ISSN 0288-0911
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虞宗連合撃舎研究紀要
平 成20年 3月真 宗 連 合 皐 曾
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法然とその門下における
﹁専修・雑修﹂理解:・・:::本願寺派
||特に隆寛・証空・静遍についてーーー真宗の宗教生活と世俗ーーその多様性
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﹁歎異抄﹄と覚如教学
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﹃往生伝﹂と﹃妙好人伝﹄について
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||新出史料﹁遺身往生伝﹄の発見を契機として||瀬
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周防・長門国を事例として||戦国期真宗僧の歴史認識
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林 菊 藤 明 智 康 ︵ 八 O ︶ 道 ︵ 九 八 ︶ 大 畑 博 嗣 ︵ 一 二 O ︶ ,-i-,・ 京 藤 弥 ︵ 一 五 一 ︶四
新発見の古写本
﹃三河念仏相承日記﹄について::::高
田 派 安 藤 章 仁 ︵ 一 七 三 ︶承
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||起因と宗祖遠流の背景について|| 今 回 法 雄 ︵ 一 九 三 ︶総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂::龍谷大学
赤 松 徹 直 六 ︵ 一 一 O 四 ︶ 親 鷺 回想
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田 武 彦 ︵ 二 一 一 一 五 ︶︿
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大 桑 斉 ︵ 二 五 冗 ︶ 戸,. 寸品 β、 ;z:,; 主L 某報
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における五念門の考察
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は じ め に 曇 鷲 の ﹃ 無 旦 一 寿 経 優 婆 提 舎 願 生 偶 註 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 諮 問 註 ﹄ ︶ が 、 世 親 の ﹃ 無 量 寿 経 優 婆 提 舎 願 生 備 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 論 ﹄ ︶ を 註 解 し た も の で あ る こ と は 一 言 、 つ ま で も な い 。 ﹁ 論 ﹄ の 論 旨 は 、 解 義 分 冒 頭 の ﹁ 願 偶 大 意 ﹂ 章 に 、 此 願 偶 明 何 義 、 示 現 観 彼 安 楽 世 界 、 見 阿 弥 陀 知 来 願 生 彼 国 故 。 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 一 三 一 一 ︶ とあるように、浄土を観ずることを通して阿弥陀如来を見、そのことで生じた願生心を示現するという、 い わ ゆ る ﹁観・見・願生﹂である。そして続く第二起観生信章ではその行として、 云 何 観 云 何 生 信 心 。 若 善 男 子 ・ 善 女 人 、 修 五 念 門 行 成 就 、 畢 克 得 生 安 楽 国 土 見 彼 阿 弥 陀 仏 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ ︶ と五念門が一不され、これが成就すれば浄土に生まれ阿弥陀仏を見ることを得るのだとしている。五念門は身業によ る礼拝門、口業の讃歎門、意業の作願門、智業の観察門、方便智業たる回向門からなる。曇鷲はこの解義分の五念 門を偏墳に配当し、また作願に三義、観察に二義、回向に二相を開くなど、独特な解釈を施した。 この五念門についての見解だが、偽頃及び解義分の大部分を観察門が占め、また目頭で述べたように﹃論﹄の主旨 ﹃ 浄 土 論 註 ﹄ に お け る 五 念 門 の 考 察﹁ 浄 土 論 註 ﹄ に お け る 五 念 門 の 考 察 ︵ I ︶ が﹁観・見・願生﹂なので、観察門を正定の業と捉えるものもある。また近年では、曇驚の十念往生の法門と世親 ︵2 ︶ が示した五念門とは異なるものとする見解もある。これはおそらく讃歎・作願・観察のコ一門の内容にある、如実修 行という、およそ普通の人間では修すことが不可能と思われる行に起因するのだろう。﹁下巻﹂菩薩荘厳釈には、 真 如 是 諸 法 正 体 。 体 如 而 行 則 是 不 行 。 不 行 而 行 名 加 実 修 行 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 一 三 一 一 四 ︶ と、如実修行は行ぜずして行ずという作心の無い行であることが示されている。さらに菩薩荘厳最後の持厳三宝功 ︵ 3 ︶ 徳 に は 、 四 者 彼 於 十 方 一 切 世 界 無 一 二 宝 処 住 持 荘 厳 仏 ・ 法 ・ 僧 宝 功 徳 大 海 遍 示 令 解 如 実 修 行 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 二 一 三 六 ︶ と、﹃論﹄本文に無仏の国に生まれて遍く如実修行を解らせるのだとあり、おおよそ易行道であるとは考えられな しミ 一 方 、 真 宗 で は 古 く か ら 一 心 帰 命 で あ る 信 が 自 然 に 身 口 意 の ゴ 一 業 二 利 と し て 現 れ る 起 行 と さ れ 、 ま た 五 念 門 の ﹁ 念 ﹂ は﹁念仏﹂あるいは﹁憶念﹂であるとされる。このことについては、山本仏骨の﹁曇鷲の五念門釈に就て﹂︵﹁宗学 院 論 輯 ﹂ 第 三 五 輯 ︶ で詳細にまとめられている。その要旨は、 ①八番問答、豪求其本釈において往生の行は十念念仏に収束されており、よって五念門とは称名するところに五つ の 相 が 並 存 す る こ と を 一 不 す も の と 解 す べ き 。 ②八番問答第七における﹁念﹂についての問答を見ると、 問日。幾時名為一念。答日。百一生滅名一利那、六十剥那名為一念。此中云念者、不取此時節也。但言憶念阿 弥陀仏若総相若別相、随所観縁心無他想十念相続名為十念。但称名号亦復如是。︵﹃同﹄一三
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︶ とあるから憶念とすべき。これを、観想念仏のみに集約する見解もあるがそれでは、 但 積 念 相 続 不 縁 他 事 便 罷 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ 一 二 一 一 ︶という第八問答の文が不要となる。また、起観生信章を見ると各門すべてに願生心、もしくは憶念の三業が行相と し て 現 れ て い る 。 ③五念門はすでに如来によって行の功徳が名号として成就しており、その徳が聞名により行者の信心となり、それ が 行 者 自 身 の 行 相 と し て 自 ず と 身 口 意 の 一 一 一 業 に 現 れ 出 る 。 と い う も の で あ る 。 ︵ 5 ︶ この山本の見解は的確なもので基本的に異論はない。けれどもこの見解も含めて、これまでの研究では今ひとつ 明瞭になっていないと感じる点がある。それは、 ︵ 1 ︶礼拝・讃歎・作願の上三門を成じて、観察・回向の下二門を起こすという、成上起下備に関して。 ︵
2
︶下三門ではそれぞれ此土、彼土について分けられるが、このことについてあまり考察がなされていない。 3 ︶ 各 門 の 関 係 に つ い て 。 と い う コ 一 点 で あ る 。 以下の節でこれらのことについて推求していきたいが、︵2
