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家業という戦略 ――静岡県磐田市におけるお茶農家を事例に――

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はじめに

家業を継承することが地域社会における関係性の再構築につながり、地域 社会の活性化を促すと筆者は考える。小稿で事例として取り上げる静岡県磐 田市のお茶農家には、家業を継ぐ者が数多く存在する。そして筆者は、2013 年から 2014 年にかけて磐田市の製茶工場の若者を主調査対象にして、家業 の継承という視点から地域社会の課題を検討することを試みてきた。

小稿では、主にお茶農家の後継者を対象とした調査によって得られたデー タをもとに、磐田市域における茶業の展開の推移とお茶農家の現状を明らか にし、茶業が家業として継承されてきた背景を検討することで、小規模農家 の家業継承の実態からその戦略的志向を見出していくことを試みたい。家業 は複数世代に渡って長期的に受け継がれるものという意を込めて、「戦略」と いう語を用いる。

なお本文中では、茶業は地域産業としての総称、家業は複数世代に渡って 受け継がれてきた生業、家は家業の主体となる家族集団、製茶工場は各家が 家業として受け継いできた実例、の意で表記することにする。

第1章 問題の所在と調査地概要

本章では、先行研究を整理し問題の所在を明らかにする。そして調査地の

家業という戦略

――静岡県磐田市におけるお茶農家を事例に――

町田歩未

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概要として、静岡県磐田市の茶業について述べていく。

第1節 問題の所在 第1項 家業と地域社会

家業とは、家が世襲的に継承する生なりわいのことである。昭和 30 年代までの 日本では、農業に従事する人の割合が多く、農業を家業として先祖から受け 継ぎ、技術や土地を次の世代へ継承していくのが一般的であった。また、地 域社会は地縁と血縁を基本とし、そこで暮らす人々には、生産面でも生活面 でも地域で協業することが求められた[松岡 1991:45]。そのため、地域社 会は家と家同士の関係性の上に成り立っており、地域社会の紐帯として各家 の家業が存在した。つまり、家業を軸として地域社会が構成されていたので ある。

現代社会においては、家業の継承を前提とし、家と家同士の関係で成り 立ってきた自然村としての地域社会に加え、行政村としての地域社会が存在 する。行政村では、同種の家業をもつ家々の間の互助共同の他に、異種の職 業の家々や各種の団体や公共機関が専門的に提供する財やサービスへの依存 が現れ、個々の家の生存にとってこの種の依存は不可欠となっている[森岡 2005:233]。現在では、都市部において自然村は存在せず、行政村の区割り を地域社会と捉える場合が多いと考えられる。農村部では自然村が重視され るかもしれないが、1960 年代の高度経済成長期を経る過程で、第一次産業を 基盤として成り立っていた地域社会は崩壊したとする説もある[神代 2013:

107]。このように、自然村が主体となっていた農村部においても行政村とし ての地域社会のあり方が浸透しているといえよう。

高度経済成長期以後の第一次産業の従事者は減少するばかりで、現代社会 では農業従事者の高齢化、後継者不足が問題となっている。このような状況 が続くと、耕作放棄地や不作付け地の多発により、農地は荒廃し、地域農業 の衰退につながる危険性が高い[栗原 1996:8]。

平成 27 年度の『農業白書』は、農業就業者が急速に減少・高齢化する中で、

次世代を担う意欲ある担い手の育成・確保が不可欠であると指摘している

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[農林水産省 2016:96]。そして農林水産省では、担い手が主体性と創意工夫 を発揮して経営発展ができるように様々な支援を講じている[農林水産省 2016:96]。例えば、就農希望者・新規就農者を対象として「青年就農給付金」

の給付を行い、青年層の新規就農を支援している[農林水産省 2016:104]。

また、担い手の利用面積は農地面積全体の5割で、法人経営体や大規模な農 業経営体が増加しているという[農林水産省 2016:1]。

第2項 家業を継承する理由

現代社会において、農業の担い手が多元化しているが(1)、農業の家族経営 を家族経営として継承しなくてはならないとの主張がある。岩元によれば、

自作農の存在によって、家業としての農業を「いえ」として営み、家産とし ての農地を継承していくと、経営の単位と所有の単位が一致するという。ま た、農業生産は1年をサイクルとして行われ、農家の世代交代は 25 年から 30 年を1サイクルとして行われる。農業生産も家族も連綿と循環するとい うことが農業を家族単位で営むことが適当な理由である[岩元 2003:

212-213]。岩元は、家族農業経営の継承問題はこのサイクルが完結しなく なったところから始まるという。

一方で、親世代は農業を継がせたくないと考えていたのにも関わらず、息 子が家業を継ぐことになった事例を紹介し、経営継承への強い動機は、本当 は親世代に依存することであると示唆している[岩元 2003:215]。しかし、

岩元はこのように指摘しているが具体的な検証をしておらず、なぜ後継者が 家業を継ぐ職業の選択をするのかという理由は具体的に明らかにされていな い。

そこで本論では、磐田市のお茶農家を対象として、その存立構造を再考し、

後継者がなぜ家業を継承する選択したのかを考察していく。

第2節 調査地概要

磐田市は、静岡県西部に位置し、近年は金属、自動車、楽器などを製造す る工業都市として発達してきた地域である。中でも製造業の従事者が多く、

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産業別就業人口の 40%を占める。一方で、農業従事者数は全体の約 4.3%で

