郷 士
制 度
の 構
造 と
機 能
︵ 一
︶
徳 永 新 太 郎
閉ぢられたる社食︑それが封建的社命の一つの特徴である︒地域的にも階級的にもまた職能的にも︒従って社
食圏の交潔や錯綜は︑封建時代には稀れでもあり︑困難でもあった︒焉政者齢その禁止に賀め抑塵を事とするの
が普通であった︒その中でみごとに社食圏の交叉乃一畳錯綜の例を示してゐるのが郷士である︒凡そかゝるものと
して此虞に郷士を取上ける︒
資料の主なものとしては
︵こ肥後固葦北郡水俣手永の重代御惣庄屋乗代官であった探水家︵啓藩時代には水俣姓を宿した︶に侍へられた記
録︒
︵二︶同じく肥後園葦北郡津奈木手永に三代御惣庄屋粂代官であった徳富家記録中の一部︒
以上二種の資料は恐らく此虎で初めて公に用ひられるものであらうか︒
郷士の構造と樹齢︵こ一四三
商 業 と 経 済
一四
四
会 一
) 同
C く肥後図八代郡種山手永大野村の郷士山田家の記録︒これはかつて山田熊三郎氏によって斡録され﹁制
度考﹂として限られた範固に贈られたものらしく︑比較的豊富な資料を含むに関ら争︑従来飴り利用されて居
戸th
︑
04 d' h
. h u
(四)向︒く肥後園阿蘇郡小国北里手永の重代御惣庄屋たりし北旦家の記録︒これに就てはその紹介者たる内村政
光氏の著書論文等に負ふところが多い︒
(五)北岡文庫諸記録︒この貴重なる資料拝見の便を奥へられた文庫関係の方々に封して此庭に深く謝意を表する︒
以上五種いづれも細川公治下の肥後藩に於ける郷士関係のものである︒速く中世以降の郷士制度在跡つけ︑庚
く諸藩のそれを見渡し︑凡そ郷士なるもの﹄一般性を論争ることは︑従って︑営面の問題ではあわ得ない︒限ら
れた時代と地域との資料により︑限られた観貼から︑忠買に郷土の構迭と機能とを眺めようとするのである︒
郷士は武士であったらうか︒ 一見幼稚なこの間ひから私は出後する︒庶民が苗字帯刀など思ひもよらなかった
時代に︑'郷士は明かに古宇を名乗った︒名にしても︑︐次坊とか︑末吉ない乙といふ庶民的なもの L 代りに︑源吾と
か和左衛門などといふ侍らしい遁稽を有ってゐたし︑その外に昌孝とか一貞な E といふ名乗りをさへ有してゐた︒
身分の差別は死後にも及ん花︒庶民はその墓碑等の法名に院鏡︑居士続︑大姉銃等を用ひることが許きれなかった
けれども主一三郷士の中でも相営の格になれば︑¥﹂れらを用ひて註支へなかった︒
帯びることであったが︑その特権も︑最も格の低い郷土を除けば︑なべて郷士に許された大きな特権の一つであ 一番武士らしい特徴は雨万を
っ た
かぐて郷土は武士であったやうに思へる︒震際営時その地方の舎所に書き残された記録の中にも︑彼等は﹁御 ︒
家人﹂として庶民とは区別して記されてゐる︒即ち或ひは惣人数の内︑庶民とは別に御家人と御郡筒との人教が
夫々特記され︑或ひは﹁影踏一肢末﹂に封して﹁寺社家内﹂﹁家人井郡宰直調︑郡筒家内共 L が区別され︑また或ひは
惣 竃
数 の
内 ︑
﹁ 一
位 寺
1
一
﹁ 家
人 ︑
郡 筒
﹂ ﹁
百 姓
漁 師
ー 一
﹁ 00
﹂の夫々の竃数が奉けられる等である︒(註二)御家人は一般
の百姓たる﹁村人数﹂とは諸事区別して取扱はれた︒所謂﹁村人数放れ﹂であって︑御家人記る郷土自身は因よりの
こと︑その段階に臨むて家内にもまた一般の村民とは具る相営の待遇が奥へられた︒苗字帯万などはその最も大
きなもので︑公役の割営てや宗門改めの﹁影踏﹂な E も発除され︑その他公私の生活を通じて御家人と村人数と
は 事
毎 に
区 別
さ れ
た ︒
( 註
一 一
一 )
そ れ
故 に
明 治
以 後
多 少
の も
つ れ
は あ
っ た
も の
L
その少からぬ部分は士族の中に加へら
れたのである︒言尽然し村での御家人は果たして営時城下でも一侍として通つむのであらうか︒
﹁鹿児島近在の郷土が帯万しながら烏を牽て城下に出て来た L 等粗野な生活ぷりのせゐもあって︑﹁純粋の武士た
る家中士より軽蔑せられた﹂ことが倖へられてゐる︒︹註さ熊本の城下で代々︑数百石の知行を受けてゐた家筋の上
品な一老婦人が︑右に似た熊本近在の郷士﹁保田窪 E ん﹂に就て話すのを私は幼い頃に開いたことがある︒保田窪
郷士の棒読と桜前(一)
一四
五
商 業 と 経 済
一四
六
といふのは元来熊本の城下に程遠からね託摩郡本庄手永中の一村名であるが︑加藤家改易の後を承けて新藩主細
川忠利公入閣の後間もなく此庭に﹁地筒ト一とか﹁新地銭砲者﹂とか呼ばれる農兵ゃうのものを置かれた︒﹁自ら耕し
て給す﹂るかにはら︑千日銭砲を稽古する外に︑つ城中又は公館庭中庭外の沼掃道法の事﹂をつとめとした︒(訪六}
保田容一といふ地名がやがてこの人々の別名といふより︑寧ろ一種の賎稀に近いものとなったらしい︒城下に出て
来るこの人々の容儀.言語は︑城下の人々の耳目にはまことに異様不醇にうつったらしい︒この人々に就て語る老
婦人の口ぶりも︑決して城下の御侍に就て話す時のやうに鄭重なものではなかった︒しかもそれはその婦人の個
人的な感情ではなく︑寧ろ郷士一般に封する家中一般の態度であったやうに思はれる︒
自ら郷土の子弟として城下の子弟に悩まされた幼時を追想して語る人の話しの一節に︑一
l熊本城アの人は白から
威張るばかりでなく︑驚くべき程地方の者を軽蔑した︒如何なる立派な身分の者でも︑地方から出た者は︑之を
賎稀して︑在郷兵衛と一式うに︒それから士放と怒声との差別が非常であって︑百石以上を士族と云ひ︑中小姓以
下 を 軽 輩 と 稽 し て ゐ 亡 ︒ し ( 詑 き と こ ろ で そ の ﹁ 中 小 姓 ﹂ 詳 し く 一 吉 へ ば ﹁ 組 付 御 中 小 姓 ﹂ や ﹁ 御 留 守 居 御 中 小 姓
1一
は ︑
郷 士
としては之に達することが不可能でない迄も極めて困難であって︑{註八)郷村に賓際居たものは慨ねかやうな御中.
