識の標準にすれば、が∼る認識は若しく個人的ま侃の面影む持って居る。何と かぃの如く、宗数研究の屈する文化の訓腑識は、概念を構成すると云ふ鮎に於ては、自然の籠 になり、睨欝界から見ると、かくして収入れられたる現賓界は、ま脱が全 である。故にかゝる場合に於てほ、ま軌から見ると、ま翫に闘係させて現蜜邪を把麗すること なれば特殊であればあるほど、典貿であればあるほど、各個のま翫は基形を現はして凍るから く之を作り出したる 如き軌を虫する。そこでか∼る現賓邪を文化と名け、か∼る認識を文化の認識、若くはま翫に 閑係する認識と耕するのである。 識と均しいのであるが、基瞭準な異にする麒から、此と彼とは、井桁の関係に於て相対宜して 居るのでぁる。紋は共通的通約的方面、即ち自然を標準にするが、此は特殊的異質的方面、即 ち文化智梓準にする。自然を標準にする土石ふのは、概念を桝成する際に、仙人的ま翫に関係 させないことであゎ、文化を松単にすると云ふのは、之に胸係させることである。第一、偶人 的ま翫に踊係させないと云ふの′は、概念構成の標準営ま翫を練れた研に求めることである。重 税を即れた桝に、か∼る標準が存するだらうか。ま軌に㈲係なく珪油壷伏する自然界には、日 らを維持して行くものがあるやうに恩ほれる。吾人は此を法則と名ける。故に新しま鶴を離れ JJJ

(23)

兢五節 堰二節 究研敬宗 た所に、概念構成の棟串があるとすれば、其は法則の根本である法則性でな︵てはならぬ。次

に個人的ま軌に閤係させると云ふのは、概念構成の標準を主観の中に求めることであるり主観

の中に存するものは、ま翫t封して忠義を有するもの、即ち僧孤である。憶偵は文化に附肴し

て、常に基枕軸となつて居る。自然と文化とが相対立する如′、、法則性と低位とは相対立する。

故に佃任官棟準にする文化の訟識は、法則を棟準にする自然の卸仙誠に対して、全く矛爪的に粕

封立することになるのである。

宗教桝究は文化の認識であるが故に、法則性と対立する億低を以て、基概念を構成する標準

にしなくてはならね。即ち宗数的憤低を棟準にして、宗歓の概念哲構成するのである。故に宗

敢研究に於ては、宗教的僧侶に合するものは、本貿的なものとして取入れられるが、之に合せ

ぎるものは、非本栗的なものとして切捨てられるのである。此際に研究者の耽軸とな・り目的と

なるものは、宗数的低位の外には、何物も介在することを許さね。

然るに他には宗敦研究に於て.宗故に胤する法則を擬見することを以て基目的とするものが

少くない。例へば宗致研究に於ける歴史邸痕言語畢派の人々が、宗数戟展の法則を凝見しょう

と済むるが如きも之に兢寸ると云ってよからう。㌫敬は聡施する。けれども此聡屁は、宗敬的

】−− ⊥和 一−

(24)

分・踪∴基 と 鳩根の究研敬㌫ 惰侶を鹿正ては、之を考へることが出凍ぬ。故に此間に法則と云ふ概念を抑入寸ることは、此 概念を十分に理解せざるのに由るのでは㍍からうか。又心埋軍派︵所謂人類蝉派から出でたと も謂ふペき赴骨心埋単振、比放心理拳派をも含む︶の人々が、心理邸的に宗教を研究する如き も之に属すると去ってよがLう。尤も彼等の中には、嘉敢を謂はい迫具に仕って、即ち智例と して、心迎の法則訳くは祉骨の決別を桝究しょうとするものがある。前者の好消例はダントで 後者の好通例はデュルケムである。故に彼等の宗教研究は基手段であつて、英日的は心理邸、 若くは軋令邸の研究である。従って彼等の耶究は、心雄琴乗くは軌骨申の研究としては意鶉あ るものであらうけれども、㌫教師発としては、唯恕碍となるに過ぎない。然るに瑞米利加若く は彿蘭両の宗教心理単著は、心理撃が心理の法則を敬鬼する如く、需敬の心理撃的研究に依っ て宗敢の法則を凝見しょうと務めて居る。彼等の宗教研究ほ、ブントやデュルケムの如く、手段 ではなくして目的である。かくの如き研究方法は、㌫教師兜の槽準が倍孤に存することを知ら ないもの∼ま窮する所であつで、吾人は之に華成することは揖凍ぬ。彼等の研究が今〓に於て 成功しないのも、叉将凍に於ても到底成功するの見込がないのも、まとして研究方法の萌れる ものに兆くのではなからうか。 ーー ご/−一 叫

