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明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶

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明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶

尾 原 宏 之

第二章 軍事構想と﹁立法﹂1佐野常民と河野敏鎌−

 一︑﹁兵隊教練﹂意見書の諸相

 二︑緊縮財政下の軍事構想−佐野常民の場合−

 三︑二つの国家観の相剋

 四︑軍事問題における﹁行政﹂と﹁立法﹂

むすびにかえて

明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶       ︵都法五十−二︶ 二五三

(2)

二五四

第二章 軍事構想と﹁立法﹂  佐野常民と河野敏鎌

一︑﹁兵隊教練﹂意見書の諸相

 元老院は明治一二年の徴兵令改正に際して︑どのように兵役義務を定礎するのか︑そもそも兵役義務とは何なのか

という難問に直面した︒その答えは﹃日本国憲按﹄起草作業において模索された︑来るべき立憲政体における兵役の

あり方から照らされる以外なかった︒

 ﹁立法官﹂を自認する元老院議官たちは︑兵役負担の平等よりも実務上の都合を優先させる﹁行政官﹂に対して︑

一致して公平な取り扱いを求めた︒だが︑それは様々な思惑がせめぎ合う中でかろうじて保ち得た危うい一致にすぎ

なかった︒前章では機構としての元老院が取り組んだ課題について考察したが︑本章では︑個々の議官の政治・

軍事思想がぶつかりあった二つの課題−兵隊教練導入案と下士﹁抜擢﹂問題1について検討する︒

 これらはまさしく議場を二分する論争となったが︑一方の陣営に徴兵令修正委員・佐野常民を︑もう一方に元老院

副議長・河野敏鎌を立て︑両者の対立として描くことができる︒その対立は︑兵事に対する思考の違いに淵源す

ると同時に︑元老院の様々な審議で繰り返されてきた両者の論争の延長線上に位置づけられるものである︒本章は︑

一、

ウ老院の兵隊教練導入案を概観した上で︑起草者の一人である佐野の特殊な立ち位置を確認し二︑佐野の生涯を

貫く軍事思想について検討し三︑兵隊教練導入案に対する最大の抵抗勢力であった河野の発言を佐野的な国家︵社

会︶観との関係の中で分析し四︑両者の対立は後世の政治と軍事を巡る問題の先駆けとなったことを明らかにする︒

 改正徴兵令の元老院修正案は︑明治六年徴兵令にも︑明治一二年の内閣原案にも存在していないある条項を盛り込

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んでいた︒

  修正案第二条第一項 学校二於テ生兵教練中隊教練ノ課程ヲ卒リタル者平時ハ服役未タ終ラスト錐モ在営一ヶ年

  ノ後願二依リ仮二帰郷ヲ許スヘシ

 この条項の審議に先立って︑﹁各地方公立学校二於テ年齢十二歳以上ノ生徒ノ為メ兵隊教練ノ課程ヲ設ケ授業候義

ハ適宜タルヘク候條此旨布告候事﹂という布告案を含む号外第二七号﹁公立学校二於テ兵隊教練ノ課程ヲ設クルノ意

見書﹂が審議されることとなった︒起草者は修正委員である山田顕義︑佐野︑津田出︑中島信行︑細川潤次郎の五名

である︒  これは言うまでもなく︑学校教育に軍事教練を導入する案である︒明治一九︵一八八六︶年︑中学校・師範学校で

﹁兵式体操﹂︵小学校では﹁隊列運動﹂︶が制度化され︑いくつかの改変を経て︑後に﹁教練﹂として軍による教育へ

の干渉装置となることについては多言を要すまい︒元老院の意見書は︑本格的に兵隊教練の可否が論じられた先駆的       ︵1︶ 事例であり︑教育学や体育学の分野において︑いわば兵式体操成立前史として位置づけられ言及されてきた︒だ

が︑ある種の現実味を帯びた提言としては確かに先駆的ではあるものの︑兵隊教練︵のようなもの︶を推奨する言説

は早くから現われており︑取り立てて珍しいものではない︒著名なものとして︑西周﹁文武学校基本井規則書﹂︵明

治三年︶︑山田顕義﹁兵制につき建白書﹂︵明治六年︶︑阪谷素﹁養精神一説﹂︵明治八年︶︑福澤諭吉﹁通俗民権論﹂

︵明治一一年︶︑森有礼﹁教育論−身体ノ能力﹂︵明治一二年︶などが挙げられるだろう︒また元老院に改正徴兵令

内閣原案が下附された六月頃︑明治天皇は佐佐木高行︑伊地知正治らに該案についての意見を求め︑伊地知は兵役を         ﹁栄誉﹂とするための方策の一つとして﹁諸学校生徒をして練兵式或は撃剣・柔術を習はしむべし﹂と提言している︒

 元老院意見書は︑上記の論者たちと違い︑必ずしも青少年の身体を壮健にする︑あるいは徳を酒養するといった効果

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二五六

を狙っていない︒公立学校で兵隊教練を施すことで︑将来徴兵される層をあらかじめ軍事技能に習熟させ︑常備軍の

服役期間を短縮することが第一の目的である︒

  徴兵令常備服役ヲ以テ三ヶ年トス︒此固リ人民護国ノ義務ナリト錐モ︑此年限中ハ一身ノ教育ヲ受クルコトナク︑

  又一家ノ生計ヲ営ムコト能ハス︑其服役ノ永キヲ厭フモ亦人情ノ免カレサル所ナリ︒故二該議案ヲ附託セラレタ

  ルニ当リ︑修正シテ第二条第一項トシ︑以テ変通ノ方アルヲ示シ︑且ツ予備徴兵井二国民軍籍二在ル者ヲシテ予

  メ執銃ノ技演陣ノ方ヲ知ラシメ︑有事ノ日直二其用二適セシメントス︒        ︵3︶ 後段で予備徴兵や国民軍に登録される者に一定の軍事的素養を与える目的にも触れているが︑第一の目的は在営

期間を一年に短縮する道を開くことである︒

 この意見書は︑徴兵令審議を貫く元老院の課題であった﹁苦役﹂の緩和という課題から直接に導き出されたもので

ある︒柳原前光は徴兵の苦役たる所以を︑三年もの間兵営に拘束され︑家郷で﹁常職二服スルコト﹂ができなくなる

点に見出していた︒

  徴兵ハ人民護国ノ義務ナルモ︑猶之ヲ遁レント欲スル所以ノモノハ何ソヤ︒一二其年数ノ長キニ苦メハナリ︒本

  案改正二方リテハ︑兵ノ規律ヲ以テ組織スヘキハ論ヲ倹タスト錐モ︑三年ヲ過キサレハ家二帰リテ常職二服スル

  コトヲ得スト為スパ︑誰力之二苦マサランヤ︒因テ三年ヲ半分トスルカ或ハ其他二良法ヲ講求セサルヘカラス︒

  ︵﹃会議筆記﹄前⑦三五六〜三五七頁︶

・柳原は上記のような抜本的な服役の短縮に加えて代人料を二七〇円から一〇〇円に値下げすることを提案している

が︑これらのアイディアは太政官調査局権大書記官であり明六社同人として知られる杉亨二の﹁徴兵常備年限改定等

杉亨二見込書﹂を参考にしたものと思われる︒杉の見込書は︑﹁徴兵常備ノ年限ヲ改メテ一年トナスコト﹂﹁壮兵ヲ設

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       ハ   ケ徴兵ノ不足ヲ補フ事﹂﹁代人料ノ金高ヲ改メテ百円ト為ス事﹂の三つの建言から成り︑そのうち服役期間の短縮お

よび代人料一〇〇円案が柳原の発言とほぼ一致する︒立論の仕方も非常によく似ている︒

 また︑兵隊教練が﹁苦役﹂の緩和をもたらすための施策であることは︑議場に広く共有されていた考えでもある︒

起草者の一人である中島信行は﹁本按ハ人民服役ノ長キニ疾苦スルヲ以テ便法ヲ設ケテ其憂ヲ辞ヘシメント欲スル者       ら  ナリ﹂︑細川潤次郎も旧令に比べて厳格になった改正徴兵令を﹁緩和スルノ法﹂であると述べている︒