[磐田市 2015:12]、農産物としては温室メロン、茶、白ねぎなどが有名であ る[磐田市 HP 2016]。茶業に目を向けると、生葉の農産物産出額は磐田市 内で3番目、荒茶は6番目に多い。磐田市は他の地域と比較すると農業人口 が少ない地域だが、茶葉生産は磐田市の農産物の中でも上位に位置してい る。

お茶(2)の産地は加工形態によって、生葉を荒茶に加工する産地(生産地)

と、荒茶を仕上げ加工して流通させる産地(加工地)とがある[NPO 法人日 本茶インストラクター 2008:100]。一般的に、お茶の流通は、①生葉の流 通、②荒茶の流通、③仕上げ茶の流通の三つにわけられる(図1)。生葉を荒 茶に加工するのは、基本的には茶園のある産地である。荒茶は茶商や茶市 場、農協などを経て仕上げ茶の産地に集績され、異なる味、色、香りの荒茶 をブレンドさせ、仕上げ加工を施す。完成した仕上げ茶は、生産地か加工地 の名前が付され、茶問屋などを経て消費地小売店に卸される[NPO 法人日本 茶インストラクター 2008:108]。

図1.お茶の流通

出典)NPO 法人日本茶インストラクター協会『日本茶のすべてがわかる本』2008 年

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第3節 磐田市域における茶業

磐田市域(3)における茶業は明治時代から始まる。現在でも、東名高速道 路北側の磐田原台地には広大な茶園が広がる。平成 27 年現在のデータによ ると、磐田市のお茶の栽培面積は 566.13ha[JA 遠州中央 2015]、荒茶の生産 量は 1,410 トン(図2)である[静岡県経済産業部農林業局茶業農産課 2015:52]。また、茶生産戸数は 404 戸で、製茶工場が 40ヶ所存在する[JA 遠州中央 2015]。

磐田市のお茶農家は生産物の形態から大きく三つに分類することができ る。一つは生葉の生産のみを行っている農家、二つは生葉の生産と荒茶工場 の経営を行っている農家、三つは生葉の生産・荒茶工場の経営に加え、自分 の工場で仕上げ茶を生産し小売販売をしている農家である。

市域における茶業の特徴は、磐田原台地の土地が平坦なため収穫が機械で 効率よくできる点と気候が温暖で他産地より出荷が早い点である。このよう な、農作業の合理化と他産地との出荷時期の差別化から、磐田原台地では多 くの製茶工場が稼働している。

磐田市のチャの品種はヤブキタが最も多く、約9割の茶園で栽培されてい

図2.市町別荒茶生産量(単位:トン) ※各市名は現名であり合併前の他市町村も含む 出典)静岡県経済産業部農林業局茶業農産課『静岡県茶業の現状(お茶白書)』2015 年

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る。ヤブキタは、品質が高い上に収穫量が多く、寒さに強く、根付きやすい 中生で、栽培する地域をほとんど選ばない品種である。そのため、全国の茶 園面積の7割で栽培されている[NPO 法人日本茶インストラクター 2008:

76]。そして磐田市では、このヤブキタを用いて、主に普通煎茶や深蒸し煎茶 が製造されている。

磐田市では長年、他地域へ供給する荒茶を生産してきた。茶商が地域に存 在せず、独自のブランドを持たないため、茶産地としての知名度は低い。し かし、平成 11 年(1999)には磐田市における茶業の振興を図ることを目的と して、いわた茶振興協議会が設けられた。そして近年、磐田青年茶業研究会 の若手を中心に「いわた茶」というブランド茶の普及に力を入れている。

第2章 磐田市の茶業展開

本章では、磐田市の茶業展開について歴史的な背景を確認し、お茶の主産 地である磐田原台地の茶業発達の諸相や現状について述べていく。

第1節 明治期の茶畑開墾と輸出

磐田市域で茶の栽培が始まったのは、江戸時代である。寛文年間に大藤村 の一部に茶畑と称する小字があり、また慶長年間には茶樹の栽培を伺わせる 記録が残っている[静岡県磐田郡役所 1921:810]。江戸時代の磐田原台地の 村々では、雨水を利用して茶・桑・大根・柿などを栽培していた[磐田市誌 シリーズ天竜川流域の暮らしと文化編纂委員会 1989:468]。

安政年間に横浜港が開港し貿易が盛んとなり、明治政府は外貨獲得のため にお茶の輸出促進を図った。[NPO 法人日本茶インストラクター 2008:

165]。磐田市域においても、産業として茶業が発達したのは、明治時代に 入ってからである。貿易の拡大に合わせて、磐田市域では多くの茶畑が開墾 された(4)

明治時代のお茶の流通経路は、生産者から仲買人、問屋、外国商館などを 通して、外国へ輸出されていた[磐田市編さん委員会 1994:83]。磐田市か

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ら海外へ輸出するための出荷経路は船による運送と鉄道による輸送が考えら れる。明治 32 年(1899)には貿易港として清水港が開港したため、静岡県の 茶業者にとっては、さらにお茶を輸出しやすい環境が整った[NPO 法人日本 茶インストラクター 2008:165]。また、明治 22 年(1889)に大久保忠利(5) らが鉄道局に具申したところ、貨物貨車三百両が島田駅・中泉駅(6)間に増設 された。さらに、同年4月に静岡駅・浜松駅間が開通し、鉄道での横浜港へ のお茶の出荷がより容易となった[静岡県磐田郡役所 1921:810-811]。

