茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十五号 (二〇一六)一三︱二五 はじめに 本稿は、法律文化社から出版された宍戸常寿編『一八歳から考える 人 権 』 で わ た し が 担 当 し た 第 一 章
iの メ モ 書 き を、 さ ら に 詳 し く 書 き
直したものである。この本自体が、そのタイトルからも理解できるよ
うに、高校生および大学一年生を対象としており、教育学部に所属し
ていながら、このような教育書を書いたことのない私には新鮮であっ
た。また、高校の公民系の教科書をあらためて読み直し、最低限、未
履修でないとすれば理解されているべき学習内容が、 意外と専門の 「日
本国憲法」に踏み込んでいる事実を再確認できた。したがって、その
メモ書きを元に再構成したのが、本稿である。
第一章
「人権」を尊重するって簡単に言うけれど 第一節 近代立憲主義と基本的人権の尊重 これから、人権を勉強しようとする初学者の皆さんへ。まず、箪笥
に仕舞われた
―まだ、箪笥に仕舞われていない
―中学 ・ 高校の公民系、
そして世界史・日本史の教科書を引っ張り出して、まずは公民系なら
ばプラトン、ホッブズ、ロック、モンテスキュー、カントあるいはミ
ル等の政治思想の解説に目を通してみよう。次に、歴史系ならば、特 に一六世紀以降の西欧史、明治維新以降の日本史の流れをストーリー 仕立てで概要を把握してみよう。そうすると、これらのバラバラの学 問が、実は繋がっていることが理解できる。このような文
コンテキスト脈で、日本
国憲法が西欧流の近代立憲主義に基づくものに分類される
ii。そして、
わが国の現行憲法が規定する人権は、この近代立憲主義という枠内で
保障され、その思想に基づくルールで解釈・適用されている。
それでは、近代立憲主義とは何か。これについては、憲法学者間の
意見に大きな相違はない。したがって、いま手元にある高橋和之『立
憲主義と日本国憲法 第3版』の説明を借りるならば、以下のものに なる
iii。 「 立 憲 主 義 と は、 政 治 は 憲 法 に 従 っ て な さ れ な け れ ば な ら な い と い
う思想をいうが、そこでいう憲法はいかなる内容の憲法でもよいので
はなく、人権保障と権力分立の原理に支えられたものでなければなら
ないと考えられたのである。一七八九年のフランス人権宣言一六条は
「 権 利 の 保 障 が 確 保 さ れ ず、 権 力 分 立 が 定 め ら れ て い な い 社 会 は、 す
べて憲法をもつものではない」と規定したが、立憲主義の典型的な宣
言といわれている。 このような立憲主義を基礎にした近代の憲法を 「立
憲的意味の憲法」と呼ぶのである。 」
※ フ ラ ン ス 人 権 宣 言 一 六 条 で 示 さ れ て い る よ う に、 近 代 立 憲 主 義 は 人権を考えるための基礎知識 Basic knowledge in order to consider the human rights 中
野
雅
紀
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十五号 (二〇一六) 一四
国 民 の 権 利・ 自 由 と、 そ れ に 対 抗 す る 国 家 の 権 力 の 構 成・ 行 使 の あ り 方 の 双 方 の 規 定 を、 そ の 骨 子 と し て い る。 例 え ば、 わ れ わ れ が、 弱 い 存 在 で あ る の び 太 で あ り、 い じ め っ 子 で あ る ジ ャ イ ア ン、 ス ネ 夫、 出 木 杉( 国 家 権 力、 立 法、 行 政、 司 法 ) か ら、 生 存 戦 略 を は か る と す れ ば、 彼 ら を 仲 間 割 れ さ せ る こ と が 得 策 で あ る。 こ の よ う に 言 う と、 「 出 木 杉 君 は そ ん な こ と を す る 子 で は な い 」 と い う 人 が い るので、一言しておくと、これはたとえである。
ちなみに、カール・シュミットは、以上のことを市民法治国家の基 本的配分原理と呼び、 「個人の自由の領域は原則として無限定であり、 国家の権限は原則として限定されている」とした
iv。 さて、みなさんは、すでに公民で日本国憲法の三大原理(原則)を
学習済みである。例えば、公民の指導書によれば、三大原理とは「国
民 主 権 」 、 「 基 本 的 人 権 の 尊 重 」 お よ び「 平 和 主 義 」 と 書 か れ て い る。
まず、 このことを前提にして、 三大原理の中での「基本的人権の尊重」
の位置づけを考えてみよう。ところで、そもそも近代立憲主義憲法の
原 理 と い う も の は、 こ の 三 大 原 理 に 限 定 さ れ る も の な の で あ ろ う か。
ここら辺りを疑えれば、実は法学的センスがある。ちなみに、日本と
同じ近代立憲主義に基づくドイツ連邦共和国の憲法においては「基本
価値」として「自由の原理」 、 「民主制原理」 、 「人権・基本的自由尊重
の原理」および「法治国家の原理」が挙げられ、必ずしも数をはじめ
として日本国憲法の三大原理と一致するわけではない。では、日本国
憲法の原理としていまだ 「法治国家の原理」 が採用されていないのか、
あるいは「法治国家の原理」が三大原理に比べて劣っているのか。ま
た、 「 権 力 分 立 」 は ど う な の か。 実 は、 三 大 原 理 は 講 学 上、 つ ま り 教 える便宜上列記されているだけで、 「法治国家の原理」や「権力分立」
も 三 大 原 理 に 劣 ら ず 重 要 な 原 理 で あ る
v。 な お、 三 大 原 理 の 法 的 意 味
合いは、これらの原理については本質的な改正は許されないという学
説上の合意が存在する点にある。
※憲法改正には、条文の変更をおこなう狭義の「憲法改正」と、条 文 の 変 更 を 行 わ ず、 解 釈 の 変 更 を お こ な う「 憲 法 変 遷 」 が あ る
vi。 法 実 証 主 義 の 立 場 か ら は、 「 憲 法 改 正 無 限 界 説 」 が 主 張 さ れ る こ と も あ るが、わが国の学説では三大原則は改正・変更できないという見解が 有力である。近時、憲法手続の改正の限界も議論されるようになって いる
vii。
次に、この三大原理の序列は歴史的変遷を経ている。以下、その点
をふれておきたい。
ま ず、 ト マ ス・ ホ ッ ブ ズ(
Thomas Hobbes 1588-1679) は、 そ の 当
時としては驚くほど長生きした人物であった。そのために、彼はイン
グランドにおける二つの戦争・内乱を生まれた時、そして晩年に経験
することになる。彼が母親のお腹にいた時、いわゆるイングランドに
