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OntheExistence/Non-ExistenceofGod 神の存在・非存在を巡って

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(1)

神 の存在 ・非存在 を巡 って

Ont heExi s t e nc e /Non‑ Exi s t e nc eofGod

Ki i c hiT ACHI BANA

A bs t r ac t

l nt hi spaperwepur s ueourar gument sasf o l l ows :I.Si ncet heanci entt i mess omehave i ns i s t edt hatGodexi s t sandot her shavedeni edt hi s .Godandexi s t encear ef i r ml yconnect ed.

However ,wecannotans wert he ques t i on whet hers omet hi ng exi s t sornotunl es swe kno w whati ti s .Ther ef or e,Wehavet ocons i derwhatGodi sbef or ewedec i dewhet herGodexi s t s ornot . Ⅱ.Compar i s on ofpol yt he i s m and monot he i s m.God of monot he i s m and gods of pol yt hei s m ar ei ncompa t i bl ewi t hea chot herandmut ual l ye xcl us i ve.Thust heJ apanes ewor d

" kami "whi chmeansbot hGodandgodsi st hes our ceofmi s under s t a ndi ngs . Ⅲ. OnDes car t e s ont ol ogi calar gumentf ort heexi s t enceofGod. Ⅳ. OnKant ' sar gumentoft hei mpo s s i bi l i t yof t heont ol ogi calar gument .Kantdef i ni t el y di s t i ngui s hed exi s t encef r om pr edi cat e s .Ⅴ.On t he i nf l uence upon moder n s ymbo l i c l ogl C by Kant ' S ar gument .I n moder n s ymbo l i c l ogi c t he s ymbolf ore xi s t ent i alquant i f i eri sut t er l y di f f er entf r om t he s ymbol sf orpr edi cat es .Ⅵ.On Qui ne' st hes i s 了̀ Tobei st obet heval ueofavar i abl e. "ThoughQui nedeni est heexi s t enceo f ment als t at esorofHomer i cgods ,t hi sdeni aldos enotf ol l ow f r om hi st hes i sbuti sbas edon hi sph ys i cal i s tont ol ogy. Ⅶ.Conc l udi ngr emar ks :Qui nedos enotexcl udet hepos s i bi l i t yt hatGo d i st heval ueofavar i abl e.I nt hewor l dofs t or y,Goddoe sexi s tasSnow Whi t ee xi s t s .Wema y l i vei nar i chl ydi ver s ewor l d,

Ⅰ.

神」 とい うと直ちに 「存在」 の問題 と結 びつけ られ て論 じられ るQ しか も,そ の問いに対す る 回答 は

,

存在す る」 と主張す る側 と 「存在 しない」 と主張す る側 の両極端 に分かれて しま うのが , 古代 以来 ,今 日まで続 いている状況である。 Lか しである。例 えば

,

「カ ミミカは存在す るか」と尋 ねた場合 ,どんな反応がかえ って くるであろ うか。直 ちに

,

存在す る」 とか 「存在 しない」とかの 回答が得 られ るであろ うか。否 である。恐 ら く

,

「カ ミミカって一体何だろ うか」とい う疑 問が投げ かけ られ るであろ うが ,その疑 問は当然 である といえるであろ う。それが何であるのかがわか らな いものについて

,

存在す る」 とか 「存在 しない」 とか判断す ることはできないか らである。 「カ ミ

ミカ」 とい う言葉は ,私が勝手に , しか も何 もの も念頭 に置 かず に担 造 した言葉 で あ り,それ は

存在す る」 とも 「存在 しな」 ともいえない ものなのである。「存在す る」 とか 「しない」 とかを 判断す る前にそれが一体何 であるのかを知 らなければな らないだろ う0「‑‑・とは何か」とか 「‑‑

は どの よ うな性質を もっているのか」 とか 「‑‑日を何 と呼ぼ うか」 とか とい った問いに答 える必要 があるのである。 したが って

,

神」の存在 の問題 について も,先ず ,それが存在す るか否かは別 に

(2)

秋 田大学教育学部研究紀要 人文科学 ・社会科学

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( 1 9 9 5 )

して ,神 が どの よ うな ものであるのか ,あるいは どの ような ものを神 と呼ぶのか とい う問いを考察 しなければな らないであろ う。

Ⅱ.

多神論 と一神論

私たち 日本人は 「神」 を どの ような もの として捉 えてい るだ ろ うか ,あるいは どの ような ものを

神」 と呼んでい るだろ うかOキ リス ト教神学 に匹敵す るよ うな神道神学を構築 しようとしてい る 上 田賢治氏に よれば 1),明治期にプ ロテステ ン トが福音書の都訳語 に 「神 (カ ミ

)

」の語を用いた こ とか ら,われわれ の神意識についての混乱 が始 まった とい うO 日本 の伝統的な神 とキ リス ト教 の神 の どち らも同 じ 「神」 と呼ばれ るようにな った ことか ら,混乱が生 まれた とい うのである。私は氏 が引 き出す結論に賛成す るものではないが ,この洞察には賛成 である。現在 の 日本人の中には ,日 本 の伝統的な神を 「神」 と呼ぶ者 と,キ リス ト教 に代表 され るような神を 「神」 と呼ぶ者 と,前者 と後 者の区別がないままに どち らも 「神」 と呼ぶ者がい ると考 え られ るので あ り,ま さにそ こに

混乱」 があるか らである。 この点について ,少 し詳 しくみてみ ることに しようo

( 1 )

日本 の伝統的な 「神」概念

八百万神」 とい う言葉

(

古事記』)がある ように ,日本の伝統的な神 は複数 であ り, したが っ て 「神」概念 は多神論であるO また ,天照大神や月読の尊 の名前か らもわか るように ,神 の主た る●●●

特徴 として 自然的 (natural)であ り

,

古事記』や 『日本書紀』に措かれ る神 々は人 と同 じ形を して●●●●●

いた り,男 と女の区別があった りとい うように神人同型的●●●●●● (anthropomorphism)で ,また嫉妬 した●●

り,憎 んだ り,愛 した りとい う具合に神人同感情的 (anthropopathy)であった り,複数であった り す ることが当然 の ことであ った

( 2)

。例 えば ,メソポタ ミア,‑ ジブ T,ギ リシ ャ,ロ‑マ ,北欧 ,ゲ ルマ ン,イ ン ド,中国の神 々はいずれ も多かれ少なかれ ,傍点で示 した

4

つ の特徴 を もっていたの で ある。 この ような特徴を もつ神であれば ,その像を刻む ことが可能 であろ う。 アン ドレ ・シ ュラ キに よれ

ば 3)