第2節 磐田原台地の茶業発達

磐田原台地は磐田市街から北へ、旧磐田郡豊岡村神増(現・磐田市藤上原)

にまで南北に延び、西の天竜川及び東の太田川水系によって挟まれた台地で ある[磐田南高校社会部 1990:76-77]。台地が洪積地のため、生活する人々 は昔から水の確保に苦労しており、各家には井戸が作られた。また、江戸時 代はほとんどが雑木林であり、江戸・明治・昭和と時を経て入植者が増えた 地域でもある。[磐田南高校社会部 1990:76-77]。

磐田原台地一体は総称として「大藤」とも呼ばれている。明治 22 年

(1889)に大久保村と藤上原村平松掛下入作地、笠梅村の一部が合併し旧豊田 郡大藤村となった。当村は明治 29 年(1896)に磐田郡所属となり、昭和 30 年(1955)に磐田市へ編入されている。水田はなく畑地と山林からなり、明 治時代の主な農産物は茶、サツマイモ、麦、葉煙草等であった[大藤のなり たち:1]。

また明治時代には、当地に茶の集積機能として製茶組合(7)があった。し かし、この時期から茶商となる家はなく、現在まで茶商や共同工場が存在し ない特異な地域として成り立ってきている(8)

磐田市内の茶業中心地は大藤地区であり、東名高速道路沿いに茶畑が一面 に広がっている。大藤地区には4〜5代目が継ぐ製茶工場も多く、磐田市内 において明治時代に入植した家が、長年茶業を営んできたと考えられる。ま た、5代以上続いている製茶工場は今之浦川沿いにあることが多いため、生 葉の運搬は河川航路で行っていたのであろう。

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第二次世界大戦直後の日本では、食料生産が優先された。そのため、終戦 直後における日本全国の荒茶生産量は落ち込んだが、昭和 25 年(1950)頃か ら徐々に生産量が回復し、それに伴い輸出量も増加した。また、1960 年代は 高度経済成長によりお茶の消費が増大し、お茶の国内消費量が増加した。昭 和 50 年(1975)には荒茶の生産量が過去最高の 10 万 5500 トンを記録し、日 本全国のお茶業界がかつてないほどの活況を呈した[NPO 法人日本茶イン ストラクター 2008:171]。全国における平成 27 年(2015)の荒茶の生産量 は、8万トンである[農林水産省 2016:141]。

磐田原台地においては昭和 56 年(1981)に土地改良事業の工事が完了し

[社会部研究レポート 1990:87-88]、茶畑に乗用機械が出入り可能となり、

生葉収穫の効率化が進んだ。

しかし、現在の磐田市では、生葉農家の経営が厳しくなっている。お茶の 買取価格が下がっているのにも関わらず、肥料や消毒等の経費は変わらない ため、例年に比べて収入は少ないのに支出が多くなってしまうという。

茶業が儲からないために生葉農家をやめる家もある(表1)。こういった 農家は、他の家に土地を売ったり、茶畑の管理を任せたりしているという。

ここ数年は茶畑を放棄する家が大幅に増えているため、日本農業が抱える問 題と同じように耕作放棄地が増加しているのが現状である。

製茶工場を持つ農家は二次加工としての収入が入るため、茶業を専業とす る家が多いが、生葉農家は茶業だけで生計をたてるのが難しく兼業農家が多 い。生葉農家は、お茶の仕事だけでは稼ぎが足りないため、家長が定年を迎 えるまでは勤めに出る。そして、家長の定年後に、家長はお茶の仕事を始め

表1.磐田市茶生産者数の変動

茶生産者数(人)

平成 18 年 平成 22 年 減少率(%)

磐田市 550 451 − 18.00

出典)JA 遠州中央による調査

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る。家長がお茶の仕事を始めるまでは、女性や家長の両親が仕事を担ってい る。高齢になっても仕事が続けられるのは、家族内の分業が可能であり、茶 畑の管理が機械ででき仕事の負担が少ないからである[町田 2014:15-16]。

また、茶業の生産活動が3月から 10 月の上半期に集中し、外での労働が厳し くなる冬場には閑散期となることも起因している。

第3章 お茶農家における家業継承

前章では、過去から現在へ続く磐田市茶業の歴史を明らかにした。本章で は、筆者が聞き取り調査を行った5家のお茶農家の事例をもとに、お茶農家 の家業継承の実態を検討していく。また、事例で示す内容は、話者からの聞 き取りをもとに要約したものである。

第1節 お茶農家の概要

先述のとおり、磐田市には数代続くお茶農家が数多く存在する。特に製茶 工場を持つお茶農家には、20〜40 代の若手の後継者がいるところもある。本 節では、各家の概要を明らかにしていく。

【事例1:A 家】

A 家は5代に渡って茶業を営んでおり、大正時代から茶業を始めたと言わ れている。磐田市内の製茶工場の中では、歴史を持つお茶農家である。A 家 の製茶工場で製造するお茶の特徴は普通煎茶であることで、平成 25〜27 年 度のいわた茶振興協議会主催の品評会では、3年連続で最優秀賞を受賞して いる。

【事例2:B 家】

B 家は4代に渡って茶業を営んでいる。大正時代から茶業を始めたと言わ れており、製茶工場としては4代続いている。3代目が製茶工場を拡張した ため、磐田市内でも大きな工場を持つ。