スペインの無敵艦隊が攻めてきた。このトラウマから、成人したホッ
ブズが外国による国家の平和の破壊の恐怖を念頭にして執筆したのが
『リヴァイアサン』
viiiである。問題は彼が晩年、後のチャールズ二世
の数学の家庭教師をしていた時、ピューリタン革命が起こり、王政が
倒れたことである。この衝撃は大きく、彼が内乱による国家の破壊の
恐怖を念頭にして執筆したのが『ビヒモス
―あるいは英国における長
期議会
―』
ixである。両書において、彼は以下のような社会契約を考
えた。すなわち、人間は生まれながらにして自由で平等である。しか
人権を考えるための基礎知識
Basic knowledge in order to consider the human rights中野 一五 し、自由で平等であるがゆえに殺人の自由も、また反撃する自由も認 められ、契約を結ぶ前の「自然状態」においては「万人が万人に対し て 狼
bellum omnium contra omnes」 で あ る 悲 惨 な 人 間 関 係 に 陥 る。
これを回避するために、ホッブズは、人間は本来的に暴力を行使する
自由を有しているが、 それを一旦、 全部国家に移譲すべきだ、 とする。
そうすれば、誰も他人に対して暴力を振るうことはない。では、この
契 約 者 の 中 で 約 束 を 破 っ て 暴 力 を 振 う 者 が 出 て き た 場 合 に ど う す る
か。 こ れ は、 「 フ リ ー・ ラ イ ダ ー」 の 問 題 と い わ れ て い る。 そ の 時 は
じめて、国家は契約を結んだものから一括して委譲された「暴力」を
組織化した軍隊、あるいは警察を使ってこの契約違反者に制
サンクション裁を加え
る。このように、彼は国家設立による平和こそ必要であり、そもそも
手段であった「平和」そのものを自己目的化した。
こ れ に 対 し て 、 イ マ ニ ュ エ ル ・ カ ン ト (
Immanuel Kant 1724 - 1804)
はある物事を考えるに際して、常に「目的」と「手段」の関係に配慮
す る こ と を 強 調 す る。 彼 の こ の 考 え は、 「 人 間 は そ れ 自 身 が 常 に 目 的
として取り扱われるのであって、決して手段として取り扱われてはな
ら な い 」 ( 定 言 命 法 第 二 定 式 ) に 要 約 さ れ る
x。 具 体 例 と し て『 永 遠 の ゼロ』
xiの よ う に、 皆 さ ん が 第 二 次 世 界 大 戦 末 期 に 生 き て お り、 召 集
令 状 を 受 け 取 り 航 空 部 隊 に 配 属 さ れ、 飛 行 訓 練 を 続 け て い た と す る。
そんな時、上官から呼ばれて「明朝、戦闘機に乗って敵航空母艦に神
風攻撃をしてくれ。お前の死は無駄ではない。それによって神風が吹
き、 戦 局 が 逆 転 し、 わ が 国 は 絶 対 に 勝 つ 」 と 言 わ れ た ら ど う す る か。
皆さんなら、この命令を聞けば、そんな馬鹿な命令は聞けるかと言う
に違いない。なぜならば、功利主義的な計算を除外しても、自分が国
家存続のための手段として死ぬことは御免であるという感情を持ち合 わ せ て い る か ら だ。 つ ま り、 国 家 な る も の は 自 分 た ち が 自 ら の 生 命・
自由・財
プロパティー産を守るという目的のための権力装置として設立されたはず
なのに、なぜ主客が転倒して手段のために目的たる自分の諸利益、こ
こでは自分の生命を犠牲にしなければならないか、疑問に感じるから
だ。 こ の よ う に し て、 カ ン ト は 自 殺( 自 殺 す る と 人 は 物 に な る ) 、 売
春(売春は自分の商品化)あるいは嘘(自分をごまかし、自律性を損
ねる)を否定する。この点を留意して、 カントの『永遠平和のために』
を読んで欲しい
xii。 なお、フランス革命期における個人の利益と社会的利益のシビアな
対立を知るために、アンジェイ ・ ワイダ監督の「ダントン」 (一九八三
年)を観ることをお勧めする。
こ の よ う に、 ホ ッ ブ ズ 流 の 考 え に 立 つ な ら ば、 「 平 和 主 義 」 が 優 先
す る で あ ろ う し、 カ ン ト 流 の 考 え に 立 つ な ら ば「 基 本 的 人 権 の 尊 重 」
ないし「国民主権」が優先するであろう。もちろん、このような秩序
づけは無意味だと主張することは可能である。その場合には、マック
ス・ヴェーバーの「価値相対主義」を持ち出すと良いだろう
xiii。しか
し、三大原理の序列を意識した上で、それを否定することと、それを
意識せずに等価値なものと即断するのでは、学問上の深化の度合いが
異なる、と私は思うのであるが……。少なくとも、現在のわが国の憲
法学では十分な議論がなされていると言えない。
※ 価 値 相 対 主 義 と い え ば 、 ま ず 、 マ ッ ク ス ・ ヴ ェ ー バ ー の
Wertfreiが 想 起 さ れ る だ ろ う。 す な わ ち、 近 代 市 民 社 会 成 立 以 降、 国 家 や 教 会 等 の 権 威 が「 何 が 正 し い の か 」 を 教 え て く れ る 時 代 か ら、
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十五号 (二〇一六) 一六 個人は解放されたのである。 そこでは、 「個人は真の宗教だけではなく、 い か に 生 き る の か を も、 自 ら 選 ば な く て は な ら な い。 」 し か し、 並 存 する価値からの選択は現実には「個人」にとって厳しい。コナン君の よ う に、 「 真 実 は い つ も ひ と つ 」 と 言 え れ ば、 ど ん な に 楽 な こ と か。 ドイツにおいては、 これに対処するためにヴァイマール期、 ルドルフ ・ ス メ ン ト が「 統 合 理 論 」 を 提 唱 し た り
xiv、 一 九 六 〇
-一 九 七 〇 年 代、 政 党 間 で「 基 本 価 値 論 争 」 が 議 論 さ れ た
xv。 日 本 に お い て も、 芦 部 信 喜の審査基準論は「基本権価値のランク秩序」に依拠している、とさ れる
xvi。
第二節「人権」とは何か まず、人権とは「人間が生まれながらに有する権利」である。しか
し、この「権利」なることばを皆さんは、本当に理解しているのであ
ろうか。ここで、明治の翻訳事情と絡めて「権利」という訳語の成立
を 見 て み る こ と に す る。 そ も そ も、 「 権 利 」 た る 概 念 は 明 治 維 新 前 後
まで、 わが国に存在していなかった。この語は、
