法 定 監 査 の 本 質 と 監 査 人 の 独 立 性 平
尾
勇
目 次
一︑序 言
二︑資本主義と監査樹皮
三︑企業会計の社会性と法定監査の木質
四︑監査人の独立性の諸問題
1・独立性の意義
告 経済的独立性の内容
3・経済的独立性の問題点
4・監査役と公認会計士の闇題
5・公認会計士の指童的機能と独立性
五︑結 語
二序 言
昭和二十六年証券取引法に基く法定監査が始めて制限された形で実施されて以来︑幾多の曲折をへて︑昭和三十二年
法定監査の木賃と監査人の独立性 一〇三
経 営 と 経 済
一
O
四より所謂︑正規の監査とよばれる段階にまで発展して来た︒昭和三十四年十二月末現在で︑公認会計士登録者数一︑
四三四人︑被監査会社数一︑一八七社︑質的にも︑量的にも漸次拡大充実しつ﹀あることは事実である︒然し乍ら︑
民主的経済社会制度を育て︑之を維持して行くために本当に必要不可欠の社会的制度であるという正しい認識がなさ
れているかどうか疑わじい︒法定監査は内郁的要求から生れ出たものではなく︑終戦後の占領行政の落し子として敬
遠視され︑当らずさわらず︑そっとレておくといった態度が一般的ではないかと思う︒か﹀る気運を背景として毘査
制度を真に制度として強化せんとする勤きに対しては︑強い抵抗がなされる︒このことは︑法定監査誕生後︑約十年
の足どりが最も端的に物語っておる︒
かくては︑監査制度の真の確立と発展は望むべくもなく︑これが全く質の具った方向へひねりむけられ︑びいては
制度そのものが︑その根底から崩壊する危険性が増大する︒
こ﹀に於て法定監査の本質を反省レ︑特にこの制度を支える悲盤となる監査人の独立性の問題について考察を加え
ることは︑意義のあること﹀信ずる次第でゐる︒
一一︑資本主義と監査制度
﹁監査制度の研究は︑結局最後は︑資本主義の慢につき当る﹂と一民われる︒果してそうであろうか︑その現状を先
づ問題としたい︒現在の我国の経済組織は勿論資本主義である︒資本主義じは結局︑資木中心の経済組織であり︑そ
こに於ける経済活動の実質的担い手は企業である︒
企業はか﹀る経済社会制度における資本集中の単位であり︑企業という場において︑経済活動という手段を通じて
資本が自己増殖をして行くのでゐる︒企業は資本の容れものでゐり︑従って企業は形式であり︑その宍質は︑資本で
ある︒企業は実体たる資本の法律的或は経営学的名称にすぎない︒この様な意味に於ては︑企業の経営は︑実は資本
の経営でゐり︑従って叉︑企業の会計は資本の会計である︒企業会計は︑資本の循環過程を計数的にとらえ︑その成
果を明らかにすることに奉仕するものとなる︒企業会計は結局︑資本会計であり︑会計学は資本に奉仕する侍女でJの
り︑資本の相談役︑顧問である︒
本の利益に役立つか否かによって︑ この様な社会観︑企業観に立つ時︑会計学或は経営学その他諸えの学問や制度も︑直接間接にしろ資本の要求︑資
その仔在価値が肯定され或は否定される︒
この様な観点からその必要性や本質が考えられ︑資本の利益を擁護レ︑或は少くとも之と抵触
せざる限度に於てのみ論議され︑之から逸脱せんとするや︑之を強いてその枠の中におし込もうとするあらゆる抵抗
が監査論の名を借りて出て来るわけである︒
すべての社会制度は︑それが一旦樹木にまで成長すると︑これを取り替えゐらためて別の種子を蒔き直すことは殆
んど不可能である︒今日︑我国の監査制度はすでに極子が蒔かれ︑若芽が出はじめたところでゐる︒之を雑木に終ら 従って監査制度も︑
せるか︑人に見せるためのアクセサリーとしての盆栽にするか︑或は叉︑大地に深く棋をはり︑世の人に憩の木蔭を
与える大樹にまで育て得るか︑我えはその岐路にあり︑今日その方向を誤まることとは︑﹁禍を百年に残す﹂ことに
﹁われわれは︑功を急いではならない︒本当にわが国にふさわしい監査制度を気ながに成長せしめなければな
