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マルクス經濟学形成への一礎石 : エンゲルス「経 済学批判大綱」研究序論

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(1)

マルクス經濟学形成への一礎石 : エンゲルス「経 済学批判大綱」研究序論

その他のタイトル On Engels's Outlines of a Critique of Political Economy

著者 杉原 四郎

雑誌名 關西大學經済論集

4

7‑8

ページ 660‑683

発行年 1955‑02‑10

URL http://hdl.handle.net/10112/15776

(2)

660 

一八四四年の二月にマルクスがルーゲとの共同編輯によってパリで創刊した﹃独仏年誌﹄(^^

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は ︑

不幸にして第一•第二の合併号を一冊発行しただけで廃刊の止むなきにいたったけれども、

の刊行はマルクス主義の成立史上劃期的な重要性をもつている︒けだし︑

た論稿は︑それぞれの独自な思想をはじめて明確にうち出したものとして︑彼等の青年時代の代表的傑作であるの

みならず︑その論稿が彼等相互に深い感銘をあたえ合い︑かくて終生かわらぬ二人のかたいむすびつきが︑実に本誌

の刊行を機縁に成立することになったからである︒すなわち︑

哲学批判﹂と﹁ユダヤ人問題によせて﹂を︑

( 2 )  

ているのであるが︑とくに重要なのは﹁ヘーゲル法哲学批判﹂と﹁経済批判大綱﹂とであって︑

ス郷清学形成への

﹁これこそ塊在われわれがはたすべき役割であ ーェンゲルス「経済学批判大網」研究序論ー—_

マルクスおよびエンゲルスが本誌に寄せ

マルクスはルーゲとの往復書簡の外に﹁ヘーゲル法

エンゲルスは﹁経済学批判大綱﹂と﹁イギリスの状態﹂を本誌によせ

ドイツ人自身の哲学からでたさけがたい結論としてひき出すこと︑

( 3 )  

る﹂と考えていたエンゲルスにとつては︑ドイツでは普遍的人間的解放がプロレタリアートの解放を通じて行われ 礎石

四四

一方︑共産主義を

(3)

661 

^ 

四 五

︑ ︑

なければならず︑それは解放の頭脳としての哲学者と解放の心臓としてのプロレタリアートとが協力してのみ可能

ぜしめたであろうし︑他方︑ であることが︑ヘーゲル法哲学の批判を通じて力強く展開されているマルクスの論文こそ︑実にわが意を得たりと感

︑ ︑

マルクスにとつて﹁ユダヤ教の経験的本質たる暴利商業とその諸前提とを揚棄するこ

と﹂なくしては市民社会における﹁人間の個人的

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i 5

6

度一頁︶とすれば︑そしてその揚棄の主体たるべきプロレタリアートが︑今やドイツでは﹁低

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

護関税︑保護貿易制度︑国民経済のかたちにおいて﹂問題が提起されているとこるの﹁産業運動﹂の中から生成し

ーとすれば︑他ならぬ﹁暴利商業とその諸前提﹂とに経済学批

D.

 

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6

11 ,  62 0 

0

﹁産業運動﹂の諸帰結を論理的に追求したエンゲルスの論文こそ︑まさに括目にあた

いするものであったろう︒このような共鳴を契機として︑パリとマンチェスターとの間に文通が開始されるが︑後

年マルクスは﹃経済学批判﹄(‑八五九年︶の序説の中で﹁私は経済学的諸範疇の批判のための彼の天才的な小論の

スも﹃国家科学辞典﹄によせた﹁ハインリッヒ・カール・マルクス﹂ 彼とたえず手紙で思想の交換をつずけてきた﹂とのべ︵選補③四頁︶︑

のために仕事をともにしていらい文通をはじめていたのである﹂とかいて︵選⑰二七頁︶︑ともに両者の結合の発

.端を確認しているのである︒かくて︑本誌の刊行は︑それによってドイツ人とフランス人との知的同盟を実現しよ

うとした遠大なプラソは水泡に帰したばかりか︑共同編輯者たるルーゲとマルクスとの永久の訣別の機縁ともなっ

たけれども︑それらをつぐなってあまりある牧獲をえたというべきであろう︒

ところでこのような意義をもつ﹃独仏年誌﹄の諸論文の中でも︑

K

判を通じて鋭いメスを加え︑

エンゲルスの﹁経済学批判大綱﹂

'Umri.Be —

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えない

(4)

662 

三月頃と推定されるが︑その頃つくられた英仏の代表的な経済学書に関する大部な研究ノートの中には︑

の要点の抜幸もふくまれており

(~:~stl

5)︑そのノートを基礎にして書かれた経済学批判のための草稿の序文

の中で彼は﹁この科学にたいするドイツ人の手になる内容ゆたかで独創的な諸著作は︑おしつめてみるとー│・ワイ

トリングの諸著をぺつとすればーー'なんといつても﹃二十一ポーゲン﹄.誌にのったヘスの論文と︑﹃独仏年誌﹄に累玄y

(5

年釣疇心咋︶︒﹁大網﹂と﹃経済学・

哲学草稿﹄や﹃神聖家族﹄とを読みくらべてゆくと︑本稿第三節以下で見るように︑マルクスが初期の経済学研究

において﹁大網﹂からいかに多くの示唆をうけ︑いかにこれを高く評価しているかを知りうるのであるが︑﹁大網﹂

の意義はたんにマルクス経済学の生成過程において認められるにすぎないものでは決してなく︑その発展過程にお

いても無視しえないものがあることは︑﹃資本論﹄第一巻(‑八六七年︶における﹁大綱﹂の数次の引用や︑その前後

の時期にマルクスやエンゲルスが経済学の重要論点に関してしばしば﹁大網﹂に言及しているーー・ほとんどすべて

C 6 )  