 結果から言えば︑兵隊教練意見書は最後の採決で九対九の賛否同数となり︑議長職権によって葬り去られ︑修正案

第二条第一項も削除された︒日の目を見なかったこの審議に関する従来の研究は︑個々の議官がなぜ兵隊教練案に賛

成/反対したのか︑それはどのような思想的背景があってのことなのかという点については十分な検討をしてこなか

った︒例えば木村吉次は︑議官たちが意見書に賛成した理由を﹁人によってさまざま﹂としながら︑①﹁国民皆兵の

理念﹂への接近②軍事費を節減しながらの戦時動員兵力増大③服役期間短縮による人民の負担軽減④兵役忌避を未然        に防ぐ﹁勇敢ノ気象﹂の養成︑の四点に要約した︒モデルとされるのは﹁民兵制的な兵制﹂である︒また塩入隆は

﹁山県有朋的陸軍形成に反対する一派﹂が年来主張してきた﹁民兵育成の一翼として学校体育に軍事的要素を盛り込

む案﹂を︑﹁民論を代表する意識を持つていたと見られる佐野常民・中島信行﹂らが取り込んだものと位置づけた︒

﹁徴兵制度よりも民兵制度の方が国民の負担が軽﹂いので︑﹁徴兵制度に反対する広い国民の声を反映﹂できるからで

     ある︒両者とも徴兵令に民兵的なものを取り込もうとしたと捉える点︑主たる思想資源を山田顕義の﹁兵制につき

意見書﹂に求める点で一致している︒それももっともな話で︑兵隊教練意見書の起草者筆頭は山田本人であり︑別格

の存在感を持っていたことは疑いがないからである︒だが元老院における議論は︑実際には山田意見書のパースペク

ティブとは全く違うところで展開した︒山田は奇しくもこの審議が始まった九月一〇日当日に参議工部卿に任ぜられ︑

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       ︵8︶ 以後議場に姿を現すことはなかった︒また︑確かに山田意見書は民兵制的な構想に基づいて徴兵制導入時期尚早論        ︵9︶ を展開しており︑中島は前年の﹁分家禁止法案﹂審議でスイス民兵制と学校での兵式体操に言及していたが︑他の

者が現行徴兵令によって形作られる常備軍のオルタナティブとして民兵を考えていた証拠はない︒特に趣旨説明者で

ある佐野常民は︑反徴兵制度的な民衆感情を代弁してもいないし︑民兵的なものに心ひかれていた訳でもない︒佐野

なりの軍事構想を兵隊教練に託していたと考える方が妥当である︒また後に見るように︑兵隊教練賛成者ですら国民

皆兵への接近や戦時動員兵力増大︑﹁勇敢ノ気象﹂養成という軍事力拡充に資する政策目的は︑人民の負担軽減とい

う意見書本来の趣旨からの逸脱であると認識していた︒つまり︑現行徴兵制度の代案としての民兵制という前

提は疑わしいし︑木村が掲げた四つの賛成理由は共存不可能であるという見解もあったということである︒

 兵隊教練案に軍事力拡充への明確な意図を持たせた議官は︑他ならぬ佐野である︒佐野の趣旨説明は︑起草者が共

有していたはずの服役期間短縮という目的に全く触れていない︒        ︵10︶   本按起草ノ主旨ハ瑞典ノ制度ヲ酔酌セシ者ナリ︒抑同国ノ多ク常備兵ヲ設ケスシテ其大国ノ間二峙立スル者ハ︑

  人民幼童ノ時ヨリ学校二軍陣ノ事ヲ習フノ制アルヲ以テナリ︒故一二旦事アルニ際シテハ全国挙テ皆ナ隊伍二編

  制シ俄頃ノ間精練ノ兵ヲ得ルニ足ル︒是レ其弾丸黒子ノ地ヲ以テ善ク諸大国ト対峙独立スル所以ナリ︒

  本邦数百年来︑兵役ハ士ノ常職トシ︑他ノ人民ハ毫モ之二関スルヲ得サルノ法ナリ︒今一朝之ヲ廃シ︑徴兵ノ制

  度二変スト錐トモ其徴募ノ難キハ知ルヘキナリ︒乃テ童時ヨリ文教武技ト併セ講シ︑以テ隠然兵力ヲ養成スルハ

  緊要的ノ急務トス︒︵﹃会議筆記﹄前⑦六〇〇〜六〇一頁︶

 ここでは兵隊教練案は﹁隠然兵力﹂養成のための手段としてのみ強調されている︒

 この説明は︑意見書が朗読された直後の大給恒の賛成意見に煽られた面も否めない︒大給は﹁人民護国ノ義務ヲ尽

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スノ志気二乏ク兵役ヲ忌ムコト蛇蜴ノ如ク之ヲ忌避スル﹂原因を︑農工商三民が六百余年にわたって﹁兵事﹂に関わ

らなかった﹁風習﹂に求めた︒いまやその﹁風習﹂は﹁天性﹂と化している︒それを変革しうるのが﹁講武﹂であ

る︒学校での兵隊教練によって﹁勇敢ノ気象﹂と﹁愛国ノ心志﹂を養成すれば︑﹁一旦徴募ノ時二臨ミ畏怖退避ノ心        ︵11︶ ナク皆先ヲ争テ其募二応ズ﹂るようになる︒このような大給の演説に佐野が続いたのである︒

 佐野の趣旨説明は︑﹁予備徴兵井二国民軍籍二在ル者ヲシテ予メ執銃ノ技演陣ノ方ヲ知ラシメ︑有事ノ日直二其用        エ ニ適セシメントス﹂という意見書第二の目的から見れば正当であり︑服役期間の短縮という第一の目的は自明だから

言及しなかっただけかもしれない︒だが︑福羽美静はこれを大きな逸脱と捉え︑真っ先に疑義を表明した︒

  学校二於テ兵隊教練ノ一課ヲ設ケント欲スルノ大旨ハ・::・人民二便利ヲ与ヘント欲スルニ外ナラサルヘシト信

  セリ︒然ルニ起草者ノ全国兵備ヲ充実シ︑併テ兵役忌避ノ念慮ヲ消遇スルノ利益アリト説明セシハ︑本官思想ノ

  外二出タリ︒是ヲ以テ推測スレハ其主意ノアル所ハ外二尚数点アルヘシ︒一々其詳ナルヲ聞ント欲ス︒︵﹃会議筆

  記﹄前⑦六〇一頁︶

 ﹁人民二便利ヲ与へ﹂ることが兵隊教練の目的なのに︑佐野は﹁全国兵備﹂の充実と﹁兵役忌避ノ念慮ヲ消遇ス

ル﹂目的しか説明していない︒他に意図があるのだろうと質問しているのである︒佐野は改めて服役期間の短縮に触

れる形で意見書の内容を要約し︑福羽はそれを受けて人民が﹁忌避ノ念﹂を持つのは﹁人情ノ免レサル者﹂であり︑        ︵12︶ ﹁便宜ヲ与フルノ変通法﹂を設けることが必要不可欠として賛成を表明した︵後に撤回︶︒福羽の追及は一旦止んだ

が︑佐野の発言の本質を見極めた上での指摘であったと思われる︒なぜなら︑佐野はもとから人民の負担軽減という

観点で兵隊教練を捉えていないからである︒

 前年の﹁分家禁止法案﹂審議において︑中島信行はスイスの民兵制や合衆国の兵制︵特に常備軍の規模の小ささ︶

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二六〇

に何度も言及し︑現行徴兵令に対するオルタナティブを提示しようとした︒対して佐野は﹁是其国体ト民俗ヲ参考シ

テ論スヘキモノニシテ今日ノ日本二比シテ論スヘカラサルナリ﹂と反駁し︑西南戦争を例示して﹁兵ハ常備ニアラサ       ︵13︶ レハ用ヲ為サス﹂と発言していた︒改正徴兵令第二読会でも﹁夫レ兵ハ凶器ナリ︒経済ノ点ヨリ之ヲ見レハ常備ハ

務メテ減スルヲ可トスレトモ︑邦アレハ必ラス守衛ヲ要シ︑其国ノ大小二由リ常備兵ナカルヘカラサル所以ナリ﹂と       ︵14︶       ︵15︶ 明言しているし︑第三読会では﹁本官ハ堂々タル我独立帝国二生レテ瑞西ノ如キ半独立国民タルヲ欲セス﹂と︑明確

