『星の王子さま』における子ども性Ⅱ
― キツネとの出会いによってわかったこと―
生越 達*
(2009 年 11月 30 日 受理)
Childhood in Le Petit Prince
(Ⅱ)
:
Discoveries by Encountering the FoxToru OGOSE*
(Received November 30, 2009)
はじめに1
すでに前論文において,サン=テクジュペリの『星の王子さま』を子ども性に焦点をあてて読み 解くことをおこなってきた。そして,その際,サン=テクジュペリが「飼いならす」という言葉に 込めた意味を探っていくことが,彼のとらえる子ども性を理解するために必要であることがわかっ た。
具体的に明らかになったのは次の点である。第一に,現代社会を生きるおとなたちは,忙しく動 き回ることによって留まることができなくなっていること,そしてこうした居場所の喪失が,人間 存在にとって大きな意味をもっているということである。第二に,こうした居場所の喪失にたいし て,「飼いならす」ことをとおして他者や世界とのあいだに絆をつくっていくことが大切であるとい うことである。「飼いならす」ことは,時間をかけ,相手の世話をすることにより,相互的な関係を つくっていくこと,「ひまつぶし」をすることである。また第三に,「飼いならす」ためには,①し んぼう,②きまりが必要であり,飼いならした相手に対する責任が生じるということである。だが,
飼いならすことによって,人間は,この世界に居場所をもつことが可能になり,孤独から解放され る。そして「飼いならす」ことによって,飼いならした相手との関係だけが変わるのではなく,世 界が異なった様相をもって現われてくるようになる。
小論においては,これまでの考察に基づいて,この現代社会を相対化するまなざしを獲得するに はどうしたらよいのかについて考えることにする。いま教育に求められていることは,現代社会に ついていくための技能の獲得ではなく,むしろこの現代社会を相対化するまなざしを子どもに育て ていくことではないだろうか。
* 茨城大学教育学部
そのためには,授業とは何かについてもう一度再考する必要があるだろう。小論においては,サン
=テクジュペリが「飼いならす」ことが可能になる場として砂漠に重要な役割を与えていることに 注目しながら,考えていくことにする。私としては,砂漠に変わる場として授業という場を考える ことができるのではないかという提案を行うことにする。
1・見えないものを見ることの大切さ
(1) 「飼いならす」ことは責任を伴う
「飼いならす」ためには,相手のために時間をかけることを求められる。その結果,相手を大切 に思う気持ちが育っていくのである。その関係のなかにこそ,自己の価値が生まれ,他者の価値が 生まれる。人間の価値は関係のなかにあるのである。
「あんたが,あんたのバラの花をとてもたいせつに思っているのはね,そのバラの花のために,
ひまつぶししたからだよ」2
王子さまが「ひまつぶし」と呼ぶのは,忙しいおとなが忘れてしまったもの,子どもたちだけが,
できる時間の使い方である。さらに王子さまは次のように続ける。
「ぼくが,ぼくのバラの花を,とてもたいせつに思っているのは……」と,王子さまは,忘れな いようにいいました。
「人間っていうものは,このたいせつなことを忘れているんだよ。だけど,あんたは,このこと を忘れちゃいけない。めんどうみたあいてには,いつまでも責任があるんだ。まもらなきゃならな いんだよ,バラの花との約束をね……」と,キツネはいいました。3