肯定的積極的評価の観点からーーことからもうかがうことができるであろう︒しからば︑いかなる意味において︑一

八四三年の暮に︑二十三オの一ドイツ青年によってマンチェスターでかかれたこの論文が︑

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( 4 )  

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は︑さきに見たマルクスのことばも示唆しているように︑マルクス経済学形成へ

の一礎石として特別の地位を与えられるべきものであって︑

エンゲルスの追悼論文の中で﹁大網﹂の

「マルクスが経済学ーー,彼の労作によって完全な変革をこうむった科学ー—・を研究する決心をきめる

エンゲルスとの交際があずかつて力があることは議論の余地がない﹂︵大月版全集R八頁︶と書いている仕ど

マルクスが経済学の系統的な研究にとりかかるのは︑彼が﹁大綱﹂をよんだ直後︑すなわち一八四四年の

そのような重要な意義

(5)

663 

マ戸クス経済学形成への一礎石︵杉原︶

それが﹁天才的なスケッチ﹂たる所以を︑

四七

をもつているのであろうか︒わたくしは︑本稿において︑わづか二十八頁の小篇にもられた豊富な内容をさぐりな

できるだけあきらかにしてゆきたいとおもう︒

(1 )

﹃独仏年誌﹄の原本は稀観本であるが︑一九二五年にその写真版がでている︒

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(2 )

﹃独仏年誌﹄には︑巻頭にかかげられたルーゲの﹁プラン﹂と﹁一八四三年の往復書簡﹂八洒︵戸ーゲ・マ・クス・ぐ入 クーニン・フォイエル

4

入ッペ︶︑それからマ形クス・エンゲル

K

のこれら四篇の論文の外に︑ヘス︑ヤコビ︑ベ

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→ イ

が 論稿を各一篇ずつとがイ`不と︵戸ヴェークが詩各一篇とをかいており︑巻末に﹁ドイツ新開概観﹂がのせられている︒全 部で二四

0

( 3

)

これはエンゲル

K

が﹃大綱﹄を書くすこし前︑イギリスのオーウェン主義機関誌﹃ニュー・モラ戸・ワール

F ﹄の一八

四三年十一月十八日号に英文で寄稿した﹁大陸における社会改革の前進﹂の第二部﹁ドイツとスイス﹂から引用した︒ド イツ語版全集第一部第二巻四四八頁︑大月版選集補巻

5

一 七

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︵ 以 下

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:  

と略称する︶

(4)

「大綱」は『独仏年誌』の八六頁から一―四賀までにおさめられているが、メーリングの編纂した『マルクK•Hンゲ

K

逍 稿 集

﹄ 第 一 巻 や

︑ ド イ ツ 語 版 全 集 第 一 部 第 二 巻 で も よ む こ と が で き る

︒ そ の 邦 訳 を 年 代 順 に あ げ る と 嘉 治 隆 一 訳

﹃独仏年誌抄﹄昭和二年同人社︵後改造社版全集第二巻に牧録︶︑遠田吉五郎訳﹃綽済学批判大綱﹄同二十二年彰考書院︑

猪木正道・小松茂夫共訳﹃独仏年誌論集﹄同二十三年社会思想研究会出版部︵後﹃原始マ乃クス︑主義﹄と改題︶︒および マルクス・エンゲルス選集刊行会訳﹁国民経済学批判大網﹂同二十七年^選集補巻⑤︶がある︒

(5) このノートは短いものであるからその全文を訳出しておこう。言:~も

﹁私有財産︒その最初の結果たる商業︒それは︑すぺての活動がそうであるように商業をいとなむものにとつては龍接

の利得の源泉である︒商業によって規定される第一の範疇たる価値︒抽象的現実価値と交換価値︒現実価値を規定するも

のとしてセイは放用を︑リカードと︑︑:ルは生産捜をあげる︒イギリス人の場合には競争が生産唖に対して放用を代表する'

が︑セイの場合は生産饗の方を代表する︒価値とは生産狸の数用に対する関係である︒価値の最初の適用は︑はたして生

産すぺきかどうか︑その放用は生産養をつぐなうかどうかの決定にある︒価値概念の実際の適用は︑生産に関する決定に局

(6)