にスイスを否定してもいる︒また人民の負担軽減を図るというより︑佐野の立論は将来の抜本的な軍備拡張を視野に

いれた上で﹁人民ノ義務タル徴兵﹂をどのように国民に受け入れさせるかという問題に力点がある︒例えば日本より

人口が少ないのに兵数がほとんど倍する﹁阿蘭陀﹂と比較して以下のように述べている︒

  日本ハ仮令海中二独立スト錐モ︑各国ト併立セント欲セハ︑将来幾多ノ兵ヲ要セサルヲ得ス︒然ラバ銘々人民ノ

  義務タル徴兵ノ関門ヲ経過スヘキナリ︒︵﹃会議筆記﹄前⑤二四四頁︶

 ここから読み取れるのは︑今現在はともかく︑諸外国と﹁併立﹂せんとする将来には大量の兵が必要となり︑その

ために徴兵制度を強化しなくてはならない︑という主張である︒そして︑﹁幾多ノ兵﹂とは常備兵を指すことは明ら

かであろう︒

 それでは︑なぜ佐野は人民の負担軽減を主目的とする兵隊教練案の主唱者となったのか︒ここで節を改め︑佐野の

軍事思想を概観した上で︑意見書に仮託した構想を検討していきたい︒

二︑緊縮財政下の軍事構想−佐野常民の場合1

(9)

 日本赤十字社の生みの親として歴史に名を留める佐野常民は︑この元老院会議が開かれた時すでに五六歳であっ

た︒翌年大隈重信の後任として大蔵卿に就任し︑明治一五年には元老院議長︑二一年には枢密顧問官︑二五年には第

一次松方内閣で農商務大臣を務めることになるが︑この時期までの佐野の功績として︑幕末佐賀藩海軍建設︑西南戦

争の際に博愛社︵日本赤十字の前身︶を組織して行った救護活動︑一八七三年ウィーン万国博覧会事務副総裁として

の活動がよく知られている︒

 佐野は著述家ではないので︑その政治思想の全体像を知りうるような書物は存在しない︒政府部内の報告書類︑あ

るいは赤十字社長として行った演説記録などを手がかりにするしかないが︑それらを集めて思想の全体像を作ってみ

たところでおそらく混沌としたものになるであろう︒佐野の立場からして︑その言説は時々の実務や政権中枢との力

関係に著しく制約されるわけだから当然である︒だが︑こと軍事問題となると︑生涯を通じて一貫した傾向を見出す

ことができる︒ここでは﹁兵制皇張ノ所見報告書﹂を入口として佐野の軍事思想について検討してみたい︒この報告

書は﹁制規学芸ヨリ工業機械等二至ル迄﹂の様々な翻訳資料を﹁議院部﹂﹁農業部﹂﹁教育部﹂などの部門別に編纂し︑       ︵16︶ 全てに佐野の署名入り意見書を付した﹃襖国博覧会報告書﹄の一部をなすものである︒

 ﹁兵制皇張ノ所見報告書﹂は︑明治政府は陸軍をフランスに︑海軍をイギリスに学んで努力を重ねているものの︑

普仏戦争後の﹁欧州文明諸国﹂の軍拡は驚愕すべきペースで進んでおり︑すでに軍事情勢は大きく様変わりしている

ことを指摘する︒特に各国競っての兵器類の精密化︑新しい陣法による練兵︑﹁一旦事アレハ挙国ノ人皆起テ兵タラ

シム﹂制度11﹁必服兵役ノ法﹂の導入が例示され︑先駆者としての﹁李﹂︵プロイセン︶の地位が強調される︒

  学ノ如キハ此法﹇必服兵役ノ法﹈久ク行ハレ士ヲ養フ年アリ︒一戦丁二克チ︑再戦襖二捷チ︑三戦大二仏ヲ破リ爾

  来連勝ノ威二狙レス益々其兵備ヲ脩ム︒襖仏モ又大敗ノ余曾テ挫折セス︑速二敵ノ資ヲ以テ我二勝テル所ノ良法

明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶      ︵都法五十−二︶ 二⊥公

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二六二

      ︵17︶   ヲ採テ自国ノ兵制ヲ改正シ︑往事二過ルノ大兵ヲ編シ︑既ニソノ勅敵ヲ畏レサルノ勢アリ︒

 一八六四年のデンマーク戦争︑一八六八年の普填戦争︑一八七〇年から七一年にかけての普仏戦争におけるプロイ

センの勝因は一般兵役義務制度による﹁大兵﹂動員にあり︑オーストリアとフランスも敗戦後にそれを模倣し︑巨大

兵力を構築したという認識である︒歴史家アルフレート・ファークツは︑普仏戦争の意義を︑﹁﹁量﹂の大衆軍隊が︑

﹁質﹂の職業軍隊を︑迂回し︑包囲し︑そして打破した﹂ことに見出した︒フランス第三共和政下一八七二年の軍制

改革は︑対独復讐のために敵であるドイツを模倣したものであり︑第一次世界大戦前夜の一九=年には︑兵役義務        ︵18︶ を負っている者のうち八二︑九六%を召集するというドイツ以上に苛酷な負担を国民に課すまでに至る︒佐野もプ

ロイセンの度重なる勝利によって﹁必服兵役ノ法﹂が﹁欧州文明各国﹂に急速に受容されたことを強調する︒そして

﹁李﹂のような﹁大兵﹂を編制することは︑日本にとっても実現不可能なことではない︒

  我国人ロノ衆キ三千余万人︑土地ノ広キ方二万余里︑之ヲ欧州模指ノ強国二比スルニ大差アルナシ︒故二数十万        ︵19︶   ノ兵ヲ備フルハ固ヨリ当然ノ事ニシテ︑他小邦ノ力能ハサルモノト同日ニシテ語ルヘカラス︒

 この主張は先に見たオランダと比較して兵数増加の必要性を説いた発言と同趣旨であり︑明治三︵一八七〇︶年五

月︑兵部少丞時代に提出した省議﹁大に海軍を創立すへきの議﹂とも同じである︒そこでも海陸軍拡張を実現しうる        ︵20︶ 根拠として︑﹁皇国人民の数を算れは凡三千万口に出る可く歳入の高を計れは凡三千万石に上るへし﹂と︑西洋諸国

に比して基礎国力は決して劣っていないという自負が表明されていた︒

 この報告書や︑元老院会議の随所に表われた佐野の国際社会認識は﹁弱ノ肉ハ強ノ食﹂というものである︒いかに

当方に﹁理﹂があろうと軍事力が微劣ならば﹁有力者﹂に圧迫されて﹁国家ノ権利ヲ張リ義務ヲ行﹂うことができな

い︒報告書で示される日本の第一の脅威であり︑同時に﹁我儀表トナスニ足ル﹂国は﹁北境﹂を接し膨張を続けるロ

(11)

シア帝国である︒ロシアは海軍そして鉄道計画の両面でアジアに進出しつつあり︑真偽はさておき欧亜併呑の方策を        ︵21︶ 伝えたピョートル大帝の﹁遺書﹂の通り︑黒竜江の通航の利益を占め︑黒海に軍艦を置き︑インドに迫る勢いを見

せている︒

 これまでの佐野に関する研究では︑﹁兵制皇張ノ所見報告書﹂などに示された軍事構想への言及は少ない︒博覧会行

政当局者としての佐野の思想を分析した松宮秀治は︑佐野は久米邦武と同じく﹁日本の将来を﹁大国化﹂と﹁西欧        ︵22︶ 化﹂の方向で考えなかった﹂と捉えている︒だが︑ドイツが牽引する軍拡競争に追随する構えを見せ︑ロシアの軍備

拡張に﹁儀表﹂を見出している以上︑そう言えるのかは疑問である︒また日赤創始者としての佐野の評伝を著した吉

崎龍子は︑報告書に﹁﹁ジェ子ーブ﹂ノ会創者救護ノ約ヲ定メ﹁ブリユクセル﹂ノ議又交戦ノ規ヲ設ケントセリ︒是

誠二今世ノ美事タリ﹂︵傍点引用者︶という記述があり︑﹁魯国政府万国戦時公法議案﹂︑﹁白国﹁ブリユクセル﹂府戦

時公法会議記事﹂などが資料として紹介されていることから︑佐野が一八六四年ジュネーブ条約で謳われた戦時病院       ︵23︶ 救護員の中立や戦傷者保護などを日本社会に知らしめる契機となったことを指摘している︒だが報告書の文脈に即せ