Rightの翻訳である。
ま ず、
Rightを「 権 利 」 と 訳 し た の が 西 周 で あ る。 そ し て、 こ の 翻 訳 を 批 判 し た の が 福 澤 諭 吉 で あ っ た。 福 澤 は、
Rightの 翻 訳 に「 通 義 」
の 訳 語 を 当 て た。 福 澤 の 反 対 理 由 は、 「 天 ノ 人 ヲ 生 ズ ル ハ 億 兆 皆 同 一
轍ニテ、之ニ賦与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。即チ其通
義トハ人ノ自カラ生命ヲ保持シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ、他ヨ
リ之ヲ如何トモス可ラザルモノナリ。人間政府ヲ立ル所以ハ、此通義
ヲ固クスルタメ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ
テ真ニ権威アルト云フベシ」という米国独立宣言の文章の翻訳にあら
われている。そして、福澤は『学問のすゝめ』で「権理通義」と表現 するようになった。福澤訳 「権理」 は自然法思想に沿ったものである。
その対比として、西訳「権利」は法実証主義に沿ったものである(厳
密に言えば、このような二分法が正しいわけではないが、初学者の皆
さ ん は 一 応、 そ う 理 解 し て お い て く だ さ い ) 。 と こ ろ で 結 局、 「 権 利 」
で あ ろ う と「 権 理 」 で あ ろ う と、 「 権 」 の 字 は 残 っ た。 実 は、 こ れ が
重要なポイントだ。なぜならば、 「権」の語源、それは「量りの分銅」
のことを意味するからである。すなわち、 利益にせよ、 理
ことわりにせよ、 「権
利」 には量りにかけて重きをとるという意味が組み込まれた。これは、
「 衡 量
balancing」 と し て 今 日 も 人 権 の 調 整、 特 に「 公 共 の 福 祉 」 の 説 明 の た め に 使 わ れ て い る
xvii。 こ の よ う に、 「 人 権 」 は 人 の「 権 利 」
ということになり、その中には自然権としての「人権」と、実定法と
しての憲法によって保障された「権利」がある。そうであれば、人権
に は 大 別 し て「 人 権 」 と「 憲 法 上 の『 権 利 』 」 の 二 つ が あ る こ と に な
る
xviii。
※法的価値は法規範によって体現されるのであるから 、この衡量は 「 規 範 と 規 範 の 衡 量 」 で あ る 。 こ れ に は 、「 ノ ン フ ィ ク シ ョ ン 『 逆 転 』 事 件 」 の よ う に 「 権 利 と 権 利 の 衡 量 」 を 行 う 場 合 と 、「 景 観 条 例 事 件 」 の よ う に 「 権 利 と 社 会 的 利 益 の 衡 量 」 を お こ な う 場 合 が 考 え ら れ る
xix。
人権の衝突が避けられない以上、その解決のために「論証と反証の ゲ ー ム で あ る 比 較 衡 量 を 用 い な け れ ば な ら な い。 あ る 学 説 は、 「 価 値 秩序を相対化したうえでの個別的衡量は、結局は裁判所の直観と前理 解に左右される危険性がある」と批判する。なるほど、 人権にA、 B 、 C とランクがあれば、人権Aと人権 B の衝突はこの優先関係に従って 解決されれば良く、そこに裁判所の恣意が入り込む余地はないように
人権を考えるための基礎知識
Basic knowledge in order to consider the human rights中野 一七 思 わ れ る。 し か し、 「 人 権 を 制 約 で き る も の は 人 権 で あ る 」 と い う 定 式に従うならば、人権の制約を正当化する人権を示さなければならな い。そのためには、人権Aを基礎づける原理と、それを制約する人権 B の原理の比較衡量が不可欠ということになる
xx。
※ 人 権 の 制 約 と し て、 「 公 共 の 福 祉 」 が 語 ら れ る。 人 が ひ と り で 生 活していない以上、漠然とした「公益」による人権制約は認められな い が、 「 基 本 的 人 権 相 互 の 矛 盾・ 衝 突 の 公 平 な 調 整 」 は あ っ て し か る べきであろう。このことを原則として、次に例外とし「パターナリス チックな制約」 、「調整問題の解決」あるいは「公共財の提供」の問題 が 語 ら れ る べ き で あ る
xxi。なお、 これとの関係でさらに「内在的制約」 と「外在的制約」の関係で「一元説」と「二元説」の問題が、あるい は人権の保護領域との関係で「一段階画定」と「二段階画定」の問題 が 語 ら れ る。 な お、 「 調 整 問 題 の 解 決 」 と の 関 係 で 芥 川 龍 之 介 の「 侏 儒の言葉」を参考のこと
xxii。
さ ら に 話 を 続 け る と、
Rightや
Rechtは「 右、 正 し い、 法、 権 利 」
の意味であるが、 翻訳上、 日本と欧米ではその意味のギャップを生む。
すなわち、 これらに 「客観的」 という形容詞がつけば 「法」 であり、 「主
観的」 という形容詞がつけば 「権利」 ということになる。したがって、
実は欧米では「法」と「権利」の区別があるわけではなく、ただ「主
観法」と「客観法」の区別のみがあるとも言える。
で は、 こ の 区 別 が 現 行 の 法 制 度 に お い て 無 意 味 な 議 論 で あ る の か。
答えはNOである。なぜならば、わが国は付随的違憲審査制度(憲法
七六条と八一条の包摂関係)を採用しているので、主観的権利が関係 する具体的訴訟事件が提起されなければならないからである(原告適 格 ・ 当事者適格の問題)
xxiii。 こ れ に 対 し て、 一 般 論 と し て「 人 権 が
危険に晒されている、あるいは憲法が危険に晒されているのに、当事
者でなければ違憲を争えないのはおかしい」と批判したいことは理解
できる。しかし、なんの法律上の利益も有しない者にまで訴えを認め
てしまうと、実は本当の法律上の利益を有する当事者の自律性やアイ
デンティティを無視することにもなりかねない(例えば、和解してい
るのに、正義の議論が尽くされていないから戦えと言えるのであろう
か)
xxiv。 ※この問題について、ただ人権の観点からだけではなく、司法権そ のものの存在理由から説明がつかないか。そこで、参考になるのが以 下の佐藤幸治の指摘である
xxv。
