貿易の超過利潤の源泉について
著者 柴田 固弘
雑誌名 金沢大学経済論集 = The Economic Review of Kanazawa University
巻 18
ページ 43‑122
発行年 1981‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/2297/37233
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はじめに
私は︑これまでに︑貿易の超過利潤の実現するメカニズムはどのようなものであるか︑貿易の超過利潤の本質は
何であるかまたその源泉はどこにあるか︑諸国における貨幣の価値とその変動を規定するものは何であるか︑こう
いうことを順を追って考察してきたが︑前稿では︑それまでの成果のうえに立って︑富国による貧国の搾取とはど
2んな事態であるのか︑ということの考察を試みた︒
私は︑前稿で︑貿易による搾取の問題を考察しているさいに︑私にはどうしても納得しかねる議論に出会った︒
それは木下悦二氏の議論であって︑貿易の超過利潤という価値は流通過程でつくり出されたものであるのだから︑
搾取とはぜんぜん無関係であるというものである︒この主張には国際分業による労働節約は流通過程でつくり出さ
れるものであるという前提と労働節約は価値の源泉たりうるという前提とがあるようなのであるが︑果してそんな
ふうに考えられるものであろうか︒前稿でも異論を唱えてはおいたが︑本稿ではこの点に的をしぼって考えてみたふうに考えられるものであろう力込◎
︑◎
1V
仰柴田固弘﹁貿易利潤と一般的利潤率11箸侈品部門と生産価格﹂﹃金沢大学法文学部論集経済学篇﹄第一三号︒同﹁貿
易利潤と一般的利潤率︲11価値額をめぐるリカードとマルクス﹂同上誌第二三号︒同﹁貿易利潤と一般的利潤率ll吉
村正晴氏の見解について﹂同上誌第二四号︒同﹁貿易の超過利潤の本質と源泉と作用について﹂同上誌第二五号︒同﹁諸 貿易の超過利潤の源泉について
柴田固弘
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H木下氏は︑貿易の超過利潤という価値は流通過程で生産されたものであるという主張を一貫してもちつづけてお
られるようである.木下氏のこの主張には︑ふたつの前提があって︑その結論としてそれが出てきているもののょ
うに私には思われる︒ひとつの前提は︑労働の節約は価値の源泉たりうるというものであり︑もうひとつの前提は︑
国際分業による労働の節約は流通過程で生産されたものだというものである︒私は︑このふたつの前提のいずれも
納得することができない.したがってまた木下氏の主張も納得することができない︒本稿では木下氏の主張を真正
面に見据えたうえで︑これに向って私の見解を対置してみたいと思う︒
もっとも木下氏は︑その主張をいま私が整理したような直接的なかたちで提示しておられるわけではない︒した
がって私のような整理の仕方が妥当なものかどうかあらかじめ確認しておく必要があるであろう︒
木下氏の主張は︑著書﹃資本主義と外国貿易﹄および編著書﹃貿易論入門﹄を太く貫いているが︑それが直接に
表面に出てくる叙述としてつぎの三つの個所に注目することができるであろう︒
﹁これは一見瓊末なことのようにみえるが︑実は重大な理論問題を投げかけるのである︒元来︑一国の平均利潤
率はk#繩洲順唐仙と表現できよう︒そこで平均利潤率が上昇するとすれば︑分母が一定とすれば総剰余価値が大き 誌第一五号︒同﹁貿易の超恒場合l﹂同上誌第一七号︒②同﹁富国による貧国の搾取﹂ 国における貨幣の価値とその変動について﹂同上誌第二六号︒同﹁貿易と利潤率について﹂﹃金沢大学経済論集﹄第一○・二合併号︒同﹁貿易利潤と一般的利潤率ll木下悦二氏の見解について﹂同上誌第一四号︒同﹁貿易と利潤率にかんするノートー名和統一氏の見解について﹂同上誌同上号︒同﹁貿易の超過利潤実現のメカニズムについて﹂同上誌第一五号︒同﹁貿易の超過利潤と特別剰余価値﹂同上誌第一六号︒同﹁貿易の超過利潤と一般的利潤率11後進国の