︶において今回の紙数では回向門に関して十分な考 察を施すのは難しいと考え触れない。他日を期したい。 ﹃ 願 生 偶 ﹄ 第 二 行 に つ い て 曇 鷺 は 、 我依修多羅真実功徳相説願偶総持与仏教相応︵中略︶成上三門起下二門。︵﹁同﹄三八四︶ と、上三門を成じ下二門を起こすものだと言い、五念門の成立根拠と定めている。当節ではこの成上起下備とされ ﹃ 浄 土 論 註 ﹂ に お け る 五 念 門 の 考 察﹃ 浄 土 論 註 ﹄ に お け る 五 念 門 の 考 察 四 る第二行について見ていくことで、曇驚が五念門をいかなる行として捉えていたかを考察したい。 ま ず 、 第一行四句相含有三念門、上三句是礼拝・讃嘆門、下一句是作願門。︵﹃同﹄二八二 とあり、礼拝・讃歎・作願の上コ一門が一体であることを第一行に関して述べている。そして曇驚は﹁何所依、何故 依、云何依 o ﹂と第二行の﹁依﹂を問題にし、 何 所 依 者 、 依 修 多 羅 。 何 故 依 者 、 以 如 来 即 真 実 功 徳 相 故 。 云 何 依 者 、 修 五 念 円 相 応 故 成 上 起 下 寛 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 二 八 四 ︶ と 、 三 方 面 か ら 確 め る 。 まず、依り処となる修多羅についてだが、この箇所に先立って曇驚は、 ﹁無量寿﹂者、言無量寿如来寿命長遠不可思量也。経者常也、言安楽園土仏及菩薩清浄荘厳功徳・国土清浄荘 厳功徳、能与衆生作大鏡益、可常行子世故名日経。︵﹁同﹄二八
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︶ と、無量寿如来の三種荘厳は常にこの世界において行ぜられ、衆生のために大鏡益を為すものであるとし、その故 に経と名づけられるのだ定義している υ つまり我々の思い以前に如来の行が先だって行ぜられていることが一不され る。三種荘厳すべてに﹁成就﹂の文字がつけられているのは、このことを一不すのであろう。また経について、 ﹁無量寿﹂是安楽浄土如来別号。釈迦牟尼仏在王舎城及舎衛国於大衆之中説無量寿仏荘厳功徳。即以仏名号為 経体。後聖者婆薮繋頭菩薩服暦如来大悲之教、傍経作願生備。︵﹃同﹄二七九︶ と、如来の別号がその体、すなわち常に衆生のために大鏡益を為すところの無量寿仏の荘厳の体は、弥陀の名号だ と 断 じ て い る 。 そうなると修多羅に依るということは浄土、さらにはその体である名号に帰することに他ならない。また、﹁論註﹄ では帰敬序にある﹁世尊﹂を釈して、此言意帰釈迦如来。何以得知下句言﹁我依修多羅﹂。天親菩薩、在釈迦如来像法之中、順釈迦如来経教、所以 願生。願生有宗、故知此言帰於釈迦。若謂此意、遍告諸仏亦復無嫌。︵﹃同﹂二八二 と述べ、釈尊あるいは諸仏に帰すということも示している。そして、 此 中 一 百 ﹁ 依 修 多 羅 ﹂ 者 、 是 三 蔵 外 大 乗 修 多 羅 、 非 阿 含 等 経 也 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 一 一 八 四 ︶ と﹃浄土三部経﹂は自利利他成就を課題とする大乗の経典であることを強調する。 以上のようなことから、修多羅に依るとは弥陀の名号・浄土に帰すことであると同時に釈尊を始め=一世十方の諸 仏に信順するものでもあり、さらには大乗の課題である自利利他に答えるものであるということを一不すものだと考 え ら れ る 。 次に依る理由として、如来は真実功徳の相である故とする。真実功徳相について曇鷲は、 ﹁真実功徳相﹂者、有二種功徳。一者従有漏心生不順法性。所調凡夫人天諸善、人天果報、若因若果、皆是顛 倒皆是虚偽、是故名不実功徳。二者従菩薩智慧清浄業起荘厳仏事。依法性入清浄相。是法不顛倒不虚偽、名為 真 実 功 徳 。 云 何 不 顛 倒 、 依 法 性 順 一 一 諦 故 。 云 何 不 虚 偽 、 摂 衆 生 入 畢 寛 浄 故 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ 二 八 四 ︶ と、真実功徳の相を不実功徳と真実功徳の二義に聞いて註釈している。不実功徳では人天の因果はすべて虚偽であ り顛倒であるとする。そして真実功徳とは法性に依り真俗二諦に順じるから顛倒ではなく、そして虚偽・顛倒で真 実なる要素が皆無であるところの衆生を摂して、法性の浄らからさとりに入らしむるから虚偽でないとするのであ る。不実のないところには、また真実もない。虚偽顛倒なる人天の果報を無限に転じるのが、真実功徳の相とする の で あ る 。 これを承けて下二門が起されるが、偶墳では観察門に入ると清浄功徳で﹁観彼世界相 下二十九種荘厳としてその具体相が展開される。順に見ていくと﹁上巻﹂の国土荘厳が終わったところでは、﹁是 勝過三界道﹂となり、以 ﹁浄土論註﹄における五念門の考察 五
﹃ 浄 土 論 註 ﹂ に お け る 五 念 門 の 考 察 ム ノ、 故願生彼 阿弥陀仏国﹂と、作願門の﹁願生安楽園﹂という語を承けて改めて願生の意が表明されている。京都・ 常 楽 寺 本 ︵ 存 覚 写 本 ︶ の ﹁ 浄 土 論 ﹄ や 、 長 国 寺 本 の ﹁ 論 註 ﹄ で は ﹁ 故 我 ﹂ と あ り 、 親 驚 加 点 本 及 び 複 数 の 本 で は ﹁ 是 故 ﹂ となり、主語である﹁我﹂を省いているが、とくに問題はないだろう。曇驚が﹁上巻﹂の三種荘厳功徳成就の釈の すべてに﹁故﹂あるいは﹁所以﹂の文字を用いるのはこれを承けたものと推測される。﹁論註﹂上巻では多少の表 現の違いがあるものの、二十九種荘厳すべてにほぼ共通したパターンがある。まず、﹁仏、本、何が故ぞ此の荘厳 を起こしたまう﹂と阿弥陀仏が因位の法蔵比丘であった時にどうしてこの荘厳を起したのか問う。続いて﹁有る国 土を見そなわすに﹂と、婆婆世界を法蔵が智慧をもって観察してみると、衆生の姿は虚偽の相、顛倒の相を呈して いる。だから、﹁是の故に大悲心を興したまう﹂と願心を起したのだという形である。衆生の現実相が法蔵をして 願心を発起せしめたというのである。そして、﹁是の故に︵偶頃の句︶と言えり﹂という言葉で締められることが 多い。我々はこの荘厳された浄土を通して、﹁衆生を摂して畢寛浄に入らしむる故に﹂という虚偽ではない真実功 徳相たる如来と出遇うのである。 また、このことは下巻末の利行満足章の五功徳門最後の出第五門に﹃論﹄の文で、 出第五門者、以大慈悲観察一切苦悩衆生、一不磨化身回入生死園煩悩林中、遊戯神通至教化地、以本願力回向故、 是 名 出 第 五 門 。 ︵ ﹁ 同 ﹄ 三 四 五 ︶ と端的に述べられる。観察が入だけでなく出の門にもあることが注目される。またこの行の主体を善男子・善女人 とするか法蔵菩薩とするか見解が分かれるが、これらは後で述べたい。 この文より依る理由として如来が﹁真実功徳相の故に﹂というのは、﹁本願力回向を以ての故に﹂ということに な る で あ ろ う 。 ﹁ 下 巻 ﹂ の 不 虚 作 住 持 功 徳 釈 で は 、 ﹁不虚作住持功徳成就﹂者、蓋是阿弥陀如来本願力也。︵中略︶所言不虚作住持者、依本法蔵菩薩四十八願、
今日阿弥陀如来自在神力。願以成力力以就願。願不徒然、力不虚設、力願相符畢克不差故日成就。︵﹃同﹄一二三
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) とあって、法蔵書薩の四十八願があったから仏力が生じたのであり、また仏力が生じたから願が本物であったのだ と し て い る 。 平 野 修 は 、 ﹁願﹂がなければ仏教と言いましでもわれわれの欲望を満足させることにしかならず、また﹁願﹂だけである なら単なる教理とか仏教の神話ということにしかなりません。そういう危険性がある中で、﹁力願相符って﹂ 成就したというところに、仏教の基礎があるということを明らかにされたわけです。︵﹃平野修選集﹂三・一一。
