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1 ドイツ第二帝政期のエルザス自治運動(二)

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(1)

弘前大学教育学部紀要 第6

3

号 :

1‑16 (1990

3

月)

Bull.Fac.Educ.HirosakiUniv.63:1‑16(Mar.1990)

ドイツ第二帝政期 の エル ザ ス 自治運 動 ( 二)

DieAutonomiebewegunglm EIsaBim

deutschenKaiserreich

加 釆 浩*

KakuHiroshi (1989.12.19.

受理)

目 次

はじめを こ

1 . 併合後の抗議運動

1870‑1879

2. 1879

年の 「憲法」(以上前号)

3.

自治要求の高 ま り

4.

州議会法制定後

1911‑1918

年 おわ りに (以上本号)

Zusammenfassung

Nach dem deutsch‑franz6sischen Krieg 1870/71 und der Reichsgrh dung wurde endlich der deutsche Nationalstaat verwirklich

t .

Dabeiwurden zweifranZ6sische Provinzen,EIsaBundLothringen,an Deutschland abgetreten.DieseGebietsabtretung machtesowohldie internationalen Gegensatzezwischen Deutschland und Frankreich als auch die Spannung zwischen der Regierung und der Bev61kerung ewlg.Die Bev61kerungprotestiertezunachstheftiggegenden Anschlu

B

,und dann fordertedie v6

1

1igeAutonomieim RahmendesDeutschenReiches.Abertrotz dergewissen liber alen Politik und einigerZugestandnisse derdeutschen Regierung

,

wegen derstruk‑

tuellen Problematik desKaiserreichesgelang esden deutschen Nationalstaatnicht

,

das"Reichsland"EIsa8‑Lothringenv6

1

1igzuintegrleren.

3.

自治要求の高 ま り 1. 抗議派 の後退

ドイツ第二帝政 の創設者 ビスマル クが

189

0年に失脚 した ことは, ドイツの内政 ・外交上の大 きな転換 を成 した ことは言 うまで もない。それは ビスマル クに よって作 られた 「帝国領土」 ‑ルザス ・ロー トリンゲンに ついて も言える。抗議派に とって

1887

年 の帝国議会選挙 は最後の勝利 とな った。 とい うのは

,1890

年の選挙 では抗議派 とみなされ る候補者は,対立候補がな くて再選 された者

4

名を除けば

1

名 も当選できなか ったか らである。政治勢力 としての抗議派は姿を消 した。代わ って ドイツ国内の政党が‑ルザス ・ロー トリンゲン で初めて議席を獲得 した。国民 自由党が 1 )

2

名,社会民主党が

1

名,帝国党が

1

名,保守党が

1

名の議員を当 選 させた。特に社会主義者鋲E E法撤廃直後の社会民主党の候補者 ヒッケル

Karl(Charles)Hickel

が ミュ ル‑ウゼ ン選挙区で抗議派候補を破 って当選 した ことが注 目され る。わずか

3

年 の間に‑ルザス とロー トリ ンゲンの政治地図は大 き く塗 り替え られた。‑ルザス ・ロー トリンゲンの 「 政治化」 ない し 「ドイツ化」傾

*弘前大学教育学部社会科学科教室

DepartmentofSocialStudies,FacultyofEducation,HirosakiUniversity.

(2)

2

加 来

2 )

向が始 まった。その背景 として指摘 されてい るのは

,1880

年代前半か ら進みつつあ った経済的繁栄である。

‑ルザス ・ ロー トリンゲンは ドイツ経済 と緊密に結び付いた。経済的な繁栄は政治的不満 ・対立を緩和す る 3 )

のに貢献 した。 これに加えて, プ‑ランジ ェの失脚後のフランスの事態 の平穏化に より, フランスへの早期 復帰 とい う見通 しが消え去 った時,住民 の間にはあきらめに似た現状肯定の感情が生 まれた ことは容易に悲 像できる。 もはや 「抗議」を繰 り返すだけでは何 も前進 しない とい う現実的で冷静な判断が広 まった。抗議 派は ドイツか らの分離, フランス‑の復帰を公然 と要求す るのではな く, ドイツ内部での 自治を 要 求 す る

「自治派」に合流 した。後に最後の抗議派 といわれ る 「国民 同盟

」Nationalbund

の指導者 の一人 とな った カ トリック神父でジャーナ リス トの ヴェタレ

EmileWetter1

6は

1893

年に書いたO

「今 日幽霊を信 じる者はいない. しか し我 々がみな今 もなお信 じてい る抗議はそ うした幽霊 である。その 幽霊は死 んだO長年に渡 ってそれを旗 印に していた議員たちの考えで も同じであるo最近 の

2

回の帝国議会 選挙 を見 るが よい.我 々の候補者の誰一人 として抗議を選挙綱翁に掲げ る者はいない.そ うは言 って も我 々 を偽装 した抗議派だ とい う非難に対 して,わが侯補者はそわを断固斥け,我 々は既成事実 の上に立 ってい る

4 ) と断言 したOか くして,抗議は政治的党派 としては存在をやめた」

1)189

0年 の帝国議会選挙 の画期的意義については

,HermannHiery,ReichstagswahZenim Reichs land.Ein Beityag zur Landesgeschichteyon EIsaj‑Lothringenmd zuyWahlgeschichtedes DeutschenRetches187111918,D臼sseldorf1986,S.248‑265

参照0

2)

‑ルザスの経済については

,DosEIsassvow1870‑1932,Band2,S.251381

参照.