ば︑佐野の力点は後に続く﹁然レトモ学術智工ノ進メル器械彌々精︑兵法彌々巧︑戦闘ノ烈ナル復タ旧時ノ比二非サ

  ︵24︶ ルナリ﹂︵傍点引用者︶という記述の方にある︒つまり世界は﹁人文﹂の開けにしたがって﹁惨酷ノ習ヲ除シテ寛容

ノ風﹂に赴いてはいるものの︑同時に﹁学術智工﹂の進歩こそが戦争を激烈なものにしているという認識である︒佐

野の狙いは﹁宇内文化日二開ケ人唯和平是祈ル鋪兵ノ期遠キニ非ス﹂という︑﹁文化﹂の発展によって戦争はいずれ

廃絶されるという思想を否定することにある︒

 また赤十字事業自体も佐野の軍事構想と切り離せない関係にある︒赤十字社長としての演説で目立つのは︑適塾時       ︵25︶ 代に緒方洪庵から教えられた﹁人命尊重の精神﹂以上に︑﹁国と国との争論を決するものは︑戦争の外はありませ

   明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶      ︵都法五十−二︶ 二六三

(12)

二六四

       ︵26︶ ん︑即ち戦争が道理を決するのでありまして︑勝つたもの︑道理が立つ﹂という世界観である︒その中で赤十字は        ︵27︶ ﹁陸海軍備の拡張を計画するに付ては︑随て赤十字事業の発達をも︑計画せなければならぬ﹂と︑弱肉強食世界を生

き抜くための軍事力を支える装置として思念されている︒その際並び称されるのは﹁招魂祭﹂である︒

  之﹇戦死者﹈が霊魂を慰め︑之﹇戦傷者﹈が救護を為さなければならぬ︑否之を慰め︑之を救護すべきは︑我々国民

  の正に勉めなければならない所の義務であります︑左れば其不幸にして︑既に死に至りたるものに対しては︑宜

  しく鄭重なる招魂祭を営み︑以て其魂醜を地下に慰め︑又幸に死は之を免たるも︑身に傷を被むりて︑苦痛を為

  すものに対しては︑迅に治療を施して︑早く其苦痛を免れしむるの方法を立てなければなりませぬ︑是れ政府と        ︵28︶   国民が︑死者の為には︑招魂祭を施し︑負傷者の為には︑赤十字社を設置したる所以であります

 だからといって佐野の献身的事業の価値が失われるわけでは全くないが︑何かのはずみで口が滑ってしまったとい

うわけでもない︒この手の佐野の世界観と力への信仰は︑旧幕時代に実体験したポサードニク号事件︵一八六一

年︑ロシアの軍艦が破損を口実に対馬芋崎を半年に渡って占拠した事件︶に遡る根深いものだからである︒佐野は︑

ロシア艦長を説得し退去させる使命を帯びた外国奉行一行に加わり観光丸に乗り込み現地に向かった︒そこで目撃し

たものは︑ロシア人が対馬の﹁咽喉ノ要地﹂を占領し︑我が物顔で﹁国旗ヲ翻ヘシ警備ヲ厳ニシ又近傍ノ陸地ヲ開拓        ︵29︶ シテ馬鈴薯ヲ植へ樹木ヲ採伐ジテ家屋ヲ造ラントスル﹂光景であった︒しかし︑それにも増して衝撃を受けたのは︑

対外交渉は﹁実力﹂の有無によってのみ決せられるという現実である︒ポサードニク号は日本の外国奉行らが﹁百方

言ヲ尽シテ説諭﹂しても退去しなかったのに︑英国公使﹁アルコツク﹂︵オールコック︶が間に入って﹁厳談﹂する

やあっさり退去に応じたのである︒

  我ニシテ英国公使ノ為シタルカ如キ談判ヲ為ス能ハス︑又之ヲ為スモ彼レノ従ハサルハ︑畢寛実力ノ後楯アラサ

(13)

       ︵30︶   ルニ由ルノミ︒

 また︑佐野は常備軍に対するオルタナティブとしての民兵に批判的︑否定的であったが︑その源流に位置するのは

報告書に添付された一八七四年二月一六日ドイツ帝国議会における大モルトケの演説である︒実際︑佐野は軍備拡張

の論理をモルトケ演説から多く借用している︒例えば︑軍事費を節約しても他国に攻め込まれて負ければ領土や賠償        れ  金を取られて結局は大損をするという論法などは︑ここから学んだものであろう︒モルトケの演説は四〇万工ハ五

九人の平時兵力量を定めた帝国軍事法︵困而民冨−峯法餌偏而ω而冒︶を議会から防衛するためのもので︑常備軍の服役短縮

や兵数削減に反対すると共に︑軍事費削減のために民兵制を採用するべきだという主張に反論を加えている︒﹁ミリ

ツツ﹂︵︼≦一一﹂N︶を用いた戦争は﹁徒ラニ時日ヲ膿シ︑随テ巨額ノ費ヲ要シ︑人命ヲ損スルコト﹂が多い︒そのことは

フランスの﹁モビルカルデ﹂︵○曽△6日o昆ゆ︶︑﹁ナチヲナール︑カルデ﹂︵O①a6墨︷︷oコ巴⑦︶が﹁僅力一二二月ヲ支ル

モ徒ラニ膏血ヲ地二塗ルノミ﹂という無益なものであったこと︑また﹁フランクチレルス﹂︵﹈ッ日昌Ooカー亘﹁①β﹁ψ力︶が二

日モ我軍ノ襲撃ヲ支フルコト能ハス﹂という無能さを示したことからも明らかである︒また民兵制は﹁人民中ノ善

否﹂を選んで兵器を供与することができないため︑﹁不善人﹂に兵器を与え︑戦場に連れ出す﹁累卵ノ如キ﹂危険も

  お  ある︒佐野は徴兵令審議でも﹁兵ハ常備ニアラサレハ用ヲ為サス﹂︑﹁国民軍二対シ常二兵器ヲ渡シ置クコトハ万之

         ナキノ理ナリ﹂と発言しているが︑この演説に祖型を見出すことができる︒

 それでは︑なぜ佐野は徴兵令の緩和や民兵制を志向する議官らと共に兵隊教練案の主唱者となったのか︒その意味

は明治一二年段階での政府の政策目標や︑経済・財政状況との関係の中で捉えることで明瞭になると思われる︒前者        ︵34︶ は﹁富国強兵﹂という国是に関する問題であり︑後者は佐野も意識している﹁国用ノ不費﹂つまり深刻な財政危機

の中でどのように軍備の充実を図るのかという問題である︒

明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶      ︵都法五十−二︶ 二六五

(14)

二六六

      ︵35︶  ﹁富国強兵﹂というスローガン自体は明治政府内外で共有された異論の余地のない国是と言えようが︑利用できる

資源に限りがある以上︑﹁富国﹂︵主に工業化︶と﹁強兵﹂︵国防力の強化︶は時に非妥協的な関係に立つ︒坂野潤治

はこの二者に﹁公議輿論﹂の重視︵政府専制の抑制︑民主化︶という目標を加えて﹁廃藩置県後の明治政府の三大課

題﹂とし︑これらが﹁政策レベルの優先順位の問題にとどまらず︑各人が信じる﹁革命目的﹂の優先順位の問題﹂で        ︵36︶ あったが故に︑一八七〇年代における対立と相剋が深刻を極めたことを説得的に解き明かした︒

 また坂野は﹁﹁富国﹂が﹁強兵﹂にも﹁民力休養﹂にも優先されるべきであるという信念は︑一八八〇︵明治一

三︶年から一八八一︵明治一四︶年にかけて財政・経済情勢の悪化が極点に達するまで︑明治政府の中枢部によって         ︵37︶ 抱かれつづけていた﹂こと指摘し︑西南戦争終結後の明治=年前後はまさに﹁﹁富国﹂論の全盛期﹂であり︑陸軍       ︵38︶ さえも殖産興業政策の前では及び腰の軍拡要求しかなし得なかったことを明らかにした︒佐野が博覧会報告書で説

