介な情婦の姿であらわすほかないのだが、彼女は終始無言であり、彼女から 私に発すべき命令までも彼女のために設けてやらねぼならないだけに、一層 暴君じみている。しかも私がその命令を履行することができるのは、限F)な
エクリチュール
く独異な種類の書き物の秘めたる力によってのみだ。そんな書き物を、私は
シニヤチごL−−ル やがて署名とよぶだろう。決して満ち足りることのない物の要求汝支払ウベ
シ、それは必然的に言葉も名ももたぬ一人物の姿をとって、『プロエーム』
序文の中に身を傾けて、つまりイタリック体であらわれる。
《物を書きはじめて以来、まるで私ほある一人の人物の評価を追い求めて
いて、 しかも全然そんな成功をおさめることがないといった具合だ(少なく とも私はしばしばそんな想像をする)。
この人物がどこに位置するかとか、私が追いかけるに催するか、などはど うでもいい。≫
ノン
無名のこの人物が彼にむかって常に否と言うのは明らかだ。これでは充分 じゃない、この程度の贈物では満足できない、と。(…)
ショーズ 御推察のとおり、〔今日のところは〕≪フランシス。ポンジュが私の物にな
ろう≫、これはもし今日とい
.
ほとんど嘘にはならないところだ。
だがあなたがたは良識を苛立たされてこう言われるかもしれない。一体ど うして、一個の物が人に命令を口述したりできるだろう、指図したり、要求 したり、勧告したi)できるだろう、と。
フランシス。ポンジュは答える、ただ単に(よく耳を傾けられよ)彼は書 く術を一物を書く術を−わきまえているという事実をもって。〔実のと ころ、自分は物を書く際に己れの声を聴きとるのだと。r吼rle f由t馴11
s細tend島台crire一−−1a chose.〕
ユ「アユヌマン 私がここで敢えて行おうとするところのものは、一つの出来事であらねば
ならない。
従って私はポンジュの掟に二重に従うことになる。第一に、今この席にわ れわれを参集させるに足る法的効力を発揮している合意事項に鑑みて、私ほ 自分の申し述べることがただ彼にのみ妥当し、かくして何らかの適合性を保 持する場合にしか、何ごとかを語ったということにならないだろう。言いか えればこれは、フランシス・ポンジュのごとき何物かに密着せんばかi)に、
適切に〔固有に、本来的にproprement〕関与するのでなければならない。〔第
一 33 −
ソ・ミざ∴ト∴エ・−ミ・〜■J、∴・ミニニ甘一j小J㌧手,
抄訳および覚書
内 田
1975年8月、スリジー=ラ=サルで催されたフランシス・ポンジュをめく1−るシンポ ジウムで、ジャック・デリダほ午前・午後の二部の陳述を行なった。その際朗読され た断片的テキストが、Sign6pongeの表題のもとに、紆rancis Ponge:Colloque deCerisy≫(Coll.10/18,1977)と雑誌≪Digraphe≫(No・8,mai1976)に分割掲 載された。前者が当日の発表の前半(午前の部)、後者がその後半(午後の部)に相
当すると考えられる。
以下に読まれるものは、元来断片的なテキストの部分的転写にすぎない上記ニテキ ストから、きらに疎らに訳出を試みたものである。事情によってわれわjtもまたこれを 二部に分割せぎるをえなかった。ただしこの第一部は、Coll・10/1引振のp・11卜138に 該当するのみで、その全体を包みこむものではないDそしてここでは、とりわけ物の 掟、名の掟、契約関係の著しい非相称性、署名という出来事、また国有なるものへの
欲望について語られる。
ポンジュ印スポンジ
Ⅰ
……ところで物とは、ただ価格をつけようもなく取引の埼外に留まる限り
ヽヽヽヽヽヽ でのみ、飽くことを知らぬ汝支払りべシだ。そこから、物を私の物として取戻 し、同時にその本来の姿に帰すこと(1ar6appropriation)の不可能性が生じ
る(…)。従って物はこの取引において、一人の人物、いやむしろ一人の厄
一 32  ̄
して一般的な署名者であり、かつチの名の主である者自身によってさえ模倣
シニヤチエー/し
不可能な署名作品であるならば。しかしやはり、特殊個別性にも或る法則と
}種の類型学が存在する。われわれの煩悶も実にそこに由来するのだ。一切 の署名に作用し、それを構築しているドラマ、それはそのつど代替不能にと どまるところのものの、執拗な、倦むことのない反復、特定の傾向性を示し つつも無限なその反復である。それ一彼、ポンジェーは諸々の出来事につ いて己れの力を発揮する〔諸々の出来事に関与するils/agit d′如るnements〕、
なぜならそれは彼の名に、また彼の書き物に参与しているからだ。それは常 にそこに、背後にあって、彼を作り為しつつ、彼が為すところのものをあな たがたに明らかにするのだが、同時にまた、それを解き明かしたり顔示した
シミュチークル ー)することばないのである。その結果、彼の解明の模像はただ、解き明かす
べきもう一つ別のテキストを投げ返すことにしか価値をもたないことになり、
あなたがたに支配掌握のいかなるチャンスも残さないが、しかし彼の作業に ついては何一つ隠しだてをしないのだ。(…)また彼は常に名を記し、日付を
トポス 入れつつ進む。このことは署名というものの奇妙な構造や、またその根拠、
つまり署名はテキストの内部にして外部、その縁辺〔境界〕に場所を持つと いう点を考癒した場合、あの著者の死みるいは抹消ということと矛盾しはし ニケチュール ない。この点で、署名の場所たる縁辺から、彼の署名作品は伝記的ないし心 理主義的批評(あるいは文学)を、精密度の足i)ない粗雑にすぎる機構とし て頓挫させてしまうだろう、それがどんなに洗練され、近代化ぎれた形儲を 示そうとも。それはまた、余りにも性急にテキストの内部と信ぜられるもの の中に閉じこもって、署名をテキストの舞台化。演戯化・または深淵化から 免れた外部に位置づける、形式主義的。構造主義的な批評(ないし文学)に 対しても同様だ。さらにまたそれは、この縁辺からほぼ30年釆ポンジュ読解 を支配している二種の動向をも越え出てしまうだろう。それらの動向は相対 立してはいるが相称的である。つまり外へ向かっては事物そのものへの帰還 であり、次に内へ向かって言語への、言語間題への帰還というわけだ。≪現
エレ ̄?ン 象学者》ポンジュについで、文学の境域としての言語の理論家兼実践家ポン ジュの登場。これに対してポンジュは決して否認の姿勢を示したことがない