●●●,古代において ,神 の像を刻んだ り,それを崇拝す ることもしなか ったイ ス ラェル の 民はなん と無神論の民 とみな された とい うのである。 ところがである。西欧世界に限 っていえば , この ような神 々が まさに 「神」であると考 えてい る人 々は恐 ら く皆無である とい って もいい ぐらい であろ う。例 えば ,現在 のギ リシャ人で ,オ リュソボスの神 々であるゼ ウスや アポ ロンを信 じてい る人はいないであろ う。

(2) 一神論 の 2類型 (a) 哲学者 の神

ホ メロスが 『イ リアス』や 『オデ ュッセイア』 で描 いた神 の世界 は多神論 の世界であ り,当時の 人 々に とってほ ,これ らの著作 は権威 ある書物 であ り,教養 ある人 々はそれ ら全 てを暗唱 してい る ほ どであった

( 4)

。 しか し,古代ギ リシャに生 まれた哲学的 ,批判的精神 は ,そ の古典を も批判 の対象 としたのである。 クセ ノフ ァネスは神人同型説を批判 し

( 5)

,またパル メニデスは神 の複 数性 を批判 した

( 6 )

。神に対す るこ うした批判的探求の結果生 まれたのが ,プラ トンのデ ミウル ゴス

(

『テ ィマイ オス』)や ア l)ス トテ レスの不動 の動老 (形而上学』)であ ったO他方 ,民衆 の追 い求め る神 が願い や祈 りを聞 き入れて くれ る力強い神であれば ,神 々同士の競合の結果 , よ り強い神が残 り,弱い神 は淘汰 され るであろ うし,また異民族 同士がそれぞれの神 の加護 の もとに戦 った場合 ,敗者の神は●● ●● ●●

淘汰 され ることにな るだ ろ うo さらに ,全知 ,全能で完全である神 こそが 「神」 と呼ぶ のにふ さわ しい とい うことになれば ,複数の神 の存在はあ りえな くな って くる。複数 の神 であれば必然的にそ の力は相対化 されて しま うか らであるO こ うして ,特に西欧世界においては ,歴史的に も理論的に も多神論か ら一神論‑ の展開がみ られ るのである。

‑2‑

(3)

(b) イスラエルの神

パ スカルの 『パ ンセ』 の中に ,キ リス ト教 の神 は ,アブ ラ‑ ム,イサ ク,ヤ コブの神 であ って , 哲学者や学者 の神 ではない とい う旨の ことを述べた箇所があるが

( 7)

,この考 えは彼 の 「決定的回心

の覚 え書 の中に も登場 して くる重要な思想 とな ってい るO ユダヤ教 ,キ リス ト教 ,イス ラム教は一 神論 といわれ るが ,その板 は このイス ラエルの信仰 にあるのであ り,イスラエルの信仰な くして宗 教 としての一神論 はあ りえなか った とい って も過言ではないのであるQ しか も今 日,世界の 3大宗 教 の

2

つ までが ,一神論 にな ってい る。(因みに ,仏教は ,後世 にな って開祖 の ゴータマ ・シ ッダ ッ

クが神格化 され る ように もな ったが ,彼 は悟 りを開いて ,仏陀にな った とはいえ,あ くまで も人間 であ り,特に初期の仏教には神はいない といえるのであるO彼は ,超越的な神 の存在や来世 の存在 につ いては 「無記」 としているほ どであ った。初期 の仏教 は特に ,無神論 もしくは少な くとも有神 論 とはいえない宗教であ った。)

次 の点につ いては議論 の分かれ るところであるが

( 8 )

,紀元前

1 8

世紀 のイスラエルの父祖 ア ブ ラ‑

ムの信仰 あるいは紀元前13世紀 のモーセの信仰を端緒 として ,当時 は‑ 少数 民族 の信 仰 に過 ぎな か った一神論 がその後 ,ユダヤ教 ,キ リス ト教 ,イスラム教を通 じて ,全世界‑ と広 まってい った のである。哲学者 の一神論 と区別す るために ,この一神論 を 「●●●●●●● 唯一神論」 と呼ぶ ことに しよ う。

さて, この唯一神論 の特徴は偶像崇拝 の禁止にあるとい って よいであろ う。程度 の差 こそ あれ , この思想は ,ユダヤ教 ,キ リス ト教 ,イス ラム教に共通 しているOその板 は ,出エ ジプ ト記20章 の 十戒 にあるのだが ,要す るに ,ヤ‑ ウェ以外 の神 を神 として はな らず ,それ に仕 えて はな らな い し,その像を刻んで もな らない し,礼拝 して もな らない とい うものである。 この禁止か ら帰結す る ことは ,もしヤ‑ ウェが唯一 の神であるとす るな らば,他 の神 々は偶像 に過 ぎず ,本 当の神 ではな い とい うことにな って しま うことである。他 の一切の神を認めない とい う点で ,この唯一神論 は排 他的で ,非寛容 であるといわれた りす るo Lか も,この唯一神 論 と対 比 的 に ,多神 論 は非 排他 的 で,寛容であるといわれた りす る。 しか し,この対立図式 は成 り立つであろ うかQ

歴史を振 り返 ると,多神論 の間では相互 に融和的な交渉がみ られ ることは確かである。ギ リシャ の神 々 とローマの神 々との融合がみ られ ,例 えば,ゼ ウスがエ ビテル (ジ ュピター) と同定 された り, 日本では神仏習合 の思想がみ られ ,伝統 的な神 々が ,例 えば大 日如来 の化身 とされた りした こ とな どか らも伺 え ようQ しか し,唯一神論 と多神論 の間ではそ うはいかないのであるO多神論 の側 が ,唯一神論 の神であるヤ‑ ウェを様 々な神 の一つ として認 め る こ とは一 見す る と寛 容 の よ うだ が ,それは実 は唯一神論の否定 である。 とい うのは唯一神が多神 の中の一つ となることは一神論 で はな くな って しま うことだか らである。唯一神論 と多神論が相互に矛盾 し両立不可能な関係にある 以上 ,唯一神論だけが多神論 に対 して ,排他的で ,非寛容であ り,多神論は唯一神論に対 して非排 他的で ,寛容であるとい うことは論理的に成立せず ,唯一神論 と多神論 は相互に排他的であ り,罪 寛容であるといわなければな らないのである。

この ように唯一神論の 「神」 と多神論の 「神」 とは相互に矛盾す る 「神」概念 であるに もかかわ らず ,同 じ 「神」 とよばれてい ることか ら,先に述べた混乱が生 じてい るのである。英語の場合に は ,同 じ

̀ god'