王子さまは,「飼いならす」ことには「責任」を伴うと言う。ここで,「飼いならす」ことに本質 的に内属しているように見える私的な関係が,大きな価値へとつながっていくことになる。「飼いな らす」ことは単なる私的な関係にとどまらないのである。それが責任である。「飼いならすこと」, つまり「絆を創造すること」は,ただ自分の感情だけで動くことではなくて責任が伴う行為なので ある。一度作られた絆は守られ続けなければならない。すでにサン=テクジュペリの思想のなかに 儀式を重視するという個を超えた思想があることについて述べたが,責任もまた個を超えた意味を 与えてくれる。責任とは他者にたいして「応え」続けていくことだからである。相手に対して自己 を開き続けること,かかわり続けていくこと,応答し続けることが責任である。責任とはかかわり をつづける「こと」それ自身を意味する。
このことは,人間にとって,個であること,自由であることよりも,関係のなかにあること,義 務を負っていることのほうが大切であるという考え方に結びつく。またそれだけではなく,関係の なかにあること,義務を負っていることによって,私たち自身も救われるのである。なぜなら,人 間は,すでに述べたように,根のない存在(根なし草)だからである。それで,存在を守るために,
何をしているのか自分でも気づかずに,ともかくあくせくと生きてしまう。このように忙しさに追 われ続けなければならないとすれば,幸せだとは言えないだろう。つまり,個であることから人間 の幸福は生まれないのである。
「飼いならす」ことをとおして,絆を育てていくこと,そしてその結果,責任を負い義務を課さ れることに人間としての価値があるのである。ここには,おとなの本来あるべき姿が示されている。
六つの星の住民のように他者を道具化し,自己の対象とするのではなく,逆に,他者のために自己 を犠牲にし,奉仕することによって生きる存在が本来の人間なのである。王子さまは,「切り離す」
おとなではなく「つながる」おとなに人間存在の理想を見ている。
(2)「飼いならす」ことを支える理解のあり方
だが,「飼いならす」こと,さらには責任を果たすためには,見る力を求められる。キツネは王子 さまに,おみやげに,ひとつ,秘密を「おくりもの」にするといって,次のように言う。
「さっきの秘密をいおうかね。なに,なんでもないことだよ。心で見なくちゃ,ものごとはよく 見えないってことさ。かんじんなことは,目に見えないんだよ」4
大切なものは目には見えないのだから,心で見ろということである。キツネは,見えるのはどう でもいいものであって,大切なものであればあるほど見えないのだという。本質的なもの(かんじ んなこと)をとらえようとすれば,見えているものではなく見えていないものを見るというまなざ しの転換を必要とするということである。そして,心で見ることが「飼いならす」ことを可能にす る。
おとなのように,数字や表層にとらわれていては,いつまでも「飼いならす」ことはできないの である。「こうして目の前に見ているのは,人間の外がわだけだ,一ばんたいせつなものは,目に見 えない」5。王子さまの様子がどうであろうと,また何を着ていようと,目で見えることはたかが知 れている。一番大切なことは目に見えないのである。
人ばかりではない,「家でも星でも砂漠でも,その美しいところは,目に見えない」6。そして「飼 いならす」人は,その存在が美しいのである。「この王子さまの寝顔を見ると,ぼくは涙の出るほど うれしいんだが,それも,この王子さまが,一輪の花をいつまでも忘れずにいるからなんだ。バラ の花のすがたが,ねむっているあいだも,ランプの灯のようにこの王子さまの心の中に光っている からなんだ……」7。また,これもすでに述べたことだが,心で見ることは,相手との関係だけでは なく,世界そのものを変える力をもっている。
まったく,ふしぎなことなのです。あの王子さまを愛しているあなたがたと,ぼくにとって,ぼ くたちの知らない,どこかのヒツジが,どこかに咲いているバラの花を,たべたか,たべなかった かで,この世界にあるものが,なにもかも,ちがってしまうのです……8
「心で見る」ことによって,「飼いならす」ことが可能になる。そして「飼いならす」人の美しさ も見えてくる。さらには世界全体も異なった姿を見せてくれるのである。そもそも『星の王子さま』
