制度としてのソビエト民族学 : 隣接分野との関係
,周辺諸国における影響 : 学術理論の思想史的分 析から地域をよみとく : ポーランド史家トポルス キの歴史学方法論
著者 仲津 由希子
雑誌名 国立民族学博物館調査報告
巻 78
ページ 195‑222
発行年 2008‑12‑26
URL http://doi.org/10.15021/00001250
学術理論の思想史的分析から地域をよみとく
―ポーランド史家トポルスキの歴史学方法論 ―
仲津 由希子東京大学大学院総合文化研究科博士課程
本稿は,ポーランドの代表的マルクス主義史家トポルスキ(1928-1998)の歴史学方法論を思 想史的に分析することにより,社会主義時代におけるポーランドの学術研究の実態の一端に触れ るものである。トポルスキの研究は,従来,アナール学派との近似性により理解されてきた。だ が,そのテクストを丹念に読むと,ポーランドの認識論や論理学の成果を生かした「概念化」と いう異なる歴史学方法論に基づく研究だったことが判る。概念化とは,観察と抽象によって 個々の「過去」の性質を把握し,得られた結果の真偽を第 ₃ 者や史料との間で検証しあうことに より,歴史「科学」の漸進的発展を期す考え方だった。
旧社会主義圏における研究に対しては,後進的ないし本質主義的という見方が依然,存在す る。だがそれは,当該地域に対して歴史的,政治的文脈を過度に強調し,西欧科学史とは別様に 発展を遂げた,地域独自の科学思考を十分に理解してこなかったために生まれた偏見に思われる。
1 はじめに
2 トポルスキについて
3 アナール学派とポーランド社会経済史 家
4 トポルスキの「モデル的」社会経済史 分析
5 マルクス主義をめぐる人文主義対科学 主義
6 ポズナン学派と「科学」的な歴史学方 法論
7 「科学」的な反構築主義史学 8 結びにかえて
*キーワード:ポーランド史学,歴史学方法論,マルクス主義,科学哲学,認識論
1 はじめに
社会主義時代の研究について,ポーランド人研究者はよく相反する言及をする。一方 では,スターリン時代を始めとして当局からの介入がいかに学問を歪曲したかを強調す る1)。 だが他方では,社会主義時代を通じて,ポーランド人研究者は高水準の研究成果 をあげ続けたと主張する2)。 いずれの言質も,当事者の立場に立って想像力を働かせた ならあまり矛盾していないと考えられよう。というのも,自主独立の精神が強い研究者 であれば,当局の介入がいかに自分の研究を邪魔したかを人一倍,強く感じ,それを訴 えたくなるだろう。他方で,そういう性格の研究者であればこそ,不自由な環境下でも,
当局の監督の眼をかいくぐって,自分がいかに優れた研究業績をあげ続けたかを周囲に
誇りたくなるだろう。この意味で個々の言質は,社会主義ポーランドの学術研究の実態 がいかなるものだったかを,客観的に把握させるものになっていない。
では,外部の人間が社会主義圏の学問を中立的に評価できているか。これも断言しに くい。なぜなら外部,特に欧米の研究者は,上述のようなポーランド人研究者の言質に 接したとき,別角度からの論理を結びつけて,結局は東欧圏の研究の立後れを結論づけ る傾向があるからである。すなわち弾圧説をよんだ者は,自由主義圏の研究と比べると イデオロギー的に偏った研究と結論づける。高水準説に対しては,一種のポーランド・
ナショナリズム的言説とみなしてまともにとりあわない。このようなポスト社会主義国 に対する偏見もまた,社会主義ポーランドの学術研究の実態把握を阻害してきたと考え られないだろうか3)。
このように主観的言質と偏見が相互に助けあって,ポーランドの学術研究に関する理 解が二重三重に阻まれている状況下では,予断を排するための方法論的工夫が,その実 態を「正しく」把握するのに不可欠だろう。この場合,第 ₁ の方法として,研究者の環 境(世代・学歴・活動拠点等)について統計的調査をとりいれながら,ある時期の研究 者群の特徴を集合的に実証していく方法が考えられる(
Maternicki
1990; 1999等)4)。 第 ₂ に歴史的アプローチによる比較研究が考えられる。例えばコネリーは,戦後高等教 育のソヴィエト化過程を東独・ポーランド・チェコ間で比較し,ポーランド諸科学の非 スターリン主義的性格を歴史学的に裏づけた(Connelly
2000)。 他にも様々な工夫は 考えられよう。本稿は筆者の専門の関係から,第 ₃ の方法論的可能性として当該地域の 学術理論の思想史的分析にとりくむものだが,これは現下であればこそ,著者の意図を 忠実に再現しようとする思想史分析の研究手法に,一定の意義があるように思われるか らである。学術理論の思想史的分析とは,本稿では,(1)著者に影響を与えた歴史的,科学的,
哲学的な文脈と,(2)著者が語りかけた相手との応答関係を再構成しつつも,(3)著者 が生涯とりくんだ全課題との関係で,(4)ある学術論文のテクストが著者の手でどう体 系化されているか,その論理構造の丹念な把握を優先すること,とする。先述のように,
これまで旧社会主義圏の学術理論は,政治的抑圧や後進地域といった「歴史的」文脈や
「どれだけ『西』に近いか, どれだけドグマ的か」という「政治的」物差しで読まれが ちだった。思想史研究の観点からすると,この状況は,テクスト自体の分析,特にテク ストの論理構造全体を読む作業が不足している,と評価できるものになっている。
そこで本稿は, 現地の代表的マルクス主義史家のひとりイェジ・トポルスキ(
Jerzy
Topolski
1928-1998)をとりあげ, 彼の論文が何を背景に何を主張したくて書かれたものかを再構成する作業にとりくむ。彼の歴史学方法論は,従来,フランス・アナール 学派との関連で理解され,「西」的と評価されてきた(本論第 ₃ 節に後述)。だが論文の 構成と使用されている術語に注意すると,当時,社会主義圏で一定の拡がりをみせてい
た分析哲学や科学哲学の探究と相関づけた理解がより重要な様相がみえてくる。ここか ら理解できるポーランド史学界の一面は, さらに1990年代の構築主義史学流行期に同 地史学が独自の孤高を保った理由について,よく囁かれた原初主義・本質主義的思考以 上に,欧米や日本ではあまり普及していない独特の科学哲学に支えられた歴史科学像が あった点を指摘させる。本稿は,このような学術理論の思想史的分析から,逆に地域の 実像の一断面に迫ろうとする試みである。