小姓ではなく︑たゾ之に準宇る待遇を受ける﹁御留守居御中小姓・府﹂か︑またはそれより克に下る﹁御留守居御中
小姓列﹂であったらしい︒註さしかも中小姓の本席ではなく︑それらの准席又は同列に過ぎぬものさへ︑一手永
に一人のところもあり︑寧ろ一人も居ない手永の方が多かったらしい︒在中ではかくも稀れな高段の御家人も︑
城下では然し﹁討が r
︿ 伊
1
一であり││この語感は土地の者でなければなか/¥わかりにくい
1
1
﹁軽空であって︑
﹁ 士 族 ﹂ で は な か っ た の で あ る ︒
封建的社合同上厨たる落士︑城下の士枚︑家中の社合意識に於て︑彼等がはたして何であったかを︑今日最も明
かに私達に示してゐるものは︑落隠に保存された﹁仰侍張﹂つ御家中先祖附﹂等の中に彼等の名が見出されないこと
である
0 2 一
O )
その意味じ於て彼等は本官の御侍ではなかったとも一吉へるであらうか︒それ故にまた︑自ら門家中
と し
て の
階 級
的 衿
持 に
縞 つ
て ゐ
な い
閥 単
者 の
中 に
も ︑
彼 等
中 伊
品 一
円 民
と 見
る 人
々 も
生 じ
る の
で あ
る ︒
( 詰
一 一
)
それでは郷士ははにして農民であったらうか︒またしても︑幼稚とも見えるであらうこの間ひを︑私は然し一応
必要と思ふ︒郷士の中には溶から緑︑を給せられないものが少くなかった︒﹁役附御家人﹂ゃっ地士﹂の若干や﹁郡筒﹂
などを除けば︑知行は因よりのこと扶持米すら受けないものが普通であった︒註一一一)彼等の或る者は﹁渡り地と
唱 て 山 林 室 原 の 地 を 聞 き ﹂ ﹁ 自 ら 耕 し て 給 す ﹂ る 人 唱 え で あ ち ︑ ( 詰 一 二 一 ) ま た 或 ひ は ﹁ 御 赦 免 聞 き な る も の や 所 有 し ︑
自力で開墾したる困地︑若くは自力で柏ゑつけたる山林等を所有し︑全く自力にぺ食むものであった﹂註一巴し︑
克に金設献上印ち所詔寸志による郷士は︑概ねその前身が農民であり︑その生業も亦依然として農業であること
が多かったから︑これらの人えが没民的要素を多分に有ってゐたことは明かである︒然し彼等を良・民と言ひきっ
てしまふことは︑釘一に郷士その人の自意識が許さないであら︑フ︒また郷土がそこに居住しそこに直属してゐた
ところの郷村の社合意識にもそぐはないであらう︒克にまた海士がたとへ如何程低く彼等を見たとしても︑彼等
部士の梼詮と抜能(ご
一四
七
商 業 と 経 済
一四
八
を純粋に農民として取扱ふことは︑落制そのものと矛盾するであらう︒諸制は明かに農民とは異る特様︑そ彼等に奥
へ︑農民とは具る義務巻彼等に負はせたのである︒
若干の迂路島経てやうやく此虎に普通の郷士の概念にた E りついたゃうである︒﹁郷士は別に地士又は山士とも
昏 一
一 ﹄
ま ︑
共 の
一 般
の 概
念 と
し て
は ︑
武 士
に し
て 農
村 に
住 居
し ︑
又は農民にして武士たる待遇︑を受くるを一式ふのであ
義であって︑其の後諸書に引用されてゐる︒(詰一五
v今肥後藩に就て見れば︑ る︒﹂これは郷士に関する研究中古典的位置を占める小野博士の﹁郷士制度の研究﹂の書き出しに奥へられてゐる定
凡そ農村に住居した武士︑城下に住
居しなかった武士は悉く郷士であったのか︑例へば﹁在宅の家中の士﹂や﹁在邑の知行取 L
や ︑
ま た
﹁ 境
溢 植
要 の
地 ﹂
に 設
け ら
れ た
﹁ 御
呑 所
﹂ の
﹁ 上
御 呑
L を
勤 め
た ﹁
御 侍
﹂ や
﹁ 呑
士 ﹂
﹁ 呑
頭 ﹂
な
E も皆一概に郷土と砕することが安常であ
っ た か 詮 一 三 等 の 問 題 は 此 庭 に 暫 く 措 い て ︑ ﹁ 郷 士 は 戦 士 と 長 夫 と の 結 び 合 ひ た る に 興 へ た 観 念 で あ る ﹂ と 一 一 一 口 ひ ︑ ︑
♂或ひは﹁兵と農とを結合せる郷土﹂﹁兵を農に寓するの制度﹂﹁一見百姓でも亦武士でもない所謂午農牛士の制度﹂
{詮一七)といふ考へは︑恐らく多くの人々に異存の無いところのゃうである︒賓際郷士制度の起原を尋ね︑またそ
の後の推移の跡︑を眺めて見ても︑郷土が概ね︑兵と混との結合もしくは複合を中核とする存在であった甲﹂と笠同
定される︒従って郷土なるもの﹄本質を決定し︑或ひはその理想型を構成しょ︑フとする場合に︑兵と漢との結合
もしくは複合と考へることは二階さし支へないゃうである︒
然し現賓の郷士を今一一厨周密に眺める時に︑兵農の結合乃至複合といふ観念によって︑は七しで郷士会般の梼
迭と機能とをおほひ得るであらうか︒﹁町人郷土﹂なるもの
L存在した地方もあったといふことであ
02
一八
三
目 巴
後にも﹁在方寸志﹂に較ぺると僅かな例ではあったら︑フが︑﹁町方寸志﹂なるものが兎に角存在し穴ゃうであり︑
一概に兵と農との結合乃至複合とのみ言ひ切れね場合が町方にあったかと思はれるが︑
( 託
一 九
﹀
き︑日川謂﹁在中﹂又は﹁在御家人﹂たる郷土のみに就て見ても︑彼等は常に単純に兵と農とのこ要素に分析し設され それらは暫く措
るものであつにらうか︒丘︿農以外の要素は︑或ひは中世以来の郷土の本質︑に封して附属的性質であわ
J︑か L る附
局的性質を合む郷士の現官態は︑その理想型に封しては一種の縫型乃至歪型であると言へないことはないが︑に
とへ附属的であり謎型的乃至歪型的であらうとも︑・それが事賓として少から事存在したことは否定されない︒の
みなら宇︑一見附民的とも見える兵長以外の要素がかへって往々にして首の郷士をして郷土たるに至らしめた有
力な賢際的保件の一つであったことがあり︑また徳川時代から明治時代への移行過程に於て郷士が皆んだ枇曾的
機 能 の 上 に も ︐ 少 か ら ぬ 意 味 ︑ 申 告 有 つ 場 合 が あ っ た と 考 へ ら れ る ︒ か
Lる郷土の存在吾︑凡そ郷土考察の視野から逸
し去っては︑郷士の現官態を正しく認識し評侵することが困難ではないであ 6
う か
︒
詑 (
ご 司
法 省
蔵 版
﹁ 徳
川 禁
令 考
﹂ 第
五 ︑
巻 四
十 二
︑ 寺
一 位
︑
八六
l
一八七丁( ニ ノ ご 安 政 四 年 若 し く は そ れ 以 前 の 調 べ と 推 定 さ れ る
﹁水俣手永手鑑﹂の中に
. 泊 村 本 方
ー︑
llお粕如古新地共 一高百九拾武石八斗式升
高三
y
五分八米一位以三百七拾軒
一人故千五百七拾八人