し、またそれは誤っているわけではない。だがもはやそれに満足しているわ 捌こはいかなくさせるような、これら二様の言説のいづれにも包含しえぬよ
うな別の物(1′autre−Chose)があるのだ。(…)
もうこれ以上引き延ばすことはできない。出来事が生ずるためには、私が 署名する必要があろう、私が出来事に署名し、またそのために私が一人の他 者のように〔として〕、彼のように振舞う必要があろう。つまり私が私のテ
ー 35 一
二に〕私はまだその何物かが何であるか、誰であるかを知らないが、私の語
しるし ることがもしその名に触れるのでないならば、その名あるいは印をになうも
コール コルピュユ
の、その肉体あるいは資料体に触れるのでないならば、私は何を語ったこと にも何をしたことにもならないだろう。そしてこれは常に生ずる可能性のあ る事態なのだ。つまり私はどんな語り方をするにせよ、何を語るにせよ、彼 の名の掟に従わねばならない。彼の名が、彼の名において、彼の名について、
われわれに教示するところのものに従わねばならない。つまり彼の名として
〔名においてen son nom〕生起する作用に。フランス。ポンジュの胸肉 体においてと言われるごとぐ−−その名において働くところのものに。(‥・)
ユヴュヌマン 私がここで敢えて読みようとするものは、一つの出来事であらねばなるまい。
そして一切の支配制圧や我有化の試みを拒け、一つの出来事の幸運を私がも のにし、その危険を冒すことができるのほ次の条件においてである。即ち、
彼の作品を支配しようとしたl)、潜在的にもせよ作品の全体、その全般的法
ショーズ
則、その超越蓬を言い表わそうなどとしかユニと、ポンジュという事物を前
にして極めて限定きれた、つつましく目立たない〔書き消されたようなef一 ねc畠〕、独異な何かを語るにとどめ、当の事物そのものは私ぬきで静かに息づ
くに任せて(1aisser respirer)おくこと。(‥・)要するに私は、彼の署名ある コルピュて いはむしろ称賛としてのエクリチュール論を予告しつつも、彼の資料体の一
部分、些細な一断片をしか扱わないということを前もって断わっておく。つ まり私は記念碑から、一個の極めて軽い、隕石じみた、スポンジ状の石塊を、
ポンス たぶん一個の軽石(u舵pierre ponce)を取t)出して提出するだろう。それ
も単に、固有の仕方で〔固有のものとしてproprement〕記された一つの名が、
コルピュス いかにして他の諸々と同等な一断片となるか、一つの巨像めいた資料体の中
のほとんど重みももたぬ塊となるかを問うために。(…)
さて、彼はありとあらゆる振舞を見せることだろう、己れの署名を一個のテ キストと化し、テキストを一つの物に、そしてまた物を己れの署名となすた
オペラシオン めのあらl⑳る操作を、われわれに教示してくれることだろう。
エウナユマーチン
出来事なるものに言い及んだ上は、もう少し補足しておこう。彼のテキス トのそれぞれは、独異。無二のな一事件なのだ、少なくとも 一事件なるものがテキストの周縁に生起することがあるとすれば。それゆ
え、実例を挙げたF)引用を示したりすることが難しい。一体いかにしてある 論証中の範例として、あるテキストを引周することができよう、もしどのテ
キストも唯一無二で、決して他のいかなるものの範例にもならないなら、そ
一 34 −
キストに、ある絶対的に固有の、独異な、特有の、従って日付のある、枠に 巌まり縁取られた形式、本体を欠き、切断きれ、中断された形式を与える必
要が。物たちの権益は≪役割されてはならないと主張された後で、『幸福 に生きる根拠。の中に次の文句が見える。≪一つの新しい畠若鮎の印象を与
ぇること≫、そしてそのために≪作家それぞれに一つの修辞法どころか、詩篇
ごとに一つの修辞法が必要だろう…≫
ショーズ 私の対象、私の物、それこそがこの出来事(それが出来するとすれば)に固
有の修辞法を規定することになるのだが、それはフランシス・ポンジュであ ろう。・もし私が、講演か講義の冒頭でするように、一体何について語ろうと するのか、今日の主題は何かと問うたとすれば、答えはすぐに返ってきただ ろう、フランシス。ポンジュあるいはポンジュのテキストについてである、
と。だがその間は、誰あるいは何(について)の間だったことになるのだろ
う?
コルピュ1 ゎれわれは常に、一つの資料体がどのようなものであるかを心得ているふ
りをする。われわれがフランシス。ポンジュのテキストをわれわれのプログ
ラムに入れる時、たとえ作家の伝記的資料をお払い箱にしても、少なくともし
かじかのテキストと、しかじかのいわゆる作者およびその固有のと称される 名との間の、自然的ないし契約的関係がどんなものかをわれわれは知ってい ると確信している。著述家の伝記的資料のアカデミックな使用は、少なくと も一つの確信、つまt)署名に関する、言いかえればテキストとその著作権を
保持する者の固有名との関係についての確信を前提しているのだDこの確信
は契約後に、いうなれば署名という出来事の後に始まる0偽書外典をめぐる
文献学的奔走はほんの僅かな疑執こよっても決して妨げられることがない0
そればかりか一つの書判(parafe)の出所身分について疑いがなくなって、
はじめて始動するのだ。この場合、その書判なるものが書かj・Lることがあっ たか否かについてはよく問われるのだが、それが書かれた(ilaeulieu)と いうその場所(1ieu)や、生起する〔場所を持つavoirlieu〕ということの極 めて奇妙な構造については、批評家や文献学者は(…)いかなる問も提出し なし㌔(…)署名という出来事、この操作の底無しの機構、いわゆる作者とそ の固有名の相互関係については問われか、0つまl)、彼が署名する時、はた
して彼は署名しているのかどうか、彼に固有の名は、署名行為の前あるいは 後で、真に彼の名であり真に固有の名であるかどうかということ0またこの
点に関する無意識の論理や、言語の構造、名と指示作用の、さらには命名行 為と描写のパラドックス、普通名詞と固有名詞とか、物の名と人の名、固有
のものと非固有のもの、といった一対の間の関係についても問われない0ニ
ー 36 −
れらのいかなる問も、いわゆる文学的テキストに専らたずさわる領域的語学 科によっては、その限りでほ全く設定されることがないのである。