2 トポルスキについて
トポルスキは, 1928年, ポズナンで出生した。 アダム・ミツキェヴィチ大学(以下 ポズナン大学)で経済学修士号,ミコワイ・コペルニク大学(トルン)で博士号を取得 し, その後, 学術幹部養成所(
Instytut Kszta
łcenia Kadr Naukowych
, ソ連の赤色 教授学院に相当)時代を経て,1955年,ポズナン大学助教授に着任,1968年には近代史・歴史学方法論学科(
Zak
ład Historii Nowożytnej i Metodologii Historii
)教授,1971年にはポーランド科学アカデミー会員にもなった。 その後, 1998年にポズナンで 亡くなるまでに国際歴史理論及史学史学会理事(
Board Member of the International Commission for the History and Theory of Historiography
), 合衆国, カナダ, ド イツ,イタリアの大学やパリ高等教育院で客員教授,オランダのヴァッセナー高等学術 研究所で研究員を務めている。 国際的活躍はこれに留まらず,I
・バーリンやH
・ホワ イト,R
・コゼレックも編集委員に名を連ねた『歴史と理論(History and Theory
)』(1960年創刊, 出版地ハーグ)や『歴史学方法論史国際雑誌(
Rivista Internazionale di Storia della Storiografia
)』(1982年創刊,出版地ミラノ)等の国際誌編集委員も長 く務めた。さらに ₇ 著作が外国語に翻訳され,うち代表作『歴史学方法論(Metodologia
historii
)』は英語,イタリア語,スペイン語,中国語等,多くの外国語に翻訳されている。この『歴史学方法論』第 ₁ 版は1968年に出版された。 1960年代ポーランドは, 歴史 学の方法論や理論に関する書物の刊行が相次いだ時期で,同書の出版も基本的にこの流 れの上に理解できる。当時刊行された類書の大半と同様,講義資料として大学で利用す るために執筆されたので5), 数年ごとに記述の追加や訂正が図られ, 版が重ねられた。
とはいえ,『歴史学方法論』は,ポーランドでも圧倒的難解さで定評ある教科書だった。
サイバネティクス用語を採用しつつ,独自の歴史術語と概念を導入し,史料の歴史学的 吟味から特定の社会構造が歴史的に変動する過程を理論的に説明しようという,独特の 方法論的体系を同書がもっていたからである。トポルスキの歴史学方法論は,(1)大量 の史料読破により正確さを期すと同時に,様々な学術理論に関する知識を増やして史料 吟味能力を高め,(2)研究対象とする社会の内外の諸要素の諸関係を有機的に関連づけ つつ検討し,(3)その社会の構造が変化した原因,その原因が生まれた背景等を特定し,
統合モデルを打ちたてるという,歴史学方法論という言葉から一般的に想起される内容 とは異なる内容をもっていた(さらにこの説明でも不十分なことについては,第 ₆ 節で 触れることにしたい)。
さて,このような彼の方法論は,冒頭で述べたように科学哲学との関係が深かったが,
出身地ポズナンを中心とする中世ポーランド社会経済史家でもあったためにアナール学 派とも関係が深いという別の顔ももっていた(
Topolski
1978; 1987等)。 先述のよう にトポルスキが登場する英語文献や邦語翻訳文献をみるかぎり,大半が科学哲学に言及 することなくアナール学派との関係で彼の歴史理論を紹介してきた。恐らく社会経済史―科学哲学という関心の結びつきが欧米諸国ではあまりみられないために,かわりに欧 米型の社会経済史―アナール学派という連想をあてがうことにより理解が進められたの ではないかと思われる。 次節ではそうした紹介の一例として歴史学史家
G
・イッガー ス(Iggers
1986)をとりあげよう。3 アナール学派とポーランド社会経済史家
ポーランド社会経済史家に対するアナール学派の影響については,これまでにも多く の指摘がある(
Grabski
2000: 222-223等)。 アナール学派とマルクス主義史学は, 出 自がまったく異なるのに相互にとりいれやすい論理的親和性をもっていた。似ていたと いうことは, アナール学派の理論体系が検閲の目を逃れやすかったことも示唆する6)。 それ故,アナール学派は社会主義ポーランドで受容されやすく,しかも普及しやすかっ た。とはいえ,両者の交流は,実は戦前からのものなので,その関係を一方の他方に対 する「普及」という単純な関係で捉えるべきではないだろう。トポルスキが指導を受け たルトコフスキ(J. Rutkowski
1886-1949)らポーランドの社会経済学者は, 戦前か らアナール学派第 ₁ 世代の研究者と緊密に交流していた。 また1931年, ポーランドで も独自に『社会・経済史年報(Rocznik Dziejów Społecznych i Gospodarczych
)』を 創刊していたのである(戦前の出版地はルヴフ,現ウクライナ領リヴィウ)。さて1970年前後に社会主義ポーランドの史学研究を観察した
G
・イッガースは, こ の社会経済学者こそが理論と経験的知識の接合に熱心なポーランド史学を牽引している と考えた7)。 ここでやや齟齬があるのは,彼が,接合作業に熱心なのがポーランド史学 の特徴と考えており,だから「ポーランドの他のマルクス主義的歴史研究者よりも理論 と経験研究の接合にはるかに熱心」な彼らに注目すると続ける点である。 というのも,彼は,過度に単純化したマルクス主義モデルの援用に安住し,経験データ吟味のための モデル鍛錬に努力しないポーランド純正マルクス主義史家も少なくないことに触れてい る。それ故,彼の記述は,全体的には接合に不熱心なのが同地史学の特徴だと解釈でき るものにもなっており,整合性がとれていないと考えられる。彼は,1956年以降,『アナー
ル―経済, 社会, 文明(
Annales. Economies, Sociétés, Civilisations
)』等に掲載 されたクーラ(W. Kula