原理的決定に当事者が拘束されるという構造である。 剣に争うということを前提に、公平な裁判所がそれに依拠して行う法 紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・利益をめぐって理を尽くして真 たるところにあると解される。これに最もなじみやすいのは、具体的 して決定するという、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程 な手続を基盤に、関係当事者の立証と法的推論に基づく弁論とに依拠 「 司 法 権 が 司 法 権 た る ゆ え ん は、 公 平 な 第 三 者( 裁 判 官 ) が、 適 正
この構造は、近代立憲主義と深くかかわりあっていることに留意す る必要がある。つまり、この構造は、国民はその代表者の選挙を通じ て立法過程に参与する一方、そのような法の下での国民各自の具体的 な権利・義務関係のあり方はそれぞれ自ら決定していくという自己決 定の原則、および国民各自の具体的な権利・義務関係について、自己
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が適正に代表されていない過程によって拘束的に決定することは不公 正 で あ る と い う 観 念( デ ュ ー・ プ ロ セ ス の 思 想 )、 と 結 び つ い て い る のであって、具体的事件・争訟性の要件は、このような原則と観念を 充足するという役割をもっているのである。 」
近年、ドイツの学説に倣って、わが国においても人権条項の客観法 的内容を検討しようとする研究方法が見られる
xxvi。
第二章
人間だから「権利」があるの?―「人権」を基礎づけるもの とは何か 近年、 日本の捕鯨業やイルカ漁を巡って、 あるいは『寄生獣』や『進
撃の巨人』のアニメ化や映像化を通じて、フランス啓蒙期から大革命
期にかけての理性万能主義的な「人権」の基礎づけ、あるいはそれ以
前からあった「神の似姿」や「人間の尊厳」に基づく基礎づけに疑問
が投げかけられている。そこで、諸説考えられるが、私は以下の基礎
づけ論を採る。
※ここで、注意しておきたいのは「万物の霊長」の由来である。何 か、 この言葉は旧約聖書の『創世記』に由来しているように思えるが、 この出典は『経書』秦誓上である
xxvii。
いずれにせよ、人間の生物界における叙階は、人間そのものの地位 の低下と、人間以外の動物の地位の上昇により、かなりの価値低減を していると言えよう
xxviii。 ここでは、ロベルト・アレクシーの討議理論、あるいは相互承認論
を支持すると答えておく。なぜならば、もし、私が「お前の人権は認
めないが、お前は俺の人権を認めろ」と言ったとすれば、相手方であ
る皆さんが、 私の人権を承認するとは思われない。当然のことながら、
このような場合は、ジャイアンではないのだから、私も、他者である
皆さんもお互いの人権を認め合ってはじめて、その人権が認められる
ことになる。合理的なプロセスを経て、ルールの正当性・合理性は形
成され、確保される。そのためには、個々人の自律性が保障されてい
る必要があり、さらには人権の保障が必要とされる。
※ジャイアンの「のび太のくせに生意気だ」というセリフは、彼の 「 お 前 の も の は 俺 の も の、 俺 の も の は 俺 の も の 」 と 並 ん で、 の び 太 の 人 権 を 無 視 し た 暴 言 で あ る。 「 メ ガ ネ を か け て い る か ら 生 意 気 だ 」 と 言うのであれば、のび太はコンタクトにしたりして改善することがで き る が、 「 の び 太 の く せ に 生 意 気 だ 」 と 言 わ れ て し ま っ て は、 の び 太 はのび太以外のなにものにもなれないので、のび太の存在そのものの 否定である。これを討議理論に即して言えば、 ジャイアンの発言は 「あ る主張の理由づけが不十分なのに、対話者の相手が自分より劣ってい るということで、反論を認めないことになり、真のコンセンサスが得 られず」 、カント型の人権の基礎づけに反することになる。すなわち、 討議理論や、相互承認の理論はいわゆる「理想的発話状態」が成立し ていなければ、有効な理論ではない
xxix。
もっとも、人権の基礎づけに関して、私見を含め「神の似姿」 、 「人
間の尊厳」 、 「人間理性」 、 「功利主義」あるいは「進化論」のいずれを
主張しても、赤坂正浩が主張するように、万人を説得することができ
人権を考えるための基礎知識
Basic knowledge in order to consider the human rights中野 一九 る の か は 疑 わ し い
xxx。 こ こ で は、 「 近 代 立 憲 主 義 」 の 立 場 か ら、 あ え
て何が善き説明方法なのかについて、皆さんに押し付けないことにす
る。 ※そもそも、人権の基礎づけ自体、一つの説明法で説明できるのか どうかを検討しなければならない。
第三章
人権と国家―国家は国民の敵か友達か 樋口陽一によると、近代立憲主義国家の特徴は「個人を抑圧する身
分制社会という社会の編成原理そのものを、 考えの上で……否定する、
と い う と こ ろ に 」 あ る。 つ ま り、 そ れ ま で の 封 建 社 会 に お い て 人 は、
それぞれの身分制秩序の中に組み込まれたかぎりにおいて存在してい
た。そして、この身分制秩序から人一般という個人が解放されたこと
が重要である。とにかく、身分社会においては個人の上に国王だけで
はなく、教会や貴族、はたまたギルドや家族という「中間団体」が何
重にも「重し」として乗っかっていた。では、この中間団体がなくな
れ ば ど う な る の か。 そ れ は、 「 人 権 」 の 担 い 手 で あ る 個 人 と「 主 権 」
の担い手である国家が二極構造として直接対峙することになる。ここ
で は じ め て、 「 人 権 」 は 国 家 に 対 す る 権 利 と な っ た
xxxi。 し た が っ て、
冒頭の問いに答えるとするならば、個人たる「国民」と「国家」は対
向 的 関 係 に あ る わ け な の で、 「 敵 」 と ま で 言 う 必 要 は な い が、 「 友 達 」
とは言えない。そう考えると、どうして「国家からの自由」 、 「国家に
よる自由」および「国家への自由」を初等・中等教育の社会で学んだ
のかが、合点がいくはずだ。反対に、政治家が「日本は義務の規定が
少ないので、義務の規定を増やすように憲法を改正すべき」と言って いるのが、ナンセンスであることも分かる。なぜならば、憲法は国民 の生命・自由・財産を守るために、国家・政府を縛る必要があるから だ。上述の政治家のような発言は、憲法上の権利義務の名宛人を間違 えている。その歴史的実例を端的に示しているのが、初期フランス憲 法やアメリカ合衆国憲法が人権条項を置かなかった事実である。国家 あるいは連邦は与えられた権限以外のことはなしえないと理解されて いたからである。このように国民の自由領域を画定することによって ではなく、統治機構条項を手続的ルールによって統制することによっ て人権の保障がはかられたのである