テキストーフランシスーポンジュは、単に上の如き問の一例を供する
のみならず、またこれらの問についての学に先鞭をつける。問の実地違用
(1amise en pratique)であると同時にその巌めこみ、深淵化(1amise en abyme)である。。フランシス。ポンジュとは私にとってまず第一に、名と 物とがどんな事態にあるかを知るために、自分自身の名に意を用い、名によ って己れを占拠されるにまかせねばならないということを心得た人なのだ。
卜∴)
署名は物になることによって、己れを獲得するのだろうか、己れを失うの
だろうか?(…)
まず初めに彼は自らに約束(sノengager)した(私はgage という語に執着 するが、ここではいつ結ばれたとも知れぬ契約、負債、義務、提、また公訴 棄却のためとは言わないまでも、返済義務の履行をめざす訴訟を表わしてい る)、断固として自らを拘束した(決断は彼の固持する標語だが、その理由 を是非とも問う必要があろう)、断固として、つまり率直な(franc)行為に対 してたえず確認され肯定さ九なおすあの好みをもって、彼は自ら約束し、自 己自身を拘束した、そして自己固有の名が表象するある懇請の前でといおう か、自己自身というこの物あるいはこの人の前で、自らの名において〔の中
に〕身を拘束した(engag6ensonnom)のだ、他の誰でもない彼だけが署名
できるような、従って絶対的に彼に固有な、彼だけに妥当するようなもの以 外は、何一つ書くまい、何一つ産み出すまい、と。(…)
彼はかつて何びとも試みなかったような仕方で、固有なるものについて、
固有な仕方で書き、かつ署名することについて、思弁をめぐらすことになる。
固有なるもの(1e propre)の含む二本の軸、清潔(1apropret6)と特有性
(1a propri6t畠)の観念を分線することなく。
7ふロ丁ル
さて、彼は固有なるものを愛する。彼に固有のもの、他者に(つまりは常
に独異の事物に)固有のもの、汚れのない、胸をむかつかせた【)嫌悪をおぼ
7▲ロ ̄ブル
えさせたりすることのない、清潔なものを。そしてこれらあらゆる状態にお ける1e propreを、彼があれほど、妄執じみるほど執拗に要求する以上、この 格闘さながらの熱中が、実は不可能なるものとの白兵戦でほないかと推測す
るのが当然だ。言いかえれば、それは固有なるものの内部にあって、また固 有なるものの構造自体の内で、ただその他者の内に移行することによって、
一 37 −
で誰ひとりきっぱりと潔い物言いをすることができず、一刀両断の断乎たる 処置によって短かく切り上げ、署名を済ませることができないということな のだから0署名するためにはテキストを終結させねばならず、いかなる哲学 者もそこに含みこまれるあらゆる危険を承知で、自分のテキストに断乎とし
て署名することはできないだろう。どの哲学者も己れの名の、己れの言語の、 イディオム
情況の特異性を否認し、数々の概念によって、また必然的に非固有(impro−
pre)な一般論において語るのだ。
ところが、彼、フランシス・ポンジュが頚めたたえ、その名声を高唱しよ うとするのは、ただ署名する人々だけだ。それも一度でなく、むしろ二度も 署名する人々。そのことばわれわれに次のような疑念を抱かせる。つまり、
彼等にしてもいづれ署名ほなしおえるにせよ、一挙に〔ただ一度で〕は済ま すことが決してできないのではか−か、と。
『マレノ㌧ブ論のために』はしかし冒頭から不決断−それもテキストを成 ンヨーて るべくんば物へ、あるいは伝説檜諺。神託の銘文へと変貌させるべく署名を 抹消するか、あるいは速二無二署名を二重化するかの躊躇−のうちに漂
っていると言ってよい。この場合、この二つはどちらでもほぼ同じ事になる、
いづれにしても単純に区別されはしないというのが私の仮設である。≪われわ れは、われわれの唯一の祖国たる無言の世界についてのみ発言する、それも ある特殊個別的な語法に従ってそうするのだ。(…)≫決して誰をも追放するこ
とのない唯一の祖臥だが自分の名を書き記すというただそれだけで、おそ らく自分自身をそこから放逐することになるのだろうか。諺を志向する或る 人々、つまりは署名なしで済ましうるほどに顕著な、(権威をふるう)、そして
フォルミユ−ル
明白な定式を志向する絶対的な精神ほそう考える。この種の詩人は無言の世 界に舞い戻っていく。オブジェとしての作品、つまり客観的に〔オブジェと して〕無言世界に再編入される作品=オブジェを産み出しえた場合にしか、
何物かに言葉を与えたことにならないのだ。これこそ詩のテキストにおける 暖昧性と明証性との無差別を正当に根拠づけるものであり、そこにこそあの 神託めいた性格が存するのだ。
要するに是非とも署名の必要はあるが、それはまた名を記さないこと、遂
ショーヌ: には自分の署名なしで済ますに値する、物そのものであるようなしろものを 書くということだ。従って良き署名の仕方と悪しき署名の仕方とがあるわけ
だノコ両者を分かつ横線は、署名と署名の不在との間に引かれるのではなく、
署名を貫いている。つまi)署名ほ常に己れを溢れ出させる(己れから溢れ出 る)。卜・)
作品を物に、従って無言の一署名なしで済ましうる故に語りつつも沈黙
− 39 −
また己れを深淵に沈みこませ、逆転され汚染され、分割されることによって、
はじめて生まれ出るような何物かとの格闘だ。そしてまたそこにこそ、豪邑 存嵩の大きな事業が存するのだ、と。
私は自分が彼を説明してみせようとしているとか、いわんや彼と共に(あ るいは彼ぬきで)、一体ここで何が生ずるのかを彼に説明しようとしている、
などと思われたくない。そうしたことは、彼がとりわけ非難している教授遵 や形而上学者たちの誰かが企てたらよかろう。ポンジュはこの種の人々が、
自分について余t)に多く語I)すぎたといって嘆いているのだが、この問題は 今日論じるには余りに複施すぎる。
彼が説明、解釈なるものを我慢できないと言い、また実際それを受けとめ ようとしないのほもっともなことだ。このシンポジウムが一体彼をどんな精 神状態に陥れるか、私は敢えて想像をめぐらさないでおくが、実際、彼ほ説 明されることのあI)えない人だと思う。なにしろそのための一切がテキスト の内に準備されていて、テキストは極めて雄弁に自己を解明しており、そこ に一切が見出されるばかりか、説明的叙述が飽和状態に達するのを妨げるあ の残余(1e reste)がそれにプラスされるのだから。説明とか教授とか、講壇 的言説、哲学者がとりわけそれであるところの大学人、またわけてもヘーゲ ルと称する哲学者に関する問題について私のなすところは、ただ、これらに 差し向けられたあらゆる非難の中でも、なぜ次のような非難に出会うのかを