が用い られていて も,大文字 と小文字の区別に よって ,相互に異な る概念 であるこ とを示す ことがで きるが ,日本語 の場合にはまった くそれがで きないのである。 あるいは ,唯一神 の神が ,神 々に包摂 されて しま うことに よって ,相互に矛盾す ることがみえに くくな って しま うの である。 また ,存在 に関 していえば ,論理的 な可能性 として ,仮に一方 の存在が否定 された として も,その ことか ら直 ちに他方の存在 も否定 され ることにはな らない とい うことに も注意 しなければ な らないo

西洋哲学 の伝統 として‑ とはい って もオ リジナル とい うよ り,ギ リシ ャ哲学 とキ リス ト教 が出

(4)

秋 田大学教育学部研究紀要 人文科学 ・社会科学

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( 1 9 9 5 )

会 い ,結 び付いた ことか ら生 じた ことであるが‑ 神 の存在 ,非存在を巡 る議論 において,登場す る神 は ,多神論 の神 ではな く,唯一神論 (キ リス ト教 ,ユダヤ教 ,イス ラム教) の神 である。 した が って,以後 の考察においては ,唯一神論 の神 に限定す ることに したいo先ず ,有神論 の議論 であ る神 の存在証 明の一つである 「存在論的証 明」 を精級 な ものに したデカル トを議論 の出発点 として 取 り上げ ,次に ,その後 の批判的議論の展開を考察す ることに しよ う。

Ⅲ.

デ カル トによる神の存在論的証明

神 の存在論的証 明の創始者 は,カソタベ リーの大司教 ア ンセル ムス

( 1 0 3 3 ‑ 1 1 0 9 )

であるが ,それ を精微化 したのが ,デ カル ト

( 1 5 9 6 ‑ 1 6 5 0 )

であるOデ カル トの神 の存在証 明に は い くつか のバ リ エーシ ョンがあるが ,その中で ,存在論的証 明を取 り上げ るのは ,その証 明が妥 当であるとか ,覗 代のわれわれの眼か らみて一番 もっともらしい とか とい う理 由か らではないC この存在論的証 明に 対す る批判的議論 を踏 まえて ,現代 の記号論理学が形作 られているように見受け られ る し,またそ の成果を基 に ,存在一般についてであるが ,議論を展開 しているクワイ ンの議論 と結 びつけて論 じ ることがで きるか らである。

彼 の存在論的証 明は ,方法的懐疑 の末に到達 した絶対 に疑 うことので きない確実な原理 と思われ た ,第一原理 「私 は考 えるゆえに私 は存在す る」 と明噺 ・判 明の規則 のみを用 いて,神 の存在を証 明 しよ うとした ところにその特徴があるo議論をパ ラフ レーズす ると以下の よ うにな るだろ う(9)0

先ず ,神 は 「完全 な もの (

豆t r epar f ai t )

」 であるO この 「神」概念 は ,西洋 においては定義 の よ うな ものであ り,それ以外にあ りえず ,議論 の前提 にな っている。西洋人に とって 「不完全 な神 とい うのは

,

円い四角」 と同様 ,形容矛盾であるo Lたが って ,存在論的証 明に お いて も,第‑

,

神 は完全 な ものである」 とい う命題 の真理性が主張 され ることにな る。

次 に ,疑 っている限 りにおいて 自己が存在す ること (第‑原理)を発見 したデ カル トは ,その 自 己の存在 は疑 っている状態であるか らして ,その 自己が 「不完全 な もの」 であることを指摘す る。

疑 っている状態にあるがゆえに不完全 である自己が ,不完全であるに もかかわ らず ,疑 っている限●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

りにおいてではあるが ,現実に存在 していることが絶対 に確実 である以上 ,完全 な ものである神が 現実 に存在 しない とい うことは論理的にあ りえない。なぜな ら,完全な神が存在 しない とす るな ら ば ,存在 に関 して,完全な神が不完全 な私 よ り不完全であるとい う矛盾が生 じることになるか らで あるo Lたが って ,アンセル ムス以来 ,存在論的証 明の前提 とされて きた 「完全 な ものは存在す る

( es t ,exi s t e)

」 とい う命題 の真理性が ,絶対に疑 うことので きない確実 な第‑原理か ら証 明 され る ことにな るo Lか もこ こで の神 の存 在 は ,単 に思惟 の中に存在 す る とい うこ とだ け で はな く,●●●

現実 に存在す るとい うことが ,第‑原理を通 じて明確に示 されている点に も着 目すべ きであろ う。

デ カル トの議論は ,単な る言葉の定義だけか ら神 の存在を導 出 している ようにはみえない点に も特 徴があるO こ うして ,絶対に確実に真 である

,

神は完全な ものである」 と

,

完全な ものは存在す る」 とい う二つの前提か ら

,

神 は (現実に)存在す る」とい う真なる結論が論理的に導 出され るこ とにな る。 この証 明は三段論法 の形式を取 っているが ,この三段論法 は妥当であ り, しか も,二つ の前提 は確実に真であるか ら

,

神 は (現実に)存在す る」とい う結論 もまた確実に真であるとい う わけである。

さて ,この存在論的証 明は疑問の余地 のない完壁な ものなのであろ うか。問題点は ,下線 を引い た 「完全 な神が存在 しない とす るな らば ,存在 に関 して,完全 な神が不完全な私 よ り不完全である とい う矛盾が生 じることになる」 とい う命題 である。 この命題は 「不完全 な私です ら存在す るのだ か ら,完全な神 は当然 ,存在す る」 とい うことを述べていて ,一見す る ともっともら しいが ,果た して ,真であろ うか。 この命題 の背後には ,「現実に存在 しない ものは完全 とはいえない」とか 「

‑4‑

(5)

全な ものは ,現実存在 を含む」 とい う考えが潜 んでいる ように思われ る。 この考 えは ,結局 の とこ

,

存在 は完全性 の一つの性質 である」とい う命題 に帰着す るように思われ る。そ して ,この命題 が成 り立たない ことを主張 したのが ,カン トであ った。

Ⅳ.

カン トによる存在論的証明の反駁

カン トは

,

純粋理性批判』 で 「神 の存在 の存在論的証明の不可能について」 とい う節 を立 てて , まさに この問題 を論 じている.少 し長 くな るが ,引用す ることに しよ う80).