1916-1988),トポルスキ,ヴィシャンスキ(A. Wyszański
) らポーランド社会経済史家の仕事をみて,ポーランド史学に対するイメージをかなり先 行的に作りあげていたのではないだろうか。いずれにせよイッガースは,彼らが外国雑誌に発表した論文から次の特徴を指摘した。
(1)彼らは単なるアナール学派受容者・亜流ではない。アナール学派と比べて生産過程 や余剰への関心が強いからである。 これは史的唯物論の影響と考えられる。 だが(2)
彼らの「封建的」農業中心経済分析にはアナール学派との共通点もある。例えば計量分 析や近代経済学の手法を積極的にとりいれ,比較研究のための分析枠組みを探究し,歴 史を動かす社会的意識の役割を重視しているからだ。 こう整理した上でイッガースは,
トポルスキについて補足的に,アナール学派に該当しない要素があり,事件史や政治史 への関心が強く, 経済発展と政治構造との関係をより重視するようだと書き足した
(
Iggers
1986: 206-207,
209,
211-212)。 この論理展開からするとイッガースは基本的 に,アナール学派を手がかりにすることにより,(1)ポーランド社会経済史家の特徴を 理解できる,(2)同様の方法でトポルスキにも接近できる,(3)さらにポーランド史学 の本質的特徴にも迫れる,と考えていたと推測される8)。4 トポルスキの「モデル的」社会経済史分析
さてイッガースの接近法がどこまで妥当なのか。トポルスキのポーランド語による社 会経済史分析論文をみることにより,具体的に検討しよう。本節では,まず彼の「ポー ランド経済史のモデル的把握の諸問題」(
Topolski
1978)の論理展開をざっと紹介する。彼の理解するところ,当時の歴史学で最も発展していたのは人口統計学と経済史の分 野だった。その最先端にあるのがアメリカ発の新経済史だった。同研究を,彼は,新古 典派政治経済学に基づいた特定領域研究にすぎないと批判した。 我々がめざすべきは,
人々の経済活動と経済過程から歴史全体を展望していけるような「グローバルな経済史 学」ではないか。「どのように歴史的現実は『生まれる』のか」。「歴史の発展メカニズ ムとはいかなるものか」。 経済史研究もこの問題に答える必要があるのではないか
(
Topolski
1978: 26)。 そのための「概念化(konceptualizacja
)」「モデル」構築,こ れを彼は論文の執筆目的に掲げた。そこでトポルスキが採用するのが,「弁証法的行動主義(
aktywizm dialektyczny
)」という考え方である。彼は同理論をマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
で萌芽的に示したものとする9)。 歴史のメカニズムを知るには,「社会的存在」である 人間の活動が歴史的に果たす役割の勘案が不可欠である。だが,その際,注目するのは
「自発的・自然発生的な(とくに優れた人々の)人の活動(
aktywizm spontaniczny
)」,すなわち暴動や英雄の活躍のような一過性の行動ではない。着目するのは,その蓄積が 経済構造の大転換を生むような,無名の人々による日々の行動である。以下,彼の主張 を引用してみよう。
第 ₁ に「自分の(経済的・政治的・文化的といった)目的の実現を図ろうとしながら,
人は歴史過程も『生みだす』。 人々の活動のグローバルな効果は, この過程に生じる。
これらはその行為者には部分的に自覚されるにすぎない。だが学習し,計画性を身につ けるにつれ,人が自ら認識する自分の活動結果の範囲は徐々に増えてくる」。第 ₂ に「こ のことから歴史(すなわち経済史)はふたつの側面を有する。主観的なそれと客観的な それである。 主観的観点からの考究は人々の活動とそのメカニズムの分析を意味する。
一方, 客観的観点からの考究は同活動のグローバルな影響に関する省察を意味する」。
第 ₃ に「人々の活動の結果は,新たな行動がとられる条件を生みだす。それは,人々が 直接,そこに存在し,与えられ,委ねられるような『状況』である。この条件は確かに 人々に直接的に影響しない。だが間接的に意識に働きかける。行為面では,その意識の 最も重要な中身は, 世界観的(世界, すなわち活動条件についての)知識(
wiedza
) であり, また活動者(たち)がもつ, 自分の嗜好に対して説明を与える体系である」(
Topolski
1978: 26-27)。抽象的な表現が続くので,具体例を用いて趣旨をより明解にしよう。例えばある人間
(
A
)が,あるハンバーガーショップ(B
)のハンバーガーが好きだとする。(A
)はハンバー ガー食べたさに(B
)店を訪れる。(A
)としては自分の好物で食欲を満たしたいだけである。だが(
A
)の行動はめぐりめぐって,(B
)店の経営と従業員の生活をも助ける。あるとき,購買という自分の行為の派生的効果を学んだ(
A
)は,今度はお気にいりの店を応援した いという,本来の食欲とは無関係な理由でハンバーガーを購入するようになった。この 場合,(A
)の意識の推移(好物→学習→応援)のメカニズムの分析と,(A
)の行動が(B
)店 運営に果たした一定の波及的効果の分析は,別々の学問的課題として検討できると判る。次に(
B
)店はおいしいハンバーガーで集客をめざす店だったが,ある時,不況の煽り を受けて,商品の質を落とし値段も下げる改訂を行った。(A
)は不況時だからこそ従来 の高品質ハンバーガーを食べたいのにと感じ,(B
)店に通うのをやめた。 結果,(B
)店 の売上は大幅に落ちた。(B
)店は,不況時も客は安かろう,悪かろうでは買わない,高 価でも高品質の商品を買おうとするという世界観を得た。そこで品質を再び高め,値上 げし,そして売上を回復した。このとき,世界観が「客観的に正しい」必要はない。(B
) 店長が得た世界観的知識は,時代や地域,他条件が変われば通用しないかもしれないし,本来は別の教訓を得るべき状況で,(
B
)店長が誤った教訓を導いたにすぎなかった可能 性もある。しかし正しいか否かに関わりなく,この世界観的知識に基づく「高くて良い ハンバーガーを売ろう」という店長の戦略的判断は,ある一定の社会的効果を生むだろ う。 もし(B