内男八百一宮人女七百七拾七人
郷士の鰐誌と機能(一)
一 四
九
商 業 と 経 済
御直燭共
一日
御家
人四
人 一 御 郡 筒 三 人 ( 下 略 ) 江 添 村 本 方 御 給 知
一一高三百式拾八石七斗九升
高四円/五分一米
一笛攻百六軒
一人数四百武拾九人
男 武 百 武 拾 五 人 女 武 百 四 人
一御家人武人
一 御 郡 符 拾 人 ( 下 略 )
(一一ノ一一)明治二一年牛八月調﹁津奈木千永略手鑑﹂には
一寵六百六拾五軒
内 五 軒
九拾九軒
五百五拾六軒
五軒 古新地共
社寺
家人︑郡筒
百姓︑漁師
︒ ︒
(ニノ三)同年﹁佐敷手永略手鏡﹂一紙には
一 惣 人 数 六 千 八 百 四 捨 五 入 影 踏 段 来
・内男三千四百九拾八人
女三千三百四拾七人
一 男 女 六 拾 人 寺 社 家 内
内問
刀コ
一拾
三人
. ‑ /
一五
O
女武拾七人
一 同 七 百 五 拾 六 人 家 人 井 郡 宰 百 偶 郡 借 家 内 共
内男三百五拾八人
女武百九拾八人
(以上何れも深水家記録)
(三
ノ一
)
百姓より人数放v之事
一定手停右無官之時は北(九月斗村人数放れるなり︒苛字万免許にな
れば家族皆放るふなり︒
一加
子
村人放の者上り抱ちる
L
時は其身斗合同︒‑一 手 木 之 者 一 長 柄 之 者 一 駕 之 者
右同
断︒
一 回 之 者 手 廻 小 人 之 知 荒 仕 子
右村人設にて其位居るなり︒
(垣探丈兵街﹁官時制度考﹂五︒肥後丈献叢守谷一︑二一
凹頁)
(三ノ二)寸志に困る一領一疋︑地士︑御郡代目関等に仰付
'以者家内村人数臨れの俗︑丈化十一年丈政三年連に及は泊
に川仲良︑人県議之題有之︑以来男女共人数放れ左之活︒(下
略)
御郡代御奉行中 丈政五年四月廿一日 御郡代衆中
(内村政光氏﹁肥後薄に於ける金約郷士制度﹂社合同経済見
阜二ノ三)
(三ノ三)御内密奉伺畳
一一御郡儒之儀其身内山影踏被相除︑家内ハ御百姓並影踏被仰
付儀二御座
ω
得共︑御出銅之儀も御家人家内同前三拾銅 宛上約仕京市MWO然h庭其節寸士山五百目差上申川へは村人
数たり共家内不残影踏除被仰付被下回円二日御座MWof右御郡
筒之家内も御百姓家内同前‑一一向可然御座.以哉︒前丈之語︑
語も違居
MW事に付︑武百五拾目位‑一而家内不残影踏除御
免可被仰付ゃ︒(下略)
( 丈 化 三 年 ) 寅 四 月
・ ( 徳 宮 家 内 分 記 録 ) (四)明治二年十二月廿四日奉行所達︑坐班式︒明治三年七
月三日薄隠達︑坐班式︑坐順︒﹁七等官(目見四回師ヨリ凋躍
以上)八等官(歩小姓以下ヨリ一一筒一疋以上)向後士族ニ被
差加供︒﹂同月十三日落路建︑﹁此問相儲置MW卒茨之内足軽格
之もの以上茂向後士放に被差如何
W
﹂O
明治維新以後に於ける郷土の蹄屈に就ては改めて述べる
o
(五)小野武夫博士﹁郷士制度の研究﹂八七︑八八頁
(六)保田窪又は保田久保を合む﹁新地銭砲者﹂又は﹁地筒﹂に
就ては本稿第四節参照︒
郷士の構造と機能(一) (七)徳富猪一郎氏﹁蘇峰自惇﹂三九頁(八)﹁在御家人の段等﹂を十四段階に分け︑﹁御留主尽御中小
姓﹂はその第十二段印ち最高より第三位に位するといふ記 載が詩書に見える︒(山田熊三郎氏﹁制度考﹂五!八頁
ρ
見島貞熊氏﹁陣内志談附令志﹂史談二八
l
一七丁)なほ﹁在御家人の段等﹂中﹁九段︑濁躍︒比の段に至つては
手永中にも甚だ少く﹂といふ記事が︑﹁制度考﹂にも﹁陣内
志談﹂にも見える︒ましてそれより数等上段である御留守 居御中小姓が地方には甚だ稀れであったらうととは︑直ち に想像されるととろである
0・
(九ノ一)推定安政四年﹁水俣手永﹂一紙には︑高五千百拾萱
石六斗萱升といふ比較的大きかったこの手永に︑御留守居
御中小姓席はた・だ一人だけ御家入の筆頭に記されてゐるに
過ぎず︒明治三年八月調同手永略手鑑には﹁留守除準席﹂と
して一名︒同年﹁佐致手永略手鑑﹂には﹁高三千八百四拾七
石四斗八升六令﹂で﹁留守中小姓席﹂一名︒同年﹁湯浦手永略
手鑑﹂には﹁高武千六百八拾宣右三斗武升六令﹂で﹁留守居中
小姓列﹂一一一名︒同年﹁津奈木手永略手鑑﹂には﹁世阿武千参拾
九石七斗八升﹂でこの段の御家人は一人も居ない︒
(九ノ一一)阿蘇郡﹁布田手永高畳付御手鑑帳﹂賓暦七年五月調
べに上れば﹁村高七千七十八石八升二令一勺四才﹂でこの段
の者一人も無︿︑丈化十三年に﹁御留守居御中小姓﹂ニ人︑
五
商 業 と 経 済
嘉永六年には同一人であったと言ふ︒(内村氏前田報告)
( 一
O )
北岡丈摩記録︐
(一一)例へば中山太郎氏﹁農民の階級と民俗﹂(一)(一一)(民
俗卒︑四ノ一
O
︑一一)の如き︒その他にも﹁彼等は早に武士といふ身分的名稽を有してゐ
たといふだけで︑本質的には依然農民階級と見るべき無力
な階級であった﹂とするやうな人々もあるが︑今一々列翠
ずる煩を避ける︒
ゴユンアチサシニシアチ
(一ニノご中小姓以下は所謂軽輩で五口︑
J一口などとして
扶持米を受けた︒一人扶持は一日米五令であり︑﹁一口は一
斗五升也﹂と言ふのは月額である︒﹁寛政年中定也﹂と倖へ
られるo﹁官職制度考﹂には中小姓以下を切米取俸誌の者と
して一括してゐる︒(﹁官職制度考﹂一六一
l l
三頁)それ以上
は所謂知行取の御侍であ
p
士放である︒﹁知行取惣人数九百 八十七人内蔵前之知行百六人なり︑時々少々宛噌減有︒寛政六年改めなり︒﹂(同書︑一七九頁)
(一ニノニ)山寅暦三年﹁芦北郡水股手永一切手館﹂中
四 拾 六 石 四 斗 九 升 六 合 地 侍 四 人 分 六 百 拾 七 石 九 斗 六 升 六 勺 五 才 御 郡 筒 百 七 人 分
向指定丈久年間﹁水徒手永﹂御蔵柄︑御給知の控へ中
撫 高 百 五 拾 石 ( 惣 庄 屋 余 代 官 ) 水 俣 吉 左 衛 門
一高一一一百七拾武石三斗四升
E
撫高 式 拾 石 地 士 四 人 分 一 高 四 拾 六 石 四 斗 九 升 撫 高 武 百 六 拾 七 石 五 斗 御 郡 筒 百 七 人 分 一 高 六 百 拾 七 石 九 斗 六 升
問明
治一
一一
年﹁
津奈
木手
永略
手鑑
﹂中
惣庄屋地土郡筒給地 一 高 百 六 拾 七 石 六 斗 一請物成八拾四石室斗三升
国八町一ニ反査畝
畑三町四反四畝 (一三ノ一)巧官職制度考﹂一四一
li
ニ頁﹁新地織砲者﹂の項︒本稿第四節(詑二ニ)
(一一一一ノニ)﹁諸組の定球﹂として側足軽拾石
J