存在

( Sei n)

が実在的

( r e a

l)述語ではない ことは明 らかである。換言すれば物

( Di ng)

の概念 に付け加 えることがで きるよ うな何 らかの概念 ではない。存在 は単に物 の措定

( Pos i t i on)

である か、あるいは物 のある一定 の規定 の措定 にはかな らないO論理的使用 においては、それは判断の 繋辞

( Copul a )

にす ぎない。「神は全能である」とい う命題 は二個 の概念 を含み ,これ らの概念は 神 と全能 とい うそれぞれの対象

( Gegens t and)

を もっている。「神 は全能 である」におけ る 「であ

(

i

s

t)」 とい う語は述語ではな く,主語 の述語に対す る関係を示すにす ぎない。 私 が この主 語 (秤) をその一切の述語 (その中には全能 とい う述語 も入 っている) とい っしょに まとめた うえ

,

神がある

( Got ti s t )

」 とか ,あるいは 「神 とい うものがある

( esi s tei nGot t )

」 とい うと き,私 は神 の概念に何 も新 しい述語を付け加 えたのではな くて ,主語 自体をその一切 の述語 と共 に ,対象 として私の概念 に関係 させたにす ぎないo この二つの もの,即 ち対象 と概念 とが含む も のはまった く同一でなければな らない. 1.私が ,一つの物を どんな述語 ,また どれ ほ ど多 くの 述語に よって (この物 を完全 に競走す る場合 において も)考 えてみて も,この場合に私が さらに

「この物がある

( di es esDi ngi s t )

」 とい うことを付け加えた ところで ,それに よって この物 には い ささか も付け加わ るものがないのである。‑‑‑私が存在者

( Wes en)

を,(完全無欠 な)最高の 実在性

( Real i t 盆t )

を有す るもの と考 えたに して も,それが実際に存在す る

( exi s t i er en)

か どうか とい う問題が ,依然 として残 るのである。 ‑‑ある対象に関す る我 々の概念が ,何 を含むにせ よ また どれほ ど多 くの ものを含 むにせ よ,この対象が実際に存在す るためには,我 々は概念 の外‑

出なけれ ばな らない。‑・‑最高の存在者

( Wes en)

とい う概念は ,いろいろな点で極 めて有用な 観念

( I dee

)である。しか しこの観念 は ,単なる観念 にす ぎないのであるか ら,これだけに よって 実際の存在

( wa sexi s t i er t )

に関す る我 々の認識 を拡張す ることはで きない。‑‑‑こ うい うわ け で最高の存在者 の現実的存在

( Das ei n)

を概念か ら証 明 しようとす る非常 に有名な存在論的 (デ カル ト的)証 明のあらゆ る努力や労苦は徒労に終わ ったのである。

ここで主張 され ていることは

3

つ あるように思われ る。第‑ は

,「S

P

である

( Si s tP)

」 とい うときの 「ある

( i s t )

」 は論理的使用 においてほ ,主語 と述語を関係づけ る繋

静 ( Kopul a)

にす ぎ ず ,実際に存在す ることを主張す る 「ある

( i s t ,exi s t i e r en)

」とは区別 しなければな らない とい うこ とである。 これは ,日本語では 「である」 と 「がある」 とを区別す ることがで きるので ,理解 しや すい点であろ う。第二は ,「ある

( i s t )

」 は 「である」 において も 「がある」 において も,事物 (

〔 Di ng

〕,対象

[ Gegens t and〕 )

の性質 を表す 「性質」ではな く,したが って,述語ではない とい う ことである。 カン トは , この点 を理解 させ るた め に骨 を折 って い る。 この点 の説 明が ,有 名 な

100クー レル (当時の通貨)」 の議論 であるQ現実 の百 円と概 念 と して の百 円は , どち らも 「 円」 としての様 々な性質を もっているはず であ り,その限 りにおいてはまった く同 じはず である。

一方は ピカ ビカで,他方が手垢 で汚れているとい うことはあるか もしれず ,その点では性質を異に してい るか もしれないが , どち らも 「百 円」 とみなす ことので きる諸性質は共有 している。 さもな

(6)

秋 田大学教育学部研究紀要 人文科学 ・社会科学 第47

( 1 9 95 )

●●●●●●

い と

,

百 円」ではな くな って しま うか らである。 しか し,この二つには決定的な相違が ある。現実 の百 円を獲得す るれば多少な りともその財産 を増やす ことがで きるのに対 し,概念 としての百 円で は ,それをい くら寄せ集めた として も,まった く財産 を増やす こ とはで きな いか らで あ る。 この

存在 は性質ではな く, したが って述語ではない」 とい うことか ら,存在論的証 明の要 である前節 の 「存在 は完全性 の一つの性質である」 とい う命題 は否定 され ることにな る。存在論的証 明の論駁 には ,この二点で充分であるが ,今後 の議論の展開に とっては必要 な,第三 の点を述べてお こ う。

それ は,事物が実際に存在す るとか ,存在 しない とか とい う問題 は,概念 の分析 (性質 の限定や述 語づけ) を行 うことに よってはけ っ して解決 されず ,まさに 「概念 の外‑出なければな らない」 と い うことであるO事物が実際に存在す るか どうか とい う問題 は ,主語 と述語 の関係づげの問題 とは 別個 の事柄 であ って,前者の問題は ,後者 の問題 を解 くことに よっては解決 されえないのである。

この第三の点を明確 に述べたのが ,ヒュームであ り,その ことに よってかれ もまた ,存在論的証 明を退けているのである. ヒュ‑ムは次の ように主張 している8Do

人間理性 のあ らゆ る対象や探求のあらゆ る対象は ,当然 ,次の二つの種類に分け られ るであろ●●●●● ●●●●

う.すなわち ,観念の関係

( Rel a t i onsofI de as )

と実際問題

( Ma t t er so fFa c t )

であるo第‑ の 種類 の中には ,幾何学 ,代数学 ,算術 の科学があるoそ してそ こにおけ るあらゆ る肯定命題 は , 要す るに ,直観的かあるいは論証的に確実 な ものなのであ る。 直角三 角形 の斜辺 の長 さの

2

は ,その他 の

2

辺 の

2

乗 の和 に等 しい とい う命題 は , この図形 におけ るあ る関 係 を表 して い る。‑‑ この種 の命題 は ,宇宙の どこかに存在す るものに負 うことな く,単 な る思考 の操作 に よって発見 しうる。 自然 の中に,円や三角形がけ っして存 在 しな い と して も,ユ ー ク リッ ドに よって証 明 された真理 は ,その確実性 と証拠を永遠 に もち続け るであろ う。

人間理性 の第二 の対象である実際問題 は ,上 と同 じや り方では確定 されない‑‑‑あ らゆ る事実 に反す るような ことで も,それはけ っして矛盾を含む ものではないので ,常に可能 であるo・..I 明 日,太陽が昇 って こないであろ うとい う命題 は ,明 日,太陽が昇 って くるであろ うとい う肯定 命題 とまった く同様 に ,理解可能 であ り,なん らの矛盾 も含 んでいない。