らない﹂と云われるが︑眠れる虎の尾を踏むような気持で︑当らずさわらずそっとしておかないと︑現在の躍査制度
を支えている証券取引法第一九三条の二を削除することなど朝めし前だと腹の中で考えている人達を前にして︑立ち
すくんでいるのが︑我国の監査制度の姿でゐる︒監査の技術的な面の研究と努力も極めて大切であるが︑会計士監査
の本質の問題︑社会制度としての法定監査の志誌ないしその性格を正しく見極めるところの監査論の確立こそ︑我え な
る︒
法定
監査
の本
質と
監査
人の
独立
性
一
O
五経 営 と 経 済
一
O
六当面の急務であると考える︒
学界の一般的傾向として︑監査制度の発展如何は一にか﹀って︑監査人たる会計士の自覚にあり︑その責任である
として︑傍観的態度でつきはなしている様に思われる︒制度は制度として合理的なあるべき姿にして︑その上に自覚
と責任を強調し要求すべきであって︑上述の如き窓気の中にあって自覚さえあればと一宮う精神主義でその責任を負わ
されることは︑公認会計士として誠につらいことでろう︒
所謂正規の監査が実現するまでの生みの悩み︑陣痛の激しさに恐れをなして︑監査制度の改正問題を持ち出すこと
は︑関係者暗黙のうちに︑一一磁のグプーとなっているようである︒そして人えの限を本質からは令すれた別の方向にそ
らそうとしている︒例えば公認会計士の指導的機能︑経営管理目的への奉仕︑マネージメントサービスの強調は︑わ
き道の問題と一氏うよりも︑むしろ法定監査制度の本質を見あやまり︑之を全く異質のものにすり替えようとする重大
な問
題︑
にと
考え
る︒
この様な考え方の二三を例示してみよう︒
﹁監査は批判的機能と指導的機能の二つの機能をもっているが︑批判的機能はいわばρ伝家の宝刀dであって︑伝
家の宝刀は屡々使用しないところにその尊さがある︒公認会計士は︑会社側と協力して︑その会計処理が適正になさ
れるように指導し︑助言を与えなければならない︒監査人は助言者なのである︒﹂
﹁会計士監査の役割は)会社が外郊に公表する財務諸表の信頼性を確立する点に寄する︒しかしそのことによって
会社の経営をよくするという観点からいうと︑直接的な効果がある訳ではない︒会計士監査の宜︿の目的は︑会社の経
営に役立つことである︒結局︑企業経営の改善発展に直接間接貢献することなくしては︑会計士に対する評価は高ま
らな
い﹂
︒
﹁会計士監査は︑経営目的の実現性を批判し︑もって経営方針の決定に必要な資料を提供するものである︒外部職
業監査人が法定監査の温室に閉ぢこもっている限りでは︑経営管理目的の監査という困難な途を打開するだけの気力
を失うに至るかも知れない︒﹂
之らすべて若名な大家の言葉をそのま﹀紹介したのであるが︑法定監査が何か肩身の狭いものになって了うようで
ある︒法定監査のことか︑任意監査のことか︑混乱を来すようである︒助言とか︑指導とか︑ビジネス︑ドクグ1と
かうまい言葉を使って︑法定監査の本質追求の限を︑資本への役立ち︑経営管理目的え従属させ︑経営監査の底なし
の潟へひきやつり込もうとする遠大なる計略のように思われる︒
結局は︑外部監査制度としての公認会計士による法定監査の本質の把揖から出発し直さなければならないというこ
とで
ゐる
︒
!之らを財界人が言うのならまピ話はわかるが︑会計学者の言葉としては︑我えは理解に苦しむものである︒
学問としての監査論としては︑監査とその制度の本来ゐるべき姿を理論的に解明して行くことこそその使命であ
る︒社会の民皮に合わせて︑啓蒙的に漸進的に進めて行くことは必要であるが︑本質を曲げて︑時流に迎合してはな
らな
い︒
結局は︑外部監査制皮としての公認会計士による法定監査の本質の把盤から出発し直さなければならないこととな
吋h v ︒
二一︑企業会計の社会性と法定監査の本質
