秋 田地方 におけるロシア正教の展開
持 田 行 雄
AnExpa ns i onoft heRus s i a nOr t hodoxChur c h i nAki t aDi s t r i c t
MocHI DA Yuki o
は じ め に
芥川龍之介 に 『 神神の微笑』 とい う作品がある。小品 なが ら,芥川が外来思想 の受容 に見 られる日本人的な特 質 につ いて深 く考察 した作品 として有名である。そ して また, ここに芥川が展開 した 「 作 り愛へ る力」 に関す る 見解 は卓見 と言 うべ きであろう。以下 に少 しこの物語の 跡 を辿 って見 ることにす る。
或 る春 の夕べ,南轡寺 の庭を歩 いていたパア ドレ ・オ ルガ ンティノは 「 頚 に玉を巻 いた老人」 に会 う. 「この 園の藁 の一人」 と名乗 った老人 は天主教を弘めに来てい
るオルガ ンティノに向か って次のように語 りかける。
「 泥烏須( デウス)もこの園 に来 て は, きっと最後 には
負 けて しまひますよ」。 I
「はるばるこの園に渡 って来たのは,泥烏須ばか りで はあ りません。孔子,孟子,荘子, ‑ その外支那か らは哲人 たちが,何人 もこの園へ渡 って来 ました。 しか も昔時 はこの園が, まだ生 まれたばか りだ ったのです
。・・・。が,支那 はその為 に,我我を征服出来たでせ う か ?た とへば文字 を御覧なさい。文字 は我我を征服す る 代 りに,我我 の為 に征服 されま した ・・・我我が勝 った のは,文字 ばか りではあ りません。我我 の息吹 きは潮風 のや うに,老儒の道 さへ も和 げま した。」
「 支那の哲人たちの後 に来たのは,印度の王子悉達多 ( したあるた)です。 ‑ 」 「 悌陀の運命 も同様です」 。
たま りかねてオルガ ンテ ィノが口を挟む。
「 今 日などは侍が二三人,一度 に御教 に蹄依 しま した よ。」
「それは何人で も麻依す るでせ う。唯麻依 したと云ふ 事 だけな らば, この園の土人 は大部分悉達多の教へに韓 依 して ゐます。 しか し我我 の力 と云ふのは,破壊す る力 ではあ りませんo造 り撃‑ る力なのです。 」
そ して老人 は, ‑
「 事 によると泥烏須 自身 も,此の園の土人 に変 るでせ う.支那 も印度 も撃ったのですO西洋 も変 らなければな りません。我我 は木木の中にもゐます。浅 い水の流れに もゐます。 ・・・寺 の壁 に残 る夕明 りに もゐます。何虞 にで も,又何時で もゐます。御気をっ けなさい。御気を つ けなさい。 ・・・・・ ・」
そ う言 いなが ら夕闇の中へ姿を消 して行 った。 と同時 に寺の塔か らは,眉をひそめたオルガ ンティノの上へ, アヴェ ・マ リアの鐘が響 き始めた(1 )0
日本人の信徒 に背教者 はいない, いるのは離教者 ばか りだ, とよ く言われ る 。一 旦信仰 に入 った者が激 しい精 神的な懐悩の末, たとえ地獄 に堕 ちよ うとも, 自己の信 念に従 って,信仰の教えに背いてい く, あるいは,信仰 の欺臓性 に対 して果敢 に挑戦 してい くとい ったような背 教ではな くて,む しろ,入信 は した ものの何時の間にか 忘れ去 っている, あるいは,無意識 の うちに信仰か ら離 れて しまっているといったような離教が, 日本人 には圧 倒的に多いとされて, その 日本人的な 「 熟 し易 く冷 め易 い」性格が常 に非難 されて きた。
しか しよ く聞 くこの 「 通説」 は間違 っているのではな いか。む しろ芥川龍之介が 「 造 り愛‑ る力」 と呼んで喝 破 したような力が働いて,外来の思想や信仰 を我 々の う ちに取 り込 み 「 何時の間にか」造 り替 えて, これを屈伏 させて しまうのではないか。棄てて しまった り離れて し まったりす るので はな く, 自らの うちに取 り入れて 「 跡 形 もな く」同化 させて しま うので はないか。従 って, そ れは完全 に消失 して しまうわけではな く, む しろ, その 人物の活力 とな って新 しく展開す る働 きの原動力 とな っ てい くのではないか。
無論, その新 しい展開 は,時に芸術であ った り,文学 であった り,学問であった りと,様々な形を取 って表現 されることであろ う。 しか しその人の人格 とな ってその
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人 に展開するその活力 は,同化 されて見えな くなったと はいえ,かつては真剣に受容 された思想や信仰の働 きそ の ものなのではないか。そ してその受容の行為その もの が真面 目で真剣 なものであればあるほど,む しろ,その
ように言 うことが出来 るのではないか。
「 通説」 に反す るこの仮説を,芥川龍之介の教示に従っ て,検証 してみたい。無論, このような問題を一般論的 に論ずることは不可能であろう。従 って, ここで も特定 の対象領域に思考を限定 しようと思 う。 「秋 田地方 にお けるロシア正教 の展開」がそれである。従 って,本小論 では,秋田地方 に展開 されたロシア正教の布教の歴史を 解明す ることが目指 されているわけではない。む しろ, 正教徒 となって活躍 した秋田地方の信徒達が生 きて残 し た証 しのうちに, どのような信仰の働 き ( あるいは痕跡) を見て取 ることが出来 るのか。その倫理的な考察が目指 されている。すなわち,問題 は決 して歴史学的なもので はな く,優れて倫理学的な ものなのである。そ して,無 請,今回 もまた 「 倫理的実在論」の立場か らの考察であ
る。本小論 はその限定を負いつつ進め られよう。
1
武藤鉄城氏が 『 秋田切支丹研究』( 昭和55 年,翠楊社) の中で(2 ) , 「 金 を授 くるマ リヤ ・キ リス ト絵像」 とい
う面白い話を伝えている。それによると ‑
「 雲沢村下延字竹市の藤原藤一郎 ( 治右衛門家)家に, 基菅を抱 く聖母 の絵像 がある」 とい う。 そ して, この
「 絵像」の由来を次のように説明する。
明治初年, いっ も目の悪い治右 工門 という人が自分の 家で寺子屋を開 いていた。
子供達へはお膳の上 に抹香を敷 き,指で手習いをさせ, 一般へは百姓往来,商売往来等を教え,それ以上の者へ
は論語 ・中庸等を講 じていた。
この治右衛門 にフ ミという唄 コの上手な娘が居 り, こ の娘 に構沢村国見か ら仁吾郎 という大工を婿に貰 った。
仁吉郎 は 「 何を感 じてか」 , フ ミと共 に明治四年 に北 海道‑渡 り,二,三年居て戻 って来た。渡島は二十一歳
の時だ ったとい う。
そ して帰郷の際,仁吉郎 は不思議な絵像を持 って帰 っ て来た。「 金が欲 しい時, それを拝めば必ず授 か る」 と いう絵像である。
そこで早速,仏壇 にあった阿弥陀様や,その上の神棚 の御室等を叩 き壊 して川 に流 し,その代わ りにその絵像 を安置 して,礼拝 した。
「 現主 (3) ,藤一郎氏の御話 によると」, まず太陽を 拝み,それか ら何か長 い呪文を唱えて,絵像を礼拝 した
ものであるとい う。
寺子屋に通 って来た子供達 は仏壇の前の板の間を踏む と,その神様の目玉がクルクル廻って動 くと言 って恐がっ たということだが , 「キ リス トの顔 はロシアの小児 の様 に, 目玉がキロキロしているので,油絵など見たことの ない田舎の人達には,生 きて動いて見えたことであろう」
と鉄城氏は推測 している。
氏 は更に次のようにも推測する。
「明治四年 といえば,末だ禁教解放令の出ない時であ り,たとえそれは天主教でな く,ギ リシャ教であったか も知れないが,矢張 り耶蘇 は耶蘇である故,す ぐ内地へ 持 って来て礼拝 した ら,相当物議を醸 したであろう。」
しか し 「 禁教に怯えていて も,人々はその御本尊など 見たことも拝んだこともない故, どんなものとも知 らず, 仁吉郎が堂 々とそれを持 って来て も,不思議な神様を拝 んでいるとしか考えなかった らしい。 」
そ して鉄城氏が昭和八年の夏に訪れるまで 「同家の人 達 は勿論,寺子屋へ通 ったことのある老人達 も,唯仏壇 に不思議な神様があるとばか り語 り,それが聖母基菅の 像であると気付かないというより,寧ろわか らなかった」
という。