神 の存在論的証 明の問題点を ヒュームの上記の発言に即 していえば ,神 の完全性 の問題 は 「観念 の関係」の問題 に属 し,神 の存在の問題は

,

実際問題」に属す るとい う具合にまった く別個 の問題 であ り,後者の問題 を前者のや り方ではけ っして解 くことはで きない とい うことになるであろ うQ したが って ,前者 のや り方 を用 いて後者 の問題 を解 こ うとす る 「存在論的証 明」 は不可能だ とい う ことになろ うOBo

さて,カン トや ヒュ‑ムに よって ここで述べ られた もっとも重要 な論点は ,現代 の記号論理学 の 中に阻み込 まれているoそれは ,すでに ラ ッセル とホ ワイ ト‑ ッ ドの 『数学 原 理』 の中 にみ られ る,述語を表現す る記号 と存在を表現す る記号を区別 していることにおいて読み取れ よう。述語づ げの問題 (観念 の関係の問題) と実際の存在 の問題 (実際問題)を混 同す ることに よって ,誤解が 生 じることのない ように と配慮 しているもの として解釈で きるのである。 この配慮 を次にみ ること に しようo

V.

記号論理学における存在 と述語の区別

例 えば ,(1)「リンゴは赤 い

( Anappl ei sr e d. )

」 とか (2)「(赤 い) リン ゴが存 在 す る

( A r ed appl eexi s t s . )

」 とい った としよう。前者 におけ る

,

赤 い」 とい うのは リンゴに帰属 す る性 質 で あ

り,述語づけす る ことに よって まさに赤 い とい う性質が リンゴに帰属 していることを示す ことがで

6‑

(7)

きる。それでは

,

存在す る」 とい うの も リンゴに帰属す る性質であ って

,

存在す る」 とい う述語 づけをす ることに よって , リンゴの性質 として

,

」とい う性質の他に 「存在す る」とい う性質 が リンゴに加わ ったのであろ うか。そ うではない とい うのが ,カン トの議論 であったo我 々は 「 い リンゴが存在す る」 とい う言明を肯定 した り,否定 した りす ることがで きるが ,それ は,赤い と い う性質 を もつ事物 (リンゴ)が実際に存在す ることを主張す ることであ り,他方 ,否定す る場合 には ,そ の よ うな事物が存在 しない ことを主張す ることである。仮 に,(3)実際に存在す ることが確 かめ られ た としよう。それは ,そ うした性質を もっている事物 の事例

( i ns t a nc e )

が見つか った とい うことであろ うO(4)しか し,その際 , リンゴが実際に存在す ることに よって ,その リンゴは存在す るとい う性質 を もっているとい うことが判 明 した とい うことにはな らないであろ う。性質 とい う点 では ,実 際に存在 して も,存在 しな くて も リンゴの性質はまった く同 じである。(5)他方 ,その リン ゴを食べた ら,甘か った としよう。その場合には ,その リンゴは甘 い とい う性質を もっていること が判 明 したのであ り,赤 い とい う性質 の他に ,甘い とい う性 質 が加 わ った ので あ る。 以上 の相違 は,記号論理学 では次の よ うに表現す ることがで きる。

[以下 で用 い られ る記号の意味]

論 理 記 号 :・ (連言),⊃ (条件)

,

‑ (同一性)

述語記号 :

R

(

い), A

(リンゴ)

,S

(

い), M

(最 も完全である)

, P

(ペガサスである) 限量記号 :∃ (存在記号),∀ (全称記号)

変 項

:, y 項 :a

(1

) R

x

・A

x

(

「リンゴは赤 い」

)

Oこの場合 ,存在す るか否かについては まった く無関係に述べ られ ている。

( 2 )

(

∃Ⅹ)(R x ・A x)(

赤 い リンゴが存在す る」

)

。実際に存在す るか どうかは確 かめ られ て いない。

( 3 ) R a ・A a (

赤 い リンゴが実際に存在す る」 ことが判明 した)0

(4) しか し,この ことに よって

,Ra ・A a ・Ea

とい うことにはな らない。(記号化す るのは奇 妙 なのだが

,E

は存在 を述語 とみな した場合の記号)0

( 5 ) R a ・A

a

・S

a (実際に存在す る赤 い リンゴに甘い とい う性質 もあることが判 明 した)0 記号論理学 では

,

存在」を性質を述べ る述語 とはみな さず ,述語 に関す る記号 とは別個に ,存在 に関す る記号を設けているO この点が まさにカン トの主張の継承 といえるのであるO

例 えば ,ラ ッセルは ,神 の存在論的証 明が成立 しない ことを主張 してい る箇所 でa詩,存在 論 的証 明を ,記号論理学 の論理式 を用 いて表現 で きる ように表現 し直 してい るが

,

存 在す る」 とい う語

,

完全 である」とい った述語 とは同列の述語 としては扱わず ,存在記号を用 いて表す ことがで き

るような形式に している。す なわち ,存在論的証 明の命題 の中に次の ような命題を立て る。

最 も完全 であるよ うなただ一つ のあるもの Ⅹが存在す る」。記号で表す と,次の ようにな るだろ うO (

∃ Ⅹ) ( M x

・ (

∀ y) ( M y⊃ y‑ Ⅹ))そ して ,この命題が証 明 されていない (

すなわ ち,

Ⅹ、を満足す る事物 が存在す るか ど うか未決定である)か ら,存在論的証 明は成立 しない と主張す る のであるO

述語 を表す記号 と存在を表す記号を区別す る記号論理学 の構造 自体が存在論的証 明を排除 してい るようにみえる。 しか し,存在論的証 明が成立 しない ことを ,記号論理学 を根拠に して主張で きる のであろ うか。 あるいは

,

存在」 に関す る言明はすべて ,記号論理学 の存在記 号 を用 い る ことに

(8)

ilt1▲t

秋 田大学教育学部研究紀要 人文科学 ・社会科学

4 7

( 1 9 9 5 )

よって述べ る ことがで きるのであろ うか。 あるいは,カン トの よ うに,存在 はそ もそ も述語ではな い と言い切れ るのであろ うか04。ただ一言私見 を述べ るとすれば,神が現実 に存在す るか , しない か といった , ヒュ‑ムの分類 に よる 「実際問題」 を ,概念 の分析に よって証明 しよ うとした存在論 的証 明を否定す る立場が ,実際問題 に対 しては,その学問の性格上 ,答 えることので きない記号論 理学 (形式論理学)‑ ヒュ‑ムの分類 では 「観念 の関係」 を扱 う学問‑ だけに よって主張 され るとい うのはパ ラ ドキ シカルではないか とい うことである。存在論的証 明の背後 に一定 の存在論が 前提 されているの と同様 に,記号論理学が存在論的証 明を排 除す る とす れ ば ,そ の記 号論 理学 は●●

別 の存在論 を前提 しているよ うに思われ るのである

α

。少 し具体的にいえば ,カン T, ヒュ‑ ムや ラッセルは存在論的証明が成立 しない ことを形式論理的に証 明 したのではな く,ある存在論的立場 か らそれを主張 したのではないか とい う疑 問である。 しか し,論理学 と存在論の関係 とい う,私に は大問題 と思われ る問題は ここでは扱 うことはで きないので,今後 の課題 にす ることに したい。

以下 では,カン ト, ヒュ‑ム,ラ ッセルの主張 (さらには彼 らの延 長 線 上 に あ る ク ワイ ンの主 蘇) を認めた うえで も,神 の存在 ,非存在 の問題 はそ う簡単に解決 され るものではない ことをみて い くことに しよ う。

Ⅵ.