(25)

兢五革 啓二節 究研歓宗 次に宗教粛究の方法の客観性に裁て諭すると、眈に宗教研究が個人的ま翫の関係する文化の 認識であるとすれば、其方法に、果して客観性が存するだらうかと云ふことが間過となつて凍 る。自然認識の原理とする法則性は、個人的ま軌を榔れた朗に存するが故に、各個のま翫に共 通であると見ることが出来る。かゝる鮎から考へると、自然認識の方法には、客軌性があると 云ふことが山姥やう。然るに文化認識の原理とする慣伍は、個人的ま翫を離れては.其意味を なさぬ。僧催は各個の重翫に特殊なものである。か∼る鮎から考へると、文化認識は個人的な ものでありま軌的なものであつて、其方法に客観性が存するとは思はれない。成桂一寸考へる と、文化寵識には、自然認識に比較すると、其方法に客観性がないやうに思はれる。 けれども認識の原理が各個の主観に共通であると特殊であるとの理由に基いて、其方法に客 観性の存すると否とを諭するのは通常でたい。法州が各個のま観に共通であると云ふのは、個人 的ま観より見れば、之を任意に左右することが出水ないと云ふ怒妹に外なら氾。不任意である から、我のみが之な認めるのではなくして、他のま軌も我と同様に、之を認めなくてはならな _ しIつ ッ_ ∼ ′J

(26)

分院其 と 椒相の兜研歌謡

いだらう。併し凡でのま軌が確既に之を認めることは、不任澄と云ふ理由から之お諭記するこ

とは出水ぬ。故に法則の客観性は、他の方面から之を諭記するの必要がある。かくり如く考へ

ると、法則が各ま搬に共通であることは、文化視識の躍理である偵俄に比按して、自然認識の

方法の客搬性を基礎づけるのに、有利咋状態に在云とは思はれぬ。

次に文化認識の方法に就て考へるに、基原理である侶佑は、各式俄に特殊なものではあるけ

れども.必ゃしも任意的なものであるとほ謂へない。勿論、個何には任意的なのもあるけれど

も、亦不任窓的なものもある。低位には、我に悪報あると共に、凡てのま槻にも意義あるべき

ものであると云ふ要求の伴って居るものがある。此要求が、心理的でなくして論理的であると

き、個人的でなくして超個人的であるときに、之一で件へる個伯が不任忠的年機構であると謂ふ

のである。任意的年債疏はま翫的であるけれども、不任意的笹梢仇は客観的である。かゝる倍

位は、事密約には各偶の主観に榔殊であるけれども、常食的には各個のま観に共池であると開

ふことが出凍やう。僧侶が客翫的であるとは、那智的に云ふのではなくして、常承的に云ふの

である。客観性は常満的にのみ諭することは出水るけれども、叫墨的には諭することが出水な

いと云ふのは、畢に偶低にあてはまるのみでなく、法則にもあてはまる。前にも言った如く、

−−−− ゾβ・−−一

(27)

携五箔 奄二弟 究研軟宗

法則の客観性は、各ま搬に共通であると云ふやうな串賓の方面からは、之を諭することが出凍

ない。之を給するには、憤位と等しく、濫満的に論じなぐてはならぬ。常鰯的に諭すれば、法

則の不任意的屯所に、基客観性を基礎づけることが揖凍る。即

ち個人的ま観が超個人的主観に

聞係する折からして、法則に不任意的な性貿が生するのである。而して法則の客観性を諭琵す

ることは、自然寵識の方法の客観性を論議することである如くに、偶種に客観性があると云ふ

ことは、文化認識の方法に客観性のあると云ふことである。

かくの如く考へると、宗教研究の威する文化認識の方法の客観性七基礎つけることは、自然

認識に比較して、少しも不利の妖騰に在るとは謂へない。共に個人的ま軌が超個人的主観に関

係する折からして、雷名的に之を諭癒する誓rある。吾人は前に宗教椚先の封象の客軌性哲論

じたる際にも、其客観性の根披は超個人的ま翫に存することむ述べたが、今技で其方法の客観

性を冷するに就ても、矢張b超個人的ま軌に依属するのである。即ち紋に於ては、其対象は超

個人的ま軌の構成する桝であるが故に、客観性々有することが揖凍るのであるが、此に於ては

認識ま翫が概念を構成するに際し、避個人的産地に関係するが故に、方法に客如性を生するの

である。超個人的ま翫は、心理的のものではなくして論理的のものである、内容を有するもの

ー一 弘i−−−−

(28)