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【事例3:C 家】

C 家は5代に渡って茶業を営んでいる。C 家は江戸時代には牛屋と呼ばれ た運送屋であった。家の前が東海道で、坂道のため、坂を上がる人の荷物を 運んでいた。C 家には、初代宛の明治 30 年銘の生葉生産の表彰状が現存し ており、明治時代から C 家が茶業を営んでいることがわかる。

【事例4:D 家】

D 家は2代に渡って茶業を営んでいる。先代の時にミカン農家から、お茶 農家に転向した。

【事例5:E 家】

E 家は、製茶工場を始めて 30 数年であり、磐田市内では新興の家となる。

以上のように、磐田市のお茶農家には複数代続いてきた製茶工場が存在す ることがわかる。明治時代から茶業を続ける家もあれば、終戦後に新たに事 業として茶業へ取り掛かった家もある。このように、各家によって茶業を始 めた歴史や背景は異なり、後継者の家業従事のきっかけも様々である。次に 家業継承の経緯を確認していく。

第2節 家業継承の経緯

家業を継ぐという行為はみな一緒だが、その背景は必ずしも共通したもの ではない。話者から得られた内容を略述していく。

【事例6:A 家 T.S(1981 年生)】

A 家5代目となる T.S は、磐田農業高校から静岡県立農林大学校茶業学科 に入り、同大学校を卒業後、お茶の製造メイカーに就職し、その後家業に従 事する。T.S は、幼稚園児のころから茶業の手伝いをしており、茶業はある 程度大人になったら、やらなければならない仕事だと思っていたという(9)

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【事例7:B 家 T.S(1985 年生)】

B 家4代目となる T.S は、磐田農業高校から静岡県立農林大学校茶業学科 に入り、同大学校を卒業後、一年間富士市のお茶屋で修業し、その後家業に 従事する。T.S は、子どもの頃からお茶の仕事が好きで、暇なときに茶畑や 工場に入り、新茶の時期には収穫や袋空けの手伝いをして小遣い稼ぎをして いた。

磐田農業高校に通っていたが、高校卒業後は車の整備学校に行きたいと 思っていた。しかし親の反対を受け、自分の家には農業をやる環境が整って いるのに、それをやらないのは勿体ないと思い、静岡県立農林大学校茶業学 科に進学した。

T.S は4人兄弟の3番目で、姉・兄・自分・弟という構成である。兄は性格 的なものからか、子どものころから家の手伝いはしておらず、T.S が物心つ いた時には、兄はお茶の仕事をやらないだろうと思っていた。弟とは4、5 歳年が離れており、幼い弟に家を任せるわけにはいかないと思ったので自分 が家を継ぐことにしたという。T.S は、自分で好きな職業を選択できる環境 にあったら、お茶の仕事をしていなかったのであろう。しかし、親との関係 や兄弟の立ち位置を考慮し、自分が家業を継ぐのが B 家にとっての最善策だ と考え、家業に従事することを選択している。

【事例8:C 家 K.M(1979 年生)】

C 家5代目となる K.M は、普通高校から4年生大学の福祉科を卒業後、家 業に従事する。結果として大学卒業後、家業である茶業に入ったが、最初か らそれを決めていたわけではなく、大学卒業が近くなり、親から圧力もあり 家に入らざるを得なかった。

K.M は自ら農業を勉強したことがないので、「お茶」に対する固定観念が ない。ただ、組合等に参加すると、周りの同業者は6・7割が農業高校出身 者であり、お茶生産の知識が豊富だったので、劣等感を感じていた。その分、

自分で知識を付けるためにたくさん勉強したという。

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【事例9:D 家 K.S(1977 年生)】

D 家2代目となる K.S は、磐田農業高校から静岡県立農林大学校茶業学科 に入り、同大学校を卒業後、茶問屋へ修行に行き、その後家業に従事する。

K.S は、親に継げと言われて家業に従事した。親に言われたことがある一方 で、お茶は同じように揉んでいるつもりでも、職人によって味が違ったもの になり、そこに面白さを感じ、家業に従事することを決めた。また、初代の 作るお茶は賞をもらったことがあるお茶で、この環境を生かした仕事をした 方がいいだろうと思ったという。

【事例 10:E 家 H.S(1985 年生)】

E 家の H.S は、磐田農業高校から静岡県立農林大学校茶業学科に入り、同 大学校を卒業後、遠州中央農業協同組合に就職している。家の茶業を継ぐ場 合は、2代目となる。H.S は、小さい頃から工場の手伝いをしていた。今の 生産者は自分が家を継ごうと思い、茶業に入っている人が多いが、自分はそ ういうわけではない。いずれは仕事をやらなくてはならないと思うが、収入 を考えると踏み込めない。父から家業を継いでほしいという話は全く言われ ないという。

【事例6】、【事例7】、【事例9】、【事例 10】の後継者は、幼い頃から家の仕 事を手伝っている。そして【事例8】以外は、進学先として、磐田農業高校 や静岡県立農林大学校茶業学科を選択しており、学校に通いながらお茶づく りを学ぶ環境に身を投じていたことがわかる。また、家業継承に至ったきっ かけは人によって異なるが、家業に従事している者は、現在では自分の置か れた状況に納得し仕事に取り組んでいることがわかる。

第3節 親の志向

後継者が家業を継承した背景には、前述のように少なからず親の存在が見 受けられる。本節では、親世代が家業を継承することとなった経緯や、子に 家業を継承させようとした親の志向を明らかにしていく。