一寸叫以下荒仕子三石イイン町までナ四泊りの諾組の定誌があげられ︑すべ
て扶持米の高が示されてある中に︑唯一の例外として︑
一畠地廿石高新地裁砲の者二百四十人 と定められてゐるo
︑(
﹁官
職制
度考
﹂一
六二
頁)
( 一 三 ノ 三 ) 地 筒 の 者 間 地 の 事
︒ + 下々野開畑高二十石開地に仰付与る
o
此を新地獄砲の者開
き渡り地と一式︒(向者︑一七四頁)
(一回)﹁蘇峰自惇﹂六頁︒
御赦免とは︑落隠の許可を得﹁根帳﹂に登録を受け︑自力に
よって山野荒蕪の地を開墾し或ひは佐林したもので︑御放 免田開︑御赦免畑開︑御赦免立山(又は建山)などと稽し た︒元来は租税主免ぜられたものであるが︑特別の場合に
﹁反懸米﹂﹁反掛米﹂等として徴せられることもあったo細 川公江戸屋政類憶に伴ふ反懸米に関する記録中赦免聞の面
積など左の如く記録されてゐる︒
一回畑畝政六再三千五百六十町飴 此 米 三 千 七 百 十 石 余 反 一 一 六 合 宛 一 同 千 九 百 七 十 町 飴 此 米 五 百 八 十 石 飴 反 二 一 升 ニ ム ロ 宛
右新地郡方開畝物共一一
一 回 畑 三 千 四 百 五 十 町 飴 赦 免 開 比 米 六 百 二 十 石 飴 反 ニ 一 升 八 合 畝令七万二千二十町飴
米合四千九百十石儀(﹁官職制度考﹂一七一二一貝)
(其の他同書︑一七六l
七頁及び胆後藩林制沿辛史稿等) (一五)小野武夫博士﹁郷土制度の研究﹂一頁︒三輪鵠一氏
﹁琵萩藩に於ける社合階紋に於て﹂(社合同経済虫皐八の一一)
の郷土概念はその一例と見られる︒
(一六ノ一).山佐敷番頭︒一人︑二千石高︑職料四十否︒佐
政は都下より南方二十五六旦翠北郡陸州の境議栖要の地な
p o
比良に番頭の兵二十飴人あり︒出部伍の長なり︒此を 郷土の構法と機能(ご
佐敷詰と云︒伍長共に共所にありて成るなり︒番兵の内上 り組脇鎮副二人目附監二人あり︒鎮拝防守の総制を掌る︒
(﹁官職制民考﹂一囚ニl三頁)
同佐取呑代屋京︒此地守衛ノ番頭其外勤番ノ士二十五人ノ
屋獄比蓬ニアリ︒(略)籾利君御治世ノ始落兵五十騎ヲ佐敷
一一
置ル
へキ
仕一
三一
テ屋
敷割
等有
V
折柄︑薩州侯於江戸御封顔 ノ節御雑談有γヨリ其事
ρ
止ミ共産取割ハ残レリト一式︒(森本一瑞遺築﹁肥後図志﹂下谷三九八)
(一六ノニ)山一御番所囚ケ所
・内室ケ所︑水俣川口︑上番人佐敷詰御侍衆﹁
常詰下番人御拡筒武人 萱 ケ 所 袋 湊 口
︑ 右 同 町 凶 式 ケ 肝 袋 陸 口
︑ 石 坂 陸 口
︑ 番 人 御 郡 筒 ニ 人 宿
(賓暦三年︑﹁藍北水俣手永一切手鑑﹂一紙)
m w 御呑所四ケ所
一水俣川口上御番所一ケ所
上御呑佐敷詰御侍ニ・一向水俣御町奉行策帯辛川甚之
丞 ⁝殿
一水俣川口遠見御番所井下御呑所宣ケ所
・ 下 御 番 御 郡 筒 武 人 五 日 詰
一袋捺口御番所一ケ所
上御呑佐取詰御持ニ而高並源左衛門殿
五
商 業 と 経 済 下御呑御郡筒武人五日詰 一 袋 陸 口 御 番 所 一 ケ 所 御 逼 筋 御 左
御番人御郡筒ニ人五日詰
(推定安政四年﹁水俣手永﹂﹁類集録﹂査呑)
(一
六ノ
三
) O
在宅
家中の士在宅之事五百石巳上は相ならず妓下居住なり︒共 己下たり共物頭は在宅ならず︒自分知行所にでなく共其郷
里故障なきにおいては不背と寛丈八年に極る︒(﹁官職制度
考﹂ニ
O
三頁)G
在邑
︑知行取郡中所々に在宅の面々二百三十傍人なり︒年々一噌減
一五
回
有と云とも大略三百には越ぺず︒(同書ニ一三一員)
(一七)小野博士﹁郷土制度の研究﹂四︑五頁︑六五頁等
(一
八
) 6
松好貞夫氏﹁土佐薄の町人郷士に就いて﹂(経済史研
究五)
(一九)町家寸志もの御問令い才承知いたし供︒是は一元木有
問敷筋にて申がたさ事に御座侠へ共官府之失政之第一に存 申侠︒士席を給り寓事壬席のあいしらひかと見供へば︑婚 姻は御家中と
ι
六ケ致御座供︒(下略)(山崎正蓋縞﹁横井小楠﹂遺稿篤一一八頁)
﹁町方寸志﹂に関する記録は北岡丈庫にもあり︒
郷士とひと口に一一一口つでも︑種類は様々であっ七︒後生上その前身から見れば︑由緒ある一告家として宜質的には
郷士的存在︑を有してゐたものの地位が︑落主によって公認され︑制度上の郷士となるに至ったもの︑部ち家筋の
郷士︑宮校郷士な r と呼ばれるものがあり︑ま穴庶民が何等かの功績によって擢でられて郷士となつにもの︑印
ち所謂登用の郷士︑取立郷士なるものもあった︒即ち城下の御家中︑仰知行取の中にも︑総仕の新宮によって︑
奮故と新知との別があったゃに︑郷士の中にもまた宮古(叉は在日故︑稀には宮功と書くこともあったといふ)と
﹁ 新
一 一
絞 召
抱 ﹂
た も
の と
が あ
っ た
︒
そして封建時代に於て家格家職は一般に世襲ちあったと考へられ右けれ・ども︑
御家人と蛤も新知のものは相泣に古って相営の上知又は減知が行はれたのであるが詮ご︑一郷士も重代(又は十代
とも記す︑例︑北同文庫﹁十代相法寸志先祖附﹂)又は永代相綬の者を除けば︑ その段の保有は一代乃至数代を限
られ︑たとへ相続を許される場合にも﹁段落﹂をするのが普通であつに︒
更に取立られるに至った所以の功績としても︑武功によるもの︑勤功によるもの︑﹁文武の萎術衆に秀たる﹂に
よ一るもの︑﹁寸志!印ち金持一等隊約によるものなどがあった︒之によっても推知されるやうに︑その皆む機能から
見ても︑或るものは武を主とし︑戎るものは文治的な或ひは敦化的な機能を主とし︑また或るものは︑││藩の
側からは落格些かならずる際の財源の一種として見るに正まり︑郷士自身としてはその身分家格等中伊尋問むること
が目的であり
l
l 職業としては従一供述り農業その他の・庶民的業務に専らなるものもあつに︒肥後藩に於ける郷士
制度制定岱初の意図に於ても︑必
L干しもすぺての郷士をして悉く兵と農と巻会ねしめようとしたのではなかった
ゃうである︒少くとも﹁寸志による士席仕立﹂か行はれる場合に於てはさうである︒
故後に郷士の内部にも十鈴の段階が差別され︑しかもそれらの一段階に一代︑二代︑ご代︑四代乃至十︐代等の
別あるものもあって︑会位としての郷士の梼迭は必歩しも単純なものではなかった︒
肥後に於ける壱故郷士の例としてよく暴けられるのは五箇庇のそれである註二﹄
Oこの人えは古来千家め落人ど
停へられて居り︑ その意味では官放といふ名に最もふさはしいものの一つであらう︒かやうな山間僻地に隠棲し
郷土の博治と機能(ご
五
: : b . . .