の冒頭のところで,ウワバミにのみこまれたゾウの話から始まったことも,「心で見る」ということ が,『星の王子さま』全体を貫くテーマであることを示している。だが,おとなになると,心で見る ことができなくなるだけではなく,見えないものそれ自体があるということそれ自身も忘れてしま うのである。つまり,子ども性の理解可能性をも奪われてしまう。サン=テクジュペリが『星の王 子さま』のなかで伝えたかったことは,こうした子ども性をなんとかおとなにも思いだしてもらう
ということだろう。
また,「心で見る」ことは,学ぶこととも深くかかわっている。子ども性をもった人ほど,ものそ れ自身を見る力があることになるからである。子どもほど,「ものそのもの,ことそのこと」9を大 切にすることができる。そして外側からは見えないけれども,中に隠されたものを見ることができ る。ウワバミのなかのゾウや,箱のなかのヒツジを見ることができるのは子どもなのである。ほん とうにもののわかる人は,子どもなのである。
「じぶんのものにしてしまったことでなけりゃ,なんにもわかりゃしないよ。人間ってやつぁ,
いまじゃ,もう,なにもわかるひまがないんだ。あきんどの店で,できあいの品物を買ってるんだ がね。友だちを売りものにしているあきんどなんて,ありゃしないんだから,人間のやつ,いまじ ゃ,友だちなんか持ってやしないんだ。……(引用者省略)」
ものごとは「飼いならす」ことで初めて識ることができる。わかるためには,自分のものにする ことが必要だからである。真に識るためには,あきんどの店で出来合いのものを買ってくるような 学び方ではだめなのである。時間をかけ「ひまつぶし」をすることで飼いならすこと,そして自分 のものにすることによってわかること,学びは,このようなプロセスを経て,初めて成立するので ある。
キツネによれば,友だちを持つことと学ぶことは同じスタイルをもっていることがわかる。一つの 事象を丁寧に「飼いならす」ことによって,そして心で見ることによって,その事象の本質が見えて くる。かんじんなこと(本質的なこと)は,目に見えないからである。語り手(飛行士)が6歳でウ ワバミにのみこまれたゾウを書いた時に,「おとなの人たちは,外がわをかこうと,内がわをかこう と,ウワバミの絵なんかはやめにして,地理と歴史と算数と文法に精をだしなさい,といいました」
10という経験をするが,キツネはこうした外在的な学び方を否定する。語り手は6歳の時の経験を振 り返って次のように言っている。「おとなの人たちときたら,じぶんたちだけでは,なに一つわから ないのです」11。そして皮肉っぽく次のようにも言っている。「なるほど,地理は,たいそうぼくの役 にたちました。ぼくは,ひと目で,中国とアリゾナ州の見わけがつきました。夜,どこを飛んでいる のか,わからなくなるときなんか,そういう勉強は,たいへんためになりました」12。
バオバブの話を学ぶこととつなげて考えることもできるように思う13。草にはいい草とわるい草,
いい種とわるい種がある。バオバブはわるい種,わるい草である。だが,いい草とわるい草を見分 けるのは難しい。だからこそ見分けるためには,見えないものを見る力が求められる。あるいは,
バオバブは子ども性を阻害するおとな性そのものと考えることもできるだろう。学ぶことが見えな いものを見ることだとすると,バオバブはもっともらしい顔をしながら学びを阻害するまなざしと 考えることができるかもしれない。いずれにしても,知識基盤社会といわれるような社会では,と くに,学ぶことにとって,見えないものを見ることが重要な意味をもっているように思われる。
(3)砂漠のもつ豊かさ
心で見ることはどのようにして可能になるのだろうか。
『星の王子さま』において,王子さまと語り手が出会うのが砂漠である。出会いの舞台として,
砂漠は重要な役割を果たしている。
おとなが生きているのは,さまざまな意味の錯綜する世界である。おとな性のしみついた世界で