さて︑近来企業の公共性︑企業経営の社会性ということが盛かんに強調されている︒社会的生産物の生産と流通は
法定監査の本質と監査人の独立性一
O
七経 営 と 経 済
一
O
八勿論のこと︑直接間接企業につながる多種多数の関係者の利益の増進と調和と一民う社会的使命をになうのが︑近代企
業の経営者の姿であると︑経営者自身が自覚し強調している︒そして会計学も︑資本の会計の技術論としての会計学
この様な社会的意義における企業の会計学へと進展しておる︒かくて始めて会計学が社会科学としての地位をbdh
ソ ︑
得るものと思う︒
会計が資本の形態変化を通じて得られた利潤を測定し︑伝達し︑或は形態変化の過程それ自体を管理する資料を提
供するところの会計であるならば︑勿論︑技術的によりよい能率的な方法とか基準とかはゐり得るだろうが︑之らを
会計原則などとして︑社会的にわざわざ規定し︑之を企業に一不レ之に従わせるなどは全くおせっかいに過ぎるもので
ある︒企業会計原則の本質はそのようなものではない︒昔の︑例えば産業合理局の標準財滋諸表準則は︑経営の合理
化の一手段として指導指針として標準的財務諸表の作成法を示したものでゐる︒之も経営が合理化されれば︑産業の
発展を通じて国民の福祉になると一民う論法からして︑之らも社会的なものだと一氏う考え方も出て来る︒然し︑現代会
計学が社会性ある社会科学であり︑新しい企業会計原則が企業の会計の拠るべき社会的な規準であるという意味は全
く次元を異にするのである︒
企業は国民経済の中の一単位であり︑社会的資本と労働と経営能力との有機的結合体であるとするならば︑か﹀る
企業の経営者は︑内部的経営活動の主催者であり符理者であり︑経済性︑能率性の責任者であると共に︑経営の結果
得られた附加価値の合理的配分の決定者である︒
企業は社会的サービスの生産の場であると共に︑所得の造出とその配分の場であり︑経営者はその配分の過程を通
じて︑社会的利害の調整者である︒こ﹀に配分とは純利益として最後に残った価値の配分︑所謂利益処分だけでなく
それ以前の会計処理手続のうちにも行われている︒それが即ち損賀の会計である︒純利益は文字通りの意味に於て︑
未処分の剰余金であり︑事業年度末まで未配分のま
‑K
A残された額である︒
かくて近代会計理論は主として︑収益及び損費の認識と測定の理論であり︑それは従って附加価値額の正レい測定
はじめてその測定と配分には社会的な規準がとその配分の理論である︒企業会計の本質をこのように把握するとき︑
なけ
れ・
ばな
らな
いこ
とに
なる
︒
配分の対象たる各種利害関係者の利害を調整すると乙ろの︑各利害関係者が一般に納得するところの会計処理の基
準がなければならない︒この基準たるや︑単にこうした方がより能率的であり︑経営管理に役立つと云う意味の会計
処理の技術的な教科書的基準ではないのである︒
かくて企業会計原則が企業の会計の社会的基準であることの本義が正しく理解される︒
従って現実の企業の会計がこの企業会計原則に正しく準拠しているか否かを社会的に確認する社会制度としての外
部監査の志義とその必要性がもはや︑多言を要することなく理解されるものと思う︒
現在の法定監査制度即ち証券取引法に基く会計士監査制度は︑企業をめぐる利害関係者として︑投資者︑債権者︑
労働者︑或は政府機関その他をすべて含むものとして考えておるのか︑或は特にそのうち有価証券を通じての関係者
即ち現在および将来の株主及び社債権者の保設を対象としているのか︑この点の認識如何によって監査制度の本質把
握に差異が生ずる︒
証券取引法は文字通り有価証券の発行︑売買その他の取引の公正と円滑を目的としたものである︒従って証券関係
者保誌ということが第一になることは当然である︒