いた勇ましい常備軍拡張は︑少なくとも徴兵令審議の時期には明治政府の優先課題にはなり得なかった︒

 また財政・経済の悪化が深刻になるとともに﹁富国﹂に対して挑戦権を持つようになるのは﹁強兵﹂ではなく﹁節

    ︵39︶ 倹﹂である︒不換紙幣増発による貨幣価値の下落︑米価急騰をはじめとするインフレ︑貿易不均衡と正貨の流出・

枯渇︑明治一〇年の地租軽減による税収大幅減などの経済・財政危機は︑行財政改革の一環として大幅な軍事費抑制

を求めていた︒明治=二年八月︑参議外務卿井上馨は財政意見書の中で﹁節倹ヲ行テ官省ノ事業ヲ減廃﹂することを

主張しているが︑その中で官立事業の民間払い下げと共に﹁徴兵ノ年限ヲ短縮スル乎︑或ハ今後五年ノ間ハ常備兵員       ︵40︶ ヲ減スル乎﹂と︑徴兵制度の見直しと常備軍の縮小を提言するに至る︒現に︑兵員数を確保することが目的だった

はずの明治一二年徴兵令改正以降︑軸重輸卒を除いた常備兵徴集人員はほとんど変化がないばかりかむしろ漸減して

     ︵41︶ いるのである︒

(15)

 その後︑明治一五︵一八八二︶年壬午事変を契機として軍備拡張が行われるが︑対清軍備だったからこそ松方健全        ハロ  財政と両立し得たという室山義正の指摘に従えば︑ロシアを仮想敵とした大常備軍︑大海軍建設などは実現不可能

であることは言うまでもない︒

 佐野は当然こういった状況を十分理解していた︒しかし︑にもかかわらず軍備拡張を願う者にとって︑常備軍増強

が不可能であるならば︑その他の方法を模索せざるを得ない︒それが︑兵隊教練で﹁隠然兵力﹂を育成することであ

った︒福羽の佐野に対する追及は︑兵隊教練を﹁国用ノ不貴﹂下での﹁強兵﹂政策に換骨奪胎することに対する牽制

であったことは間違いない︒兵隊教練意見書審議の第三読会で両者の差異は一層顕著となる︒佐野が﹁独立ノ体面ヲ

汚辱﹂している﹁支那﹂を反面教師としてヨーロッパ並の軍備拡張をめざすべきこと︑学校での﹁武事﹂講習で全国

皆兵を支えるべきことを主張したのに対し︑福羽は国憲も定まらず国会も開かれていない状況で欧州を模倣して﹁兵        な  備ノ充実ノミニ注目﹂するのは不可であるとして︑教練案への賛成を撤回するに至った︒

 佐野の元老院での発言や様々な意見書・演説は︑ヨーロッパに追随して常備軍を強化するという基本線を維持して

おり︑民兵的なものを警戒してさえいた︒だが佐野の主唱する兵隊教練は選別せずに多くの人間に武装および戦闘の

方法を教授するから︑そこで養われた﹁隠然兵力﹂は明治政府にとって大きな災いの種になりうる︒齋藤利行は﹁地

方某社﹂︵おそらく立志社︶の勢力と挙動を例示して兵隊教練導入に反対し︑佐野ですら﹁制駅ノ方法﹂が適切なら

ば害を去り利を収めることができるとしつつも﹁鹿児島県私学校ノ如キ者ハ殿鑑ノ遠カラサル者トス﹂と述べて

 あ  いる︒おそらく佐野は﹁隠然兵力﹂を現行徴兵制度の中に位置づけることで無害化する腹案を持っていた︒改正徴

兵令第二読会末尾において突如提案する﹁予備軍﹂構想がその表れである︒

 佐野の﹁予備軍﹂構想は︑それまで議論の前提となっていた内閣原案11修正案第一条の軍の種別︵常備軍ー予備

明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶      ︵都法五十−二︶ 二六七

(16)

二六八

      ︑︑︑      ︵45︶ 軍ー後備軍︶を︑﹁=一常備軍ニニ後備軍三二予備軍﹂︵傍点引用者︶と改めるものであった︒これは単に後備軍と

予備軍の名称を入れ替えたものではない︒内閣原案n修正案では予備軍︑後備軍とも常備軍を終えた者が順繰りに異

動していくことで成立するのに対し︑佐野の﹁予備軍﹂は全く新たな人員ソースから成り︑従って性格も全く異なる

新たな﹁軍﹂である︒

 この﹁予備軍﹂は検査合格者のうち常備兵の抽籔に漏れた者と︑補充兵となったが結局入営しなかった者を﹁第一

予備軍﹂とし︑平時免役に定められた者と一時徴集猶予の事由が三年間続いた者を﹁第二予備軍﹂として三〇歳に至

るまで戦時・非常時の兵員や輻重輸卒として動員するものである︒内閣原案H修正案の﹁予備徴兵﹂制度と全く同じ

    ︵46︶ 規定であるが︑単なる名称のみの人材プールではなく︑﹁学習院ヲ初メ中学校等ニテ演習シ時二臨テ兵ト為シテ可ナ

︵47︶

リ﹂と述べられているように︑教練によって訓練された全く新しい﹁軍﹂としてイメージされている︒この再修正

案はあまりにも唐突であったので一六人中七人の支持に止まり︑佐野の提案は否決された︒しかし佐野は執拗に同様

の再修正を主張し︑この案に賭ける並々ならぬ意気込みを示した︒

 この新たな兵団としての﹁予備軍﹂はプロイセンの冨邑≦而訂に比定しうるものであり︑内閣委員渡正元との間で

﹁独逸﹂の兵制︑すなわち罫昆≦①胃の評価を巡って議論がかわされたことが示唆されている︒

  独逸等ノ事ヲ引キ曾テ番外一番﹇渡﹈ハ云フ所アリト錐モ︑彼ハ四十万余ノ兵ナレハ予備徴兵ヲ以テ之ヲ補フニ及

  ハサルモ日本ハ彼ト同一ノ人数ニシテ兵ハ僅々三万︑決シテ用ルニ足ラサルナリ︒番外一番ハ︑独逸ニテハ陸軍

  卿ヨリモ議長二権アリテ徴兵ヲ益スコトヲ議スルモノナリ︑日本ハ未タ国憲ナケレハ慢リニ民権ヲ与フヘカラス

  ト云フ︒本官モ亦之ヲ然リトス︒︵﹃会議筆記﹄⑦四六五頁︶

 いき江司Φ冒︵護国軍︑後備軍︑国土防衛軍などと訳される︶は一八=二年三月のプロイセンの対ナポレオン解放戦

(17)

争を契機として創設された部隊であり︑常備軍での兵役を終えた者などと共に兵役未経験者から構成される︒丸畠宏

太はζ呂≦①汗設立の意図を﹁軍隊と市民社会の障壁を取り除き︑国民全体に国防意識をもたせよう﹂︑三般兵役の        原則に少しでも実質をともなわせよう﹂とするものであったと分析しているが︑佐野は﹁予備軍﹂を公平な兵役負        ゐ  担という﹁賦兵ノ精神﹂実現のための措置とも捉えているので︑制度趣旨は共通している︒プロイセンの第一召集        の↑芦ユ≦Φ耳は一八三一年の時点で四六︑一三%が常備軍経験者であったのに対し︑佐野の﹁予備軍﹂は全員が兵役

未経験者であることから︑むしろその点では冨且笥⑦耳よりさらに徹底していると言ってよい︒だが常備軍と異なる

系統の軍の存在は︑メリットだけでなくデメリットをもたらす可能性がある︒渡と佐野との間で交わされた議論は︑

おそらくドイツの歴史的経験の評価に関係している︒

 デニス.E.ショワルターの指摘によれば︑解放戦争で鍛えられ実績を上げたピ§ユミ①耳は︑一四年春のパリ陥

落時には独自のアイデンティティや武勇伝︑忠誠心を発達させるに至った︒それは革命後のフランスのような混成部

隊︵正規兵︑義勇兵︑徴集兵︶でも︑イギリスのミリシアのような特定の地位・役割でもなく︑常備軍と平行して発         ロ  展したものである︒この独立・平等の地位は一八一四年兵役法に引継がれるが︑一八一九年一二月︑フリードリ