ある。こうしたおとな性の支配する世界で,子ども性へのまなざしを取り戻すことは困難である。
だからこそ,王子さまと飛行士が出会ったのは砂漠だったのではないだろうか。砂漠は,こうした 日常的意味の消え去る場である。だからこそ,本質的なもの,大事なものを見ること,心で見るこ とが可能になる場なのであろう。つまり,砂漠においてこそ,日常的世界においてはけっしてあり えない出会いが可能になるのである。砂漠は,本質を探し求める場,その意味で真の学びの場だと いうことがいえる。
何もない砂漠,その絶対的な意味の欠如,時間的にも空間的にも果てしなく続くように見える変 わらなさ,そこでは,私たちは日常的な意味にしがみつくことはできない。目に見えるものを頼り にすることができない。本質的なものが日常的な意味にないことを思い知らされる。砂漠という無 味乾燥な場において,これまであれほどこだわってきた物質的な意味がどんなに無意味なものなの かを思い知らされ,物質的な意味を超え出るとしたならば,そこではじめて人間は何を求め,何の ために生きていくべきなのかという問いへと導かれる。「心で見る」ことを妨げる日常性から解放さ れる。そして「心で見る」ことによって,日常的な意味をこえた本質へと近づくことが可能になる。
砂漠におけるまなざしをとおしてこの世界の新しい意味を見つけることが可能になる。
一見しての,砂漠の貧しさは豊かさの源泉だということである。このことは,砂漠が死を意識さ せる場であることと深くかかわっているだろう。意味に溢れ,その意味が忙しく流れていく社会か ら身を引くことによって,はじめて意味の豊かさが現われてくる。死を意識することによって,命 のもつ意味が明らかになる。ヘビの存在は死と命のつながりの象徴ではないだろうか。
王子さまが,地球で最初に出会ったのが,ヘビであった。王子さまが砂漠のさびしさについて触 れると,ヘビは,「人間たちのところにいたって,やっぱりさびしいさ」14という。ここには日常的 な意味の逆転がある。普通に考えれば,人々といっしょにいればさびしくないし,砂漠だからこそ さびしいのである。だが,ヘビは人間たちといっしょでもさびしいという。このさびしさは,たと え多くの人間といっしょにいても,本質的にはつながらずにバラバラでいることのさびしさである。
そして砂漠でこそ,自己と他者とのつながり,自己と世界とのつながり,つまりは絆を考えること ができるのである。つまり「飼いならす」ことは砂漠でこそ,はっきりと見出されるものなのであ る。
そのあとの王子さまとヘビとの対話は,死をめぐって進行する。
「あんたを遠くに運んでいくことにかけちゃ,船なんか,おれにかなやしないよ」
ヘビは,そういって,まるで金の腕輪のように,王子さまの足首にまきつきました。そして,ま たいいました。おれがさわったやつぁ,そいつが出てきた地面にもどしてやるんだ。だけど,あん たは,むじゃきな人で,おまけに星からやってきたんだから……」15
王子さまも言っているように,ヘビは「なぞのような」言い方をする。だが,王子さまを死へと 誘うことが話題になっていることは疑いえない。そのことがはっきりするのは,王子さまとヘビの 二度目の出会いの際である。語り手(飛行士)は,古い壊れた石垣のところで交わされているヘビ と王子さまとの対話に気づく。ヘビの声は聞こえないが,次のような王子さまの声は聞きとること ができた。「きみ,いい毒,持ってるね。きっと,ぼく,長いこと苦しまなくていいんだね?」16。 この言葉から,王子さまが死を決意していることがわかる。語り手が飛行機の修理を終えたことに 対応して,王子さまは次のように言う。
「ぼくも,きょう,うちに帰るよ……」
それから,かなしそうに――
「でも,きみんところより,もっともっと遠いところなんだ……もっともっとほねがおれるんだ
……」17
さらに,王子さまは,飛行士との別れの場面で,次のように言う。