3)Wehler,S.157f.

4)Payticatholiqueetcoteyies,Colmar1893,in:DosEIsassvow 1870‑1932,Band

1

,S.81, Band2,S.141

. ヴェタレについては

,Hiery,ReichstagsuJahlen,S.467469

を参照0

2.

総督 ランゲンブル ク時代

1894‑1907

初代総督マン トイフェルの後を継いだ ホ‑ュ ンp‑‑が

1894

年に帝国宰相に就任 した後,三代 目の総督 と して ランゲソプル クが シ ュ トラスブル クに着任 したO彼 の時代に‑ルザスの 「ドイツ化」が顧著に進展 した .

ドイツ‑ の併合後

30

年を経過 した この時親に‑ルザスでは世代 の交代が進 んだ。「抗議派」の世代は引退 し,

1870

年以降に生 まれ るか, ドイツの学校で教育を受けた新 しい世代が政治参加を始めた。彼 らは父親の世代 のよ うに情緒的なフランスへの愛着を持たず, ドイツ支配を基本的に受け入れ,その上 で‑ルザスの権利 の 拡大,憲法 の改正を要求 したO‑ルザス ・ロー トリンゲン中 央 党

EIsal510thringischeZentrumspartei

の指導者‑ ウス

Karl(Charles)Hauss

が言 うよ うに,若い世代は確かに現政治体制に満足 していないが,

1 ) しか しそれは 「 我 々が ドイツ人にな りた くないか らではな く, ドイツ人に させて もらえないか らである」若 い世代の要求は, これ までの よ うに

「2

等 ドイツ人

」 Deutscher zweiterKlasse

は もういやだ,他の ド イツ人 と同じ権利を与 え よ, とい うものであ った。

ェルザ スの 「ドイツ化」が進行 したのは,世代 の交代に よるものの他に, フランスが この時期に様 々な失 点を重ねて国際的に評判を落 としていた こと,そ して ドイツの行政が多 くのポ イン トを上げていた ことが大 きい。

フランスの失点について言えば,有名な 「ドレイフユス事件」

(1894‑1906

年)が あ り, またパナマ運河 会社をめ ぐる疑款事件

(1892‑1893

年)があった。 しか し‑ルザスに とって より重要だ ったのは, フランス 政府が この時期に極端な反 カ トリック政策を扱 った ことである. フランス版 「文化闘争」は

1880

年代か ら既 に始 まってお り,すべてのカ トリック学校 の閉鎖 (

1902

年), ヴァチカンとの外交関係の断絶

(1904

年) ,す べての教会財産 の没収 (

1905

年) で一応 の終結を見 るが, カ トリックの強い‑ルザスはフランス政府 の反 カ トリック政策に大 きな失望を感 じざるを得なかったであろ う。‑ルザ ス住民 の間に残 っていた 「自由の国7

2 ) ランス」 とい うイメージは急速に消えて行 った。

これに対 して優秀で能率的な官僚に よる ドイツの行政は,住民にある程度の安定感 と信軒感を与えた。様 3 )

々な領域で改革がなされた

01

898年に帝国新聞法

Reichspressegesetz

が導入 され, フランス時代 の法令

(3)

ドイツ第二帝政期のエルザス自治運動目

3 (1735

年) よ り言論 ・出版 の 自由が拡大 された

。1900

年には ビスマル クが懲罰 として

1887

年に導入 し, フラ ンス と‑ルザス ・ロー トリンゲンの人的交流を制限 していた旅券携帯義務が撤廃 された。そ して

,1902

年 に は悪名高い 「独裁条項」が撤廃 された。法律 ・裁判制度は ドイツ‑の併合後 も基本的に フランス時代 の もの が踏襲 されていたが,世紀転換期前後に ドイツの瀞J 度に統一 された ( 特に

1900

1

1

日 の 民 法 典

Das BtirgerlicheGeset2ibuch

発効).税制は

1895

年 以後全面的に改正 された.営業条例

Gewerbeordnung

の 導入

(1888

年) ,農業審議会

Landwirtschaftsrat

の設置な どに よって,産業は保護奨励を受けた。地方行 政 の面では

,1895

7

6

日の市町村条令

Gemeindeordnung

に よ り,市町村の権限の大幅な拡大がはか られた。県知事

Bezirksprasident

の権限が縮小 され る一方,郡長

Kreisdirektor

には フランス時代の郡 長

SousPrbfets

よ り大 きな権限が与えられた。疾病保険 (

1883

年), 災害保険

(1884‑87

年), 老齢保険

(1889

年) な ど,当時 ドイツが この分野で世界で最 も先進的 と言われた ビスマル クの社会保障制度は,‑ル ザスで も適用 された。保健衛生 の面 で も,帝国種痘法

(1874

年),伝染病予防法

(1900

年) な ど で,‑ルザ ス住民 の健康に大いに貢献 した。 この時代を生 きた人 々の一致 した評価 として 「 行政 は素晴 らし く,政治は 悪い

」 (Glanzendverwaltet,aberschlechtregiert)

