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初唐詩人王勃生卒年考
1 唐 代 詩 人 新 疑 年 録
佃‑
植木久行
︹王勃の生卒年︺
○高宗永徽元年庚成(六五
〇 )
坐?‑高宗上元三年(=儀鳳元年)丙子(六七六)漢?享年二十七歳?︹生年の論拠考︺‖H﹃旧唐書﹄巻一九〇㌧文苑伝上の本伝には'「上元二年︹六七五︺'勃往交祉省父'遂出江中'為﹃採蓮賦﹄以見意。
其辞甚美。渡南海'堕水而卒'時年二十八」とある。これによれば'上元二年'二十八歳没'つまり逆算して太宗の
貞観二十二年戊申(六四八)生まれ'となりそうである。清の銭大師﹃疑年録﹄巻一や美亮夫﹃歴代名人年里碑伝総
表﹄などは'この立場である︹六四八生1六七五没︺。23ところが'王勃の伝記資料として最も古くしかも親友である楊桐の手に成る「王勃集軒](以下、揚序と略称)には'
命不与我'有涯先謝。春秋二十八'皇唐上元三年秋八月'不改其楽'顔氏斯姐。養空而浮'票生終逝。
とある。上元三年(六七六。十一月に改元して儀鳳元年となる)'二十八歳没であれば'その生年は逆算して貞観二十三年しようせいよく4己酉(六四九)となる。これは'前掲の銭大師らの説より1年遅い生まれである。清末の蒋清朝は'﹃王子安集詠﹄の
巻首にのせる楊序の注のなかで'この楊序の記事を全面的に信斬Lt
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旧︹唐︺書伝謂「穀在二年」。新︹唐︺書伝謂「卒年二十九」。皆誤。
と述べる。﹃新唐書﹄本伝とは'その巻二〇lt文芸伝上に'「父福時'嶺薙州司功参軍'坐勃放つ左遷交牡令O勃荏5省、度海溺水'凄而卒'年二十九」とある記述を指し'この享年「二十九」も誤りと断じるわけである。(﹃旧唐書﹄
に記す享年は揚序と同じ二十八歳)。
﹃旧唐書﹄の記述(前掲)は'じつは楊序と必ずしも矛盾するものではない。「上元二年」とは'王勃が交祉(ベトおうふく「)ナム北部)の父(王福時)を訪ねるために旅立った年をいっているのであって'王勃が上元二年に没したtと明言して6いるわけではない。この点は'すでに等仲勉が「王勃疑年」(「唐集質昏)のなかで'
第旧伝之上元二年'係叙事掲起法'勃非必卒於是歳。
と指摘するごと‑である。この意味で'蒋清朝の前掲の論はやや短絡的な捉えかたといえよう。他方'既述の銭大折
らの生卒年説も'同様な意味で論拠がかなり弱いと評せざるをえない。ちなみに'﹃旧唐書﹄の享年「二十八歳」は'
‑溺死説はともか‑
ー
'むしろ楊序のそれにもとづいたものと考えるのが自然であろう。このことは'清末の眺大栄が「書王勃<秋日登洪府謄王閣餓別序>後」(﹃情遺味斎集﹄文編所収)のなかで'楊序の「春秋二十八」を「蓋し7即ち旧︹唐︺書の本づく所」と述べていNP〜.
このように考えて‑ると'楊序の「上元三年'二十八歳投」説は﹃旧唐書﹄本伝の記事とも矛盾せずうはは定説と
見なしうる信悪性をもつようである。わが鈴木虎雄「王勃年譜」(﹃東方学報﹄京都第十四冊第三分、一九四四年)も'前
述の楢清朝の説を支持Ltまた聞一多「唐詩大系」に見える生没年「六四九‑六七六」も'やはり楊序にもとづくも
のであろう。
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ところで、楊序の「六四九年」生年説は'じつは大きな弱点をもつ。この説では'前掲の銭大師らの六四八年説と
同様に'王勃の作品中の紀年表記と‑い違うのである。琴仲勉の「王勃疑年」(一九三七年に成る「唐集質疑」︹前掲︺所
収)にいう'
①王勃「春思賦序」に'「成享二年︹六七一︺'余春秋二十着二㌧旅寓巴萄」(巻一)とある。これによって逆算すれ
ば'王勃の生年は高宗の永徽元年(六五
〇 )
となる︹揚序の六四九年説より一年遅い︺。ママは9②王勃「遊山廟(請)序」に'「吾之有生'二十載英'‑‑卑以勝友良暇'相与遊玄武西山廟'蓋萄郡≡霊峰也」マて(巻七)とある。王勃の入局の年は'その「入萄紀行詩序」に「総章二年︹六六九︺五月突卯︹二十六日︺'余日常︹長︺安観景物於萄'遂出褒斜之臣道'抵眠峨之絶径」(巻七)とあることによってへ総章二年であることがわかる。総章
二年(七七九)'二十歳ならば'論拠①の「成亨二年︹六七一︺、二十二歳」の紀年と符号する。︹二つの作品が︺か‑も
都合よ‑誤ることはあるまい。王勃の「遊山廟序」が仮に入局したその年の作でないならば'︹王勃の在萄期間は六六的九〜六七lのあしかけ三年間のみであるため'王勃の生年は六五l年以降となり︺'旧説の生年︹銭大師らの六四八年説を指す.
