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日本近世初期における渡来朝鮮人の研究: 加賀藩を 中心に

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日本近世初期における渡来朝鮮人の研究: 加賀藩を 中心に

著者 鶴園 裕, 笠井 純一, 中野 節子, 片倉 穣

著者別表示 Tsuruzono Yutaka, Kasai Junichi, Nakano Setsuko, Katakura Minoru

雑誌名 平成2(1990)年度 科学研究費補助金 一般研究(B) 

研究成果報告書

ページ 200p.+ Appendix document 22p.

発行年 1991‑03‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/45832

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

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寛文十一年︵一六七一︶侍帳

年次が記されていない﹁慶長之侍帳﹂については︑慶長一九年末か

ら元和元年四月迄の間との推定がなされている︵4︶︒また﹁元和之

侍帳﹂は︑元和二年頃のものとされているが︵5︶︑それと鮒館する

点があり︑内容全体の検討が必要である︵6︶︒但し︑本報告には検

討が間に合わなかったので︑一応当時のものとして打ち込み︑分析

に際してこの点を考慮して使用した︒なお︑﹁慶長十年富山侍帳﹂ Ⅳ直賢の経歴と渡来朝鮮人

Iパソコン使用と史料

本研究に用いたパソコンの機種は︑NEC九八○一RX一二であ

る︒データベースは管理工学研究所の桐房風さ己を使用し︑デ

ータは表形式で打ち込んだ︒

データの基礎となった史料は﹃侍帳﹄であるが︑補助的に﹃加能

郷土辞彙﹄へ3﹀を利用した︒﹃侍帳﹄には次のような九種の侍帳が

収録されている︒

天正三年︵一五七五︶越前府中侍帳

慶長十年︵一六○五︶富山侍帳

慶長之侍帳

元和之侍帳

寛永四年︵一六二七︶侍帳

寛永十九年︵一六四二︶小松侍帳

寛文元年︵一六六一︶侍帳

寛文九年︵一六六九︶侍帳

﹁家伝﹂︵本報告書所収︶で明らかなように︑子供で捕虜となった

直賢は︑字喜多秀家から利長のもとに送られてきたが︑﹁慶長十年

富山侍帳﹂では︑詰小姓二三○石取となっている︒同帳記載総人数

は四一三名で︑小姓はそのうち一○七名︑大小姓︑児小姓︑詰小姓

の三種に分れる︒小姓が多いのは隠居中の特徴かと考えられるが︑

ただし詰小姓は六名︑知行高は一六二〜六○○石の幅があり︑直賢

は第五位である︒この当時︑三箇国小取次として利長に近侍してい と﹁寛永十九年小松侍帳﹂は︑各々二代藩主利長および三代利常が 隠居に際し︑主に藩臣の中より隠居地の富山および小松へ伴った者 の害上げであり︑﹁天正三年越前府中侍帳﹂は前田利家が越前府中 城主だった当時のものである︒

九種の侍帳は内容も記載の上でも一様ではなく︑また︑家臣全体

を害上げているものから︑﹁慶長之侍帳﹂のように人持組と馬廻組

のみを害上げているものもある︒これら侍帳の記述内容を考慮して︑

データの項目は︑藩士の氏名/侍帳の年/当時の知行高/知行高に

関わる備考/軍方役職/行政役職/軍役の割合/与力関連事項/組

名および関連事項/住所/備考︑とした︒今後︑﹃侍帳﹄以外の史

料でデータを追加してゆく計画なので︑この点を︑使用するデータ

ベースの選択および項目決定に当って考慮した︒

データの打ち込みと分析に際してのパソコン操作に当っては︑私

の所属する日本史学研究室の学部生︑広井豊氏が殆んどを引請けて

くれ︑分析に際しても助言をいただいた︒感謝の意を呈したい︒

Ⅱ知行高よりみた直賢の地位

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さて︑以上のような観点よりみて︑加賀藩における直賢の経歴が

異例なことは明らかであろう︒彼が利長の詰小姓として︑また近習

として奉公に入ったことは他の渡来朝鮮人と相違しない︒知行高も

二三○石︑また︑小姓頭迄達したものの︑馬廻に配されることなく︑

終生小姓等の側近の役務にとどまったのも︑彼に対する既成の渡来

朝鮮人観が働いていたように考えられる︒ただし直賢の場合は︑知

行は一○○○石に達しており︑それによって鉄砲頭にも任命されて

いる︒つまり︑軍事上の役務でもある程度の評価を受けていたこと

になる︒直賢の家臣内での地位を押し上げた要因である知行高の上

昇は︑彼が大坂の陣において戦功をたてたからに他ならない︒直賢

が他の渡来朝鮮人と異なった経歴をとりえたのはこの武功によって

であって︑それ故に︑文の世界では評価された渡来朝鮮人の枠を出

ることができたといえる︒ 形成されたものといえるであろう︒

表により彼らが給された知行高をみると︑上限が紀州藩の李梅溪

で︑五六才で上士三○○石に達した場合であり︑一般的に低禄であ

ったことが明らかである︒一般論としても︑江戸時代に医師や学者

として有能で高名を得た場合でも︑知行高はそれ程高くなかったこ

とは周知のことであるC武士階級では︑その知行高の多寡は︑家臣

内身分およびその軍方役職が最大の要因であり︑文の能力がその基

準を越えることはなかったのである︒小姓や側近にしても︑軍団内

部では実戦から最も遠い位置にあるため︑どの藩でも低禄者が多か

った︒従って︑渡来朝鮮人が従事した役職からみて︑高禄者がいな

いことはむしろ自然なことである︒

以上述べてきたことは︑具体的事実の分析であり︑改めてまとめ

る必要はないと思われるので︑次に簡単にお断りのみ記しておきた

い0

本報告では︑本来ならば加賀藩の直賢以外の渡来朝鮮人で︑特に

武家社会に加わった菅野氏等について分析するべきであった︒しか

し︑彼らについては﹃侍帳﹄からは︑﹁加賀藩における渡来朝鮮人

︵一覧︶﹂︵本報告書所収︶にある記述以外のものは全く見出せず︑触

れることができなかった︒彼らもまた︑特定の技能者が多いが︑他

藩の例としてはみられなかった︑餌指︑火矢関係の役職についてい

ることが注目される︒

なお︑本科研に参加の機会を得て︑今後︑加賀藩家臣団の形成を

考えてゆくための基礎を築かせてもらったことは︑私自身の大きな

収穫であった︒ここに謝意を呈しておきたい︒ 渡来朝鮮人について一般的にいえることは︑彼らの社会的役割が︑ 陶工を筆頭として細工者等特定の機能に偏っていたことである︒こ れに関して興味ひかれるのは︑漂流民として既に在日していた朝鮮 人宗歓が︑朝鮮の役に渡朝する際︑鍋島氏から﹁急須﹂等の職人を 連れ帰れとの意向を受けたことで︑この例は特定の技能を朝鮮に求 めた象徴的なものであろう︒日本社会の朝鮮社会への対応は︑この ような文化のあり方の差によって︑基本的には決定づけられていた といえよう︒これと同様の︑武家社会における現れ方が︑文の世界 と武の世界の差において現れていたといえると考える︒ むすびに

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