複雑労働の単純労働への還元
武 井 邦 夫
はじめに よってではなく,それとは別の「生産者の背後に 複雑労働の単純労働への還元問題は価値論争の 行われる社会的過程」によっておこなわれるのか 歴史と共に古い問題であるが,必ずしも解決され 否かが,ここでの焦点である。
ているとは言えない。その解決の仕方いかんによっ 「整約機構」が流通内にあるとすれば,「整約 ては,価値論の内容の理解に重大な差異を与える 割合」を決定する要因は需給関係以外にはありえ ばかりか、ひいては人間労働の経済原則的理解に ないが,このような理解に対しては,ベーム・バ も影響を与えるだろう。 ヴェルクによって「交換比率を交換比率で説明す
る循環論法である」という批判が下されている1 複雑労働の単純労働への還元
(註1)。しかし,それは論理の持つ矛盾ではな r資本論』ではこの問題は第一章第2節で具体 く,事実の持つ矛盾である。「需給関係」によっ 的有用労働の抽象的人間労働への還元問題の後, てのみ社会的総労働の配分が決定される。一定の 取り上げられている。 需要に対して,永続的な供給能力を持つ生産者の
「複雑労働は、強められた,あるいはむしろ複 生産費が,社会的価値を決定するからである。
合された単純労働に過ぎないものとなるのであっ (註2)。したがってそれは試行錯誤を含む長期 て,したがって,複雑労働のより小なる量は,単 的な再生産過程の繰り返しによって確立される。
純労働のより大なる量に等しくなる。この整約が それは決して「循環論法」の一語を以って片付け 絶えず行われているということを,経験が示して られるようなものではない。
いる。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物で それでは,その還元機構を流通過程を含む再生 あるかもしれない。その価値はこの商品を,単純 産過程以外の要因で説明しようとすれば,どのよ 労働の生産物と等しい関係におく。したがって, うになるか,その有力見解として宇野理論を検討 それ自身,単純労働の一定量を現しているにすぎ してみよう(註3)。
ない。それぞれ違った種類の労働が,その尺度単
位としての単純労働に整約される種々の割合は, (註1)べ一ム・バヴェルクrマルクス体系の終結』
生産者の背後に行われる一つの社会的過程によっ 木本幸造訳未来社刊第4章第2節 て確定され,従って,生産者にとっては慣習によっ (註2)「その量的交換比率は,まず始めは全く偶然 て与えられているように思われる」(アンダー・ 的である。それらの物は,その所有者が,これ
ライン 筆者)。 を相互的に譲渡し合おうという意志行為によっ ここで重要なことは前者の後者への整約機構で て,交換されうるものである。だが,他人の使
ある。アンダー・ラインの箇所が明示するように, 用対象に対する欲望は,次第に固定化する。交 鯛
それは価値表現ないし価値実現をつうじて行われ 換の絶えざる反復は,これを一つの規則的な社 るとマルクスは考えているようにみえるが、必ず 会過程とする。したがって時の経過とともに,
しも明確ではない。還元ないし整約が価値等置に 少なくとも労働生産物の一部は,故意に交換の
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ために生産されなければならなくなる。この瞬 の発達という一面と,またこうして保存され,維 間から,一方においては直接的欲望のための物 持され,上達されて来た技能が,後に機械化され の有用性と,その交換のための有用性との間の て単純労働を普及する技術の基礎をなしたという 分裂が固定化する。その使用価値はその交換価 他の一面とを持っていたのではないであろうか。
値から分離する。他方において,それらが交換 いずれにしろこの中世紀的な手工業の技能は,当 される量的関係は.その生産物自身に依存する 時の社会の一般的な,基本的な産業部面とはいえ ことになる。習慣は,それらの生産物を価値の ないのではないかと思う。資本主義社会になって 大きさとして固定化する(アンダー・ライン も,もちろん,すべての労働が単純労働化される 筆者)」r資本論』訳岩波文庫第1分冊第2 のではないが,しかし,工業部面でも機械化と共 章。 に単純な労働によって行われる生産過程が,ます