とい う言葉があ る。「抗議派」で さえ ドイツの行 政 の優秀 さを認めた。 ドイツの行政 の優秀 さに加えて, ゲルマン人 としての‑ルザス人 の勤勉 さが,‑ルザ

4 ) スの発展に貢献 した。 この時期 「‑ルザ ス ・ロー トリンゲンは文化的 ・社会的 ・経済的に躍進 した」

5 )

公務員に占め る地元出身者の割合 はランゲンブル クの時代に飛躍的に増大 した。小学校教員においては以 前か ら地元出身者が多か ったが

(1874‑83

年で

74.9%, 1905‑09

年 は

94.0%, 1910‑13

年は

97.8%)

,中等 学校教員では

1882

年には地元出身者 と ドイツか らの移住者 の割合は

1:55

であ ったのが

,1906

年には全体 の

48%,1908

年には

56%

を地元出身者が占め るよ うになった。司法試験

1

次及び公務員試験 の合格者の割合 も,

1892

年にはそれぞれ

14%,12%

だ った のが

,1906

年には

84%,91.9%,1908

年には

90%,97.5%

を占め るま でにな った

。20

世紀初め までに‑ルザス ・ロー トリンゲンの公務員は基本的に地元出身者で占められ るよ う にな った と言 って よい。

もちろん,「 公務員」 と言 って も様 々であって,上級のポス トへ行けば行 くほ ど地元出身者の割合は 小 さ くな り,決定的に重要 なポス トは ドイツ人が握 っていた のは確かである。それ でも,例えば

3

つの県都 の市 長 は

1900

年代以後地元出身者が勤めた。シ ュ トラスプル ク市長にシ ュヴァソダー

(1906‑18

,1918

10

月 には総督), コルマル市長にブルー メンタール

DanielBlumenthal(1905‑14

,1914

年第一次大戦勃発

6

)

とともにフランスに亡命) , メッツ市長に フ ォレ

RogerForet(1911‑18

年)が就任 した。そ して最高の行 政機関である内閣に も

,1895

年に プーラ ッ‑

HugoFreiherrZornYon Bulach

が地元出身者 として初 めて大臣 ( 農業 ・工業 ・公共事 業担当) に就任 し

,1898

年 にはべ トリ

EmilPetri

も大臣 (法務 ・文部担

7)

当)になった. プーラ ッ‑は

1908

年に首相にな ったO少な くとも表面上 は‑ルザス ・ロー トリンゲンの 「自 治」 は実現 されたかのよ うに見え るであろ う.

1)DosEIsassvow1870‑1932,Band

1

,S・133

・‑ ウスは

1918

10

月にシ ュ トラスブル ク市長シ ュヴァ ンダーが総督に任命 され ると共に,首相に任命 されたO‑ウスについては

,Hiery,Reichstagswahlen,S.

455f.

参照。

2)DosEIsassvow1870‑1932,Band1,S.124;Hiery,Reichstagswahlen,S.317f.

それ まで ドイツ に対 して激 しい敵意を示 していた ヴェタレで さえ, プロテスタン トの ドイツ皇帝を 「カ トリックの守護者」

と賛え, フランス政府 の政策を非難 した。

3)

この時期 の改革については,

Wehler,S・160‑162;Hiery,Zwischen Scylla und Charybdis.S.

2粉f;DosEIsassvow1870‑1932,Band1,S.116‑118.

4)Ebenda,S.118.

5)

以下 の数字 は

,Hiery,ZwischenScyllaundCharybdis,S.302.

に よる。

6)Ebenda.

ブルー メソタールについては

,Hiery,Reichstagswahlen,S.450

f.参照。

7)Hiery,ZwischenScyllaundCharybdis,S・303・

プーラッ‑ とペ トリの経歴についてはそれぞれ,

Hiery.Reichstagswahlen,S.470

f

.u.S.4

6 0.参照。

(4)

加 来 浩 自治要求

189

0年代から

1900

年代初めにかけて, ドイツと‑ルザ スの関係はかつてないほど良好にな っていた。‑ル ヂス住民は基本的に ドイツ支配を肯定 していた. これは ビスマル クがかつて 自治権付与の条件 としていた も のであ る。 ドイツ時代に成長 した‑ルザスの若い世代は

1879

年 の 「憲法」の改正を要求 し始めた。種 々の改 革が達成 されていたが,‑ルザス ・ロー トリンゲンを 「帝国領土」 とみなす基本法は依然手つかず のままだ ったか らである。‑ルザスの側で ドイツ帝国の一員であることを肯定す る以上, ドイツの側で もそれにふ さ わ しい地位を‑ルザスに与え るのが当然の義務 である,‑ルザスの若 い世代はそ う考 えたであろ う。彼 らは 完全な 自治権を要求 した.それは 「‑ルザス ・ロー トリンゲンを‑ルザ ス ・ロー トリンゲ. /人 の手に」 とい うス ローガンに表現 されたが,主権国家 の連合体 としての ドイツ帝国の性格を考 えれば,‑ルザス ・ロー ト リンゲンに他 の邦国 と完全に同等 の権限を与え ることを意味 した。 これは決 して過大な要求ではない。いつ まで も

「2

等 ドイツ人」扱 いす るな とい う主張は全 く正当であろ う。 これについて

,1901

25

日,州委 員会で 自由党

LiberaleLandespartei

の最年少議員 ゲ ッツ

GustavAdolfGoetz

は次 のよ うに述べた.