仁吉郎が この絵像を北海道で誰か ら譲 り受 けたのかは はっきりしない。大工の仕事を Lにいったロシア人か ら 直接受 けたもので もあろうか。 もし譲 り受 けたとしたな
らば,相当高い金を支払 ったか,大工仕事の手間賃 と棒 引 きにしたものであろう。
仁吉郎 は,絵像を入手 した時に伝授 された ものかどう か判 らないが,不思議な術を知 っていたという。
「 現主」のまだ若い頃,藤原長太郎の娘 ミヨ (8 歳) が危篤だというので仁吉郎を迎えに来た。仁吉郎 はその 家に行 き , 「 紙で何か呪を した」が, その紙 は,娘 が ま だ息のあるうちは, しきりに踊 るように跳ねていて,や がて娘が息を引き取 ると, メタメタと力な く延 びて しまったというのである。
仁吉郎 はまたよく歯痛を癒 してや った りもし た。その方法 は,病人の頬を柱 に付 けさせ,柱 と頬 との間に左記のように書いた半紙を二寸四 方程に折 り畳んで挟めさせ , 「正 月二月三 月」
という風に唱えて,やがて 「よしよし離れて く れ」 と病人を柱か ら離れ去 らせ ると不思議 に歯 痛が治 っているものであったそ うである。
仁吉郎 は大正 4( 1 91 5 ) 年 に死んだ( 4) 。 2
なお,本書の1 7 5 貢には 「 藤原仁吾郎 の信仰 したキ リ
ス トとマ リヤ像」 と題 してこの絵像の写真が掲載 されて
いる。かなり不鮮明な写真ではあるが,全体の構図か ら
見て, これ は明 らかにギ リシア正教が用 いるイコンであ る(5 ) 。 しか も多分 「ホデゲ トリア型」 と呼ばれ るタイ プのイコンであろ う。 ( 下 の写真参照)。
「ホデゲ トリア」の名称 は 「 道を導 く者」 ( 導 引女) の意味を持っが, その名の由来 は不明である。⊥般には, 聖母が右手 を胸 に置 き ( その指先 は幼児を救 い主 として 指 し示 している) ,左手で幼児 イエスを抱 く立像 と して
藤原仁吾郎の信仰 した キ リス トとマ リヤ像
描かれ る。幼児 は右 手 を上 げて祝福 し, 左手 に律法の書 ( 聖 書) を持っ場合が多 い。 この型のイコン は様々なヴァリエー シ ョンを持っが,広 く世界 に普及 して, 聖母子像 としては最 も数多 く措かれてい るものである。
写真 に見 る限 り, 仁吉郎が もた らした 絵像 はまさにこの 夕 イブのイコンである。
更 に, この絵像を正教 のイコンと特定 してよい幾っか の特徴 も見 られ るので,次にそれ らを鉄城氏の記録に従 っ て確かめてみよう。
第一 に, この絵像 は 「 縦一九.五 セ ンチ,槙一五セ ン チの色刷」 で , 「それを金縁額面 の板へ張 り付 けた もの」
であ り,更 にそれを 「 鞘箱 を作 って入れて置 いたので, 額 はあまり煤 けもせずにいる」 とい う( 6 ) 0
もしそ うであるな らば,仁吉郎 の絵像 は,携帯用のイ コンであった可能性が強い。
事実, ギ リシア正教会の信徒 は,単 に教会堂の内部 に イコンを飾 って 「 崇敬す る」 ばか りでな く, 自分 の家の 中に も飾 り付 け, いっ もこれを拝み,更 には,旅行の時 なども必ず携帯用のイコンを持参 して,旅館 の部屋等 に 展示 し,朝晩の崇敬を怠 らないのが普通である。
従 って,無論,一般 の人が正教信徒 の家庭か らイコン を入手す る場合 には,携帯用のイコンが最 も容易であっ た ことであろ う。仁吉郎の絵像 も, その大 きさや鞘箱 に 入れてあ った とい う点 などか ら, これを携帯用のイコン
と見 るのが最 も至当なので はなかろうか。
無論,何処かの信徒の家庭内に安置 されて,用い られ ていた もの と考え ることも出来ないわけではない。
とまれ, 当時の北海道で正教 のイコンが容易 に入手で きるよう一般 に市販 されていたというような記録 は見当 らない。 また,明治四年 といえば,未だ切支丹の禁教令 下 にあ った ( 禁教令の撤去 は明治六年 の ことであ る)0
従 って,入手 は多分,正教徒か ら直接 こっそ りと仁吉郎 に対 して行なわれた ものと考え るべ きであろう。
第二 に, この絵像が張 ってある板 は 「 割 に厚 く一 セ ン チ半 もあ り,歪 まぬ様 に二 セ ンチ幅の横木を二本通 して」
あ り , 「 縁 は今 日の ものの様 に下地 に石膏 を置 き, それ へ金粉を置いてある」 とい う( 7 ) 0
古来, イコンの板 ( 支持体) は,絵画の保存状態を左 右す るため,堅 さと安定性が大事 とされ,堅 い木 の詰 め 木 によって板の裏側を補強す るのが一般的であ った。具 体的には長方形 の板を縦 に二枚合わせ, その裏側 に横木 を当てて,一枚板のようにす る。 そ して板の表 には 2 乃 至 5 セ ンチ幅の枠を残 して数 ミリの深 さの凹みを作 り, テ ンペ ラ画法などによってイコン画像を描 くのが一般的 であ った。
また, イコンの枠取 りは,一種 の宝石箱 のよ うに,聖 なる像を保護す るための ものであ り,枠 それ 自体が聖 な る遺品を収める箱 ( 聖遺物箱)その ものを意味 していた。
従 って,枠の全体が極彩色 に彩 られた り,金粉 で飾 られ た りす るの もイコンを崇敬す る心 の当然の現れだ ったの である。
このよ うな従来のイコンの素材や制作法等 に照 らして 見 るな らば,上記の鉄城氏の記述す る絵像の様態がまさ にイコンその もののヴァリエーシ ョンであることもまた 首肯で きることであろう。
第三 に,鉄城氏 は, この絵像 について 「 絵のモデルは, 明 らかに露国人である。 そ して像の左右上 にロシア文字 がある」 と報告 している(8) 。無論,前半部分 のモデル が露国人であるとい うのは鉄城氏の即断である。写真で 見 る限 り,聖母子の容貌 にロシア人的な特徴が識別で き
るほどの ものは何 も措かれていない。
一般的に見て も, イコンは時間の流れや侵食 に耐えな ければな らないか ら,特定 の民族や種族 の風貌 を特徴 と す るような人物像 は描かれないことにな っている。 イコ ンに自己を現す人物達 はすべて既 に神の国 に住す る者達 なのである。
従 って, イコンの本質的な意味か ら考 えて も,単 に一 見 しただけで 「明 らかに露国人である」 などと断定で き
るようなことはまず無 いと言 ってよいだろ う。
しか し鉄城氏の後半部分 にい う 「 像の左右上 にロシア 文字がある」 という証言 は, まさにこれ こそイコンの特 徴を示す ものである。
一般 の絵画の場合,画面 に文字を書 き加え ることは先 ずないと言 ってよい。 しか し, イコンの場合,描かれ る 人物の頭上近 くにその人物 の名前 もしくは名前 の頭文字 が, ロシア正教の場合 はロシア語 によって, あ るいは, ギ リシア正教の場合 にはギ リシア語 によ って,書 き加え られ るのがむ しろ普通である。例えば, キ リス トの場合
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「IC XC」( イエス ・キ リス ト), また聖母 マ リア (テオ トコス) の場合 には 「 MP ㊤Y 」 ( 神の母) とい うよ うにである。
無論, このイコンの銘文 (イ ンスク リブション) は, そのイコンが措かれたり崇敬 されたりする国の国語によっ て表記 され る場合 もある。例えば, 日本最初の女流聖画 像画家山下 りんの作品の中には日本語 の銘文を持つイコ
ンも少 な くない。
何処の国の言語 によって表現 されよ うと,銘文 自体 は その人物 に本質的に結 びっ き, イコンに神的な ものの臨 在 を与え るもの として, イコンその ものを神聖な ものに 変え,時 には悪 に対す る力強い武器 ともなるものである
と信 じられている。
従 って,銘文 は必ず しも名前 もしくは名前の頭文字ば か りでな く,土地柄 との関連でその地方の言語 によって 様 々な名称が付 け加え られ る場合 もある。例えば, イコ ン画家のためにア トス山で作 られた手本帖には,次のよ うな一連 の名称が勧 め られている。