商 業 と 経 済
一五
六
て一来落を形成ってゐた奮挨の他に︑器内に散居した苔族で︑器隠からの遣に﹁先祖語ありて家筋の者にて﹂と記
されてゐるやうな郷士があり︑この人々も苔故郷土又は家筋の郷士と呼ぶことが出来ゃう︒例へば田浦︑水俣︑︑
北皇︑郡浦等の諸家の如きはそれである︒今一例を水俣家にとれば︑水俣氏(本姓深水氏︑水俣氏は所謂賜姓︑明
治以後本姓に復した)は元来相良家の支流と稀せられ元範天正の頃は水俣の城主であった︒秀吉や島津氏︑相良
氏︑加藤氏︑細川氏等の間にあって浮沈を菟れなかっ七が︑秀吉征西の際深水三河入道に水俣︑津奈木雨城︑を賜
ふ旨の朱印欣等は︑現に同家及び相良家に保存されてゐる﹃詰三}︒肥後が細川公の治下に入つでも︑代々世裂の惣
庄屋として代官︑を余ね︑総数五十を超ゆる肥後の惣庄屋の中でも同じく由緒ある田浦︑北里氏主巴等と共に常に
惣庄屋の上座に位せしめられ詮吾︑知行も一般に惣庄屋.としては二︑三十石が普通であり︑五十石すら極めて稀
れであった中に︑田泊氏と共に破格の百五十石を代三史けたのである詮六もこの賠に於て御知行取りに属するこ
とは明かであり︑また営時の所謂士族でもあったわけであるが︑ かくなるに至った所以から見ても︑殊にはまだ
歴代城下ではなく郷村に定住し︑御赦免と給する自家開墾の田畑や山林等を有して居た(詰七)等の賠から見ても︑
穆然たる宮故郷土的存在であったと言ふ﹃﹂とが出来ゃう︒
奮族郷士は﹁軍︐役に服しなかった﹂と云ふ人がある︹詰八)っそれは否扶郷土なるものの解程如何にもよるであらう
が︑肥後の場合に就て見れば︑五家妊の如きは兎も角︑深水氏の如きは︑その地方の一領一た︑地侍︑郡筒きて
は佐敷呑士主主などと共に︑明かに漣境防備の霊費︑に常ったのである︒現に島原の陣にも従って勃功︑を建て﹄ゐ
る︒ただ士(の後細川公の治下結えて肥薩園境に戟火を見なかったために︑事賃上宮戟に携はる機舎がなかっただ
けのことである︒然し島津氏をしてよく北溢を窺はしめなかったに就ては︑この奮挨郷土を中心とする漣境防衛
の整備は︑決して見落すことの出来ない働きをしにものであらう︒
その他︑菊池・佐々・加藤・小西等諸家の遺臣等で︑時勢の轄綿製によって或は下野を飴儀なくされ︑或は忠臣
は二君に仕ヘムグの気節を負うて隠棲したもの自身︑殊にその後育の中には︑器公細川氏に召出されて郷土となっ
た者も少くなかったゃうである︒所謂﹁新一一被召出﹂た登用郷土︑取立郷士の中にもこの類のものが之しくなか
ったらしい︒それはこの人々の先祖附からも推知されるところであるが︑最も雄滞にその間の事情を物語るもの
一領一疋が初めて制度化されたといふ寛永十一年の遣し中に見える失の言葉である︒﹁有付の儀は侍︑鍛冶︑
I
ま呑 頭
︑ 商
人 の
儀 も
有 付
候 様
可 仕
候 ︒
﹂ (
註 一
O)
これらとは後生の事情に於て明か具って居り︑殊に待遇に至つては深水氏などに絞べると甚だ微々たるもので
はあったが︑いはゆる醤古御郡筒士(の他由緒の郷士も亦︑その営初に於ては宮家と言へなかったまでも
1代々世
裂の後に於てはなほ一一種の活家たるを失はなかったであらう︒例へば寛永十四︑五年島原障に従って武功をたて︑
その貨として永代高地を賜はわ芦北御郡筒となった人々は︑自らもその先祖附等に於てその由絡を誇ることを忘
れ 宇
︑
2 一一)郷村の諸限停に於ても苔古御郡筒は必中新御郡筒と区別して記してゐる註一二
)O然し﹁一般の郷土
に 比
し て
其 威
光 透
か に
侵 れ
わ ﹂
( 詑
一 一
一 一
) と
一 一
一 ロ
ひ 得
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っ た
か は
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H O
郷土の構造と機能(ご
一五
七
商 業 と 経 済 註(ご士中知行之儀代々相続之事大鹿嘗凶之高に臆じ古代
之定有之侠庭︑中古より我等に及迄新知加誌等都而世誌に
申付来侠付︑賞閣不相庭之高に至り︑後来勤坊之者有之侠
共︑賞すべき政乏数世背前代之本意供︑依之慶安二年己前
之知行は菩故之家に付︑無相違相続せしめ︑右己後之新知
加球は代々相続之高を掛酌し可申付供︒子孫抜群之功労に
依市は夜間故の家に准し︑或子孫才能に依市世減すべからず︒
新知加誠之儀に付而は近年申付託侠起も有之侠保︑付も存
侠偽申間置供者也
賓暦六年間十一月
坪
K4
・列
(﹁官職制度考﹂一九三頁)
(ニ)小野博士﹁郷士制度の研究﹂一二七i
一三
一一
良︒
乙の苔族郷士が制度上の郷土として如何なる地位を占めた
かは︑自
b
また別伺の問題である︒( 一 一 一 )
水俣津奈木南所之⁝民間水三河入道へ被下候佑役者折紙次第
其披可相政侠其倍百姓佐一寸弓鈴銭胞本主へ悉念を入廷可申侠
猶木下宇助可申侠也
b
五 月 廿 五 日 秀 吉 朱 印 佐 藤 才 次 郎 と の へ ( 深 水 家 丈 書 )
倫以みなまたの蚊共方へ可預遺侠早々無由断明日さしさへ
可 越 侠 以 上 ( 下 時 )
一五
八 と り の 刻 五 月 廿 七 日 吉 朱 印 深 水 三 河 入 選 と の へ ( 相 良 家 丈 書 )
於肥後園球磨郡内本知二十四町今度将刷新知同図葦北郡内水
俣五十五町津奈木十八町都合九十七町令扶助畢全致領知向
後可拍奉公之忠勤者也
天E
十 五 年 五 月 晦 日 秀 吉 朱 印 深 水 三 河 入 道 と の へ ( 相 良 家 丈 書 )
同家の由結は︑深水家丈舎の外︑﹁肥後四志﹂下巻芦北郡水
俣手永及び﹁求府外見﹂等に詳しい︒
(四ノご北皇家由持︒
惟宜︒北里停兵衛︑正保二乙百年六月四日死︒寛永九年︑
忠利公御入国前︑停兵衛小倉へ被召寄︑肥後表の様子御専に
付︑委制連上関侠所︑被召所の羅紗の御羽織を給る︒御入
国の上︑同十年小国招庄屋役を被命︒其後島原一挟蜂起の
節︑惟宣儀島原へ可罷越国円被命︑揃羽織五十を被渡下︑惟
立五十人を召連︑島原へ赴く所︑無担及落成故︑役地引取云
々︒其後上使衆御大名方︑塁前小倉へ御前有之時︑忠利公
南開通︑御時国の湖︑四月十三日停兵衛宅へ御入︑暫御滞
坐︑停兵衛を御前に被召︑作木の高五十石の御書出︑並唐
稿の賜御単物云々︒右賜所の品々︑於今代々抱庄屋の家に
相停︒立(後御代々御43同出を賜り︑倫子孫代々抱庄屋佼を勤
む︒(森本一瑞輯﹁古城考﹂巻之下阿蘇郡石樋古城)(落語)な
秀
ほその先胞は天五年間秀吉伍西以前に於ては代々小国詰披
の披主であったといふ