)店が収益を回復すれば, その様子をみた(C
),(D
)店が(B
)店を真似, 結果的にハンバーガー市場全体も変容する可能性がある。従って,この世界観的知識の真 偽に拘わらず,この知識が一定の社会的効果=経済的・歴史的事実を生みだすことに留 意しなければならない。このような観察・推論の整理結果が弁証法的行動主義であるこ とを確認して,再びトポルスキのテクストに戻ろう。
彼はここから経済史が, 主観的過程(
A
の意識の流れ等)と客観的過程(A
の行動 がB
店舗の運営に果たした役割等)両方を扱う必要があるのは明瞭だとする。そして(1)人々の行動(様式),(2)行動の結果,(3)歴史的事実として確定したもの,(4)その 事実が全体としてどんなしくみで出現したと考えられるか,という ₄ 行程に分けた考察 が必要だと唱えた。
さて,トポルスキは続いて, ₄ 行程の相関関係をより簡単に把握できるよう「モデル 的な理解」=数式化しようと唱える。さらに多くの独自定義の語彙を登場させる。モデ ルとは研究対象の現実を単純化した像,それを的確に反映した型とされる。モデルは全 部を網羅的に単純化するのではなく,相互の絡みあいを想定するだけで歴史的過程をあ る程度,理解できるような「より根本的な要因や要素」だけを演算する。その演算に必 要なもの,ある現象のどこからどこまでが一現象として考察対象になるのか,そのうち 何が主要因で何が副次的要因か,これらを特定する根拠を提供するのが理論である。理 論が適切なら「選別過程をより助けてくれる」。 そのためより適切なモデルが作成でき るとする(
Topolski
1978: 28)。 両者の関係について, 彼が論文後半で扱う中世ポー ランド(10~18世紀)社会経済史の検討例から具体的にみておこう。 この事例でのモ デル化対象は,中世ポーランド封建体制下の経済史ないし経済変動である。そして理論 は,人間や社会についての一般的仮定と中世の人間や社会についての特殊仮定を指して いる。まず(1)人々の活動については, 人々の経済活動と, 結果的に経済的効果をもたら すような活動両方を考慮に入れる。後者には,衣食住等物質的・生理的需要を満たすた めの活動や,その人間が属している社会からの要求を充足しようとする社会的活動等が 含まれよう。中世ポーランド封建社会の場合は,静的志向性が社会からの文化的要請だっ たと考えられる。なぜなら中世ポーランド社会は,封建的かつ「アジア的生産スタイル をもつ未開社会の条件に生きる社会」だったからだ。こうした二重後進社会の特徴は「す べてのもの(既存の構造)を維持しようとする(変化を望まない)」点にある。 しかし 他方で当時はポーランドにもヨーロッパ文明が波及し始め,人々の活動が動態的になり つつあった。従って,人々の行動には保守性と積極性が過度的に同居していたと仮定す る必要がある。
次に経済成長を促すようなタイプの(2)活動結果を検討しよう。 中世経済の場合,
大前提として,需要―供給関係から経済効果が生まれ,やがて拡大するという近代経済 学の基本があてはまらない。それ故,資本主義的な投資はなかったと考える。かわりに
含めるのは,封建経済を実質的に支えたと考えられる農民の生産と地代・小作料,それ から小規模でも認められる経済成長の促進要因と考えられる技術の進歩や組織形態の変 容(資本主義経済における投資の役割を代替するものとして)である(
Topolski
1978: 28-30)。トポルスキはこの検討結果を整理し直し,モデル化の必要変数として,社会集団や階 級の需要と所得,そして人々の行動とその結果,さらにこれらの諸要素に全体として影 響を及ぼす制度(国家等)を割りだす。そして需要(
P
)と所得(D
)に対して,それ ぞれ階級(集団・個人・制度)(i
)と時間(t
)を演算する次の計算式を提示した。 本 計算式から得られる関数⊿AE
が経済効果を表す(Topolski
1978: 32)。
ti ti
D f P AE =
⊿
この計算式は全体として,⊿
AE
が何らかの形で閾値を超えると,生産様式の変化が 起き,歴史が変動することを表すとも思われるが,トポルスキが最後段でとりくんだの は「具体化(konkretyzacja
)」と彼がよぶ作業の方だった。それぞれ時代状況に応じて(
i
)に様々な変数(農民や貴族の活動状況等から割りだされる数値)を入れ,⊿AE
の 値がどのように変化するか(例えば16~17世紀前半は経済成長が著しく, 17世紀後半~18世紀前半は停滞期だった等)を検証したのである(
Topolski
1978: 32-38)。5 マルクス主義をめぐる人文主義対科学主義
前節に紹介したトポルスキ論文は,人の世界観的知識を扱う等,いくつかの点でアナー ル学派を連想させる。 だが,その理解は果たして適切なのか。 本節で順に検討してい こう。
全体の論理構成はまず,イッガースのいうようにオーソドックスなマルクス主義モデ ルと確かに異なっているだろう。マルクスは,ごく一般的解釈では人々の意識と無関係 に生じる生産構造の変化が歴史変動を決定づけ,また経済関係が人々の意識を規定する と唱えた。 トポルスキ論文の特徴として第 ₁ に, 1978年時点で人の意識と無関係なこ の歴史把握法を退けている。
これまでの経済史では, このような(主観的側面と客観的側面をともに配慮する:筆者註)
要請が十分に考慮されてこなかった。 主観的叙述を好む(特に伝統的政治史絡みの)歴史学派 もいれば,客観的過程の観点からの理解を好む学派も存在した。 マルクス主義史学は主観的歴 史像の把握に反対し, 人々の活動範疇において理解しない過程プリズムによる歴史把握を一度 ならず一方的に強調しがちだった。 このような立場の典型例はとりわけアルチュセールの業績 である。
経済史学は,大部分が(特にジンテーゼ的な業績では)客観的過程の観点から把握されてきた。
そのため, 例えば産業革命がいかに生じたかとか, 農場-地主経済の発展過程の流れがいかな るものだったかの方が, そのような過程の底辺に人々のどんな決断があったかとか, またなぜ 他ではなく, そのような決定が受けいれられたのかよりも, 歴史家の関心をひいたのだった
(Topolski 1978: 27)。