① キ リス トに関 しては , 「 全能者,救世主,生命の源, 慈悲深 さ者, イ ンマヌエル ( 神 は我等 と共 に在 り), 栄 光 の主」等々であ り,②神 の母 ( 聖母 マ リア) に関 して は , 「ホデゲ トリアの聖母 ( 導 く者の意) ,天使達の女王, 全ての人 の喜 び,悲 しむ者達 の慰 め,優 しき聖女」等々 である(9) 0
但 し,成立年代の古 いイコン等では, これ らの銘文 は 消失 して しまっていて, ほとん ど読み取れな くな ってい
る場合 も多 い。
仁吉郎 の絵像 にあ った とい う像 の左右上 のロシア文字 が果 た して このイコンに特有 な銘文であったかどうかは, 残念 なが ら,画像が不鮮明なために判断で きない。 しか
しその可能性 は十分 に高 いと言 ってよいだろう。
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以上, これまでの考察か ら見て,仁吾郎が秋 田地方 に もた らした絵像 は,ロシア正教会の使用するイコンであっ た と断定 して先ず間違 いないものと思われるが, しか し, 一つだけ気掛か りなことがある。鉄城氏の紹介文 に 「 光 輪」 に関す る言及が何 もないとい う点である。写真を見 て も 「 光輪」が措かれていたかどうかは判別で きない。
「 光輪」 はイコンに描かれ るほとん ど全ての人物の頭 部 の背後 に必ず書 き加え られ る光 の輪であり,それは, その人物を通 して天上 の国か ら地上の国へ と神の救 いの 光が射 して来ていることを意味す る。従 って, この 「 光 輪」が措 かれてあるか無 いかは,一般の絵画 と正教 のイ
コンとを判別す る重要 な特徴の一つになっている。
一般 には, その人物の頭部 の背後 に金色 に輝 く光の輪
が措かれ るに過 ぎないが, キ リス ト像の場合 は特別であ る。「 光輪」の中に太 い十字架が描かれ, その縦棒 の上 の部分の中に 「 0 」 ,そ して横棒 の左の部分の中に 「 E ? 」 , 右の部分の中に 「N 」が書 き込 まれ る. この 「O QN (ホ, オー ン ) 」すなわち 「われはあ りてあるもの」 は, キ リス ト自身がユダヤ教 のヤーウェ神以来 の神その もの であることを意味す る ( 創世記 3: 1 4 ) 。 そ して これ こそ まさに 「とこしえにキ リス トの名 」 「世 々 にキ リス トの 名」 ( 同 3: 1 5 ) なのであ り, この名の中にキ リス トは臨 在 して働 き,人々に神 の力 と祝福を与えるのである。
もっとも, イコンにとって この 「 光輪」が どれ ほど大 切 な ものであれ,長 い年月を経 るうちに薄 らぎ,遂 には 識別で きないほどに消失 して しまう場合 も決 して少 な く ない。現存す るイコンの中には古 くなればなるほど,判 別で きな くなっているイコンの方がむ しろ多 く見受 け ら れ るようである。
そ して, イコンを修復で きる資格を持っ者が正教会の 中に極めて少ないことや,修復 には極 めて高 い特殊 な技 能が要求 され ることなどか ら,教会内で大切 に用 い られ ているイコンで さえ も,修復 されないまま現在 に至 って いる場合が多いのである。
このような事情 は百数十年前 の北海道 において も同様 であ った と考え られる。否,む しろ当時の方がその条件 ははるかに厳 しか ったのではなかろ うか。 イコンを修復 で きる技術や資格を持っ人がほとん どいなか ったと考え ることの方がより当時の現実 に近 いことであろう。
もしそ うであるな らば,長 い間使用 され続 けて きたた めに , 「 光輪」の消失 して しまった ロシア正教 の イ コ ン を仁吉郎が入手 したとい うことも十分 に考 え られ ること なのである。
無論,全 くの非信徒が正規のイコンを模写 して, その 際に 「 光輪」を省 いて しまったイコンの模造品を仁吉郎 が持 ち帰 ったということも考え られないわけではないが,
しか し鉄城氏が紹介す るように, これが 「 霊験 あ らたか な」絵像であると信 じられていたという点か ら考えると, 教会 などの媒介を経ずに,単 なる普通の珍 しい一般的な 絵画 として仁吉郎の手 に渡 った ものであるとはや はり考 えに くいであろう。
とまれ,仁吉郎が持 ち帰 った絵像が本当にロシア正教 会のイコンであ ったとして も, なお, これを以て,記録 に残 る限 り,秋 田地方 にハ リス トス正教が もた らされた 最初の出来事であ ったと考えることは出来 ない。 それ は この絵像が極 めて東洋風の呪術的な取 り扱 いを受 けてい た とい う事実か らも容易 に うなずけることである。鉄城 氏が伝える報告の中に, ロシア正教の信仰を思わせ るよ うな何かを見出だす ことはほとんど不可能だか らである。
従 って,仁吉郎がイコンらしい絵像を秋田にもた らし,
これに呪術 まがいの信仰を与えていたという事実 は, ロ シア正教が秋 田地方 に知 られるようになった最初期の出 来事であったということではな くて,む しろ, 目新 しい 外来の宗教信仰を当時の日本人が, どのように受 け入れ て来ていたかを示す格好の資料 として取 り扱われるべ き 出来事 なのではあるまいか。あの芥川龍之介の語 る 「 造 り髪へ る力」が働いて残 された一つの結果 としてみなす べ きなのか も知れない。それに して も,あまりにも見事 な 「 造 り撃へ」であったと言 ってよい。おそ らく, これ は我々日本人 とは誰であったか, また誰であるかを知 る 手掛か りを与えて くれる最 も貴重な出来事の一例なのか
も知れない。
この問題を もう少 し深 く考えてみたい。そこで次には, 秋田地方 にロシア正教がいつ頃どのように して伝え られ
るようになったかを,特 に大場 ( 鹿角市)地方への伝播 を中心 に考えなが ら, この問題を掘 り下げてい くことに す る。
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伊多波英夫氏によれば,秋田県 におけるキ リス ト教の 始 まりは 「明治十六年,仏人ベル リオーズ司祭によって 秋田市楢山表町に設 けられた天主公教会」であったとさ れているという( 1 0) 。無論,教会の設立 ということでは な く,個人がキ リス ト教信仰に触れたということである な らば,そ してまた, ここに云 う 「キ リス ト教」の中に ロシア正教を も含めるな らば, この時期 はもっとず っと 早 くなるはずである。
例えば,既 に明治 6( 1 8 7 3 ) 年 に箱館において‑ リス ト ス教の教えを聞いて,領洗 ( 受洗) した者の中に秋田人 の西村長吉 (イヲアン)がいる。長吉 は故郷の大館にい た頃, ニコライ司祭に日本語 を教えた木村謙賓か ら正教 のことを聞いていたので,箱館の小山寓次郎 ( 会津の人) 方 に至 り,試みにハ リス トス教の講義を聴聞 した。 この 時,パ ウエル田手 によって神の存在や世界開聞のことを 聞 き,その真理を認めて遂 に領洗 したとい う。その後, 長吉の実父 も領洗 したが,そのことが妻の実父の太田某 に知 られ ることとなり,怒 った太田は 「 信仰を棄てざれ ば,其妻を去 るべ し」 と棄教を迫 り,遂 に妻を自家に引 き取 って しまった。 しか し,長吉 は 「 侶令其妻を去 るも 正教 に反 く能 はず」 として遂 にその妻を離縁 して しまっ
たというのである( l l ) 0
イヲアン西村のその後の消息については不明であるが, 彼が秋田の人 としては最 も初期のハ リス トス正教信徒の 一人であったことは間違いないであろう。 しか も彼は, 仁吉郎などと異 なり,明 らかに自覚的な信徒,すなわち 教義や信仰の内容をある程度 は弁えた信徒であった。 と
同時にまた,外来の信仰が 日本の風土 に同化 し土着化 し てい く過程において必然的に生 じる様々な確執や苦難を も十分 に体験 した信徒で もあった。 しか しこれは秋田か らは程遠い箱館での出来事である。従 って,秋田地方へ の伝道の魁 とみなす ことは出来ない。
『花矢大館地方史』の明治 1 3( 1 8 8 0 ) 年の項には 「 是頃 ギ リシア正教鹿角を中心に伝道 される」 とあり,続 いて 明治 1 8( 1 8 8 5 ) 年の項に 「 是頃ギ リシア正教信者十数軒を 数える ( 花矢大館地方) 」 と出ている( 1 2 ) 0