ヒ・ヴィルヘルム三世の発した閣令によって常備軍の統率下に組み込まれ︑その独自性と常備軍との対等性は喪われ

る︒さらに︑一八六〇年︑摂政ヴィルヘルムとアルブレヒト・フォン・ローンの軍制改革によって︑野戦軍としての       ロ  機能も奪われ︑完全に﹁後備軍﹂と化すに至る︒渡が﹁独逸ノ事﹂を引いて佐野のプランに反対したのは︑ヴィル

ヘルム︑ローン軍制改革が問題とした冨区妻Φ冒の欠陥に関するものであろう︒グナイストが指摘するように︑﹁軍隊

ノ機動益々迅速トナリ勝敗ノ決スル所僅々数日ノ間﹂という近代戦では﹁完全ナル軍隊的教育ヲ受ケタルコトナキ旧

来ノ後備兵﹂や﹁軍隊ヲ離レテ久シク普通ノ生活二馴ル・﹂常備兵役退役者によって構成されるピきユ乞o耳は十分に

明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶      ︵都法五十−二︶ 二六九

(18)

二七〇

       ︵53︶ 敵軍と戦うことができない︒だから三年兵役制の徹底︑将校下士官の増員︑平時兵力量の増加による常備軍の強化

が求められたのであるが︑佐野の﹁予備軍﹂はいくら学校で兵隊教練を課すとはいえ﹁完全ナル軍隊的教育﹂を受け

た者ではあり得ないから︑三月革命や様々な戦争でいきユ笥o冒のパフォーマンスに苦心してきたプロイセンの経験に

反していることになる︒

 この点に関して︑佐野は現在の日本が三万の常備軍しか保持できず︑すぐにドイツ並の常備軍を建設することは無

理である以上︑﹁隠然兵力﹂をもって少しでも補強する以外にないと考えていたことが発言から読み取れる︒

 また渡は議会政治や﹁民権﹂授与の可否に絡めて﹁予備軍﹂構想を批判しているが︑これは↑きO宅6冒が持つ性格

が後のプロイセン軍制争議︑憲法争議につながったことに関わっていると思われる︒この制度の擁護者であった陸軍

大臣ヘルマン・フォン・ボイエンは武装して国家を防衛する義務を持つ者は間接的にも国家の政治に関与する権利を

持つと考え︑ドイツ自由主義者たちはピp︒ロユ≦ゆ宮への参加を重視し︑それを参政権の一部とさえ見なした︒

↑き△司①冒への参加は愛国心の発揚の証であり︑政治参加の機会と受け止められていた故に︑い①巳≦①耳を弱体化さ       ︵54︶ せるヴイルヘルムnローン軍制改革は下院における政治闘争の引き金となったのである︒渡の批判は︑佐野の﹁予備       る  軍﹂が民権運動の震源地となりかねないという懸念に発したものであろう︒後に見るように︑佐野は民権拡張に消

極的であるから︑その認識は共有していた︒だが特に防止策を提示したわけではない︒人々の生活に抑圧的に働くに

せよ︑逆説的に民権意識の芽生えを促すにせよ︑軍事が社会に及ぼす影響について佐野は極めて楽観的であり︑その

ことが河野敏鎌らとの深刻な対立を引き起こす伏線となる︒

 徴兵令並びに兵隊教練案の審議における佐野の発言を︑徴兵制度を緩和して﹁人民二便利ヲ与ヘン﹂とするテーマ

を押し出す他の発議者・賛成者と切り離して検討すると︑常備軍拡張を目標に見据えつつも︑﹁国用ノ不貴﹂という

(19)

絶対的条件下でどのように﹁強兵﹂政策を推進するかという難題との格闘の跡が浮かび上がってくる︒それでは一方

の反対派︑その筆頭である河野敏鎌はどのような理由で兵隊教練案を否定していたのだろうか︒

一■

黶A

つの国家観の相剋

 兵隊教練案に対する最も熱心な反対者である河野敏鎌は︑第三読会に至るまで六度に渡って廃案を訴えた︒しかし       ︵56︶ 反対するに際して﹁徹頭徹尾之ヲ不可トスルニアラス﹂︑﹁其時機尚早シトスルノミ﹂と繰り返し︑実際︑文部卿に

就任してすぐの翌年三月より体操教員を養成する体操伝習所などで﹁歩兵操練﹂を加設する動きを始めているので︑

アイディアそのものには賛成であるかのようにも見える︒だが︑主任者として出席・答弁した元老院の教育令改正案        ︵57︶ 審議でも相変わらず兵隊教練は﹁未タ行フヘヵラサルモノアリ﹂と主張し続けていた︒その真意は分かりにくく不        ︵58︶ 明瞭であり︑様々な解釈がなされてきた所以である︒

 河野の一貫した消極さは単なる時期尚早論に由来するものではなく︑その思想の中に兵隊教練をどうしても受け入

れられない素地があったのではないかと推察される︒そこには明らかに佐野的な軍事構想に対する製肘や︑軍事的な

ものが社会に及ぼす悪影響を防こうとする意図があり︑その発言は元老院における様々な取り組みと関係づけながら

真摯に考察する必要があるように思われる︒その際︑﹁立法官﹂としての河野と﹁行政官﹂としての河野の差異に注       ︵59︶ 意する必要がある︒すでに前章で触れたように︑元老院時代の河野は院内民権派の代表格として声望を集めていた

が︑文部卿.農商務卿時代の河野は︑伊藤博文の﹁内話﹂では︑ある時は板垣退助を推挙してみたり︑またある時は

伊藤に対し密かに﹁圧制ニテモ︑今ヨリ三十年位ハ可行︑然ハ︑圧制主義ナレハ︑其ノ方向ニテモ勉強スベシ﹂と勧

明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶       ︵都法五十−二︶ 二七一

(20)

二七二

      ︵60︶ めてみたり︑﹁心事都ベテ一定セズ﹂の﹁不可信ノ徒﹂として描かれている︒ここでは︑どちらが河野の本性かとい

う問題ではなく︑元老院において河野が何を代弁しようとしていたのかという観点から検討していきたい︒

 河野が兵隊教練に反対するのは︑﹁各所無産ノ小民ハ其活路二迷ヒ怨声四方二鴛々トシ﹂ている現状でそれを導入

すれば﹁民力二耐ヘサルノ費用ヲ浪費シ︑厭悪スヘキ殺伐ノ気象ヲ賛成スルノ不祥﹂を招く︑という理由からであっ

︵61︶

た︒ここで指摘しているのは︑兵隊教練の導入によって本課がおろそかとなり児童が粗暴化するという問題と︑下

層民の生活困窮の中で導入すれば﹁目下ノ急務﹂である費用減省と民力愛養に反するという二つの問題である︒

 まず︑前者についてみれば︑兵隊教練によって勇気や従順などの徳を酒養しようとする論者と完全に立場を異にす

ることは明らかである︒例えば阪谷素は中小学校において﹁刀槍柔術棒ヲ使フノ法﹂と共に﹁木銃木炮﹂による﹁兵        ︵62︶ 隊調練ノ下習﹂を行うことで﹁順良ノ習﹂﹁強勇ノ気﹂を養い﹁愛国ノ胆力﹂を盛んすることを主張した︒また森有

礼は兵式体操と兵制との直接の関係を否定しつつも︑スイスなどを範とした兵式﹁強迫体操﹂により﹁勇気ヲ含メル       ︵63︶ 健康ノカ﹂を養うことを提言した︒この元老院会議が行われていた時期は︑﹁尚武振武﹂を呼号する﹁兵隊論﹂が流       ︵64︶ 行し︑各地で撃剣会などが盛んに開かれていた︒翌年には明治日本の﹁文弱の弊風﹂を批判し︑﹁勇進敢為﹂﹁活発       ︵65︶ 壮快﹂﹁侠義廉節﹂の気象を養う必要を説いた尾崎行雄の﹃尚武論﹄が江湖に受け容れられる︒兵隊教練案の審議で        ︵66︶ も︑すでに見た大給のみならず︑中島も﹁邦国ヲ維持セント欲スレハ勇敢ノ気ヲ作興セサル可ラス﹂と主張してい       ︵67︶ た︒河野は﹁本邦ノ風俗ハ尚文ニアラスシテ好武ノ気象アリ﹂と述べていることから︑﹁文弱﹂化してきた日本社会