第 ₂ に,トポルスキがここでなぜアルチュセールを批判したのか,この点を考えてみ よう。 トポルスキがここで批判したのはアルチュセールの『資本論を読む』である。
1965年出版の同著は,1975年にポーランド語訳がでた(
Althusser
1975)。 ただこの理 論のどこを批判したのか,トポルスキ論文は明らかにしていない。そこで本稿では当時 の社会主義圏におけるアルチュセール批判を参考に,トポルスキの立場を大まかにのみ 位置づけることにしよう。 ニーメス(Nemeth
1980)他が指摘するところによると,この頃,アルチュセール理論を,硬直したドグマ的・スターリン主義的マルクス主義と 理解する見方が,社会主義圏にはあった。この理論の特徴のひとつは,認識論上の科学 とイデオロギーとの区別を唱えた点にある。彼はプレハーノフが区分した史的唯物論と 弁証法的唯物論をとりあげ,前者を歴史に関する知識を提供する科学,後者を証明不可 能なイデオロギーと説明した。アルチュセールによれば,歴史主義的・人文主義的マル クス主義解釈はイデオロギーに属するのであって,人間という要素を廃した非歴史主義 的構造分析こそが真に科学的な研究体系だった。この主張に対して,歴史主義的・人文 主義的側面を否定すると,ある社会の歴史的変化を満足に説明できないという批判が出 てきた。
その際,注目したいのは,革命や行動という局面を除外するから歴史的変化が説明で きないとされた点である(
Nemeth
1980: 363-364)。 この場合, アルチュセールの主 張は,卑近には行動主義を支持する人文主義者を批判していたが,図らずも党による前 衛という考えすら批判するものになりえたのではないだろうか。というのも,人の手で 社会を変革しようと発想する点では,人文主義者も前衛党支持者も共通していたと思わ れるからである。このマルクス主義像は,恐らく,科学の力で全社会の合理的計画化を めざす19世紀末の科学主義と連動して生まれた(Pajestka
1989: 159-163)。 仮にマル クスの理論体系が,歴史の中に弁証法的運動を見出し,資本主義が一定段階に達すると,肥大化した内的矛盾が同経済システムを終焉に導く弁証法を作動させるとする史的唯物 論と,それとは別に経験から知識を獲得することにより生じる人々の意識の変化を生成 の原動力とする弁証法的唯物論のふたつから構成されるとしよう。ならば,党が革命を 起こし社会を牽引するというレーニン以降のマルクス主義像は,弁証法的唯物論を独自 に解釈して含意を転倒させれば,生まれる余地のある議論かと思われる。
こう整理するとトポルスキの主張の含意は,革命的実践を促すのではない,歴史を解
釈する科学的方法論としての弁証法的唯物論の意義の復活にあったといえるだろう。彼 は,人の実践が歴史に果たす役割をくみこみ,史的唯物論も考慮した歴史的社会変動論 を展開した。彼においては,多数の無名の人間による,知識を媒介とした意図的・非意 図的な行動の,予期された結果と予想していなかった結果の無数の集積とその相互作用 が, 歴史的な社会変動をもたらすとイメージされていた(
Swiderski
1980: 355-356等 を参照)。トポルスキは「知識」を幅広く捉え,「知覚(
świadmość
)」すなわち「理念, 価値 世界, 心性, 民衆の視座, 科学(idea, świat wartości, mentalność, wiedza ludzka, nauka
)」(Topolski
1978: 27)等も含めているので, 字面上はアナール学派の心性史 を確かに彷彿とさせる。だが議論が質的に異なることを,トポルスキの『歴史学方法論』の該当箇所を参照しながら,第 ₃ の立ち位置として確認しよう。
仮に社会的経験の「第 ₃ レベル」として心性に着目し,量的研究や解釈学的な総体的 把握を通じて身体史をめざしたりする,総合化がアナール学派の基本的な方向性だった としよう。ならば,トポルスキの関心は対照的に,知識を媒介にした微視的な因果法則 性論の復活におかれていたといえる。物事の生成可能順序は無限ではありえない。この ことをうまく説明するには,外部条件ではなく外部条件に関する人の知識こそが人の行 動の動機づけの根拠だと考える必要がある。人々の行動は,条件そのものによって多様 化するのではなく,外部条件についてその人間がどれだけの知識をもっているかによっ て多様化する。 この知識(
z
)を媒介に外部条件(X
)と人間の行動(Y
)との因果関係を検 討してみよう。 すると,(X
)と(Y
)の間には,確かに ₁ 対 ₁ で呼応する必然的因果関係 は存在しない。だが,(x
)が与えうる知識(z
),(x
)から人が獲得しうる(z
)にはそれぞれ かぎりがある。 それ故,先行する外部条件(X
)が後続する人の行動(Y
)を必ず発生させ るわけではないが,(x
)から発生しうる(y
), しえない(y
), ないしは(y
)が発生する条 件として想定できる(x
),想定できない(x
)は存在すると考えられる。従って物事の生成 可能な順序,ないしは不可能な順序はここから割りだせるだろう。 つまり(X
)と(Y
)を 大文字の事実のタイプとして,(x
)と(y
)を実際の諸事実とし,(1)と(2)を解明項と すると,被解明項は(3)となるが,知識(z
)の存在のため(X
),(Y
)は無限大にはなら ない。 彼が知識に注視したのは,むしろこの説明のためだった(Topolski
1984: 471-473等を参照)。
(1)
X → Y
(2)x ∈ X
(3)y ∈ Y
さて,アナール学派との異同を確認した上で,最後に第 ₄ の特徴として,人間の社会 的意識をも勘案する3 3 3 3 3 3のが科学的マルクス主義だと主張した点を, 改めてあげてみたい。
トポルスキの「科学」概念は,同主義をめぐり20世紀後半に登場した科学主義対人文主
義という通俗的対立構図(前者として人間の意識の位相を排除した3 3 3 3 3ものが科学的マルク ス主義だと主張したアルチュセールの「構造マルクス主義」等,後者としてサルトルの 実存主義や主に実践性の欠落をめぐってアルチュセール批判を展開した人間中心主義的 マルクス主義等)と呼応していない。