と 述 べ て い る 。 つまり、願より仏力が生じたということは本願が現実になったということであり、その現実がまた 願を証すのである。以上のようなことから﹁故﹂という文字に着目すると、﹁如来は即ち真実功徳の相なるを以て の故に﹂とあるのは、本願力団向の現実相であるということを顕しているものと考える。 三つ目はどのように依るのかという方法を問い、五念門を修して相応するが故にとある。下巻の起観生信章を見 て み よ う 。 曇 鷺 は 、 起 観 生 信 者 、 此 分 中 又 有 二 重 。 と、﹃論﹄では五念門とあるだけなのにそれを二つに分けて五念力と五念門とし、前者については﹁示す﹂、後者に 一 者 一 不 五 念 力 、 二 者 出 五 念 門 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ 一 一 二 三 ︶ ついては﹁出す﹂と区別している。五念力については、 云 何 観 云 何 生 信 心 。 若 善 男 子 ・ 善 女 人 、 修 五 念 門 行 成 就 、 畢 寛 得 生 安 楽 国 土 見 彼 阿 弥 陀 仏 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ ︶ という﹃論﹄の文を出し、行を成就すると浄土に生まれて阿弥陀仏を見るという果が得られるという五念門の力用 の 側 に 着 目 し て い る 。 一 方 、 五 念 門 の 方 は ﹃ 論 ﹂ の 文 を 引 い て 各 門 の 名 称 を 出 し て か ら 、 ﹁ 浄 土 論 註 ﹄ に お け る 五 念 門 の 考 察 七﹁ 浄 土 論 註 ﹄ に お け る 五 念 門 の 考 察 j
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﹁ 門 ﹂ 者 入 出 義 也 、 知 人 得 門 則 入 出 無 号 。 前 四 念 是 入 安 楽 浄 土 門 、 後 一 念 是 出 慈 悲 教 化 門 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 一 二 一 一 一 ︶ と、﹁門﹂には入出、すなわち自利利他という意味があるとし、前の四念が入の門、最後の回向門が出の門で、も し門を得れば人聞は入出自在であると論じている。ここで、曇驚が五念門については﹁出す﹂としたのは、慈悲教 化の円である回向門より出た行であることを示そうとしたのではないだろか。回向門については﹃論﹂の文に、 云何回向、不捨一切苦悩衆生、心常作願、回向為首得成就大悲心故。︵﹃同﹄一三六︶ と、﹁回向を首︵はじめ︶と為して﹂とある。五念門や二個人で完成させる行と捉えるのであれば、これは奇異な ことになるであろう。けれども己に先立つ得道の者がいないというのであれば、行によって自利利他成就するとい うことは単なる予想や希望というものになってしまうであろう。また、先に見た出第五門の観察と同様、入の門以 外に出の円である回向門にも作願がある。上巻の回向門釈では、 我作論説偏願見弥陀仏、普共諸衆生往生安楽園。︵一字下げは﹃論﹂の文、以下同様。︶ 此四句是論主回向門。回向者回己功徳、普施衆生共見阿弥陀如来生安楽園。︵﹁同﹄三O
七 ︶ とあるように、五念門は個人の行ではなく、諸衆生と﹁共に﹂作願する行なのである。 しかし、第九願事成就章を見てみると、 如是菩薩智慧心・方便心・無障心・勝真心能生清浄仏国土、応知。 ﹁応知﹂者、謂応知此四種清浄功徳能得生彼清浄仏国土非是他縁而生也。 是名菩薩摩詞薩随順五種法門所作随意自在成就。如向所説身業・口業・意業・知日業・方便智業、随順法門故。 ﹁随意自在﹂者、言此五種功徳力能生清浄仏土出没自在也。身業者礼拝也、口業者讃嘆也、意業者作願也、智 業 者 観 察 也 、 方 便 智 業 者 回 向 也 。 一 百 此 五 種 業 和 合 、 則 是 随 順 往 生 浄 土 法 門 自 在 業 成 就 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ 三 四 一 二 ︶ とある。﹃論﹄では菩薩は智慧・方便・無障・勝真の四心によって清浄仏国土に生まれのであり、これが先に説いた五念門の法門に随順して所作が自在であるのだとされ、起観生信章の﹁云何観云何生信心﹂という問いに対する 答となっている。曇驚はこれにコメントを加え、五念門による五種の功徳力により浄土に出浸自在となり、五業が 和合したならば往生浄土の法門に随順したことになり、出浸自在の業が成就するのだとする。これだけを見ると、 善男子・善女人が自らの力で五念門行を完成させ菩薩になるかのようにも見える。けれども先に見た真実功徳釈に あるように、人天の所行はすべて虚偽・顛倒に他ならない。願事成就章で終わらずに、続いて利行満足章があるの は、ここでそのことを再度確かめる意図があったのではないだろうか。この章はまず、﹃論﹄の言葉で、 復 有 五 種 門 漸 次 成 就 五 種 功 徳 、 応 知 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 三 四 四 ︶ と始まる。﹁復﹂という字が五念門の他に五門があることを一示し、これが五念門を成就するというのである。先に ︵ 7 ︶ 引いた本願力回向の文と合わせて考えると、五念門の果である五功徳が回向されることによって五念門を成就する という従果向因ということが予想される。第五善巧摂化章の﹃論﹄の文を見ると、 何者菩薩巧方便回向。菩薩巧方便回向者、謂説礼拝等五種修行、所集一切功徳善根、不求自身住持之楽、欲抜 一 切 衆 生 苦 故 、 作 願 摂 取 一 切 衆 生 共 同 生 彼 安 楽 仏 国 。 是 名 菩 薩 巧 方 便 回 向 成 就 。 ︵ ﹁ 同 ﹄ 一 二 三 九 ︶ とあり菩薩は五念門を修して成就した功徳、すなわち利行満足章に出てくる五功徳門を衆生の上にそのまま回施し、 共に浄土に生まれたいと作願するとある。 つまり、我々に先立って五念門の行は成就されており、その功徳が回向 されることによって、また五念門が成就するというのである。 ところで、先に行の主体を善男子・善女人とするか法蔵菩薩にするかとい、つことについて少し触れたが、文の当 面においては凡夫である前者のようである。けれど、巻末の薮求其本釈では、 間 日 。 有 何 因 縁 言 ﹁ 速 得 成 就 阿 蒋 多 羅 三 貌 = 一 菩 提 ﹂ 。 答 日 。 ﹃ 論 ﹄ 言 。 修 五 円 行 以 自 利 利 他 成 就 故 。 ︵ ﹁ 同 ﹂ 一 二 四 六 ︶ と、願生行者が菩薩として速やかに阿祷多羅三貌三菩提を成就することを得るのはなぜかと問い、それに対して一 ﹁ 浄 土 論 註 ﹄ に お け る 五 念 門 の 考 察 九
﹁浄土論註﹄における五念門の考察
。
応は五門の行を修して自利利他成就したからである﹁故﹂としつつ、 然襲求其本阿弥陀如来増上縁。他利之与利他談有左右。若自仏而言宜言利他、自衆生而一言宜言他利。今将談仏 力、是故以利他言之。嘗知此意也。凡是生彼浄土及彼菩薩人天所起諸行皆縁阿弥陀如来本願力故。何以言之、 若 非 仏 力 四 十 八 願 便 是 徒 設 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ 三 四 七 ︶ と、実はその大本は阿弥陀如来の本願力に依るが﹁故﹂であるとして、もし仏力でないのなら四十八願などまった く意味のないものではないかと断言する。そして、続いていわゆる三願的証に入り、丁寧に他力ということを証明 つまり、五念門は現象としては凡夫である善男子・善女人の上に三業二利として現れ出るが、その根源 し て い る 。 は本願力団向によるものであるということになる。 ちなみに、ここで自ずから仏から言えば、他なる衆生を利する︵利他︶と一百い、衆生の側から言えば自ずから、 他なる衆生が利せられるのだとする。だから、利他と言、つ場合には、仏力を指すのだという他利利他の深義が出さ れる。他利の他を他力とする説もあるが、出第五門釈で見られる曇鷲の本願力理解は、 警 如 阿 修 羅 琴 難 無 鼓 者 而 音 曲 自 然 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ 三 四 五 ︶ つまり衆生から見ると、度す者無くして度されるということになるから、ここの﹁若白 悌而言宜一言利他自衆生而言宜言他利﹂という﹁自ずから:::利する︵利せられるとの文で十分、他力の意が尽く と あ っ て 音 曲 自 然 と あ る 。 されていると思う。ゆえに、ここの他は衆生とするべきである。 話を戻すが、起観生信章において五念門に先だって五念力が出されたのは、他力を意味するのであろう。五念力 の方は﹁示す﹂、五念門の方は﹁出す﹂とあり、五念門は五念力から出ることが表されている。 以上のようなことから、修多羅の真実功徳相に相応する﹃論﹄で説かれる五念門行は、普遍的なもので個人のみ に属さない行であり、因が果となり、またその果が因となる因果一如の行であると一言うことができるのではないか。