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原発受容の論理を巡って

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Academic year: 2021

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Ⅰ. はじめに――原発再稼働と「地元」自治体

 2015年は原発再稼働の年となった。8月11日に鹿児島県の川内原発1号機 が、10月15日には同2号機が操業を再開し、10月26日には愛媛県知事が伊方 原発の再稼働に合意し、16年春の再稼働が予想されている。1 さらに12月 24日には福井地裁が、高浜原発3、4号機について同年4月に同裁判所が行っ た運転差し止めの仮処分決定を取り消した。新聞報道によると、関電は16 年1月末に3号機、二月下旬に4号機の再稼働を目指しているという。2 また 福井地裁は同日、大飯原発3、4号機の運転差し止めを求めた住民らによる 仮処分申し立てについてもこれを却下した。3  原発再稼働には「地元自治体」の同意が必要とされるが、「地元」の範囲 については立地市町村と都道府県のみを指すのか、安全協定の対象になる半 径30キロ圏の市町村を含むべきかで論争が行われてきた。4 結局3原発とも 立地市町村と都道府県の同意のみで再稼働となったが、そのさい注目される のは、原発が立地する市議会、町議会が原発再稼働の陳情決議を行っている ことである。5 フクシマの惨状を目の当たりにして、なお原発稼働を自発的 に要望する議会の姿は、地域経済がいかに原発に依存しているかを示すもの といえよう。しかし、原発受容を経済の論理で説明することには、社会学者

原発受容の論理を巡って

Ⅰ. はじめに――原発再稼働と「地元」自治体 Ⅱ. 「フクシマ論」の主張 Ⅲ. 「フクシマ論」の問題点 Ⅳ. 地域支配構造理解についての提案 目   次

渥  美   剛

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から強い異論が出ていることも事実である。産業研究所の研究プロジェクト 「東日本大震災以後の地域産業の現状と復興への課題に関する調査研究」で は、今年度、村長交代後の東海村の地域権力構造と脱原発のむらづくりのゆ くえについて現地調査を実施し、地元自治体の原発への依存と受容の構造を 解明する予定であったが、諸事情により調査が2月以降にずれ込んでしまっ た。そこで今回は、5月の公開研究会で報告した内容を踏まえ、原発受容の 論理を文化的な観点から解明しようとした開沼博氏の労作『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(以下「フクシマ論」と表記)を検討し、 今後の調査で問うべき理論的課題を明らかにすることで、プロジェックトの 中間報告に代えさせていただきたい。

Ⅱ. 「フクシマ論」の主張

 開沼氏は、著書の奥付によると1984年福島県いわき市生まれであり、現 在は福島大学うつくしふくしま支援センター特任研究員をつとめている。6 「フクシマ論」は開沼氏の修士論文に加筆修正を加えたもので、2011年6月 に出版され、非常に注目された著作である。  本書はまえがき部分を除くと原発事故以前に調査、執筆されたものであ り、かえって氏の率直な見解が強く打ち出されていると言えよう。その後の 氏の著作とは印象が異なる点もあるが、本稿では「フクシマ論」に限定して 論ずることにする。  さて「フクシマ論」は原発の是非や反対運動について論じたのもではな い。著者の根本的な関心は、「日本の戦後成長における地方の服従の様相を 明らかにすること」7 であり、原発はその典型事例として選択されたもので ある。  開沼氏は第1章において、従来の中央―地方研究の問題点として、地域社 会学の構造分析に代表されるマクロ・メゾレベルのアプローチへの批判を展 開する。これらの研究は「地域社会をフィールドとしてのみ位置づけ」「地 方を単に中央に対する(政策などの変化に対する)受け手と」してきたのに 対し、「フクシマ論」では「地方を単純な中央の欲望の受け手としてではな く、自ら独自の文脈を抱え、能動性や欲望を持ち、時には中央への影響も与 える存在としてとらえ、その地方に内在的な観点から研究することを」目指 すというのである。8