明治十年代に入 ってか ら,急速 に日本ハ リス トス正教 の教練が大館地方を中心 に拡大 していることが知 られる のである。
この教線の拡大 については西村長吉のように, はっき りと個人名によって も知 ることが出来 るので,次 に幾人 かの場合について確認 しておこう。 ( 無論, この場合, 教会の設立 という問題はまた別の問題になるはずである) 0
Ⅰ . [ 山中祐伯]
ア レクセイ山中祐伯師が,大館地方 に‑ リス トス正教 (ロシア正教)の布教を行な ったのは明治 1 0( 1 8 7 7 ) 年 の ことであった( 1 3) 。
山中祐伯 は 「 友伯」 とも, また 「 祐博」 とも書かれて いるが,牛丸康夫氏をはじめ ( 1 4 ) すべての資料が これ ら 3 つの名称をすべて同一人物のものとみな してお り, こ れを疑 うべ き根拠 も見当 らないので,差 し当 りこの問題 には触れないことにして,以後 はすべて同一人物 とみな し 「 祐伯」の表記を用いることにす る。
聖名をア レクセイというこの人物の生没年 は残念なが ら不祥である。
明治 5( 1 8 7 2 ) 年,ニコライが上京 し,箱館地方の伝道 はアナ トリイ神父 に委ね られた。そ して明治 7( 1 8 7 4 ) 年 には,ペ トル笹川,ペ トル河田, アン ドレイ小関, ロマ ン柴田,パワェル岡村等 と共 にア レクセイ山中 も箱館地 方の 「 侍教師」 と定め られている。
しか し,翌明治 8 年 には,長女のウェラが永眠 し,そ の埋葬二墓地をめ ぐって深刻な問題を引 き起 こした。当 時,‑ リス トス正教の信徒 にとって埋葬 と墓地をめ ぐる 問題 は極めて深刻なものであった。その山中祐伯の長女 の場合が石川喜三郎の 『日本侍教誌』に記録されている。
正教の信徒達が置かれていた当時の状況を極めて判 り易 く伝える資料で もあるので,少 し長 くなるが ここの全文 を以下に引用 しておこう。
「 一千八百七十五年 ( 明治 8 年)の一月に,アレクセ イ山中の長女 ウェラ永眠 したるを以て,父 ア レクセイ山 中は官に届け,墓地を高龍寺 ( 前 に同人妻 アンナを葬 り たる寺)に得ん事を談 じ,ハ リス トス教の式を以て葬 る べき旨を寺僧に告げたり。寺僧は此事を官 に告訴せ しか ば,官 ・ア レクセイ山中を召喚 し,改宗するにあ らざれ
‑2 7‑
ば,墓地を輿へざる旨を告 げたり。 アレクセイ山中 これ を所 じて日 く,長女並 に我等 は,既に虞神を尊信 し,豊 異宗の埋葬式をなすを得んや, これ塵神の誠命に戻 るの 罪な りと。官吏日 く,果 して然 るか,我債の主 とす る所 は虞神の命 に在 り, もし政規 に反する者あらば,他 日そ の審判を過かんと。然 るに信徒中, ア レクセイ山中に向 ひ,外国人の墓地 に埋葬 してこの難を免 るべ Lと勧むる 者ありLも,山中はこれ日本人の為すに忍びざる所,且 ・
日本の法律を免れんがため,外囲人に親 らんとするは最 も不可な りと論 じ 寧ろ法律違反の庭分を受 くるに若か ず とな し,衆信徒 またこれに同意 し, アナ トリイ師私倍 の墓地 に埋葬せ り。 アレクセイ山中はこれがために,育 の調べを受 けたりしも,別に庭分 もな く,僧侶輩 はこの 事件を利用 して,‑ リス トス教に反抗せんと試みたるも, その目的を達せぎりき 。 」 ( 1 5) 0
山中祐伯 はアナ トリイの下で酒井篤躍,鈴木富治等 と 共に熱心 に伝道 に携わ り,明治 1 0( 1 8 7 7 ) 年には,秋田県 北部の伝道を行い,後の曲田教会の基礎を作 ったが,残 念なが ら,その後の消息 はほとんど知 られていない。
僅かに明治十一年五月三十一 日の 「 七一雑報」が 「 魯 合の山中氏」 に関 して,次のように伝えている。
「 三月十六 日の事 とかや弘前教合 の本多欝( いつき)氏 は秋田賄下羽後園大館 に赴 きて魯合 の山中氏 に避近 し ( 箱館 より派出せ し人 にて元舎津産 の嘗生 なれ ども近年 専 ら侍道 に尽力( ちからをつく)し居( いる)なり)氏 は旅宿 に 講搾場を開 きたれば聴聞人凡四百三十名 も来合ありたる 故二人 はこれに気を得て盛かんに福道を弘布せんとせ L に豊計 らんや巡査の妨障( さまたげ)にあひ思ふま ゝに果 し 得 ざりけり」
そこで翌 日 「 警察所 に出頭 して警部 とおぼ しき人 と対 談」 したが, このような人民保護の官吏です ら 「 妄説 に 迷惑 している程なれば況 して人民( ひとびと)をやされば我 傍 はいかで黙止すべ さぞといひ捨て旅宿に帰 り其晩 も講 場を開 きしに余程の聴聞人 にて随分盛かんなりLとぞ」
とある( 1 6) 。
無論,本多粛 ( 1 851 ‑ 1 9 4 5 ) は, 弘前数台 のキ リス ト 者であり, 日本キ リス ト教界の指導者の一人であった本 多庸一の弟であるが, ここに云 う 「 魯合の山中氏」がロ
シア教合の山中祐伯であることもほぼ間違いの無いとこ ろであろう。
なお, この資料 は, 日本における最初期の基督教伝道 が,教派や分派などの対立を越えて,一致団結 し,協力 し合いなが ら布教 にあたっていた事実を知 ることの出来 る貴重な資料で もある。
とまれ,山中祐伯 は明治 1 0 年 1 0 月頃に大館地方 に出張 して伝道を開始 し,その後一旦箱館に帰 ったが, また明 治11 年 3 月頃に再び戻 って来て伝道の講義に当た り,大
館地方にロシア正教の種を播いたものと患われる。
なお,上記の石川喜三郎資料 に見 られる仏基の対立 と それに対す る官の対応等 は, これか ら考察す る角館事件 などにも典型的に現れてをり,極めて注 目に値するもの である。
Ⅱ. [ 小松箱蔵]
秋田地方への‑ リス トス正教の普及に関 しては, もう 一人決 して忘れることの出来ない人物がいる。小松埼蔵 ( 1 8 42 ‑ 1 91 2 ) である。山中祐伯 は伝教者であったが, こ ちらは司祭にまでなった。
小松韓蔵( トウゾウ)は旧仙台藩士,陸奥園宮城愛子 の出 身である。相沢源七氏 によれば( 1 7 ) 「 仙台の小野荘五郎
宅で同藩の知人 らが正教を学ぼ うと話 しているのを聞き」
志願 して明治 4( 1 87 1 )年に箱館 に渡 ったという。そ して 米国船で密航を企てたが果たせず,開拓使庁開拓学校の 使用人になって揮遠琢磨 らと相識 るようになる。やがて 影田孫一郎にニコライを紹介 され,開拓学校に入学 して 受洗。聖名をティトといった。
ニコライか ら教育を受 け,箱館で福音を宣べ伝えたが, 明治 5 年にはニコライに伴われて小野荘五郎 と共 に上京
し,麹町 ( 山手)教会の設立 に参与す る。 そ して翌年か ら山形県や静岡県伊豆地方等 に伝道 を行い,司祭 になっ てか らは函館教会を管轄 ( 82 ‑ 9 1 ) し, しば しば青森, 大館,鹿角,久保田 ( 秋田)地方を巡回 した。また稚内, 利尻,礼文,釧路,根室,南千島にまで足跡を印 して も いる。
なお, このティト小松司祭の伝道業績 について も 『日 本正教侍道誌』が次のように伝えている ( 1 8) 。
「 又秋田地方 に教合の起 りたる嘗初 も,他 より同地方 を管轄す るの便を得ざりしかば, テ ィ ト小松司祭 は同 じ
く此地方を管轄せ られ,屡々津軽海峡を経て青森に渡 り, 大館を経て鹿角,久保田地方 に巡廻せ られたり。故 に昔 時小松師父 は北海道の北端より,内地の羽州を管轄せ ら れて,東奔西走その辛努 もとより筆紙の毒す所にあ らざ りき」 と。
秋田地方 にどのようなルー トを辿 ってハ リス トス正教 が伝え られたかという問題 は, しば しば論争 されている ところであるが, この資料で見 る限 り,函館,青森,大 鰭,鹿角,久保田のルー トが一般的であったように思わ れる。
とまれ,小松靖蔵が秋田地方におけるハ リス トス正教 の展開に極めて重要な役割を担 っていたことは上記の資 料等によってよく理解 されるところであろう。
5
伝教者山中祐伯や小松裾蔵司祭等の活躍 によって秋田
地方 にもハ リス トス正教の布教が行なわれるようになっ たとして,なお,秋田地方 に,その名を後世に留め得た ような秋田出身の‑ リス トス正教徒が活躍 し始めるのは.