分牒友邦 と 漠根の究研軟宗

ではなくして、畢に形式的なものである。吾人は之を暇冗しなくては、難問の客軌性を荘するこ

とは出水ぬ。之を否定すれば、懐疑ま鶉に逃れるか、然らざれば胞無ま我に陥るの外はない。

これ迄の所で、吾人は宗放研究の客搬性ぉば、封象と方法とり両方面に捗って、大器之を論

じたつもbであるから、最後に基囁分に就て論じやうと恩ふ。

需敦研究は文化の認識であつて、基対象である宗歓は、自然と共に現楽界恕形成する文化の

一であることは、吾人の前に述べた所であるが、吾人ほ之を根妹として㌫数研究の借分を敵い

て行かうと思ふ。自然には惜硫はないが、文化には憶撤が附肴し三宿る。故に睨㌍界であると

云ふ瓢から見れば、文化は自然と同﹂であぁが、慣偲が附著して居ると云ふ鮎から見れば、文

化は自然と購って居る。尤も自然を認識する場合には、法則な経て惜備にー鋼係することは、前

に並べた通りであるが、自然其物に就て云へば、それは異に現翫であつて、慣備に関係はな

い。それ紋に籠潮ま脱が自然に対する似合と文化に対する場合とは、基結果に於て購って凍る

のは常然である。Fl然に対しては、里に睨賓の籠誠を得るに止って屠るのであ乙ふ1文化に封 −− ごJ了 一一一・−

(29)

批五節 巷二帯 究研改宗 しては、現賽の認識を得ると共に、低位の認識をも村るのである。現卸は存在であるが故に、 之を認識すると云ふのは、非分鼠を測哀し、基性肇を決定することである。然るに侶位は存在 ではなくして皆無である。故に之に就て分量を清し托わ、性貿■で論じた♭することは出水ぬ。 僧備を認識すると云ふのは、如何にしてそれが官許−1するかを論定することである。尤も低値 は一椰類には限らないのであるから、或る惰仇の環常性を諭繚する諦めには、吾人は先づ英僧 侶を限定しなくてはならぬ。排し憤伍を限嘉すると云ふのは、分施を測定したり、性質を決定 した♭するのではなくして、惜位が其衷現である現賓と如何に聞係するかを限定することであ る。吾人は弦で現耳の認癒着料率と榊し、低位の認識一で酋畢と祁し托い。由凍科挙と醤単との 別に就ては綿々の試論があるけれども、吾人はかくの如く協別してこりで、初めて比較的明瞭に 両者を幅別する準が出水ると共に、叉初めて営邸の職立性を註張することが出水ると思ふ。若 し現質の認識む科挙と弼し、憤位の認識を哲準と耕するのが不常でないとすれば、自然に閲し ては騨に科串が成立するのみであるけれども、文化に閲しては和琴と衝撃とが成立することに なる。従って自然哲学の如きは、常然成立することが出家ない繹である。尤も自然の離識は、 法則を経て低位に聞係する㌧であるから、之に就て常畢の成立することは勿論であるが、自然 ーー ーJ〔/

(30)

分院其 と 凍根の究研敬宗

の説諭は、撮早自然ではなくしで既に文化である。故にかゝる常世を自然再挙と解するのは通

常でない。これは所謂認識論︵若くは論理哲璧の範園に屈すべきものである。

かくの如く自然の寵識は、それが軍に現賓の詭誠である限りに於て、料率であるに過ぎない

けれども、文化の認識は、それが現寄の認識と侶位の認識とを包合するが故に、科串と衝撃とぉ

併有するものとすれば、文化の認識である宗致研究が、宗政科塑と宗致衝撃とに拓分せられるの

は、推理の常然である。併し一般に科挙と常申とが両立し得る如く、此両者も辟問としては狗

立に存在すべきものである。即ち宗教科畢が詫故哲申とは燭立に成立しなければならぬ如く、

宗致哲学も宗敬科学とは狗立に成立しなければならね。若し宗放科学の研究に宗敢西軍諺温向

する如きことあゎては、充分に宗敢の現賓を決定することは揖水柱いと同様に、若し宗故習辟

の研究に宗教科挙をも包含せしめやうとすれば、宗敢的低位の柵塘誓Q諭琵り如きは恐らくは

之な求むることは狙凍ないだらう。何となれば宗教料率と宗敵背申とは、其方法を異に寸ると

共に、従って共闘趨をも異にするからである。此鮎よb見て、吾人は㌫秋和申は肛に宗教暫準

の準備としてのみ軍閥的忠義な有すると室張するが如き論者に史成することは出水ぬ。

ー .′J7■ −−−−−→

(31)