「我 々は

30

年 の ドイツ支配の下 で, ドイツ帝国の中にいるのを心地 よ く感 じるよ うになった。‑‑‑ルザ ス ・p‑ トリンゲン人 の中に再び フランス人にな りたい と考 える者 は もはやいない と私は思 う0‑‑・ 我 々の 大多数 は新 しい状況を全 く心地 よ く感 じ, ドイツ帝国の一員 としての 自分を心地 よ く感 じてい ると言 って差 し支えない.・ ・ ‑・ しかしもし我 々が この帝国の中で同権 を与え られ るな らば,もし我 々に 自立

Selbs

t

andig‑

keit

を与える憲法が持てるな ら, もし特例法が撤廃 され るな ら,その時初めて我 々は本当に心地 よ く感 じ 1 )

るだ ろ う」

1903

3月10

日,‑ルザス ・ロー トリンゲンの州委員会は,社会民主党 の‑ メル

Joseph‑LeopoldEmmel

を除 く全員一致 の賛成で,①州立法か ら帝 国議会を除外す る,②州委員会に州議会

Landtag

の地位 と名称 を与える,③連邦参議院で‑ルザス ・ロー トリンゲン問題を扱 う場合,‑ルザ ス ・ロー トリンゲソの

3

名の

2 )

代表に議決権 を与え る,を要求 した。 これを受けて中央党の リク リン

GeorgEugenRicklin

1904

4

14

日,帝国議会 で政府 に改革の意 図について質問 した. しか しこの時帝国宰相 ビュローは 「 政治的 また憲 法上重大な疑義がある」 と消極的な答弁を した。

次いで州委員会は同年

55

日, 自由党のゲ ッツの提出 した法案を可決 した。それは,①‑ルザス ・ロー トリンゲンを他 の邦国 と同権 の連邦邦国

Bundestaat

に格上げす る,②新憲法に基づ く議 会 を,普通 ・平 等 ・直接 ・秘密選挙 で選 出す る,を要求 した。 ゲ ッツは ドイツに敵対的な政党が存在 しない こと,誰 も ドイ ツ支配 とい う現状 の変更を望んでいない こと,従 って 自治権付与 の条件 として政府が提示 した条件は満た さ れてい ることを指摘 した。 ヴェタレでさえ

,

「 民族的理 由で住民を非難す ることば もはやできない」 と 述 べ

た 。

帝国議会 では中央党 のプライス

JacquesPreiss

が他 の

1

1名の‑ルザ ス ・ロー トリンゲン選出議員 と 連 名で

1905

5月12

日に憲法改正案を提出した。それはかつて初期 の 自治派の指導者 シ ュネ‑ガンスが出 した

「 皇帝衛士」案を再登場 させた もので,①‑ルザス ・ロー ト1 )ソゲソを ドイツ帝国を構成す る邦国 として追 加す る,②‑ルザス ・ロー トリンゲンの君主を ドイツ皇帝が兼ね る。皇帝はその権限の全部 または一部を総 督に委任できる,③‑ルザス ・ロー トリンゲンの連邦参議院におけ る全権代表は皇帝が任命す る,④連邦参 議院及び帝国議会 は‑ルザス ・ロー トリンゲンの州立法から除外 され る。州法は州議会 の同意を得て皇帝が 制定す る, とい うのがその内容である。 この提案は非常に注 目を浴びた と言われ る。 しかしビスマル クの時 代に挫折 した案の蒸 し返 しとい う批判がなされ, この案は間 もな く姿を消 した。 プライスは同じ年 の

12月5

日に新たな憲法改正案を提出した。今回の案では批判を受けた 「 皇帝領土」構想が放棄 され,①‑ルザス ・ ロー トリンゲンを連邦邦国にす る,②連邦参議院 と帝 国議会を州立法か ら除外す る。州委員会は 「州議会」

Landtag

と称す る,③皇帝 と州議会が立法権を行使す るC皇帝 の同意 と州議会 の過半数の賛成があ れ ば, 法律は成立す る,が要求 された。

このよ うに

1905

年に‑ルザス ・ロー トリンゲンの側か ら出 された 自治要求は, ドイツ帝国の一員であるこ

とを前提 とし,その上 で

1870

年以来

30

年以上 の長 きに渡 って続いてい る特別な状態,そ して他の邦国に比べ

て不平等な状態に終止符を打ち, ドイツが

1870

年に‑ルザス ・ロー トリンゲン住民を 「 取 り戻 し た 兄 弟 た

(5)

ドイツ第二帝政期のエルザス自治運動臼 ち」 と呼んだその言葉に実質を与えるよ う求め るものであった。

5

1)HierReichstagsuJahlen,S.308.

中央党 の リク リンも同じ 日に同じ主 旨の発言をしている。

2)1903

年か ら

1905

年にかけて‑ルザスの側から提出 された一連 の憲法改正案につい て は,

DosEIsass vow1870‑1932,Band4,S.270‑2

77

,〔Dok.Nr.6.

,Band

1

,S.125f.