「こないほうがよかったのに。それじゃつらい思いをするよ。ぼく,もう死んだようになるんだ けどね。それ,ほんとじゃないんだ……」
ぼくはだまっていました。
「ね,遠すぎるんだよ。ぼく,とてもこのからだ,持ってけないの。重すぎるんだもの」
ぼくはだまっていました。
「でも,それ,そこらにほうりだされた古いぬけがらとおなじなんだ。かなしかないよ,古いぬ けがらなんて……」18
死は,自分の星に戻ることである。つまり,旅を経て,新たな自分として再生することを意味す る。王子さまにとって,この旅は古い自己を壊し,新たな自己になっていく自己形成のプロセスだ ったのである。
王子さまにとって死との出会いは必要な出会いであった。そして砂漠は死と出会う場所としてふ さわしい場所であった。
ここにおいて,井戸のもつ意味も明確になるだろう。井戸は,砂漠のなかに本質的なものが隠さ れていることの象徴である。無味乾燥で意味のないように見える砂漠に,水(意味)は隠されてい るのである。そして井戸はこの水への通路であろう。水は渇きをいやすが,渇くのは身体だけでは ない。というよりも,身体の渇きよりも,心19の渇きのほうがずっと重要なのである。王子さまと 飛行士とのやりとりには,何度もこのテーマが登場する。最初の出会いのとき,修理に気をとられ る飛行士に対して,王子さまは,ヒツジの絵を描くことを求める。飛行士は,「いつ死ぬかもしれな いところで,ヒツジの絵をかくなんて,とてもばかばかしい気もしました」20が,それでも,ヒツ ジの絵を描く。さらにはっきりと身体の渇き以上に,心の渇きのほうが重要なことを示すエピソー ドは,次の場面である。
「じつにおもしろい話だ。だけど,まだ飛行機の修繕ができてなし,それに飲み水が,もう一滴 もない,このありさまなんだ。だから,ぼくも,どこかの泉のほうへ,ゆっくりゆっくり歩いてい けたら,うれしいんだがなあ!」
「ぼくの友だちのキツネがね……」と,王子さまは,ぼくにいいました。
「ぼっちゃん,もうキツネどころじゃないんだよ」
「なぜ?」
「だって,のどがかわいて死にそうだもの……」
王子さまは,ぼくのいうことがのみこめなくて,こう,ぼくに答えました。
「死にそうになっても,ひとりでも友だちがいるのは,いいものだよ。ぼくはね,キツネと友だ ちになれて,ほんとにうれしいよ……」21
心の渇きを癒すことは,肉体的な死よりも,ときに大切なことである。この場合の水は,ただの 水ではない。「のどがかわいたためしもない」22はずの王子さまは,「ぼくも水がのみたいから……井 戸をさがそうよ……」23と言いだす。語り手(飛行士)は,こんな砂漠のなかに井戸などあるはず がないと思いながらも,一緒になって井戸を探す。語り手に,水が飲みたいのかと聞かれた王子さ まは,次のように言う。「水は,心にもいいものかもしれないな……」24。水は心の渇きをいやして くれる。
砂漠は,心の渇きをいやしてくれる水への通路,つまりは井戸を持っているのである。だからこ そ,「砂漠が美しいのは,どこかに井戸をかくしているからだよ」25という王子さまの言葉も理解で きる。
2・「人間」として生きること
(1) 自己形成の旅
『星の王子さま』の全体構造が,語り手の自己内対話として考えられることはすでに述べた。砂 漠という問いの場で,これまでの語り手(飛行士)の存在が問われる。世界のもつ日常的意味が後 退し,自らの命が問われる砂漠において,星の王子さまが現れる。人間にとって何が大切なのかと いう問いが王子さまとともにやってくる。砂漠のなかで,ようやくこうした問いに出会えるほど,
日常は本質的な問いを閉ざす。おとなは,こうした問いがあることさえ忘れ去ってしまう。そして 子どもがこうした問いに苦しむことが理解できない。