孤立弟 怨二郊 究研秋景 宗敬啓撃は、常申の一高分として∵宗放と云ふ城塞に附者する低値を認識するものである・︶ 吾人は之を宗数的惜放と名ける。之を認識するとは、之を限定し、基生餌性を諭籠することで ある。

併しは前に

僧郁も云った如く、存在ではなくして常秀であるが故に、宗教的偶伯を限定する と云っても、基分見な測定したb、基性栗を決定したbすることは出寒ぬ。分最とか性貿とか 云ふ範噂ほ単に現貨に滴用せらるべきものであつて、之を僧侶に通用することは出家ぬ。然ら ば職位の限定とは如何なる意味であろかと云ふに、吾人の考に依れば、これは二方面から解郡 することが出凍る。即ち筑一、形式の方面から云へば、宗教的侶伍を限定するとは、此僧侶と 他の慣怖との系統を立てることであつて一基力法1しては、論理的方法を用ゐると共に、心理 的方法をも用ゐなくてはへ仕らぬ。第二、内容の方面から云へば、宗数的惜佗を限豆するとは、此 偶茹が基表現である現笠の宗致に対して、如何に閥係するかを規定することである。此場合に 基方法として論球的及び心理的の補方法を用うべきは、形式の場合に於けると同機である。

一〇

ーーーー,−・一 一ノ占、・−

(32)

分匝左基 と 鳩租の兜研敬宗

次に宗教的偲低の雀皆性を論定するとは、宗教的伯伍が果して笹常性を持って居るかどうか

と云ふ如き関越を諭する山ではh住い。暫堺の問闇となるペき憤伍の妥齢性は、吾人は之を承認 するのである。承認せられたる億位の安常性は.如何にして可能であるかを論証するのが、懲

堺の問怯である。此ことは宗致暫鍵に射しても、勿論あてはまる。宗教哲単に於ては仙の背邸

砿分に於けると等しく、偶他の安倍性を論説すべきものであるが、併し妥常性の問題は、限定の

問題とは典♭、之を取扱ふには、基性偏上まとして諭理的方法に由るペきものであもが故に、

基諭荘は、論理暫餌に於ける静狩と、大俄に於て一致することになるだらう。此ことは葡拙者

尊以外の他の暫拳随分に就ても、榊様に云ふことが出凍る。侶位を以て背邸の問題とし托哲単

著が、或は論理哲単に於ては、安富性の問題な論じて居るけれども.他の市坪糧分に於ては、 之を同機に論じて居らないのも︵例へばフィヒテの如き︶.或は他の衝撃精分に於で、論理衝撃

に於けるやうに、蛮骨性の問題を絆別に論じやうとしたが、基不可能なる恕認めて止め花のも

︵例へばカントの如き︶、恐らくは此理由に韮くのではなからうか。戊程酋邸植系の巾に於て、

宗敢常申智論じて行く場合には、聴別に宗数的憤植の妥常性智諭通す■るの必要はないかも知れ

ぬけれども、宗敢暫申を狗立に組織する場合には、限定の問題と同様に、妥協性の問題恕論じ

ー J〃 −一−−−−

(33)

兢五郎 怨二弟 究研教霜

なくてはならぬ。尤も前部に射しては、心理的及び論理的の南方法を併用し、後者に射しては、

まとして論理的方法を専用すべきは、其性質上常然のことである。

吾人が、技に心理的方法とか論理的方法とか云ふのは、緯喩的の意味で川うるのではなくし

て、リッカートの所謂先験的方法である。彼は暫撃的方法として先験心理的方法と先擬論理的

方法とを容げ、一般的に前者の弱郡を論じ、後者の長所を論じて居る。吾人は大憶に於て、此

所説に生成であるが、限定の問越智収扱ふ場合と妥皆性の問退を取次ふ場合とでは、此両方法

に軽重を付ける必要があると考へる。即ち心理的方法は、限定の問題を取扱ふ場合にほ大に韮

要であるけれども、安富性の問題哲取扱ふ場合には、それ程に重安ではない。併し何れの場合

に於ても基板砥ななすも山は、論理的方法である。

−岬 宗致科挙は、一の科撃として.宗数の現賓を決定するものであるけれども、それは文化科申

であるが故に、自然科挙とは典って居る。

自然科挙の対象とする自然は、前に云つに如く、各個のま批に共迫なもS一であるけれども、 _一− ∫()−−トーー

(34)