を﹁尚武﹂推進によって矯正すべきと主張する論者とは正反対である︒

 この姿勢は︑文部卿として出席した教育令改正案審議に引継がれている︒河野は﹁武技﹂を小学校の課目に盛り込       ︵68︶ むべきと主張する楠本正隆らを以下のように批判した︒

(21)

  武技ト体操トハ似テ大二非ナルモノナリ︒武術ハ以テ体育二功アルモノニアラス︒修正諸子ノ意ハ全ク軍備ヲ目

  的トスルカ如シ:::小学ノ教ハ文学以テ精神ヲ養ヒ体操以テ身体ヲ育スルヲ主眼トス︒陸軍現行ノ兵制ハニ十

  歳以上ノ者二適スト錐モ之ヲ十歳前後ノ小童二移用スルヤ決シテ其体育二適セサルノミナラス却テ患害アリトス︒

  ︵﹃会議筆記﹄前⑨七八二頁︶        ︵69︶  河野は﹁武技﹂と﹁兵隊教練﹂と﹁体操﹂との間に明確な区別を立て︑児童の﹁健全ヲ保チ心気ヲ発スル﹂ことを

助けるのは﹁体操﹂だけだ︑と主張している︒河野の腹心である内閣委員島田三郎が指摘するように︑﹁武技﹂導入       お  派の言う﹁武技﹂とはその内容が明確ではなく﹁種々ノ元素ヲ混合﹂させている︒ある者にとっては﹁武技﹂とは撃

剣のようなものであり︑ある者にとっては兵隊教練のようなものである︒河野はもし﹁武技﹂が﹁弓馬槍剣ノ如キ不  ︵71︶      ︵72︶ 用物﹂を意味するならば﹁徴兵ノ下稽古﹂にならないし︑﹁古来剣客必ス健全ナラス力士却テ健全ナラサルモノ﹂が

多いから︑健康増進にも役立たないと主張した︒また︑それが武術ではなく﹁陸軍現行ノ兵制﹂に準じた教育を意味

したとしても﹁患害﹂を生じる︒この姿勢は一般学校ですでに横行していた﹁軍式ノ体操﹂を否定し︑体操伝習所を        お  設立して﹁保健目的の軽体操﹂を導入しようする文部省の既定方針に沿ったものであると同時に︑文部卿就任以前か

ら抱かれていた思想の延長線上にある︒

 河野が兵隊教練に反対する第二の理由は︑現在の政府の最大課題は費用減省・民力愛養であり︑教練導入はそれに

害をなすという主張である︒

  目下ノ急務ハ費用ヲ減省シ民力ヲ愛養スルヲ以テ主要トス︒然ルニ本按ヲ発令スレハ各府県二於テモ争フテ其課

  程ヲ設ケ之ヲ履行セント欲シ其教練場ヲ設ケ其機械ヲ購備シ︑為二許多ノ経費ヲ徒費スルハ論セスシテ知ルヘシ︒

  ︵﹃会議筆記﹄前⑦六〇二頁︶

明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶       ︵都法五十−二︶ 二七三

(22)

二七四

 費用をはじめとする教育にかかる負担が人民生活を圧迫していることは︑文部省内でも﹁学区巡視功程﹂などです

でに指摘されていた︒例えば西村茂樹は﹁貧村僻邑ノ学校ハ教則ヲ簡ニシ時刻ヲ短クシ︑一ハ学校ノ費用ヲ減シ一ハ       ︵74︶ 生徒二家事ヲ弁スルノ時刻ヲ与フル﹂ことを主張し︑九鬼隆一も﹁中等以下ノ人民﹂は貧しさと苦境の中で子供を重       ︵75︶ 要な労働力としているから︑﹁貧富生産土地﹂に相応した学則や就学期間を定める必要を説いた︒河野は﹁各地方ノ実       ︵76︶ 際ヲ観察スルニ従前ノ学校費ト錐トモ殆ト民力二耐ヘサルニ方リ更二此課目ヲ増加シ之ヲ重困セシムルニ忍ヒス﹂と

述べている︒兵隊教練は﹁徴兵ノ為二損々タル便宜﹂をもたらすかも知れないが︑多額の経費を町村協議費から支出

することになるので﹁一般人民ノ疾苦﹂に帰結すると考えていた︒

 費用減省・民力愛養というテーマは︑明治一〇年一月の地租軽減以降︑元老院における河野の取り組みの中心をな

しており︑一朝一夕のものでない︒それは時に他の獲得目標−例えば司法権の強化1を上回る重要性を与えられ

ていた︒これまでの研究ではこの点に関する言及が少ないので︑やや詳しく見ていくことにしたい︒

 ﹁地租軽減の詔﹂と同月に元老院に下附された﹁大審院及裁判所職制章程井控訴上告手続改正案﹂審議はその好例

といえる︒この改正案は圧倒的多数の議官から司法制度そのものの破壊として受け止められた︒大審院で行われる

﹁合員会議﹂や︑公判は複数の判事で行うべきこと︵大審院は判事五人以上︑上等裁判所は判事三人の﹁列庭﹂が必

要︶を定めた条項が完全に廃止されていたからである︒これらは内務卿大久保利通の主導で行われた地租軽減に対応       ︵77︶ する官省人員整理の一環として企図されたものであるが︑裁判を複数の判事で行うこと︑重要案件は合議をもって決

することが公平な裁判維持のために不可欠と考えていた多くの議官は激しく反対した︒﹁大宝ノ式︑北條氏ノ法︑旧幕       ︵78︶ 府ノ評定所一座︑皆是レ合員会議ノ法ナリ︒今ヤ開明隆治ノ日二方リ却テ之ヲ廃スルノ理ナシ﹂と主張した津田真道︑        ︵79︶ ﹁公審明判ヲ表シテ怨民ナカラシムル﹂精神を除却するものと抗議した佐野︑﹁財用ノ節度ハ已ムヲ得スト錐トモ︑判

(23)

      ︵80︶ 事ハ法衙ノ精神﹂と主張した佐佐木高行らがその代表である︒

 ところが︑このような案件では真っ先に廃案もしくは大幅修正の先頭に立つはずの河野は︑内閣原案通り合員会議

や列庭裁判の廃止を支持した︒その根拠とされたのが︑﹁歳出費用﹂の節減を命じた﹁地租軽減の詔﹂である︒河野

       ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    へ の﹁節減﹂は︑﹁本年一月ノ 詔勅ハ会計上節減ノ事ニシテ冗官冗務ヲ省クヘシト云フニ非ス︒要用ノ事ニテモ省ク

ヘ へ        ヘシトノコトナルハ明瞭ナリ﹂︵傍点引用者︶と述べているように︑大審院のみならず元老院すら﹁極度ヲ論スレハ        ︵82︶ 本院トテモ閉ルコトアラン﹂というほど徹底したものだった︒

 多くの議官からは︑この問題は﹁元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ輩ク﹂することを

謳った明治八年﹁立憲政体漸次樹立の詔﹂︵立法権・司法権の確立︶と︑明治一〇年﹁地租軽減の詔﹂︵歳出削減︶の       お  間の矛盾と認識された︒河野は﹁斉シク 詔ナレバ後ノ 詔ヲ重ンスヘキナリ﹂と︑時間的に後の方に従うことで自

己解決していたのである︒

 かつて司法省の要職を務め︑元老院でもどの議官にもまして司法権拡充のために政府と対立してきた河野がこれほ

ど費用節減を主張した理由は︑﹁人民愛護﹂のための地租軽減を死守することであった︒

  減税ハ人民愛護ノ為ナリ︒然ラバ其裁判ヲ明ニスルコトノ為ニハ費途ヲ倍ムヘカラストノ六番﹇福羽美静﹈ノ説ハ

  理アルニ似タレト︑減税ノ為メ経費ノ節減ヲ要スル者特二大審院ノミニ限ルニアラス︒︵﹃会議筆記﹄前④四一

  頁︶  だが河野がここまで強硬に裁判所の縮小を訴えるのには︑﹁人民愛護﹂以外の理由もあるのではないかと考えるの

も自然なことである︒特に佐賀の乱処分の際に河野の上司であった大久保がこの改革を主導していることも念頭に置

く必要があるだろう︒大久保の改革大綱は﹁政体ノ組立ヲ簡ニスルコト﹂﹁外国人ヲ払フコト﹂﹁内務省工部省ヲ合併

   明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶      ︵都法五十−二︶ 二七五

(24)