6 6 1 1 ‑

r ル

ク こ 経 済 学 形 成 へ の 一 礎 石

︵ 杉 原

︐ 四 八

限される︒現実価値と交換価値との相違は︑商業のさいに与えられる等価物はなんらの等価物ではないという事にもとず

く︒価格は生産喪と競争との関係である︒独占可鮨の物のみ価格をもつ︒リカー

F

による地代の定義がまちがつているの

は︑需要の減退がただちに地代に反映し︑最悪の耕地のこれに応じた量が即座に耕作されなくなると仮定しているからで

獄 侭 盆 去 訳

ある︒それは誤りである︒このリカー

F

の規定は競争を看過し︑スミ

K

の規定は肥沃性を排除している︒ ︑︑︑︑︑ 牧獲鮨力と競争との関係である︒土地の価値は同一面積に同一労働量がもちいられたときの生産性によってはかられる︒

査本と労働との分離︒資本とその利得との分離︒利得の利潤と利子とへの分離⁝⁝利潤は生産費を決定する場合に資本

が秤の皿にいれる錘として資本に固着してとどまり︑これは労働にたちもどる︒労働と労賃との分離︒労賃の意義︒労働

が生産翌の決定に対してもつ意義︒土地の人間との分裂︒人間的労働の労働と資本への分解﹂︒

以上は﹁大綱﹂の第四節および第六ー九節からのぬき書である︒マルク

K

が﹁大綱﹂のそれ以外の個所についてはぬき

書きをつくらなかったのかあるいはそのノートがうしなわれたのかは不明であるが︑以上のぬきがきはわれわれがマルク

K

が﹁大綱﹂のどこに注目していたかをうかがテーつのてがかりとなるう︒ (6)

『資本論』第一巻における引用(インK

ティテュート版八

0—八1

頁、一五九頁、一七―|―七二頁および六六九頁)

︑ ︑

の外に後年のマルク

K

の﹁大綱﹂への首及としては︑一八六二年八月九日付ならびに六八年一月八日付のエンゲルスヘの

︑ ︑

︑ 手紙および六三年頃執筆された﹁直接的生産過桓の賭結果﹂︵選⑨四

0 二頁︶を参照︑また後年のエンゲルス自身の﹁大

綱﹂への言及としては︑一八五一年一月二十九日付のマルク

K

への手紙︑﹃反デューリング論﹄(‑八七八年︶第三篇︵選

⑭五一五頁︶︑八一年二月一日付カウッキーヘの手紙︵岩波文庫四三ー四頁︶および﹃哲学の貧困﹄ドイツ語版(‑八八

四年︶への註︵選①二九六頁︶を参照︒

一 八 四 二 年 秋 ベ ル リ ン 砲 兵 連 隊 に お け る 一 ケ 年 の 軍 務 を 終 え た エ ン ゲ ル ス は

︑ 一 旦 故 郷 の ウ ッ パ ー タ ー ル に か え る が

︑ 父 の 出 資 す る マ ン チ ェ ス タ ー

﹁ エ ル メ ン

・ エ ン ゲ ル ス 紡 織 商 会

﹂ に 入 社 し て 商 人 と し て の 修 業 を 完 成 す べ く

(7)

665 

ぎのようにのべている︑新ヘーゲル派の人々の一部は︑ を一瞥しておくことにしよう︒ 十一月の末にイギリスヘ出発する︒かくて︑日ライン繊維工業の中心地で初期資本制生産の実状を見聞しつつ敬︑︑︑︑︑︑︑︑︑虔主義的信仰を奉ずる工場主の厳格な膝下にそだったウッパータール時代(‑八二

0

1

郷を去つて輸出商の実務見習をしなから︑詩作や語学の修得やシュトラウスの﹃イエス伝﹄の影響を通じてのヘー

ゲル研究の着手やさらにはグーツーコフやベルネの刺激をうけて公表した急進的政治評論やによって早熟多彩の才能

を発揮しはじめたプレーメソ時代︵三八年九月ーー四一年五月︶︑国近術連隊での服務の余暇に大学の聴講生として

哲学を研究し︑パウァー兄弟等の組織する﹁自由人﹂グループに加入︑フォイエルバッハやモーゼス・ヘスの影響

ングに対して展開しつつ哲学的共産主義者として成長していったベルリン時の下に活澄な論戦をなかんずくツェリ︑︑︑︑︑︑︑︑代︵四一年十月ー四二年九月︶のあとをうけて︑彼の生涯に決定的な重要性をもつイギリス修業時代がはじまるこ

﹁大綱﹂は︑四四年八月に大陸にかえるまでのこの二十一ヶ月のあいだに執筆・発表された彼の多くの

労作の中の最も重要な産物であるが︑

われわれはその内容に立入るまえに︑まず当時のエンゲルスの思想と生活と

エンゲルスは渡英の直前にすでに共産主義思想への一歩をふみ出していた︒四三年の秋彼はオーエン主義者の雑

誌﹃ニュー・モラル・ワールド﹄にドイツの共産主義思想の発展を紹介した文章を寄稿しているが︑

を発表した︒しかし︑﹂その派の指導者たち︑

﹁彼らの哲学をつきつめてゆくことによって共産主義者に

たとえばプルーノ・パウアー博士︑ そのなかでつ

なっていたのであ︹り︺⁝⁝一八四二年秋にほやくもその派のある人々は︑政治的変革の不充分さを主張し︑財産

共有に基礎をおく社会的革命こそが彼らの抽象的.︹哲学的︺原理と一致する人類の唯一の状態である︑という意見

フォイエルバッハ博士︑ルーゲ博

(8)

