119
﹃寺
︵一︶
ここでは︑冨弄鼎罵邑弓が﹁ソネット柴﹂︵呼冒弓厨︶において︑人
生さまざまの蛎椚に寄せて述べる想いを整理し︑雷わぱソネット的
思想とでも称すべきものを︑多少秩序立てて叙述しようとする︒乗
荷はソネット巣にしたしむにつれて︑その司狩Lを螺爪しつつも︑
しかもそこに魂れるところの思想の狩的発想と腱州にだんだんと強
く心ひかれるにいたった︒そして張打がその全貌を︑漢然とながら
も把搬しうるにつれて︑それがシェイクスピアの戯曲の人生の券え
方と︑根本的に相通ずるのはもちろん︑さらにそれが一五九○年代
のエリザペメ朝の作家述の思想の絶妙なる瀞的表現であるとさえ思
われてきた︒もちろん一般的に申して︑﹁ソネットLはそれ独自の
表現形式をそなえている︒筆者はそのようなものをここで問題にし
ていない︒筆者は︑たとえば三︒冒眉之儲言が︑一五八○年代の
終りから一五九○年代の始めの英国社会の世相を︑号呂匙言隠とい
﹃ソネット集﹄におけるシ︸︷イクスピァ
−
う理念をもってとらえ︑新と旧の矛附簡藤をさまざまに描いたが︑
この乏届言の立場をもつと深め︑かつ詩的にしたのが︑﹁ソネッ
ト錐﹂の立場だとまで言いたいのである︒それはそれとして︑エリ
ザペメ柵文学の中の若干の砿要な文学思想と見られるものが︑ソネ
ット姫の一アー↓︑となっているように蛾肴に思われたのである︒それ
は蛾打の思いすごしかもしれないが︑小伽の始めにそのような繩験
を申し述べることを杵していただきたい︒
﹁ロメオとジュリエットLにおいてロメオは︑友人ペンポリオに︑
ロオザラインに対する恋の苦しみを打明けるところがある︒﹁あ
あ︑いがみ合いの恋︒ああ︑愛しながらの柵しみ︒⁝⁝砿い浮弧︑
まじめな軽薄︑.⁝⁝・・砿い羽根︑あかるい煙︑冷い火︑病める馳
服︒つねに目覚めている眠り︑そんなものがあろうか︒こんな愛を
俺は抱いているのだ︒こんなことに一向執着するはずがないと思っ
ていた俺が︒Lロメオが糊しみの恋だと云うのは︑家と家との関係
から来ているためであり︑ロオザラインがロメオの家と仇敵の間柄
大久保
二
純
一
郎
→
120
﹀令
藤である︒
ット集の重要なテーマの一つは︑ロメオの如き摘熱と理性の矛店葛 持つことができない︒それがやがてロメオの悲劇をうみ出すcソネ しても一向に応ぜず︑ロメオは友の期待する如き﹁汚染なき眼Lを の白烏と思いこんでいる女性が実は烏にすぎぬと思いしらせようと ベンポリォが︑ロオザラィンを凌ぐような美人を紹介して︑ロメオ 心の秘密をひそかに堅く守っているのですLと述べる︒したがって て︑﹁あれの心の棚淡緬手は︑あれ自身の外になく︑だからあれは その矛附した苫悩を述べている点である︒ロメオの父は忠子につい をひく女性であっても︑忘れることができないということであり︑ 苛年はその心に焼きつけられた女性の災しい姿を︑たとえ仇敵の血 は︑かかる世間的の小柄でなく︑ロメオの如き一途にものを考える の血統を引く女性であるからである︒しかしこの台捌で亜要なの I上掲のロメオの言葉について︑己go司冨冒旨は︑﹁すべてのソ
ネット詩人は恋愛を矛崎する邪柄によって将散づけたしという古注
を採録している︒また国罵差匙目嬰島研爾自制の雛は︑ロメオの
台刺とソネット一般との関聯を指鯛するにとどまらず︑次の如き所
見をも云い添えている︒可矛附的M一という方法による恋愛の俄習
的な特徴づけは︵言い8﹃弓§号冒冒盲目︒冨働阻昏旨︒ご身①ご号⑦
爵昌ご皇8冨冒胃胃鼠︶︑エリザペメ期ソネット狩人域や︑それ
