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建 長 八 年 肺 ヨ リ 貞 治 三 年 甲 辰 マ テ
百九年ツキノミノトシヨリヒラタノ
タウチヤウハシマルタツノトシマテ百八年也
法然上人辰マテ百五十三年
親鴛上人辰マテ百三年
貞治三年肝九月二日
上宮
寺本
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二河念働相承日記
主唯仏
三河園専修念悌根源事
A 口
建長 八年 間十 月十 三日 ニ薬 師土 手ン テ
念偽ヲハシムコノトキ真偽聖人顕智
聖人
専信
房附
刊紙
一諮
耕一
臥念
︵ 上 ︶
ソウ シテ 主従 四人 御正 洛ノ トキ 汁立 一司 市寺 ニ
御下向ニハ顕智聖ハ京ノミモトニ御
トウリウ三人ハスナワチ御クタリトキニ真
働上人オホセニテ顕智坊ノクタランヲハシ
ハラクコレニト︑メテ念仏ヲ勧進スヘシトオ
ホセニシタガヒテ顕智ヒジリオナジキトシノ
出家ノ後スヘニ御下向ノトキ権守トノ一云
円善
一房
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新発見の古写本﹁一二河念仏相承日記﹂について
トキ顕智ヒジリノ御ス︑メニテ権守殿ノ嫡子
ケ袈裟太郎殿出家シテ信願房念仏法名出家トモニ
顕智聖人相侍ナリソノホカ御居住ノア
︵ 姓 ︶
イタニ念二入人数名性事
監帳次郎二人三郎大夫二人庄司太郎二人 回 侠 四 郎 二 人 渡 次 郎 二 人 検 校 太 郎 二 人
賓成坊二人
弥王次郎二人権次郎二人
光信坊二人善性坊一人入願坊一人
光因坊二人藤四郎二人弥五郎一人
女性
ハ 弥勅御前弥四郎一人弥藤次一人
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乙王御前一人ミナ
夕︑シ乙王御前シサイアリカミノ袈裟太郎殿トモ 鶴宮御前
ニソウシテ三十五人也コノナカニ庄司太郎殿顕
智上人ヲ平旧イレマイラセテ道場タツ
正嘉 元年 己
ツキニ信願御一房アッウミノ庄アカソブニ
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九シテマタハシメテ道場ヲタツソノノチ圏
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高田ト︑マテ死去ソノ門流回全日同十三御
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スナハチ顕智ヒジリオントモシテ高田マイル
マタ佐塚ノ専性輔瓶一軒ホノ同十七カノ御トシ
道空坊夫妻トモノマイル
イマ三河ノ念偽弘通ノミナモトヲシルスコ
トハ高田ノ顕智ヒジリノオンモノカタリナ
ラシニアカソフノ信頼ヒシリノイニシヘノ
オンモノカタリニツキテタイカイハカリヲシ
ルストコロナリコ︑ロアラン人コノヲモキヲ
モツテ存知アルヘキモノ也コノホカ和田ノ
信寂ヒジリイニシへヲシタイ夫妻トモ
新発見の古写本﹁三河念仏相承日記﹄について
九
新発見の古写本﹁一二河念仏相承日記﹄について タカタヘオンマイリノ事
レキセン也シタカイテアマ性空ノオンパウ
念偽サウテンニヨリテ顕智ヒジリノミ
エイアンチノ事レキセン也︑ンカレハ寂静
ノオンハウニイタルマテシサイアリシ事
トモ也
建長八年開ヨリ貞治三年甲辰マテ
百九年法然上人辰マテ百五十三年 親 貞 鷺 治 聖 三 人 年 辰 辰 甲 マ
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里吉 日¥
人王八十五代後堀河院御宇 下 嘉 野 禄 闘 二 大 戊 丙
庄議
内 建 鴛聖人
五 十 四 歳 高田山専修寺閉山親驚聖人
九
承 一 元 の 法 難 考
||起因と宗祖遠流の背景について ll
本 願 寺 派 今 回
法 雄
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一
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その起因について
いわゆる承元の法難は承元元年︵建永二年︶
約八百年前︑宗祖親驚聖人だけでなく法然上人や門下の死罪流罪にいたった起因については謎が多く︑その人数︑
一 二
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七に起った一大事件である︒日時についても諸説があるところである︒
宗祖の生涯においてこの法難のウエイトがいかに大なるか﹃教行証文類﹄の後序の内容に明確であり︑師法然上
人と︑教えとの出会いや︑法難による離別の記述は︑人生の多くを記録しない宗祖にとって例外的といえる︒
ただ承元の法難に関しての記述は抽象的であり︑なぜか透明度を低くした感もある︒
一般に法難の起因とされる通説は︑建永元年三二
O
六︶年末に︑後鳥羽上皇の熊野御幸の留守中︑院に仕える女官二人が無断で︑六時礼讃の行事に参加︑出家した事から始まる︒京都へ還御した上皇がそれを知り激怒したと
いう伝承は広く伝わっている︒
承元の法難考
九
承元の法難考
九 四
六時礼讃を主催していた住蓮︑安楽は法然門下であったため︑女官出家の事件は浄土宗弾圧へと発展し︑法然門
下の死罪︑流罪にいたる事は周知の通りである︒
ところがその死罪流罪までの事件の始終には通説が多く︑謎だらけといってよかろう︒
後鳥羽上皇にとって女官二人は特に寵愛の二人であったとも伝わるが︑実際には上皇には﹁亀菊﹂という寵愛の
女官が実在したといわれ︑承久の乱の際も隠岐に同行している︒
有名な松虫・鈴虫という女官二人の名も江戸期から親鷲伝に登場するものである︒
ただ当時の六時礼讃行事が貴族屋敷で行われ︑女性にも人気があった点は確かであり︑都の中で諸々のうわさの
一万となっていたと想像出来る︒つまり住蓮・安楽の布教スタイルが一大法難の起因の一つというのは否定出来ない
であ
ろう
︒
また当時の後鳥羽上皇には︑それまでに南都北嶺の圧力が存在した事も確かで︑興福寺奏状は︑浄土宗批判の代
表的行動でもあった︒
よって承元の法難が住蓮・安楽だけの罪でない事は理解出来る︒ただ多くの研究者が指摘しているごとく︑僧侶
の死罪は重刑すぎるといえる︒通常ならば住蓮・安楽は遠流の刑として︑宗の代表の法然上人は近流又は叡山預り
という形でもおかしくはない︒
私はここで歴史の大きな背景を感じている︒それは右に通常と記したが︑その通常でない事情が︑後鳥羽上皇に
当時あったのではないかという事である︒私が注目したのは院政四代の中で後鳥羽上皇の異常な頻度の熊野御幸で
︵2︶ ある︒資料A
を参
照す
ると
︒