ポーランドでは人文主義派の動きこそ欧米のそれとやや連動し,国外でも知られてい た。日本にも数多く著作が紹介された,コワコフスキ(
L. Ko
łakowski
1927-)ら人文 主義者(いわゆる「修正主義」者)は,ドイツ古典哲学や初期マルクス,ルカーチ,グ ラムシを好み,国際的にやや連携していた(初期紹介例として田村 1969; フエツチャー 1969; 奈良 1971等)。 だが, ポーランドで科学主義を標榜したトポルスキや彼が属し ていたポズナン学派(Szko
ła poznańska
)の動きは, アルチュセールのそれと何ら関 係がなかった。ポズナン学派マルクス主義者は,人文主義派が「ドグマ的」と心理的に 嫌悪した論理実証主義10), 戦前のルヴフ=ワルシャワ学派(Szko
ła lwowsko-
warszawska
,またはポーランド学派)が展開した分析哲学11),これらを基盤にしながら,K
・ポパーやTh
・クーンらによる同時代の科学哲学や認識論, 論理学と連動しつつ,研究を深めていたのである。
しかし,日本にほとんど紹介されなかったポズナン学派の動きは,実は社会主義圏で 一定の拡がりをもつ学術潮流のひとつだったことを指摘しておく必要があるだろう。か つて日本では『思想』誌上等で「論理学論争」が展開されたことがある。 これは1950 年スターリン「言語学論文」に端を発したものだった。同論文は,それまでブルジョア 科学として学術的意義を否定してきた分析哲学系の形式論理学の意義を認めた。形式論 理学が弾圧されたのは,それがマルクス主義の弁証法的論理学と相容れない論理構造を もっていたからである。形式論理学は一般に,科学者が統一的物理的世界のうちのまだ 明らかになっていない部分を少しずつ明らかにし,いつか科学的知識の百科事典的統合 を果たすという静的な実証主義的世界像を支える。 他方,弁証法的論理学は,「物」に 潜む相矛盾する二面間の闘争が「否定の否定の法則」を通じて物事の生成・変化・運動 を促す,という動態的世界観をもっていた。従って1950年「言語学論文」が登場した背 景には,当時の社会主義圏で社会工学的諸政策が一定の成果を収め,漸進的社会完成像 が現実的に意識されるようになり,結果的に形式論理学的分析の価値が否定できなくなっ たという変化が指摘できる(
Sarlemijn
1985: 324)。とはいえ,両論理学の統合は結局,不可能だと,ソ連では程なく公式発表された。た だその後も,統合を模索する研究者が,社会主義圏でもそれ以外の地域でも跡を絶たな かったのである(
Sarlemijn
1985: 325; 嶋崎 1985)。 ここで注目したいのは,そうし た研究者が共通して,サイバネティクス論,システム論,ゲーム理論等,数学的論理学 を基盤とする理論の援用により,弁証法との橋渡しを試みた点である。このような研究 の拡がり,関心の共有,着眼点の近似性に着目するなら,トポルスキ論文は,ポズナン学派や論理学についての理解なしに読むことはできないと考えられるだろう。トポルス キが自分の研究課題を深めるのに利用できた思惟の「工具」類はいかなるものだったの か,そしてそれらを用いて,彼自身はいかなる独自の体系化を試みたのか。 次節では,
こうした点に留意しながら,ポズナン学派の業績について確認していくことにしよう。
6 ポズナン学派と「科学」的な歴史学方法論
ポズナン学派とは, ポズナン大学を拠点に結成された学派である。 1930年代ポーラ ンドにサイバネティクス理論を紹介したヴィエグネル(
A. Wiegner
1889-1967)教授 と彼が在籍していた哲学・歴史学部論理学科(Zak
ład Logiki Wydzia
łu Filozoficzno- Historycznego
)を中心に出発した。 1953年, ヴィエグネルの後をギェディミン(J.
Giedymin
1925-1993)が継ぐが,彼も1966年に渡英し,学派運営はクミタ(J. Kmita
1931-)12)の手に委ねられた。 1969年, 論理学科は哲学史学科(Zak
ład Historii Filozofii
)と合併して哲学研究所(Instytut Filozofii
, 所長クミタ), 1976年に文化学 研究所(Instytut Kulturoznawstwa
)へと改組される。一般に1969年のクミタ就任をもっ てポズナン学派創始とする13)。学派の関心対象は必ずしも統一的とはいえず,例えばクミタは後に歴史認識論や文化 理論に関心を寄せるようになり, もうひとりの代表ノヴァク(
L. Nowak
1943-)14)は 科学哲学を応用した理念化(idealizacja
)という学術方法論の構築に邁進した。 ただ し基本的に人文科学方法論の構築をめざした点では共通していた。 人文科学の特徴は,自然よりも遙かに多種多様に雑然と存在する具体的な経験的実在を扱う点にある。その 中で何が具体的に検討すべきデータで,それはどのように検討すべきデータか。これま でその選択基準は,すべて各研究者の嗜好や感性に委ねられてきた。これからは間主観 的対話を可能にする科学的再構成,選択基準を提供する理論が必要である。ある研究者 による経験研究を他の研究者が利用して,演繹的に一般化をめざせるようにしなければ ならない。彼らはこのような動機づけの下で,人文科学方法論の構築に尽力した(
Kmita
and Nowak
1968)。 つまり彼らの科学主義とは, 自然科学的手法を人文・社会科学にまで拡大しようという研究姿勢を意味していた。
その過程で彼らが注目したのがマルクスの科学方法論である。注意したいのは彼らが マルクス主義の理論的優位性を唱えた訳ではない点である。彼らが試みたのは,世界を 認識する科学的手段としてのマルクス主義の理論的含意, 方法論的効用の保持だった。
彼らは『資本論』等を丹念に輪読しあい, その研究成果を1970年代前半に共編論集で 披瀝している(
Nowak
1970;Kmita
1971;Nowak
1974)。 彼らが辿りついたのは,マルクスは方法論的自然主義を採用しているという結論だった。
彼らによれば,マルクスは法則が人間活動を支配するとする運命論的歴史哲学を展開