666 

士などは︑当時まだこの決定的な一歩のための準備ができていなかった︒この派の政治新聞﹃ライン新聞﹄は︑共

産主義を唱道するいくつかの号を出したが︑のぞんだような効果はあがらなかった︒しかし共産主義は新ヘーゲル

派の哲学の必然的な帰結であって︑どんな反対派もそれを抑止することはできなかった︒そしてその年のうちに︑共

産主義の首唱者たちは︑共和主義者があいついで彼らの戦列にくわわってくるのをみて満足した︒当時すでに禁止

されていた﹃ライン新聞﹄の編集者の一人で︑事実上その派の最初の共産主義者であったヘス博士のほかに︑きたり

れた﹃ドイツ年誌﹄の編集者ルーゲ博士︑ くわわるものはいまや多数であった︒たとえば︑青年ヘーゲル派の学術雑誌で︑ドイツ議会の決議によって禁止さ

﹃ライン新聞﹄のもう一人の編集者であるマルクス博士︑プロンヤ王あ

ての手紙が去年冬イギリスのたいていの新聞に訳載されたゲオルグ・ヘルウェーク︑その他共和主義派ののこりの

人たちも︑やがて吾々に合流するだろうと思う﹂︵年応叫.一紐狂竺七

0

頁︶︒ここで﹁その派の最初の共産主義者﹂

とされているモーゼス・ヘ●

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18 12

‑1 87 5)

は︑フォイエルバッハの﹃キリスト教の本質﹄(‑八四一年︶

がでたすこし前に匿名で公刊した『ヨーロッパのトリアルヒー』(占•

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や四二年﹃ライン

新聞﹄のパリ通信員となってから同紙に寄せた共産主義に関する諸論文によって︑ドイツ知識人の問題意識を哲学

エンゲルス 的思弁から社会的現実にむかわせようとつとめ︑現実における真の斗争の場は国家ではなく社会であること︑十八

︑ ︑

世紀におけるドイツの哲学革命とフランスの政治革命とによっては十分に止揚しえなかった対立は︑今世紀のイギ

リスを中心として起るべき社会革命によってはじめて徹底的に解決されるであろうことを力説したが︑

はこのような所説に強く影響されて︑新ヘーゲル派の﹁指導者たち﹂よりも早く︑四二年の夏には共産主義的自覚

( 1 )  

に到達していたのである︒あたかもその頃マンチェスターで労佑者の暴動が勃発したことがったえられた︒おそら

五 〇

(9)

667 

三十日付のイギリス通信は︑

この革命の口火をきり︑

一見﹁いかにも複雑にみえる﹂イギリスの現状

く彼は新しい歴史をきりひらくべき労仇運動をその最尖端においてしたしく見聞しうるどころか︑あわよくばイギ リスの地平のかなたにせまりくる社会革命をともに生きうるかもしれぬという大きな期待を胸にいだいて︑ドーヴ

( 2 )  

ァー海峡をわたったにちがいない︒ロンドンにつくと早々﹃ライン新聞﹄に送つて来た﹁国内危機﹂と題する十一月

﹁イギリスでは革命はおこりうるだろうか︑またはおこりそうだろうか?﹂という問

いからはじまりそれに対するつぎのような答えでむすばれているのである︒

般的な失業がおこり︑法律にたいするおそれよりも死にたいするおそれの仕うがつよくなるだろうことは必定だ︒

この革命は︑イギリスにとつてはさけがたいものである︒しかしイギリスでおこることがすべてそうであるように︑

それを実行するものは︑利害関係であって︑主義ではないであろう︒主義は利害関係から

(D

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2.

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 351しか発展しない︒いいかえれば︑革命は政治革命ではなくて社会革命であるだろう﹂選補⑤一ー八頁355)

エンゲルスはこれにつづいて同年末までに﹁国内危機にかんするイギリス人の見方﹂﹁政党の態度﹂﹁イギリス

における労佑者階級の状態﹂﹁穀物法﹂などの通信をやつぎばやに﹃ライン新聞﹄にかきおくり︑さらに翌四三年 の五ー六月には﹃スイス共和主義者﹄紙に四篇の﹁ロンドン通信﹂を寄稿して︑哲学的共産主義者の眼に映じたイ

ギリスの新鮮な印象を報告しているが︑彼はそれらの文章の中で︑

を﹁その原理的内容に遠元させる﹂ことによって︑日﹁土地貴族党﹂たるトーリーと⇔﹁貨幣貴族党﹂たるホイッ グと国急進的民主党たるチャーティストとを三つの重要政党としてあげ︑ビール

1 1

ラッセルによって代表される勢

.力を日と⇔との中間に︑﹃エグザミナー﹄によって代表されるラディカルズを⇔と国との中間に位置づけながら︑

︵ 配 ◎

~jg~

i頁︶これらの諸勢力が当面の諸問題とくに穀物法の存廃をめぐつていかにそれぞれの階級的利益

マ形クス諾済学形成への一礎石︵杉原︶

﹁ちかいうちにプロレタリアートの全

(10)

668 

マルク

K

経済学形成への一礎石︵杉原︶

にもとづいた行動をしているかーー

( D .  

I .  

2.

 

S .

 

・選補Rニー頁 365) を分析するとともに︑

1

ふつうの意味で

無教養であればあるほど︑ますます進歩のがわにつき︑ますます多く未来をもつているという︑1 1

奇妙なる事実をしめている﹂︵年止匹.︱

65)f i

とのべて︑イギリス労佑者階級の成長ぶりとそれを指導するチャー

ティストや社会主義者たちの活動ぷりを報道している︒当時彼は﹃イギリス労佑者階級の状態﹄のはじめにみずか

らかいているように︑その﹁余暇を往とんどまったくふつうの労佑者との交際についやし﹂て︑﹁彼らの努力︑彼

らのなやみとよろこびを︑その身じかでしたしく観察し﹂︵選補⑨ニ・六頁︶︑すすんでチャーティスト左派の指導者

1 ‑

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やふ^ーエン派社会主義の宣伝家たち︵たとえばワッツ

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触して彼らから多くのものをまなびとりながらも︑他方では彼自身の立場から︑大陸における社会主義乃至共産主義