を参照。

4. 191

1 年 の憲法改正

‑ルザスの 自治権ないし同権 の要求に対す る ドイツ側の対応はきわめて鈍か った。 ドイツ政府は無為無策 を続けた。州委員会 あるいは帝国議会 で‑ルザスの側から憲法改正案が相次いで提出 された

1904/05

年頃 は,

‑ルザス と ドイツの完全な和解 の絶好のチ ャンスだ った。‑ルザ スは基本的に ドイツ支配を受け入れていた。

この時 ドイツ側がそれに答えて‑ルザスの望む 自治権 ない し他 の邦国 との同権 を与えていれば,‑ルザスは 最終的に ドイツに同化されていたであろ う。 しかしヴェ‑ラーの言 うごとく,第二帝政にはその建設以来 自 己収草能力が欠如 していた。 これは個 々の政治家が ど うとい うより,む しろ構造的な問題 で あった。「上か

1 )

らの」統一 の代償 として憲法構造の硬直化は避け られなか った。 ドイツ政府は‑ルザ ス ・ロー トリンゲンの 改革について も柔軟性の欠如をは っき り示 した。政府は 「憲法上 の疑義」を楯に憲法改正要求を拒み続けた。

2 )

それは 「破滅的な梼持」だ った。

ドイツ政府が無為を続けてい る うちに,国際情勢 は ドイツに不利に変化 しつつあった。既 に

1905

年にいわ ゆ る 「 第

1

次モ ロッコ事件」が起 きていた。 ドイツとフランスの対立が頗著にな っていた。 この影響は直ち に‑ルザス ・ロー トリンゲソに現れた。 フランスは

1900

年頃か ら‑ルザスで活発 な宣伝活動 を始め,それが

3 )

かな りの成果を上 げつつあ った。‑ルザス住民は改革が前進 しない ことに次第にい らだちを示す よ うにな っ た。政府 と住民の関係は再び緊張 した。

こ うした時に

4

代 目の総督 として, ヴェ‑デル

CarlGrafvonWedel

が就任 した。「 物事に とらわれず, 4 )

聡 明で,エネルギ ッシ ュな」彼の下 で憲法改正‑の作業が始 まることになった。彼は就任の際,友人で後に ドイツ外相 ・駐 ソ大使 となるブT ,ック ドルフ ・ランツ ァウ

UlrichGrafvon BrockdorffRantzau

への 手紙 の中で 自分の構想について次 の よ うに書いてい る。

「いずれに して も私は北 ドイツ人にしば しばつ きまと う誤 り,即ち,常 に 自分の故郷の基準を押 しつけ, すべてを十把‑か らげに扱い, 自分 と違 うものを探 し出 し,それを非 ドイツ的あるいは非愛国的 とみなす と い う誤 りから免れたい と思い ます。あなた は私がいわゆ る全 ドイツ派

Alldeutschen

をど う考えてい る か ご存 じでし ょう。彼 らは強制措置を最 も好み, 自分 の思い通 りにな らない者に戦争を仕掛け るのです。 しか し,強制に よって信板できる臣民を得 ることはできません。彼 らの特性を尊重 し, ドイツ帝国の屋根 の下 で

5 ) こそ 自分たちの利益が守 られ るとい う意識 を呼び起 こさねはな りませ ん」

ヴェ‑デルは就任後半年 を経た

1908

6

月,帝国宰相 ビュロー と会見 し,憲法改正の必要を訴 え た。「何 かをせねばな らない」 とC彼は改革の遅れが住民 の不満を強めてい ることを指摘 した。 ヴェ‑デルに とって 好都合だ った のは, ビュロー と個人的に親 しか った こと, また この年 の

12

月にシ ュ トラスブル クの内閣の首 相に就任 した‑ルザ ス出身のプーラ ッ‑が彼を支持 した ことであ る。 ビュp‑は憲法の改正に原則的に同意 し, ヴェ‑デルに改革案 の作成を求めた。シ ュ トラスブル クの内閣は

1908

年秋に ビュローに改正案を提出 し

6 )

た 0

1909

7

月に帝国宰相がべ‑ トマ ン ・ホル ヴェ‑ク

Beethmann‑Hollweg

に代わ って も,憲法改正の準 備 は続け られた。新宰相べ ‑ トマンは ヴ ェ‑デルを支持 した。 しか し改革を達成す るにはプ ロイセン内閣の 保守派 の抵抗を克服せねはならなか った。保守派 の改革反対 の論拠は,① フランス時代に共和主義 ・民主主 義を経験 している‑ルザス ・ロー トリンゲ1 /7 . , 1プ ロイセン式 の

3

級選挙法

Dreiklassenwahlen

を 導 入 す ることはできない。 しか し,か と言 って 自由主義的選挙法を導入すれば, プロイセンその他 の選挙法改革運 動に影響を与え る。②‑ルザス ・ロー トリンゲンを邦国に格上げすれば,当然連邦参議院の議席を与えねば な らない。それはプ ロイセンの立場 を弱 くし,南 ドイツ諸邦に有利である。議席再配分 の要求 も出かねない,

7 )

とい うものであった。

(6)

1910

2

2 4日に州委員会, 同年

314

日に帝国議会が,それぞれ‑ルザ ス ・ロー トリンゲソを他の邦国 と同格の地位に格上げ し,普通 ・平等 ・直接 ・秘密 ・比例代表選挙法に よる州議会 の設置を要求す る決議を 採択 した。べ ‑ トマン政府 に よる意法改正作業は本格化 した