﹁富国による貧国の搾取について﹂﹃金沢大学経済学部論集﹄創刊号︒
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雪7結論にもなりかねない︒
いま一つの見解は︑不等価交換という価値法則の侵害ではなく︑国際間の価値法則の作用にもとづいて形式的に
平等な国際交換が行われていても︑なお貿易を通じて追加的利潤は成立するという本書の立場である︒このような
見地では︑この追加的価値の本質を何に見出すのかを説明するのが重要な課題になるであろう︒
国際間の分業は︑社会的分業が一般的にそうであるように社会的労働節約の効果がある︒いま︑第314表によ くなることであり︑分子が一定とすれば総資本が小さくなることである︒のちに述べる輸入貿易による分母の価値減少をさしあたり考慮しないとすると︑輸出貿易によっては総資本に変化なしといえるのだから︑輸出貿易を通じての一国の平均利潤率上昇は一国の総剰余価値の増加によって起こったものであろう︒そうだとすると︑貿易という流通過程において価値の増加が生じたこととなり︑価値は生産過程で創出されるものであって︑流通過程で生まれるものではない︑という価値論の基本命題と矛盾しないだろうか︒いいかえれば︑貿易により得られる追加価値額の本質をいかに捉えるべきか︒この問題には二とおりの解答が考えられるが︑それは資本主義的世界市場に対する基本認識とかかわっている︒
一つの考え方は︑貿易による追加的利潤の本質は他国で創出された価値の無償移転I価値収奪である︑とみるの
である︒国際的不等価交換とみるこの立場は︑先進国による後進国の収奪こそ資本主義貿易の基本特徴であると定
式化されている︒この見解は歴史的事実の説明としては説得的で︑これに帝国主義による植民地収奪を重ね︑マル
クス派の人々の定説的世界市場観ができ上がっていた︒次章でも述べるように︑外国貿易による不等価交換の横行
は覆うことのできない事実である︒しかし︑上述の見解をもって資本主義の下での外国貿易の原理的姿態とするの
はかえって外国貿易の本質を見失うであろう︒後進国は貿易により一方的に窮乏化するというのでは︑外国貿易を
行なわぬのがもっとも望ましいということになろう︒また先進国間の輸出貿易からは追加的利潤は得られないとい
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って説明を試みよう︒A国の綿布をB国に輸出し︑B国での交換価値にしたがって小麦を手に入れたとする︒輸入
商品小麦の1単位はA国で生産すると社会的労働の五労働日を必要とした︒ところが1単位の綿布で3単位の小麦
を手に入れたのだから︑小麦1単位当たり児労働日しか支出していない︒蝿労働日だけ節約されたのである︒
社会的労働の節約とは︑ある社会が特定の使用価値を手に入れるために支出すべき労働量の節約を意味し︑財の
取得のための社会的費用の節約である︒新しい発明の場合には︑それが普及してしまえば評価されなくなるが︑そ
れまではこれを利用する生産者は個別的価値以上で売却して特別剰余価値を手に入れる︒これは一国内で起こる社
会的労働節約が価値法則の下で追加利潤の源泉としてあらわれるケースだが︑状況はさらに複雑になっているとは
いえ︑国際間においても根本は同じである︒国際分業にもとづく社会的労働の節約が︑価値法則の作用の下では︑
輸出の追加利潤と輸入品の低廉化となってあらわれるのである︒後進国においても︑輸出によるこの追加利潤獲得
の可能性のあることは︑第313表のL商品にみるように︑絶対的には生産力が低いにもかかわらず︑相対的に生
産力が高いかのようにあらわれるからである︒だがそれは国際交換において︑この国の3労働日を先進国の1労働