クワインの 「存在は変項の値である」 とい うテーゼについて

ク ワイ ンは ,有名 な論文 「何が存在す るかについて」 において

,

存在」 の問題 を扱 っているが , 残念 な ことに ,神 の存在論的証 明については考察 していない。彼 の関心は ,伝統的な存在 の問題の 一つである,主語である限 りにおけ る存在 の問題を解 くことにあ った よ うに思われ る。神 の存在 , 非存在 の問題qQと直接関係す る部分だけを取 り上げ ることに したいO

主語 である限 りにおけ る存在 の問題 とい うのは次の よ うな問題 である。例 え ば

,

ペ ガサ スは存 在 しな

」 とい った場合 ,ペガサスは主語 として立 て られ てお り, しか もそのペガサスにつ いて述 べ られ てい る以上 ,そのペガサスは何 らかの意味 で存在 していなけれ ばな らない。 もしまった く存 在 していない とすれ ば ,それに言及す ることす らで きないであろ う。 したが って ,ペガサスの存在 を否定す る ことは不可能 である,とい う伝統的な議論に対 して ど う答えるか とい う問題 である。そ れに対す るク ワイ ンの回答 は,ラ ッセルの記述理論を拡張 し,一語の名称

( one l WOr dname)

であ る 「ペガサス」 の ような語 も述語 として扱 うことに よって,その語の主語 と しての身分を消去 し, それに代 って主語に相 当す るもの として

,

, Y ,

Zとい った変項 に よって置 き換 えることに よっ て答 えることがで きるとい うものである。この分析 に よれば ,「ペ ガサスは存在 しない」とい う言明 は ,

〜 (

∃ Ⅹ) (P x)と記号化す ることがで きるが ,これは

,

ペガサスである Ⅹは存在 しない」

とい う主張 であ り,少 な くとも無意味 ではない とい うことがで きる

a

。 こ うして ,主語 とな りうる 限 りでの存在 とい う考 えが払拭 され るのである。

ここか ら生ず る積極的な帰結 は,存在 ,非存在の問題は ,主語 の存在 ,非存在 の問題 とか ,述語 (性質 ,関係 ,集合 な ど)の存在 ,非存在 の問題qを考慮す ることな く,存在記号に よって縛 られた 束縛変項 である Ⅹ

, Y ,

Zを満たす値があるか ど うか とい う問題 に帰着す るとい うことであるO こ こか ら有名 な 「存在 は変項 の値 であ る」 とい う主張が な され ,そ して この束縛変項 を ど う用 い る か とい う場面において存在論が関わ って くるとい う姻Oそ して,ク ワイ ンは

,

ある存在論を受容す るとい うことは ,ある科 学 理 論 ,例 え ば ,物 理 学 の体 系 を受 容 す る こ と と原理 的 に は同 じであ るO .わた したちの存在論は,もっとも広 い意味での科学 を入れ る ことので きる全体的な概念図式 をひ とたび決めて しまえば,決定 され るのである」 と主張す る御O この論文 ではそれ程 明 らか では ないが位D,かれは 1つの存在論を選択 しているのであるの.次にかれの選択す る存在論をみ ることに

しようo

‑8‑

(9)

Ⅶ .クワイ ンの存在論 とその限界

クワイ ンは

,

何が存在す るかにつ いて」においては ,物理主義に魅力を感 じなが らも,物理主義 を 「神話」と呼んだ りして,物理主義 と現象主義 との間の選択 において篇藤がみ られたが

,

語 と対 象』 においては,物理主義を提唱 しているOかれ はい う鋤。

物理的な振 る舞 いの背後 に明確な心的状態や 出来事を措定す ることに よって,理論がある種 の 有機化 を達成 で きるのであれば,代わ りに‑‑=生理学的状態 と出来事 とを措定す るだけで も,そ の程度 の有機化 は達成 され うるだ ろ う。・‑身体的状態は ,とにか く存在す る。 なぜそれ以外 の

ものを付け加えるのかo

かれは ,ホメ ロスの神 々の存在を認めていないが朗,それだけではな くJb (心的状態)の存在 も認 めていない。かれが存在 として認め るものは ,結局 の ところ,物理的対象 (マクロ, ミクロの物理 的対象 ,九 エネルギーな ど)と数学 の対象だけ である脚。この存在論 は,かれの 「存在 は変項 の値 である」 とい うテーゼか ら導 き出され るものなのであろ うかOかれ の主張は ,こ うであるO束縛変 項が値 を と りうるためには,対象の領域

( domai n)

が想定 されていなければな らないが ,それは理 論 との関わ りで限定 され る。その際の理論は現在 の科学理論 で あ り,そ こに お いて認 め られ るの が ,先に挙げた対象であ り,それ らを用 いて解 明で きない ような例外がかれには思い浮かはない と い うのである鯛。 ヒュ‑ムの存在論 と同様 ,この存在論か らも,神の存在 は否定 され る ことに な る だろ うO神 は数 で も物理的対象で もないか らである。

しか し,この存在論は 「存在 は変項 の値 である」 とい うテーゼか ら導 き出 された ものではない。

例 えば, コナ ン ・ドイルの作品である 『シャー ロック ・ホームズ』 に登場す るシャー ロック ・ホー ムズは物理的には存在 しない として も,その物語 の中では ,警官であるシャー ロック ・ホームズが 存在す るとはいえないが ,探偵 であるシ ャー ロック ・ホームズは存在す るといえるのではなかろ う か。 も しそ ういえるとす るな らば ,ホメロスの神 々もまた