。19

1 0年

9月12

日,べ ‑ トマ ンは改革法案 を ま ず プpイセン内閣に提 出 した。それは,( D連邦参議院 と帝 国議会を‑ルザス ・ロー トt )ンゲソの立法か ら除 外す る。その代わ り,新設 され る州議会に上院を設置す る,②州議会に帝 国議会方式 の選挙法を 導 入 す る ( 比例代表制 の導入は見送 られた) ,( 診プロイセンに配慮 して連邦参議院 の完全な議決権 は与 え な い,等 を 内容 としていた。 プ ロイセン内閣は最後 の最後 まで反対 したが,「 既 に約束済みであ るし,帝国蘭土 の 世 論

8 )

を考慮 して」ついにべ‑ トマ ンが押 し切 った。連邦参議院が同年

12月16

日に憲法改正案 と選挙法案を別 々に 可決 した後,べ ‑ トマ ンは

1911

127

日に帝 国議会に凍 出 した。

政府 の改革秦が発表 され る前後から,‑ルザ スでは盛 んな議論が起 こった。政 治形態 について,社会民主 党 とヴェタレ, プラ イスらは共和制を主張 し, ‑ウスらは終身 の総督制 あるいは摂政制

Regenten

を 望 ん だ。選挙法 については,社会民主党 ・自由党は比例代表制を主張 し,中央党 ・I‑ トリンゲソブロック

Lo‑

thringerBlock

はそれに反対 した。J l l 委員会 は

1910

621

日,憲法改正に当た って州委員会の意見 を聞 いてそれを反映 させ るよ う要求 した。 プーラ ッ/、の政府 はそれに反対 したが, 州委員会はそれに構わず政府 が議場か ら退場 した後,改革法案 は不十分であ るとい う見解を述べた。 プー ラ ヅ‑政府 と州委員会の関係は 悪化 し

,19

1 1 年

57

日,州委員会は解散 された。‑ルザス住民 の大半 は州委員会 と同じ く改革法案 を不十

9)

分だ と考 えた とい う。

帝国議会 は政府案 を2 8名か ら成 る特別委員会 に付託 した.保守派 は‑ルザス ・ロー トリンデンが ドイツに 敵対的であ るとい う理 由で改革その ものに反対 した。中間派及 び左翼は逆に もっと譲歩すべ きだ と主張 した。

委員会 は,①‑ルザス ・ロー ト1 )ンゲソを独立 した連邦邦国 と認め,連邦参議院の

3

議席 を与え る,②終身 制の絵菅は連邦参議院に よって任命 され 郁免 され る, とい う中央党の修正案を

17:7,20:4

の多数 で可決 したo Lか しべ ‑ トマ ンは皇帝 の総督任免権に手をつけ るつ もりはなか った。 また連邦参議院 の完全な議席 を与 え ることについて も, プロイセン国王を兼ね る ドイツ皇帝に任命 され る総督,及び絵膏に任命 され る

3

名の代表が連邦参議院においてプ ロ七 インに反す る投票行動 を行 うことは事実上考 え られず, これはプ ロイ センに有利 であるとして,南 ドイツ語邦 は反対す ることが確実だ った。そ こで‑ルザス ・ロー トリンゲンの

3

票か ら実質的な意義を奪 うことに よって, ともか くも改革案を通そ うとした のがベ‑ トマ ンだ った。彼 は プロイセンと甫 ドイツ諸邦の双方に受け入れ られ る妥協案 として, もしエルザス ・ロー トt )ンゲソの

3

票が いわゆ るキ ャステ ィング ・ボー トを握 る場合,それを計算か ら除 くとい う案を考え出 した。べ ‑ トマンの強 い働 きかけに よ り,中央党 は妥協 した。 これは‑ルザ スに大 きな失望を与えた。結局

,19

1 1 年

5月26

日の帝 国議会本会議 で政府案 は賛成

212

,反対

94

,棄権

7

で可決 された。注 目すべ きことに,‑ルザ ス ・ロー トリ

10

) ンゲン選出の帝 国議会議 員

15

名の うち賛成 したのはわずか

4

名だけだ った。

1)Wehler,S.198

f . ヴェーラーの第二帝政論については

,Ders..DosDeidscheKaiseTreich1871‑

1918,G6ttingen1973

・( 大野英二/肥前栄一訳 『ドイツ帝国

1871‑1918

年』未来社

,1983

年)参風。

2)DasEZsassvow187011932,Band1,S.126.

3)

フランスの宣伝活動については

,Ebcnda,S.148‑151

.参照。

4)Wehler,S.

1 6 6f .

5)Hiery,Zvvischen Scylla und Charybdis,S.30

1 .全 ドイツ派,即ち全 ドイツ連盟

Alldeutscher Verband

はジ ャーナ 1 )ズム‑ の影響力を利用 して, ‑ルザ ス ・ロー ト. )ンゲンの改革を行お うとす るヴェ

‑デルを親 フランス的だ として激 し く攻撃 した。参鳳

,DasEZsassvow1870‑1932.Band1,S.126.

