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泉山口屋番所遺跡発掘調査概報-佐賀県有田町泉町 526-1・527-1の調査-

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(1)

泉山口屋番所遺跡発掘調査概報‑佐賀県有田町泉町 526‑1・527‑1の調査‑

著者 野上 建紀

雑誌名 金沢大学考古学紀要

20

ページ 102‑110

発行年 1993‑02‑28

URL http://hdl.handle.net/2297/2752

(2)

金沢大学考古学紀要 20号1993  

魔幽囚鷹番臍遺跡発掘調査既報   

一佐賀県有田町泉町526−1。527−1の調査−  

野 上 凄 紀  

1.はじめに  

1卵2年9月8日から9月30日にかけて佐賀県  

有田町泉山の泉山口屋番所遺跡の発掘調査を実  

施した。以下はその概要報告である。   

遺跡の名称については安政6年(185如 の  

『絵浦郡有田郷図』に当該箇所に口屋番所の図   が措かれてい去1主とからそれを遺跡名とした   が、口屋番所はこの遺跡の性格の一面に過ぎな  

い。   

本題に入る前に口屋番所の性格について少し   泉山口屋番所遺跡全景   触れておきたい。有田を中心とした地域の磁器産業は佐賀藩にとって大きな財源であっ  

た。そのため佐賀藩は皿山代官所を設置し、皿山すなわち窯業地帯の支配と管理を行っ  

た。口屋番所は皿山代官の支配組織の中に属し、「泉山口、岩谷川内口、広報山、市ノ瀬  

山、嬉野剖の5ケ所に設置されていたという。   

その主な役目は皿山の人と物の動きの監視であった。特に泉山口と岩谷川内口は皿山の   中心地である有田内山地区の東西の出入口にあたり、内山地区を出入りする入と物の監視   であった。すなわち、技術の漏洩の防止、原料(泉山陶石)や製品の不正取引の防止など  

である。   

この口屋番所がいつごろ設置されたか、は現在不明である。「皿山代官旧記」の記載ふ  

ら柑世紀の中頃には設置されていたことがわかるが、この「旧記」は延享2年(1745)以   前のものが失われており、それ以前については不明である。また、安政6年(柑59)の絵   図に措かれている場所にあったかどうかも不明である。   

そして、今回の発掘調査であるが、出土遺構・出土遺物ともに現在整理中である。とく   に遺構については、番所の遺構と特定できるかどうか遺物などの検討を待たねばならな   い。よって現在はまだ番所そのものについて言及できる段階にない。そこで今回は調査に   よって得られた資料の一部を紹介しながら、幾つかの問題点を挙げたいと考えている。  

−102−   

(3)

2t 出土遺物   

泉山口屋番所遺跡からは17世紀中頃以降、近代までの遺物が出土しているが、今回はそ   の中から2つのグループの遺物を取り上げ紹介しようと思う。  

≪1朗0〜1660年代》   

泉山口屋番所遺跡から出土した遺物で最も古いグループは1640〜16幼年代に属するもの  

である。とくに1650年代を中心としたものである。それらの遺物はこの付近の窯場である  

楠木谷壷箋年木谷3号票弘製品であるものが多い。またこの時期の遺物で注目されるもの  

は30点ほど出土している色絵磁器片である。以下、それらの中から幾つかを選んで紹介し   ていきたい。   

写真1は染付花喋文皿である。裏面に「慶安元年(1糾8)」と染付されている。楠木谷   窯の調査でほ同種の製品は出土しなかったが、胎土や軸色などほ楠木谷窯出土の染付皿に   類似している。写鼻2は染付笹兎文皿である。楠木谷窯で同種の製品が出土している。写   真3は染錦窓絵花樹文皿である。見込みの樹木や周辺の地文の毘沙門亀甲文などは染付さ  

れ、窓絵の中の花や裏文様ほ赤。緑。黄の上絵具で措かれている。その輪郭線は赤であ   る。写真4は色絵困線文皿である。内外面に赤絵具で圏線が入る。また裏面に黄。緑の絵  

具が焼成した際に熔着している。写轟5は写真4に類似しているが、見込みに黒。線。  

紫?などの絵具で樹木が措かれている。写轟6は色絵輪花皿である。上絵具ほ赤・緑。黒  

を使用している。口縁には口紅が施されている。文様の輪郭は赤と黒いずれかで善かれて   いる。写真7は色絵端反碗である。口縁付近に2本の染付圏線が入る。類似した素地は天  