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 この主張は全くの正論であり、おそらく異を唱える研究者はほとんどいな いであろう。  ただし、構造分析の無効化という認識には議論の余地があるだろう。また これは開沼氏独自の主張ではなく、原発に関する代表的な先行研究9 を著し た中澤秀雄氏の叙述を引用しそれを展開したものである。  さて、開沼氏はマクロ・メゾレベルの研究に代わって、地域内在的な観点 に立つミクロレベルの研究が盛んになってきたことに注目するが、そのばあ いでも調和より葛藤(コンフリクト)を重視し、ムラを一方的な被害者とし て描く一方、ムラの秩序(生活の論理)を見ない傾向があると指摘し、加害 /被害、受益/受苦のといった二項対立に陥っていると批判する。10  それに対して開沼氏は、スピヴァクらのポストコロニアル理論を前提と し、上記の二項対立的発想を拒否して下から(ムラから)の目線で「二つの 原子力ムラ」(中央のいわゆる原子力ムラと、立地地域とその住民)の共鳴 を明らかにしようとする。そして二つのムラを媒介するのが「地方」(都道 府県レベル)である。また氏の論述では、経済面での利益誘導よりも文化 (政治・経済から切り離せないが、決して従属するものでもない事象)がよ り重視されているのも特色となっている。11  これまで見てきた開沼氏の基本的な立場は非常に興味深いものであり、ム ラが欲望の主体として、原発を主体的に受容していく論理への注目は筆者と 共通するものがある。しかし、中央の原子力ムラはともかく、地元の原子力 ムラが原発を「抱擁embracing」12 したという結論には、強い違和感を持た ざるをえない。

Ⅲ. 「フクシマ論」の問題点

 これまで見てきたように「フクシマ論」には興味深い観点が示されている が、残念ながら実際の分析には多くの難点が見いだされる。すでに清原悠氏 の長大な書評論文13 があり、論点は出尽くした感もあるが、開沼氏によって 批判された地域社会学(構造分析)の立場から問題点を指摘しておこう。 1. 調査方法  下(ムラ)からの視点を強調し、インタビュー調査によって住民の意識を 明らかにしようとすること自体は全く妥当であるが、インタビュー調査の方

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法には多くの問題がある。  開沼氏はこう述べている。    インフォーマントにはできるだけ普通の生活者を選び、政治家、原発関係   者、原発労働者、反原発アクティビストなど、原発に対する立場や関係がはっき   りしている人々は除いた。インフォーマントは数十人に及んだが本書で引用する   のは表4の十二名である。14  十二名の地域別な内訳をみると、福島県在住者は5名(浪江町1、富岡町 3、大熊町1)、福島県富岡町出身者1名、青森県六ケ所村在住3名、青森県 大間町出身1名、新潟県刈羽村在住1名、同出身者1名となっている。15  まずインフォーマントの選択に問題がある。もちろん直接的利害関係の弱 い住民へのインタビューも必要だが、原発立地自治体において、大多数の住 民の生活がすでに原発の影響下にあることは自明であり、「普通の生活者」 (これ自体非常に曖昧かつ恣意的な表現である)と「立場や関係がはっきり している人々」の線引きは困難である。対象者の選択基準が不明確なうえ に、インフォーマントの言説は著者の見解を補強するために断片的に引用さ れるにとどまっている。個々のインタビュー記録は一つのまとまった全体と して扱われるべきである。  また福島原発建設の歴史的過程の記述においても、東電サイドの記録に依 存するなど、文書資料の選択と解釈に偏りが見られるし、原発反対運動が強 く建設に至らなかった浪江町の事例が詳細に検討されていないなど、疑問の 残る点が多い。 2. 「ムラ」とは何か  これまであえて触れてこなかったが、開沼氏が用いる「中央」―「地方」 ―「ムラ」という三層図式における「ムラ」は「立地地域とその住民」と定 義されている。16 さらに開沼氏はこの「ムラ」を鈴木栄太郎の「自然村」 概念と結びつけようとする。それは開沼氏によると    ここでいう「ムラ」とは、鈴木栄太郎などによって指摘された「行政村」つま   り「国家によって設定された自治体」の枠では捉えきれない、鈴木が「自然村」   とよんだ自生的な村のあり方を踏まえたものであり、したがって明確に市町村と   いう単位での町や自治体という語は当てられないし、また単一の共同体に焦点を   当てた問題とも必ずしも限ることはできない。そこでともすれば曖昧にとらえか   ねないが、「ムラ」という設定をした。17