一体いっ頃か らのことであろうか。
無論,明治 4 年の仁吉郎 は論外 として,明治 6 年 に領 洗 した西村長吉 も,たとえ故郷が大館であったとしても,
その活躍 は多分函館が中心であったか ら, これ もまた秋 田地方 において活躍 した最初の信徒であったとは言い難 いであろう。
Ⅲ. [ 目時金吾]
一般的には,鉱山地帯だ った秋田地方 は隠れ切支丹が 身を潜めるのに格好の土地柄であった。 そうした歴史的 な背景 ・土壌を受 けて , 「 函館か ら最初 にニ コライの教 えを県北地方 にもた らした」のは十和田湖岸七滝村の目 時金吾であったと云われている( 1 9) 。
目時金吾 ( 1 86 4‑ 1 940 ) は,その活動の範囲か ら見て, これか らここに登場する人物の誰よりも比較的ポピュラー である。以下 に 『 秋田人名大事典』 ( 2 0) や 『日本キ リス ト教歴史大事典』 における岩間正光氏の紹介文( 2 1 )等を 頼 りに,多少の私見 と考察を加えなが ら,その生涯につ いて簡単 にまとめておこう。
目時金吾 は陸奥園鹿角郡七滝村荒谷の士族出身である。
元治元年 に生 まれた。初め医師を志 して箱館に渡ったが, 酒井篤頑の感化で宣教師ニコライの説教を聞 き,明治11 ( 1 87 8) 年 に受洗す る。 この時の立会人が当時まだ箱館に いた伝教者の山中祐伯であ った。そ して 3 年後には東京 神田の正教神学校 に入学する。「 人 の病 を癒す医学 よ り
も人間の精神を救 う宗教家の道を進 もう」 というのがそ の入学の動機だったという。
神学校の同期生 には小西増太郎や金須嘉之進等がいる。
卒業後 は伝教者 として各地に布教 し,明治36( 1 90 3) 年 には司祭 に叙聖 される。翌年, 日露戦争が勃発 した。 日 本正教会 はこの時, ロシア軍将兵の捕虜 に宗教的慰めと 聖務を行な ったが, 目時 も福岡捕虜収容所付司祭に任ぜ られ,大里や小倉の収容所まで も含めて活躍 している。
司祭 として前橋,横浜,函館の正教会を経てか ら,大 正 2( 1 91 3) 年 に,京都正教会に転任する。多年 ここの管 轄司祭であった三井道郎が東京本会に移 った後任 として 京都正教会管轄 となったのである。
また教会附属の京都正教女学校で,聖書,教義,教会 史等の講義を担当 し,校長 も兼任 した。京都大学のロシ
ア語講座の講師にも迎え られている。
昭和 6( 1 9 31 ) 年 には病気による辞任が認め られて郷里 に戻 り,病気静養中であったが,昭和1 0( 1 935 ) 年か ら 1 5 ( 1 9 40) 年 まで秋田地方の臨時管轄を委託 されて,ハ リス
トス正教の普及に努めた。 また,長年の功績が認め られ て長司祭の称号が贈 られている。
明治後期,秋田県キ リス ト教会の中で,大湯の正教会 が県内第一位の信徒数を占めたのは ( 後述), この目時 と彼の信仰を継承 した千葉佐惚治等の活躍 によるもので ある( 22 ) 0
Ⅳ. 【 干葉佐惚治]
千葉佐惚治 ( 1 85 8‑ 1 93 0) は, 陸奥園鹿角郡大場 に生 まれた( 2 3) 。祖父の十郎 は戸田一刀流の達人であったと いう。佐惚治は,明治1 0( 1 86 8) 年の西南戦争の時に新選 旅団編成の巡査募集に応 じて上京 し,乱平定の後 に帰郷 した。当時はまだ1 9 歳で,大湯45 人の一行中,最年少で あったという。
諏訪富多氏はこの間の事情を次のように伝えている。
「 大湯の隊士 は宮城吹上御苑に謁見を賜 り明 日戦地 に 出発 という時に,戦 は終わ ったという報告が来て,東京 を見物 して帰国 したとい うことです。後 に大湯キ リス ト 教信者の大先覚 となった千葉佐惚治 ( 温郷先生) は二十 歳で隊士の最年少者であったといいます」 ( 2 4) 。
帰国後,佐惚治はやがて七滝村の目時金吾か ら信仰を 継承 して,明治1 3( 1 8 80) 年 5 月には川股 ( 酒井)篤種 よ
り洗礼を受 けた。聖名は 「テモフ イ 」である。
佐惚治は郷里にあって,大場小学校の教員を務める傍 ら熱心に正教を伝道 し,後に彼の後継者格になる浅井末 吉 ( 小魚)等を信仰に導いている。
後年 は村議,郡議等 も歴任 した。
佐惚治はまた 「 温郷」 と号 して俳人 としても活躍 した。
諏訪富多氏が佐惚治の俳句 に関する考えを紹介 して次 のように語 っている。
「 千葉先生 は大場キ リス ト教の大先輩でありますが, I 政治産業方面にも大場にとっては偉大な功績を残 された のです。今 ここには俳句 についての先生の御考を紹介 し てお くことにとどめます。その句の序文 に , 「余俳名 を 温郷 と称 し, 自ら師な く独 り至上者の仁慈 と聖知を賛美 し,静かに宇宙に遊ばん と,気 に浮かべるままに俳句を 作 りて自ら楽 しむ」大正十年一月始め句を作 るとありま す。 もっともそれ以前 に先生の和歌 もあ ります。私 ( 罪 訪富多)の母の伝 うるものによります と,
釜の湯のにえ立つ庵の軒ばには よの塵 はらふ松風ぞ吹 く
というものを私 は記憶 しております」 ( 2 5) 0
なお,関東学院長 になった坂田佑 もこの千葉佐惚治の 教え子である。
Ⅴ.[ 坂田佑]
坂田佑 ( 1 87 8‑ 1 9 69) は,関東学院 の創立者 であ る。
先祖 は会津藩士だったが戊辰戦争 に敗れ,両親の時に大 場 ( 現鹿角市)に移 っている。佑 は大湯で明治1 1 年 2 月
に中村富蔵の次男 として生 まれた。
大場小学校に入学 し,千葉佐惚治の薫陶を受 けたが,
‑
2 9‑家が貧 しか ったので満足な教育 も受 けられず,不老倉鉱 山で働いている。明治 3 1 ( 1 8 9 8 ) 年,徴兵検査の時,陸軍 教導団の募集 に応募 して入団 し,成績が良か ったので選 抜 されて陸軍騎兵学校 に進み,恩賜の銀時計で卒業 した。
明治 3 9( 1 9 0 6 ) 年 に足尾町の坂田チヱと結婚 して坂田の 姓を名乗 る。
明治 4 0( 1 9 0 7 ) 年 には東京学院四年の編入試験に合格, 更 に第一高等学校 に進んだ。
内村鑑三の門下 に入 ったの もこの頃のことで為 る。
明治 4 5 ( 1 9 1 2 ) 年 には宿望の東大文科に入学 し,哲学 と 宗教科を専攻 した。卒業 した時には既 に 3 4 歳になってい
た 。
大正 8( 1 9 1 9 ) に横浜 に関東学院を創設 して学院長 にな り,昭和 2 4( 1 9 4 9 ) 年 には関東学院大学長 となった。
神奈川県文化賞,勲三等を受 け,米国の レッ トランド 大学か らは人文学博士の学位を贈 られている。
昭和 4 4( 1 9 6 9 ) 年,横浜市の自宅で 9 0 歳の天寿を全 うし
た 。
著書に 『 恩寵の生涯』がある ( 2 6 ) 0
坂田佑 は千葉佐惚治の教えを受 けたが, しか し‑ リス トス正教徒にはな らなか った。
Ⅵ . [ 浅井末吉]