0 (﹁肥後丈献叢書﹂第一巻三三九l三
四
O
頁)
(四ノ一一)田浦家の由緒は省略するが︑戦国時代には歴代田
浦の披主であり︑﹁武俊︑田浦助兵衛︑寛永十.五年七用︑従
御宮家百五十石を賜︑代々相積す︒﹂と停へられる︒(森本
一瑞輯﹁古披考﹂巻之下一作品北郡口黒古捗︑三
O
七l
八一
貝)
(五)一︑田浦別兵衛︑水俣吉左衛門︑北里惇兵衛 供先祖語あ
p
て家筋の者にて︑百姓上り被仰付侠者も古参
上座一一相成侠に付︑右三人は御惣圧屋の上陸に被付置侠様
達有之侠に付達之一迫に被仰付
明和元年十二月及達
郡浦又左衛門儀も本行三人同様御惣庄屋之上座に附置候 旨 同 年 同 月 及 逮 侠 ( 北 岡 丈 庫 )
(六)各手永惣庄屋の知行高に就ては北岡丈犀﹁遺恨﹂︒内村
政光氏﹁肥後落の農村制度﹂八三l八八頁
(七ノ一)深水家の御赦免田畑開御放免立山等に関する記録
の一
部︒
立 畑 田 山 開 閉
問自
武反宣畝武拾八歩
査反九歩畝
七反
芦北郡水俣手永江添村 同 手 永 大 泊 一 村 同 手 永 院 内 村
郷土の得誌と椴能(一)
一 同 査 反 五 畝 同 手 永
右之通御赦免開立山根限無相遣し庭如件
賓 暦 六 年 十 二 月 十 五 日 御 郡 間 芦北郡御惣庄屋 水 俣 吉 左 衛 門 殿 ( 深 水 家
﹁ 記 録
﹂ 四 番 )
畳
一一畑開四反囚畝拾八歩芦北郡水俣手永袋村
右者大塚金右衛門所持之御赦免開地今度譲受成候根帳前無
相違庭如件
丈化元年八月廿九日
芦北郡御惣庄屋 水俣吉左衛門殿
(七
ノ一
一
)
O
袋村の内
一知四反四畝拾八歩
一回九畝拾五歩
一回査反四畝六歩
︒江添村の内
一回武反査畝武拾八歩
一畑萱反五畝
一山武町四反武畝
一立山車反五畝
O
大泊
一村
の内
南一
拍寺
村
円μ ‑
r rド
御郡方御奉行円
r r
μ ‑
ド
深水多郎御赦免開
徳富太多七右同断
前回閲覧二郎右同断
(同
右)
深水多郎御赦克開
同 人 右
御赦免 同
一五
九
商 業 と 経 済 一 畑 萱 反 九 歩 深 水 多 郎 御 赦 免 閲 一 回 七 畝 武 拾 四 歩 前 田 畳 二 郎 右 同
(明治三年八月﹁芦北郡水俣手永略手錘﹂抄)
(八)柏木重三氏﹁郷士﹂日本経済史辞典Q
かλる考は或は小野博士﹁郷士制度の研究﹂に於ける左の分 類を無批判に受け容れることによっ.ても起るであ
b
う0 (同
書七二頁)
究[i
士
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・ ・ 圃
4、 園 圃 ・ 、
非 戦墜 闘
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究日 兜日 発日士 士 士 士
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一丈
官
的』
性 質 を 帯 ぷ 然し蕃族郷土︑登用郷土必ずしも非戦闘員たる郷士にあ
b ‑
ぎることは︑本稿を通覧せ己れる時自ら分明であると思ふ︒
乙れ
‑ b
ニ網四自の郷士の関係に就ては改めて問題とする︒(九)一領一足︑地侍︑郡筒等所謂軍務を目的とする郷士に 就ては次節に之を取上げる︒佐穀呑士に就ては前節註一六
参照
︒ ( 一
O
ノ一)寛永十一年十月二日連︒豊後図久住手永後藤家
記録︒内村氏前出論丈所引︒
( 一
O
ノ一一)加藤家遺臣の時属に就ては︑平野流呑氏﹁能本布史﹂同氏﹁加藤忠庚公倖資料︒﹂繭宮破陸雄氏﹁加藤忠康の
一六
O
改易と其の遺跡︒﹂中野嘉太郎氏﹁加藤清正惇﹂参照︒
(一
一)
00
仁左衛門子孫
0 0
郡 助 右私先祖肩書二相記申侠名前之者御郡筒ニ而寛永十五年有 馬御陳一罷出於役地林関五衛門殿二付ニ月廿七日三ノ丸 せい棲ニ而御銭砲を打同夜本丸二乗入御銭胞を打首尾能相 働廿八日迄摘五左衛門殿江附添居申侠同十六年高地武石五
斗完被魚拝領代々相続仕居申侠(北岡丈降︑丈政コ一年辰三
月︑葦北御郡筒先祖武功等志ちベ帳︑如)︐
( 二
cm
推定安政四年﹁水俣手永﹂﹁一統﹂には
一御郡筒百三拾武人
一菩御郡筒百七人
m w 丈久三年発亥十月﹁水勝村克名籍﹂中﹁水俣御郡筒惣人数﹂
には
淵上杢大組 嘗 古 石 坂 川 村 江口儀平太 新 御 郡 筒 大 迫 村 江口安右衛門
等のやうに新宮の肩書きをつけ﹁一紙﹂には
一他人致百三指宣人
百 七 人 膏 古 内 囚 人 小 頭 武 拾 囚 人 新
問屋躍四辰二月再調の﹁一紙﹂には
一惣人数百廿九人
内 百 七 人 蓄 古 内 四 人 小 頭 武 拾 武 人 新 凶丈久年間又はPAそれ以前のものと推定される﹁水俣手
内
永﹂には︑辺倒郡筒百三十一一一人﹂の氏名を列記し︑内二十六
名に就ては特に﹁今度被召抱侠新御郡筒﹂といふ肩書が附け
るれてゐるから﹁苔古﹂は中はり百七人である︒
(一三)誌に復た奮功(或奮古とも一式ふ︹原註︾)の世襲郷士格
なる者あり︑是は寛永十四年島原役に出陣せし功に依り子
孫代々侍たる可さ家柄にして格落の扶典無き而巳ならず一
般の郷土に比して其威党準かに優れり
0 (﹁陣内志談﹂一七
丁)
四
新に郷士として召抱えられるのは︑既に一告白したやうに︑武功により︑勤功により︑或ひは﹁文武の翠術家に
秀 た る ﹂ に よ り ︑ ま た 或 ひ は ﹁ 寸 志 ﹂ に よ る な い こ
1事情は必中しも同一ではなかった︒
郷土が若し普通に考へられるやうに︑兵と農との結合乃至複台であるなら︑百姓が郷土として登用される理由
も専ら武功によるか︑武器一の優秀なるかに由る外なきゃうである︒如何にもこれらの理由によって郷士に召出さ
れた者も少くなかった︒先づこの方面から見る︒深水氏が重用された如︑きは︑・皐にその奮ま家系乃至血脈の故で
はなく︑島津氏に封する図境防備上︑その武功乃至武力或ひはこれらを背景とする保境安民の力巻高く買はれた
郷土の構設と機能︿一)
一
‑j‑'、
‑商 業 と 経 済
一六
のであらうといふことは銃に之を述べた︒また器内の所々に置かれに一領一匹や地筒や郡筒に於ては︑その軍事
的目的は特に明かである︒
一領一疋といふ名は︑具足一領軍馬一疋のことで︑常に之を具へて軍事に備へる
か ら
こ の
名 が
あ る
と 一
一 一
口 は
れ る
︒ 稀
れ に
は 一
甲 一
一 向
と も
書 か
れ た
︒ ﹁
此 官
ば 郡
中 所
々 に
散 在
し て
軍 事
の 用
. に
備 ふ
o平
先 づ
一 一
関 一
疋 に
就 て
見 れ
ば ︑