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というのである。  しかし鈴木栄太郎の「自然村」は、「村の精神」によって統合された農民 の生活防衛組織である。18 具体的には江戸時代の藩政村、明治以降の部落 ないし今日の大字、「区」(自治体末端の行政組織)、あるいは農水省の定 義する農業集落等に相当することが多い。  いずれにしろ戦後合併(国の誘導はあっても、旧町村が主体的に行った) を繰り返して形成された今日の町村は、いかなる純農村、過疎地であろうと も鈴木のいう「行政村」にすぎず、自然村とは峻別されるべきである。開沼 氏のいう「ムラ」を正確に表現すると「ムラ」的な文化を持った、(複数の 自治体からなる)地域(リージョン)ということになるだろう。  さて開沼氏のいう自生的な村のあり方とは何か、必ずしも明確でないが、 本書を通じてしばしば強調されるのは原発立地自治体の前近代性、愛郷心な どであり、葛藤でなく調和がムラの正常生活である19 というのが氏の理解 であるように推察される。それは氏が批判するところの、従来の上から目線 の研究に見いだされる、ステレオタイプな農村社会のイメージとどこが違う のであろうか。しかもそれは村落社会の一面にすぎない。実際の「ムラ」に は隠微な利害対立が渦巻いており、葛藤もまた正常状態である。開発はしば しば隠蔽されてきた対立を表面化させ、「ムラ」を分裂させるのである。  もし開沼氏が自然村に見いだされるような「自生的な村の在り方」に注目 するのであれば、原子力施設が立地する自治体レベルにとどまらず、よりミ クロな大字、農業集落レベルの分析が必要となるはずである。しかし実際に は、町村レベルのやや皮相な考察がなされているにすぎない。これは重要な 点であり、福島県内でも大字/集落レベルでの抵抗の態様が原発建設の成否 に重要な意味を持った事例が存在する。 3. 村落構造と原発への対応――欠落した視点  清原悠氏が指摘するように、「フクシマ論」では東北電力が建設に失敗し た小高・浪江町の事例はほとんど扱われていない。20 清原氏の指摘通り、 浪江町の事例は「フクシマ論」の議論の枠組みでは説明しえないのである。 浪江町では、1967年に町議会が原発誘致決議を全会一致で可決したにもか かわらず、原発の立地点である棚塩地区で「大字会」(北棚塩・南棚塩の2 行政区によって構成されている)が隣接する小高町の尻浦地区と連帯し、強 硬な反対運動を展開した。その後東北電力の切り崩しによって北棚塩原地区

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では建設推進派が多数を住めるに至ったが、結局自然村レベルの抵抗によっ て県と町の誘致戦略は事実上頓挫することになったのである。21「ムラ」が 常に欲望の主体として原発を抱きしめるとは限らない、その具体的な事例が 同じ福島県浜通りに存在したわけである。  また福島第一原発の場合、その建設用地の一部が戦中は陸軍の飛行場であ り、戦後堤康次郎が経営する国土計画と地元住民に払い下げられ、戦後は堤 が一時塩田を経営したことは開沼氏ものべている。しかし、開沼氏はまさに 「ムラ」の特質を見逃していた。歴史学者の中島久人氏は、原発建設用地と なった大熊町夫沢一区南部は大正期以降の新開地で同区北部の旧家小作・分 家が多く、双葉町細谷は明治維新後隣接部落からの分家や他県からの移住者 が多く、共有地もないという特徴があり、いずれもの地区においても同族団 や共同体的規制が著しく弱かったことを指摘している。22 浪江町と福島第 一原発の事例を比較するとき、村落構造の相違、自然村の自治の強弱が原発 に対する対応の差となって現れるという仮説が導かれるのではないだろう か。残念ながら開沼氏のミクロ視点は自然村のレベルには及んでいなかった のである。 4. その他の論点  その他いくつか指摘すべき点を列挙しておく。 ①文化による説明はなされたか  開沼氏は原発受容の論理を経済や政治よりも文化を重視して説明しようと していたようだが、実際には「ムラ」の文化がいかなるものか明示されたと は言い難い。「前近代性」の指摘も具体性に欠けている。むしろ、浜通りの 住民が貧しさからの解放を求めて原子力に飛びついたという、経済的動機へ の還元が見られるように思われる。 ②地方(県)の主体性の過大評価および認識不足  例えば、初代民選知事石原幹市郎については、彼が同時に最後の官選知事 でもあったことには触れていない。23 木村守江知事の反中央の立場という のも疑問である。24 むしろ自民党の大物政治家とのつながりを重視すべき ではないだろうか。 ③著者の立ち位置はどこか  開沼氏は果たして「下(ムラ)から」の視点で原子力をめぐる地方の服従 の様相を明らかにすることができただろうか。答えは「否」と言わざるを得