7」ロワル
問うことである。即ち、ヘーゲル(哲学者)はあまl)清潔だとはいえない、
だからヘーゲルを読んだ複では身を清めねばならない、手を洗わねばならな いと言ってもよい、と。『プロエーム』の「増補されたページ」岬≪私はシ ョーペンハウエルやヘーゲルよりも、ラ。フォンテーヌの趣く小さな寓話の 方が好ましく思うが、その理由を私はよく心得ている。
私にはこう思われるのだ−1.人を疲れさせること少なく、より楽しい。
7ロフール 2,より清潔で、嫌悪を抱かせること少ない。(…)≫
哲学者たちはなぜ、彼等の他の欠点をすべて港外において、何よりもまず 不潔だと言われるのだろうか。
私は彼を説明しつつ、同時に、自分が外見上哲学者だと思われているが実 はそうではないことを証しだてねばならないし、またとりわけ彼に対して問
7∂ロ ̄7Jlし 着を仕掛け、ここで私の語ることが清潔〔固有〕であろうとなかろうと、か
ショーズ かる事柄からもはや彼が手を洗えないようにしなければならない。そしてそ のために、私ほ署名に対して、彼の署名、またおそらく私の署名、他者の署 名に対して、釈明(m七Ⅹpliquer)できなければならない。なぜなら哲学者が 哲学者たる限l)で少々おぞましい存在である一つの理由は、哲学者たる限り
− 38 −
、、、、、、、
ショーズ を守る一物に変ずるということ、これほ署名をテキストの内に記入するこ
とにおいてはじめて起こることだ。つまり、もはや署名することなくしかも 二度〔二重に〕署名するということ。われわれは後に再びこの点に触れねば ならないだろう。
今は(…)彼がいかに決然と、不潔なというよi)むしろ汚され、積れたも のに対して、清潔な〔固有な〕もの(1e propre)に加担したかを明らかにし てみよう。というのも、それはまるで一つの物語を展開するからだ、それも 時間をかけて徐々に分解していく物語を。つまり〔もともと〕不潔なものは
存在しない、それは汚されたもの、汚染された清潔なるもの〔偽装する固有 性、自己触発する固有性1e propre quis′affecte〕なのだ。あるいは濡れた、
と言おうか。なぜなら汚れは、しばしば液体を媒介として生じ、何か適切な
〔清潔な〕薄布(unlinge appropri6)で拭い取らねばならないのだから。綺 麗にする〔本来化するappropIiant〕薄布。椅麗なもの〔固有なるもの〕が濡 れる。汚れものとはある意味で濡れたものだ。
必然的に薄布や、冷たく新鮮なものをつかみとろうとする清潔さ、固有性 への欲望(ただしこの場合もやはり、≪薄布≫(1iI唱e)とか≪新鮮さ≫(frais)と
いう言葉をとらえようとするのでもあるが)、そうした欲望が作品〔また制作 行為〕に常に存在している。(私はここでも、薄布(1inge)という語がもつ様 々な潜在的意義連関のなかに、洗濯挟み(1セpingleえ1inge)とタオル(1a serviette一毎Onge)とを一緒に結びつけるような音声的。意味的・字形的な 隠れた紐帯が張り獲きれていることを詳述せずに済まさねばならか−。この
紐は伏線としておこう。)
ノヾロール 彼が自ら語るように、≪ことば、雄弁なことばに抗して≫書くのだとして
も、その同じ動きの中でそれは汚れに抗して、でもある。汚れは何よりもま ず、肉体の最も間近において生ずる、それが汚れの固有の場所だ。つまり肌 着の汚れ。従って『文学の実践』に日く、≪しばしば会話や、さまざまな言葉
を口にした後など、私は汚れの感じを抱くことがある、舌足らずで混濁した 事柄という印象を。(…)これは清潔というわけにはいかない。だから書くこ
とへの私の欲求は、大抵会話の後で帰宅した時に湧きおこる。自分が古い衣 類を、トランクから取り出した古いシャツを着て、それをまた別のトランク に詰めこんだような感じのする会話の後で。しかもそれがみんな屋根裏部屋
で壌をかぶり、汚れにまみれ、汗や垢にじめついた、肌触りも気味悪いしろ ものなのだ。白いページを前にして私はこう呟く。「もう少し神経を緊張さ
せれば、たぶん何かさっぱりと明快なものが書けるだろうdこれこそおそら
− 40 −
く書くことの主たる理由の一つ、いや大抵は理由そのものなのだ。≫(…)
丁イ1/シュテキスト Propreほ(語の肉体の)薄布、つまl)己れの布地、己れの織物の中に、清潔 き(delapropret畠)と固有性(delapropri如昌)とを共に包みこんでいる。
固有性、即ち無言なるままに、(奇妙にも)己れ自身の描出というか、むしろ己 れ自身に独特なるべき、物によって物に、また署名者によって署名者に、国有 に帰せらるべきエクリチュールを、口述し書き取らせる物の特異性。このよ
うな特異性の二重の国有化作業こそ、『か−ネーション。の努頸、≪議勧(下 着)の射青潔さ》を前にして浸る忘我の思いにやや先立って、明確に規定さ れているところのものだ。−≪諸物の言語ぺの挑戦を受けて立つこと。(…)
これこそがポエジーであろうか?(…)私にとっては生理的要求であー)、契 約(e曙曙ement)であり、怒り、自尊心の問題、ただそれだけだ。(‥・)極
く尋常なものにせよ、一個の事物があるとして−私にほその物が全く特殊 ないくつかの性質をいつも差し出しているように思われ(…)そうした特性 をこそ、私は引き出そうと努めるのだ。
《それを引き出す(亜gager)ことにどんな利益があるのか?人間精神に
それらの特性を獲得せしめるという利益。精神は実際それらを受容可能なの であり、ただ因習だけがその所有を妨げているのだ。≫(強調はデリダ)(…)
この賭けは実は不可能だ。それはなぜか。そしてこの不可能がなぜポンジ ュ作品の〔という〕署名を可能にするのか、なぜそれは、署名に記念碑的か つ墓碑的な大きさと高きを与え、それを起こし、聾え立たせ、ついで横たわ
らせるのか?この質物(gage)によってどんな利益を引き出せる(d畠gager)
のか?この賭け(gageure)に柑どんな危険か伴うのか?