以前の英岡並びに大陸の詩人達の作品からも︑その例をあげうるで
あろう︒Lこの兄解はロメオの台詞の意錨的茨現について述べられ
ており︑しかも人間性の矛噛の表現が︑当時すでに或る型を持って
いて︑詩壇のマンネリズムに近いものだったと指摘しているやに受
一
けとられる︒
縦巷はこのような間鼬を︑もっと内測的に眺めんとするのであ
る︒さきに引川した許業を俗りるならば︑ソネット雌に現れる人間
性の矛肘的同一の鰡撤そのものを追究してゆかんとするのである︒
ソネット的な或る冨胃目の奥に存在するものの腱州に脈絡をつけ
てみたいのである︒障曽勵恩胃ざ乏骨旨はソネット染のシェイクスピ
アは可ロメオとジュリエット﹂のシェイクスピアであり︑また他方
言︒居巨恩野周冨g呂恩の憂うつな体験と︑﹁トロイラスとクレシダ﹂
の悲揃な学習に向って︑すでに歩み出しているシェイクスピアだっ
たと︑指摘し︑さらにシェイクスピアは一時失いかけていた人生に
対する信頼と希望を︑現実から逃避せず︑現実の核心に深くくいこ
むことにより︑再びわがものになしうるにいたるとも︑・し添えてい
るc兼者はこのように作品相互の内面的関係を︑広い立場から眺
め︑それによってシェイクスピアの輔神と技術を考えてゆく態鯉に
教えられることが多い︒
︵一一︶
英脚は一通九○年代において︑維済力の仲扱と政治外交上の成功
により未刊打の側迎の除盛を米し︑社会は各方面において異常の活
況を弧した︒人々はその地位と能力に応じ︑許されうる股火限の活
効をなすことができた︒シェイクスピアのソネット恥第九十一歌
は︑その祢様の一端を歌ったものであろうかとおもわれる︒可爽る
人は家柄を誇り︑或る人は手腕を︑また或る人は財産を︑或る人は
腕力を︑また或る人はえげつなき流行の衣裳を誇り︑また或る人は
一
122
一 者をもたぶらかしているのだ﹂と結證している︒ を論じ︑﹁要するに時代が見せかけの真実をたくみによそおい︑賢
それではシェイクスピアはかかる社会の現実の中にあって︑いか
なる態度をもって文学の制作を行っていったのであろうか︒彼は作
塞としての態庇なり︑立場なりについて︑何邪かを謡っていないで
あろうか︒もちろん態度とか立甥と称しても︑近代的な文学紺のぷ
す如きものが存在するはずはない︒しかし何かそのような作家の自
覚がソネット染の中に鋸められないであろうか︒私はソネット姫に
シェイクスピアの蝿性的自覚を探してみたいのである︒
ソネット姫を通暁してみるならば︑問題は二つの面から報察しう
るとおもう︒一つはシェイクメピアが好ましからざるものとして︑
取らざりし作家の立場である︒他はそれに代り︑彼の取らんとする
立場である︒一は消極的︑間接的な所謝であり︑他は砿極的な自説
の主扱である︒前者はすでに説いたところによってほぼ推測がつく
のであるが︑彼は外観の美しさや見せかけの典実を非難している通
り︑作家が事柄の外観にとらわれ︑事物の真相を逸するのを鮫も侮
蔑した︒たとえば第二十一の﹁化粧の美﹂とは事物の外観を指し︑
可自然の手もて美化さ虹し女性の顔Lは事物の真相にあたる︒肚間
では︑﹁化粧の美に詩興をおぼえる詩人座︵二十一︶︒が案外にもて
はやされる︒彼等の詩は︑愛する女性の美しさを表現するに︑天地
のあらゆる事物を援用し︑一形容のために天体をさえ利用し﹂︑﹁
思いあがった比較を談み︑美人を日に︑月に︑地上並に大海の宝玉
になぞらえ︑四月の早咲きの花にくらべる﹂︵二十一︶︒いったいか
かる技巧に堕した狩人とは︑何人を指して言っているのであろう
一
か︒これについてはジェイクズピアが当代のソネット詩人一般を非