語り手は,おとなになりきれないおとなだった。6歳のときに描いたウワバミに呑みこまれたゾ ウを忘れないでいた。彼のなかには子ども性が残っていた。そして大人の世界に違和感をもってい た。そもそも語り手が飛行士であったことは,子どもであり続けることに役立ったに違いない。飛 行士は,つねにこの世界をこまごました日常から遠ざかってとらえることの可能な職業だったから である。大地を離れることで,はじめて大地に生きることの意味が見えてくる。大空からみること ではじめて生きることの意味がわかる。個としての人間の小ささがばかばかしく思われ,忙しい日 常生活がどうでもいいことのように思われてくる。
だが,いっぽうで,語り手は,箱のなかのヒツジが見えないぐらいにはおとなになっていた。こ うした中途半端な生を行きることの苦悩,それが砂漠に不時着したときの語り手であろう。おとな としての日常生活に意味を見いだせない,語り手。だが,いっぽうでは,何が本質的であるのかに ついて確固とした考えを示すことのできない語り手。語り手は,こうした心の渇きの渦中にいた。
そしてこうした状況で生きることは非常に苦しいことだっただろう。
そこに,王子さまが現れる。この王子さまは,砂漠という場で語り手に訪れた自分の分身ともい える存在である。そして十牛図と同じような対話の過程が『星の王子さま』という物語である。物 語の最後で,王子さまは消える。それは十牛図で,飼いならす自己と飼いならされる自己が統合さ れ,一体化するのと重なる。だからこそ,王子さまのぬけがらは残らなかったのではないか。気づ いてみれば,同じ一人の語り手(飛行士)だったのである。王子さまの死は,語り手の再生を意味 するのである。この物語そのものが語り手の再生にとって必要だったのである。
王子さまは,再生した語り手にとって,単に消え去ってしまったわけではない。『星の王子さま』
のなかでは,ページ数はうっていないが,物語の最後に,星が一つ輝いている砂漠の景色が描かれ
ている。その何ページか前には,金色に輝く王子さまが倒れようとしている同じ絵が描かれている。
そして,最後の絵には,次のような説明が加えられている。
これが,ぼくにとっては,この世の中で一ばん美しくって,一ばんかなしい景色です。前のペー ジにあるのと,おなじ景色ですけれど,みなさんによくお見せしようと思って,もう一度かきまし た。王子さまが,この地球の上にすがたを見せて,それからまた,すがたを消したのは,ここなの です。
もし,あなたがたが,いつかアフリカの砂漠を旅行なさるようなことがあったら,すぐ,ここだ な,とわかるように,この景色をよく見ておいてください。そして,もし,このところを,お通り になるようでしたら,おねがいですから,おいそぎにならないでください。そして,この星が,ち ょうど,あなたがたの頭の上にくるときを,おまちください。そのとき,子どもがあなたがたのそ ばにきて,笑って,金色の髪をしていて,なにをきいても,だまりこくっているようでしたら,あ なたがたは,ああ,この人だな,と,たしかにお察しがつくでしょう。そうしたら,どうぞ,この かなしみにしずんでいるぼくをなぐさめてください。王子さまがもどってきた,と,一刻も早く手 紙をかいてください……26
最後の絵には王子さまは描かれていない。だが,語り手(飛行士)は,そこに王子さまを見るこ とができる。語り手にとって,この王子さまをつねに心のなかに思い描くことができることが旅の 成果である。また,王子様を思い描くことができるのは,語り手だけでない。語り手は,この本の 読者にもまた,王子さまを見るように促している。つまり,子ども性をつねに自分のなかにイメー ジできるような生き方をすることを読者にも求めているのである。ここには,サン=テクジュペリ の願いが込められているように思う。この物語には子ども性の明るさは抑えられている。子ども性 との出会いはいつも憂いのなかにある。だが,それでもこの子ども性は忘れられてはならないので ある。
現代社会を生きなければならない子どもたちに欠けているのは,こうした子ども性をめぐっての 旅なのではないだろうか。ますますスピードを増し,ものすごい勢いで流れていく時代のなかで,