,

『イ リアス』や 『オデ ュッセイア』にお いてほ存在 しているとい うことがで きるであろ う。すなわち,フィクシ ョンの領域を対象領域 と し て認めれば ,シ ャー ロック ・ホームズ もホメ ロスの神 々の変項 の値 を もつのである即O ゎ れ われ の 考察 してい る神 も,少な くとも,シ ャー ロック ・ホームズや ホメロスの神 々と同等に 『聖書』 の世 界においてほ存在 しているとい うことが可能 である。 とはいって も,私が 『聖書』 の神 を信 じてい るとい うわけではない。ただ ,物理的に存在 しない とい う理 由で,神 の存在 を否定 しさることはで きないだろ うとい うことを主張 しているだけであ る。神 の概念か らすれば ,非有形的で ,非物質的 である神が ,そ もそ も物理的対象であるわけはな く,神が物 理 的 に存 在 して い るな どとい うこ と は ,は じめか ら主張 されていないのである図0

物理的対象 の存在 の認知はわれわれに とって重要 であ り,その性質を探求す ることはわれわれに とって死活 問題 であるといって よいQ例 えば ,毒 を薬 と間違 えて服用すれば死に直面す るか らであ る。それでは ,フ ィクシ ョンは ど うであろ うか。 フ ィクシ ョンであ って も,それは人間の意識や行 為に多かれ少なかれ影響 を与えるのではないだろ うか。例 えば ,子供が 『白雪姫』 を読 めば ,白馬 にまたが ってや って くる素敵な王子様 を夢見 るよ うにな るか もしれない し

,

『ア リーテ姫 の 冒険』

を読めば ,知恵 と勇気 を兼ね備 えた女性 に憧れ るか もしれないのである。その子供 に与える影響 は 測 り知れないのである。仮に子供 に殺人や窃盗や嘘を奨励す る物語を毎 日読 んで聞かせた場合の こ とを考 えてみ よう。それは道徳的に非常に大 きな影響を与 えることになるだろ うo フ ィクシ ョンも また ,物理的存在 に劣 らず ,人間精神 に影響 を与 えるのである。

聖書』 には神が描かれてい る。その神 の言動 が少な くとも信者 に対 しては,思想 ,行為 におい

(10)

秋田大学教育学部研究紀要 人文科学 ・社会科学 第

4 7

( 1 9 9 5 )

て影響 を与 え続 け てい る。私 には よ くわか らないが ,かれ らに とってほ ,神 は ま さに生 きてい るの であ る御0品壷妾 あ壷

ぷゝ

ら÷轟 き,人間の思想や行為 に肯定的にせ よ,否定 的にせ よ,どの よ うな 影響 が及 ぼ され るのか とい う問題 の方が重要 であ り,物理 的 に存 在 して い るか ,否 か とい うこ と は ,それ程重要 ではな くな って くるのであ る。

わ た した ちの住 んでい る世界 は ,単 に物理的対象だけが存在す る世界 ではな く,もっと多様 で , 豊か で ,奥が深 い存在 の在 り方 を してい る世界 にわた したちは住 んでい るのか も しれな い。

( 1 )

上 田賢治

,

神道神学論考』,大 明堂

,1 9 91

,1 7 5‑ 6

貢o

(2)

(1)で言及 した上 田氏 は , 日本 の伝統 的な 「神 々」 の概念 が ,唯一神論 の 「神」概念 とまった く異質 であ る ことを強調 しなが らも,私が ここで述 べた

4

つ の特徴 に言及 して い るQ 『神 道 神 学 一挺織神学‑ の序章 ‑』,大 明堂

,1 9 8 6

,1 8 7‑20 8

頁。

( 3 )

ア ン ドレ ・シ ュラキ ,『ユダヤ思想』,白水社

,1 9 7 6

,1 9

頁。

( 4 ) H.D.F.Ki t

t

o ,TheGr e e ks ,Pe ngui nBo o ks ,1 9 7 9 ,p. 4 4.

著者 は

,

『イ リアス』や 『オデ ュッセ イ ア』 がギ リシ ャ人 に とって聖書 であ った とまで述 べ てい る。

( 5 ) G.S.Ki r

k,

J .E.Ra ve n a nd M.Sc ho f i e l d ,ThePr e s o c r at i c Phi l o s o phe r s ,Ca mbr i dge Uni ver s i t yPr e s s ,1 9 9 3 ,pp.1 6 8‑9 .

( 6 ) I b i d. ,pp. 2 5 0‑ 1 .

(7) パ ス カル

,『パ ンセ』,新潮文庫 ,1 9 7 5

年 ,断章

5 5 6 0

( 8 )

アブ ラ‑ ムの信仰す る神 が ,唯一神

( mono t he i s m)

ではな く,多数 の神 の中の‑神 を崇拝す る 一神崇拝

( mo no l a t r y)

ではなか ったか とい う議論 が あるか らであるO

( 9 ) R.De s c a r t e s ,Di s c o ur sdel a m占 t ho de , Qua t r i と mepar t i e,Gvr e sCho i s i e s ,Li br a r i eGa r ni e r Fr er e s ,Par i s ,1 9 5 0 .

デ カル ト

,

方法序説』,第

4

部 ,岩波文庫。

( 1 0 ) I .Ka nt ,Kr i t i kde rRe i ne n Ve r nun ft ,Phi l o s ophi s che Bi bl i o t he k,Fe l i x Me i nerVe r l a g

,

1 9 5 6 ,A5 9 8 ‑ 6 0 2 ,B6 2 6 ‑ 6 3 0.

重要 な論点 と思われ る箇所 に下線 を引 くことに した。

(lB D

.Hume ,A Tr e at i s eo fHumanNat ur e ,Bo o kOne,Appe ndi xB,Wi l l i am Co l l i nsSo ns

&

Coリ1 9 7 5 ,p. 3 5 4.

( 1

2) ヒュ‑ムの経験 主義的な立場か らすれ ば さらに次 の よ うな主張 にな るO「どんな事物

( be i ng)

存在

( e xi s t e nc e )

も,それ はその原 因ない し結果か らの議論 に よって しか証 明す る ことはで きな い。 そ して こ うした議論 は ま った く経験 にのみ基づ いてい るo も し我 々が アプ リオ リに推理す る とすれ ば , どんな もので も生み 出す ことがで きる よ うに思 え るで あろ う。 よ くはわか らないので 何 ともいえないが ,小石 の落下 に よって太陽が消滅す るか も しれ ない し,人間 の願望 に よって , 惑星 の軌道 を支配す る ことが で きるか も しれ ないO原 因 と結果 の本性やそ の限界を我 々に教 え ,●●●●●●

ある事物 の存在か ら別 の事物 の存在 を推理す る ことを可能 に して くれ るのは ,ただ経験 だけなの であ る」 と。 (傍点 は筆者 に よる

)0 D.Hume ,AnEnqui r yc o nc e r ni n gHumanUnde r s t andi n g

,

Lo ngmans ,Lo ndon,1 8 8 9 ,p. 1 3 4 ‑ 5.