たとえ多少の混乱を招くおそれがあるとしても、私は少し答えを急ぐこと にする。彼は無際限の負債を返済せねばならないのだ。ト)彼は自ら債務 ショーニて を背負いこむ。彼のいわゆる物に対して。物は無言ながらその諸条件を口述 するが、無言なるがゆえに契約関係には入らか1。物は責任を負わず、彼の みが、この全く別異で、冷淡な(indiff6rerrt)まま、決して関わr)あいにな ろうとしをい物を前にしての出発に責任があるのだ。瞞豪に最大の権札時 効にかかることもなく、どんな詩篇にも常に対立しうる権利を認めること。
(…)それは動こ対していかなる義務ももたず、私の方がそれに関してあら ゆる義務を負うているのだ。≫(『ロワール河の堤』)(=・)物そのものを≪犠
オブジェき 牲にすることなく、たえず≪対象そのものに、それがもっている生のままな、
他と異なっている点に、−と嘉)わけ私が既に(たった今)それについて喜
一 41一
が、その構造はそのつどかかる場面を反復してみせるように思われる。ただ し、そのつどとは言っても〔諸物の〕≪示差的特性≫が署名の形式にまで影響 を及ぼし、その結果署名はあくまで他者のそれにとどまる以上、そのつど必 然的に独特な仕方でだが。そこから署名を際限なく記念碑めいたものにする ばかi)か、同時に署名を回収不能なまでに消散させてしまうという事態が生 ヽヽヽヽ じ、署名はもはや唯一の固有名にではなく、新たな物の署名(sig弟atura 陀rum)としてその無神論的を現代的な多様性に帰着するのだ。
物が横暴なまでにつきつけるあの汝支払ウベシの漁具性、これこそまさに 物の独異性である。そのつど置換不能な命令の独異性−その稀少性∬は、
その命令が掟となることを妨げる。あるいは、それは即座に侵犯される掟ほ り精確にほ解除きれるfranchie掟)だと言ってもよい。なにしろこの掟に応 答する者は、即座にこの掟と独異な関係に入‡)、そこでそれを承認しかつ忍 受することによってその圧制から身を解放する(s/慮franchir)のだから。
ついでそれは、署名者が物をして署名せしめる暗、つまり物をある独異な契 約関係に引き入れ、深淵化によってその独異な要求を掟に変貌させる時、再 び解除され〔乗り越えられ〕ることになる。解除しながらの侵犯、これが粍 淵状の反復を支配する掟であろう。
そしてまさしく、ポンジュの歩みだ。
読書作業のためのこのような仮設から、次の二命題が帰結される。まず第 一に、彼の負債から、まさに彼が負債なき負債を身に引き受けるという事実 から、彼のテキストが(教訓的・倫理的・政治的。哲学的等々の)規則に憤
ルソンモラリテ 然と反抗するように見えるその瞬間、教訓ないし寓意の形で人を拘束し、命 70レ 合し、強制し、教示するということ。『草地の制作』序文で養啓と姜寒につい て言われていることを参照されたい。彼は義務を引き受けようとする、それ
も《こう言ってはたぶん大仰になるだろうが、私の倫理感とも名づくべきも の≫(『マレルブ論のために』)に従って、今後は是非とも義務。責任を語らね ばならぬという義務を。卜・)私は彼が提出する教訓に耳を傾けるよりも、そ
モアルヽ れを読む方を好む、つまl)道徳のでほなくについての教訓、彼が系譜学の道
徳から引き出した道徳の系譜学についての教訓として。
第二の帰結。件の全く別異なるものたち(関与し同時に解放されてあるも のたち)が、共に契約関係の外にあって到達不能である以上、また彼等(彼
と物と)をあるがままに任せるほかに全く為すすべもない以上、興味の対象 となるもの、われわれの関心を引き、われわれを読むことへと引き入れるも の、それは勿論、彼等の間で、その中間で生ずるところのものだ。即ち仲介 物(名であって物)、証しするもの、調停するもの、彼等(関係者)の間で生
− 43 −
いたこととは異なっている点に≫立ち戻ること。
ここでの法則〔掟〕は、彼に何も要求することなく彼とのいかなる関係も
・「−−・ もたない全く別異のもの(即ち物)から発しているだけに一層命令的で、無
際限で、飽くことなく犠牲を強要する。この全く別異のものは、彼とも他の 誰とも何を交換するわけでもなし?、要するに死であって、(人間的形態として
の、あるいは神的形態としての)主体ではをい。(また一個㌶音義をも、そ ンユンノユ して何よー)ほの通常の意味における箸茎嵩でさえない)。一切を、そして無 ブロブルー丁ニノ を要葦しつつ、物は債務者(即ち本来的な意味で私の物ma choseと言える
ような人)を、絶対的な他律性と限りなく不均衡な盟約の状況に陥れる。従 って披にとって債務の履行とほ、いづれにせよ紳巨戦に応じる≫ とは、(・‥)
署名しつつ是非とも為さねばならぬことを為すということであろう。それも
最終的に、彼のいわゆる真理のオルオスムめいた歓喜の中で 、自分のテキス トに署名することができるため、あるいは自分の署名を記入。添加すること
ができるために。そればかりでなく、自分のテキストを物に義務を課すべき
効力のある署名に変貌させることによって、物に強制力をふるうことができ
るた捌こ。ただしこの強制ほほかでもない、物みずから署名し、物みずから 己れを意味するようにすること(『石鹸』のあの驚くべき≪付録Ⅴ≫を参照)、
っま稽富という誓言ぁとなった物が一種の契約の絶対的な甜経を、フラ
ンシス中ポンジュに対して身に負わぎるをえないようにするということだb
物ほこの時、署名を書き添えられた単一の署名、二重の署名作用をなす単一
の物となる。だが勿論、この契約は並みの契約ではない。どういうわけか、
署名と引換えに何が交換されるわけでもない。一方ではまた、出来事がその
っど瞞着瞞であるために、署名と署名とのある種の交接の瞬間的な独異
性を越えては、何物もまた何者もかかわ【)あうことができないのだ。次に二 つの署名の結合。混融は、出来事の中にあの全く別異なるものを招来するこ
とについてのみ価値があるのであって、その別異なるものほ両者に対して、
契約関係の外に、冷淡に、無関係のまま留まる。添書きれた署名〔反対署名 1a contre−Signatur占〕は、それをあるがままに任せる(1aisser etre)。(あ
るいは『プロエーム』中で愛の対象について言われているように、生きるが ままに任せる1aisser vivTe。)これは物についてもポンジュに対しても真実で あl)、読んだ時のあの感じ、つまi)自分にとって重大な問題が関与していると いう感じと同時に、いわばここにいながら身をそこから分離できる人の、自 分がその拘束から解かれていると知っている人の裏箔さを味わうのはこれに 起因する。(…)
彼の実践するところは要するに深淵化作業(1amise en abyme)なのだ
− 42 −
はこうだ。つまり署名がテキスト外の、末尾に添え書きされた認証の印とし てとどまらずに、それがテキスト本体に組みこまれることによって記念碑化 きれる、つまり物あるいは石質のオブジェとして設置され、打ち建てられる
ということ。しかし同時にそれによって、テキストの自己同一性、いいかえ ればその固有性が失われる、そして署名はそのテキストの一契機ないし一部
分、一つの物あるいは一普通名詞となるほかはない、ということ。吃立に じて崩壊〔墓石の建立Lerection−tOmbe〕。しかも人間のでほなく。
ずる出来事。
一歩後退してこの点をもう一度論じよう。
プロプルテ プロプリエテ
あの二重のプロプル(清潔と同時に個別存在に独特という意味の国有性、
7 ロ7∵付
しかしまた己を深淵と化す〔台無しにする〕国有なるものの分身、幽霊1e doublelは、いかにして署名として生まれ出るのか?