戦後経済民主化の一環とレて証券所有の分散化が行われ︑証券投資の一般化と投資大衆の増大を背景として︑商法
によって保設されない将来の株主の投資判断に資する正しい情報の提供の手段としての︑有価証券届出制度及びそれ
法定監査の本質と監査人の独立性一
O
九経 営 と 経 済
一 一
O
を裏付ける会計士監査制度を理解する考え方が一般的である︒投資者層の増大と証券流通の一般化という事態は正に 肯定すべきであるが︑株式会社は以前から商法上オープン︑カンパューであり︑戦後の事態は一式わば数量の変化であ
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て お る 国 民経済の適切な運営のためと云う文言は単なる言葉のアヤとしてつけられたものではない︒そして叉︑証券民主化に
よる投資者層の増大を理由として︑投資者居即ち国民全体と一民う前提に立つての投資者の保設と一民うことでもない︒
法定荒査の本質を株主の利益保護のため︑特に将来の株主たる投資大衆の保護のためという点に求めようとする見解 には︑それ自身意味のあることは否定することはできないが︑社会制度とレての法定躍査のあ忍べき本質的な姿は︑
株主その他の資本提供者だけではなしに︑それらをも含めたその他多くの具種の利害関係者の利害を公正に調整せん とするものであって︑近代資本主義社会の構造上必要不可欠な社会的制度であるという点に求めなければならない︒
黒沢教授も﹁監査制度が確立されていない社会は︑前近代的であって︑それが確立された社会が近代的な社会である︒
要するに︑会計士監査を投資家のための監査というようにせまく考えるのは正しい認識ではない﹂と言っている︒
以下この様な認識を前提として︑取査制度の具体的な在り方を︑特に監査人の独立性という点にしぼって考察する
こととする︒
四
︑ 監 査 人 の 独 立 性 の 諸 問 題
独立性の意義 凡そ段査は独立性ある監査人により公正に行われるのでなければその意義をもたない︒取査人が監査を受ける者と
特別な利害関係があったり︑或は特別な意図を以て監査に臨んでは︑監査の結果に対する一般の信頼は得られない︒
突に庇査人の独立性こそ︑監査の基本的前提条件でゐる︒監査一般基準第一に﹁企業が発表する財務諸表の躍査は当
該企業に対して特別の利害関係のない者によって行わなければならない︒﹂その第二に﹁監査人は常に公正不偏の態
度を保持しなければならない﹂と規定しておる︒第一を経済的独立性︑第二を精神的独立性或は判断の独立性と呼ん
でい
るが
︑
この二者のうち何れがより基本的であるかについては意見が分れる︒
﹁その根本はやはり判断の独立性があればい﹀のであって経済的独立性は判断の独立性を確保する手段として必要
だ﹂叉﹁根本的にはイγヂィベンデシスと一民うのは︑判断の独立性であって︑どういう利害関係がJのろうと︑その判
断の独立性さえ倍保できれば差支えない﹂と一氏う考え方が多いが︑私はこの関係は逆であると考える︒即ち被監査会
社と何らの経済利害関係のない監査人にして始めて︑公正妥当な監査を行いうるのであって︑特に法定監査が社会的
制度でめるが故に制度的に客観的に監査人の独立性が立証できるものでなければならない︒
会社と特別な利害関係があるが然し公正な監査を行ったと如何に強調しても︑その監査人の自己証明にしか過ぎな
い︒経済的独立性がめっても常に公正な監査が行われるとは限らないので︑その上に判断の独立性を念のため置くこ
とによって独立性を完全ならしめているものである︒﹁どういう利害関係がJのろうと︑判断の独立性さえ確保できれ
ば差支えない﹂という考え方は︑社会制度としての法定監査制度の本質よりして最も警戒すべきものである︒この様
な考え方が監査役監査と会計士監査の同一視︑会計士を以って監査役にあてるという謬見につながるものである︒
2 .