それで回向成就の相である真実功徳相に依って相応するとあるのだから、讃歎門以下の三門や菩薩荘厳功徳成就に 見られる如実修行という言葉は、悟るためにこれから修行するのではなく、悟りそのものを行じることとなる。 ﹁五念門を修して相応するが故に﹂とは、回向された五功徳を用いるということになるだろう。もっと言えば、 ︵ 8 ︶ ﹁本願力回向を以ての故に﹂ということになるであろう。 当節では、曇鷺がどのようにして作願に三義、観察に二義を開いたかということを中心に論じたい。曇驚がこの ような註釈を行ったのは、現時点では五念門釈と五功徳門釈を照らし合わせて見ることで、このような註釈を行っ たとの感を持っている。前節で述べたが、曇鷲は五念門を回向された功徳を用いて行ずるものと捉えていたと考え るからだ。少々煩現になるが従呆向因の観点から、五功徳門釈から五念門釈を見るということを試みたい。また、 前後の繋がりも見ておきたいので、入第一、二門にも触れておきたい。 入 第 一 門 は ﹃ 論 ﹄ に 、 以礼拝阿弥陀仏為生彼国故得生安楽世界是名入第一門。︵﹃同﹄三四四︶ とあり、それに対して﹁論註﹄では、 礼 仏 願 生 仏 国 是 初 功 徳 相 。 ︵ ﹁ 同 ﹄ ︶ と釈す。つまり、仏を礼拝して仏国に生まれと願ずる心が生じたことがこの功徳の相である。つまりこの功徳が回 向されて、凡夫の身に成就するのである。そのことを念頭にして、因の礼拝門の方を見てみよう。 ﹃ 品 企 嗣 ﹄ の 文 を 抽 出 す る と 、 ﹃浄土論註﹄における五念門の考察
﹁浄土論註﹄における五念門の考察 云 何 礼 拝 、 身 業 礼 拝 阿 弥 陀 如 来 応 正 遍 知 。 為 生 彼 国 意 故 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 三 一 三 ︶ と ﹁ 阿 弥 陀 如 来 を 礼 持 し た ま い き ﹂ で も 意 味 が 通 じ る の に 、 ﹁ 如 来 ﹂ ・ ﹁ 応 ﹂ ・ ﹁ 正 遍 知 ﹂ と 三 号 を 述 べ て い る 。 ま た 、 ︵ 9 ︶ 親驚の加点では﹁彼の固に生ぜん意を為させんが故なり﹂と、この箇所では礼拝することが、そのまま願生心を起 こさせる働きをもつことを示している点が注目される。﹃入出二門偏填﹄では、 玄 何 礼 拝 身 業 礼 阿弥陀仏正遍知 善巧方便諸群生 為生安楽園意故 即是名人第一門亦是名為入近門 ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 二 ・ 漢 文 篇 一 一 五 ︶ となっており、願生の意を為すゆえに礼拝するのは人聞に根拠を持つものでなく、阿弥陀如来の善巧方便に基づく のだとされる。こちらでは、五念門と五功徳門を合わせてあるが、仏の三号が出された意を推しはかることができ る 。 ﹃ 論 註 ﹄ の 釈 で は 、 諸仏如来徳有無量、徳無量故徳号亦無量。︵中略︶﹁如来﹂者、如法相解、如法相説、如諸仏安穏道来、此仏亦 知是、来更不去後有中、故名如来。﹁応﹂者応供也。仏結使除尽得一切智慧、応受一切天地衆生供養、故日応也。 ﹁正遍知﹂者、知↓切諸法実不壊相、不増不滅。云何不壊、心行処減言語道過、諸法如浬繋相不動。故名正 遍 知 。 無 碍 光 義 如 前 備 中 解 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ ︶ とあり、﹁如来﹂は諸仏の安穏道、すなわち浬繋界から来るとあるから第四浄入願心章にある、 由 法 性 法 身 生 方 便 法 身 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 二 二 二 六 ︶ ということを一不すのであろう。そのゆえに我々をして供養せしめる徳を持つから﹁応供﹂でありそれがそのまま、 由 方 便 法 身 出 法 性 法 身 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ ︶ という﹁正遍知﹂であるということを示すのである。また、如来の名を問題にしているところに、礼拝門も念仏で あ る と す る 曇 驚 の 見 解 が 窺 え る 。
続 い て 入 第 二 門 だ が 、 ﹃ 論 ﹄ の 文 で は 、 以讃嘆阿弥陀仏随順名義称如来名依如来光明智相修行故得入大会衆数。︵﹃同﹄三四四︶ とあり、続く註釈では 依 如 来 名 義 讃 嘆 、 是 第 二 功 徳 相 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ ︶ と、如来の名義に依って讃歎できることが功徳であるとする。因の讃歎門では、 云 何 讃 嘆 、 口 業 讃 嘆 。 ﹁ 讃 ﹂ 者 讃 揚 也 。 ﹁ 嘆 ﹂ 者 歌 嘆 也 。 讃 嘆 非 口 不 宣 、 故 日 ﹁ 口 業 ﹂ 也 。 称彼如来名、如彼如来光明智相、如彼名義、欲如実修行相応故。 ﹁称彼如来名﹂者、調称無号光如来名也。﹁如彼如来光明智相﹂者、仏光明是智恵相也。此光明照十方世界無 有障号、能除十方衆生無明黒聞、非如日・月・珠光但破室穴中闇也。﹁如彼名義欲知実修行相応﹂者、彼無号 光 如 来 名 号 、 能 破 衆 生 一 切 無 明 、 能 満 衆 生 一 切 志 願 。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 三 一 三 ︶ とあり、如来の名義の如く如実修行に相応しようと思えたことそれ自体が功徳であろう。﹃論註﹄の方では、この 後で如実修行に相応できない機の問題について論じられるが今回は触れない。 入 第 三 門 は 、 以 一 心 専 念 作 願 生 彼 国 修 奪 摩 他 寂 静 三 味 行 故 得 入 蓮 華 蔵 世 界 ︵ ﹁ 同 ﹄ ︶ と﹁論﹂の丈があり、それに対して曇驚は、 一 心 願 生 彼 園 、 是 第 三 功 徳 相 。 ︵ ﹁ 同 ﹄ ︶ と寂静止を修すためのゆえに、一心願生すること自体が衆生に団施された功徳であるとする。それで因の作願門を 見 る と 、 ま ず ﹃ 論 ﹄ の 文 に 、 為 修 寂 静 止 故 、 ﹁ 浄 土 論 註 ﹄ に お け る 五 念 門 の 考 察
﹁浄土論註﹄における五念門の考察 四 一 心 専 念 畢 寛 往 生 安 楽 国 土 、 欲 如 実 修 行 脊 摩 他 故 。 ︵ ﹁ 同 ﹄ 三 一 五 ︶ ︵ 叩 ︶ とある。親鷺の加点では﹁心に常に作願したまえりき﹂とあって、如来の作願を表す。ただ、これはけっして行者 自身の作願を否定したのではない。さきに引文した彊求其本釈にあったように、当面は行者あるいは菩薩の作願で 云 何 作 願 、 心 常 作 願 、 あっても、その実は如来の作願が本になって行者の作願が成り立つことを一不すものである。﹃論註﹄ で は 作 願 門 に 、 一者一心専念阿弥陀如来願生彼土、此如来名号及彼国土名号、能止一切悪。二者彼 安楽土過三界道、若人亦生彼国自然止 ι 身口意悪。三者阿弥陀如来正覚住持力、自然止求声聞・昨支仏心。此一二 者 摩 他 云 止 者 、 合 有 三 義 。 と 三 義 を 聞 い た 。 種 止 、 従 如 来 如 実 功 徳 生 、 是 故 一 百 ﹁ 欲 如 実 修 行 者 摩 他 故 ﹂ 0 ︵ ﹃ 同 ﹄ ︶ 一つ目は此土の行であるが、名号が﹁止﹂を成就するという点で、先の讃歎門釈を承けるもので あ る 。 一 切 悪 は 一 切 無 明 を 指 す と 考 え て よ い だ ろ う 。 ﹃ 論 ﹄ では者摩他は彼土の行であるが、曇驚は此土にまで広 一心願生すること自体が功徳である。行者がことさらにお古摩他を修行しよう げて解釈した。さきに述べたように、 とするのでなく、名号により一一一界に執着する心が止み、願生浄土の一心が生じてくること自体が、衆生に対して働 く如実修行者摩他の成就であろう。だから、第一義は入第三門から聞いてきたものである。 後二つは浄土の行だが、第二義は名号の功徳により根本無明が破られることによって往生すると、自ずと身口意 業のすべての煩悩が転ぜられると言うことだろう。第三義は阿弥陀如来の仏力が行者を支え保ち自ずと二乗地を求 める心が止むとある。さきに引文した題号釈で、三種荘厳が常にこの世界において行ぜられ衆生のために大鏡益を 為すとあったから、彼士の行である後二義は此士の行である第一義の根拠と言える。この三義の次第により、称名 念仏による願生道が大乗の仏道であることが示される。そして、それは﹁此の三種の止は如来如実の功徳より生ず﹂ とあるように、如来の真実功徳の力用に根拠をもつものなのである。 入 第 四 門 は 、