狗谷窯や中白川窯などでも出土している。実見はしていないが、「肥前色絵劇所載の色  

絵碗に類似している。上絵具は黒や黄が残っている。写真8は色絵型打変形皿である。裏   文様は染付で唐花唐草、高台は櫛目高台である。内面には緑の絵具が下地と無関係に焼成   付着している。また剥落しているが、文字のようなものも善かれている。製品とするため   の絵付けとは思えない。素地は楠木谷窯出土のものと類似している。写真9は色絵錬和白   抜皿である。丸く白抜された箇所に赤。緑で上絵付されている。小物の館粕の良品は山小   屋窯がよく知られているが、楠木谷窯でも小量出土している。写真10ほ右が塑打皿で、  

左が色絵革文皿である。右は裏面に折り枝梅文が入る。彼の部分が染付で花の部分は赤絵   具である。左は見込みに赤の圏線と緑の絵具で草が描かれている。革の輪郭は黒である。  

写魔11。12。13は色絵中皿である。胎土が楠木谷窯出土の製品とはやや異なる。使   用絵具は11が黒・紫■赤、12が赤一昔・線。黄?、13が赤。黒・線である。写真1  

卑−15は色絵碗。鉢である。14は外面に唐草をいっぱいに措いたもので、1650〜1鮎0  

年代の製品と考えられる。頚品は赤絵町道就)青田戴)鹿児島県吹上産 インドネシアな  

(10) どで出土ないし採集されており、南方向けの製品と推定されている。15は樹木または山  

(4)

水文の一部が残る。写真16は色絵人形(鶏?)の破片である。ダンパギリ養量も出土し  

ている。写真17は染錦変形皿であるが、裏面に線の絵具が焼成付着している。写真8と   同様、製品とするための上絵付ではないようである。写真18は赤絵具が断面に付着した   染付碗である。擦ると剥落してしまい、焼成は受けていないようである。   

《1680〜1740年代》   

前記のグループの次に現れるものが元禄〜享保年間を中心とした製品のグループであ   る。前記のグループとは年代に隔たりがあり、その隔たりを埋めるような遺物はほとんど   出土していない。   

このグループの製品の大半が登り窯で焼損じたものである。現在、この時期に泉山(年   木谷)で稼働していたと思われる窯は確認されていないが、登り窯の物原(失敗品の捨て  

場)から運び込んだものと思われる。その目的は出土状況から整地用である可絶性が最も   高い。以下、これらの中から2点のみ紹介する。   

写轟19は染付芙蓉手VOC文字皿である。窯割れしている。オランダ東インド会社の   略号であるVOCの文字が入った皿ほ内山地区の各窯(谷養2〜碑苗場畠3〜猿川蕪追ど)で   出土している。写真20は染付鳳風文皿である。裏文様は唐草文、高台銘は「大明成化年   製」である。窯割れしている。文様は内外面ともに比較的丁寧に措かれている。これも内   山地区の製品であろう。  

3.萱とめ  

(1)初期色絵磁器片について   

佐賀藩は寛文年間に赤絵業者の多くを集めた赤絵町を形成させている。それ以降は本焼   と上絵付が完全に分業きれ、本焼のための登り窯周辺から色絵磁界片が出土することは稀  

であ岩芝とほ推察できる。それでは赤絵町形成以前についてはどうであろうか。そうした  

可能性を持つ色絵磁器片は現在、有田およびその周辺地域では山辺田虫: 天神山姦ニ)境川   畠:〉弥源次蕪:)丸尾秦: ダンパギリ鮎どで出土および採集されているが、量は山辺田窯  

を除いて非常に少か、。その理由としては上絵付は焼成温度が本焼に比較して低いため失   敗が少をいことにもよるであろうが、調査箇所が登り窯そのものに限られていたことも理   由の一つとして挙げられる。赤絵窯ほ登り窯のように傾斜地を必要としないことから、登  

り窯よりはむしろ工房付近につくられていた可能性が高いからである。これは登り窯付近  

には赤絵窯がなかったという意味ではない。石川県の桧山窯跡のように工房が登り窯の近   く(すなわち、下方の平坦地)にあれば赤絵窯もその付近にあったであろう。つまり、赤  

絵窯は登り窯の付帯施設と考えるよりは工房の付帯施設と考えた方が安当だと考えるので  

−104−   

(5)

ある。今までの調査では登り窯そのものの調査は実施されてもその周辺地区の調査はほと   んどなされていない。   

そして、登り窯以外の生産施設が検出された数少ない例が松山窯跡や赤絵町遺跡であ   る。石川県加賀市にある江戸末期〜明治初期操業の松山窯跡で登り窯付近に工房が検出さ  