日定れる職務なしと云共︑郡中臨事の用に郡代の指揮を受て勤之︒常に鎧一領馬一疋を儲ふ︒故に名一話︒役人の
次席す︒﹂(記一二領一疋は恰も肥後郷士の別名であるかの如く著閉してゐるが︑その制定は細川忠利公肥後入園後
第三年寛永十一年にあったと言はれる詮二
}Oそれが設けられた所以は︑入園草創の蛍時器内に散在する苔挨慰撫
の大めでもあり︑その苔放を利用しての地方の治安維持︑滋境防備のためでもあり︑かねて中央倉援の負捲軽減
のため︑また山野の開拓︑生産掠充等の大めでもあったであら︑う︒
因みに一一一口ふ︑阿蘇の永小作に関する調査が比較的早く皐界に報告された等の事情もあってか︑ 一領一疋は専ら
阿蘇地方に限られるかの如き印象を奥へて居るらしいが﹃詰三)︑必宇しもさ︑フではなかった︒たとへば阿蘇郡小園
布田子永は賓犀七年に於て﹁高七千七十八石八升式合霊勺四才︑電数千五百二十三雷︑男女六千三百二十四人﹂で
あって一領一疋は三人であった(諮問
)0之に封して賓暦=一年輩北郡水股手永はコ↑向四千七百九拾萱石八斗笠升七合
八勺四才︑竃数千九拾四かまと︑男文五千六百拾八人﹂で一領一疋は四人であった(誼五
)Oその後雨手永とも一領
一疋の員数は遁増の傾向を示してゐる︒
一領一疋が本来その一宇の目的としてゐた軍事的機能は︑後世に至つでも必争しも失はれはしなかった︒それ
は天保九年︑殆どすべての御家人とその子弟とに封して﹁詮中乗馬は勿論稽古共一切難叶候﹂と禁止された巳拘も
ホ
一領一疋とその子弟とに封してはその本来の職能上特例として乗馬︑か芸許されたことでもわかる(誌と︒﹁予が
五六歳の頃︑正月左義長の時に目的に一来って出掛くる際には︑祖母は看護者.の品目に負はれつ¥わず/¥家の前ま
で出掛けて︑これを見物した﹂主主・といふ話
4匂諒く時︑聴者は馬上の少年も︑まにわざ/¥し背負はれてまでも之
を見送る老祖母も︑ 一領一疋といふ家格の誇りに胸を躍らせてゐる感情在感得しなければならない︒筆者も亦︑
組父が結新の頃まで所謂三太郎峠の峻坂十数旦を馬上ゆたかに墓参に往復してゐたといふ白山ひ町話︑を度々聞かさ
れ?にのであるが︑舟でも・誌に行き件るところを︑馬で墓参に往復したといふところに︑この話の山があるのであ
っ て
︑
やはり詰る人も諒く者も言外仁一領一疋の誇わを箆えてゐ大のである︒因みに言ふ︑世は明治と改まって
もなほ二年十一月二日には千民の乗馬が禁ぜられ︑四年四月十八日に至って初めて﹁自今子民乗馬被差許候事﹂と
いふ布告が出たのである︒
等 し
く 郷
士 と
は 言
っ て
も 一
領 一
疋 の
段 か
ら は
﹁ 地
方 で
も 相
営 の
傘 敬
を 受
け 旦
構 成
. も
あ っ
た ﹂
と 一
一 一
ロ は
れ る
( 註
八
}0
賓
際この段によって数多い郷士の諸段階が一路上下に分かたれたやうにも見える︒化とへば天保六年五丹廿五日御
郡代よりの誌によれば︑一代御中小姓や士席浪人やの子弟が士席浪人の養子となっても︑すべて軽詑浪人として
﹁一伝一疋の次臨に附く L べきことと定められてあり︑同年六月十一日の遥によれば︑﹁一領一疋以下の子弟を士席
部士の格治と被能(ご
一 . . . . . . . .
J
、
商 業 と 経 済
一六
四
浪人の養子に取組候儀ハ以来難叶候﹂とされてゐる{託九百明治三年に改められた坐班式にも﹁七等官八等官向後
士投ュ被差加侯﹂とあり︑八等官は﹁歩小姓以下一領一疋以上﹂であるから︑ 一領一'疋以上が士放となり︑九等官
印ち﹁別手足軽以下百字帯刀以上﹂は卒扶と定められた︒詮一
O)
軍務以外の公務としては︑別に制度として定められては居なかったが︑郡代の指揮下にあって事宜上概ね郷村
の指導的位置に就くを常とした︒惣庄屋粂代官や︑御山支配役︑を勤むることもえり︑その場合は一段を上って諸
一 領
一
推定文久年間つ水俣手永
γ﹂
中 に
見 え
る 一
領 一
疋 十
二 人
の 官
職 ︑
そ 列
皐 ゆ
す れ
ば ︑
疋持掛ニ而水俣合所見歩演村庄屋後見︑塘方助役井樋見歩︑御郡中櫨格見歩横目役︑御買上椅見歩以上各一人︑ 役人段に差加へられた詮一一
)O御制度見歩二人︑御買上薪見歩一人︑無役四人であり︑明治三年の﹁水俣手永略手鑑﹂には︑文武世話役︑銃段数
方 等
が あ
る ︒
次ぎに地侍は元来﹁圏中の端々に﹂﹁有付 L
の 侍
で ︑
知
‑ J行 ﹂
を 血
へ へ
も ら
れ た
も の
の 汎
稀 で
あ り
︑ 最
初 は
一 領
一 疋
︐ も
その外ではなかったや︑フである︒然も郷士制度が整備した後に於ては︑地侍叉は地士は明かに郷土諸段階中の一
つとなった︒即ち一額一疋の下に位し︑仰郡代直樹(郡宰直閥︑叉は皐に御直偶とも称した)の上に位した︒然し
一領一疋が特に役付の外は無椋であったのに劃して︑地侍は﹁高地五石﹂を受けるものもあった︒但しすべての地
侍に及んだのではなく︑特に軍功等のためつ氷代高地を賜る﹂や︑フな家筋に限られたゃうである詮一二)地侍もまた岨
一 一
棟 一
疋 と
共 に
河 山
飾 郡
特 有
の 存
在 で
あ る
か の
如 く
一 一
一 一
口 は
れ る
の は
︑ 明
か に
誤 り
で あ
る ︒
例 へ
ば 阿
蘇 郡
小 国
郷 布
田 手
永に於て賓暦七年地士七人︑文化十三年九人に封し︑芦北郡水俣手永に於ては寛永十五年玩に地侍の名に於て五
職 能 と し て は ︑ 人の氏名が見え︑資暦三年地士四人︑安政四年同八人であっ穴︒
一領一疋や次にあける郡筒な r と共に郡代に属して非常に備へに︒それ以外には︑前出推定文
化年間﹁水俣千永﹂中の地士九人の内で︑高地五石三人︑御郡筒小頭一人なほ紙格詰込在勤中といふのが一人で︑
他の四人は無役であらう︑何も記載がない︒明治三年の向子永手鑑には銃段引廻︑銃一段数方針一寸がある外︑殆ど全
部の地士が﹁無役家人名前﹂の中に列記されてゐる︒
詑(ご﹁官職制民考﹂一回一一良
(ニノ一)地侍︒国中の端々に地侍と云者を立置る︒足軽の
代りに召仕ふ区役なり︒支配は其郡の郡代支配す︒常に武
を詳.す︒寛永十一年より始る
0 (七頁)﹁官職制度考﹂二
O
(ニノ一己問中
O O
に地侍抱可申供︑有付の儀は侍︑鍛治︑番頭︑商人の俗も有付候捺可仕供︒並に右之地行泣候者は
其の身召仕伎採に迷惑不仕供採に似令敷儀にて可申付供︒
知行取今は役申付間政供︒年頭に一度又は郡に出る時目見
え可申付供︒共上役泣可申付侠︒一一領一疋と名つけ可申事︒
(寛永十一年十月二日盟後図久佳子永後藤家記録っ内村氏前
出論文
c )