多くの子どもたちは自己形成の困難を感じているように見える。子どもは,今日,ますます巨人化 しているおとな性の影響を受け,だが,そうしたおとなになりきれずに苦しんでいる。だが,その 苦しんでいること自体が大きな価値をもっている。子どもたちの存在が王子さま,あるいは『星の 王子さま』の物語に重なってくる。子どもたちが自らの行動をとおして生きることの苦しみを示し てくれていることから,私たち大人は,『星の王子さま』から学ぶのと同様に,現代社会の問題に目 を開くことができる。
語り手は飛行機のモーターに故障を起こし,動けなくなっている。それは,飛行士自身が自分の 問題を解決できずに苦しんでいる状況を意味するだろう。この語り手と同様に,子どもたちもまた 存在の問題を解決できずに苦しんでいる。
いま私たちに必要なのは,もう一度子どもたちの苦悩の裏側にある心で見ないと見えない事柄へ と目を向けていくことだろう。子どもたちの「問題」行動を,ただ「問題」行動としてとらえるま なざしではなく,そこに隠された心で見ないと見えないものを見ようとするまなざしが求められて いる。自己チューだとか,規範意識に欠けているとか,道徳心が育っていないという前に,子ども たちの苦悩に気づくことが大切なのではないだろうか。
(2) 道徳性の問い直し
『星の王子さま』は,現代の子どもたちのことを考えるさいに,具体的には,どのような示唆を 与えてくれるのだろうか。道徳性を育てることに急いではいけないことは明らかである。子どもの 荒れは,むしろ息苦しいおとな性の現れだと考えられるからである。それなのに,おとな性に縛ら れた視点から,この荒れを云々するとすれば,そのまなざしはますます子どもの荒れを増大させて いくことになるだろう。
それには,まず,おとなのまなざしから自由になりうるまなざしの場を作り出す必要がある。つ まり,忙しい日常性を相対化できる場を準備することが求められるということである。それには,
まず私たち自身が,日常性を相対化できるまなざしをもつことを求められるだろう。
私は,こうした場として,授業が役に立つのではないかと思っている。現実社会と関係しつつも,
現実から離れることを許される場が授業である。したがって,日常性を後追いするだけの授業では なく,むしろ忙しい日常性から離れ,子ども性へと戻って考えることのできる授業を作り出してい くことが,子どもたちにとっても私たちおとなにとっても必要なのではないだろうか。それにはま ず,私たちが,こうした授業?を受ける必要があるようにも思われる。この意味で,現代社会に追 いついていこうとするばかりの学力観にたつことは危険である。むしろ現代社会を相対化するよう なまなざしをもつことが一つの学ぶ力なのだという立場に立つことが求められているのではないだ ろうか。
この意味で,教育は,現実をこえなければならない。現実に閉じ込められた教育は,忙しい日常 性を超え出ることはできないからである。『星の王子さま』の幻想性は,現実を超えている。だが,
現実を超え出ていることが,そして子ども性へ開かれていることが,この現実を生き抜く力を与え てくれる。
サン=テクジュペリは「真面目」であることにあまりいい意味を与えていないが,「真面目」であ ることは,私たちを現実に閉じ込めてしまう危険をもっているからである。私たちは砂漠に生きる ことはできない。もちろん,子どもたちを砂漠に放り出すことはできない。日常性を相対化するた めの砂漠に変わる場所が授業の場なのである。
『星の王子さま』には,私たちが現実のなかに閉じ込められることへの強い批判が隠されている。
授業だって現実性の内に閉じ込められてはならない。問題解決学習ということが言われる。だが,