(22) れている。これは各施設が近接している例である。肥前の窯とは年代的にも単純には比較  

できないであろうが、検出された赤絵窯は工房内で発見されている。赤絵町道跡では1660   年代以降の色絵磁器片が多数出土し、18世紀。19世紀の赤絵窯も検出されたが、赤絵町は  

前述のとおり佐賀藩によって赤絵業者が集められ政治的に形成された地区である。よって   登り窯とは切り柾された平坦地に立地している。すなわち、当時の赤絵窯がどういった構   造のものであるかは明らかではないが、登り窯のように傾斜地を必要としないことだけは   確かである。それは赤絵町成立以前においても言えることだと思う。また、赤絵町が形成   される以前においては赤絵屋は各窯場に点在していたと推定されることを考えると、今回  

のような窯場の平坦地の調査が進められれば1660年代以前の色絵磁器の資料も増加するこ  

とと思う。   

さて、楠木谷窯を含んだ年木山は色絵の創始にまつわる伝承にゆかりある窯場である。  

柿右衛門文書の「戯 によれば「(前略)某本年本山に罷居候節、相席申侯故、右赤絵付  

立申侯へ共、能無御座候。其後段々某工夫任、こす権兵衛両人二而付立申侯(後略)」と  

あり、年本山で色絵付を試みたことが記されている。色絵に成功して長崎で売り始めたの   が正保4年(1647)とあるため、年本山で色絵付を試みたのはそれ以前のことと思われ  

る。この時期に年木山に赤絵窯があったことは文献からも推定される。   

また、楠木谷窯では1650年代を中心とした色絵素地が多数出土している。今回の調査地   では赤絵窯そのものは検出されなかったが、色絵素地や色絵具が不用意に焼成付着したも  

のや染付製品の割れ口に赤絵具が付着したもの、そして戯れに絵付けしたようなものも出   土しており、この付近に赤絵窯を含んだ工房があった可能性を考えることができる。そし   て、その考えが確かめられれば今回の出土色絵磁器片の年代の下限は赤絵町成ころ、  

すなわち16幼年ごろの可能性が高い。そして、その年代は楠木谷窯の廃窯時期と矛盾しな  

い。今後、登り窯出土の色絵素地や赤絵町成立期の色絵製品などとの比較を進めていかな   ければをらない。   

今回の資料は当時の赤絵窯の立地状況を推測する上でも重要な資料となるであろう。  

(2)口屋番所の設置状況について   

前述した通り1糾0〜16幼年代の遺物のグループは付近の楠木谷窯や年木谷3号窯などで   生産されたものが多い。楠木谷窯はこの遺跡から見て東側に位置している。皿山に出入り  

する人と物を監視するための施設である泉山口屋番所は内山地区の束の出入口に設置され  

(6)

たと推測するのが妥当である。つまり、番所の東側すなわち外側に窯場があったとは考え   にくい。よってこの時期には少なくともこの遺跡の地点には番所ほなかったものと推測さ  

れる。   

そして、このグループに続く年代、すなわち1節0〜16紬年ごろの製品がほとんど見ら   れないことから、楠木谷窯などの年木山の窯場の廃止とともに環境が変化したものと思わ  

れる。この変化がどういったものであったか、今のところ言及は控えなければならない  

が、この時期においても番所が既にこの場所にあったと推定できるような材料は今のとこ   ろ見当たらない。   

それから、次のグループであるが、前述のとおり登り窯で失敗した製品をあえて運び込   んだものが多く、整地用の可能性が高い。つまり、この整地の後に何らかの施設をつくっ  

た可能性が考えられる。しかし、それが番所であったか、どうかは不明である。一つの可  

能性として提示しておくことにする。   

ここで口屋番所の成立状況からアプローチしてみたいと思う。泉山口屋番所の設置の目  

的は前述のとおり、有田内山地区の監視である。つまり、内山。外山の政治区分の確立が   番所設置と密接を関係にあると考えることができる。しかし、この政治区分の確立を考古   学的に証明することは今のところ困難である。現在、文献等の検討から遅くとも18世紀中  

(25) ぢ削こは内山。外山として区分されていたと推定されているが、それ以前については明らか  

ではない。また、口屋番所が属する皿山代官所が内山の白川に移されたのも寛保3年  

(1743)以前と推定され岩あみである。今後ほ各窯場の性格を明らかにした上で、内山。  

外山の製品の比較を綿密に進めていくしかなさそうである。   

逆に今回の泉山口屋番所遺跡の発掘調査はその内容を検討することにより内山・外山の   政治区分や佐賀藩の皿山支配の過程を明らかにしていく資料の一つとなりうるであろう。   