(三)柏木貫三氏﹁一保一疋﹂(日本経泌氏僻典)
郷土の構造と桜能(一) 木村嘉五氏﹁一領一疋﹂(大百科辞典)内村政光氏﹁肥後の良村制度﹂三八1
回二
頁︒
同 氏 前 出 論 文
︒
(五)賓暦三年﹁藍北水段手永一切手鑑﹂一紙
(六)士席浪人ノ養子軽輩ヨリ参供者馬術稽古ノ儀比節余儀
ノ越有之以来詑中乗馬ハ勿論稽古共一切難叶侠
一一代御中小姓ノ子弟溺嘘以下並子弟士席浪人格馬術稽古
等ノ俗以来右同断
一寸志御中小姓ノ内何代相続マテ被仰付置侠面々ノ作毛以
来右同断一一保一疋子弟乗馬ノ供ハ天保元年及注置伎一迫侠庭代々相
続ノ一領一疋子弟家相続供者共此節食供ノ趣有之以来ノ
(囚
)
一六
五
商 業 と 経 済
儀親同然一一相心得侠様右之活一ご侠保左様被相心得比段可
此 通 達 侠 以 上 ( 天 保 五 年 ) 十 二 月
・ 朔 日 御 奉 行 中
(山田家記録)
(七)﹁綜昨自体﹂一三頁︒
(八)﹁制度考﹂八頁︒
(九)軽輩ノ子弟士席浪人ノ養子一一成致相続俣市々取扱ノ儀
直々‑一有之供一一付内意ノ越相連世供庭諸問等有之節以来軽
輩浪人ハ都而一一知一疋ノ失忠一一附侠様長右ノ内足軽段ノ者
浪人イタV
侠屯有之供
ρ ρ
足軽ノ末ニ附諸儲竿イHT
供探V
トノ旨ニ侠保左様役相心得一統例ノ趣ソ以夫々可有詔注侠
以 上
(天保六年)玉月廿五日
八 代
出羽
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利
﹁ 号 心
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八
勾 代
主
︐Aペーバ川パ
庄 屋
中
一六
六
何々一一制一疋以下ノ子弟ヲ士席浪人ノ養子‑一取組侠儀ハ以
来 難 叶 侠 保 比 段 宅 申 達 侠
‑ 以 上 別 紙 ノ 詔 御 注 ニ 相 成 申 供 ニ 付 則 及 御 話 連 申 侠 以 六月十一日J小田平之允 御 家 人 質 (
﹁ 制 度 考
﹂ 一 一
︑ 一 二 一 良 ) ( 一
O )
深水家﹁記録﹂四番︑誌路運︒
(一一)天保六年五月御郡代法問白書︑北悶丈照︒
(一二)寛永十五年六月二日﹁翠北郡津奈木村久木野村大野
村水俣村有馬御陳ニ相詰巾御地侍仰郡情人投日銀﹂水俣古
左街門知には地侍五人︑郡筒ニ
O
七人の姓名とその従軍日投とが翠げられてゐる︒﹁右者今度御陳二相討中御郡筒御池
侍来給扶持被下二付︑日数吟味仕︑無相違呑上巾候︒御米
請取切手は別妖二仕書上申所如件︒﹂
この御郡符仕活故に屈する人々で永世一的地ニ石五斗'を受け
た︒また後年芦北郡各千永手館山知に︑高一地五石の地士として
間半げられてゐるのは︑この地侍の後誌である
b
しい
︒
上
前に燭れ行問謂﹁保田窪どん﹂在その一部として有つ一地問﹂も軍事的目的を有する郷士の一種であった︒例へば
合 士 山 郡 ︑ 飽 田 郡 及 び 託 摩 郡 の 詰 所 に 置 か れ 穴 ﹁ 新 地 鉄 砲 者 ﹂ の 如 き は ︑ ﹁ 鍛 柏 町 山 一 品 之 者 所 々 よ り 被 召 抱 ﹂ た も の で あ り
一
i常に鈎砲を稽古し﹂﹁千日一刀を帯し事に臨んで袋刀を郁す﹂﹁式外武誠一一件千に任す﹂といふことであり︑資際﹁島
御出馬之節は被召淫﹂たのであるが主一三)︑その他﹁千日掃除頭の指揮を受︑城中又は公館庭中庭外の沼掃
這 迭
の 一
争 中
ゼ つ
と む
1
一ること在任としに︒経済的には一新地銭砲の者聞き渡り地﹂として﹁山林室原の地ーを開き取て
高
原山 一
品 拾
石 在
定 と
す ︒
一人二町三町又は五六町をも自ら耕して給﹂したと言はれる︒ b T 兵卒長たることの明かなも
の で
あ る
︒
立 ( の 他 明 か に 軍 事 的 目 的 ︑ を も っ た も の に ︑ 葦 北 郡 筒 と 八 代 郡 筒 と が あ る ︒ 葦 北 郡 の ﹁ 郡 一 筒 ﹂ ( こ ほ り づ
L )
は︑合
志︑飽目︑託陸諸郡の地筒よりも治不晩くれて設けられたもののゃうであるが︑元来島原の乱に際して﹁有馬御陣
}一相詰﹂め夫々武功のあった人々であり︑且つそれ以後も﹁平日銭砲告本業として武雲人々の得手に任す﹂喜一巴
といふことであるから︑これ亦明かに軍務を目的とし︑特に南方島津氏に封する備へであった︒このことは︑薩
摩大隅の所謂﹁外城京中﹂なる郷士の中でも︑査北に隣接してゐる出水郷士が他地方の外城衆中に較べて如何に多
といふ事賓と封照することによって一居分明である︒葦北郡筒の人数は﹁官職制度考﹂には
教 で
あ っ
た か
詮 一
吾 ︑
四百三十人とあり︑各手永毎の人数も記されてゐて︑ それらの教はその僅諸書に引用されてゐるが︑同書にも﹁寛
永以来人数増あり﹂と記されてゐるやうに︑時代により人数には多少の出入りがあったらしく註土台︑ 右の宮古
御郡筒の外に時々に新に召抱へられた新御郡筒たるものもあっ穴︒新に取立てられるには︑武萎特に砲術に秀で
ることや︑銃砲火薬等購入のための寸志を股約することない乙を要した︒月々の砲術調練に於て抜群の成績を示し
て登用された例があわ︑また﹁玉薬類寸士山御郡筒﹂といふのは後者の例である︒また砲術とは直接の関係が無くて
部士の構遣と機能(ご
J
、
七
商 業 と 経 済
一六
入
も︑多年の勤功によって仰付られた場合も稀にはあったらしい詮一吉
o郡筒には︑無給御郡筒や無給御郡筒格な
どもあったが︑宮古御郡筒にはなべて高地二石五斗が永代奥へられた︒
郡 筒
の 目
的 の
一 宇
は 宜
・ 務
で あ
る が
︑
一領一疋等に絞べると人数も極めて多く︑千日はその他様々の職務に就い
てゐた︒﹁官職制度考 L には﹁平日郡代の指揮を受けて郡中土木の用を勤む﹂と記されてゐるが︑郡筒の中から郡筒
小頭が任命された外公に定ったものとしては︑︐浸境御番所の﹁下御呑﹂在勤めた︒賢暦三年﹁芦北水俣手永一切手
鐙﹂に
一御番所四ケ所
内萱ケ所水俣川口 上呑人佐敷詰御侍衆
{ 一
会 問
下 呑
人 御
郡 筒
武 人
とあり︑類似の記載はそれ以後の手鑑類にも引続き見える︒その他様々の合所の下役人や村帳書や村々の庄屋や
際総代などをも勤め
1・奉行︑郡代︑呑代等通行の際は案内陸一一日護等の任にも営って居る︒八代郡筒も略同様の性質
を有つものであったが︑ 僅かに六十一人で︑国防上の重要さも︑
そ の
人 数
も ︑
速く芦北郡筒には及ばなかった
( 註
一 八
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