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【事例 11:B 家 T.S(1957 年生)】

B 家3代目の T.S は、東京の大学を出て、薬剤師として2年間働き、その 後 24 歳の時に磐田市に戻ってきた。工場を継いでいた兄(長男)が父とけん かし家を出しまった。そのため三男であるが、T.S が家業に従事することと なった(10)。小さい頃から家の手伝いはしていたが、6年間のブランクが あった。専門的に茶業を学べる学校に行ったわけではないので、同業者に聞 き、やりながら仕事を覚えていった。自分が茶業の勉強を専門的にやらずに 苦労したため、息子にはきちんと農業や茶業の勉強をさせた。

ある先輩に、「息子に家を継いでほしければ、仕事が楽なように見せろ」と 言われ、それを実践した。親が大変そうに仕事をしている姿を、子はよく見 ており、仕事が辛そうであれば子は家を継ぎたいとは思わないという意味で ある。実際に息子も家業に従事するようになり、現在では主に家族3人で仕 事を行っている。あまり注目されないが、製茶工場を動かすことは重要な技 術だと思う。この技術も継承していかないといけない。

【事例 12:C 家 Y.M(1946 年生)】

C 家4代目の Y.M は、普通大学を卒業後、会社に勤め、昭和 44 年(1969)

から家業に従事する。Y.M が家業に従事した頃は、茶業の景気がよくお茶が たくさん売れたため、工場には多くの人が出入りし活況を呈していた。

C 家には事例として取り上げる中で唯一、お茶の小売店がある。お茶の売 上が落ち込んだ平成元年前後に店舗を設立した。しかし、C 家は大藤地区な どの磐田市内のお茶の主産地とは異なり、製茶工場や店舗が市街地にある。

そのため、茶業者間の情報等を的確に得ることができず、Y.M は、積極的に 自分から農協や市役所に足を運び、情報収集に努めた。今でも市役所との関 係は良好で、行政のイベントにも積極的に参加している。

親世代が家業に従事した頃は、茶業の最盛期でお茶を作れば作るだけ売れ る時代であった。しかし、茶業の好景気が永遠と続くことはなく、親世代は その後「お茶を作っても売れない時代」を経験する。そこで、新しいお茶づ

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くりを考案していかないと茶業界で生き残ることができなくなると判断し た。そしてその実践として、生産者を主体とした「いわた茶振興協議会」が 発足している。

第4節 子の自覚

家業の継承は、親や先代が作り上げてきた知恵や努力の延長にある。子 は、それらを受け継ぐ存在であり、家業を継承することに対して覚悟や決心 を持っている。本節では、子が何を想いお茶づくりに臨んでいるのかを述べ ていく。

【事例 13:A 家 T.S(1981 年生)】

A 家5代目の T.S は、昔から自分が家業を継ぐ際は、お茶の味やそれに伴 う家柄、自分の家の名前や評判を汚さないように茶業を継承しなくてはいけ ない、というプレッシャーを感じていた。そして、家のお茶の特徴や立ち位 置をきちんと理解して次の世代へ継承していくことが、自分の努めだと思っ ている。それは自分の家だけでなく、磐田市内の茶業者全体にいえることで ある(11)

【事例 14:B 家 T.S(1985 年生)】

B 家4代目の T.S は、自分が家業に従事するようになった時、父から「俺 が仕事のレールを引いているから、その上を歩いて仕事をすればいい」と言 われた。だが、この言葉に反発を覚え、家業を継承するからには、自分のや り方で仕事をしたいと思った。

B 家4代目の T.S は、生葉を収穫するところからお茶の小売販売までを全 て自分の家でやりたいと思っている。T.S は、農林大学校2年生の時に、学 校の研修として2か月間住込みで浜松のお茶屋で働いた経験がある。自分の 家で生葉を取って、製茶して、販売するという、0から 10 までの工程を自家 で完結させることがお茶屋の理想形だと思った。自分の家でもこのような仕 事をしていきたい(12)

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【事例 15:C 家 K.M(1979 年生)】

C 家5代目の K.M は、家業に従事し5年程経ち、自家のお茶がどういう評 価を得ていて、茶業界の中でどんな立ち位置にあるのかがわかってきた。そ れから、ただ仕事をこなすだけでは、やりがいがなくつまらない、と思い始 めた。同じ業務をこなしていくだけの仕事は他の家でもできる。だから、自 分の飲みたいお茶、時代に合ったお茶、今までにないお茶を作りたいと思う ようになった。現在では、緑茶に加え、紅茶や抹茶等様々な種類のお茶を生 産・製造している。

磐田市のお茶農家の強みは、自分で畑から店舗まで管理しているため、自 分の作りたいお茶が作れることだ。現在、磐田市には多くの茶畑があるが、

経営が成り立たず、茶業を廃業する農家が多い。けれども、次世代の人々に 茶畑を継承し、磐田市の産業として茶業が成り立っていけるように努めてい きたい(13)

【事例 16:D 家 K.S(1977 年生)】

D 家2代目の K.S は、農家には本人にしかできない仕事があると思ってい る。厳密に金勘定だけ見ていくと、収支が合わずにどの農家もやめていくだ ろう。自分の好きなものを自分の力で作りたいという目標があるから、家を 継ぐ人がいるのではないか。

自分で仕事をしていくということは、常に自分で選択肢を選んでいかない といけない。失敗すれば明確に給料が減り、成功すれば収入も増えるとい う、リスクがあるから仕事がおもしろい。