(註3)この問題についての論争点については,佐藤・ ます多くなる傾向にある。我々は,そういう傾向 岡崎・降旗・山[コ編r資本論を学ぶ』1の9, にのっとってあらゆる部面に単純労働が支配的に および伊藤誠r最近の欧米価値論論争を省みて』 行われるものとして,考察を進めることができる
(『思想』1986年12月号)参照。 のであ
る」 (宇野弘蔵著作集 第2巻 242〜3ペー
ジ)』。2 宇野理論の検討
ここで「機械化とともに単純な労働によって行 この問題については次の問答を検討しておく必 われる生産過程が,ますます多くなる傾向にある」
要がある。 といえるかが問題であるが,これには多分の疑問 がある(註1)。またその傾向にあるとしても,
r質問』 「たとえば紡績労働と綿花栽培労働と 本来傾向というものは純化傾向同様に反対化現象 機械製作労働とでは労働の複雑さの程度が異なり, を伴うものであるから,それをいくら延長しても したがって同一時間における労働力の支出の量も 純粋な結末を想定できないものであると言わなけ 異なる筈であるが,それはどういうふうにして抽 ればならない。この点は利潤率の傾向的低落の法 象的人間労働によって同一の質の労働に還元され 則から利潤ゼロの資本主義を想定できないのと同
るのか。むろん典型的な資本主義社会ではすべて 様である。
の労働は単純労働になると考えてよいと思うが。」 もともと宇野のこういう理論の背後には,価値 の実体を実在的な,しかも超時代的抽象的人間労 r答え』「実際上はいかに生産過程の機械化が 働に求める視点がある。価値の形態規定性を主張 行われても,各種の産業では異なった程度の複雑 することでは人後に落ちない宇野がその実体の超 さをもった労働が行われる。まして機械化が行わ 時代的実在性を人一倍強調するのは奇妙というし れないものと行われたものとでは当然にそういう かないが,それは次のような労働力の機能の本質 相違がある。しかし一社会の基礎を為す生産部面 理解に基礎をおくからである。
では,特に修練を要しない単純な労働が実質的に
は支配的なものをなしているといってよいし,社 「種々なる特殊の使用価値を消費して得られる 会の進歩と共にそういう部面が拡大する傾向にあ 人間の労働力は,もちろん,単なる物ではなく,
るものといえるのではないか。中世紀的な手工業 またかくのごとき特殊の使用価値を有するもので の発達は,たしかにそういう傾向とは逆に熟練を もない。一般的にあらゆる物に転化しうる力とし 要する複雑労働を多くしたともいえるが,それは て,したがってまた人間の目的にしたがっていか 当時の領主と農民との社会関係を基礎とした特殊 ようにも使用しうる力である」 (宇野弘蔵著作集
第1巻 87ページ)。 い時代を切り開くのである。文明の発展に連れて この傾向は拡大されてゆく。天才の発明した道具
「一般的にあらゆる物に転化しうる力」という を使って物を作ることは,簡単な修練さえ積めば 本質規定に基づいて「抽象的人間労働」の超時代 誰にでもできよう。しかし,それを使って新生産 的実在性が主張され,さらにその上に立って,経 物を作ることは,まして新しい道具を,更に機械 済原則の経済法則としての発現が語られるという を発明することはダヴィンチやエヂソンのような のが宇野価値論の基本性格であるが,この労働力 天才か,または少数の技術者集団の手にますます の作業転換を妨げる熟練度の差異が機械制大工業 委ねられるようになる。知識や技能・技術が特殊 のもとで消極化するところに,複雑労働が単純労 化され,高度化されるほど,それは少数者の手に 働に還元される根拠が見いだされるという訳であ 独占され,階級支配の基礎原因ともなる。
る。したがって問題は機械制大工業のもとで熟練 人間の労働にとって重要なことは,労働の前に 度の差異が消極化するかいなかであるが,これに 設計図があり,それにしたがって合目的的な作業 対してはすでにみたように疑問が出されている。 が行われるということである(註3)。そしてそ
しかし,この問題の根本は次にみるように,労働 の設計図の作成は誰にでもできることではない。