経済的独立性の内容
さて︑か﹀る経済独立性の条件も色
λ
と考えられるが︑基本的には監査人が被監査会社及びその利害関係者との間に特別な利害関係をもたないことである︒その特別な関係の範囲をどこにおくかによって広くも狭くも規定できる︒
法定
監査
の本
質と
監査
人の
独立
性
経 営 と 経 済
具体的には︑公認会計士法第二十四条︑証券取引法第一九三条の二にその大綱を規定し︑更に之らをうけて財務諸表
の監査証明に関する省令第二条に於て細かに定めておる︒之らの諸規定を直接的利害関係と間接的利害関係に分ける
向があるが︑私は之を身分的関係と経済的関係に区別する方が実益がある様に思う︒公認会計士が被監査会社の役員
叉は使用人であった関係などは即ち身分的関係であり︑会社から事務所や資金の提供を受け︑顧問料等の報酬を受け
る場合などは経済的関係である︒何れも判断の独立性の有無の客観的条件であるが︑身分的関係は客観性がより大き
く絶対的条件であり︑経済的関係は或る一定の限度に達して始めて独立性の侵害と解される︒いわゆる重要性の原則
を適用するのである︒従ってそれは︑監査制度に対する社会の理解や関心の程度に左右される︒役員︑株主︑債権者︑
従業員或は公務であり︑叉ゐったと一民う関係は︑之らが企業をめぐる利害関係者であり︑監査人は之らの何れにも偏
せず公正なる第三者でなければならないと云う理由︑即ち単に被監査会社に対する独立性だけでなく︑すべての利害
関係者に対して独立的でなければならないとの規定である︒被監査会社からの独立性が最も重要であることは勿論で
あるが︑法定監査の本質よりして︑すべての利害関係者に対レて独立的であることが必要である︒この様な見地から
現在の独立性の規定を再検討すべき点が多い︒
③
経済的独立性の問題点︒
監査人の独立性についての規定は︑監査の歴史が永くなればなる程︑その規定すれすれの事例が続出して︑それを
追って益え細かになら︑ざるを得なくなる︒アメリカなどでも︑規定が追いつかず︑も早や判例的に︑ケース︑パイ︑ケ
ースで行こうと云うことになっている︒それは何故か︒か﹀る状況に於て︑会計士側に於ても何らかの縁故を頼り
被監査会社を獲得せんとして︑双方相携えて独立性を危うくし︑その規定を益え細かにせ︑ざるを得ないものにしてお
る︒厳格な監査人は忌避され︑場合によっては︑次回から解任されるが如き機運の下に於て判断の独立性を期待する
では
︑
ことは困難である︒庇査人の自覚をいかに強調し︑叉監査人が良心的に公正妥当な監査をしても︑この様な制度の下
それを社会的に納得させることは不可能でゐると思われる︒従って私は法定監査に於ける監査人の独立性を確
保するにめの前提として︑特定企業の臨査人の選定を企業の自由に委ねている点を改正し︑之を公的な機関に於て選
定することとし︑既査報酬も︑この機関に払込むが如き制度を提案するものである︒かつてこの提案に対する賛否の
意見を会計学者︑公認会計士︑被監査会社役員各二十名に照会したところ︑賛成而%︑反対Mm%という結果を得た︒
相一し賛成のうち科%は実現困難であるとの注をつけている︒
法必ず陪士高窪氏は会計監査公社創設案として政府出資
2
億円︑民間出資2
億円︑会計士身元保証金1
億円︑計5
億円の会計監査公社を起すことを提案しているへ公認会計士
l
九五
年一
O
月
)
神馬新七郎氏も︑
改めて別の方法によらしめねばならない﹂と云い︑且つ︑監査の依頼者が被監査会社側であり︑監査人の選定が企業
そして報酬たる段査料が企業から段査人に直接支払われる点である︒被監査会社は一般に ﹁会計士監査が厳正に行われるためには現今のととく会計士と被監査会社との聞の自由契約制を