分院基 と 硯根の究椚敬宗

文化科畢の対象とする文化は、各個のま軌に特殊なものである。自然は各ま翫に共通なもので

あるが故に、ま軌に依って興る所はない。之に時間の範疇を入れて考へると、自然は或る時に

於ける成るま軌にも、叉他の時に於ける他のま搬にも共通に存するものである。即ち自然は幾

回も同様に起るものであつて、時間に依って鍵化する桝はない。而して吾人は時間に於ける縫

化を勝也と郡するが故に、自然科挙の対象は歴史を持たないと謂ふことが出水る。之に反して

文化ほ各ま軌に特殊なるものであるが故に、ま軌を異にするに従って、各々異るのである。之

に時間の範噂を入れて考へると、或る時に於ける或る主観の有する文化と、他の時に於ける他

のま軌の有する文化ししは、決して同一なものではない。即ち同一な文化は唯︼回遊るのみ︵Ps Einglige︶であつて、時間に依って鼻化する。故に.文化科申の対象は自然と典♭、何れも署

隆史を有するのである。

歴史のない臼怨は、之を認識するのに、任意の時に於け今日然を撰探し柑るが故に、自然科

挙は現在の郎賓を其対象として差支ないのであるが、隆史を督する文化は、之を韻謝するのに

時間に依って制限せられるが故に、文化科邸は現在の文化を基対象とすると共に、過去の文化

をも、基封象としなくてほなら氾。現在の文化も、過去の各時代に於ける文化も、共に一回鵜

ーーーー βノ ー

(35)

鵬五節 懸二節 究研改宗 的のもので、此瓢に於ては、同様に文化科撃の対象となるものであるけれども、対象としての 低位め土から云へば、現在の文化は、過去の各時代に於ける多くの文化イで一纏めにしたもりに 匹敵することが出水ると考へる。其理由な蓼げると、第二文化は一回超的のものであるけれ ども、或る時代に於ける文化は、英以前の時代に於ける文化を基礎にして作られる。故に現 在の文化は∵過去の凡ての時代に於ける文化を含蓄し佗もりでなければハ号らぬ。此鮎に於で、 現在の文化が、草間の封貌とし丁、過去の何れの時代に於ける文化よりも、多く吾人の輿炊を 惹くのは悠然である。第二、過去の文化に於ても、彼の時代のものは、前の蛸代のものを含蓄 する。故に或る一定の時代に於ける文化が、共時代の人々に収ト・ては、其以前の凡ての時代に 於ける文化よりも、大なる侶位を和するこ・とは、恰も現在の文化が、吾人に於けろ㈲係と同校 である。けれども、か1る文化も、吾人に取♭ては、それが彼の文化に如何なる基礎な由へたか と云ふ鋸に於て、学問的葦鶉を有するのに過ぎない。此ことは過去の凡ての文化にあてはまる。 吾人は之智耕して、過去の文化は、吾人の拳闘的典嫁に取りて、耶に歴史的意義を有するのに 過ぎないと云ふのである。それ故に、吾人は文化科畢の対象を現在の文化と、過去の文化とに 債分するのである。 ー.1J・−−−

(36)

分踵非 と 膜槻の兜研秋;i・三 一ヽ、ノー_′一‥ノヽ 一、一、ノヽ_■−へ′、一一、・一′−〈一一、・′■←(ノ、一一一・一 へ一・ハ \一−(→′−′−・へ・へ■一−■−′、■、・′‘、仙肌一一一、〈一u一へ.′、′ かくの如く考へると、塁間の封象を時Rllの上から見れば、自然料率に種類せ分つことは揖寒

ぬけれども、文化科申は之要一つに随分することが出水る。吾人は一をむ撃と補し仙を組織撃

と補したい︰、史蝉は前の文化が彼の文化に如何なる基礎を具へたかと云ふ斯から、過去に於け

る文化の隼賓を決定するもので、組織学は現在に於ける文化の轟賓を決定し.糾純するもので

ぁる。現在に於ける串賓を決定すると云ふ鮎に於ては、・組織畢は自然科単に相常するものであ

るけれども.彼ほ憤位な離れて串貰を決定するのであるが、此は惜伯に脚係して矩野を決足す

るのである。史草は文化科単に聴有なもので、自然科挙にほ之に相常するものほない。けれども

之が承に出撃は、文化科堺の全惜であると考へるのは不常である。何となれば現在の文化は、組

織的に之を研究しなくては、北義山↓曾遊すことが出水ぬからであa。此ことを最も能くホすも

のは、決伸に㈲する科準である。法律に闘する史嘩としては、法制史があ㌔基組織撃として

は、杜仲桝秤申がある。現在に於ける決仰の串蜜は、畢に之を法制史的に研究するだけでは、

十分に決定することは招来ない、組織的に桝究して初めて之を正常に机押することが揖凍ると

侶する。

今吾人の問題とする宗教科墾は、文化科坪であるが故に、上述の説明に依bて、之を障介し ーー ββ −−−一

(37)