不充分ながら最初のアプローチとして、署名なるものの三様態を区別する ことができる。本来の意味で署名とよばれるものは、ある言語体の内部で分 節され、かかるものとして読まれうる固有の名を表わす。つまり(身分証明 書の所走欄に書きこむように)自分自身の名を書〈だけでは満足せず、まさ に本人が記入しているのだということを認証しようと決意した人の行為(は たしてそれが可能かどうか)。これほ私の名だ、人が私の名を呼ぶように、今 私は私自身の名を記しているのだ、しかもそれは、私の名という形で〔私の
名において〕確かなことだ。私は下に署名の上、確認する(然り、名誉にか けて)。卜・)
第二の様態は、第一のものの平凡かつ混濁した暗喩であって、署名者がそ の作品中に残し、あるいはもくろむ、彼独特のマークである。(…)人はこれ を、時に、作家や彫刻家、画家あるいは雄弁家のスタイルとか、模倣しがた
い樹壷とよぶ。あるいは作曲家の。彼の場合のみ、作曲家であるかぎりで
は第一の意味における自己の署名を作品に直積記入することができない。(…)
チャンス しかしそれはまた彼の好運でもある。(…)
第三に、今度は事態がさらに複雑になるが、通常の意味における署名がそ
7タンヨン
7ルンーヴうであるように、書き物が己れを指示する場合、つまりacte(行為にして文書 としての自己白身を描写。記述し、末尾まで読ませながら同時に自署してい るという、こういう場合の自己重複〔深淵化1amise en abyme〕を遍在署 名とか署名の署名と呼ぶことができる。つまり、「私は私自身のことを言って いるのだが、私は書き物だ」という、これも書かれたもの。だが(…)自己
エウ/ェヌマン
の無限重複が成功裡に遂行され、従ってそれが深淵に沈み、事件を出来させ る時、署名するのほ他者、異他なるものなのだ。(…)
これら三つの様態は原則として明確な構造上の差異がある。しかし私はフ ランシス。ポンジュがいかにして−まさにこの点にこそ、彼の鑑と
ぁるいはもしあI)うるとすればだが彼に固有蒜敲鎧哺する−それら三者 を折り畳み、唯一のものとしているか、あるいほともかくそれらをいかにし て同じドラマ、同じオルガスムのための同一舞台上に結び合わせているかを 示したいと思う。
≪固有の名》の署名(第一様態における)を産出しかつ禁圧する掟、それ
一 44 −
要するに署名はふみとどまると同時に消え失せねばならず、消え失せるべ ふみとどまI)、あるいはふみとどまるべく消え失せねばならない。ねばな く︑ら︑せ ︑ぬ
(ilねut)ということ、重要なのはこのことだ。そこに居残って消え失
(resteradisparaitre)ねばならないという、同時的な二重の要請、矛盾
ドゥアルバント
する二重の請願、二重の倍数二重の縛め、これを私は署名のdouble bande と訳した。つまり二重の壷品轟(1ad。。blebande)であり、二重のものが緊 張する(1e double bande)のであり、従って二重のi,のたちが緊張する(1e(s)
double(s)bande(nt))。署名はそこに居残って消え失せるために必要なのだ。
それは欠如している、だからこそ必要だ。しかしそれは欠如している必要が ある、だからこそそれを必要としない。
Ilfaut一−【【 これをどのような意味あいで書くにせよ−これこそ添え書 きされた署名、無益にしてかつ不可欠の、追補的な署名である。
たとえば彼のしばしばとる方法だが、マレルブ(Malherbe)という固有名 詞を形容詞と普通名詞(male雄々しい/herbe草)とに分解ないし解析する。
これは名を細分し、あるいは自然化する操作であl)、同時に名を紋章や伝説
エ/レー7
マル めいた謎絵に変貌させる。(…)こうして雄々しき雑草のページでは、率直と 雄勤と果断とが結合される。≪自負。決断。婦人たちが抵抗を示す際の、彼の おびやカすような嘲るような態度。≫また巻末近くの次の一節−≪フラン
ス的なるものという固い中核。明知に基づく愛国精神。
確かに、のポエジー。姦ら、の言明ト)どこか横柄な態度。虚勢ならぎ る優越性を表わす調子。また勇壮なところ。≫「射」(肯定され、認可され、
署名された)は、彼の固有名詞の記入、例えば『ブラック論』末尾にあるよ うな自筆署名に結びつく。だがこのフランス的なるものを、わが国民的特性 というそのさほど明知に基づいてもいない指示物に性急に関連づけたりはす コ ̄アン70ロ70ル まい。少なくとも、マレルブとポンジュとにほぼ共通でもあった彼等固有のフ ァーストネーム、議論をまさにこの迂路へと導かなければならない。フ
ランソワとフランシスを比較すれば、確かにほぼ共通のファースト・ネーム
 ̄ 45 一
言われ、そのために私は《→人の他者のように、彼のように振舞う必要》が あー)、この出来事の修辞法を規定するものこそ彼ポンジェだとされる以上、
針今日の主題ほ何か》という私の問ほ、既に一人の他者の振舞として、ポン ジェの修辞法に規完されつつ発せられていることになる。≪もし私が…問うた とすれば…≫、これほ明らかにデリダの直接的な閏ではか−。むしろこの間を
ンユ/エ
発する主体について何らかの言語表現を与えることこそ問われているのだ。
すると上記の一文は、《その間ほ誰あるいは何の問いなのだろう?≫と読める ことになる。
私がそれについて聞い、語ろうとしているものが何であるかと問う、その 私は誰あるいは何であったのか?今日の主体は何であるか?それを問いつつ、
結果的にそれに答えていることになるようなテキストを書くこと。要するに
ここでは、最終的に私に固有の名を与え、未知のその名を明かし、署名する ことが問題なのだが、そうした署名の生起こそ、ここでの出来事となるはず
なのだロしかしそれは任意の主題につヤ1て計)ながら問い求められるのでも
/ユンユノユジュ なく、また語る主体たる私を直接的に主題とすることによってでもか−。テ キストーフランシスーポンジュについて語i)ながら、それを主題(体)
とすることによってだ。なぜなら、ポンジュ的問題というよ−)むしろ問題と ケ㌧−フ してのポンジュは、まさにここでの問および問い方の、単なる一症例ではな い学そのものた−)えているからだ。ポンジュはこの間、私の問を体現し、身 をもって演じているようなものだ、私の身替りに舞台に立っているようなも のだ。(もっともそのポンジュの振舞を、デリダはこのシンポジウムに臨席し ているポンジュその人の前で演じつつあるのだが。)
この主題を選ぶことは、この場合戦略として極めて経済的なことであり、
私はポンジュを前にしてできるだけ姿を消せばか、。私の問題はポンジュの 間者の内部に巌めこまれていると同時に、それを外から囲いこんでもいる。
外とも内とも決定不可能なこのような構造(相互蔵人構造)を深淵化(ね ぬise en ab卿e)と呼ぶとしても、それはまた、署名の問題に対してポンジ 料的エクリチュールが椙露モ楠子的〕械能を発揮するかぎり、舞台化。演 ク 叔化(1amiseenscさne,1amise enjeu)でもある。いづれにせよ、ここ ドゥ丁ル には影像の二重写しというか、何らかの分身がかかわっている。
かくして、デりダは徹底的にポンジュの歩みを、その身振を模倣すること