したのではない。高度に体系化された新しい抽象―個物(具体)吟味法を展開したので ある。マルクスは,社会・経済的構造と人間の行動の相互作用について慎重に観察を重 ね,何かが生成された過程,生成されたものが果たした機能をひとつひとつ丹念に整理 していった。その結果,ある種の法則性を発見した。重要なのは,その法則性はすでに 現実の世界には存在しておらず,様々な要素をふるいにかけた結果,研究者の頭にのみ,
理念的,抽象的に抽出されたものであるという点である。
ノヴァクは,この手続き全体を自然科学=物理学的手法の延長と捉え,それを「理念 化」と名づけた。理念化とは,直接的経験をすべて現象学的に実写するのではなく,現 象の本質をなす関係の法則のみ掴もうとする方法論である。例えばガリレオは,物体の 落下現象について重力のみを本質と捉えた。実際の落下現象には空気抵抗等の付帯的な 要因がいくつも働く。だが空気抵抗がなくても落下現象は起きる。従って落下現象の説 明としては,空気抵抗は副次要因にすぎず,理論に加える必要がないと考えられるだろ う(
Nowak
1977: 12-17)。対して,クミタはほぼ同様の内容のものを反自然主義的「方 法論的構造主義(strukturalizm metodologiczny
)」と名づけた。 これは確かに事象観 察の段階では自然主義的方法論を採用するが,本質―副次要因を見極め,それらを階層 的に腑分けしていく段階では,むしろ構造主義的な異なる(反自然主義的)方法論を採 用しているのではないか,という見解に基づく命名だった。見解に相違はあるものの,マルクスの手法が,観察と哲学的吟味により経験的現象す べてを描写しない「科学理論」として成立しているとする点で,両者は共通する。彼ら はさらに, ルヴフ=ワルシャワ学派, とりわけアイヂュキェヴィチ(
K. Ajdukiewicz
1890-1963)の論理学の遺産を生かし, こうした理念化によって得られた仮説が, 検討 対象の本質的構造をきちんと説明(第 ₃ 者に適切に認識させること)できれば,その仮 説は真だとみなせるという独自の真偽説を展開した15)。この点については,いくつか事 例をあげてみよう。第 ₁ に夕暮れという現象を考えてみる。カラスが鳴き,ビルの壁の色が黒ずみ,星の 光が肉眼で捉えられるようになる。こういった個々の現象すべてに言及しなくても,太 陽が沈み,辺りが暗くなるという本質的法則さえ説明できれば,第 ₃ 者に夕暮れという 現象が何であるかを伝えられるのではないだろうか。逆にビル壁の色が黒ずむという説 明で,夕暮れという現象を第 ₃ 者に的確に伝えられるだろうか。
第 ₂ にアンディ・ウォーホールのマリリン・モンローの「写真」を想起しよう。彼の 作品は,肌や髪の色が違っても見た者がモンローの写真だと認識できるという,人の興 味深い認識現象を示している。ここで顔の輪郭や眼の形や位置が違った場合はどうだろ うか。肌や髪の色が異なる写真に比べると,モンローの写真だと認識できる確率は低く なるだろう。ここからモンローの顔という現象においては,眼や輪郭がより本質的,肌 や髪の色は副次的要因という検討結果が得られる。この例でも自然界では顔の各部位は
平等に存在しているが,より本質的なものを抽出しないと第 ₃ 者には適切に認識させら れないと確認できる。
第 ₃ に人の似顔絵を考えてみよう。ポズナン学派の考える理念化された内容は,この 似顔絵に相当する。我々は人の似顔絵作品をみたとき,「似ている」とか「似ていない」
とか感じるだろう。その似顔絵について,対象人物の特徴をよく捉えた作品と第 ₃ 者が 判断できれば,その似顔絵は真である。どこか部分的に違うと感じれば,黒子の位置や 口の表情等に修正や改善が必要である。修正を加えるまでもなく,対象人物とは到底思 えないなら,その似顔絵は偽である。ここから判るのは,似顔絵を描く方法=理念化方 法には限りがあるということである。つまり理念化された内容が無条件・無制限・相対 的に乱立することはありえない。第 ₃ 者が共有できることが,その成立要件なのである。
さて, 以上のようにポズナン学派の主張を簡単にまとめたところで, ポズナン学派 第 ₃ の代表人物としてのトポルスキの話に戻ろう。 年齢的にみても, また歴史学方法 論 に 関 す る 共 著 を す で に 1960 年 に 出 版 し て「 マ ル ク ス 主 義 者 的 転 回(
zwrót marksistowski
)」ともいわれる大きな衝撃を現地研究者に与えた点をみても(Topolski and Malewski
1960),彼の方法論への関心は前 ₂ 者に先行していたと考えられる。 そ の研究は,ノヴァクらとの共同研究を通じてこそ発展していった。しかし,彼は,通時 的・個別具体的性格をもつ歴史を研究対象にしたので,自分の「概念化」(ノヴァクの「理 念化」と内容的にほぼ同様)した内容が第 ₃ 者だけでなく,実際の歴史によっても検証 されるという別の課題を抱えていた。そのため,彼の「概念化」作業の意味は結果的に 前 ₂ 者とさらに異なることになった。 ここまで理解したときに, 第 ₃ 節で触れた社会 経済史論文における彼の挑戦の意味あいは,初めて正確に理解できてくるのではないだ ろうか。同論文の構成が,(1)経済史の客観的側面のみを抽出しようとするアルチュセールの ような研究者を批判し,(2)知識や認識を介して人が歴史に果たす役割をくみこんだ歴 史過程論を,(3)概念化モデルとして提示するとなっていたことを思いだそう。
繰返しを避けるため,もっとも重要な点だけを指摘する。それは,トポルスキのアル チュセール批判の根幹にあったのは,単なる主観的側面の分離以上に,実は後者が無意 識に採用している西欧科学に伝統的な主観性―客観性という二元論的区別そのものでも あった,という点である。トポルスキは論理学・認識論の成果を生かし,主観―客観二 元説を排した「科学」像を導入した。喩えるなら,トポルスキは,我々が「犬」という 抽象語を使うことにより個別具体的な犬について第 ₃ 者と情報を共有し,その真偽(例 えば実は犬ではなく猫だった等)を検証できるように,過去も概念化されることを通じ て, 第 ₃ 者と共有し真偽の検証が可能になる, としたのである。 特に歴史の場合, 第