ちなみに、楊序による六四九年説でも同様である︺からますます離れてしまう。
③揚序に、「年十有四㌧時誉斯帰。太常伯劉公巡行風俗、見而異之日'﹃此神童也﹄。困加表薦」とある。﹃旧唐書﹄
巻四'高宗紀の竜朔三年(六六三)八月の条に'「命司元太常伯︹戸部尚書︺貿徳玄'司刑太常伯︹刑部尚書︺劉禅道等山九人為持節大使'分行天下。仇令内外官五品巳上'各挙所知」とあるのによれば'楊序の「太常伯劉公」とは劉禅的道を指す。竜朔三年、十四歳ならば'生年は六五〇年となり'︹①②と同じである︺。
脚①と②の論拠は'すでに清末の眺大栄「王子安年譜序」のなかに見える。またt等仲勉のあげた三つの論拠は'じ
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りゆうじよりんつは四年前に発表された民国の劉汝震「王子安年譜」(﹃師大月刊﹄第二期'一九三三年)のなかにも'すでにほぼ同様
の指摘がなされている。劉汝宗は論拠②についていう(要旨)0
楊序による六四九年生まれでは'初めて入局した総革二年(六六九)当時'すでに二十一歳であり'二十歳のとき
入局していたとする王勃の「遊山廟序」の記述と‑い違う。
劉汝憲はさらにまた'﹃新唐書﹄本伝の記事「麟徳(六六四‑五)初'劉禅道巡行関内'勃上書自陳'禅道表於朝」
を引用しっつ'論拠③について次のごと‑いう(要旨)0
劉禅道が王勃と会ったのは'明らかに竜朔三年(六六三)以後であるはず。もし六四九年(楊序)生まれならば'十ヽヽ四歳の時は竜朔二年であり'劉禅道とは会えない。これは楊序中の前後相矛盾する記述である。
ただし'論拠③に引‑楊序の部分は'「年十有四㌧時誉斯帰」と「太常伯劉公巡行風俗」云々以下を切り離し'そAThuれぞれ別の年のできごとと見なす捉え方がある。こうした解釈の異同がおこる一国は'王勃が「表薦」を期待して奉
った「上劉右相書」(巻五)が'作品名から劉祥道の右相在任期間(麟徳元年︹六六四︺八月丁亥︹十二日︺から同年十二月
戊子︹十五日︺まで。﹃新唐書﹄巻八、高宗紀による)の作と考えられるためである。問題となる箇所を'改めて次に列挙
してみたい。
④年十有四㌧時誉斯帰。太常伯劉公巡行風俗'見而異之日'「此神童也」。困加表薦(楊序)0
⑥麟徳初'劉祥道巡行関内'勃上書自陳'禅道表於朝(﹃新唐書﹄本伝)0
㊤命⁚‑・司刑太常伯劉禅道等九人為持節大使'分行天下(﹃旧唐書﹄高宗紀の竜朔三年の条)0
⑥と㊤によれば'劉禅道の関内道巡察は'竜朔三年(六六三)と翌願徳元年の二年間にわたる行為のようにも考えら
れる。この問題点について'徐俊「王勃行年弁正」(﹃文史﹄二十七輯'一九八六)には'ほぼ次のごとくいう。
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新旧﹃唐書﹄の高宗紀や劉祥道伝の麟徳元年八月の条には'劉祥道に右相を兼ねさせた記事のみで'関内道巡察
のことは見えない。﹃資治通鑑﹄巻二〇一の竜朔三年の条にも'「秋八月'‑‑遣司元太常伯貿徳玄等分詣十道'
問人疾苦'則捗官吏」とあり'﹃旧唐書﹄高宗紀の記事とまさに一致する。つまり'劉祥道らの風俗巡察は竜朔三
年(六六三)秋八月のことであって'︹﹃新唐書﹄本伝や眺大栄「王子安年譜」・轟文部「王勃年譜」のごと‑︺'麟徳年間のたてまつ初め'あるいは麟徳元年(六六四)のこととするのは明らかな誤りである。王勃の「劉右相に上る書」の執筆は'べ
旭つに劉祥道の関内道巡行のときではな‑'翌麟徳元年八月から十二月にいたる劉祥道の右相在任期間であるはずだ。ここき的‑‑楊序の「年十有四㌧時誉斯に帰す」真の原因は'竜朔三年における劉祥道の嘆賞「此れ神童なり」にあった。
楊序全体における文脈の展開からみても'「年十有四㌧時誉斯に帰す」の語は'上の文とは直接つながらず'また'
この二句を独立させて無理に解釈するよりも'徐俊の指摘するごと‑理解するのが最も穏当であろう。つまり'論拠
③ほ'同じ楊序の文でありながら'その六四九年生年説とは‑い違い'かえって王勃の作品紀年にもとづ‑六五〇年
説に合致するtという重大な意味をもつ。今日'六五〇年説が通説となっているのも'この意味でご‑当然のことで
ある。仇〟h‑か‑て'馬茂元「読両A唐書・文芸(苑)伝V札記」に収める「王勃伝」では'この六五〇年説を支持し(論拠は全‑同㈹じ)'楊序の享年「二十八」は「二十七」の誤りであるはずだtと主張する。「八」と「七」を誤るケースは'実際乏叫し‑ないようである。六五〇年生年説の論拠がもし①のみであったならば'「威享二年'余春秋二十有二」に対して'これまさ蒋清朝﹃王子安集註﹄巻1のごと‑'「盈川︹揚桐︺撰序に拠りて之を推せば'当に<二十有三>に作るべし」という
誤靴説も充分説得力をもつ。しかし'さらに②と③の論拠'なかでも③ほ'楊序のそれであることを考えれば'現在
のところ'六五〇年生年説ははば確定的であるといえよう。