以専念観察彼妙荘厳修昆婆舎那故、得到彼処受用種種法味楽︵﹃同﹄三四五︶ と﹃論﹄の文にあり、それを曇鷲は、 ﹁種種法味楽﹂者、毘婆金口那中有観仏国士清浄味・摂受衆生大乗味・畢寛住持不虚作味・類事起行願取仏土味。 有 如 是 等 無 量 荘 厳 仏 道 味 故 言 種 種 。 是 第 四 門 功 徳 相 。 ︵ ﹁ 同 ﹄ ︶ と、﹁種種法味楽﹂を総相である清浄功徳をもって浄土全体の功徳を示し、続いて大義門功徳で国土荘厳、不虚作 住持功徳で仏功徳、類事起行願取仏土味で菩薩荘厳を代表させた。これは浄土で受用する功徳だが、これを衆生の 上 に 団 施 す る の で あ る 。 だ か ら 、 云 何 観 察 、 智 慧 観 察 、 正 念 観 彼 欲 如 実 修 行 見 婆 舎 那 故 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ 三 二 ハ ︶ と い う 観 察 門 は 、 一者在此作想観彼三種荘厳功徳、此功徳如実故、修行者亦得如実功徳。如実功徳者決定得生彼土。二者亦得生 彼浄土、即見阿弥陀仏。未証浄心菩薩、畢寛得証平等法身。与浄心菩薩与上地菩薩、畢寛同得寂滅平等、是故 言 ﹁ 欲 如 実 修 行 毘 婆 舎 那 故 ﹂ 0 ︵ ﹃ 同 ﹂ ︶ と、第一義の此士にまで広げられる。ここでも親驚の加点は﹁智慧をして観察したまえへりき﹂と如来の観察にな ︵ 日 ︶ る。一般に止観行は智慧の完成のために行うとされるが、ここでは智慧をして観察するのであるから凡夫の行とは 言えない。だから智慧というところに、如来回向ということを見出したのであろう。如実功徳である荘厳を観察す るとあるが、どうして観察できるのかと言えば、その力が如実功徳にあるからと言わざるを得ない。その功徳が衆 一切衆生が観察できるのである。﹁此に在りて想を作す﹂ということは、﹁上巻﹂観 生 に 団 施 さ れ る の で あ る か ら 、 察門釈にあった、﹁有る国土を見そなわすに﹂という法蔵の観察の功徳であろう。さきに引いた出第五門の文に ﹁大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察す﹂とあったのはこのことを表すのだろう。 ﹃ 浄 土 論 註 ﹂ に お け る 五 念 門 の 考 察 五
﹁ 浄 土 論 註 ﹄ に お け る 五 念 門 の 考 察 ム ノ、 第二義は浄土の行で不虚作住持功徳に基づくが、作願門でも述べたように此土である第一義の根拠となる。﹃論﹄ の主旨は﹁観・見・願生﹂であるから、仏を見るというこの功徳が三種荘厳の要となる。掲墳の方では﹁観仏本願 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海﹂とあり、見仏とは本願力と出遇うことと解される。そして速やかに功 力 徳の大宝海を満足せしむとあり、真実功徳が衆生の上に成就することが表される。このことを具体的に、作心を離 れられない七地以下の未証浄心の菩薩が、凡夫の身のままでありながら浄心・上地の菩薩と同じ功徳を得た者とし て の 生 を 賜 る こ と と し て 語 ら れ る 。 ところで上三門と異なり、観察門釈では直接名号に関する文言が見られないので、これは称名ではなく観想念仏 ではないかという誤解を生みそうだが、例えば﹁上巻﹂不虚作住持功徳釈では、 又人間仏名号発無上道心遇悪因縁退入声聞・昨支仏地者。有如是等空過者退没者。是故願言。使我成仏時、値 遇 我 者 、 皆 速 疾 満 足 無 上 大 宝 。 ︵ ﹁ 同 ﹄ コ 一
O
四 ︶ と、曇驚は聞名を仏との値遇と捉えている。 また、紙数の関係上具に述べることはできないが、第三観察体相章の国土荘厳釈︵下巻︶では、光明功徳釈で衆 生の無明を破る阿弥陀如来の智慧が示され、続く妙声功徳釈では智慧が具体的に名号となって働いて衆生を正定来 に入らしめることが述べられる。さらに主功徳ではひとたび浄土に生ずると菩提心が生じ、仏力の住持により再び 三界に戻ってもそれが朽ちないことが一不され、続く春属功徳釈では﹁同一念仏無別道故﹂というところで、一如平 等の世界が開かれることが表される。そして受用功徳では﹁乗仏願為我命﹂と衆生が仏の本願を命として生きる存 在になることが示される。このように、名号によって仏道が成就することが、次第として表されている。 また仏荘厳は、座功徳釈で真如法性を表し︵﹁上巻﹂による︶、そこから五便法身が生じることを、仏の身口意の 三業の功徳を出して示す。﹁下巻﹂では、身業を﹁阿弥陀如来相好光明身﹂と光明で示し、口業を﹁阿弥陀如来至徳名号説法音声﹂と名号で、意業を﹁阿弥陀如来平等意業﹂と平等の意業︵これは﹁上巻﹂性功徳釈から本願であ ることが窺える︶と示し、いずれも﹁荘厳身口意三業用治衆生虚翫三業也﹂と衆生の三業を転じていくことが述べ られる。そして、智業である観察門の中心である不虚作住持功徳釈に至り、さらにそこから方便智業である菩薩荘 厳が聞かれることで出の門が示される。こうしてみると、観察門とは聞名により衆生の宿業が転ぜられていく相が 一不さた文字通り観行体相章であり、五念門の次第を具体的に表現したものであることを窺うことができるのである。 出第五門及び回向門については他日を期したい。おそらく、これも果の出第五門によって、往相還相の二つに開 か れ た の で あ ろ 、 っ 。 当節では、各門の関係に触れておきたい。五念門は一つの門が成立したら他四門も成立する構造になっている。 曇驚より後代であり、また五念門を扱ったものではないが、善導の六字釈を参考にするとこのことが明確になる。 言南無者即是帰命、亦是発願回向之義。言阿弥陀仏者、即是其行。以斯義故必得往生。﹂︵﹁同﹄四五七︶ とあり、﹁南無﹂という礼拝のところに、﹁一心帰命﹂という意味と、発願回向という意味があるとする。発願は作 願願生であり、それが回向される。五念門の回向門に﹁云何回向不捨一切苦悩衆生心常作願回向為首得成就大悲心 故 ﹂ と あ る 通 り で あ る 。 それで、作願・回向が最初かと思えば、﹁阿弥陀仏﹂は一心帰命・発願回向の行であるから、阿弥陀仏から南無 が開けてきて、そこに阿弥陀仏が収まるという関係になる。なぜならば帰命するに先だって阿弥陀仏が無いと、礼 で は 上 巻 の 作 願 門 釈 で は 、 拝しようにも礼拝できない。だから讃歎門が先であっても問題ない。また﹃論註﹄ ﹃ 浄 土 論 註 ﹂ に お け る 五 念 門 の 考 察 七
﹁浄土論註﹄における五念門の考察 人 ﹁ 願 生 安 楽 園 ﹂ 者 、 此 一 句 是 作 願 門 、 天 親 菩 薩 帰 命 之 意 也 。 ︵ ﹁ 同 ﹄ 二 八 三 ︶ とあって作願は帰命の意を顕わすのだとする。 また、観察門に五念門の次第がすべて収まることはさきに述べたし、入第一義諦釈では、 復次此十七句非但釈疑、観此十七種荘厳成就、能生真実浄信、必定得生彼安楽仏土。︵﹁同﹄三二八︶ いずれにしろ経の体が名号である以上、経に相応する﹃論﹂ の 五 念 門 とあるから、観察から始まっても構わない。 の体も当然弥陀の名号である。だから、五念門は組織としてみると聞名の一念が起こる必然性を示すものであり、 客観的に見るのであれば、どこから始まっても成立する性格であると言える。 けれど当事者として主体的に見るのならば、次第としてはやはり礼拝から始まるとするべきだろう。善男子・善 女人の立場からすると知来の智慧の光明と出遇い、虚偽に他ならない己の身の事実を知らされることで無明が破ら れる。この一点を抜きにしては仏道は始まらない。やはり、仏に帰命することから歩みが始まるとするべきであろ
、
っ
。