批五節 怨二部 究.研敬宗

て奴拳である㌫放出と組織畢である宗教撃との二となすことが山凍る。宗数的伯他に㈲係して

串賓を決定すると云ふ翫に於ては、二者同一であるけれども、宗教史は親玉の矩智を決定し、

宗教邸は現在の鵜野お決定するが紋に、基閥係する宗放的憤佑が異って居る。即ち串審決尤の

標準になる偶位は、彼に於ては各々基時代に於ける宗数的慣机でぁるが、此に於ては、詣八の

宗数的惰櫨である。それ故に宗教科挙に於ける此二の応分は申川としては、正に弼立の位粧な

有するものと謂はなくては守りね。従って吾人は宗敢撃の外に㌫歓史は小甘いと云ふ説にも、叉

共に生成することは〓凍ぬ。尤も郡鱈に於ては前者

宗数虹の外に㌫放畢はないと云ふ説にら、

を生娘する人々はないのであるが、後者をま張する畢者はある。研謂脛出撃派に属す乙人々は、

之に人れることが出凍やう。吾人の考に依れば、これは法制虹の外には、法律解将軍はないと

ま脱すると同様であつて、文化科轡の性賓を十分に理解せざるに山云のであると侶する。

〓一

宗致虹は過去に於ける㌫放の事蜜を決定するもりであるが、過去の各蛸代に於ける宗敢が悉

く完敗史の材料となるのではない。前にも云った如く、各時代に於けゑポ敢は何れも慣其以前の

ー ∫ノi−−−

(38)

分院基 と 凄槻の究折敬宗

時代の宗教を基礎とするが故に、順次に過去に遡って行くと、遂には根源的霊歌に到達すると

考へることが出水る。之を革質に微するに、根源的宗致は民族鵜油の産物であるから、各ま搬

に共通に存する研が多くて特殊な所は少い、換言すれば自然に近きものであつて、英の文化Lし

謂ふことは出水ぬ。自然に近い宗敢なれば、之を心理的に研究し裡るが故に、此鮎から見て、ブ

ントの宗政研究は意味がめると恩ふ。吾人は前に彼の宗鞄研究は宗数ぉ手段に用うやものと見

たのであるが、寧ろ彼の異音は自然に近い宗致ぉ肌にするのに赤守るだらう。根源的宗教は自

然に近い宗放であるから、多くの学者が之を自然放と云ふのは、敢も基蕾を得て屠る。けれども

これは奥の文化ではないから、寒を云へば、文化科嬰である宗放出の諭すペき範例を越えて屠

る。宗赦免の材料と捏アり得る宗教は、自然数を基礎にして、個人的精軸に依って作られた、各

仰の主観に特殊な文化としての宗教から始まるのである。尤も自然飲も、此文化り畏敬の光耀

となる鮎に於て、歴史的意義を頼って属ない串ほない。か∼る鮎から、㌫数血に於て、仁l然敢 葡やぁのは、正常である。此初磯の文化の宗教は.各時代に於て作り墳へられで、現在の宗

教となるりである。宗教史は現在に至る迄の各時代に於ける此文化の宗敢を基材料とするので

あるが、各時代の宗教が宗致史の材料として吾人の朝的興味を惹くりは∵でれが彼の㌫敬の韮

ーーー・ 占㍑ 一一一一一一

(39)