の経営者によって行われ︑
形式的な院‑査を期待するが故に︑何らかの縁故をもとめてその意図に副うが如き監査人を見出さんとする傾向が強
い︒会計処理の公正なら︑ざる企業︑財務諸表を粉飾し一時を糊塗せんとする経営者ほどこの要求は織烈である︒叉公
認会計士の側に於ても︑現在の法定監査の契約状況をみると︑被監査会社一︑一八七社に対じ公認会計士一︑六九三
名︑この中︑実際に監査を担当しておる公認会計士は約四
O 名である︒従って法定監査を担当していない公認会計O
士が千名以上いる訳である︒
﹁同一人の同一会社に対する段査期聞にも制限が加えられなければならない﹂と主張しておる︒
このことは︑監査論というよりも︑極く平凡な当然の常識であると思われるが︑か︑る意見や提案は非民主的であ
法定
監査
の本
質と
監査
人の
独立
性
一一 一
一
一経 営 と 経 済
一一
四
るというレッテルを貼ることによって︑問答無用と一言の下にはねつけられているのが︑現下の大勢である︒
﹁民主的な監査制度より寧ろ官僚的な監査がイージー︑ゴ1イγグな方法であるため︑或は報酬の支給を官庁から
受けるとか官庁の直属機関として監査を行うことか一民う意見も飛び出すのであるが︑
これは民主的制度の破壊とな る︒あくまで民主性の枠内における独立性の維持でなければならない︒﹂(全認会計士一九五六年一
O
月土肥氏)という志見が反対論の代表的見解である︒
一氏うところの民主性とか民主制度の枠とは一体何であろうか︒資本の利益の立場のみに偏せず︑国民経済の担い手
としての企業とそれを支えそれにつながるすべての関係者の利益を公正に調整じ擁設すると一氏う乙とこそ︑民主的な
ものでゐる︒企業の利害関係者が国民のすべての階屈に及ぷとき︑その利害を調整することは社会的な公共的な︑共
同の需要でゐり︑その運営制度が公的なものになることは当然の理である︒官庁的なものになるのがむしろ必然の姿
である︒政府とか官庁は国民の共同の要求を充足レ実現するための民主的機関であるとする民主的近代国家論よりす
るならば︑官庁的或は公的制度乙そ民主的なものでゐると思われる︒官庁的即非民主的という一片のレッテルに恐れ
入つてはならない︒社会的な監査制度を公的︑官庁的なものにするということは︑何か思いことでもするように︑
こ
そこそとささやくべき性質のものではないと思う︒
同じ私企業である銀行業が預金者保護という理由で︑大蔵省銀行局の検査を受ける制皮になっておるが︑国民経済
の生産と所得配分の場であり︑万余の株主︑債権者︑従業員︑ー消費者の生活の根源である一般企業が公的な監査制皮
を持つことの必要性は︑決して銀行業に勝るとも劣るものではない︒
④
監査役と公認会計士監査の関係
院査役と証取法による公認会計士監査の関係については︑私は商法との調整に関する意見書が述べる通り被監査会
社は監査役を任意機関とする案に賛成するものである︒た
J Vその理由として監査手続が二重であるからと一民うことで
はなく︑佐査役監査は株主の利益を守るための︑特に現在株主の利益を経営者の専壇から保護するための制度である
が︑法定監査はそれらの目的をも内に包んにところのより高次のものである︒現在株主のための監査︑将来株主たる
投資者民査︑債権者のための信用監査︑祖税目的よりする税務監査︑或は叉従業員としての利益を守るための監査︑
さらに監査が各個ばらばらに一つの企業会計に臨むという姿を解決するものとして︑それらの各えが企業会計に対し
て持つ具なる利害と要求を調整し︑妥協し納得された一つの線が即ち会計原則であり︑叉各利害関係者夫えの異なる