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ないであろう。ミクロ視点と言っても立地自治体レベルでの考察であり、そ の分析は自然村レベルには及んでいない。「普通の生活者」に行ったインタ ビューの扱いにも疑問が残る。加害/被害といった二分法から抜け出すとい う点は評価しうるが、清原氏が指摘するように25 今度は生活/葛藤という 二分法にとらわれてしまい、各地で根強く地元住民によって継続されている 反対運動を正当に評価しえなくなっているのではないだろうか。

Ⅳ. 地域支配構造理解についての提案

 開沼氏は中央と地方の原子力ムラの共鳴という図式を提示したが、中央の 原子力ムラの中心に位置する東京電力の地元工作については分析されていな い。しかし地域社会学にはいわゆる企業城下町に関する膨大な先行研究が存 在し、企業が多様な手段を行使して地域社会を支配する様を明らかにしてき た。「原子力ムラ」はその特殊事例とみなすことが可能である。電力会社と いう巨大資本の戦略を抜きにして、住民の大多数が原発を受容する理由を明 らかにすることはできないのではないだろうか。  さて、これまで企業城下町に関する研究の多くはマルクス主義的な手法で 行われてきたが、筆者はあえてM.ヴェーバーの支配概念にもとづいて原子 力城下町の支配構造を考察してみたいと考えている。「フクシマ論」の序論 で開沼氏はヴェーバーの「支配」「服従」「規律」の定義を提示している が 、26 その後の考察においてヴェーバー的な観点が十分生かされたとは言 えないであろう。しかし筆者(渥美)は、ヴェーバーの支配概念は原発立地 自治体の支配構造を解明するうえで一定の有効性を有すると考えている。た だし、その場合の支配は権威による支配(正当的支配)ではなく、それとは 「相互に両極的に対立する」とされる「利害状況による支配」である。ヴェ ーバーはその典型は「市場における独占的支配」であると述べているが 、27 原発は、関連企業も含めると、立地市町村の労働市場においてまさに独占的 な地位を占めている。一旦原子力中心の地域経済が確立すると、原子力を受 容しなければ、社会的に孤立し、安定した日常生活自体も困難になりかねな い。自治体は電源三法交付金の恩恵をうけ、原発からの税収や電力会社から の寄付等で財政的に潤い、その結果は住民に還元される。まさに国家により 保障された、電力会社の圧倒的な経済力に基づく「利害状況による支配」が 成立することになる。

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 ヴェーバーはこう指摘する。「単に市場的な・あるいは利害状況に原由す る支配は、まさにその無規律性の故に、一定の服従義務によって明確な形で 規制された権威よりも、はるかに重圧的に感じられるものである」。28   さらにヴェーバーは、経済的な資本の支配について以下のように論じてい る。   経済的な資本の支配は、他のあらゆる支配諸形態と異なって、その「非  人格的」な性格のゆえに、倫理的にはこれを規制することが不可能なので  ある。すでに外形的に見ても、資本の支配は、多くの場合に「間接的な」  形で現れ、われわれはその本来の「支配者」を全くつかまえることができ  ず、したがってまた彼に対して倫理的な要求を提出することができない。29    しかしヴェーバーも言うように、利害による支配は権威による支配に転化 することで安定する。30 原子力関連の膨大な諸法規による中央の官僚制支 配は、その末端に自治体行政を位置づけ、電力会社と地元企業の間にはパト ロン―クライアント関係が成立することになる。  従って、原子力施設が立地する自治体の権力分析には電力会社による地域 支配という観点が不可欠であるし、それは中央から市町村に至る官僚機構の 分析によって補完されなければならない。  また「フクシマ論」では不十分だった「自然村」――正確にはコミュニテ ィあるいは住民組織というべきであろう――レベルの研究が必要不可欠であ る。特に原子力関連施設建設以前からの住民からなる住民組織と、新たに移 住してきた新住民の住民組織との関係は自治体の政治構造自体にも影響を及 ぼすであろう。その点でもこれまでの地域社会学の蓄積が参照されるべきで ある。  以上の考察を踏まえて、今後東海村における現地調査を早急に実施してい きたい。