大湯小学校訓導時代の千葉佐惚治か ら薫陶を受 け,そ の信仰を継承 して,名実共に佐惚治の後継者格 と目され ている人物 は,む しろ浅井末吉 ( 1 8 7 5 ‑ 1 9 4 7 ) である。
浅井末吉 は明治 8 年,大場丁内の瀬川家に生 まれた。
明治 2 9 ( 1 8 9 6 ) 年 に中町の浅井家に養子に入 る。
1 0 歳か ら大湯小学校訓導千葉佐惚治の影響を受 け, ロ シア正教の熱心な信者 とな り,明治 2 4 ( 1 8 9 1 ) 年 に山村雄 五郎か ら洗礼を受 け ,3 6 年 には教理研究のため上京,敬 河台の伝教学校 に入学する。
帰郷後 は鍛冶職を生業 としなが ら,大湯‑ リス トス正 教説教所の管理者 とな って鹿角地方の布教に努めた。 ま た郷土の因習刷新 に情熱を注いでいる。
更 に俳句を好み,小魚 と号 して 「 荊会」を主催する傍 ら 「ホ トトギス」 にしば しば入選 して俳人 としての地歩 を築 いて もいる。秋田に小魚ありと,地元 よりもむ しろ 中央でその名が知 られるようにな り,正岡子規 とも親交 があったという。
俳人小魚 に注 目して訪れる著名人 も多 く,石井霜月, 荻原井泉水,大町桂月等の著名人が訪ねて来て,俳句や 文学 について論談を交えたとも伝え られている。明治 3 9 ( 1 9 0 6 ) 年 には河東碧梧桐が東北吟遊の途中,小魚を訪ね, 一夜を歓談 した。 また翌年 には十和田湖を訪れた石井霜 月が帰 りに大場の小魚を訪ねている。稼業の鍛冶をや っ ていた小魚 は喜んで早速屋外の林檎を取 って来て,その 場で二人 は林檎をか じりなが ら文学の話にふけったとい
う。 この時,霜月は,
「 相逢ふて相語 る林檎紅 ゐに」
の句を残 した。
大正元年 には荻原井泉水が十和田湖を訪れて小魚か ら 案内を受 けている。井泉水 と云えば 「 季題無用」の説や
「 一句一律」の説などを唱えた俳人 として有名であるが, 井泉水が これ らの考えに思い至 ったきっかけを作 ったの
は, この時の小魚の井泉水に教えを請 うた言葉であった という。
小魚 は大正期に入 ると更に 「 凍雲会」 を興 して指導者 とな り,俳句を広 く地方 にまで広 げようと努めた。
また南部藩の歴史を研究 し , 『 秋田南部国境争論』 や
『 境界提要』等,百五十種の著書を残 してい る。 晩年 は 鹿角全域にわたる郷土史料の蒐集 と調査に当た った。 こ のノー ト二百冊にも及ぶ彪大な文献整理 は 「 浅井史料 」
として今 も高 く評価 され,その一部 は 『 秋田県史資料編』
にも収録 され,後進 に郷土史の貴重な資料 として多 く利 用 されている。
しか し浅井末吉の最大の功績 は,先ず何よりも国の特 別史跡 に指定 された大場環状列石遺蹟を発掘 し,その保 存に努力 したことである。現在では国際的に有名になっ ているこの道蹟 は昭和 7( 1 9 3 2 ) 年 1 2 月 1 2 日,浅井末吉 に よって発見 された。耕地整理の作業中,水路の中に石群 があるのを見付け,環状石範の一種ではないか と考えた のが発見のきっかけであったという。
大湯環状列石遺蹟 は終戦後,昭和 2 6 ,2 7 年 に国の文化 財保護委員会による発掘が行なわれ,その精密な調査が 発表 されている。 この遺鎧の発掘 と保存 は戦後 日本考古 学会の画期的な収穫 と言われ, また先住民族の行方の探 求に情熱を燃や した浅井末吉や大場郷土研究会の人々の 苦心 と努力の結果であったとして高 く評価 されている。
浅井末吉 は昭和 2 2 ( 1 9 4 7 ) 年 に没 したが,昭和 3 7 ( 1 9 6 2 )
年には,大場大円寺境内の天然記念物 に指定 されている
「門杉」の樹下 に句碑が建て られた ( 2 7 ) 。
「 秋立つや大樹の梢おのづか ら」
6
『秋田県史 五巻』( 昭和五十二年発行) の [ 明治末 期に於 ける麟内基督教合一覧」 によると ( 2 8 ) ,鹿角郡大 湯村の日本‑ リス トス正教会 は信者数 が 1 6 6 名 あ り,信 者数第二位の秋田基督教舎 ( 秋田市本町四丁 目)の 5 9 名 を断然引き離 して,全県総数 1 2 教合の うち,最大の信者 数を誇 る盛況ぶ りであった ( 次頁の表を参照) 0
更 にまた, この 「 一覧」には,その盛況ぶ りを示す次 のような [ 註]記 も見えている ( 2 9 ) 0
「明治四十二年九月本解 は右の中多数信者を もっ秋田
基督教合 と鹿角郡大場村 日本 ‑ リス トス教合 に封 し信者 中聖饗 を受 くる資格者 の報告 を求 めたるに,次 の如 き回 答 あ り。
秋 田基督教合 八二名
日本‑ リス トス正教合 一 四三名」
因みに, 同 じ‑ リス トス正教合 の他 の三 ヶ所 ( ①増 田 町,②十二所町,③秋 田市) の信者数 が,① 1 3 名,② 4 2 名,③ 3 5 名であ るの と比較 してみ ると,大場村 の信者数 1 6 6 名が,如何 に群 を抜 いた もので あ るかが よ く理 解 さ れ よ う。
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おそ らく, こうした発展 は,既 に見て来 たよ うに, 目 時金吾,千葉佐惚治,浅井末吉等 の熱心 な努力 によるも の と思 われ る。 ここの教会 は,他 の教会 に比 して, ここ で活躍 した多 くの人 々が,信仰や布教以外 の何 らかの点 ( 例 えば,教育,俳譜,郷土史研究等) にお いて, 郷土 史 もしくは全国史 にその名を留 め ることが出来 たよ うな 優れた知識人 もしくは教養人であ った ことに, その明 ら かな特徴 を見て取 ることが出来 るのであ る。
Ⅶ. [ 高木新助]
事実 , 「ハ リス トス教 を研鎖 して」 これ を信仰 し, 俳 人浅井小魚 とは 「 共 に啓発 し合 った友人同志」 の高木新 助 ( 1 8 7 2 ‑ 1 9 4 8 ) もまた十和 田湖 の開発 に功績 の あ った 大湯 で はよ く知 られた人物である。
新助 は旧会津藩士 の子孫で,三戸 に生 まれたが,青年 の頃,両親 と共 に大場 に転住 して商業 や林業等 の職業 を 転 々 とした。 しか し, そのよ うな生活苦に曝 ぎなが らも, 当時 の青年達 に 「 産業,経済,教育,政治 な ど,新鮮 な
知識 の教授 を怠 らなか った」人であ り, また十和 田湖が 日本新三景,十勝景,避暑地三景 に上 位 当選 し , 「日本 八景 十和 田湖 本山彦一書」 の碑 が発荷峠 に建設 され たの もこの新助の尽力 によるものであ った とい う。
そ して , 「 心 の持 ち方 が頗 る堅 」 く , 「決 断 も明快 , 識見 も卓越」 と評 された高木新助 の墓 は, いま,大堤大 円寺裏 の墓地 にあ り,磨かれた黒 い御影石 に 「 天 には栄 光 地 には平安」 の句が刻 み込 まれて いる( 30) 0