この場合の問題は,現実社会の問題に矮小化されてはならないだろう。王子さまの問いかけは決し て現実的な問いだとは思われないが,それでも王子さまによれば,それは命よりも大切な問題なの である。問題解決学習の「問題」は,こうした広がりをもった「問題」であるべきであろう。また 体験学習の「体験」についても,同様に,現実に閉じ込められてはならないだろう。心で見ないと 見えないことをテーマにする授業が求められているともいえるだろう。王子さまは,「砂漠が美しい のは,どこかに井戸をかくしてるからだよ……」27といったが,私たちは子どもたちと美しい授業 をつくっていくことを求められているのだろう。美しい授業は,どこかに井戸を隠していなければ ならない。つまり,私たちや子どもたちの存在の渇きにうるおいを与える水への窓口になっていな ければならないのである。
より具体的に『星の王子さま』が与えてくれる示唆は,「飼いならす」ことの必要性についてだろ う。自己存在の価値は,個のなかにあるのではない。他者とかかわり,絆をつくりだすことのなか で,自己存在の価値や他者存在の価値は現れてくる。個の特徴の唯一性のなかに私のかけがえのな さがあるのではなく,絆をつくることのなかで,自己と他者のユニークさが形成され,そのなかで
存在の価値が作り出されていく。自己の存在感の希薄化に苦悩する子どもたちにとって,いくら個 としての価値を強調しても,うまくいかないだろう。子どもたちと他者のあいだに相互性をつくり だしていくことで,はじめて私たちは道徳を語ることができるようになるのである。乱暴な言い方 をすれば,ひとりひとりの存在が地球より重いのではなく,ひとりひとりが関係をもっていること が地球より重いのである。
だとするならば,まずは教育において「飼いならす」ことを,どう育てていったらいいのかが考 えられなければならないだろう。そしてまずは教師をはじめとしたおとなが,こうした「飼いなら す」関係を生きているのかどうかが問われなければならないだろう。つながりが,個人を超えた力 をもっていることを,おとながまず生きて,その経験を子どもたちに伝えていくことが必要とされ ている。おとなは,生きることのモデルでなければならない。人への思いやりが大切だとしても,
それは外側から強いられることではなく,「飼いならす」ことという内側から生まれてくるものなの である。
注
1本論は,拙論. 2009. 「星の王子さまにおける子ども性―キツネとの出会いによってわかったこと」
『茨城大学教育実践研究』28 の論文の続編である。
2サン=テクジュペリ. 2000. 『星の王子さま』(岩波書店),p.103.
3同書,p.103.
4同書,p.103.
5同書,p.110.
6同書,p.110.
7同書,pp.110-111.
8同書,p.132.
9同書,p.28.
10同書,pp.12-13.
11同書,p.13.
12同書,p.13.
13塚崎は,三本のバオバブの木を第二次大戦における同盟国である,ドイツ,イタリア,日本と考えて いる。塚崎は,サン=テクジュペリが『星の王子さま』を第二次大戦への批判をこめて書いていると 考え,ゾウを呑みこむウワバミを周辺諸国を侵略するドイツだと考えている。たしかにそのように考 えることもできるだろう。サン=テクジュペリには共同性への強い志向がある。もしかすると,ナチ ズムの志向性とサン=テクジュペリの求める志向性が似ている部分もあり,逆にだからこそ,いい草 とわるい草の難しい区別をしなければならないという記述になったのかもしれない。だが,小論では,
そうした点には触れない。
14サン=テクジュペリ,前掲書,p.84.
15同書,p.86.
16同書,p.118.
17同書,p.121.
18同書,p.126.
19ここでは『星の王子さま』の言葉にならって,心の渇きという表現を用いるが,ここでの渇きは心と いう言葉では言い表せないようにも思われる。人間「存在」の渇きとでもいえるような渇きである。
20サン=テクジュペリ,前掲書,p.16.
21同書,p.107.
22同書,p.108.
23同書,p.108.
24同書,p.108.
25同書,p.109.
26同書,(p.134.)
27同書,p.109.