難したのだとする脱もあり︑また罰︒罵昌@の著作を指すとして︑
彼の作品の一節を例示している学者もある︒
鋪この間魍についてはどうであろうか︒彼は詩人は美しきものを
叙述するに美辞をもってせず︑小物に対して愛冊を抱きつつ︑雅物
が典にあるように描くべきだと鋭く・また脚人の邪物に対する愛愉
は単に縦炎なものでなく︑典に人附味のこもった地味なものであ
る︒したがって淵人が彼の愛する人を歌う蹄︑その人がその人であ
ることを柵くように心がけるのが含言目一二呈弓宮go毎包司冒巨︶
蚊も大切である︵八十W︶・また櫛人の川錨は﹁真実の卒戒啄蘭
蕊﹂︵一目の壱冨眉環︒aeであらねばならぬ︵八十二︶・かくて姑め
て品絡ある詩が生れるのである︵八十四︶・シェイクスピアは狩人
として﹁︵対象である︶あなた自身がそこにいらっしゃることL
︵八十三︶を描き︑また︑あなたのうちに喬きしるされていること﹂
︵八十四︶を︑うつしてゆこうとする︒それが詩人のとるべき正し
き態皮であると彼は考える︒
第一の問題についての言及をもつと附記しておこう︒当代の詩
人達は真実の言語をもって詩を書かないで︑粉飾︵冒昌長︶の言
葉を用い︑徒らに多弁を弄している︒それ故に価値を歌わんとし
て︑しかも対象の価値に連せざるをこと甚遠い︵冒電胃誤目呂⑦冒
各二昏昏8吋目秤g吾︒罫ゞ︑涌量長具乏◎己︾.至言︻芝︒堅昌圏冒冒
号冒頭g亀︶︵八十三︶・それは﹁自然が︑身にあざやかに書きつけ
てくれたものを︑客ねて・いるし︵八十四︶のである︒詩人が対象の
脳炎にうき身をやつしているかぎり︑それは搬辞であって讃辞とな
一
123
ー
︵一二︶
さてこのような立場で︑譜人が美を描いてゆくとすれば︑それは
一体どのような制作品となるであろうか︒その具体的な実例をソネ
ット蝿に探してみよう︒周知の如くソネット災の初めの部分は或る
尚公子に瀞せられた歌であり︑シェィクメピアは︑﹁傘に芯に忠い
をはせれば︑わが野は暁の扮喋微の︑小略き地上の門より天の門に
いたりて︑掴美歌を欧うにも似たる﹂︵二十九︶と︑敬愛の冊を述
べる︒この貴公子の肖像画はいかように描かれているであろうか︒
まづシェイクスピアは班物の本質︵豐冨目8︶︵五︶を尊飛すべ
しと説く︒事物の美しさはその本質にあって︑外観︵農c君︶にな
い︒人間を描く場合も耐じである︒しからぱ現実に事物の本質をと
らえんとする際︑狩人はいかなる心撒えをもって︑鞭物に相対すべ
きであろうか︒シェイクスピアは眼とともに心を働かせよと述べ
る︒我々の眼と心が机助け合って姑めて︑我々は災しい人の姿をと
らえうる.眼と心とは聯盟を紬びうるものだ︵四十七︶・このこと
を逆の面から述べば︑我々の眼のみをもってしては︑愛する人の姿
だけは描きうるだろうが︑その心は到底測り知る由もない︵二十
四︶ということになる︒
彼が貴公子を歌った実例を︑一︑二引朋してみよう︒私の︵ソネ hえず︑かえって呪咀の歓莱へと変質する︵八十四︶︒それは恰度社交界の女性が化粧の炎を締り航にして︑醜を炎に兄せようと虚偽を行っているのにひとしいとさえ︑シェイクスピアは云う︒ ツト雌の狩人の︶眼は︑画家の如き役削を演じ︑君の︵没公子の︶美しい姿をわが心の側械の上に据えつけた︒わが身体はこの面版をはめこんだ額絃の如きものである⁝⁝わが眼は称の姿を描きあげたが︑その絵姿の君の両眼は︑実にわが心の窓であり︑その窓剛から︑太陽までも蛸しげに覗き見して︑君の禰影を眺めてくれる︵二十四︶・またそのことは︑君の画像がわが胸の店舗に︑つねに掲げられているとも云える︒君のまことの誌姿︵日5一角息篶︶は︑かくの如く鄭筑な扱い方を受けている︵二十四︶︵言冒具目・旨昌滑宮邑胃邑憲2司冤号旨冒曼冒鍾︒貝の普号誘冨冒硯農翼三.塁︶