xxxii。
※まず、 人権の中で「真性の基本権」であるのは「自由権」である。 なぜならば、天賦人権である人権は、国家の存在を前提としていない 以 上、 「 国 家 か ら の 自 由 」 で あ る こ と は 容 易 に 想 像 さ れ る か ら だ。 こ こ で は、 権 利 命 題 を「
RabG」 と 記 号 化 し た 上 で 説 明 を 加 え る
xxxiii。 こ の 命 題 記 号 を「 a は b に 対 し て、 あ る こ と G を 求 め る 権 利 R が あ る 」 とするならば、人権は「個人 a は国家bに対して G を求める権利 R が ある」ということになる。そして、義務論の方形によれば、この権利 と つ い に な る の が、 そ れ に 対 応 す る 国 家 の 義 務 と い う こ と に な る
xxxiv。 もし、 a もbも個人であれば、それは「私法上の権利」関係というこ とになり、 「私人間効力」の問題である。 「私法」というゲームに、 「公 法」というゲームのカードは使えない。このように、誰が、誰に対し て「権利」を持っているのかということを明確にする「名宛人」につ いては注意が必要である
xxxv。
第一節
人権と裁判所
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十五号 (二〇一六) 二〇 人権の保障は、裁判所の救済を伴ってはじめて実効的保障を獲得す る こ と が で き る
xxxvi。 裁 判 を 受 け る 権 利 が 重 要 な の は そ の た め で あ る。
したがって、裁判には執行力が伴う。まさか、裁判で「あなたの主張
する○○権は認められました。よかったですね、パチパチパチ」で終
わ っ て し ま う の な ら、 な に か 話 を は ぐ ら か さ れ て い る
xxxvii。 ま た、 判
決に至るまでの過程を明らかにするためにも、 裁判には執行力が伴い、
ゲ ー ム の 公 正 さ を 担 保 し な け れ ば な ら な い。 特 に 人 権 の 機 能 的 解 釈
xxxviii
は、 規 範 構 造 解 釈 に 比 べ て こ の 過 程 に お け る ブ ラ ッ ク ボ ッ ク ス 化
の問題が出てくる虞がある。それを防ぐ制度が対審構造であり、それ
を担保する権利が裁判を受ける権利である。
第二節 人権保障とカルピスの密度 まず、人権保障は「量」よりも「質」であることを理解しておく必
要 が あ る。 言 い 換 え る な ら ば、 保 障 に 資 す る「 密 度 」 の 問 題 で あ る。
か つ て、 「 新 し い 人 権 」 と の 関 係 で 奥 平 康 弘 は「 人 権 の イ ン フ レ 」 の
問 題 を 指 摘 し た
xxxix。 あ る い は、 ド イ ツ で は、 ク リ ス チ ャ ン・ シ ュ タ ル ク が「 グ ロ テ ス ク な 権 利 」 の 問 題 を 提 起 し た
xl。 こ れ は、 以 下 の よ
うに解釈すべきである。いくらカルピスが好きでも、カルピスの原液
を買ってきて、キャップ一杯の原液をバスタブに入れて水で薄めても
美 味 し い は ず が な い。 カ ル ピ ス を 美 味 し く 飲 む た め に は、 カ ル ピ ス・
ウォーターぐらいの原液と水との割合が適量であろう。反対に量を増
やせば、それだけ制約がかかる可能性が増えるということを考える必
要がある。また、人権を「切り札」として考えるときに、すべての人
権を同じ強さの「切り札」としてしまうことも、これもまた問題であ
る。カード ・ ゲームの 「大富豪」 において一番強いカードがジョーカー や2に限定されているからこそ、ゲームの勝敗がつくし、また面白さ があるのであって、すべてのカードが「切り札」であるとすれば収拾 がつかない。裁判もゲームである。 ※人権の規定および保障は「量より質」である。もし、保護範囲を 広 げ た と し て も、 そ こ で 保 障 さ れ る 人 権 が「 一 応 の 権 利 」 に 過 ぎ ず、 後 か ら、 そ の 行 使 の 段 階 で 大 幅 に「 制 約 」 さ れ る の で あ れ ば、 「 朝 三 暮 四 」 で あ る
xli。 一 点 付 け 加 え る な ら ば、 こ の「 質 と 量 」 の 問 題 は、 違 憲 審 査( 統 制 ) 基 準 の 密
ディヒト度 の 問 題 と 大 き な 関 係 が あ る
xlii。 詳 細 は 以 下に譲るが、イメージしてもらうならば感覚点である「痛点」と似て いる。 ※ 当 然 の こ と な が ら、 「 逆 転 裁 判 」 の ス ト ー リ ー の よ う な 裁 判 が 現 実に行われているわけではない。しかし、裁判において使用できる手 駒は、ゲームと同じように一定のルールに拘束されている。したがっ て、 ゲ ー ム の ル ー ル に そ ぐ わ な い カ ー ド( 証 拠・ 証 言 ) は 使 え な い。 ここでは、あえて証拠品や証言をよく考えた上で、自らの主張の「パ ンチ力」 を決定的なものにすることを指摘しておきたい
xliii。 すなわち、 どんな主張でも良いというわけではなく、 ゲームのコマンドである 「ゆ さ ぶ る 」 や「 つ き つ け る 」 を 有 効 に 使 っ て、 「 異 議 」 を 申 し 立 て な け れば、阿内検事、狩魔父娘、御剣検事、ゴドー検事に勝てないことを 理解する必要がある。 第三節 人権と裁量の問題
すでに、近代立憲主義法は、国家権力を恣意的な裁量を規範的に縛
人権を考えるための基礎知識
Basic knowledge in order to consider the human rights中野 二一 る こ と は 説 明 し た。 し た が っ て、 「 国 家 か ら の 自 由 」 で あ る 自 由 権 が
原 則 で あ り、 「 国 家 に よ る 自 由 」 で あ る 社 会 権 は そ れ を 補 完 す る も の
で あ る。 な ぜ な ら ば、 「 国 家 か ら の 自 由 」 は 国 家 に 不 作 為 を 要 求 す る
も の だ か ら だ。 例 え ば、 「 殺 す な 」 と い う 命 令 は ど ん な 手 段 で あ っ て
も殺してはならないのであり、そこに選択の余地はない。これに対し
て、 「国家による自由」は国家に作為を要求するために、 事情が異なっ