日と等しい価値を生むとして︑異なる量の労働を等価に交換するという犠牲を払ってのことである︒価値法則の下
では国々の国民的生産力の格差を貨幣価値の相対的相違でもって隠蔽してしまうことによって︑先進国も後進国も
世界市場での平等な商品交換者であるかのよ︑フな外観をとることとなる︒そして︑上述のように︑社会的労働の節
約がそのまま社会全体の利益になるのではなく︑価値法則の作用の下では資本の追加利潤の源泉になる関係こそが
重要である︒資本主義の下ではこの追加利潤を追求する個別資本の活動により︑いわば﹁見えざる手﹂に導かれて︑
国際貿易が発展し︑世界市場が形成されたのである︾︵引用文㈲︶
﹁社会的分業が一般的にそうであるように︑国際的分業もまた社会的労働の節約の効果をもっている︒国際間に
おいては絶対的にはいずれの分野においても他国に較べて生産力の高い国は︑いずれの生産物についてもより僅か
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な人間的労働しか要していないにもかかわらず︑生産力の劣った国との間に国際交換が行なわれ︑しかもこの分業
関係を通じて︑やはり社会的労働の節約という利益を享受しうるのである︒この問題は内容的にはすでに第二編に
おいて詳細に分析したところである︒だが視角をここに据えて︑もう一度整理しておくことは︑第三編におけるテ
ーマへの結節点を正しく捉える上に欠くことができない︒
リカァドオの設例についてみると︑ポルトガルのブドー酒一単位は︑本来八○労働量の体化物であるにもかかわ
らず︑これをイギリスにもたらすならば︑一二○労働量の価値をもつものとして通用し︑一・二単位のラシャと交
換することができる︒これはポルトガルの生産者にとっては一○八の価値において実現したことを意味するわけで
あるが︑もしポルトガルの社会がラシャを獲得するために投じた社会的費用I社会的労働という視角からするなら︑
自国産のラシャでは一単位九○労働量を必要とするのに︑外国貿易によって得たラシャは六六・六六労働量しか要
していないのである︒だから︑生産力の絶対的水準において相違があろうとも︑両国の生産力体系の間に不整合が
あるかぎり︑これに基づいて国際的分業が展開され︑社会的労働を節約することが可能なのである︒リカァドォの
比較生産費説が分業の理論だといわれるのは︑この側面からの評価なのである︒
しかしながら︑問題は国際的分業によって社会的労働の節約が可能であるというところにあるのではない︒重要
なのは︑資本主義の下では︑世界市場における価値法則の作用が国際間の貨幣価値の相対的相違のなかに国民的生
産力水準の相違を陰蔽し︑両国の生産力体系の不整合を生産物価格水準の絶対的相違に還元することによって︑国
2際的分業の社会的労働節約の効果を資本のための超過利潤の源泉にすりかえているという︑それの現象形態にある酉
﹁この一文の前半を後半から切り離して理解するならば︑一国の得るところは他国の失うところであって︑国際
間の価値の無償移転が指摘されているかのどとくである︒しかし後半と結びつけるならば︑第二編での展開にした ︵引用文︒︶
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がうことなしには正しく理解できないように思われる︒その上先進国と後進国との関係はきわめて構造的な不平等
であって取引上の不平等はそれの部分的反映にすぎない︒ここに混同してはならない第一の問題がある︒
しかもいま一つ混同してはならない問題がある︒マルクスの命題は上述のように﹁国際市場価値﹂からの背離に
関係している︒かかる背離によって一国が失なうところのものを他国が得るにしても︑そのことによって﹁国際市
場価値﹂形成過程にみた外国貿易のもつ社会的労働節約の効果が貿易当事国双方に働いている事実を否定するわけ
にはゆかない.資本主義のつくりあげた世界市場では︑後進国が先進国の経済的付属物となるという構造的関係と