力または人間労働の経済原則的規定の理解にかかっ 「人間は何でも作れる」というばあい,その人間 ているのである。 を社会集団としての人間(註4)として考えてい るか,または労働を筋肉労働的作業に綾小化して
(註1) H.Braverman, Labour and Monopoly いるかのいずれかであろう。
Capita1,197生富沢賢治訳r労働と独占資 この問題を経済学者が愛好するロビンソン物語 本』岩波書店1978年。 を取り上げて考えてみよう。
彼は各種の欲望を満足させるため各種の有用労
働をなさなければならない。「道具を作り,家具3 人間労働の本質
を製造し,ラマを馴らし,漁りし,猟をしなけれ 労働力が「一般的にあらゆる物に転化しうる力」 ばならない」。「彼の生産的な仕事がいろいろと でありうるためには,その目的に応じて多様な道 あるにも々・かわらず,彼はそれらの仕事が同じロ 具を使いこなせなければならないことは言うまで ビンソンの違った活動形態にすぎないことを知っ もない。徒手空拳を以ってしてはいかに器用な人 ている」。しかし,彼はこれをするために・「難破 間とてもなしうることは限られている。人間にとっ 船から救いだした」「時計・台帳・インク・ペン」
て最初の道具は天然に存在する棒や石のような自 のほかに鉄砲・火薬の力を借りなければならなかっ 然物であった(註1)。それを加工して人為的な た。いくら彼が器用な男でも,それらを作ること 道具を作ることは発達の第2段階である。それゆ はできない。また彼が全くの孤島育ちならば記帳 え,人間労働の本質はtool−makingにあるという の習慣もなく,言葉もしゃべれず,文字も書けな よりはtoohsingにあると言った方がよいので い。第一,彼自身生まれることもないのだ。かれ はなかろうか(註2)。 の背後にはイギリス文明が,そして人類の全歴史
もっとも道具が未発達の場合は,道具さえ与え が控えていたのである。「この中には価値の一切 られれば,いかなる人間もどんな道具でも製作可 の本質的な規定が含まれている」(以上r資本論』
能であろう。しかし,その場合でも,出来・不出 第1巻第1章よりの引用)。
来,熟練・未熟練の差は残るであろう。まして新
しい道具の発明は誰にもできるという訳ではない。 (註1)これは類人猿の道具を考えてみれば明らかで 何時の時代でも,創造力を有する天才のみが新し あろう。
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「手を用いることによって,猿は敵から身を のとして数量的に処理されるであろうが,それは 守るための棒を握り,あるいは敵に木の実や ひとたび共同体の外にでれば有効性を失う。共同 石を投げつける」(エンゲルス「猿が人間化 体と共同体の間では商品交換に頼らなければなら することにあたっての労働の役割」(マルク ないし,また共同体内部でも商品経済の比重は複 ス・エンゲルス全集)20巻483ページ 大 雑労働による奢移品生産を中心に漸次増大せざる 月書店刊) を得ない。
(註2)「労働手段の使用と創造とは,萌芽状態にお 資本主義的機械制大工業は一面では技能を消極 いては,すでにある種の動物にも備わってい 化することによって,相対的剰余価値の生産を可 るが,特殊人間的労働過程を特徴づけるもの 能にし,労働力流動化の機構を作り出し,他面で であり,又それゆえにフランクリンは人間を は生産力増進の基礎をなす科学知識の蓄積とそれ atool making animal すなわち道具を を生産に応用する科学技術の向上を,教育の高度 作る動物と定義しているのである」(r資本 化と普及とによって現実化したが,それは決して 論』第1巻第5章)。ここでマルクスは労働 全世界の全産業労働力に全面的な流動性を与える 手段の使用をその創造よりも先にあげている。 ように進みはしなかった。一方では世界市場の発 したがってフランクリンの言葉をあげるのは 展が進むにもかかわらず,先端技術の開発はそれ おかしいのではないか。 が高度化すればするほど,一部の先進国の,一部
(註3)「最悪の建築師でも,もとより最良の蜜蜂に の産業の,一部の企業の,一部の技術者の手に委 勝るわけは,建築師が蜜房を蝋で築く前に, ねられる。「不均等発展の法則」の発現はますま すでに頭の中でそれを築いているということ すその力を強めつつある。そして人間労働はこれ である」(r資本論』 第1巻第5章)。 らの技術的先端なくしては停滞し,その存在理由