て く る。 「 川 で 溺 れ て い る 子 ど も を 助 け ろ 」 と い う 場 合 に は、 こ の 命
令 を 実 現 す る た め の 選 択 の 手 段 が 広 が る 。 泳 ぎ の 得 意 な 者 な ら ば 泳
い で 助 け る か も し れ な い 。 河 原 に あ っ た タ イ ヤ を 投 げ て 助 け よ う と
す る か も し れ な い 。 携 帯 電 話 で 救 助 隊 を 呼 ぶ か も し れ な い
xliv。 こ の
よ う に 、 命 令 の 名 宛 人 に 広 い 裁 量 の 余 地 を 与 え る こ と に な る。 ま た、
過度のパターナリスチックな援助は個人の自律性を損ねる危険性があ
る
xlv。 ※人権を考える際、
以下の四段階が考えられる。①人権の基礎づけ、 ② 人 権 の 分 類、 ③ 人 権 の 司 法 審 査 基 準、 ④ 救 済 方 法。 し か し な が ら、 これらはまったく別々に学説上展開されてきたのであり、全体的に整 合性が取れている理論は何か、答えることは難しい。ここで注意する 必 要 が あ る の は、 ② と ③ を 安 直 に 結 び つ け、 「 〇 〇 権 」 が 問 題 と な っ て い る か ら、 「 ● ● の 基 準 」 を 当 て は め よ う と し て は な ら な い こ と で ある
xlvi。
このことを前提とした上で、 わが国においては人権の種類として 「国
家からの自由」=「自由権」=「防禦権」 、 「国家による自由」=「社
会権」≒「配分請求権」 、 「国家への自由」=「選挙権」=「公務就任
権 」 と い う 分 類 が な さ れ て い る。 言 う ま で も な い が、 「 自 由 権 」 が 原 則であり、 「社会権」は、それを補完するものである。
ところで、国家権力、ここでは立法、行政、司法の裁量と人権は相
関関係にある。本文で説明したように、裁量する側に選択肢を多く与
えれば裁量権が広がるし、選択肢を少ししか与えなければ、裁量権は
狭まることになる。この法律の仕組みが分かれば、司法権の限界とし
ての立法裁量や行政裁量の説明も理解しやすい。
第四節 民主政と人権 民主政は必ずしも人権に適合的ではない。ゲオルグ・イェリネック
が『少数者の権利』を書いているように、実は人権の多くは「少数者
の 権 利 」 に 由 来 す る
xlvii。 そ も そ も、 多 数 者 の 側 の 人 権 が 民 主 主 義 的
多数決によって制限され、否定される危険はあまり考えられない。
反対に言えば、各国の憲法で厚く保障されている人権は、その国で守
られてこなかった 「黒歴史」
xlviiiである。むしろ、多元的社会のなか
で は、 異 な る 意 見 を 討 議 に よ っ て 戦 わ せ る こ と が で き る「 討 議 空 間 」
を構築する必要があろう (違憲審査制度を含めた司法権)
xlix。
※
そ の 国 の 憲 法 の 人 権 条 項 を 読 め ば、 そ の 国 の い わ ゆ る「 黒 歴 史 」 を知ることができる。具体例として、なぜ、ヨーロッパの憲法におい て「宗教の自由」や「信仰の自由」が重要なのかと言えば、ヨーロッ パでは絶えず宗教戦争が起こっていたからだ。アメリカ合衆国が修正 条項で「平等」を厚く保障するのは、黒人奴隷を認めてきた歴史があ るからだ。日本国憲法において、三一条以下の刑事手続規定が詳細な
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十五号 (二〇一六) 二二
のは、治安維持法等とは別に、糾問主義に基づく自白偏重による被疑 者の取り調べが認められていたからだ。このような文脈で、改宗ユダ ヤ人であるイェリネックの『少数者の権利』を読むと良いだろう。
最後に、人権の考察においては少数者の権利のみならず、その権利
の脆弱性も大きなファクターとなる点を付け加えておく。
第五節 違憲審査と人権の分類
まず、わが国の人権は、イェリネックの『公権論』の分類を参考に
して、 「受動的地位」=義務、 「消極的地位」=自由権、 「積極的地位」
= 社 会 権、 「 能 動 的 地 位 」 = 参 政 権 の 四 つ に 分 類 さ れ る。 し か し、 わ
が国の学説はイェリネックの分類を、そのまま採用しているのではな
く、それを「換骨奪胎」して採用している(学説的には、イェリネッ
ク の 分 類 に ケ ル ゼ ン の 分 類 が 挟 み 込 ま れ る )
l。 石 川 健 治 に よ れ ば、
フランス革命以降、主権国家は「家父長」を中心とした「身分」を解
体 し、 市 民 の「 地 位 」 に 再 編 成 し た と さ れ る
li(対比として、 村上淳 一 『ドイツ市民法史』 )
lii。 そ れ ゆ え に、 わ が 国 の 理 論 と イ ェ リ ネ ッ
クの理論に間に「地位」のずれが生じる。また、前述のように「中間
団体」を排除したのであるから、イェリネックの分類に「平等」が見
られないのは、当然である。なぜならば、このような過程で生まれた
「 市 民 」 は 本 来 的 に「 自 由 か つ 平 等 」 だ か ら だ。 む し ろ、 こ こ で 問 題
なのは、既存の地位が「単なる自由の地位」以降、玉突き衝突的にズ
レ た た め に、 「 裁 判 的 救 済 」 を 伴 わ な く て も「 権 利 」 と 呼 ん で 差 支 え
ないとされた点である
liii。
こ の こ と が 問 題 で あ る と 意 識 さ れ た 以 上、 違 憲 審 査 と 人 権 の 分 類 の
検討は必要不可欠である。なぜならば、違憲審査権と人権保障は密接
な関係にあるからだ。すなわち、違憲立法審査権は人権保障の実効性
を強化するからだ。当然、すべての人権に関して一律に、一つの審査
基準で判断して良いわけではない。高橋和之は、この分類を更に「審
査基準を基礎とした分類」 と 「審査方法を基準とする方法」 に分ける。
ここでは、後者の問題のみを取り上げることにする。
憲 法 の 規 定 す る 人 権 は 以 下 の 二 つ が あ る と さ れ る。 一 つ は、 「 内 容
確定型人権」と言い、精神的自由権のように、その保障内容が憲法上
確定されている人権である。もう一つは、 「内容形成型人権」と言い、
生 存 権 の よ う に、 そ の 保 障 内 容 が 憲 法 上 完 全 に は 確 定 さ れ て お ら ず、
多かれ少なかれ法律による確定に委ねられた人権である。前者の人権
は憲法上保護範囲が決まっているので、問題は当該法律が人権を制約
しているか、あるいはその制約が正当化可能かどうかということに収