6)Hiery,ZwischenScyllaundCharybdis,S.3

0

5

f . ヒエ ・ )一に よれば, ヴェーデルが改革に意欲を

示 したのは彼 のエルザス観に よるところが大 きい。 ヴェ‑デルは改革に よって‑ルザス ・ロー トリンゲソの

いわゆ る名望家支配 を打破 し よ うとした。彼 らは表面上 は総督や政府 に協力的 な感度を頼 っていて も,実 は

ほ とんど例外 な く親 フランス的であ り, フランス語を話 し, フランスの新聞を読み, フランス的生活様式を

好んでいた。彼 らが‑ルザ ス ・ロー トリンデンの真 の 「ドイツ化」を妨げていた。 こ うした状況を変え るに

(7)

ドイツ第二帝政期のエ/ レザス自治運動臼

7

は ドイツ語を話す民衆 ( 農民 ・労働者) の支持を受けた政府にすべ きであ り,そのためには名望家に有利な 現行の間接選挙方式の州委員会を廃止して,民主的な選挙法に よる議会を設置す るほ うが得策であるとヴェ

ーデルは考えた, と。

7)Wehler,S.167f. 8)Ebenda,S.168.

9)DosEIsassyon187011932,Band1,S.133f.

ヴェタレは最初 「 屋根の上 の鳩 よりも手の中の雀の 方がいい」 とい う理 由で賛成 したが,後に立場を変えて 「我 々は裏切 られた」 と激 し く非難 した。

1 0)

Ebenda,S.135;Band 2,S.95.u.S.178.

中央党は

9

名の議員の うちフ ォンデルシ ェア

Vonder scheer

ただ一人が賛成,一人が棄権,‑ウス, リクリン, ヴェタレ, プライスら

7

人が反対投票した。 社 会民主党は

2

名の うちベ‑レ

B6hle

が賛成投票し,‑ メル

Emmel

は欠席 した.

4.

州議会法制定後

1911‑1918

1.

新憲法

191

1 年

526

日に帝国議会で可決 された‑ルザス ・ロー トリンゲンの 「 新 憲 法」,別名州議会法は,翌

27

1 )

日に連邦参議院,

531

日に皇帝の承認を受けて発効 した。その内容は,

①州委員会

Landesausschu

且 を廃止 し,代わ りに他の ドイツ諸邦 と同じ州議会

Landtag

を設置す る.

但 し,一院制ではな く,プ ロイセンと同様二院制を頼 る。

上院

ErsterKammer

は一種の身分制議会で,定員

46

名の うち半数の

23

名は皇帝が任命す る。残 り

23

名 は,カ トリック ・プ ロテスタン ト・ユダヤ教の代表,商工業 ・農業代表

, 4

大都市 (シュ トラスブル ク ・メ ッツ ・コルマル ・ミュル‑ウゼン) の市議会の代表, コルマルの最高裁判所長官, シュ トラスブル ク大学の 代表から選ばれた。

下院

ZweiterKammer

は定数6 0名で

,30

才以上 の男子住民 の直接選挙で選ばれ る。選挙法は帝国議会 選挙 と同じ く,普通 ・平等 ・直接 ・秘密で,かつ小選挙区制

Mehrheitswahl

を額 る。任期

5

年。

州議会は予算を含む法律の制定権を持つ。但 し,皇帝の同意を必要 とす る。連邦参議院 と帝国議会は‑ル ザス ・ロー トリンゲンの立法か ら除外 され る。 また州議会は,政府‑質問す る権利を持つ。

②法律上‑ルザス ・ロー トリンゲソは連邦邦国 と 「みなされ」,連邦参議院に

3

議席を持つ。給督が 代 表

3

名を任命す る。但 し, この

3

票がいわゆるキ ャステ ィングボー トを握 る場合は,計算から除外す る。 また 憲法改正について も議決権を行使できない。

③‑ルザス ・ロー トリンゲンの国家権力は皇帝が行使す る。皇帝は帝国宰相の副署を得て総督及びシュ ト ラスブル クの内閣の閣僚を任命 し, また罷免す る。皇帝は州議会を召集 し,解散す る。皇帝は緊急令を出す 権限を持つ。

191

1 年 の州議会法は

1879

年の 「憲法」に比べれば,疑いな く前進であった.しかし依然 として完全な 自治 権 ・完全な同権は与えられなか った。それは何 よりも ドイツ帝国の最高の意思決定機関である連邦参議院に おけ る議決権の制限に見 られ る。 こ うした変則的な規定が設け られたのは,上述の如 く,ベ‑ トマンないし プロイセンと甫 ドイツ諸邦の妥協の産物である.皇帝 に大きな権限が残 された こと, また州議会が政府に対 して監督権を持たなかった こと,つ まり議院内閣制を頼 らなかった ことも

,

「 新憲法」の問題点 として 指 摘 できる。 もちろん この最後の点は他の ドイツ諸邦に も言えることであるが。‑ルザス住民の間には

1879

年 の

「憲法」の時 と同じ く熱狂はみ られなかったO これは住民が 「 下か ら」戦い弔 った とい うより

,

「 上 か ら」

恩恵的に, しか も 「 上」 での裾引の後に与えられた とい う性格が濃厚だ った ことに よろ う。 また,改革が遅 す ぎた.1 879年 の改革から

32

年間そのままとい うのはあまりに長かった.せめてあ と1 0年早ければ住民の対

2 )