思想の発展を紹介しつつ︑

﹁イギリスは︑ある階級が社会のしたずみになっていればいるほど︑

チャーティストがより多く社会主義的精神を身につけ︑社会主義者がチャーティストの

( 3

)  

エネルギーを摂取することによって両者が合同することをイギリスの革命のために念願していたのである︒

このようなマンチェスターの生活を通じて︑彼は﹁これまで歴史の叔述ではなんの役割をも演じていなかったか︑

あるいはいうにたらない役割を演じていたにすぎない経済的事実こそ︑すくなくとも近代世界においては︑決定的

な歴史的力であるということ︑この経済的事実がこんにちの階級対立のおこる基盤であること︑大工業のおかげで

これらの階級対立がじゅうぶんに発達した国々︑したがつてとくにイギリスでは︑その階級対立はさらにすすんで︑

政党の形成︑党派斗争の基礎であり同時にまた全政治史の基礎になっているということを︑いやおうなしにさとら

( 4 )  

せられた﹂のであるが︑かかる認識がふかまるにつれて︑そのイギリス研究も亦漸次幅と厚みを加えてくる︒すな

政党と社会層ないし社会階級とは同

(11)

669 

わち︑現状報告を中心とした通信活動は四三年の後半以後には見られなくなくなり︑

状態を中心とする基礎過程の調査研究⇔上部構造たる国家体制の分析さらには国支配的な諸イデオロギー批判にお

よぶ包括的体系的な研究に没頭してゆくのであって︑われわれはその成果を日についてはいうまでもなく四五年に

公刊された﹃イギリス労仇者階級の状態﹄︑

エンゲルスはけ労仇者階級の

⇔については一八四四年八ー十月に﹃フォルウェルツ﹄に連載された

﹁イギリスの状態﹂︑国についてはさきにのべた﹃独仏年誌﹄の二論稿にそれぞれ見ることができるであるう︒彼は.

そのカーライル論のなかで︑﹁イギリス人の教養ある部分を二分している両政党のうちで︑どちらかをとるとすれ

ば︑それはトーリー党だ︒ホイッグ党は︑イギリスの社会状態にそれ自身あまりにも利害関係がありすぎるの

で︑判断をくだすことができないのだ︒イギリス社会の中枢である工業は︑彼らの手中にあって︑彼らを富まして

いる︒彼らは工業を非のうちどころのないものと考え︑その拡張をあらゆる立法の唯一の目的とみなしている︒と

いうのは︑それが彼らに富と権力とをあたえたからだ︒.これに反してトーリー党は︑その権力と独裁とが工業によ

‑二しうちゃぶられ︑その諸原理が工業によってゆりうごかされたので︑工業をにくみ︑たかだかそこにやむをえざ

る悪を見るくらいのものだ︒こういう理由から::・・博愛的トーリー党のかの一分派が生じたのである︒トーマス・

カーライルも亦元来はトーリー党員で︑いまでもあいかわらずホイッグ党よりもこの政党にちかしい関係にある︒

﹃過去と現在﹄の半分往どの人間的な書物もかけなかったであろうことだけはたしかだ﹂ホイッグ党員だったら︑

( D.  

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2.  S

4 0 8 )

とのべ︑トーリー・イデオロギーの一亜種たるカーライルの相対的進歩性と基本的限界性とを選補⑤四五—四六頁

あきらかにしているのであるが︑その半分の人間性ももちえないホイッグ・イデオロギーの代表的形態たる﹁経済

学﹂の究明も亦︑彼の同時にはたさなければならない重要な課題であったろう︒そしてまさにこの問題をとりあげ

マルク

K

経済学形成への一礎石︵杉原︶

(12)

670 

r ルクス諾済学形成への一礎石︵杉原︶

たものこそ︑本稿のテーマである﹁経済学批判大網﹂にほかならない︒

エンゲルスはさきにふれた﹁ロンドン通信﹂の中で﹁イギリスは経済学の祖国である︒しかしこの学問はわが教

アダム・スミスの自由貿易論は︑

いう気ちがいじみた結果においこまれ︑旧独占制度のいつそう文明化した新型以外のなにものもうみださなかった︒

この独占制度はこんにちのトーリー党にその代表者をみいだしており︑彼らは︑

はしたがーーーしかし結局またもやマルサス流の結論においこまれているのだ︒社会主義者や部分的にはチャーティ

ストの適確な経済学上の諸論文は排斥されて︑下層身分のあいだにしか読者がないのに︑

も不条理と偽善﹂︵年年

5 i

I

遠三頁︶とのべているが︑彼が経済学の研究にのり出したのはおそらくこの通信が

﹃スイス共和主義者﹄に掲載された四三年の五月ごろからと推定されるから︑同年の藤に﹁大綱﹂が執筆される数

ヶ月の間に︑重商主義ならびに自由主義経済学の諸学説が検討されたことになる︒まことにマイヤーもいうように︑

﹁経済学的問題領域に足をふみ入れてから数ヶ月もたっかたたないのに︑支配的な経済学に対して︑単にその個々

の欠点を説得するー—'そのことならッスモンディ以来中でに多くの人々がやってきたことだが1

だけにとどまら

ず︑彼が信頼する唯一の裁判官である弁証法の前にそれをひき出して︑

学の正体をのこるくまなくあばきだすという仕事を︑彼独力で敢行したことは︑この二十三オの男の向う見ずさと

( 5 )  