以上、調査終了後の現段階における幾つかの可能性と問題点を記してみた。なお、正式   な発掘調査報告書ほ1994年以降に刊行する予定である。  

苫童  

(1)池田史郎他『有田町史 政治・社会編1』有田町史編纂委眉会1粥5のp43  

(2)(1)のp42  

(3)池田史郎編『皿山代官旧記覚書』皿山代官旧記刊行会1966  

例えばp33の「寛延弐巳年日記」(1749)には「泉山口屋香」とある。  

(4)村上仲之。野上建紀『楠木谷窯。天神町窯・外尾山剰有田町教育委員会1992  

(5)年木谷3号窯(旧窯)は未調査であるが、遺物の表面採集は行われている。  

(6)『肥前の色絵「その始まりと変遷」展』佐賀県立九州陶磁文化館1991のp2B  

(7)村上仲之。尾崎葉子。野上建紀『赤絵町』有田町教育委員会1989のPL.21−3  

(8)大橋康二『嬉野町吉田2号窯跡』佐賀県立九州陶磁文化館1粥9の口絵カラー写真  

(9)大橋康二・西田宏子監修『別冊太陽 古伊万里』平凡社1988のp128  

−106−   

(7)

(10)(6)の大橋康二「肥前の色絵」p174  

(11)(6)のp144  

大橋康二『窯ノ辻・ダンパギリ・長吉谷』佐賀県立九州陶磁文化館1984のPL.8  

(12)大橋康二『有田町史 古窯編』有田町史編纂委員会1988の図版283  

(13)(12)の図版271  

(14)(13)に同じ  

(15)柿右衛門窯などで採集された例はある。(6)のp144  

(16)(6)のp143  

村上仲之「窯跡出土の初期色絵素地大皿について一山辺田窯跡・丸尾窯跡を中心に一」  

『研究紀要 第1号』有田町歴史民俗資料館・有田焼参考館1991  

(17.)(6)のp144  

村上仲之・野上建紀『向ノ原窯・天神山窯・ムクロ谷窯・黒牟田新窯』有田町教育委月会   1991  

(18)『有田町猿川古窯跡 第二部 発掘調査図録』佐賀県教育委月会1971  

(19)『弥源次古尭址物原ならびに掛の谷古窯址について』佐賀県文化館1970  

(20)有田町丸尾の源右衛門窯古伊万里資料館に所蔵されているという。筆者は未見。  

(21)(11)に同じ  

(22)佐々木達夫「松山窯」『世界陶磁全集9』小学館1983  

佐々木達夫「九谷・松山窯発見の上絵窯跡」『陶説 328』日本陶磁協会1粥0  

(23)宮田幸太郎『有田町史 陶業編1』有田町史編碁委員会1粥5のp551  

(24)村上仲之「赤絵町遺跡の調査一赤絵町成立期の問題を中心として−」  

『東洋陶磁 第20。21号』東洋陶磁学会1992年未刊行予定  

(25)大橋康二『西有田の古剰西有田町史編さん委員会1988のp17  

(26)池田史郎他『有田町史 政治,社会編1』有田町史編纂委員会1985のp13  

(8)

泉山口屋番所遺跡位置図  

写真1染付花咲文皿(「慶安元年」銘) 写霧2 染付笹兎文皿  

写真3 染錦窓絵花樹文血   写鼻4 色絵圏線文皿  

泉山口屋番所遺跡出土遺物(1)  

−108−   

(9)

写真13 色絵皿   写真14 色絵唐草文碗(鉢)  

写真15 色絵碗(鉢)   写轟16 色絵人形(鶏?)  

写真18 赤絵具が付着した染付碗(鉢)  

写真17 染錦変形皿  

写轟19 染付芙蓉手VOC文字皿   写真20 染付鳳風文皿  

泉山口屋番所遺跡出土遺物(3)  

(10)

写轟5 色絵栗?文皿   写真6 色絵輪花皿  

写真7 色絵雲文端反碗   写真8 色絵型打変形皿  

写真9 色絵領袖白抜皿   写轟10 色絵草丈皿(左)色絵型打皿(右)  

写真11 色絵宝文皿   写真12 色絵宝文皿  

泉山口屋番所遺跡出土遺物(2)  

一109−   

参照

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