応は違 った ものになっていただろ う.‑ルザスはついV Lドイツに統合されたか もしれない。 しかしだか らと 言 って,新 しい州議会が役立たず の代物だ った とい うわけではない。州議会,特に下院は住民の利益を守 る ために活発に活動 した。後に も先に もこれほど広範な権限を持つ議会杏‑ルザスは持 った ことがない

。1920

年代の‑ルザス自治運動の指導者でカ トリック神父の‑‑ギー

FranzXavierHaegy

1929

年に次のよ

うに書いた。彼が ドイツ時代に厳 しい批判者であった ことを考えれば,その言葉には重みがある。

(8)

8

加 来 浩

3 )

「 我 々は我 々の州議会を

1910

年代の最 も貴重な成果であると評価 した」

1)

法律の全文は,

DosEZsassvow

1

8701932,Band4,S.278284・〔Dok.Nr.7 2)

参照,

Wehler,S.172;DasEIsassDon18701932,Band1,S.135

3)DieHeimat.MonatsschyiftfiiTChyistlicheKultw and Politik(Schlettstadt),9(1929)

,

Ebenda,S.175.

2.

国民同盟

新 しい法律に基づ く州議会の選挙が

1911

10

月に実施 され ることになった。 この選挙戦ではすべての政党 が 「ェルザス ・ロー トリンゲンを‑ルザス ・ロー トリンゲソ人の手に」 とい うス ローガンを出して戦 った0 その中でいわば台風の 目となったのが, ヴェタレを中心 として結成 された 「国民同盟

」Nationalbund

であ る。 この党ほど大 きな注 目を受けて出発 し,大 きな失敗を もって終わ った党は な いO「同盟」は抗議派の最 後の姿であった。彼 らは新 しい法律に満足す る者がいなか った こと, また‑ルザス ・ロー トリンゲン選出の 帝国議会議員の大多数が反対投票した ことを もって,改革が 「押 しつけ られた」 ものであると主 張 し た。

191

1 年

6

2

9日,シュ トラスブル クで結成 された国民同盟は

7

3

日に次のよ うな声明を出 した。

「 我 々の州委員会 と‑ルザス ・ロー トリンゲン選出帝国議会議員の多数の意志に反 して,‑ルザス ・ロー トリンゲン住民の意志に反 して,新 しい憲法が押 しつけ られた.それは全体 として後退であるO我 々は以前

1 ) よりさらに 自治か ら遠 ざけ られた」

国民同盟は 「完全な同権 」 「民族的特性

Volksindividualitat

の尊重 」 「ドイツ帝国の枠内での同権 ・自 立の‑ルザス ・ロー トリンゲン国家の建設」を要求 した。綱領を見 る限 り, 自治を要求す る他の党派 と区別 がつかない。「同盟」は本質的には親 フランス的であ り, フランス‑の復帰を密かに望んでいたのは間 違 い

2 )

ないが,それを公然 と口にす ることはなかった。それほど自治獲得は‑ルザス住民の共通の 目標 となってい た と言え よう。 自治派が拒否 された

1871/74

年 とは状況は大 き く変わ っていた。

国民同盟に対 して ドイツ政府は警戒 した。政府の改革を支持 した社会民主党 と自由主義者は 「 右翼ナシ ョ ナ リス ト」 の 「同盟」に対 して事実上政府 と共同戦線を張 った。‑ルザス社会民主党の検閲紙 『自由新聞』

3 )

FreiePresse

は, フランス‑の復帰要求を公然 と揚げない 「同盟」を 「卑怯者の同盟」 と非難 した。中央 党の立場 は微妙だった.中央党は新憲法に反対 し,それを支持す る社会民主党 ・自由主義著を政府の手先で あると攻撃 したが,国民同盟 とはある部分では協力し,ある部分では距離を置いた。

1)

声明の全文は,

DasEIsassvow187011932,Band4,S.473f.〔Dok.Nr.56

〕 署名者の中にはコル マル市長 ブルー メソタール,中央党議員プライスの名前 も見える。国民同盟は中央党のいわば 「鬼 っ子」だ と言える。今 日の‑ルザス自治主義者は国民同盟を 「 外国人に支援 された疑似 自治主義政党」 と評価 してい る

。Hiery,ZwiscbenScyllaulldCharybdis,S.309f.

2)

これについて , 「同盟」 の メンバーの一人であ り,第一次大戦勃発後 フランスに亡命 し,戦後 フランス 議会上院議 員とな った‑ルマ‑

PaulAlbertHelmer

1915

2

15

日に次の ように述べている。「 私の 仲間 も私 も自治を望んでいない.かつて‑ルザス ・ロー トリンゲソ人が この考えを持 っているように見えた とすれば,それは ドイツの専制からの最小限の保証 を得 よ うとしたためである

」(Hiery,ZwischenScylla undCharybdis,S・309)

‑ルマ‑は戦後になって も, 自治要求は 「 単なる戦術的常套文句」に過 ぎず,そ れは新 しい形の抗議だ った,なぜならフランス‑の併合を要求す るのは不可能だ ったから, と弁明している。

(DosEIsassvow18701932,Band 1,S.127)

もちろん この言葉 は若干割 り引いて評価せねばならない だろ う。 フランス‑の復帰の希望を持 っていたか ど うか と,それを現実性 のあるもの と考えていたかど うか

は別問題である。

3)DasEIsassvowlB7011932,Band2,S.95. 3.

州議会選挙

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