もそれは必ずしも矛盾しないのである︒
だが外国貿易のもつこの社会的労働節約の効果はこれまであまりにも過小評価されてきた︒それは︑単にさきの
命題ばかりではなく︑価値は生産過程でつくり出されるものであって︑流通過程でつくり出されるものではないと
いう基礎的命題のゆえに︑外国貿易から得られる追加的剰余価値は後進国からの不等価交換による以外に源泉が存
3在するはずがないという全く機械的な連想が支配していたからである唾︵引用文日︶
木下氏は︑﹁貿易を通じて追加的利潤は成立するという本書の立場﹂︵引用文Hより︶︑つまり︑貿易の超過利
潤という価値は国際商品流通という流通過程で生産されたものであるという立場に立って︑貿易の超過利潤の本質
と源泉とを説明しておられるわけである︒
その説明はどういうふうになっているかというと︑﹃貿易論入門﹄の方では︑まず︑﹁国際間の分業は︑社会的
分業が一般的にそうであるように社会的労働節約の効果がある﹂︵引用文Hより︶としておいて︑木下氏の設例を
置いたうえで︑貿易相手国の交換比率で交換することができるケースを想定し︑その交換のために差し出す自国の
商品の生産に要する労働と︑その交換によって手に入れた外国の商品をかりに自国で生産したならば要するである
︑フ労働とを比較して︑前者が後者を下回ることを見て︑その下回る分だけ︑つまり︑﹁畷労働日だけが節約された﹂
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こういうわけで︑木下氏によれば︑国際分業による労働の節約は流通過程でつくり出されたものであり︑この流
通過程でつくり出された国際分業による労働節約が貿易の超過利潤の源泉になっているわけであるのだから︑貿易 ︵同上︶︑というふうに言われるわけである︒つまり︑輸出品の生産に要した労働と輸入品を国産したならば要するであろう労働とを比較して︑前者が後者を下回ることを見て︑その下回る分だけの労働が節約されるというふうに言われるわけである︒また︑﹃資本主義と外国貿易﹄の方ではどういうふうになっているかというと︑同じように︑﹁社会的分業が一般的にそうであるように︑国際的分業もまた社会的労働の節約の効果をもっている哩︵引用文口より︶としておいて︑リカードの設例によって︑イギリスの交換比率で交換することができるケースを想定し︑ポルトガルが﹁自国産のラシャでは一単位九○労働量を必要とするのに︑外国貿易によって得たラシャは六六・六六労働量しか要していない﹂︵同上︶のであるから︑そこに二三・三四労働量の節約がなされたのだというふうに言われるわけである︒いずれの場合にも﹁節約がなされた﹂ということがどういう意味で使用されているのかというと︑それは︑蝿労働日なり︑二三・三四労働量なりの労働の節約分は国際商品流通という流通過程で生産されたものである︑という意味で使用されているわけである︒これが木下氏の主張のひとつの前提である︒
もうひとつの前提の方はどうなっているのかというと︑それは︑﹁新しい発明の場合には︑それが普及してしま
えば評価されなくなるが︑それまではこれを利用する生産者は個別価値以上で売却して特別剰余価値を手に入れる︒
これは一国内で起こる社会的労働節約が価値法則の下で追加利潤の源泉としてあらわれるケース﹂︵引用文Hより︶
である︑と言われるのである︒つまり︑木下氏は︑労働の節約が特別剰余価値の源泉になっている︑と言われるわ
けである︒こうしておいて︑木下氏は︑﹁状況はさらに複雑になっているとはいえ︑国際間においても根本は同じ
である︾︵同上︶のだから︑﹁国際分業にもとづく社会的労働の節約﹂︵同上︶が貿易の超過利潤の源泉になってい
ると言われるわけである︒
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木下氏の言分はくだいて言えばこういうことである︑フか︒﹁私は︑貿易の超過利潤という価値は国際商品流通と