挺子でもゆるがぬ自信の程とを︑あらためて確証するものである﹂が︑そのような自信をうみだしたエンゲルスの・

つぎにわれわれは﹁大綱﹂そのも5の内容に立ち入ることにし思想と生活については上来みてきたごとくである︒ 授諸氏や実際政治家諸公のあいだではどうなっているか?マルサスの人口論と

一方では︑どの頁をみて

/おおつぴらな詐欺の体系ヽとしての経済 マルサスの愚論とうまくたたかい

五 四

(13)

671 

(1 )

この点についてはグ

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クフ・マイヤーの﹃エンゲ

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伝 ﹄

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観については﹃ドイツ・イデオロギー﹄

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.  S.  477

唯研訳六八六ー六八七頁︶を参照︒

( 2

) マイアー前褐書一︱二︑一︱七ーニ

0

頁参照︒エンゲ炉

K

は四 0 年の春に一度ィンィリ

k

へ短い旅行をしており︵マイ ヤー︑三三頁︶︑その紀行文を﹃テレグラフ﹄に寄稲しているが︵ドイツ語版全集

I

③ 七 六 ー 八 二 頁

︒ 改 造 社 版 全 集 R 一 八

│ 八 八 頁

︑ も と よ り 当 時 は こ の よ う な 問 題 意 識 は み ら れ な い

(3 )

以 上 の 点 に つ い て は マ イ ア ー 前 掲 書 第 六 章 と く に 一 三 八 ー 一 四 0

頁 参 照

︒ ワ ッ ツ に つ い て エ ン ゲ ル

K

は﹁ロンドン酒 信﹂中で﹁彼はゆたかな天分をもつて︑神の存在と国民経済学とについていくつかの︒ハンフレットをかいた人である﹂

︵選補R=

10

頁︶と評しているが︑後年マ

J V

クスは﹃資本論﹄第一巻第十九章﹁個数貨銀﹂の註四五において︑ワッツの

﹃労働組合とストライキ︑機械と協同組合﹄

( I

八六五年︶から引用した後つぎのようにのべている︒﹁私がこの著述を 引用するのは︑この著述は︑とっくに腐敗したあらゆる弁護論的極り文句の吉パの下水溝だからである︒同じワッツ氏は以 前にはォーウェン主義にかぷれて︑一八四二年には別の小著﹃経済学者の事実と幻想﹄

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を公けにしたが︑この奪臼で紬

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はなかんづく︑財産とは盗 奪だと説いている︒もう昔話である﹂︒

(4 )

これはエンゲ

J V

スが一八八五年にマルクス﹃ケ

J v

ン共産党裁判の曝露﹄第三版の序文としてかいた﹁共産主義者同盟の 阻史﹂の中でのべていることである︵選R四三五ー四三六頁︶︒同じところでエンゲルスは彼のイギリ

k

修業時代におけ る重要な事件として次のことを回顧しているのは︑ついでに引用しておく価値があろう︒﹁私は︑一八四三年ロンドンで彼

ら一︳一人︹バリで義人同盟という秘密結社をつくつて追放されたドイツ労働者であるシャツ︒ハー・パウエルおよびモル︺と

知り合いになった︒彼らは︑私のであった最初の革命的プロレタリアであった︒ただし︑こまかい点では︑おたがいの考

えはよほどちがつていたがー~なぜなら、そのころ、私は、彼らのせまい平等共産主義にたいして、おなじように、せま

い多分の哲学的欲大さをもつていたからー│しかもなお私は︑当時ようやく一人前の人間になろうとし.ていたときにあた つて︑この三人の有能な人間からうけたふかい印象を︑けっしてわすれることはないだろう﹂︵同上四三

OI

四 三

一 頁

︶ ︒

そして︑彼の﹁せまさ﹂と関連して︑﹁臨済的事実を研究することが問題になったとき︑彼らがいつも︑その過去の手エ マルクス経済学形成への一礎石︵杉原︶

五五

(14)

672 

額の理論﹂によれば︑

マ形クス経済学形成への一礎石︵杉原︶

業 的 偏 見 に わ ざ わ い さ れ た

﹂ こ と

︑ し か も

﹁ 当 時 の 同 盟 全 体 を つ う じ て

︑ か つ て 経 済 に か ん す る 本 を 一 冊 で も 読 ん だ 人 が た だ の 一 人 で も あ っ た と は 思 え な い

﹂ こ と を 指 摘 し て い る

︵ 同

● 四 三 五 頁

︒ 彼 が

﹁ 大 綱

﹂ や

﹃ 状 態

﹄ を 書 く 動 機 の 一 っ をここに考えても悪りではあるまい︒

(5)

マイヤー前掲書一五九頁︒

﹁大網﹂は横線でくぎられた十五の小節からなっているが︑

財産制を甚礎とする商業活動の拡大という現実そのものの発展と関連させつつ概観することによってその本質が究

明されるとともに︑これを批判ずるみずからの立場と方法が提示されており︑以下の十二節ー│'各節の内容にした

がつてかりに標題をつければ︑

論︑競争本質論︑競争と独占︑

.~ヽる﹂カ それは、価値論、生産費•生産要素論、土地・地代論、資本・利潤論、労佑・賃金現実社会の競争︵とくにその必然的帰結としての恐慌︶と理想社会における競争︑人口