茶業は天候で出来不出来が左右されるが、プロはそれを言い訳にしてはい けない。天候に左右されずに、毎年同じ味で商品を出せた瞬間が一番楽しい し、仕事を続ける醍醐味である。

後継者は家業に従事し続けることで、自家のお茶づくりを客観視できるよ うになる。そして、先代が作ってきた家への評判に加え、自分のやりたい仕 事を自らの判断でできることが家業の良さだと気付く。そして後継者は自ら

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の考えに基づいて、自分のやりたい仕事を、お茶づくりという枠組み中で実 践しているのである。

第4章 家業という戦略

本章では、磐田市茶業の歴史的背景や特性、現状をふまえて、前章で確認 したお茶農家の事例を分析し、各家が茶業を家業としてきた戦略的志向を考 察する。

第1節 お茶農家の存立構造

磐田市のお茶農家は、生葉の生産のみをしている農家と、生葉生産に加え 荒茶製造も行っている農家とに大別できる。本節では、二つのお茶農家がど のようにして存立してきたのかを考察したい。

生葉農家は、お茶の買取価格が低下している影響で、茶業の仕事だけで生 計を立てるのは難しい。現在では、兼業や会社勤めを終えた老後の生産活動 として位置づけられている。そしてそれを可能にしているのは、第2章の生 葉農家のように、家族内で仕事の役割が世代別・性別により分担されている ことである。お茶農家を続けるために、家長は会社勤めに出て、その間の茶 業の仕事は嫁や両親に任せている。そして、家長が定年を迎えると家業であ る茶業の軸として働くのである。生葉農家の仕事に生葉の消毒や収穫などが あるが、磐田原台地は平坦で機械を使って作業ができるため、仕事が負担と ならない。つまり、茶を生産することで、磐田原台地の農家は高齢期まで働 くことができる。家業を続けるために現在の体制が構築されたのである。

磐田市の荒茶工場は、各家で製造する茶の味が異なる。そして、付き合い のある生葉農家や茶商もそれぞれ異なり、各家が独立して茶業としての戦略 を模索してきたということが予測できる。お茶農家は、地域に茶商がいない ということをマイナスに捉えられることが多いが、むしろ逆で、地域に茶商 がいなかったからこそ、それぞれの家の努力で小規模な茶業者が生き残れる 環境が整ったとも考えうる。

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第2節 家業継承の実態

家業は親から子へと仕事が受け継がれていくものだが、親もかつては子で あり、親自身も自分の親から仕事を継承している。【事例 11】は、自分が家を 継ぐと思っていなかったが、事情により家業に従事することとなったケース である。彼は、茶業に関する専門知識が全くなく、仕事を行うことに苦労し ている。しかし、幼い頃に家の手伝いをしていたため、茶業を仕事とするこ とに抵抗はなかったのかもしれない。このような経験があったからこそ、自 分が親になったときには、子どもに茶業の手伝いをさせ、茶畑や工場に出入 りさせていたのである。それは【事例6】や【事例7】、【事例 10】など複数 の事例から確認できる。このことから親の意識として潜在的に、子どもに家 を継いでほしいという想いがあったことが推測できる。

同じく【事例 11】から、自分が農業に関する知識がなく苦労したことから、

子には茶業の知識をつけるために専門的なことが学べる学校へ通わせている ことがわかる。【事例6】や【事例9】、【事例 10】でも磐田農業高校から静岡 県立農林大学校茶業学科へ進学している。磐田市内に茶業が専門的に学べる 学校があったことで、子も自分が将来、茶業者になることをイメージし易 かったといえる。

一方で、【事例 11】に、「息子に家を継いでほしければ、仕事が楽なように 見せろ」と言われたという語りがあり、子に家業を継がせるために、親が努 力していたことがわかる。

また、それを実践している別の例が【事例8】、【事例 12】の C 家である。

C 家は、4代目、5代目ともに茶業が専門的に学べる学校へは行かず、普通 高校や普通大学を卒業している。親が仕事に苦労している茶業界の知識を、

子に入れないで家業に従事させているのである。C 家が茶業の専門的な学校 へ行かせなかったのは、もう一つ理由が考えられる。それは、より広い発想 のもとに茶業を展開させたいということである。【事例 12】をみると、親の 代に新規事業として小売店を開業している。これは磐田市内の茶業者として は新しい取組みであった。また、【事例 15】から子も既存のお茶の概念に囚 われず、新しいお茶を開発していることがわかる。C 家の事例から、専門的

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に茶業を勉強しなかったことが功を奏し、家の特徴が生成したといえる。

親の立場からすると、自分が家業を存続させるために努力を重ねたのだか ら、それを絶やしたくないという想いがあるのだろう。だから、【事例7】や

【事例8】にもあるように、子が家を継ぎたくないというと無理やりにでも家 を継がせるのである。

つまり、親は子に家を継がせるために、子が幼い頃から家の手伝いをさせ たり、茶業が学べる専門的な学校に入れたりと色々な戦略を立てているので ある。

第3節 お茶農家にみる家業特性

子が家業を継承する選択をとるのは、親の戦略だけではなく、家族労働と しての家業の特性も関係している。家業は家族労働であり3世代、4世代の 暮らしの中に仕事がある。そのため、家計は母親や嫁に任せることができ、

住む場所を心配する必要もなく、休みの取り方は融通が利く。そして家事や 子育ては祖父母世代の手を借りることもできる。つまり、後継者は家業を継 ぐことで衣・食・住の心配をする必要がなくなるのである。