そしてそれはけっして嫌々ながら帰命するといった不満が残るものではなく、むしろ妄想が晴れたという真の満 足というものを讃歎門は示す。作願は願生浄土の仏道の歩みである。歩みがとまることについて曇鷺は、 尽夫生者上失無為能・為之身、下師三空不空之癒。︵﹃同﹄三二七︶ と三乗地に沈むと警告する。 観察門は弥陀の名号により、衆生の身口意の三業が転ぜられる具体相を示す。それは、五念門の歩みそのものの 次 第 で あ り 、 一心が観念ではなく現実の相であることを表すのである。 回向門は、本願力との値遇を通して真実なるものを知り、それが自ずと伝達されていく力を示すのだろう。 この行の次第は大切である。構造としてはどの門から始めても構わないとしてもそれでは法相が混乱するし、無固有果・他国有果という誤解を生じる恐れがあろう。成立は同時であっても、人間の頭に合うように説くことは大 切 で あ る 。 五念門は世親に建った﹁我一心﹂の根拠となる歴史的な本願の行であり、また現実の生活の上 に歩みとなって現実になった宗教心によって聞かれる世界を顕わしたものであると考える。 以 上 見 て き た が 、 お わ り に かなり散漫になり、それぞれの問題を十分に考察できなかったが、現時点での見解を示しておきたい。 ︵1 ︶成上起下偶にある真実功徳相が五念門の成立根拠とされるのは、これから修行して証るのではなく、すでに 証として成就した如来の行を行ずる、すなわち回向を用いるということを示すものである。五念門は果の五功徳門 によって成就するという従果向因の関係となり、また今度は因の五念門が果を成就するという因果一如の構造を持 っ。これは、五念門がある特定の個人や集団に属するものでなく、常に行ぜられている本願の歴史の行であること に 起 因 す る 。 ︵
2
︶作願・観察が此土・彼土に分けられたことについては、五功徳門から照らして彼士から此土における功徳を 聞いてきたと見るべきだろう。浄土の荘厳は常に衆生のために大鏡益をもたらすものであり、穣土の衆生に無関係 にあるのでなく、名号を通して普遍的に働きかけるのである ︵ 3 ︶五念門を組織としてみると一門が成ずると他四門も成立するという不可分の関係であるが、弥陀の名号が無 いと一門たりとも成立しえない。また客観的に見ればどこの門から始まっても良いが、主体的に考えると礼拝・讃 歎・作願・観察・回向の次第となる。法を説く側と、聞法する側の立場は厳密に分けなければならない。世親と曇 ﹃浄土論註﹂における五念門の考察 九﹁ 浄 土 論 註 ﹄ に お け る 五 念 門 の 考 察 驚は開法する仏弟子の立場を貫いたと一吉守える。五念門は﹁我一心﹂の背景であり、また願生道が成仏道であること
。
を示したものなのである。 註 ︵ 1 ︶ ︵ 2 ︶ ︵ 3 ︶ ︵ 4 ︶ 良 忠 ﹁ 無 量 寿 論 註 記 ﹄ ︵ ﹃ 浄 土 宗 会 書 ﹄ 一 ・ 三 O 八 頁 ︶ 殿 内 恒 ﹁ 真 宗 相 承 に 見 る 五 念 門 の 意 義 ﹂ ︵ ﹁ 真 宗 研 究 ﹂ 四 八 ・ 三 四 頁 ︶ 香 厳 院 恵 然 ﹃ 浄 土 論 註 顕 深 義 記 ﹄ に よ る 。 ﹁ 論 ﹄ ・ ﹁ 論 註 ﹄ で は 菩 薩 荘 厳 に 名 は つ け ら れ て い な い 。 香 厳 院 恵 然 ﹃ 浄 土 論 註 顕 深 義 記 ﹄ ︵ ﹃ 真 宗 大 系 ﹄ 七 ・ 四 四 七 頁 ︶ 深 諦 院 慧 雲 ﹃ 往 生 論 註 服 宗 記 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 全 書 ﹄ 十 ・ 八 三1
八 四 頁 ︶ 前四念を往相自利、後一念について還相利他とする点に関しては、見解を異にするが今回は触れない。 ﹃ 真 聖 全 ﹄ 二 七 O 、二九八頁、香月院深励﹃浄土論註講義﹄二九 O 頁、勧学寮編﹃浄土論註校異﹄二五頁 悌教大学総合研究所﹃無量毒経論校異﹄一八頁 安 田 理 深 ﹃ 教 行 信 証 証 巻 聴 記 ﹄ E ・ 二 七 三 1 二 七 六 頁 参 照 ﹃ 右 同 ﹄ 一 三 O 頁 参 照 義山本では﹁彼の固に生ぜん云う意を為すが放なり﹂と読む。 義 山 本 で は ﹁ 心 に 常 に 作 願 し ﹂ と 読 む 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ 一 一 一 一 一 九 頁 ︶ 義 山 本 で は ﹁ 智 慧 を も て 観 察 す ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ ︶ ︵ 5 ︶ ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶ ︵ 8 ︶ ︵ 9 ︶ ︵ 叩 ︶︵日︶ 凡 例 漢字については、当用漢字を含めた現行の通行体とした。 ︵ ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹂ 一 ・ 二 三 八 頁 ︶性起と修起
真悌土と悌性の一考察| 大谷派井
上
重
信
一、はじめに 宗祖は﹃教行信証﹂真偽土巻に於いて﹃浬繋経﹂を引き、﹁一切衆生悉有働性﹂義を尋ね、次いで﹁論註﹂の ﹁性﹂の四義、即ち性起・修起説などから誓願に酬報する虞賓報土の内実を明かす。曇鷲は、﹁願生偏﹂の﹁正道 大慈悲出世善根生﹂を﹁荘厳性功徳成就﹂と名づける内実を﹁論註﹂に具さに説く。即ち浄土は真如法性にかない 性起した悌士であると同時に法蔵菩薩修起の報士であって、法性が顕現した性起の世界であることを明かす。此の ︵ 1 ︶ 性起と修起は何処までも必然的相即的関係として捉えられる。当稿は備性義、就中この修性二起の関係等から真偽 土 の 内 実 を 窺 う 試 み で あ る 。 ︵ 2 ︶ ︵ 3 ︶ 宗祖が、悌性に就いて信心悌性・浬繋偽性と説き、悌性を人聞に内在するものという視点からではなく、性起を ︵ 4 ︶ あと付ける修起に焦点を置く如来の本願からの用きとして受け止めている点を注目したい。﹁性﹂の内容が本の義・ 積習の義・聖種性の義・必然不改の義の四義で明かされると、改めて悌性が如来による一切衆生救済の用き、大乗 性起と修起性起と修起 の道理として確認される。そのように見た時、二十九種荘厳の根本義・原理を表す﹁不虚作住持功徳﹂が注目され てくる。﹁本願力にあいぬれば 空しくすぐるひとぞなき 功徳の賓海みちみちて 煩 悩 の 濁 水 へ だ て な し ﹂ と 、 ﹁高僧和讃﹂が﹁不虚作住持功徳﹂の内実を、阿弥陀悌の浄土は虚作ならざる本願力に住持せられた功徳と明かす。 それは法蔵菩薩が永劫の積習によって成就する﹁在る如来﹂に決して留まることの無い﹁成る如来﹂として、因位 の本願力︵不虚作︶に限りなく回帰して往く﹁修性一如﹂の菩薩行︵住持︶を顕すのであり、同時にそれは親驚の ︵ 5 ︶ 生涯を貫徹する偽道︵功徳︶であった。曇驚大師の明かす性起と修起は、真如法性が真偽士として具体的に顕現す る第一義の証文として前面に出される修起、即ち﹁成る如来﹂としての修起︵因︶が、﹁在る如来﹂としての性起 ︵果︶によって、又﹁在る如来﹂の性起︵因︶が﹁成る如来﹂の修起︵果︶によってその存在が証明されるという ﹁ 因 果 縁 起 ﹂ 、 調 わ ば 交 互 成 就 の 関 係 に あ る こ と が 領 解 さ れ よ う 。
二、真悌土の義意
ー、民宗教義の起点としての﹁昆備土巻﹂ 宗 祖 は 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹂ ﹁ 教 巻 ﹂ の 冒 頭 で 、 謹んで浄土真宗を案ずるに二種の廻向あり。 一つには往相、二つには還相なり。往相の廻向について、員賓の 教 行 信 証 あ り 。 ︵ 以 下 ﹃ 教 行 信 証 ﹂ の 引 文 経 典 は 凡 て 原 漢 文 ︶ と顕し、又、﹁謹巻﹂目頭では︵以下引文等の傍線は凡て稿者付す︶ 異質詮をあらわきば、すなはちこれ利他円満妙位無上浬繋の極果なり。すなはちこれ﹁必至滅度の願﹂よりい でたり。︵中略︶往相廻向の心行をもつれば、すなはちのときに大乗正定衆のかずにいるなり。︵中略︶しかれば禰陀如来は如より来生して、報鷹化、種々の身を示現したまふなり。 と、まず虞宗の教相を判じ前四巻で衆生往相廻向の成就を明かす。後段の﹁しかれば:・﹂以下には、知来・法蔵菩 薩の還相廻向の意を開示する。異賓の教行信証四巻で一一の願が衆生に成就したことを見届けた法蔵書薩が次に自 身の誓願が成就する、即ち﹁必至減度﹂という往相廻向の願果﹁無上浬繋の謹﹂が次に還相回向︵因︶となって衆 生に用きあらわれる、誓願酬報の浄土を開顕するのが﹁真偽土巻﹂の義意であり、その内実を﹁性起と修起の関 係﹂から尋ねるのが当稿の主題である。