親玉箪 啓二節 先研故宗 礎となる鮎に存するのであるから、何等かの鮎に於で、現在の宗教に閥係のないものは、それ は他の串間、例へば人椰準の如きもの1封象となることはあつても、宗敢史の材料とはならな いのである。故に吾人が宗教史に於て諭すペきものは、現今に於ても引き続き存在する宗教と 苅北騙をなす需数とである。 然らば此等の㌫教の綿密盲如何にして概念に収入れるかと云ふに、需放出に於ては、各時代 の稟数的僧俄に閥係させて、各時代に於ける宗数的串賓を決定寸るのであるが、此際にl錮係せ らるペき宗数的惰硫は、基時代に於ける凡ての宗教人に銘常せらるペき僻位ではなくして、基 時代に於ける僻殊宗教に附著する債植であるじ共根掟お畢ぐれば、吾人が宗教史の材料を現在に ㈲係ゎる宗教に限ったことに塞くのでぁるり即ち過去の宗教は、それが何等かの什方に依り、現 在の宗教に基礎を輿へると云ふ限♭に於て、宗教史の耕料と在るのであるが、基礎を典へるの は、之を事鹿に撤するに、或る時代に於ける凡ての宗教人の宗敢仰向と、彼の時代に於ける凡て の宗数人の宗教仰向、若くは楷殊宗致との問に起るものではなくして、前後の楷殊宗教の問に茂 るものである。それ轢宗教由的躯欝を決短する際に、閥係せらるペき情政は、基時代に於ける 特殊宗教に附著する僧柏でなくてはならね。かくの如︿に考へるし㍍敢史の問題となるもの ■一■■■■■■−■■■■■■■− 乙l′l りり − ■ ′ ̄▼ ̄

(40)

分院基 と 凍槌の究榊歌宗 は、特殊宗教め時代的埠化であつて、宗致蝕向と云ふ如きものゝ時代的捷化ではないと澗ふ串 が出水る。若しそうであるとすれば、宗致史とは現在に存する特殊宗教に閲する出撃であつて 手−レの考へるが如き宗教其物︵︷訂re茸r。=︶の歴史ではない。一口に言へば、宗教血は即ち特殊 宗教史であつて、韮督致虹俳放出等の外には、宗敦史はない・エ宗ふのが吾人の意見である。 約ほ附加して置き招いのは、吾人は特殊宗敢虹の外には宗致虹を認めないのであるが、宗故 史概説とも云ふペきもの■は之を認める。併し之を認めるのは、草間上の根推に韮くのではなく して、宗教史を致捜するが如き場合の位宜に苑くのである。

〓ニ

宗政嬰は、宗教的惜他に関係させで、宗教の箪箸を収故ふと云ふ鮎に於ては、再小欲虹と同一 であるけれども、色々粍郡に於て、此と彼とは異って居る。第一、㍍教史は過去の需敢を材料と するけれども、㌫数撃は現在の宗敬を材料とする。箪﹁宗数的串暦を決定するのに、㌫放由 は過去の各藤代に於ける宗数的惜他に捌係するけれども、崇敬準は吾人の宗数的何位に一別係す る。第三、宗教虹はきーi葦を決定寸るに止まつて居るけれども、宗敢轡は之を決定し、組織する。 ーIl▼′ り/  ̄ ▲  ̄ ̄

(41)

兢五井 巻二節 究研故完ミ 以上の三鮎ほ、眈に吾人が文化科単一股に就ても、宗政和単に就ても、大略之恕述べたけれど も、今技に宗教蝉の性肇を別にする窮めに、少しく委しく論究しょうと思ふ。 第一、宗教畢は現在の再ポ敢を材料とするけれども、現在の再“歓が悉く試飲墾の材料となるの ではない。吾人の将に依れは、過去の㌫敢は、それが現在り宗教に粧する限りに於て、宗教史 の材料となる如く、現在の宗教も、それが吾人り宗教的植苗と闘係する限りに於て∵㌫数恕ゐ 材料となるのである。吾人の宗教的憤仇豆、一方に於ては、ま睨的であるけれども、他方に於て は、客観的である、一カに於ては、個人的であるけれども、他方に於ては超偶人的である。故に 之に㈲係する宗教は、榔殊の宗散人の有する所謂民族的崇敬でなくして、凡ての宗政人に通す ペき所謂他界的宗敢でなくてはならぬ。而して世界的㌫放り笹園に就ては、明瞭に之を指示す ることは招魂ぬけれども、少くとも吾人は、此巾に悌放と基衡敢とを除外す曽−とは出来ない。 又此二敬の外に、何れの宗敢を此小に入れるにしても、吾人り㌫数的硝化の土から見れば、基結 兇の上に太した形響があるとは思はれ最。こい意味に放て宗放里の材料となるものは、まとして 現在の彿敢及び基併放であろと珊州ふことが出水やう。 第二、吾人は現在基暦数や係数お宗教申の材料とするけれども、それは此二敢がまし﹂して吾 ー鵬 βぶ −・−−

(42)