論批判︑所有集中の法則︑競争の結果としての犯罪︑機械論︑という順序からなっており︑論理の展開の上では競

( 1 )  

争本質論が中核的地位をしめている—|炉に対する序論的部分にあたつている。すなわち、彼によれば、

互の嫉妬と貪欲とから生じた﹂経済学は︑うまれながらにして嫌悪すべき貨幣欲と﹁利己心の刻印を額につけてい

その最初の形態たる重商主義になると︑

りわたすことができるかぎりは︑さしつかえない﹂のだから︑﹁諸国民は⁝⁝相互に取引をいとなみ︑もっと大き はじめの三節では︑経済学の生成発展のあとを私有

A

の商品に支払いすぎるとしても︑

その本質は﹁もういくらかおおいかくされ﹂る︒けだし﹁貿易差

それらの商品をもっとたかい価格で

B

になお売

な利得をうるためにあらんかぎりの愛情と好意をしめしあった﹂のであるから︒にもかかわらずその根底にある本

五 六

(15)

673 

﹁スミスは︑人間性もまた商業の本質のうちに根拠をもつこと︑商業は﹃不

和と敵意のもっともゆたかな源泉﹄ではなく︑﹃個人間の場合にも︑諸国民間の場合にも︑結合と友愛とのきずな﹄

とならなければならないこと︑まさに︑ことの性質上︑商業は︑だいたいにおいて当事者全体に有利なものであるこ︑︑︑︑︑︑︑とを証明した﹂が︑その場合﹁経済学は︑私.有財産の権利をうたぐつてみることを思いつきもしなかった﹂︒自由通

商制度によって小規模な独占は廃止された︒﹁だがそれは一つの根本的な大独占︑すなわち財産をますます自由に︑

ますます際限なく発展させるためであった﹂︒自由通商制度によってたしかに戦争はすくなくなった︒

は︑平和裡にますます多くもうけるためであり︑個々人の敵意や︑競争という不名誉な戦争を極端にまでおしすす

めるためであった﹂︒要するに﹁カトリック的な卒直さにかわって︑プロテスタント的な偽善があらわれた﹂ので︑︑︑︑︑︑︑︑︑あり︑この意味でスミスは﹁経済学上のルッター﹂にほかならない︒しかし重商主義からスミスヘの展開は必然的

な進歩でもあった︒けだし︑独占と通商制限とをともなった重商主義がうちたおされた結果︑こせこせした局地的

国民的な顧慮が後退し︑﹁現在の斗争が普遍人間的なものとなることができた﹂のであり︑それによって﹁私有財産

の理論が︑純粋に経験的な︑客観的にしか研究しない道をすてて︑学問的な性質をとり︑かずかずの結論・にも責任

( 2 )  

をとらせ︑こうして問題を普遍人間的な領域にひきこんだのは必然であった﹂のであるから︒われわれは︑

通商の創設と実行とによってはじめて︑私有財産の経済学を克服する立場におかれた﹂︒

﹁純粋に人間的な普遍的な基礎から

(v on e in e r   r e

me ns cb li ch en , al lg em ei ne n  B a si s

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K

経済学形成への一礎石︵杉原︶

説たるあたらしい経済学﹂が登場し︑ る﹂︒十八世紀になると︑重商主義にかわって︑ 質はときに爆発する戦争となって露呈した︒

または﹁純粋の人間性か ﹁その時代には︑戦争はすべて商業上の競争にもとずいていたのであ

﹁アダム・スミスの﹃国富論﹄のうえにきずかれた自由通商の学

そしてその立場とは︑

(16)

674 

マルク

K

経済学形成への一礎石︵杉原︶

( au s r ei n e r  Hu ma ni ta t)

﹂出発する見地であって︑

両者に共通の諸前提を批判して﹁二つの体系の対立を超克し⁝⁝両者に対して正しい地位を指定しうる﹂とともに

﹁自由主義的経済学の不徹底性と二重性と﹂を徹底的に究明することができるであろう︒以下においてわれわれは︑

経済学の﹁根本的諸範疇を研究して﹂︑そのような課題にこたえなければならない。ー—内以上が「大網」の序論的

部分の論旨の要約である︒つぎにこれに対する若干の補足と註解をくわえることにしよう︒

スミス以来現在にいたるまでの経済学の発展過程に関するエンゲルスの叙述を整理すると︑一︑自由通商の﹁諸

前提がふたたび優勢になり、この偽善的な博愛に対立させて…•••かつて存在したなかでももっとも粗野でもっとも

野蛮な体系であり︑人間愛や世界市民といったあのうつくしい常套語をすべてたたきっぷした絶望の体系﹂.たる

として成熟し︑ ﹁マルサスの人口理論をうみだした﹂段階︑二︑スミスとマルサスの時代にはまだ﹁たんに個々の断片にすぎなか

競争制度が︺⁝⁝欠けるところのないまとまった体系﹂その内在的矛盾もじゅうぷ

1 1

ん明瞭にあらわれる低どに時代が前進したにもかかわらず︑経済学者がかずかずの前提を検討するまでにいたらぬ

ままにあいかわらず全体系にたいする責任をみずからひきうけることによって︑

階︑国﹁神学が盲信に逆もどりするか︑それとも自由哲学にすすまないわけにはゆかないように︑自由通商は︑

方では独占の復活を生み︑他方では私有財産の揚棄をうみださないわけにはゆかない﹂のだが︑これに応じて今や

自由主義経済学が︑﹁リストによる重商主義の復活﹂という国民主義的攻撃と︑私有財産制そのものを問題とする

社会主義的批判にさらされている現段階︑ということになろう︒ところで日の人口論についてはエンゲルスはそれ

が過剰生産と過剰人口の同時存在という現実の矛盾を競争学説の全体系を放棄することなしに説明しうる理論とし ﹁ますます誠実から遠ざかる﹂段 その見地に立つてのみわれわれは重商主義と自由主義という