無論, た とえ既 に著名人であろ うと教養人であろうと, このよ うな人々の布教活動 が常 に順風満帆の勢 いを得て 伸張 してい ったわけで はあるまい。 ま して彼等 の活躍 し た最初期 の頃 は,未だ明治 6( 1 8 7 3 ) 年 によ うや く禁教令 が撤去 されてか ら数年 を経 たばか りであ った。外来 の宗 教 に対す る邪教観 は全国的に覆 うべ くもなか った と言 っ てよいだろ う。
しか し,既 に山中祐伯 の長女 の埋葬事件 において見て 来 たよ うに,新 しいキ リス ト教 を危険視 し,信徒 に対 し て迫害 を行 な っていたのは,必ず しも政府 や国家 の出先 機関 ばか りであ ったわけで はない。確かに,国家権力 の 末端機関 には,中央政府か らの意 向や通達等 が迅速 かつ 正確 には伝達 されず, また担 当官達 の新宗教 に対す る無 理解等か らも,信徒達 にとって は極 めて不幸 な対策 や事 件が引 き起 こされ る場合 もなか ったわ けで はない。 しか し, この新 しい宗教 の真 の迫害 は, む しろ,従来 の古 い 宗教, とりわ け仏教 か ら来 た。 どの仏基 の対決 は,特 に 明治時代 の前半期 に,多 くの喜悲劇 を生 んでいる。 そ し て, それ は秋 田地方 の場合 も決 して例外で はなか った。
例 えば , 『 鹿角のあゆみ』 は , 「‑ リス トス教 の当時 の 有様」 につ いて,花輪小学校六十年誌 の 「明治七年四月 二十 日」 の項 に記載 されている次 のよ うな証言 を伝 えて いる。すなわち 「ハ リス トス教信者 に対 し,噸 りのの し りを試 み,暴行 を加 うるよ うの心得違 い無之様注意 すべ き旨,郡役所 よ り通牒せ らる」 とい うのであ る( 3 1 )。 こ のよ うな 「 通牒」が必要 とされ るほど, 当時の信徒達 を 異端視 す る風潮 は強か った とい うことなのであろ う。
7
明治 2 2( 1 8 8 9 ) 年 に 「 全 く耶蘇教征伐」 とも云 うべ き仏 基対決事件が角館 に起 きてい る。 この事件 もまた武藤鉄 城氏 の前掲書が伝 えているが, これ に類似 した事件 の記 述 は秋 田の別の地方 に も散見 され るので,鉄城氏 の記述 に従 いなが ら ( 3 2 ) ,以下 に少 し詳 しくこの事件 を見 てお
くことに しよ う。
明治 6( 1 8 7 3 ) 年 に,全国のキ リス ト教禁制 の高札 が撤 廃 され るまで,角館で は毎年 の切支丹調 べが終 ると,防 同士 や親 しい者達が , 「 無事 に済 ん で お めで と うござい
‑ 31 ‑
ます」 とあたか も年賀の祝言を述べるように挨拶 し合 っ たという。 どれほど強 く宗門改のことが人々の心 に懸念 されていたかが理解 されよう。
政府が外国の機械文明や科学技術を性急に移入 し始め, 信教の自由まで も認めたのを見て, これを最 も恐れたの
は仏教徒であった。仏教徒の耶蘇教を自由に布教 させる ことに対す る恐怖や嫌悪感 は, さなが らその仏教が初め て 日本 に移入 された時に,神道の信徒達が仏教に対 して 抱 いた ものと軌を一 に していた と言 ってよい。あのニコ
ライ堂があたか も皇居を傭轍す るかの如 く神田駿河台に 建造 された時, ロシア国は事 ある時,あの高楼に大砲を 据え付 けて宮城を砲撃するのだなどという話がまことし やかに伝え られていた時代だ ったのである。
更 に近々開催 される帝国議会 に, もし耶蘇教の議員が 選出されるようなことがあれば,一大事だとも危倶 され ていた。
こうして,大内青轡を団長 とし,辰巳小次郎,佐治突 然の二人を副団長 とす る 「 愛国護法大同団」 は,松岡君 之助,長沢達彦 ・則彦兄弟,中島某などという若い仏教 演説家達を急先鋒 として角館 に派遣 してきたのである。
一方,角館 には明治 2 1( 1 8 8 8 ) 年の春 に日本正教会の川 崎恵真 とい う伝教師が来ていた。恵真 は初め福井寧 とい う人 と二人で秋田に居住 していたが,一 ヶ所に二人蒔在 す るのは不利であると考え,大曲方面か らの手づるを求 めて , 川原町の植木定静を訪ねて角舘に来ていたのであ る。
東勝楽町の小学校前 にある小滝青七の家の一室を借 り て講義所 としていたが,教室 に出入 りしていたのは,植 木定静 とその娘二人の他,鈴木廉治郎,赤平乗治,高橋 運治,竹内良吉の四人であり,彼等 は秋 になって共に洗 礼を受 けている。おそ らく,角館における明治になって 最初の受洗者であったろう。
また受洗 はしなか ったが山根方面か ら時々聴講に来て いた老人 もいたという。
さて,角館 にや って来た 「 仏教演説家」達 は,角館の 寺院の和尚達か らの応援を受 け,岩瀬町の佐藤家を本部 として,佐藤氏 と共 に耶蘇宗門への対策を練 った。 この
「 佐藤氏」 というのは当時アンチ ・ク リスチ ャン側 の代 表的な人物 として知 られていた人物であり,後に新潮社 の初代社長 となった佐藤義亮氏 はこの当主の令息である。
仏教演説家達 は当時 として は珍 しい幻燈などを映 して 演説会を開いたので 「 大いに人気を博 した」 という。
こうした雰囲気の中へ松田伝助 という 「 赫顔髭面」の
「 蛮 カラ弁士」が佐藤家を目当てに乗 り込んで来 る。 佐 藤氏 はこの松田伝助 に川崎伝道師 と立合演説会をするよ
う勧誘 した。
耶蘇側か らも承諾の返事があ り,その評判が広まると
町中の人々が興奮 し,今にも血の雨が降 るような状態に なったという。
しか しその夜,川崎氏 は殺気立 った会場の光景に驚き, 松田氏の演説中に,随行 した人々と一緒に逃げて しまい, 無事に済んでいる。耶蘇側の退場 は確かに仏教側の勝利 を意味 したが, しか しそれは宗旨の弁護 による真の勝利 ではな く,威嚇による勝利であった。
「 川崎氏 としてはいかに宣教師の身 とはいえその場合 勝 って も負けて も,結局危害を蒙 ることを知 っていたの で,む しろ身命を全 うした方がかえってデウスの意 にか なうものとして涙をのんで退場 したのか もしれない。い まさら殉教で もないと思 ったのだろう」 と,鉄城氏 は川 崎恵虞のために弁明 している。
しか し事件 はこれだけで終 らなか った。耶蘇教側 に大 変な不幸が舞い込んで来 る。神道派の某暴漢が,仏教側 の勝利を妬んだのか,それとも惟神( カムナガラ)の道 の威 力を示そ うとで も思 ったのか,明治 2 2( 1 8 8 9 ) 年 9 月 2 6 日 夜,耶蘇教講義所を焼 き討ちしたのである。物置に放火 したのだ ったが,小滝家 と隣家の植田政太郎家 との二棟 を全焼 して しまった。 しか し当時警察署 は放火現場の目 と鼻の火除けにあったにも拘 らず,犯人の検挙 も出来な いほど微力であった。
川崎恵虞 は,度重なる迫害 に角館 にはいたたまれず, とうとう退去 して青森三本木に移 って行 く。 「角館 を去 る時は川原町の高橋泰助 という人がただ一人生保内まで 見送 り,偶然 と仙岩峠をさして登 り行 く川崎氏 と涙の う ちに別れた」 と鉄城氏 は伝えている。