4

3) バ ー トラン ド ・ラ ッセル

,

指示 につ いて」,坂本百大編 ,『現 代 哲学 基 本 論 文 集

I

』,敷 革 書

,1 9 8 6

,71

頁。

( 1

4) テ ィキーは

,

個 体

( i ndi v idua l s )

に よっては例示化可能 ではな く,個体 に よって満 た され うる 職域

( O f f i c e )

に よっては例示化 可能 で ある とい う限定つ きではあるが ,存在 は 申 し分 のない性質 とい って よい」 と主張 してい る。存在 が性質 であるか ど うか とい う問題 は現在 も係争 中なのであ

oPa ve lTi ch y,Exi s t e nc ea ndGo d ,TheJo ur nalo fPhi l o s o phy,Vol . 7 6,No. 8,1 9 7 9,p. 4 0 7.

‑ 1 0‑

(11)

( 1

5) だか らとい って ,妥 当な推論 の体系化 を 目的 とす る論理学 において ,存在論 的証 明を可能 にす る よ うな論理学 を構築す る ことがで きるな どとい う主張をす る ものではないC

(16) 当然 の ことなのであるが ,注意 しておか なけれ ばな らない ことは ,存在論的証 明 (さらには , 宇宙論 的証 明や 目的論的証 明 とい った他 の存在証 明) が成立 しない として も,そ の ことに よって 神 の存在 が完全 に否定 され る ことにはな らない とい うことである。

( 1 7 ) W.

V

.Qui ne,On Wha tThe r e

l

s ,E .D.Kl e mke e d.Co nt e mpo r ar y Anal yt i c an d Li n gui s t i cPhi l o s o phi e s ,Pr o met he usBo o ks ,1 9 8 3,pp. 3 81 1 3.

(18) 後者 の問題 も,同上論文 で論 じられ てい るが ,かれ の主張 は ,述語 につ いて も変項 の値 を と り うる よ うにす るため限量化す る ことに よって述語 を も束縛変項 とす ることは しない とい うことで ある

。I b i d. ,pp. 3 8 3 ‑ 5.

この操作 が ,多様 な存在 を生み 出す源泉 にな るか らであ るo Lたが って , かれ は

2

階 の限量化

( s e c ond1 0 r de rquant i f i c a t i on)

を認 めない ことにな るO

( 1 g ) I b i d. ,p. 3 8 5.

( 2 0 ) I b i d. ,p. 3 8 8.

t) この論文 では ,現象主義的概念 図式 と物 理主義的概念 図式 の どち らか を受容す るか について明 言 していない し,数学 におけ る存在者 の身 分につ いて も未解決 の問題 に してい るか らである。た だ し,数学 の対象が何 らかの点で存在 して い る ことは否定 していない

ol b i d. ,pp. 3 8 6 ‑ 9.

しか し, 何 よ りも彼 自身 ,r現実 に どんな存在論 を採 用すべ きか とい う問題 は未解決 の ままであ る」

( I bi d

,,

p. 3 9 0 )

と述べ てい るか らであ る。

G22) ただ し,かれ は どの存在論 を採用す るか‑ 例 えば ,物理 的対象 とホ メ ロスの神 々の どち らの 存在 を認 め るか とい うこと‑ は ,プ ラグマテ ィックな事 柄 で あ る と した うえ で ,かれ と して ほ ,ホ メ ロスの神 々の存在 を信 じない と主張 し,そ の理 由 と して

,

経験 の流れ の中に構造 をつ く るための装置 と して有効 であ る点 で認識論 的に優位 で あ る」 こ とを挙 げ て い る

。W.V.Qui ne

,

Two Do gma s o fEmpi r i c i s m,E.D.Kl emke e d. Co nt e mpo r ar y Anal yt i c an d Li n gui s t i c Phi l o s o phi e s ,Pr o me t heusBo o ks ,1 9 8 3 ,p. 4 0 7 .

この ク ワイ ソの主張か らは ,かれ 自身 の存在論 の 選択 は ,結 局 は ,経験 主義 的認識 論 に基づ いてい る と考 え られ るの で あ るD この点 でか れ は ,

ヒュ‑ムの延長線上 にあ る といえ よ うo註42)参照o

G 2 3 )

W .

V.Qui ne ,Wo r dandOb j e c t ,TheM.I .T.Pr e s s ,1 9 8 5 ,p. 2 6 4.

C4) 註eg)参照。

G Z

S) そ の中には ,それ らの対象 が要 素 と して含 まれ る クラス,お よび クラスの クラス も想定 され て い る。

G Z 6 )

W .

V.Qui ne ,Ⅵ′ o r dandOb j e c t ,p2 67 .

G Z

や 実在的 な対象だけではな く,フ ィクシ ョンの対象 も想定す る体系 は ,存在論的 コ ミッ トメ ン ト か ら自由である とい う意味 で 「自由論理学

( f r e el o gi c s )

」 と呼ば れ て い るo

R.Scho c k ,I , o gi c s Wi t ho utExi s t e nc eAs s umpt i o ns ,Al mqvi s ta ndWi ks e l 1 , 1 9 6 8

.この論理学 に関す る問題 の考察 に つ いては別 の機 会 に譲 りたい。

しか し,そ の神 が (物理的対象 を含 む)世界 を創造 した とい う説 に関わ って くる と,話 はそ う 簡単 ではな くな って くるだ ろ う。対象領域 は唯一 であ る必要 はな く (ク ワイ ンです ら

2

つ の対象 領域 を認 めてい る),複数 の対象領域 が想定 され て構 わないが ,相互 に独立 して い る場 合 に は 問 題 はないが ,相 互に連関す る場合 には問題 が生 じて くるであろ う。例 えば ,仮 に神 が食事 をす る と仮定す る と, どんな食べ物 を どこか ら手 にいれ るのか とか ,神 は排湛す るのか とか ,排惟す る と した ら, どこに排雅す るのか とか い う疑 問が生 じるであろ うし,それ らは物理 的対象に関す る 理論 と深 く関わ って くるか らであ る。世界創造説 もそ うした問題 の 1つ とな るのであ る。

(12)

秋 田大学教育学部研究紀要 人文科学 ・社会科学

4 7

( 1 9 95 )

但g

)

神 の存在 を信 じてい る者 に とって ,神 が 白雪姫や シ ャー ロック ・ホームズ と同列 に置 かれ るこ とで満足 す るか ど うか は別 問題 である。神 に対 しては懐疑論者 の私 で も, この よ うな神 の存在 な らば認 めないわけにいかない とい うことを述 べ てい るだけであ る。

12‑

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