この日掃葺冒鴨がシェィクメピァの災の本質なのである︒即ち
言乏のW後に〃繩するものである︒そして彼は奨の呂冨冨胃︒を
バラの花にこもる芳香にたとえている︒バラの花そのものは夏に開
き︑やがて寒気に傷められて︑散り果て︑その姿を失ってしまう︒
しかしその芳香だけは︑もし花が蒸滞されて番油に精製されている
ならば︑必ずこの世に花の美をとどめる︒即ち司花の本質は︑不変
に︑美しく生きていくのであるし含鼠﹃号切冨己8農冒胃受§ふ︶
シェイクスピアがここに描いたものは鐡的な理想美である︒それ
は十九仙紀初眼のロマンティシズムの狩人述が追求したと同じ災で
あろう︒ソネット災の初めの祁分に現われる側公子の胃胃冒損︒は︑
たとえばg筐昌の憶れた班想英と同じ性硬のもののように考えら
れる︒ジェリイは理想美がこの世のものならぬ絶妙さを術えている
が故に脆弱であるのを惜しんだが︑恰度そのように︑このソネット
錐もまた貴公子の美のうつるいゆくのを愛惜しているのである︒
純粋なる美を讃美することと︑同時にそれがあまりに純粋なるが
一
〜
124
一
︵四︶
さて以上のようにソネット姫の初めの部分は︑耶物の形式を打ち
破りつつ︑その本体にせまりゆき︑かくて真の美に到遮しうるとな
したが︑しかし文学においては︑これと逆に︑蛎物の形を尊爪し︑
かつ形を手がかりとして︑災の本体にせまりゆくことも叩能であろ
う︒前将をロマンティシズムの文学と呼び︑後荷を︑ロマンティシ
ズムに対立するものとしての古典主我的立場と呼ぼう︒ソネット染
の初めの部分は浪漫主義的な美の理満の展開であった︒ところがソ
ネットという文学形式は︑実はきわめて古典主義的なものである︒
申すまでもないが︑ソネットは︑外面的言語的な定型と︑その内部
に盛りこまれる思想とが一体となり︑曲折ある律動を刻みつつ展開
する︒そういう内外一体の卸然たる富冒冒の美が我々の心を打っ
てくるのである︒狩人は定型を遵守しつつ︑その内へ︑さまざまの
ものを歌いこむ自由を持っている︒我々はさきにソネット姫にロマ
ンナィシズムの蝿想災を指燗したが︑それはそのままの存従を昨さ
れずやがて当然新しい形へ発展しなければならないものである︒
秘は古典主蕊的という櫛莱を川いたが︑この譜は誤解をうみやす 故に脆く︑世俗の空気に耐ええぬのを愛惜し泳嘆することとは︑古米ロマンティシズムの文学に現われるところである︒ソネット染のそれは︑特に盤的な桁神而が強い故に︑プラトンの思想とのつながりをも当然聯想せしめる︒或はプラトンよりジェリイに到る一線の上に︑ソネット典はおかるべきであろう︒
一
いので︑少しここで申し添えておきたい︒それは要するに古典主懇
的とは︑肌に蝿知的なことを怠味しないことと︑これと関聯して十
八枇紀の如き理性的な時代においては︑ソネットは愛好されなかっ
たし︑またすぐれたソネットが制作されることもなかったという事
実である︒ジョンソン祁士がソネットという形態の文学は︑英綴を
用いては成功しないと断爵したことを︑ここで想起すればいいので
ある︒ソネットは合理主義の時代の雰川気に合わないのである︒し
かるにそれは十九世紀に入り︑ロマンティシズムが勃興するととも
に︑再び愛好されるにいたった︒ウァヅワスの言葉がよく引合いに
出される︒彼はシェイクスピアのソネットを猫発し︑可ソネットを
そしるなかれ・・⁝・シェイクスピアは︑この郷をもって︑彼の心の邸