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、 ﹁ 真 偽 土 巻 ﹂ の 来 意 ﹁ 真 偽 土 巻 ﹂ 冒 頭 に 、 謹んで真偽土を案ずれば、備はすなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればす なわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、農の報偽土と目、つなり。すでにして願います、すなわち光明・寿命の ︵ 6 ︶ 願 こ れ な り 。 とあるが、真偽土は智慧といのちをあらわす光寿三無量の第十二願・十三願で成る法身・如米大悲の用きであり、 此の内実は還相廻向の在り様を問うものである。換言すれば、十方衆生を以て悌自身と成さしめる用き、即ち十方 ︵ 7 ︶ 衆生の上に備を成就する根本願の願意であり、法蔵菩薩が因位の積習を経てはじめて正覚を取って誓願成就した果 成が亘書願酬報﹂の真偽士であった。 ︵ 8 ︶ 開華院法住師は﹁教行信証金剛録﹄で、 この﹁真偽土巻﹂は其衆生の証果を得る慮は此土にあらず、化土にあらず、農賓報士の証なりと顕はす此巻な り。故に上来教行信証真偽土の五巻の次第は、真偽土より顕はれたる虞賓教の﹁大経﹄によりて、員賓行の名 性起と修起性起と修起 四 競を説き顕し、その名競の謂れを聞いて深く信ずる虞賓信によりて、翼賓証を得、持むところの備は不可思議 光如来なり、見るところの浄土は無量光明士なりとあらはすが、民賓五巻の次第なり。 と、衆生が証果を得るのは法蔵菩薩の誓願に酬報して成就した虞賓の報士であると断じ、続けて﹃教行信証﹂前五 巻が﹁真偽土より顕われたる・:﹂と、真偽士を異賓の教行誼開顕の根本に据え、異宗教義の骨格﹁往還二回向﹂を 成立させる﹁真偽士巻﹂の重要性を示教する。﹁現生に於いて浄土の心に立つ信のあり方を問う﹂と言う親鷲の悌 道観から判じて、浄土真宗立教開宗の根本聖典﹃教行信証﹄は﹁真偽士巻﹂から始まると領解されて然るべきなの で あ ろ う 。
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、親鷲の備身観の確かめ 大乗偽教各宗の﹁法身・報身・感身﹂三身説を親驚も用いるが此処では三身説の詳細は省く。但、法蔵菩薩の発 願に酬報して法蔵自身が阿弥陀如来として成倒したという本願成就の主体的事実を領解する宗祖の悌身観は、あく まで阿禰陀を﹁報身悌﹂とする思想で貫かれる。もとよりこの三身は一悌身の三面性を表したものであって別個の ︵ 9 ︶ ものでない事は云うまでもない。 ︵ 叩 ︶ 親 鷺 は ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ に 、 法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一知よ りかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比正と名乗り給いて、不可思議の大誓願 をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無擬光如来と・なづけたてまつりたまえり。こ の知来を報身ともうす。誓願の業因に酬いたまえる故に、報身如来ともうすなり。 と、宗祖の偽身観が鮮明に述べられるが、注目されるのは前段で﹁いろもなし、かたちもましまさぬ﹂法身の方便として報身如来を説き、その現働する如来の用きを述べているが、本来凡夫には覚知し得ない如来の用きをそのま ま対象化せず、後段できちんと﹁かたちもいろもましまさぬ﹂法性法身に帰してあるところに親鷲教学の確かさと 底の深さが見定められる。承前引文して﹁報身﹂の義意を確かめておく。︵承前︶ 尽十方無碍光備ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明のやみをはらい、悪業に さえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。無碍は、さわりなしともうす。しかれば、阿弥陀悌は、光明 也。光明は、智慧のかたちなりとしるべし。 ︵ 日 ︶ 是れと略同じ宗祖の見解が﹃一念多念文意﹄にも表明されてある。柳か重複するが宗祖にとっての真偽が方便法身 としての阿蒲陀の報身であること、又方便の義意を確かめておく意味で敢えて引用する。 この一如賓海よりかたちを顕して、法蔵菩薩と名乗り給いて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿 禰陀悌と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり。これを尽十方無擬光悌となづけたてまつれるなり。 この如来を南無不可思議光悌とももうすなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便ともうすは、かたちを あらわし、御なをしめして衆生にしらしめたまうを申すなり。すなわち、阿禰陀備なり。この加来は、光明な り。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ、不可思議光備ともうすなり。こ の如来十方微塵世界にみちみちたまえるがゆえに、無辺光悌ともうす。しかれば、世親菩薩は、尽十方無磯光 如来となづけたまえり。 先ず最初の傍線部分は、法身からあらわれた法蔵菩薩と、その誓願が成就して報身悌・阿粥陀如来となった由縁が 説かれる。此の如来を方便法身といい、方便の内賓を語る。後半では悌智を微塵世界に遍満する不可思議光如来と 言い表わす。無辺光悌・尽十方無擬光加来は、一切の衆生を悉く救済する備の用き、即ち悌性であり、﹁微塵世界 に遍満する﹂は畢寛﹁一切衆生悉く悌性の中に有り﹂の意に繋がるのではなかったか。 性起と修起 五
性起と修起 ム ノ、 4、光寿ニ願の内実 備の慈悲を顕す第十三寿命無量の願の寿命は体、悌智を意味する光明第十二光明無量の願の光明は悌の用きを顕 すが、働そのものに体があるのではなく、あくまで悌の慈悲が発現する衆生の無量のいのちを体とし、その六道輪 ︵ ロ ︶ 廻の衆生の無明の閣を破する光用を象徴するのが光寿三無量﹁摂法身の誓願﹂であると解釈されよう。池田勇諦師 lま 親驚にとっては光寿無量の願は単に﹁摂法身の願﹂でなく、そのまま﹁摂衆生の願﹂であったことにより、二 願の成就は如来の自利利他成就にほかならなかった。それを告げる﹁不可思議光如来・無量光明士﹂であるこ とはまさしく本願成就の﹁悌・土﹂であり、それが共に﹁光明﹂で象徴されるところに、衆生にとって自らの ﹁無明の闇﹂を破せられる光として体験される悌土であることを示している。しかもその体験の釈尊における 告白こそ、光明無量の願成就の十二光でなかったか。であれば十二光はどこまでも照らされた者の感動であり 讃嘆の表現として、十二光の一一の義はそのまま本願名競によびさまされた救済の内実、一言いかえれば利益を ︵ 日 ︶ 告げるものと言えるであろう。 と、不可思議光如来と無量光明土の内実を講説する。智慧の光明無量の願と慈悲の寿命無量の願は不二一如であり、 無縁の大悲となって衆生救済に用く交互成就の関係であることが此処からも窺える。 前に述べた通り教・行・信・証四巻は衆生往生の誓願が成就した内容であり、法蔵菩薩が衆生の成悌を見届け、 その満足を得てのち今度は悌自身の成就を実現する報土を明かすのが﹁真悌士巻﹂なのであった。悌自身の誓願成 就は衆生の往生成就を必然的に伴うものであれば、備土が何処かにあって私が往く処と、謂わば対象化して考える と辻棲が合わなくなる。備の成就を顕す摂法身の三願は、謂わば根本願である第十八願﹁如来に拠る衆生救済の用 き﹂を具体化する大悲の願と考えられ、第十二・十一一一光寿無量の願が﹁真偽士巻﹂に標挙される所以が領かれる。
したがって﹁光寿二願﹂は摂法身の願であると同時にそれは摂衆生の願でもあるという領解が成立するのである。 付言すれば、﹁化身土巻﹂は、われらをよび覚まそうとする如来による衆生救済の用き﹁法の願﹂︵第十二・十 三・十七願︶を、救済の対象である﹁機の願﹂︵第十八・十九・二十願︶に於いて宗祖自らが自謹された文類と領 解されよ、っ。親鷺の三願転入の趣意を窺、っとき、三願を順次わたり巡るという平面的思考でない事だけは確かであ る 5 、大悲の願の用き ﹁真偽土巻﹂冒頭に﹁大悲の誓願に酬報するがゆえに虞の報悌土というなり﹂とあり、﹁行巻﹂の冒頭、﹁しかる にこの行は、大悲の願より出でたり﹂と表わされてある。光寿二無量がなぜ大悲の願であるか。 善導が﹁光明名競をもて十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむれば:::﹂と表明する内実は一言で言 えば﹁われらを光明で摂化し、名競を以て覚醒させる﹂如来の用き、つまり大悲なのであるの如来による摂取とい う用きを光明を以て象徴し、名競を以て衆生を覚醒させる用きが光明名競であれば光寿二無量は正しく大悲の願で ある。この光明によって無明の聞から覚醒された相が信心であり、その信心によってはじめて如来の大悲によって 摂取救済されるという、謂わば法が機に用き、機が法に転じられると理解されるのである。それが悌の誓願成就す る、誓願酬報の真偽土であると領解されよう。次に﹁真偽土﹂の義意が﹁傍性義﹂を尋ねることで全うされること を 確 か め た い 。 性起と修起 七