また都市社会では、育児や介護等の福祉を利用するのに、金銭などの対価 を介在させることが多いが、家業のような小規模な家族労働であれば、家族 内で最低限の福利厚生が実現し、家族間の人と人との関係性を保つことがで きる。つまり、家業があることによって、家が成り立っているのである。

このように家業の後継者は、父親が働く様子や父親と家族との関わりを、

幼い頃から見てきたはずである。そして意識をせずとも自然と、自分が父親 と同じような生き方をすることが悪くないと判断したから、後継者は家を継 承することを選択したのであろう。

家業継承の選択をした子は、茶業に従事することに前向きだった【事例 13】もいるが、必ずしも全員が自分の意志でその選択したわけではない。し かし、家業に従事して数年経つと、自分の家業への意識に変化が現れる。

【事例 14】では、親と全く同じやり方、内容で仕事を続けていくことに反発 している。「家業を継承するからには、自分のやり方で仕事をしたい」と思う

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ようになる。【事例 15】から、家業に従事してから数年経つと自家のお茶づ くりを客観視できるようになることがわかる。仕事にも慣れ、茶業界への理 解が深まると、自分自身に多少の余裕ができ、お茶を素材としてどんな仕事 をし、どんな商品を作っていきたいのかを考えるようになる。また、【事例 16】にもあるように、家業として農家を続けることの利点は、自分の好きな ものを自分の力で作ることができるところである。つまり、家業のやりがい は自分の生き方を自分自身で選択できることなのではないか。

また、親の強制があって家業を継がせた【事例7】や【事例8】もあった が、子の仕事への自由度は残している。【事例 15】から、お茶の種類として紅 茶や抹茶などを作り自家の特色を作ろうと努力していることがわかる。まだ 実践できてはいないが、【事例 14】では、仕上加工、小売販売まで自分の家で できるように方法を模索している。一方で、【事例 13】では、実績のある自家 のお茶を大切にしている。このことから、親も家業のやりがいが自分の意思 決定で仕事ができることにあるのを理解しており、そのため子のやり方を否 定することなく、受け入れているのである。どちらにしても、【事例 13】の中 にあるように、各家が自家のお茶の特徴や立ち位置をきちんと理解して次の 世代へ継承していくことが重要となる。

このように、茶商が存在しないことによって可能となった各家の戦略が、

磐田市における茶業の継承を可能としている。そして、家業継承は親の努力 や子の意志によって成されており、家業を継承するということが、家を継承 するための戦略的志向なのである。

おわりに

静岡県磐田市のお茶農家を事例として、家業継承の経緯を分析した。磐田 市は主に他産地へ供給される荒茶を製造しており、お茶の産地としての知名 度は低い。しかし、生葉農家においても製茶工場においても、家業が継承さ れる基盤がある。特に製茶工場は各家が特徴あるお茶づくりを行っており、

お茶農家を継承させるために親は子との関わり方を工夫している。家業を継

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がせたい親は、子に幼い頃から茶業の手伝いをさせたり、苦労して働いてい る姿を見せないようにしたり努力を重ねていたのである。

そんな親の志向があって、子は家業を継ぐ選択をしている。また子は、家 業を続ける意義を自分で働きながら考え、自分にしかできないお茶づくりを 模索していく。そして、お茶づくりに苦心し続けることで、家業は継承され てきたのである。

今回の事例は家業を継承させた親の話を中心としたが、今後は親の戦略を 子はどう感じていたのか、家業を継がせない親はどのような考えを持ってい るのかを明らかにしていきたい。

また小稿では、お茶農家の家業継承という過去から現在につながる話を軸 として論を展開したが、磐田市では現在から未来へどう茶業を継承していく かが課題となっている。茶業者の高齢化や茶の買取価格の減少で、耕作放棄 地は増加し、茶の作付面積が減少していくことが危惧されている。そんな中 で「いわた茶」をブランド化する活動も進んでおり、これからの磐田市がお 茶の産地としてどのように展開するのかが期待されている。今後はこのよう な新しい動向に注目しつつ、磐田市の茶業がどのように継承されていくのか について考察を深めていきたい。

【注】

(1) 農業の担い手として、法人化や共同化、大規模化が進行している[田林 2009:44-45]。また 具体的には、認定農業者や集落営農が増加したり、女性農業者の役割が見直されたり、一般 法人の農業参入が緩和されたりと農業の担い手は多元化している[農林水産省 2016:

99-112]。農業の法人化や企業化が進んでいるために、農業と合わせて、近年では農業経営 システムの継承も問題とされている[柳村 2016:7]。

(2) 本論での「お茶」の表記は、日本茶インストラクター協会で採用されている基準に従うもの とする。「チャ」は学名のカメリア・シネンシス、「生葉」は製茶原料となる摘採した新芽及 び葉、「茶」はチャを飲料に使用できるよう加工した製品全般、「お茶」は茶のうち日本緑茶 の製品もしくは飲み物を指す。

(3) 明治 29 年(1896)に郡配置が行われ、山名郡、豊田郡、磐田郡が合併し磐田郡となった。ま

た、昭和期に入ると昭和 15 年(1940)に磐田町が発足し、昭和 23 年(1948)の磐田市への

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市制施工によって現在の磐田市の中心部が形成された。昭和 30 年(1955)の昭和の大合併 によって磐田市、福田町、豊田町、竜洋町、豊岡村の5市町村となり、現在の市の骨格がで き、平成 17 年(2005)にはこれらの1市3町1村が合併して現在の磐田市へ移行した。