を選ぶ。つまり、ポンジュがあれこれの物を前にして、物を書くことにおい て彼自身の、彼に固有なるものの声を聞きとろうとしたその方法を、今度は
デリダが、ポンジュを一個の物とみなして、一個のスポンジとみなして通用 するのだ。≪フランシス。ポンジュが私の物になろう≫、これはしかし、単に
− 47 −
だ。ト)だが台座あるいは墓碑の上で、二度にわたってラテン夙に綴られる
のを見れば、それは全く共通の、しかも固有のファースト。ネームだ。即ち
《PTimus Franciscus Malherba≫と、『(乾し)無花果』の初出テキストの 最後に記された紺ranciscusPontius/NemausensisPoeta≫。
フランクで、フランス的で、自由かつ束縛を解かれてあること、それはま たきっばりと決断し、法を侵犯することができるということ、法を解除しあ
るいは一線を踏み越え(francbir)うるということでもある。ト)
ファーストネームの要請によるだけでも既に、署名は二重の緊縛を蒙っ ていることがわかる。即ち一方では物になることへの要乱臣像めいた記念 碑を銘文によって建立するためにその特有性を喪失し、そのかわりに、物を 表わす名となることへの要求に引っ張られ、他方では逆に純粋な特殊個別性、
っまl)共同〔普通1ecorm〕なるものによって汚されない大文字への要求
(これが本来の意味での署名の条件だ)に引っ張られる。謎絵的署名、換喩
的あるいはアナグラム的署名、これらは署名という出来事の可能性および不 可能性の条件、つまりその二重の縛めである。あたかも物は(あるいは物を 表わす普通名詞は)、固有なるものを保持すべくそれを吸収し、飲みこみ、
かつ漏れ失せないようにせねばならないかのようだ。しかし同時に、これを 保持し、飲み、吸収しつつも、それは(あるいはその名は)まるで固有の名
を失ない、あるいは汚してしまうかのようだ。 (以下次号)
覚 書
り 《もし私が、講演か講義の冒頭でするように、今日の妄執ま何かと問う
たとすれば、答えはすぐに返ってきただろう、フランシス・ポンジュあるい
はポンジュのテキストについてである、と。だがその間は、誰あるいは何に ついての問だったことになるのだろう?≫この最後の一文Maislaquestion
aura−t−elle6t畠dequioudequoi?ほ、前置詞deの機能の曖昧さをめぐっ て訳出がややためらわれるところである。いわゆる文脈に、よl)直接的に適 合する解釈を求めるならば、誰あるいは何についての臥 と読むべきだろう。
つまり、まさにこの論究が問いつつある主題が、たとえポンジュあるいはそ のテキストと名指されたにせよ、そのような指名によってはなおその誰ある いは何はいささかも明らかになりはしない、という断定を含むものとして。
しかし、ここでまたもう一つの解釈の可能性を否定しつくすことはできない だろう。前節で《出来事が起こるためには、私が署名する必要があろう≫と
− 46 一
≪私にとっての物》になるというのではない。はたして人が≪私の物≫(ma chose)と言う時、もしこの物が流通取引の場の外、経済的所有関係の埼外に あるとすれば人と物との関孫はいかようであろうか。私の物とは単に私が所
二L∵1 有する物ではなく、その物が私の主体でもあるような状態ではなかろうか。
一個の他者フランシス・ポンジュが、私の物に、私の主体になる、そのよう な事態が出来しうるだろうか。かかる出来事がもし起こりうるとすれば、そ
れはどんな条件においてであろう。これこそ、デリダによって(しかもデリ ダ的問題のために)演ぜられるポンジュのドラマの、その舞台を賭けの場と して積まれた賭金なのだ。末尾に言明されるように、≪ポンジュその人につい ても彼の作品についても何も言わ≫ずに、ただ≪厳密かつ必須のいかなる条 件において》ポンジュ作品のごとき何物かについて語る権利をもつかを問う こと。その条件こそ、デリダのこの陳述が結果的に一つの署名行為(テ1ノダ ーポンジュによる)の出来事となることをめぎさねばならない理由でもある。
(そのような出来事について語る陳述そのものは、従って、陳述の時間一現 在一において必然的に前未来で語られねばならない。)
とはいえ、≪あの二重のpropre〔固有(なるもの)の分身1e double propre〕
が、いかにして署名として生み出されるか?≫ と問い、あの二重の名Fran−
cisとPongeのそれぞれの肉体を断片化する作業において、デリダがやはり ポンジュの人と作品についても多くを語っていることを否定する必要はない。
われわれはその部分をほとんどすべて断ち落した、あたかも事実を彼の言明 により忠実なものに修正するためかのように。
2)≪女が私の主題になろう≫というのは、ニーチェに関する別のシンポジ ウムで、La question du styleの表題の下にデリダが行なった陳述の冒頭の
言葉だ。(Nietzsche at如urd′hui?1.Intensit6sCo11.10/18所収)そこでの≪女≫
とは要するに真理(1avむi縫)の別名である。≪女(真理)はむぎむぎとつか まりはしない。真実を言えば〔真理にalav如i縫女が、真実が、むぎむざと つかまることはない。実のところ(真理に)つかまるがままにならないもの は一女性的である。≫(前掲書p.246)従って、命題《フランシス・ポンジュ が私の物になろう≫を上の命題に重ね合わせるならば、物が主題の位置を占 めるばかりでなく、フランシス・ポンジュが女の機能を反復することになる。
つまり真理につかまるべき己れの痕跡を残きないもの(cequine selaisse pas prendTe alav畠rit6)という役割を。彼はむぎむざと誰の所有にも帰す
ることなく、己れならぎる別物の痕跡のみを残してすF)ぬけるのだ。
だがポンジュ自身にあって、接近も到達も困難なのは、と−)わけ物であり、
− 48−
その果てしない支払要求を満たして購うこと、それを私の物とすることなど 不可能に見える。だからこそ物(1achose)は、単に女性名詞という理由によ
るのでなく一人の《情婦》とみなしうるのだ。単に特定のある物が接近不能 をねabordable)というのではなく、任意のあらゆる物が、彼にとって不可能 な主題となる。どんな物に対峠する暗も、ポンジュがその物の暗黙の要求に 従って書きはじめるや、忽ち彼が《ある一人の人物の評価を追い求め≫るよ うな具合になるとすれば、この《必然的に言葉も名ももたぬ一人物≫とほ、
デリダによれば物の窮極的な他者性、あの別異なるものの影にほかならない。
換言するなら、ポンジュのエクリチュールは最終的に他者をして語らしめる ことをめぎし、少なくとも己れの名と言葉においてそれが他者の言語に等価であ ることを認証されることを願っているのだ。≪この人物がどこに位置するかと れ私が追いかけるに値するか、などはどうでもいい。》どうでもいいとのポ ンジュの断定にもかかわらず、人はこれまでこの入物が、諸々の外的事情か ら推して、N・R・F誌の編集長だったジャン■ポーランにちがいないとして きた。たとえそれが事実にしても、ポンジュの企図そのものの論理からして、
ファントーム デリダによればそれはポーランという人の名を負った物の精霊ないし幽霊で
なければならない。