をひらきたりLと歌った︒また彼は﹁シ墨イクスビァは彼の偶りな
き想いを︑親しく︑ここに︵僻姫に︶雌燃しており︑L﹁この狩人
の絆きものの他のいかなる部分にも︑これほどに︑多数の絶妙の忠
いが︑めでたくも表現されておらないL︵曽弓寄目自冨暑言宅弓昏罵︶
ことを罫んでいる︒
さてシェイクスピアはソネット災にさらにいかなる内容を歌いこ
んでいったろうか︒それは詩人の貴公子に対する愛憎の動揺と︑こ
れに伴う詩人の糀神の混乱である︒詩人は︑貴公子に対し︑心から
の愛悩を捧げているのであるが︑貴公子は冷淡であって︑詩人の愛
附にこたえてくれない︒おそらく貴公子はおのが美貌に自惚れて︑
脳炎稀の呼征など顔みる余補がないのであろうかと凋人は怨む︒し
かし人間の奨説などは果敢ないものであって︑時側の暴力のもと
で︑おそかれ芋かれ川もなく︑この世から満減する迩命におかれて
一
125
いるのだ︒貴公子は自愛に溺れ︑束の間のこの仙の塒川を空曲して
いる︒彼は可みづからを教し﹂︵三︶︑可間愛の蕊﹂︵三︶となる
のだと僻人は欲く︒
貴公子の美貌はその母の美しさを受けつげるものである︒そして
もし徴公子が子を緋けるならば︑父の美貌はさらにその子に伝わ
る︑詩人は︑このことに想いをはせつつ貴公子に︑鏡面に顔をうつ
したまえと︑改めてすすめる︒それは貴公子に対し︑相変らず
冒冒冨厨日の自愛に耽りたまえとそそのかすのでなく︑その美貌は
女性を御て︑子に低えうることを︑彼に知らしめんがためである︒
狩人はそのことを歌う︑﹃称は雌の鋪にして︑母は芯の姿のうち
に︑猫かりし淵祥の冊の姿を︑とどめ給えり︒荘もまた銭よらむと
も︑その老年の窓より︑今の黄金時代の面影を眺めむ︒L︵三︶
これは浪洪的な考方から転じて︑新しい立場に出たことを示す
が︑一秘の怨み言の如き響きも持っている︒しかしやがて新しい事
態が起る︒それは賞公子が詩人を侮辱する邪件である︒第三十四歌
はそのことを述べる︒今まで購れていた空が急に曇って︑雨然が空
一曲にひろがり︑折懇しく雨典を持ちあわさぬ旋人をおびやかすよ
うに︑圃公ナは狩人に対し︑冷淡︑不破嫌になったと云う︒そして
野楜を渡るしゅう雨に︑旅人がずぶぬれになるように︑脚人の全身
は恥辱によごされてしまった︒貴公子は椛力者である︒椛力者はか
くの如く︑不意に人を脅かすと同時に︑また掌を返す如く卒然とし
て︑人に笑顔を見せるものである︒それは太陽が雲の切れ目から射
し出て︑旅人の濡れた顔を乾かしてくれるにも似ている︒しかし侮
辱を受けた側からすれば︑彼の受けた打螺と傷心はなかなか癒され
〜
Q 一 ー
ない︒また蛎件を偶々僻観していた世間の人もまた貴公子の気まぐ
れをゆるすまい︒この那件が賞公子自身を似つけた汚辱︵盲目︒︶
亦件であることに︑気づいていないのでなかろうかと棚人はいぶか
る︒
右の郡件に加うるに︑さらに今度は一人の女性をめぐる三角関係
の恋愛事件が貴公子と詩人との間におこった︒貴公子の優雅な物腰
と美貌は女性達を魅惑せずにおかず︑彼はつねに女性達に取りまか
れていた︒彼の放埒↑合席島︶は詩人も噂に聞いていた︒しかし荷
人は彼自身の戒接に関知せぬ放好までをも賀めようとは思わなかっ
た︒それは貴公子の心から彼の一目損︒が将らく洲える空聡に発生
したのだと好えて︵舅庸昌目岱目唾︒冒昌目・三遍c旨昌g目昏︺置21食・︶︑
半ばあきらめていた︒しかし今度の鞭件はそれと異なる︒賢公子は
詩人の愛する女性と新しい関係を緒んだのである︒
かくて今や貴公子は自己中心で︑他人に冷淡な自愛者︑目色弓雷雲