二七六

スルコト﹂﹁上等裁判所ヲ廃スルコト﹂など一四項目にわたっているが︑財源不足はそれらを実現するための﹁禍ヲ       ︵84︶ 転シテ福ト成シ干載ノ好機会﹂と捉えられていた︒大久保への迎合が皆無とは言い切れまい︒だが河野は大久保暗殺

後もなお人民愛護と民力休養を執拗に主張し続けたことは事実である︒明治=年の﹁地方税中営業税雑種税ノ種類

及ヒ制限ノ儀﹂では︑﹁貧民ノ生活﹂を﹁第一主義﹂と主張し︑営業税と雑種税の種類と税額に関して﹁無用不急ノ        ︵85︶ 品﹂を扱う業者と﹁日用必需ノ品﹂を扱う業者を区別する修正を提案した︒また明治L二年に徴兵令改正審議とほぼ

同時に行われた﹁証券印税規則中改正追加案﹂審議では︑金高一〇円以上の﹁売品並職業二関スル金銭受取書﹂に印

税一銭を課していたのを﹁金高五円以上﹂に改正しようとした際︑﹁増税ヲ以テ主義トナス者﹂であると断じて撤回

を求めた︒政府はそれまで一〇円以上の取引に対して印税を課していたが︑その額に至らない取引が圧倒的に多いの

で︑課税対象額を引き下げようとしたのである︒河野はこれを﹁政府向二勅諭二基キ勤倹ノ令ヲ発セシモ︑必ス官       ︵86︶ ノ倉庫ヲ充積セシメンカ為メニアラス︒用ヲ節シ費ヲ省クハ税赦ヲ減シ人民休養ノ為メニスルニ外ナラサルヘシ﹂と

批判した︒兵隊教練反対意見は︑このような取り組みを前提として生れている︒

 次に︑河野の﹁費用減省﹂﹁民力愛養﹂が持つ意味を探ってみたい︒証券印税規則改正案の主任者は参議大蔵卿大

隈重信である︒河野と大隈は明治一四年の政変で共に下野し立憲改進党を結成する関係であり︑佐野と大隈は佐賀藩

出身者同士で︑翌明治=二年には会計部主管参議大隈ー大蔵卿佐野という関係で深刻な経済財政危機に臨むことにな

る︒佐野が﹁兵備教育其他百般ノ事項ヲ整備二至ラシムルノ難キヲ患フ故二︑之ヲ拡張セント欲セハ増税ヲ要スルモ       ︵87︶ 万止ムヲ得サルモノトス﹂と証券印税の実質増税に賛成したのに対し︑河野は明確に勤倹論に立脚して﹁大蔵省主導        ︵88︶ 体制による積極財政ー殖産興業政策﹂に敵対している︒河野が反対の根拠とするのは明治一二年三月一〇日の﹁勤倹

の聖旨﹂であり︑この聖旨は佐佐木高行︑元田永孚ら侍補グループによる﹁勤倹を契機とする現在の統治機構改革﹂︑

(25)

      ︵89︶ ﹁大蔵省主導体制に象徴される行政権の拡大に対する監視と介入﹂を目的とした政治改革意見書に淵源する︒河野は

佐佐木と親しい関係にある上︑侍補グループの提言は元老院の権限強化を含んでいるから︑河野にとって掲げやすい

錦の御旗ではあった︒

       ︵90︶  だが同時に勤倹論は民権派の中でも有力な財政論であり︑政府による民間への介入に反対する論調を含む︒例え

ば明治=年五月の起業公債一二五〇万円募集に反対した﹃朝野新聞﹄論説は﹁財政ノ要点トスル所ハ特リ政府ガ倹        ︵91︶ 素自ラ守リ勉メテ官庁ノ経費ヲ節省シ以テ府庫ノ欠乏ヲ補フニ在ルノミ﹂と主張していた︒同論説は冒頭で﹁物産

ヲ増殖シ内外ノ商売ヲ盛ンニスルハ抑モ政府ガ一国ノ人民二対シテ負担スル所ノ義務ナルカ︑将タ人民ガ各自ノ利害

二向テ勉強スル所ノ私力二放任ス可キカ﹂という問いを立て︑政府ができる﹁保護﹂とは物産増殖や商売昌盛の妨害

を取り除くことぐらいであって︑事業に直接手を下すことは﹁人民ノ私事﹂への干渉に他ならないと答えた︒河野は

必ずしも無制限の経済的自由を認める立場にはない︒例えば高利貸の規制について︑﹁無適法ナル事ハ人民ト人民ト

ノ間ニモ立入ルコトアルヘシ﹂とし︑ある程度の規制と負債者保護に賛成している︒これは︑どんなに高利であって       ︵92︶ も﹁人民契約上ノ利息ヲモ政府ヨリ制限スルハ不同意﹂とした中島信行とは異なる点である︒だが日本社会は自ら

を規律する能力を発達させることができるし︑現に発達させているという考えを抱いていたことも確かである︒

 例えば河野はアヘン販売・引誘の最高刑︵斬と絞︶を引き下げる意見書を提出したが︑その理由を﹁人智日ヲ追テ          ︵93︶ 開明シ各自相警戒スル﹂ようになった現在︑販売鴉片姻律に違反する者自体が少なくなったことに求めていた︒そ

のような社会の自己規律能力に対する信頼は︑時として明治政府が行う上からの民主化にさえ反対し︑﹁慣習﹂

を擁護する姿勢にも表われている︒区町村の金穀公借や共有不動産の売買に関して町村代表二名や不動産所有者の六

割の同意を義務づけた﹁各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則﹂審議では︑以下のような理由で議案に反対して

明治一二年元老院徴兵令改正審議の政治思想︵下︶      ︵都法五十−二︶ 二七七

(26)

二七八

いる︒   従来共有物ヲ売買スルニハ其共有者ノ承諾ヲ得サレハ能ハス︒既二辺郷遇師ニテハ秣場端場山等ニテ預少ノ草木

  ヲ苅得ルモ容易二其承諾ヲ得ル者二非ス︑且ツ是迄寄会ト称シ里正ノ庭前二集合シ議スル如キ慣習法アツテ梢公

  正ナル者ト云フ可シ︒然ルヲ今大政府ヨリ堂々タル法則ヲ公布セハ金穀ノ公借共有物ノ売買及ヒ土木ノ起功モ僅

  二総代二名ノ承諾ニナルコトナレハ︑好請ノ徒ハ之レニ意ヲ得テ公正ナル会同ヲ拒ミ却テ此総代二名ヲ篭絡シ忌

  揮スル所ナク本按ヲ以テロ実トナスニ至ラン︒此二於テ従来ノ善良ナル慣習モ終二地ヲ掃テ滅蓋スルニ至ラン︒

  ︵﹃会議筆記﹄前②三八二頁︶

 この議案の内閣委員の一人は民選議院設立建白書の起草者と目される古澤滋であり︑その狙いは区戸長の﹁独決専

断﹂を排し﹁民権辞暢ノ効﹂をもたらすことにあったにも関わらずである︒

 これらの審議で河野と最も鋭く対立したのは佐野であった︒佐野によれば︑日本の中等下等人民の有様から見て︑       ︵94︶ アヘンの流行と﹁支那ノ覆轍﹂を阻止できるのは死刑以外にない︒佐野は人民の自発的開明を全く信頼していない︒

  人智日ヲ逐テ開明シ各自相警戒云々ト云ト錐︑吾国ノ実況鉄道ノ設ケアル電信ノ建ツ錬化石室ノ成ル瓦斯燈ノ開

  ケタル等︑悉ク人民開智自立ノ功ヨリ成ルモノニ非ス︒皆政府之ヲ製造誘導スルモノナリ︒︵﹃会議筆記﹄前③二

  五八頁︶

 また佐野も﹁各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則﹂に反対した︒それは河野とは全く違い︑国政ですら﹁人

民協議ノ公論﹂を採用していないのに区町村で認めるわけにはいかないという理由からであり︑﹁一県ノ公益ハ県令        ︵95︶ 之レヲ計画シ︑一区ノ公益ハ区長之ヲ負担ス﹂という上からの指導を貫徹するためであった︒

 以上の点から明らかなように︑元老院において河野と佐野はやや極端な形で二つの国家構想を代弁している︒河野

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