斂する。これに対して、後者の人権は、第一次的に憲法がその内容形
成を法律に委ねているので、立法裁量の問題となり、原則的に裁判所
が憲法解釈権を口実に内容形成を行うことは許されない。これが許さ
れるのは、 立法府が憲法により与えられた立法裁量権を逸脱した場合、
あるいは濫用した場合に限られる
livlv。
まとめ 以上、わたしの他の論文と異なり、入門書であることより、 「です ・
ま す 」 調 で こ そ な い も の の、 語 り か け 調 の 文 体 に な っ て い る。 ま た、
総論を担当したため、その他の詳しい解説は、各論部分に譲るかたち
人権を考えるための基礎知識
Basic knowledge in order to consider the human rights中野 二三 になり、わたしの担当部分だけでは、尻切れトンボの印象を受けた方 もおられるかもしれない。しかし、本文で示したように、明らかに高 校の世界史・公民で習っている内容から一足飛びに、そんなに難しい 話しになっているわけではない。要は、受験の弊害もあるのであろう が、自分が受験科目で選択しなかった他の科目との接続が悪いだけで ある。それは、日本史を学習したのに、世界史を知らない大学生が多 いことにも繋がっている。
さらに、社会経験のない大学生は、よほど法律で身を立てようと考
えなければ、法律学は学習の魅力を感じないというのも、当たり前で
ある。私自身、学生時代に橋本公亘先生から「法律学は熟年の学問で
ある」と教えられた。昨年、安保法制で学生も憲法に深く関心を持っ
たと思われているかもしれないが、わたしの見るところ、そこでの彼
ら の 興 味 の 対 象 は「 政 治 学 と し て の 憲 法 学 」 で あ り、 「 法 律 学 と し て
の憲法学」ではない。当然のことながら、本学には政治学の先生方も
お り、 わ た し の 教 育 上 の 任 務 は 後 者 と い う こ と に な ろ う。 ま し て や、
教員養成学部である以上は、 伝習館高校事件(最判昭和五九年(行ツ)
第四六号 平成二年一月一八日 民集四四巻一号一頁) が示すように、
政治的な偏向が教育内容にあってはならない。
とはいえ、これを高校生や、大学入学まもない初学者に「分れ」と
い う の も、 無 茶 な 相 談 な の か も し れ な い。 そ の 半 面、 初 学 者 だ か ら、
学問的説明で手を抜いてよいはずはない。それらが重なり、本書全体
のレベルが、当初予定していたもの比べ、かなり高いものになったこ
とはいなめない。そこで、出版社は本書を「身近な事例からいま「生
きている人権の多様な姿」 を描き、 人権問題への関心と理解を深め、 「人 権」の大切さと考えるきっかけをあたえてくれる入門書。人権問題が 「 自 分 自 身 の 問 題 」 で も あ る こ と を、 コ ラ ム や キ ー ワ ー ド 解 説 な ど も
使 っ て ” と こ と ん “ 伝 え る。 」 と 紹 介 し た の は、 蓋 し 的 確 で あ る と 考
える。
i
拙 稿「 憲 法 は 私 た ち の「 人 権 」 を ど の よ う に 守 っ て く れ る の?」
宍戸常寿編『一八歳から考える人権』
(法律文化社、 二〇一五年
)八‐一三頁。
ii
南 野 森「 憲 法・ 憲 法 解 釈・ 憲 法 学 」 安 西 文 雄 他 編『 憲 法 学 の 現 代 的論点〔第2版〕 』第一篇 第一章参照。
iii
高橋和之 『立憲主義と日本国憲法 第三版』
(有斐閣、 二〇一三年
)九頁。
ivCarl Schmitt, Verfassungslehre ,Berlin,1928,Kap14.
v
渋 谷 秀 樹『 憲 法 へ の 招 待 新 版 』
(岩 波 新 書、 二 〇 一 四 年
)は じ
め に。 渋 谷 は、 こ の こ と を「 憲 法 を 支 え て い る 知 恵 」 と 呼 ん で い
る。
vi
川添利幸『憲法保障の理論』
(尚学社、一九八五年
)。
vii
拙 稿「 憲 法 秩 序 」 古 野 豊 秋・ 畑 尻 剛 編『 新・ ス タ ン ダ ー ド 憲 法 第 四版』
(尚学社、二〇一三年
)第二〇章参照のこと。
viii
『リヴァイアサン』全4巻、水田洋訳
(岩波文庫、一九九二年
)。
ix
『ビヒモス』 山田園子訳
(岩波文庫、二〇一四年
)。
x
I・ カ ン ト / 平 田 俊 博 訳「 人 倫 の 形 而 上 学 の 基 礎 づ け 」 坂 部 恵・
平 田 俊 博・ 伊 古 田 理 訳『 カ ン ト 全 集 七 実 践 理 性 批 判 人 倫 の 形 而上学の基礎づけ』
(岩波書店、二〇〇〇年
)六五頁。
xi
百田尚樹『永遠の0』
(太田出版、二〇〇六年
)。
xii
木 原 淳『 境 界 と 自 由
―カ ン ト 理 性 法 論 に お け る 主 権 の 成 立 と 政 治
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十五号 (二〇一六) 二四 的なるもの
(新基礎法学叢書
)』
(成文堂、二〇一二年
)。
xiii
マ ッ ク ス・ ウ ェ ー バ ー『 職 業 と し て の 政 治 / 職 業 と し て の 学 問 』 中山元訳
(日経
BPクラシックス、二〇〇九年
)。
xivRudlf Smend,Verfassung und Verfassungsrecht(1928),in:Rudlf
Smend,Staatsrechtliche Abhandlungen und andere Aufsätze
3.,wiederum erweiterte Auflage,Berlin,1994,S.119-276.
xv
日 比 野 勤「 基 本 価 値 論 争 を め ぐ っ て
―現 代 西 ド イ ツ 国 法 学 界 管 見
―」 芦 部 信 喜 先 生 還 暦 記 念『 憲 法 訴 訟 と 人 権 の 理 論 』 ( 有 斐 閣、
一九八五年)八四三頁以下。
xvi
長尾一紘『基本権解釈と利益衡量』
(日本比較法研究所研究叢書、
二〇一四年
)一二七頁。
xvii
岩 谷 十 郎『 デ ジ タ ル で 紡 ぐ 福 澤 諭 吉 の 法 の こ と ば
―権 利・ 権 理・
通 義
―』
http://www.lib.keio.ac.jp/publication/medianet/article/pdf/01500380.pdf
xviii
奥 平 康 弘『 憲 法 3 憲 法 が 保 障 す る 権 利 』 ( 有 斐 閣
OD版、
二〇〇五年) 。
xix
長尾・前掲書参考。
xxVgl.R.Alexy,Theorie der Grundrechte,Baden-
Baden,1985,S.250f.,290.