段査要求を一つの制度として調整統合したものが︑社会的制度としての法定監査であると考える︒黒沢教授が﹁法定
監査を︑投資家のための監査というようにせまく考えるのは正しい認識ではない﹂と去われるのは︑突に乙の意味で
ある
と思
う︒
従って経営管理の一手段としての経営内部監査を除いて︑その他の各種監査はすべて法定監査制度の中に吸収され
止揚され︑そしてそれらはすべて法定監査の中に生きていると云うべきである︒
かくて法定段査が近代経済社会に必要不可欠な制度であり︑すべての社会階層の利益を促進レ調和させるものとし
て信頼と権威をもら︑百九に安定した経済社会の発展の基盤となりうるものと思うのである︒
法定詰査を将来の株主にる投資大衆の利益の保談︑一般投資者回の投資判断の資料としての財務諸表の信頼性を確t
保するための制度であると考えるならば︑会計士監査と監査役との調整問題は非常な困迷に陥って了う︒出資の証券
化とその売買流通の完全な自由化を謀本とする証券資本主義に於ける株式会社︑殊に証券取引所上場会社に於ては
株主は変転極まりないのが原別であり︑監査役も︑株主総会に於て選出されたその瞬間に於ては︑株主の権利の代表
者でゐるかも知れないが︑証券の売買が行われた次の瞬間に於てはもうその時現在の株主の代表ではない乙とにな
法定
監査
の本
質と
監査
人の
独立
性
一一
五
経 営 と 経 済
一一
六
る︒かくて監査役監査は現在株主のための︑監査であり︑会計士監査は未来株主のための監査であると一民う論拠ハ会計士
監査必然性の)が実は成り立たなくなり︑この二つの監査制度の本質的差異がなくなって︑証取監査の不要論の論拠
を提供することになる︒そレて︑監査役の一人に公認会計士をあてることによって︑現実的調整をはかろうとする独
立性の見地より最も警戒すべき思想が生れて来るもとをなすものである︒
⑤
公認会計士の指導的機能と独立性
この点についての私の基本的な考え方はすでに述べたところである︒即ち会計士の業務としては︑法定監査以外に
任意監査もあり︑依頼にもとづく財務諸表の調整立案或は相談等があるが︑法定監査は公認会計士の独占的業務であ
り︑その本質は︑前述の如く︑企業のために︑企業の依頼によって行う性質のものではなく︑企業をめャる多数の利
害関係者のために︑企業の財務諸表の適否を批判検証するものであって︑経営者的立場に立って指導的助言的役割を
果すものではない︒
黒沢
教授
は︑
﹁独立性と協力性﹂と一民う表題の下に︑次のように去っておられる︒
﹁独立性は会社のために指導的助言的役割も果すことを妨げるものではない︒監査報告基準に合致するところの怠
見の表明がなされている以上は︑あとはどのようなサービスを提供しようと︑それを妨げるものではない︒独立性を
窮屈に考えて︑指導的役割を否定するような議論が生れて来ては困る﹂﹁会計士は依頼会社に役立たなければならな
この役立ちの意味にも色えあり︑或は之を直接的役立ち︑間接的役立ちに分けることも
出来よう︒監査人が監査実施の過程に於て︑会計処理上の誤謬を発見し或は会計士の専門的智識を以って︑会計上経 い
﹂と
一式
われ
るの
であ
るが
︑
営上の相談を受け之に助言を行うなどは直接的役立ちである︒之ら経営管理目的のための躍査や指導は︑若レ産業界
に於てか﹀る要求需要がゐり︑叉会計士とじて︑之に応える能力が﹄のれば︑会計士の職域として大いにのばすべきで
ある︒然し乍ら︑之は内部庇査或はヨシサルグントとしての領域であり︑会計士に依頼して内部監査を行ってもらうと
一広う性質のものでゐり︑我えがこ﹀で問題としている社会的制度としての外部監査とはおのづから問題が別である︒