₃ 節末に登場する数式化は,後世に実際に生じた経済構造の歴史的変化を再現できなけ れば,くみいれた変数や関係性の想定法が誤っていたという検証を可能にする。つまり,
トポルスキの構想は次のように説明できる。数式化はまだ様相が判らない歴史的状況に ついて演繹的再現を可能にする。それと同時に,史料の発見と検討の結果を照合した理 論の検証も可能にする。こうした検証を繰り返し経て,歴史「科学」は漸進的に発展し ていく,と。いいかえると,トポルスキの歴史研究構想は,動態的な歴史把握手続き(弁 証法)と,それによって得られるモデルの検証を通じた牛歩的歴史科学進歩(分析哲学)
というふたつの論理を接合したものになっていた。このような展望の下に,第 ₃ 節の数 式は提起されていたのである。
それ故,仮に歴史主義的・人間中心主義的・目的論的・全体論的マルクス史学像に対 して,第 ₂ 次大戦後,正面から挑み,認識論上の革命を起こしたのがアルチュセールの 構造マルクス主義だったとしよう。これは主観―客観二元説を伝統的に採用してきた西 欧科学ならではの学説史理解だと考えられる。トポルスキは主要著作でアルチュセール をすべて無視するばかりか,構造主義的な歴史解釈全般に対し,この段階で漸く「熱情 にかられて個別具体的事例を研究したり,思弁的哲学に甘んじたりして,堂々巡りの議 論をすることに関心がない」歴史研究者が登場すること(
Topolski
1984: 142),「歴 史学では,構造主義的段階を経験しないと弁証法的な物の見方ができない」ことを指摘 する(Topolski
1976: 128)。 トポルスキは『歴史学方法論』において,古代以来の歴 史文献を探査し,歴史省察方法論の変遷を科学的パラダイムの漸進的変化として捉え直 している。構造(論)的把握に続くのが論理(学)的把握,その先にマルクスの弁証法 的歴史省察法(概念的把握)は漸く登場する16)。トポルスキに従うなら,例えば夕暮れという現象を,主観主義者は神の使いが走らせ る馬車と捉え,実証主義者は,カラスが鳴く,壁の色が黒ずむ,とひとつひとつ証明し ていくと,やがてその物理学的現象全体が解明できると考える。また構造主義者は太陽 が沈む,カラスが鳴くといった諸要因が重層的に絡みあって夕暮れという現象を創りだ していると考え,相対主義者はカラスが鳴くとも,壁の色が黒ずむともいえると考える。
漸くマルクスが夕暮れを日が沈み,辺りが暗くなる現象だと考えた。トポルスキの学説 史理解は,極論するなら大凡このようなものにもなっていたのである。
なお最後につけ加えるなら, トポルスキの科学的方法論への関心の高さの背景には,
指導教授ルトコフスキの影響や先述のポズナン学派との相互作用といった直接的要因以 外にも,社会的関心の高さという広い環境要因が指摘できるだろう。より長期的な要因 としては,戦前にルヴフ=ワルシャワ学派を生みだしたポーランド学界の学術的な土壌 があげられるだろう。 1965年, ポズナン大学から学際誌『方法論研究(
Studia
Metodologiczne
)』が創刊されている。同誌は社会主義時代を通じて,廃刊されることなく,マルクス主義系,非マルクス主義系問わず,また分野も問わず方法論に関する諸 論文が掲載され続けた。
ごく短期的な要因としては, 1968年 ₃ 月の「修正主義」者一斉追放のために, 学問
に対する諸弾圧が強まったという外部印象がもたれている1970年代ポーランドでは,方 法論的多元性に基づく社会科学・哲学再編成という事態が密かに進行していた点が指摘 できるだろう。 1972年,『哲学研究(
Studia filozoficzne
)』誌上でクチンスキ(J.
Kuczyński
1930-)が呼びかけたのは,前世代のように誰がドグマ的で誰が創造的かと闘争するのではなく,科学の社会的権威と社会工学的な哲学の役割を自覚し,調和的社 会発展のために,各研究者は持論の方法論的可能性をより高めていくべきだというもの だった。ポズナン学派の活動は,この学術再編期に重要な意義を認められ(
Kuczyński
1972: 26), そして体制転換後の現在, 先述の「修正主義」者よりむしろ高評価を受け るものにもなっている(Mackiewicz
2001: 62-66,
66-70)。7 「科学」的な反構築主義史学
以上のように,トポルスキは独自の歴史学方法論をもち,そして社会主義ポーランド 史学界で高い評価を受けてきた。このことが意味するのは,同学界には彼の業績を高く 評価するような土壌(関心のあり方や歴史学へのとりくみ方)があったということであ る。もちろん,トポルスキだけが社会主義ポーランドを代表する唯一の歴史家ではなかっ た。だが,上記の点からみえてくるポーランド学界の一様相からは,社会主義圏におけ る学術研究に対するこれまでの「西側」からの理解に,ある種の政治性が潜んでいたの ではないか,と指摘できるように思われる。すなわち序論で触れたように,現地学問全 体の拡がり方について理解が断片的なまま,例えばトポルスキの社会経済史論をアナー ル学派と結びつけたり,「修正主義」者らを好んでポーランド人の代表として表象した りすること自体に,何らかの政治的嗜好がなかったといえるだろうか,と。 その結果,
現地学問に対し実像と乖離した外部イメージをひとり歩きさせ,現地の研究動向につい て理解し損ねる事態を一部に出現させていなかったか,と。
一例として,構築主義史学に対する体制転換後ポーランド史学界の独自の沈黙とその 外部評価を,とりあげてみたい。1990年代末,日本のロシア・東欧史研究では,民族・
民族史をめぐる本質主義対構築主義間の対立が先鋭化した。民族を歴史的構築物とみな す作業は,民族・民族史を実体的に扱ってきた,それまでの研究を反省してのものだっ た。が,この研究潮流は,旧社会主義圏の現地研究を本質主義・原初主義的と貶める雰 囲気も一部に生みだした。
この現地研究像は,部分的には,これまでの外部の関心のあり方が「結果的に」生み だしたのではないか,というのが,筆者の考えである。ポーランドの場合,確かに構築 主義史学は体制転換を前後に漸く欧米から「輸入」された歴史理論であり,かつその後 も,大きな影響力を発揮しなかった。だが,先述のようなトポルスキの存在は,影響力 を発揮しなかった原因が,本質主義よりも独自の歴史「科学」像にあった可能性を教え