xxi
長 谷 部 恭 男「 国 家 権 力 の 限 界 と 人 権 」 樋 口 陽 一 編『 講 座 憲 法 学 3 権利の保障【一】 』
(日本評論社、一九九四年
)四三
-七四頁。
xxii
調 整 問 題 に つ い て は、 長 谷 部・ 前 掲 論 文 五 一
-五 二 頁。 芥 川 に つ
いては、又吉直樹「芥川への手紙」 『文学界』二〇一五年。
xxiii
警 察 予 備 隊 違 憲 訴 訟
(昭 和 二 七 年
(マ
)第 二 三 号 一 九 五 二 年
(昭 和二七年
)一〇月八日 民集六巻九号七八三頁
)。
xxiv
後 述 す る が、 国 家 権 力 を 介 在 さ せ て の 正 義 の 執 行 ほ ど 危 う い こ と は な い。 ま し て や、 現 行 の 裁 判 制 度 の 特 性 と し て、 示 談 で あ ろ う
が、 和 解 で あ ろ う が、 終 局 的 判 断 を 蒸 し 返 す こ と は 禁 止 さ れ て い
ることを理解しなければならない。
xxv
佐 藤 幸 治『 日 本 国 憲 法 論 』
(成 文 堂、 二 〇 一 一 年
)五 八 三‐
五八四頁。
xxvi
石 川 健 治「 基 本 的 人 権 」 の 主 観 性 と 客 観 性
―主 観 憲 法 と 客 観 憲 法 の間
―」 『岩波講座憲法2 人権論の展開』
(岩波書店、 二〇〇七 年
)三‐ 二 二 頁。 近 時 の 興 味 深 い 論 考 と し て は、 篠 原 永 明 の『 自
治研究』および『法学論叢』に連載された論文がある。
xxvii
『経書』秦誓上。
xxviii
伊 勢 田 哲 治『 動 物 か ら の 倫 理 学 入 門 』
(名 古 屋 大 学 出 版 会、
二 〇 〇 八 年
)、 『 マ ン ガ で 学 ぶ 動 物 倫 理
:わ た し た ち は 動 物 と ど うつきあえばよいのか』
(化学同人、 二〇一五年
)。あわせて、 ディ
オ ニ ュ シ オ ス・ ア レ オ パ ギ テ ス『 天 上 位 階 論 』 ( 今 義 博 訳 ) 『 中 世
思 想 原 典 集 成 3 後 期 ギ リ シ ア 教 父・ ビ ザ ン チ ン 思 想 』
(平 凡 社、
一九九四年
)三三九 ‐ 四三七頁、およびジョヴァンニ ・ ピコ ・ デッ ラ ・ ミランドラ ・ 大出哲訳 『人間の尊厳について
(アウロラ叢書
)』
(国文社、一九八五年
)参照。
xxixR.Alexy,Menschenrechte ohne Metaphysik?,in:DZPhil52,2004
,S.20.
xxx
渋 谷 秀 樹・ 赤 坂 正 浩『 憲 法 Ⅰ 人 権 第 五 版 』
(有 斐 閣、
二〇一三年
)二八九頁
xxxi
樋口陽一『現代法律学全集2 憲法Ⅰ』
(青林書院、 一九九八年
)二八‐三六頁。
xxxii
樋 口 陽 一『 国 家 学〔 補 訂 〕 』
(有 斐 閣、 二 〇 〇 七 年
)〔 一 三
―二 〕 。
そ こ で 参 考 に な る の が、 『 ザ・ フ ェ デ ラ リ ス ト 』 八 四 篇 の 以 下 の
人権を考えるための基礎知識
Basic knowledge in order to consider the human rights中野 二五 指 稿 で あ る。 「 元 来、 そ れ を な す 権 限 の な い 事 項 に つ い て、 あ ら
ためて、それをしてはならないという必要がなぜあろうか。 」
xxxiii Alexy,Theorie der Grundrechte,S.159-228.
な お、 そ の 祖 形 と
して、
W.N.Hohleld,Some Fundamental Legal Conceptions asApplied in Judicial Reasoning,in;ders, Fundamental Legal
Conceptions as Applied in Judicial Reasoning and Other
Legal Essays,New Haven,1923,p23-64.
xxxiv Alexy,a,a,O.,S.182-194.
xxxv
西 原 博 史「 憲 法 上 の 権 利 と 制 度 の 関 係 を め ぐ っ て 」 長 谷 部 恭 男 編
『 憲 法 の 理 論 を 求 め て 奥 平 憲 法 学 の 継 承 と 発 展 』
(日 本 評 論 社、
二〇〇九年
)二〇一頁。
xxxvi
笹田栄司『実効的基本権保障論』
(信山社、一九九三年
)。
xxxvii
新 世 紀 エ ヴ ァ ン ゲ リ オ ン 最 終 話「 世 界 の 中 心 で ア イ を 叫 ん だ け もの
/ Take care of yourself.」
xxxviii Vgl.G.F.Schuppert,Funktionelle-rechtliche Grenzen der Verf
assungsinterpretation,Königstein/Ts.1980.
xxxix
奥平康弘・論文
xlCh.Stark,Die Grundrecte des Grundgesetzes,in:Jus
1981,S.145f.
xli
樋口陽一 『憲法』
(創文社、 一九九二年
)一八九頁と内野正幸 『憲 法 解 釈 の 論 理 と 体 系 』
(日 本 評 論 社、 一 九 九 〇 年
)三 二 三 頁 を 対
比せよ。
xliiArno Scherzberg, Grundrechtsschutz und'
Eingriffsintensität': Das Ausmass individueller
Grundrechtsbetroffenheit als materiellrechtliche und
kompetenzielle Determinante der verfassungsgerichtlichen Kontrolle der Fachgerichtsbarkeit im Rahmen der Urteilsver
fassungsbeschwerde,Berlin,1989.
xliii
樋 口 陽 一「 『 連 戦 連 敗 』 、 そ れ で も 奥 平 さ ん に は『 夢 が あ る 』 」 奥 平康弘 『 「憲法物語」 を紡ぎ続けて』
(かもがわ出版、 二〇一五年
)二四六頁。
xliv
小 山 剛『 「 憲 法 上 の 権 利 」 の 作 法 』
(尚 学 社、 二 〇 〇 九 年
)二 七
-二八頁。
Vgl.R.Alexy,Theorie der Grundrechte,Baden-Baden,1985,S.395-472.
xlv
長谷部・前掲論文参照。
xlvi
宍戸・前掲論文二三四頁。
xlvii
イ ェ リ ネ ク
(著
)/ 森 英 樹・ 篠 原 巌
(訳
)『 少 数 者 の 権 利 』
(日 本評論社、一九八九年
)。
xlviii
「∀ガンダム」に由来しているとされる。
xlixRobert Alexy, Grundrecte,Demokratie und Reprasentation,Der
Staat 54(2015),S.201-212.
l
樋口陽一『国法学』八四‐八五頁。
li
石 川 健 治 『 自 由 と 特 権 の 距 離 カ ー ル ・ シ ュ ミ ッ ト 「 制 度 体 保 障 」 論 ・ 再 考 【 増 補 版 】』
(日 本 評 論 社 、 二 〇 〇 七 年
)一 〇 三 ‐ 一 一 三
頁 。
lii
村 上 淳 一『 ド イ ツ 市 民 法 史 』
(東 京 大 学 出 版 会、 一 九 八 五 年
)。
こ の 中 で、 村 上 は ヨ ー ロ ッ パ の 個 人 主 義 が「 家 父 長 個 人 主 義 」 で
あることを指摘する。
liii
宍戸・前掲論文二三四頁。
liv
高橋・前掲書七八‐八〇頁。
lv