法定監査の実施によって︑その受入態勢としての内部監査その他の会計制度が整備され︑叉厳正なる監査の実施に
よって︑企業の財務諸表に対する一般の信頼性が高まりその結果︑資本集中を容易にし経営の発展を促進することな
ど︑之ら一広わば監査の間接的役立ちでゐる︒
社会的外部監査に於ける監査人の被監査会社に対する役立ちは︑かkAる意味における間接的役立ちであるべきであ
って︑その直接的役立ちは︑会社の外部者へとそ指向されなければならない︒
そして間接的役立ちは︑特定の被監査会社に対する個えの監査人の役立ちではなく︑会社一般に対する監査人全般
の役立である︒会計士の監査サービスはこの様な意味において︑個別的会社に対してではなく︑社会一般に対レて提
供されるものでゐる︒監査報酬が被監査会社から直接︑監査人に支払われている場合︑躍査料がその支払人たる会社
への個別的サービスと結び付けて考えられ︑そのような立場から高いとか安いとかが論議され︑監査人も受取る報酬
に価する会社への直接的役立ちを提供すべき責訟を感ずるという極めて危険な錯覚におらいる可能性が大きい︒
のこ
点からして︑監査報酬の直接支払は絶対に改正を要するものと考えられる︒
﹁会計士の監査サービスは社会一般に対レて提供されるものであり︑躍査人の責任の重点は︑監査人に報酬を支払
う会社ではなくして︑報酬を支払わないところの第三者に対じて指向されなければならない︒﹂と一氏われる︒
然らば何故に直接的なサービスを受けないところの会社が︑監査を依頼し︑そして監査報酬を支払うのであろう
か︒之は監査が︑経営の内部的財産保全の目的︑経営管理目的の監査を企業が外州市監査人に依頼して行ったことから
始まったという歴史的事実に由来するのでゐる︒その伝統が︑それと全く質を兵にする今日の社会的監査制度に於て
法定
監査
の本
質と
監査
人の
独立
性
一一 七
経 営 と 経 済
一一 八
もそのま︑踏襲されたものに他ならない︒
この様な伝統の確立した外部監査についての先進諸国に於ては︑その伝統の上に立って監査人の独立性が維持され
るのであろうが︑我国の如く新しくこの監査制度を導入しようとする場合︑その様な伝統にとらわれることなく︑法・
定監査の本質上当然そうあるべき正しい制度を作り上げるべきであると思う︒
五︑結
一訪 問
以上︑社会的制度としての法定監査のあり方について特に監査人の独立性という観点より述べたが︑その内容は︑
理論というよりもむしろ普通の常識である︒然し私は︑社会的制度は持って廻った様な理屈よりも︑一般通念の中に
一般に納得されるところに︑本当に安定した姿があるものだと信ずる︒﹁会社から選定され︑会社から金をもらって
いて︑正しい監査ができるだろうか﹂という素朴な疑問をもっ者を十分納得させうる制度でなければならない︒
曲りなりにも正規の監査にまでこぎつけたとは一式え︑監査制度は未だ不安定である︒現在公認会計士は一般に開拓
者としての喜びも悲しみもかみしめ乍ら努力している︒この会計士の立場を理論的にパック︑アップして行くことこ
そ会計学者の任務であろう︒
学者は︑理論的に当然こうなければならぬことであれば︑たとえそれが実現困難であろうと︑反対が予想されよう
と︑自由に主張し説得しなければならない︒公認会計士も大蔵省も︑そして社会の各階回が声なき声を以ってこの点
を学者に求めているのではなかろうか︒
監査制度の正常化を阻むもの︑それは資本主義の竪ではなくして︑真に安定した証券資本制皮を支えるものとして
の法定監査制度の本質への誤解︑無理解と一民う慢だけであると思うものでゐる︒
(本稿は第十九回会計研究学会に於ける研究報告を基礎とするものである)