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『朝日新聞』2015年10月15日朝刊。 『東京新聞』2015年12月25日朝刊一面。 同上。 「地元」の範囲を巡る論点整理としては、「新規制基準と原子力発電所の再稼 働―川内原発再稼働を巡る論点を中心に」(『調査と情報』840号、国立国会 図書館調査及び立法調査局経済産業調査室、2015年1月8日)を参照されたい。 Yahoo News Japan 「原発の再稼働問題に関するアーカイブ一覧」

(http://news.yahoo.co.jp/list?t=nuclear_power_plant_reoperation)による と、薩摩川内市議会は2014年10月28日、伊方町議会は2015年10月6日、高浜町 議会は2015年3月20日にそれぞれ再稼働陳情決議を可決している。  開沼博『はじめての福島学』イーストプレス、2015年の奥付の記載による。 開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』青土社、2011年、 69頁。 「フクシマ論」61頁。 中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム――新潟県巻町と根源的民主主義 の細道、1994−2004』ハーベスト社。 「フクシマ論」58−68頁。 「フクシマ論」75−76頁。 「フクシマ論」118頁。抱擁embracingの語はジョン・ダワー『敗北を抱きし めて』に由来する。 清原悠「『ムラの欲望』とは何か―開沼博『「フクシマ」論』における「ム ラ」と戦後日本の位置―(『書評ソシオロゴス』No8./2012) 「フクシマ論」98頁。 「フクシマ論」97頁表4による。 「フクシマ論」76頁。 「フクシマ論」50頁。 鈴木栄太郎『日本農村社会学原理』上下(『鈴木栄太郎著作集』ⅠⅡ)1968年 (初版1940年) 「フクシマ論」66頁。 清原前掲論文、8頁。 同上、9−11頁。 中島久人『戦後史の中の福島原発――開発政策と地域社会』大月書店、2014 (注釈) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22

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年、107−108頁 「フクシマ論」 「フクシマ論」266−70頁。 清原前掲論文16頁。 「フクシマ論」36−37頁。 M.ウェーバー著、世良晃志郎訳『支配の社会学Ⅰ』、創文社、1960年、6頁。 M.ウェーバー著、世良晃志郎訳『支配の社会学Ⅰ』、創文社、1960年、10頁。 M.ウェーバー著、世良晃志郎訳『支配の社会学Ⅱ』、創文社、1960年、596頁。 M.ウェーバー著、世良晃志郎訳『支配の社会学Ⅰ』、創文社、1960年、7頁。 23 24 25 26 27 28 29 30 参考文献 ヴェーバー、マックス著、世良晃志郎訳(1960)『支配の社会学』Ⅰ、創文社 ヴェーバー、マックス著、世良晃志郎訳(1960)『支配の社会学』Ⅱ、創文社 開沼博(2015)『はじめての福島学』イーストプレス 開沼博(2011)『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』青土社、2011年 鈴木栄太郎(1968)『日本農村社会学原理』(『鈴木栄太郎著作集』ⅠⅡ) 中澤秀雄(2005)『住民投票運動とローカルレジーム――新潟県巻町と根源的民主主  義の細道、1994−2004』ハーベスト社 中島久人(2014)『戦後史の中の福島原発――開発政策と地域社会』大月書店 清原悠(2012)「『ムラの欲望』とは何か―開沼博『「フクシマ」論』における「ム  ラ」と戦後日本の位置―」(『書評ソシオロゴス』No8.) 『調査と情報』840号、国立国会図書館調査及び立法調査局経済産業調査室、2015年1  月8日、1−14頁。

Yahoo News Japan 「原発の再稼働問題に関するアーカイブ一覧」    (http://news.yahoo.co.jp/list?t=nuclear_power_plant_reoperation)

参照

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