五 八

(17)

6 7 £ 1  

﹁大綱﹂でリストに直接ふれているのはこの箇所以外にはないけれども︑

は独占に移行する︒他方では︑独占は︑競争のながれを阻止することができない︒そればかりでなく︑それは競争

そのものをうみだす︒たとえば輸入禁止または高関税は︑ただちに密輸入の競争をうみだす﹂という文章からリス

K

いた時であるから︑

て経済学者によって発明されたものとしているから︑その不合理性を暴露することによって﹁この自由主義的な自

﹁地球には人間をやしなう力がないという狂気じみた主張﹂をくわしく吟味している︒社会主義的人口論の基礎を

うち立てたものとして︑﹁大綱﹂の中でも最も充実した迫力を感じさせる所であって︑事実これまで人口論史の上

( 3 )  

で多くの人々の注目をあっめてきた︒また⇔については︑﹁時代が前進するごとに︑経済学を時代の水準にたもと

うとして︑必然的に詭弁がはなはだしくなる︒それゆえ︑たとえばリカードはアダム・スミスより罪がおもく︑マ

カロックとミルとはリカードーよりも罪がおもいのである﹂とのべ︑後に価値論を問題にするときに﹁イギリス人

iとりわけマカロックとリカード﹂の生産費説をフランス人セーと対比させながら︑地代論で﹁リカードーによ

つてはじめてじゅうぷんに展開された﹂差額地代論を︑恐慌論で﹁過剰に生産されることはけつしてありえない﹂

とする販路説を︑機械論ではその補償説をそれぞれ批判するのであるが︑リカードまでの古典派とそれ以後の俗流

当時における経済学とを区別する見方がまだでていない︵これはマルクスの﹁経済学・哲学草稿﹂でも同様だが︶のは︑

( 4 )  

価値—剰余価値論の未熟をしめす一指標と考えられよう。最後に国でふれられているリストは『国民経済学の政治

でドイツの思想界に大きな影響をあたえ︑さらに﹁関税同盟新聞﹂によって論陣を展開して

エンゲルスも﹁大網﹂を﹃独仏年誌﹄に発表するに際してはリストをかなり強く意識していた 由通商学説の要石

( g h l

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)

﹂を打倒すべく︑

たとえば﹁要するに︑競争 ﹁大綱﹂の中でも最も長い節をマルサス批判にあてて︑この

(18)

676 

だしく解決することができるからである﹂とのぺて︑ エンゲルスは﹁イギリスの社会主義者がず きらかにはされていない競争﹂とだけであるが︑マイヤーも指摘しているとおり︑商業活動の偽善性に関するフー

r

トのスミス批判が所詮同一次元での対立であって真にスミス経済学を超克しうるものではないというエンゲルスの

リスト批判をよみとることができないであろうか︒ちなみに﹁大網﹂が発表された四四年の十一月十九日付のマル

クス宛の手紙で彼は「時間があれば••…•いくつか小冊を書くつもりだ。殊にリストに対して」と書いているが、こ

C 5 )  

の計画はマルクスにも同様の意図があることを知つて中止となり結局実現しなかった︒︵マルクK

又自由主義経済学に対する社会主義的批判の文献については﹁大網﹂はフーリエと﹁イギリス社会主

義者たちの諸著作﹂とをあげている︒フーリエが直接参照されているのは﹁共同体

(G em ei nd e)

の合理的状態から

かついままでのところフーリエによってしかかなりあ期待すべき生産力の増大﹂と﹁人間的本性に根ざしており︑

リエのするどい諷剌

1

後年エンゲルスが﹃空想から科学へ﹄で特に称揚しているところのー'ーも亦﹁大網﹂に影

. C 6 )  

響をあたえているといつてよかろう︒﹁イギリス社会主義者たちの諸著作﹂とは︑具体的にはオーエンならびにオ

ーエン主義者︵とくにワッツなど︶の︒ハンフレットをさすのであろうが︑

つと以前に︑実践的にも理論的にも証明しているように︑私有財産の反対者は経済学的にも経済的諸問題をよりた

彼らを高く評価するのであるが︑他方でその弱点を同じく

﹁イギリスの社会﹃独仏年誌﹄によせたカーライル批判の中でつぎのように指摘している事を注意せねばならぬ︒

主義者は︑もつばら実践的であり︑⁝⁝彼らの哲学は︑きっすいのイギリスふうで︑懐疑的である︒・・・・・・社会主義

者たちは当然たんに人間であるべきなのに︑彼らはまたまさにイギリス人である︒彼らは︑大陸の哲学的発展のう

ちで︑唯物論しかしらず︑ドイツ哲学をあわせしつていない︒これらすべては彼らの欠陥である﹂︵年正御位丘心︶︒

参照

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