いう流通過程で生産されたものだ︑と主張する︒しかし︑こんなことを言い出すと︑それでは価値が流通過程で生
産されるということを︑王張することになるわけであるのだから︑労働価値説ではなくなってしまうのではないか︑
というふ︑7に首をかしげる向きもあるであろう︒しかし︑私は無暗やたらにこんなことを言い出したわけではない
のである︒生産過程を見てみると︑労働節約が価値の源泉になっているではないか︒流通過程でも同じことでそこ
に労働節約が起これば︑それが価値の源泉になるのである唾と︒
私は︑労働の節約が価値の源泉になるとか︑あるいは︑労働の節約が流通過程で起るとかという発想にはとても の超過利潤という価値は流通でつくり出された価値であるというふうに主張されることになるわけである︒
このようにして︑﹁外国貿易から得られる追加的剰余価値﹂︵引用文日より︶は︑﹁外国貿易のもつこの社会的労働
節約の効果﹂︵同上︶のなかにその﹁源泉が存在する﹂︵同上︶のであるから︑﹁価値は生産過程でつくり出されるも
のであって︑流通過程でつくり出されるものではないとい︑フ基礎的命題﹂︵同上︶と矛盾しない︑つまり︑﹁貿易と
いう流通過程において価値の増加が生じたこととな﹂︵引用文Hより︶っても︑それは︑﹁価値は生産過程で創出さ
れるものであって︑流通過程で生まれるものではない︑という価値論の基本命題と矛盾しない﹂︵同上︶︑と言われ
生産過程であれ流通過程であれ︑労働の節約というのは労働が節約される分だけ減少するということであり︑減
少する分だけ労働の存在がなくなってしまうということにほかならない︒労働が存在しなくなるということのなか
に労働を見つけようとしても労働が見付かるはずがない︒
それに︑木下氏は︑流通過程に労働が存在しているとでも考えておられるわけであろうか︒国際商品流通過程で るわけである︒
私は︑労働空
ついてゆけない︒
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ロ
スミスは︑﹃諸国民の富﹄第一編第一章﹁分業について﹂のなかでつぎのように述べている︒
﹁分業の効果は︑他のあらゆる技術や製造業においても︑このきわめて零細な製造業と同じである︑といっても︑
その多くのものは︑労働をこれほど多数に細分することも︑また作業をこれほどはなはだしく単純化することもで
きない︒にもかかわらず︑分業は︑それが導入されうるかぎり︑あらゆる技術における労働の生産諸力を比例的に フ︵一︑﹃ノ︒ しかし︑私がこんなふうにいくら声を大きくしてみても︑それは木下氏には聞こえないであろう︒なぜなら︑木下氏は︑価値にはふたとおりのものがあって︑労働を実体にしているものがひとつ︑労働を実体にしていないものがもうひとつ︑このようにふたとおりのものがあるのである︑というふ︑フに考えておられるようであるからである︒
そこで︑私は︑木下氏の主張はしばらくこれをかたわらに置いておいて︑スミスにとって︑また︑リカードにと
って︑国際分業による労働節約というものはそれぞれどのようなものであるのかということ︑そしてまた︑マルク
スにとって︑貿易の超過利潤の本質と源泉とはどのようなものであるのかということ︑こういうことを見てみたい︒
そのようにしてみれば︑木下氏の主張がどのよ霊フな意味をもっているのかということもまた自ら明らかになるであ も同じことでそこに労働が存在しているわけはない︒はじめからありもしないものがなくなるわけはないではない
か
。
仙木下悦二編﹃貿易論入門﹄有斐閣双書一二二三ページ︒
②木下悦二著﹃資本主義と外国貿易﹄有斐閣一九五一九六ページ︒
⑧同書二○四ぺlジ︒
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増進させる︒さまざまの職業や仕事がたがいに分化するのも︑この利益の結果として生じたもののように思われる︒
そのうえこの分化は︑一般に最高度の産業と文明とを享受している国々でもっともすすんでいるのであって︑社会