信者の一人であった鈴木廉次郎氏 は,師の跡を追い, 十二月の末,三本木に川崎師を訪ね,師の下で翌年の三 月まで教理を研究 したが,その後上京 し,その年の九月 には福井寧氏の世話で駿河台の正教伝道学校に入学 し, 卒業後 はニコライ堂 に勤務 している。
しか し川崎恵真氏 はその後っいに伝道を見限 ってか職 を辞 し,北海道 に渡 って,幾多の辛酸を紙めた後, 釧路 の幌泉の村長 になった。
また,秋田で共に布教 した福井寧氏 は,その後,白河 に移 ったが,やがて北海道根室の司祭 となり,次 いで東 京の下高井戸 に居を移 し, 白河並 びに宇都宮地方の司祭
になっている。
このように 「 二十二年の角館キ リシタン事件」を叙述 した後,鉄城氏 は,続 けて 「 信教の自由が許 されると同 時に発頭,耶蘇教を信 じそ して洗礼 まで受 けた人々の, その宗 旨を信ずる様 になった動機 と禁教時代のキ リシタ
ンと何か脈絡のあるものか否か」 という問題を提起 され
て,更にこれに答えようとされてお られる( 33) 。 ここに
は確かに傾聴 に値す る議論 も展開 されているが, しか し
少々引用が長 くなったので,その検討 は後 日に譲 ること
にしよう。
8
この 「 仏基論争」 は,角館においてばか りでな く,大 湯 において も,大人げない騒擾事件を引き起こしている。
『 鹿角のあゆみ』( 前掲書)に次のような記述がある。
「明治二十年代 になると,仏教が廃仏棄釈の反動か ら 失地回復をはかるため,国民にキ リス ト教邪教観をあお ろうとした護法運動が盛んとなり,島地黙雷,井上円了, 大内青轡 らの,国家主義へ傾倒 したキ リス ト教批判運動 がさかんとなった。 こうした時代背景 のもとに,大湯に あって もキ リス ト教を信仰する当時の進歩革新派の若い 人々の層 と,仏教を固守す る保守的な人々の層 との間の 意見の相違が甚だ しくなり, しば しば新旧思想の論争が 行われたが,理論闘争 に劣勢を感 じた仏教派 は,中央の 静々たる論客である大内音響 ( 尊皇奉仏大同団),加藤 拙堂,石山天涯 らを招いて, はしな くもここに仏基大論 争が起 こった。大円寺で行われた仏教大演説会は,キ リ ス ト教信者か らさかんな反論や弥次が出されて騒然 とし た状況 にな り,興奮 した仏教徒がキ リス ト教会に乱入す るなどの騒動が起 こったO明治三十一,二年の頃 といわ れ ( 諏訪綱俊談),全国で もあまり例のない出来事であっ た 」 ( 34) という。
安村二郎氏が 「 鹿角のギ リシャ正教 ㊦ 」 ( 「 秋田さきが け 」) において 「中央か ら論客乗 り込 む」 とい う小見 出 しの下 に伝えている事件 も, これであろうか。キ リス ト 教側 に対 してかな り好意的な記述にな っている。
「 大湯には独立の教会がな く,そのころさわ ( 沢)の 家 と呼ばれた千葉家が説教所であった。 ここに集まる信 徒 はいずれ も革新的な青年たちで,中央か ら乗 り込んで きた仏教破邪阻止運動の論客石山天涯,加藤拙堂,大内 音響 と,大 円寺で仏基論争を展開 し,一歩 もひけをとら なか った。 このような信念の背景 には,教会の柱石だっ た旧会津藩士高木新助の思想的影響があったと思われる。 」
そ して,やがて 日露戦争を契機 に,ギ リシャ正教 は衰 退 にお もむ くが,安村民 は,以上の布教過程のなかに,
「その信仰に情熱 を燃や した明治の青年 たちの, 進取性 と反骨精神を」見てとってお られるのである( 35 ) 。
ところで,後者の資料の 「 大湯には独立の教会がなく 」 とい う記述を信用するな らば,前者の資料の 「 仏教徒が キ リス ト教会に乱入するなどの騒動」 というのは間違い であろう。乱入場所 は (もしそれがあったとして)せい ぜい 「 教会」ではな くて後者の云 う 「 説教所」 というと
ころだ ったろうか。
とまれ,大場での仏基論争 は,前者が 「キ リス ト教信 者か らさかんな反論や弥次が出されて騒然 とした状況 と
なり」 と語 り,後者が 「 一歩 もひけをとらなか った」 と 言い切 ってお られるところか ら推 して,角舘 の仏基論争 の結果 とはかなり異なった収穫が得 られた もののようで ある。
一方,角舘において,騒乱の直接的な原因を作 ったの は明 らかに仏教側であり,それに便乗 した神道側でもあっ た。他方,大湯においては,む しろキ リス ト教側が反論 や弥次によって 「 騒然 とした状況」を作 り出 している。
この相違 は大 きい。事が生死を左右するような信念の情 熱に関わる事柄だけに,そ して,時代がまか り間違えば 殉教の死をも覚悟 しなければな らなか ったような時代で あっただけに, この相違 は極めて大 きな相違であると言 える。
しか し,同 じ秋田地方のそれほど遠 くない地域であ り なが ら,同 じキ リス ト教の布教に当たって,なぜ このよ うな地域的な相違が生 じたのだろうか。
この疑問に対 して ( それは極めて重要な疑問であるに も拘 らず) ,明確な回答を与えることはで きない。 これ に必 要な資料 は,残念なが ら,今のところ見当 らないよ うである。今後の調査や研究 に待つ他 はない。
9
明治以来 「 大 日本正教合神品公舎議事録」や 「日本正 教舎公舎議事録」あるいは単 に 「 公舎議事録」などと呼 ばれて きた日本正教会編纂の公会議事録 に掲載 されてい る景況表 ( 統計表)か ら,秋田県 における正教会 ( 会堂 を含む)の 「 現員」 と 「 戸数」 とを抜 き書 きしてみると 次の表のようになる。
秋田県の正教会 ( 会堂をふ くむ)
明
袷
2 9
大場 秋 田 曲田 大館 鷹巣 花輪2 9 6 8 60 3 8 4 4 8 3 毛馬内能代 8 1 6
合計2 9 8総員
明
治
32
大場 秋 田 曲田 大館 院 内 花輪4 7 2 5 61 5 7 7 44 3 毛馬内能代 増田町 8 l l 9
中 山8
合計3 07総員 2 5 1 3 1 4 2 5 4 3 4 1 7 5 8 1 1 46戸数
大
正 5
大場 秋 田 曲田 大館97 4 9 72 1 7 4 小坂 0 1
花輪7 1 岩ケ埼 4
増 田1 2
合計31 8現員 1 4 l l 1 4 6 1 2 8 5 5 75戸数
大
正
1 4
大湯37 3 秋
田 曲田 大館4 36 8 1 小坂 3
花輪 岩 崎 花 岡 中 山5 9 5 1 2
荒川 扇 田 合計3 5 1 65現員 1 3 9 5 2 4 2 3 2 1 1 1 42現戸
昭
和
5 3
北鹿4 7
合計47員数
1 9 1 9戸数
[ 総員] または [ 現員]の増減の変動 はかな り激 しい が, [ 戸数] は明治の中期頃を ピー クに次第 に減少 して
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