であるのみならず︑椛力を濫用する暴君となった︒可ああ︑君よ︑
わが坐臓を侵瞥し給うなかれし︵山十ごと詩人は歎忠する︒﹁坐
朋Lとは︑愛する女性の心の内の坐附である︒かくなっては狩人の
心は動揺せざるをえぬ︒狩人のロマンティシズムは破れ去るのであ
つく︾O
ロマンティシズムは自己肯定の立場に立ち︑自と他との直接的な
融合を信ずる︒それは美しい花に我を忘れ︑我と花とは一体化され
て︑かくて花の美が知られうると考える立場である︒しかるに今やソ
ネット集の詩人は︑冷淡と裏切り行為の轆牲者となって苦悩し︑美し
い花を眺めても︑よそよそしさを感じ︑司夏の花は夏にとって美し
÷
ナ
1J
#
126
〜 疑惑と歎きはつきるところがない︒
︵2︒g乱﹃旨︒︶が保有されているのであろうか︵九十三︶・詩人の
窺い知る由もない︒しかし果して︑外見︵伽言︺茎︶に杣応する美徳 甘奨のみを我わす︒彼の内心の想いも︑勅きも︑その炎梢からは︑ 廿推なる愛のみ徒めよと命ぜるかの如くにL︵九十三︶︑彼の剛は ては︑いかなる甥合においても︑司天が君を作りしときに︑つれに 気分の動きが推測されうると云われている︒しかるに貴公子におい 世間では人側の性格はその顔に現われ︑したがって顔つきを兄れば る︒このような猫疑心はかつて経験したことがなかったのである︒ 患も現われていないのはどうしたことであろうか︑と詩人はいぷか に関する場合︑いっそう軒しくなる︒今︑貴公子の眼になんらの悪 淋しく歌うにいたる︒このような目と他との対立の意識は︑貴公子 しいのであり︑花自身のために咲いて散ってゆくのだ︵九十四︶と貴公子は︑﹁無慈悲にもわがものを椋奪せる美しき盗賊L︵三十
瓦︶である︒それ故に狩人の心のうちでは﹁愛と梱しみの内乱﹂が
戦われている窃旦︾号二望胃靜冒冒望きく︒負具冨冨.駅︶そ
れは可自分岡身に対して正当なる脈払を提起したい﹂︵三十荘︶と
いう自庖的な気持ともなる︒彼は資公子を綱みながらも︑他方では
僧しみを忘れえないものだろうかとか︑或は以前と同嫌に愛しつづ
けることはできないであろうか︑と悩む︒彼は貴公子を非難しよう
とすると︑直に弁護したくなってくる︒司君の敵にして︑しかも弁
護人し︵三十五︶なのである︒
もっとも鮒人の心を混乱せしめるのは︑さきにも述べたように貴
公子がその非行を悔慨したかのように︑急に狩人に対し悲しき災州
一
︵五︶
節九十四歌において椛力と奨説とが歌われている︒﹁椛力は他を
秤する力を持つ︒Lしかし人がそれを怒川することなく︑恥にそれ
を兄せびらかすにとどまるならば︑椛力も椛力打も非難さるべきで
ない︒そして椛力群が腿衆の心に波動をあたえ︑かつ左右しつつ
も︑椛力者自身はあくまでも平聯冷淡な態庇を保持することが澱え
られねばならぬ︒椴力者は石の如く冷たくあるべきであり︑かつ誘
惑に心乱されてはならない︒美魏の人も︑また椛力者の如く︑他を
動かしつつ︑みづからは平静冷淡であらねばならぬ︒以上の如く述
べてから︑時人は︑賞公子に対し︑もし君がかくあるならば︑自分
は︑槻力将に従う腿衆の如くに︑災貌の称の別当役たるに廿んずる
であろうと樽う︒
舅三色自国冒冨目は第九十三欧から鰯九十返歌へかけて﹁・偽縛の
讃辞L︵号①壱目閣昌彦君g﹃富︶なるものを術摘し︑この臓辞がど
うして生れてくるかについては︑詩人の糀神状態のバランスが︑愛佃
二嫌の不安で危険な状態におかれているからだと述べ︑このように
して飛粁がさきに指摘した如き詩人の糀神の労員匡目行巨恩の問題に
爵い及んでいる︒しかし色目三艮豐gが︑その後如何に処即されて