だがこの人物、ある一人の人物とは、ポンジュの記述の対象とされる物ご とに、そのつど異なった相貌で立ち現われるのだろうか。おそらくそうだ、
コ」ニーーク をぜなら物もそのテキストも、ポンジュにとってそれぞれ《常に独自で類例 がな≫い、《独異性そ?ものの類例なき範棚なのだから。しかし一方ではま
ンユンニオブジュ た、彼の牒不可能な主題とは、単に一個の対象なのではか、。草さに言葉を
÷/.コ_ンエ 吹きこみ、要求し、命じ、己を与え、あるいは己を拒絶する一主体である。≫
ここでは擬人化された物の主体性が問題なのではなく、まさに己れを与え、己れ
71㌢−シュ
を拒絶する、己れに最も身近な主体が問題なのだ。≪不可能な主体とは絶対的に 別其の他者であって−だからこそ不可能なのだカ 」 その全く別異なるも のは最も身近に在る》のであi)、それほ≪書き手自身の〔固有の〕名や彼の 署名に最も近い≫主題である。要するにそれは、ポンジュの自己の間近に常 にあって、しかも自己による把握を常に免れてしまう奇怪なもの、自己に固 有なるもの、彼の固有名に近い名をもつものである。任意で無意味な物の群 から、特権なき範例としてスポンジおよびその同族体が浮かびあがるのはそ のためだ。スポンジないしタオルは、この自己固有なるもの、そして同時に 自己に対して絶対的に別異なるものの存在様態を極めてよく ≪寓喩≫する存
在であって、自然の中でいわば代表機能を発揮することになる。
こうして、不可能な主題が個々の物であるばかりでなく、とi)わけ物とそ
− 49 −
ば気づかれぬままにとどまる奇妙な論理なのだが、そこでは次のような事情 も関与していることがとl)わけ言葉という出来事ないし言葉による出来事に おいて∴顕著になろう。つまり≪「つの出来事というものは、その自称現前 的かつ独異なる現出のただ中に、一つの言表が介入することを前提しており、
しかもその言表自体は反復。異化の可能性を有する。そうした言表の介入に よってはじめて一つの出来事が成立する≫(『署名。出来事・コンテキスト』)
ということ。例えば、私が通I)で或る人に出会うという出来事が生じうるた めには、また出会いという経験がそのようなものとして経験され、経験とし
マーク て成り立つためには、常に何らかの仕方で私の意識に刻印されるのでなけれ
ばならない。そこにほ出会いという刻印8言表が介入しており、さもなけれ ばそれは出会い一般の一特殊事例たりえない。こうしてこの出来事ほ記号
と化すというより、むしろ、記号によってはじめて出来事≪出会い≫が出来 する。
まさにここで明らかになるのは、あらゆる記号が(言語的にせよ非言語的 にせよ、また話されるにせよ善かれるにせよ)引用され、引用符で囲まれう
スルス るということである。そして引用とは、記号の産出主体−その源泉一か
らの切り離しであり、新たなコンテキストへの接木である。従って記号は、
その産出の現在において尽きてしまうことなく残留し、経験的に決定される 産出主体の不在において、いぃかえればその現前性の彼岸において反復。異 化可能な刻印である。この法則はあらゆる経験一般に敷布される以上、純粋 な現前性の経験というものは存在せず、あるのはただ源泉から断ち切られた 示差的刻印のもつ非現前的残留のみということになる。
こうして、出来事に常に介入する記号の引用可能性、つまりは出来事の自 己固有性(出来事自身)の二重化〔裏張りdoublure〕が、出来事の純粋な独 異性を分断し、自己自身からそのような独異性を分離すべくやってくる。こ
のことを、今、署名という出来事について見てみよう。私が私自身の名を、
私に固有の名を書く時、この署名は善かれた記号であって、その限りでこの のつど独異な契約関係を結ぶ主体の固有性でもあるとすれば、 ポ ン ジ炬同 ユノじ の↓き 追も
い求めてやまないあの無名の一人物は、やほり常に同じ唯一の影、
のにちがいないのだ。
ここでおのずから、アンドレ。ブルトン『ナジャ』の冒頭の一句 ≪Qui suis−je?≫が想起きれる。「私は誰であるか山「私は誰を追っているかdこの本 質的な問に対して、単に己れのいわゆる固有名を名乗ることでほ何の解決にも
ドゥ一丁ル ならず、本来的自己という彼自身の分身に出会い、それを新たに命名しなけ
ればならない。そのためにまず私がそれにほかならないく誰〉であることを
やめる、つまり「生きながらに一個磁あ役割を演じ」る必要があった。
オフ−
たえず何かある他者を追い求める一個の幽霊となって、外部世界の諸々の対 象に憑きまとい、とi)わけ一人の女と出会い、さまよう必要があった。そし てその女の固有の名は明かされぬまま、ほとんど任意に《ナジャ≫ とよばれ るにすぎないが、この名はロシア語の「希望」を表わす語の初めなのである
ドゥプリエール 固有名という資格で採用されたこの非固有な、一般的概念語による名の裏地
に留意しよう。私のいわゆる固有名と、探求さるべき本質的名称にほかなら ぬ私の固有なるものの名称との、緊張した二重関係、しかしそれは同時に、
対象そのものの通称とその本質的名称との緊張関係に対応したものであるだ ろう。つまl)ナジャの本名にアルトンの名が呼応するように、ナジャという 名が彼女の本来的自己を言い表わしていればいるだけ、それに応じてブルト ンの固有性が名と言葉を得ていくことになるだろう。私における固有・非 固有の背反ないし緊張と、対象における同じ緊張とが、私と対象との出会い
ぁるいは憑きあいにおいて重な−)、私の幽霊と対象崩違とが惹きつけかつ ド巾一丁ル
拒けあう。つまり二重のものたちが緊張するのだ。
3)そもそも出来事とは生起する(s′arriver)ものかどうか。即ち自己自身
ポールリーグ とそれの他なるものを分かつ縁辺、岸辺に接触し、内と外を隔てる或る種の
タンパンイメ
ン 膜(鼓膜、処女膜)を破って、遂に自己自身に到達するものかどうか。ある 対話の中で、デリダはこの問題の困難さを次のように表明している。≪出来事 が存在するためにほ、何か全く他であるようなものの絶対的侵入が必要であ
って、さもなければ出来事は存在しないだろう。しかし、全く他であるよう な出来事があるとすれば、それは受容できないだろうし、経験可能でさえな
いだろう。何らかの出来事が存在するためには何らかの自己触発が存在する のでなければならない。全く他であるような出来事は経験に場を与える〔=
生じさせる〕ことさえできない。しかし他方、自己触発でしかないような出 来事もやはl)出来事ではない。≫これは出来事一般が前提していながらしばし
− 50 −
釆事の産出主体たる私の国有性。独異性を抹消する。署名は今、ここで、
・マントニール
ブレザンス ならぬ私によって善かれたという現前性の刻印をそこに保持しながら、こ
マントナ1 ブレザンテ
今を越えて常に、繰り返しそれを読まれるべく呈示する。絶対的に独異な
この出来事の今が、一般的な今となり、再生可能なものとなる。のみならず、
私という絶対的に独異な源泉から発したこの署名も、それが署名として機能
するために、つまり私の署名として判読されるために、模倣可能な形式をも
たねばならない。実際、私は署名するたびに、常に同じあの形式を反復する のだ。それは他者の所有に帰し、偽造きれることが可能である。そして署名
一 51一
ト/