性起と修起 j
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三、真悌土と親鷺の悌性観
ー 、 ﹃ 浬 繋 経 ﹄ 引 意 の成就、即ち﹁真偽土﹂成立の根源を偽教の最高思想とされ る﹁悌性﹂に求め、故に仰性論の根本経典である﹃浬般市経﹄を﹁真偽士巻﹂に多引し、﹁浬繋偽性・信心悌性﹂と いう親鷲独自の偽性観を展開して虞賓報士の内実を開顕する。小川一乗師は﹁﹃浬繋経﹂の主題は法身常住であり、 そのことを知らしめるのが悉有働性である。そこには法身常住としての悌性が説かれている。親鷲聖人は、その悌 ︵U ︶ 性と一百う課題のためにここに﹃浬繋経﹂より多くの文証を列挙している。﹂と講説するが、親鷺は、無常・昔・無 親鷲はすべての衆生一人一人を体とする偽︵大悲︶ 我・不浄なる虚仮の世間に生きる衆生を﹁唯悌是虞﹂の真偽土に往生させ、常・楽・我・浄の無上大浬繋に至らせ る 用 き を 、 ﹁ 備 性 ﹂ と 見 据 え た の で あ る 。 然しながら親鷲は、悌に成る種・悌の本性とされる悌性が﹁一切衆生に悉く悌性有り﹂と言われるような意味で 衆生に本来的に摂在するとは考えていないようである。その根拠を道縛禅師の﹃安楽集﹄から引かれである﹁選択 ︵ 日 ︶ 本願念働集﹄冒頭三百齢字の文に見出す。 一 切 衆 生 皆 有 二 働 性 ﹂ 遠 劫 以 来 醸 し 値 一 多 偽 ﹂ 何 因 至 レ 今 、 伺 自 輪 二 廻 生 死 一 不 レ 出 二 火 宅 J 答 日 。 依 一 大 乗 聖 教 λ 良 由 レ 不 F 得 一 4二 種 勝 法 一 以 排 中 生 死 伊 ︵ 以 下 略 ︶ 親鴛は阿禰陀の化身仰と仰ぐ法然上人がその主著の官頭に是れを引く真意を、未だ悌性を見、ざる﹁不出火宅、信心 ︵ M m ︶ 不定﹂の凡夫にわが身を重ねて、﹁信心が悌性﹂と告げたのではなかったか。信巻に﹃観経疏﹄︵散善義︶の文を引 間 目 。 き 、 人 間 の 本 性 を 、不 レ 得 一 一 一 外 現 一 賢 善 精 進 之 相 ﹂ 内 懐 一 虚 仮 ﹂ 貧 眠 邪 偽 、 好 詐 百 端 、 悪 性 難 レ 侵 、 事 国 蛇 蝿 。 ︵ げ ︶ と看倣し、又﹁唯信紗文意﹂には 具縛の凡夫、屠泊の下類︵中略︶かゃうのあきびと、猟師、さまざまのものは、みないし・かはら・つぶての ご と く な る わ れ ら な り 。 と、﹁凡夫としての機の自覚﹂に徹する親鷲自身を含めた罪悪深重の人間観を表明する。このような無傍性の衆生 が如来の救済を自身に発現する道を、親驚は同じく﹁唯信紗文意﹄に、 善悪の凡夫の、みずからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをさかしくかへりみ ず、また人をよしあしとおもふこころをすて\ひとすじに具縛の凡夫、屠泊の下類、元碍光悌の不可思議の 誓願、康大智慧の名競を信楽すれば煩悩を具足しながら元上大浬繋にいたるなり。 と、他力の信心に覚醒することを教示して己まない。さらに﹃歎異抄﹄十五章にある如く、 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。︵中略︶ ﹁浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてきとりをばひらくとならいそうろうぞ﹂とこそ聖人のお お せ に は そ う ら い し か 。 と、暗に煩悩具足の衆生の信心獲得以前の悌性内在、即ち天台等の既存悌教に於ける悌性の本具・本有説を親驚は 容認していないことが窺知されよう。要するに親鷺は衆生に知来の信心が覚醒される時に偽性が発現すると捉えた の で あ る 。 2 、信心偽性の由縁 ﹁唯信妙文意﹄に、親驚の悌性観﹁浬繋・偽性 H 信心・偽性﹂の内実を窺う。 性起と修起 九
性起と修起
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浬繋をば滅度・無為・安楽・常楽・実相・法身・法性・真如・一如・悌性といふ、備性即ち如来なり。この如 ︵ 川 口 ︶ 来、微塵世界に満々たまえり、即ち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆへに、この信心即ち悌 性なり。偽性即ち法性、法性即ち法身なり。 親驚は、浬繋を法性法身の﹁浬繋偽性﹂と受け止め、此の悌性の用きである大悲の誓願を廻向されるところにはじ めて発起する信心を﹁信心悌性﹂と見定めたのであった。﹁行巻﹂に引く﹃浬繋経﹄﹁獅子肌品﹂には、 善男子、畢寛に二種有り。一者荘厳畢寛、二者究克畢寛なり。一者世間畢寛、二者出世畢克なり。荘厳畢寛は 六 波 羅 蜜 な り 。 究 克 畢 寛 者 、 一乗者名付けて悌性と為す。是の義を以ての故に、 一切衆生悉く一乗有り、元明覆えるを以ての故に、不能得見。 と、明らかに此処では一切衆生に一乗、即ち悌性が有ることが説かれ、天台は衆生の求道心を喚起させる意図で一 切の衆生に偽性本有︵本具︶を教相とするが、親驚は﹁元明に覆われた衆生﹂を﹁本願の信心を疑惑する衆生﹂と 看倣し、この類の人聞が親驚も含めた大多数である事賓に立って、通悌教の﹁一切衆生悉有働性﹂解釈とは異なる 一 切 衆 生 得 る 所 の 一 乗 な り 。 我一切衆生悉有働性と説くなり。 見解、即ち﹁究克︵出世︶畢寛﹂である証果としての大般浬繋を悌性︵如来︶と見据え、因位の﹁荘厳︵世間︶畢 寛﹂を他力廻向の﹁信心働性﹂とする偽性観を確立受容するに至ったのではなかったか。 ﹁ 真 偽 土 巻 ﹂ 末 に 明らかに知りぬ、安養の浄利は農の報士なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性をみることあたわず、煩 悩 に 覆 わ る る が ゆ え に 。 と、あくまで煩悩具足の身に偽性を当来させない。但、﹁大経﹄の本願三信心﹁真実信心﹂によって廻向される ︵ 幻 ︶ ﹁願作仰心﹂を﹁度衆生心﹂として、親驚は﹁唯信紗文意﹄に この信楽は衆生をして元上浬繋にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなわち偽性なり、すなわち如来なり。 と、唯一煩悩具足の身が本願信楽によって無上浬繋に至らしめられ、 この信心をうるを慶喜といふなり、慶喜するひとは諸悌とひとしきひととなづく。慶は喜ぶといふ、信心をえ でのちに喜ぶなり︵中略︶信心をえたるひとおば分陀利華とのたまへり。 と、信心獲得が分陀利華の大前提であり、親驚は衆生に於けるそれ以前の悌性存在を語らない。親鷺の悌性観はあ ︵ 幻 ︶ くまで信心を得て﹁安楽園に到れば、すなわち必ず悌性を顕す﹂と断じる。親鷺が深重罪悪の衆生を我身に見て、 ﹁浬繋:::偽性﹂が衆生に於いて成就するのは、衆生に大悲の誓願を仰ぐ金剛の信心が本願力の廻向に由って自諾 されて初めて発現するものであり、それは一切衆生の救済という法蔵菩薩の誓願成就と同時間義的性格のものであ っ た 。 衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、例性を見ることを得ん。 ︵ M ︶ この﹁浬繋経﹄の経文の﹁未来﹂が時間的流れのそれでない事は一言、つまでも無いが、親驚はこの経文において、他 力の信心︵因︶を以て悌性︵果︶なりとする﹁信心偽性﹂を確かめたのであろう。尚、前に引いた﹃唯信紗文意﹄ の﹁この一切有情の心に方便法身の誓願を信楽するがゆへに、この信心すなはち偽性なり、この悌性すなはち法性 ︵ お ︶ なり、法性すなはち法身なり﹂の論拠は﹁浬繋経﹂三十二獅子肌菩薩品の﹁善男子大慈大悲名為悌性。︵中略︶大 信心者即是偽性﹂に見出せる。これを﹃浄土和讃﹄に、端的に浬繋偽性と信心悌性との関係性と内実を顕すようで あ る 。 如来即ち浬繋なり 浬繋を悌性と名づけたり、凡地にしては倍られず、安養にいたりて誼すべし 信心喜ぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は偽性なり悌性すなはち如来なり 性起と修起