ゆくのか︑という蝋川まで︑鍍織を腿附していないのである︒ を示す時である︒僻人は遮犯将の悲しみなどで︑わが心の揃手が職やされるものかと反撤したが︑しかし貴公子の悔悟の涙ならば一切の非行を償ってあまりがあると思い成す︒
一
ユ27
国暑g二は第九十三歌は﹁現実とブラトン的墓恩房目との伽突﹂ 〜
だと云い︑またこのあたりに現れる﹁冒自一︺冨一98の級元は貴公子
が野心宝として愛されていることにあるのだLと云う急自宅8旨伽
酷習冒c鐘n扇ぎ崖⑳︒︷霜届冨周昌や.︒岸︶
しかし我々はそういう秘度にとどまらないで餓鐡をもつと削進さ
せたい︑ま・つ云いたいことはソネット姫においては自︼曽冒一o目8か
ら新しい糀神の展望へと歌い進められているのだということであ
る︒次に申したきことは︑それにも拘わらず︑その展開の思想的追
究が︑在米のソネット研究において列んど不柵に附されて米たと愛
う轆火である︒
慨には自費皇ggに自慰を感じ一.﹄いるやに見える人々もある
が︑もともと遊戯の白目三童昌gというものはありえないのであ
る︒いな人が典に画且︾胃一目8に在ることを自覚するならば︑その
時︑人はすでにそれを超克し船めているはずである︒巳冨一号里98
とは輔神存伍の矛崎であるから︑人はそこに在ることに耐えがたき
苦擶をおぼえるはずである︒ソネット集においても︑詩人は
画且︶冒一98を自覚すると同時に新しき展開へと転回している︒
ただその自礎は︑全く行為的な自覚であるために︑芯磯我現を川いてこれに過随するのは容易なことでない︒貴公子はさきに述べた
ように︑非行を恥じて︑詩人に対し遺鰹の意を表した︒これが詩人
の輔神の展開の電大な契磯をなすにいたる︒というのは敬愛する貴
公子の悔慨は︑よしそれが一時的で気まぐれなものにしろ︑詩人に
対し強烈な自己反楕の契槻を与えたからである︒狩人は彼自身もま
た︑過ちを犯したとなす︒たとえば彼は在来貴公子の非行を︑他の 誰彼と比鮫したり︑戎は彼自身の憾みは他の或る人の場合よりもまだ恵まれているとかいうように︑比較と相対をもって考え︑いく分でも貴公子の罪を軽く見たり︑或は糊雛したりしていたではないか︒典に苫悩し︑そして救われんと念ずるならばかかる妥協的な行為を慨しまねばならない︒
我もまた過誤を犯している︒そしてわが身を汚している︒狩人の
自己反省は自己否定へと進む︒そしてさらに人間一般の弱さと哀れ
さの縄織へと深まる︒﹁すべての人間はあやまちを犯すのだし︵八
十八︶と彼は労える︒ここまで来れば惚慨即ち寛秤である︒そして
寛審は全く新しい箱神的な愛悩から発しているのである︒紳人は尚
公子に向い︑﹃︲我はおのれの弱点を知りたれば?君の味方となりて
隠しおきしわが不名脊なる過ちの数々を︑君の大いなる祥れとなさ
んとして︑逐一申し述べん﹂︵八十八︶と呼びかける︒時人はみづ
からに危櫛を加えることにより尚公子を雑せんとする︒即ち狩人は
自己否定により︑対象と一体化せんとする︒否定を通り大いなる術
定に到る道がひらけて来たのである︒ロマンティシズムの愛は自己
肯定の場における自己と対象との融合と一体化であったが︑今や否
定を媒介とする自他の合一の心填に入ったのである︒だから僻人は︑
貴公子の群れがあがれば︑それは戒に詩人自人の祥となり︑﹁われ
を二薮に益してくれる﹂︵八十八︶と断言する︒かかる心境におい
ては︑愛のみあって憎しみの入る余地がないと考えられるかもしれ
ぬが︑人間の倣界に側しみの絶えるはずがない︒可二人は互を引き
醗さんとする柵しみのうちに生きるかもしれないが︑しかし二人の