(4) 茶園を開拓した旧幕臣で、地域に名前が残っている者がいる。川手幸蔵は大藤地区、赤松則 良一行は磐田原中南部の開拓を行った。

(5) 大久保家は元亀元年(1570)から遠江の国の総社である淡海国玉神社の神官を代々勤めた家 柄である。大久保忠利は明治5年(1872)から淡海国玉神社の神官職を勤めた。後に見付町 の助役を経て町長となり、磐田原台地の開墾や製茶業の経営等、地域産業の振興に貢献し た。

(6) 現在の磐田駅。昭和 17 年(1942)に磐田駅へ改称。

(7) 明治 10 年代に入ると、お茶がよく売れるようになったことを悪用し、全国的に粗悪なお茶 が生産されることがあった。磐田市域では、大久保忠利がこの状況を危惧し、豊田郡の一 部・磐田郡・山名郡に呼びかけて、明治 17 年(1884)に見付茶業組合を結成した。大久保は 明治 27 年(1894)に、見付に製茶伝習所(その後、南部茶業組合に改称)を開設している。

その他に、現在は酒屋である松風屋も、明治時代に磐田市域の生葉の集積機能を担っていた 記録がある。

(8) 磐田市には、生葉を荒茶へ加工する製茶工場はあるが、荒茶を製品となる仕上げ茶へ加工し 小売店へ卸す、茶商という機能が存在しない。一方で他地域には、茶商や共同工場が存在す るため、地域で作った生葉や荒茶を仕上げ茶に加工し、地域のブランド茶として消費者へ販 売することができる。磐田市茶業の特異性は、生葉や荒茶の産地ではあるが、仕上げ茶の産 地となることができず、消費者へ直接お茶を提供できないことである。それは、お茶生産・

流通の構造上による問題であるが、消費者との関わりが少ないために、磐田市はお茶の生産 地としての認知度が低い。

(9) A 家は5代目まで続く磐田市でも古くからある茶業者であり、製茶工場で製造するお茶も A 家の伝統的な普通煎茶である。5代目の T.S は、A 家のお茶の味やお茶づくりを伝統と して自分も受け継がなくてはいけないと自ら感じていたため、このような言い方となった のであろう。

(10) なぜ次男ではなく、三男が家業を継承したのかを、聞き取ることができなかった。今後の調 査の課題としたい。

(11) A 家5代目の T.S は、話を聞いた平成 26 年(2014)に磐田青年茶業研究会会長を務めてい た。そのため、磐田市の茶業者全体に向けた想いを語ってくれた。

(12) B 家4代目の T.S は、お茶の生産時期になると生葉の収穫や荒茶の製造で仕事が忙しく、ま

だ仕上げ茶の製造に手を付けられていないのが現状である。どのように自家で仕上げ茶を

製造するかは、磐田市の茶業者全体が抱える課題である。

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(13) C 家5代目の K.M は、時代の需要にあったお茶づくりをしてこなかったから茶業界が低迷 しているだけで、現代の人々が求めるお茶を生産者が考案していけば、お茶の需要が高まる と考えている。家業として代々受け継がれてきた茶業を、次世代にも事業として継承する ことができるように、現在は新しい発想にもとづくお茶づくりを模索している。

【参考文献一覧】

磐田市

2015 『磐田市人口ビジョン』

磐田市−『磐田市について 概要』

http://www.city.iwata.shizuoka.jp/about/profile/gaiyo.php (2016.11.21)

磐田市教育委員会 発行年不明 『旧赤松家』

磐田市誌シリーズ天竜川流域の暮らしと文化編纂委員会 1989 『天竜川流域の暮らしと文化』

磐田市編さん委員会

1994 『磐田市史 通史編下巻 近現代』磐田市 磐田の記録写真集編集会議

2003 『磐田の記録写真集 第二集 磐田の産業』磐田市教育委員会 磐田南高校社会部

1990 社会部研究レポート 岩元泉

2003 『現代日本農業の継承問題 経営継承と地域農業』日本経済評論社 神代英昭

2013 「農業とその再生」小田切徳美編『農山村再生に挑む―理論から実践まで』岩波書店 栗原哲也

1996 『明日の農業をになうのは誰か 日本農業の担い手問題と担い手対策』日本経済評論社 静岡縣磐田郡役所

1921 『静岡縣磐田郡誌』開明堂 静岡県経済産業部農林業局茶業農産課

2013 『静岡県茶業の現状〈お茶白書〉』

田林明

2009 「日本農業の時空間的変動」田林明・菊地俊夫・松井圭介編『日本農業の維持システム』農

林統計出版

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農林水産省

2016 『平成 27 年度 食料・農業・農村白書』

NPO 法人日本茶インストラクター

2008 『日本茶のすべてがわかる本』農山漁村文化協会 町田歩未

2014 「家業の継承と地域社会の展開―静岡県磐田市お茶農家の試みを例に―」

松岡昌則

1991 『現代農村の生活互助』御茶の水書房 森岡清美

2005 『発展する家族社会学―継承・摂取・創造』有斐閣 柳村俊介

2016 年4月「現代日本農業の経営継承 後進地域型から先進地域型へ」『農業と経済』第 82 巻 3号 昭和堂

渡部忠世

1995 『農業を考える時代―生活と生産の文化を探る』農林漁村文化協会

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参照

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