の未開状態での一人の作業は︑文明社会では一般に数人の作業になるからである︒あらゆる文明社会では︑農業者
は一般に農業者以外のなにものでもなく︑製造業者は製造業者以外のなにものでもない︒そのうえ︑ある一個の完
成品を生産するために必要な労働もまた︑ほとんどつねに多数の人手に分割されているのである︒亜麻や羊毛の生
産者から︑亜麻布の漂白工やつやだし工︑あるいは服地の染色工や仕上工にいたるまで︑どれほど多数のさまざま
の職業が亜麻布業や毛織物業の各部門に従事していることであろうかノ・実際のところ︑農業においては︑その性質
上︑製造業ほど労働を多数に細分する余地はないし︑またそれほど完全に仕事をたがいに分化する余地もない︒ふ
つう大工の職業がかじ屋のそれから分化しているように︑牧畜業者の仕事を穀物耕作者のそれからまったく分化さ
せてしまうことは不可能である︒紡績工と織布工とはほとんどつねに別人であるが︑すきで耕す者︑まぐわで耕す
者︑種をまく者︑収穫する者が同一人であるばあいはよくある︒そういうさまざまの部類の労働をおこなう機会は︑
年間のさまざまの季節のうつり変りとともにまわってくるものであるから︑一人の人が終始一貫してそのどれか一
つの仕事に従事するのは不可能なのである︒農業に従事する労働のさまざまの部門のすべてを︑完全にあますとこ
ろなく分化してしまうのは不可能だということが︑おそらく農業技術における労働の生産諸力の改善が︑なぜ諸製
造業のそれと必ずしもつねに歩調をあわせることができないか︑ということの根拠であろう︒実際のところ︑もっ
とも富裕な諸国民は︑農業においても製造業においても︑一般にそのすべての隣国民をしのいでいるが︑かれらは
前者よりも後者の優越性によってより多く他をひきはなすのがふつうである︒かれらの土地は︑一般に隣国よりも
よく耕作され︑またより多くの労働や費用がそれについやされているから︑面積やその自然的多産性の割合にはよ
り多く生産する︒しかし︑生産のこの優越性が労働や費用の割合よりもはるかに多いことはめったにない︒農業で
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スミスは︑まず︑分業と職業分化の関係をつぎのように述べている︒すなわち︑﹁分業は︑それが導入されうる
かぎり︑あらゆる技術における労働の生産諸力を比例的に増進させる︒さまざまの職業や仕事がたがいに分化する
のも︑この利益の結果として生じたもののように思われる唾と︒つまり︑分業の利益を追求する果てにその結果 は︑富国の労働が必ずしもつねに貧国のそれよりもはるかに生産的だとはかぎらぬし︑すくなくとも製造業でふつうそうであるほど︑はるかに生産的ではない︒それゆえ︑富国の穀物は︑その品質が同程度であれば︑必ずしもつねに貧国のそれよりも安価に市場へでまわるとはかぎらぬであろう︒フランスという国は︑すぐれて富裕で進歩しているにもかかわらず︑ポーランドの穀物は︑その品質が同程度であれば︑フランスのそれと同じように安価である︒たとえフランスは︑その富裕や進歩において︑おそらくイングランドに劣るであろうが︑フランスの穀物は︑穀産諸州ではイングランドの穀物とまったく同じように良質で︑たいていの年には価格もほぼ同じである︒とはいえ︑イングランドの穀産地は︑フランスのそれよりもよく耕作されており︑またフランスの穀産地は︑ポーランドのそれよりもはるかによく耕作されている︑という︒しかしながら︑貧国は︑その耕作では劣っていても︑なお穀物の安価さや品質においては︑ある程度まで富国に対抗できるが︑その諸製造業においては︑このような競争ができるなどと主張することはけっしてできぬし︑すくなくとも︑それらの製造業が富国の地味︑気候および位置に適しているばあいはそうである︒フランスの絹織物がイングランドのそれよりも優良で安価なのは︑すくなくとも原料絹糸の輸入に高税が課せられている現状では︑絹織物業がフランスのばあいほどイングランドの気候によく適していないからである︒しかし︑イングランドの金物や粗毛毛織物は︑フランスのそれらとはくらべものにならぬほどすぐれており︑品質が同程度であれば安価でもある︒ポーランドには︑それなしにはどのような国もよく存続できぬような︑少数の比較的素ぼくな家内製造業を除けば︑どのような種類の製造業もほとんどまったく存在しない︑