愛は︑ただ一つの思いに結ばれているLと詩人の自信にはゆらぎは
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速の偽りの淡の謙を︑いく杯呑んだことであろうと敏ずる︒しかし 〜
悪を知ってこそ︑一師響きものへと進みうるが故に︑悪の利益とい
う体験も魑めねばならぬと鞘ぶ︒しかしこのような立場の鯏而十九
歌では時人は災の皿念を十分に打ち川すことはできなかった︒
紳人の珊想災の︾閂冒習は︑かくして一応破れてしまうのである︒
では一凪崩壊した美の理念は︑ソネット築において︑なんらかの形
態へ蒋建されなかったであろうか︒斑想芙とは︑他の媒介を容れえ
ない叩なる超他姓の災である︒それ自身は災しいが︑しかし生箙の
ない不その災である︒しかるに生命を存する美は︑絶対性を含みつ
つ︑無限に柑対的な形盗をとって︑現れてくるものである︒時人は
絶対性の災に相対の姿をあたえるのが狩の責務であると考える︒狩
人は超越性の災に︑嫌々の価性を附与し︑かくして剛想奨の押処を
はからんとするにいたる︒
詩人はまづ真の美は︑本体は不変で︑恒常性を持つが︑現れ方は様
々に変化するものであり︑たとえば壯の提わしきものを兄たとき︑
必ず隣公子の災が呪れているように娘ずる繩験がそれを襲蒋きする
と好える噂﹁芯の災はあらゆる外部的な美に︑なんらかのかかわり
を有し︑しかもまことの心にかけては︑君は何人にも似ず︑何人も
君の如からじ﹂︵五十三︶
盛りてしかも変らない美は︑現在の時間において考えうるのみな
らず︑過去にさかのぼり︑未来にまたがって考えられるものであ
る︒貴公子は蘆・昌廻の美しさにもまさり︑また貴公子の絵姿を描
くならば一堂@便の知を飾ったような艶色を蹴らねばならない︵五
○十翼︶︒典の炎は雌史において巧えられるのである︒典の炎は時側の バァスペクテイブの中に据えられ︑永迩の時間において変りつつ変らぬものである︒だから我々は︑当代のように臓物の美が人間の額を飾らなかったところの古代の商尚な災を︑想像することができる⑪即ち貴公子の災醜を媒介として︑それを迎想しうるのである︒司彼のうちにあの気筒き古代の時間がうかがわれる﹂︵六十八︶詩の任務は絶対美に相対の姿を与えることにある︒貴公子は︑可この蝋に歌われていよいよ光り抑くLのであり︑ソネット雛において生きるのである︵庇十五︶・しかし狩人は︑戎は彼以上に優秀な手腕を竹する狩人があって︑もっと美しい画像を描きうるかもしれないという不安におそわれる︒また果して彼は︑過去の詩人よりもまさっているだろうかとも反術する︒かくて狩人は美の朧史と文学の服史の意繊を間党する︒その脚覚は︑淵代の脚は当代の新しい災を歌うべきであり︑決して川米の美の識し返しに終ってはならないと教える︒もしそうならば当代詩人の恥辱であると詩人は考える︒
︵三十二︒五十九︶・
しかしシェイクスピアの災の州念は︑炎は典と合体し︑絶対錐は翼を含むべきだと瀞えるにいたり︑その極限に述する︒バラの花は
美しいが︑花にこもる甘美なる芳香により︑尚一層美しく見える︒
そのように美も典︵まこと︶が附与してくれる廿美なる粧いによ
ぐ︾︾﹄︒こり︑美しく兄えるのである︒花も人側も︑外兄をもって︑内火の典
だと押し通すことは昨されない︒典なき美は非生礎的であって︑新
しき美を康み出す機会も与えられず︑ひとり佗しく死んでゆかねば
ならぬ︒だから美貌の若き貴公子よ︑わがソネット染は君の真を蕪じ込め︑君を永速に生かさんとるものだとシェイクスピアは総鯨
︵狐十門︶︒
一