分院基 と 娘枚り究研歌謡

人の㌫敢的佃位に㈲僻すろのに依るのであるとすれば、之を収扱ふ目的が、宗教史の場なに於

ける如く、此等特殊宗教の事寄む決定するに存しないで、吾人の宗教的佃位の衣視である需政一

股の難欝智決定するのに在るは、帝⋮然のことである。従って姉鱈決定の捺輩になる倍依が、韮

督敦や件数に附着する需数的佃伍ではな′、して、一面に於て客蜘的性肇を和する吾人の需数的

倍伍であることも、特に諭する必要はなからう。需故郷が畢糾トしして客根性お有するのは、重

く之に由るのであるが、宗教史の客観性も、結局は此客観的佃他に帥耕するのでなければ、之

を諭澤することは出水ぬ。

第三、吾人の宗数的惜備に榊係させて、崇敬一般の隼笛を決定すると云ふのは、つ1aLリは之

を組織することである。宗致史で取扱ふ時殊琵飲の矩欝は、耶に決定することに依トて、吾人

は之を概念に取入れ今−とが出水るけれども、宗教墾で取扱ふ宗敬一椴の串坪は、鮭虹的に決

定するだけでは、之む概念に収入れることは出水ぬ、組織することに使わて初めて、一般串智

の決定を全うすることが出水るのである。

然らば宗教︼般の矩欝を組織すろとは如何なる食味であらうか。一般印歴と云へば、各ま姐

宗教は文化であつて、自然ではない。故に基軸賓は

に共通な自然の堺筋を想起する。けれども

−−− こチリ ー,・・−1一

(43)

兢五節 屯二第 究榊歌謡

柵殊なものは勿論、一般のものでも、自然の轟歴とは典って居る。即ち宗教一般の事賓とは、

各ま翫に共通な事恵と云ふ意味ではなくして、各ま翫に妥落すべき伯伍の檻接表現の串歴と云

ふ意味である。故に之を特殊宗教の事蜜に比較すれば、造に抽象的なものである。尤も宗教史

の判簸である喘妹宗致の郡鮮も、眈に単純化の結果であるが故に、現耳の宗教を在♭の佐に焉

し花ものではないけれども、宗数学の封簸である㌫敬一般の事賓に比較すれば、温に之に近い

ものと謂はなくてはならぬ。

次に組織に就て述べろと.之には郁々の解滞もあるだらうけれども、串賓に秩序を骨けると

云ふ忠殊に解秤すれば、砕♭に誹らもなからうかと思ふ。若しそうであるとすれば、宗政一般

の難球を糾織するとは、之に秩序を付けることである。秩序を骨けるには、棟準を要する。此際

多くの人々はか、る枕革となるものは、宗教的惜伍であると考へるだらう。併し蜜を云へば文

化科単に於て、偶伍の役立つのは.郎貰の決定に瞑られて居㌔何となれば惜侃は、非本質的な

ものから、本質的なものを潰別する際に、原理として働くに過ぎないからである。本肇的なも

のとして、決定せられた郡欝に秩序を輿へるには、梢孤を指導するもの■が必要である。而して

梢伍を指潰するものは、情情白身であることは洪水ないが故に、吾人は之を事驚の巾に求めな

−−− .ニ「7 −・・一

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分院ヨぢ と 撼根の究桝改宗 くてはならぬ。 呪蜜界は、之お論理的に隅分すれば、各ま軌に共通な方南を自然とし、それに特殊な方面を 文化とする。吾人は従姉此立場に立って論述して東たのであるが、今之を心班的に考へれば、 現鴛界は心理的串寄である。そう一うれば自然は抽出せられた衣象であり、文化は意志過程であ ると見ることが出水やう。表象は基性栗の上から見れば、甲の人にも乙の人にも通するが故に 之を主軸から抽出することが出来る。従って抽出せられた衷象は、静ま軸に共通なものである から、吾人は之を前に論理的に名けた自然と同一視しても差支なからうと恩ふ。之に反して忠 志は、甲の人と乙の人と一放することは出凍るけれども、其性質の上から見れば、彼此留別な ものであィ㌔故に滋志過群は各主蹴に哺殊たrb山であると謂はなくてはならぬ。此鮎から見て 吾人は前に論理的に名け紀文化と意志過程とを同一成するのである。根し文化は作り出された 結果に名けられ柁ものであるが、意志過程は作り出す過程に名けたのである。意志過程には口 約がある。これは心理的に見れば衷象であるけれども、論理的に云へば、吾人が前に述べ化文 化に附着する惜偵である。 吾人は前に自然と文化とぉ他聞の土から鬼て、科軍を瞳分し柁のであるが、今は衣象と意志 −【一 .り −∼一−

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