(註4)人間には個人という意味と社会人的人間関係 すら失わざるをえないのである。
という二つの意味がある(和辻哲郎r倫理学』 このように見れば,複雑労働の単純労働への還 参照)。 元を資本主義の発展傾向そのものの中に求めよう
とすることは,事実誤認というよりは,人間労働
を労働器官の単純なる発現にすぎない筋肉作業に4 複雑労働の存在形態
おとしめるものであると言わなければならない。
人間労働の根本的本質的規定がtool−usingに しかし,ひるがえって考えてみれば,宇野のこ あるという認識は,抽象的人間労働の超時代的実 のような理論的結末は,根本的にはその純粋資本 在性に対する疑問を決定的に強めると同時に,そ 主義的アプローチによるものであろう。国家と外 の商品経済的性格理解を決定的にする。超時代的 国貿易を捨象し,機械制大工業労働者と資本家と に具体的に存在するものは具体的有用労働のみで 地主のみよりなる三大階級社会を想定するならば,
あり,またかかる労働力だけである。それは道具 そこに複雑労動が混入する余地はない。資本家や を使い,またその種類を転換する限りにおいて, 地主が教育するわけでもなく,また技術を開発す 部分的流動性を帯びるにすぎない。その限りにお るわけでもない。しかし,他方では生産力は周期 いて,それは単純労働として規定されるであろう。 的恐慌の発現を通して高度に発展してゆくものと しかし,それは宗教・政治・言語・民俗等の原 想定されている。その発展の背後には何が横たわっ 因によって地域的に狭あいな共同体的性格を帯び ているのか,そのような問いはこの不思議な社会=
ざるをえない。その内部においては,あるいは慣 世界では一切禁物なのである。
習によって,あるいは協議によって,あるいは支 配者の専制的意志によって単純労働力は等質なも
時代的実在性の強調という論理破綻にまで導いた5 単純労働と抽象的人間労働
のであった。すでに見たように,資本主義的労働 複雑労働の単純労働への還元は具体的有用労働 生産過程を労働生産過程一般と同一視する宇野原 の抽象的人間労働への還元と絡まりあっている。 理論の不思議な篇別構成の謎を解く鍵はここにあっ 抽納燗労働の超賦喉在性を説く宇野説は, たのである。
実は単純労働の超時代的実在性にその根拠を求め しかし,すでにみたように,労働の具体性の抽 るものであった。単純労働力の流動性を抽象的人 象性への還元は価値形態をつうじて行われるしか 間労働の実在性の根拠と見誤るならば,後者の超 なく,また流動可能性をつうじて示される人間労 時代的実存への確信は不動のものとなる。ここに 働の単純性も部分的なものに過ぎないとすれば,
宇野価値論の,したがってその原理論体系の究極 価値の実体としての抽象的人間労働は生産過程に の秘密が隠されている。彼が何故に資本の労働生 、実在する具体的有用労働が価値表現をつうじて貨 産過程とダブル形で労働生産過程一般の規定を与 幣材料生産労働へと還元されることによって出現 えたかの理由がここで明白になる。彼の観念の世 するしかなく,またそれをつうじてのみ,複雑労 界では,資本の労働生産過程こそ複雑労働の単純 働の単純労働への還元もなされうるものとしなけ 労働への還元を極限にまで押し進め,かくして抽 ればならない。その点で言えば,「抽象的人間労 象的人間労働の実在化を完成するものにほかなら 動」の「人間」という言葉は無用であり,削除さ なかったのである。それゆえにこそ,資本の労働 れてしかるべきではなかろうか。それは価値の実 生産過程は労働生産過程一般に還元され,単純労 体としての「抽象的労働」と超時代的実在である 働は抽象的人間労働に還元されたのである。それ 「単純労働」との混同に契機を与えるものであっ
と同時に,労働生産過程における抽象的人間労働 た。
時間は単純労働時間として,直接計算可能になり, 商品経済はもともと共同体と共同体との間に発 しかも,それがそのまま価値形成過程へと横滑り 生したもので,その内部から発生したものではな させられ,価値の実体規定は極めて浅薄なものに いが,それが内部に定着した資本主義社会におい なってしまう。r資本論』冒頭での第三者的手法 ても,その外生的性質を失うものではない。その による実体規定を拒否して,資本の生産過程へと ことは複雑労働の単純労働への還元が流通表面的 持ち越したせっかくの工夫が死んでしまうことに にしかなされないということにもっとも端的に示 なるばかりでなく,剰余価値を含む全価値生産物 されるといってよい。それは民主主義の保証する について,等価交換貫徹をも強調せざるをえなく 平等権が法の前のそれにすぎないことと好一対で なる。 ある。「能力に応じて働き,働きに応じて受けと
マルクスの「抽象的人間労働」という概念は, る」というブルジョア的原則の前には,経済的平
一・福ナは「具体的有用労働」に相対して,その抽 等権は成立しない。「能力に応じて働き,欲望に 象性を表現し,他方では産業部門間を流動する単 応じて受け取る」という共産主義的理想が生産力 純かつ普遍的な人間労動の一面を表現している。 の極度の発展を前提にしてしか実現せず,現実の 彼は一面では具体的な有用労働の抽象的人間労働 社会主義社会においては,しばしばブルジョァ的 への還元を価値形態の発展を通じて行われるもの 原則へと苦い逆戻りを余儀なくされるのも,能力 としているが,このような科学的見地が生理学的・ 的不平等というのが人間労働本来の在り方だとい 没概念的規定の背後に埋没されているのは,「人 うことの間接的証明に外ならない。民主主義はた 間労働」としての流動性という媒介項があったか だ能力的不平等の前に「機会の均等」を置くだけ
らである。この媒介項は宇野理論においては極度 である。
に肥大化され,ついには「抽象的人間労働」の超
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「実体を形態が包みこむ」以上,原論の世界で 7 結語一一一人間の論理と商品の論理 は「流通形態」の論理に先立って,究極の実体で
ある人間一般の論理,または人間労働一般の論理
経済原論の世界は「実体を形態が包みこんだ世界」 が存在しなければならない。原理論体系の世界に だといわれている。「形態」とはいうまでもなく 一般的労働生産過程を論ずる部分が存在するのは
「流通形態」にほかならないが,それでは「実体」 この理由からである。人間が人間であるためには,
とは何か。経済原論で実体概念が登場するのは価 人間関係を確立しなければならない。人間の本質 値論の領域である。価値の実体として「抽象的人 が人間関係にあるからこそ,人間は言葉を話し,
間労働」の名前があげられるが,「実体を形態が 文字を発明・使用し,知識を蓄積し,永続的な社包みこむ」以上,「抽象的人間労働」は価値に先 会関係を樹立してゆく。生産関係はその基盤にほ
立って存在しなければならないことになる。しか かならない。生産力もこの生産関係に包みこまれ し,すでにみたように,この場合の「抽象的人間 て初めて生産力として存在し,発展しうるのであ 労働」は,実は「単純労働」にほかならなかった る。
のである。「流通形態」はこの「単純労働」を包 複雑労働の背後には人間の労働能力に先天的に みこむばかりでなく,「複雑労働」をも包みこむ 差が有るという事実が横たわっている。この冷厳 ものであった。というよりはむしろ,まず「複雑 な事実が存在する限り,原理論の世界から複雑労 労働」を包みこむ形で出現したのであった。資本 働を捨象することはできないし,また従ってその 主義以前の単純商品流通はその圧倒的部分を複雑 単純労働への還元問題を捨象することもできない。
労働の製品で占められていた。その典型的なもの それどころか,ここには価値論の全死命を制するが中世ギルドによる奢修品にほかならない。単純 重要な視点が蔵されていたのであった。価値論探
労働の産物である生活必需品の商品化は資本主義 求の長い旅の終わりに発見したこの視点に立って 特有の現象といってよく,それ以前はその生産は 全価値論を,したがって原理論体系を見直すこと,
専ら現物経済的に行われてきたのであった。それ これがこれからの我々の使命である。
ゆえ資本主義はその直前の商品経済特有の産物で (1987.9.16)
ある労賃形態(職人労働の代価)を受け継ぎ,こ れを単純労働力商品の形態としたのである。