といわれている凶 1 11
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ここまでが前半である︒要するに︑スミスは︑分業が職業分化をつくりだし︑分業の導入の可能性の差異が農工
の生産性の不均等発展をつくりだすと説いているわけである︒
スミスは︑いまのところにつづけて︑﹁実際のところ︑もっとも富裕な諸国民は︑農業においても製造業におい
ても︑一般にそのすべての隣国民をしのいでいるが︑かれらは前者よりも後者の優越性によってより多く他をひき
はなすのがふつうである唾と言っている︒これは︑いわゆる比較生産費の構造そのものではあるまいか︒すなわ
ち︑スミスは絶対格差の存在と比較格差の存在とをはっきりと指摘している︒
スミスは︑比較生産費の構造をこのように置いたうえで︑その構造のもたらす結果として︑﹁富国の穀物は︑その
品質が同程度であれば︑必ずしもつねに貧国のそれよりも安価に市場へでまわるとはかぎらぬであろう段というふ
うに︑穀物価格が富国で高価︑貧国で低廉であることを述べており︑また︑その構造のもたらす結果として︑﹁貧国 として︑ついには職業の分化にまで至るというのであろう︒
つぎに︑スミスは︑いまのところで言っているように︑分業の利益は﹁それが導入されうるかぎり﹂比例的にも
たらされると見たうえで︑この観点から社会全体を見渡して見て︑産業部門がちがえば︑分業導入の可能性が異な
ることに着目し︑したがってまた産業部門がちがえば分業利益の享受の程度も比例的でないことを説明する︒すな
わち︑﹁実際のところ︑農業においては︑その性質上︑製造業ほど労働を多数に細分する余地はないし︑またそれほ
ど完全に仕事をたがいに分化する余地もない唾と︒つまり︑スミスは︑農工の生産性が不均等に発展することの
原因を分業導入の可能性の差異から説明しようとしているわけである︒すなわち︑﹁農業に従事する労働のさまざ
まの部門のすべてを︑完全にあますところなく分化してしまうのは不可能だということが︑おそらく農業技術にお
ける労働の生産諸力の改善が︑なぜ諸製造業のそれと必ずしもつねに歩調をあわせることができないか︑というこ
との根拠であろう哩と︒
− 5 5 −
スミスは︑﹃諸国民の富﹄第四編第一章のなかで外国貿易による利益をつぎのようなかたちで述べている︒
﹁金銀の輸入は︑一国民がその外国貿易からひきだす主要な利益ではないし︑まして唯一の利益ではない︒およ
そどのような地方間に外国貿易が営まれるにせよ︑これらの地方のすべては︑二つの別個の利益をそれからひきだ
す︒それは︑これらの地方の土地と労働の生産物のうち︑そこでは需要のない剰余部分を国外にもちだし︑それと
ひきかえに︑そこで需要のあるなにか他のものをもち帰る︒つまりそれは︑これらの地方の冗物を︑そこでの欲望
の一部を満足させ︑享楽を増加させうる他のなにものかと交換することによってこれらの冗物に価値をあたえる︒
そのおかげで︑国内市場が狭くても︑技術または製造業のある特定部門における分業の最高度の完成が阻止されな
くなる︒それは︑これらの地方の労働の生産物のどれほどの部分が国内消費を超過しようとも︑この部分に対する
いっそう広大な市場を開放することによって︑これらの地方が生産諸力を改善し︑また年々の生産物を最大限に増
加させ︑ひいては社会の実質的収入と富を増加させることを奨励する︒外国貿易は︑それが営まれるありとあらゆ
3る国に対して︑以上のように偉大で重要な任務を遂行するためにたえず従事しているのである凶
スミスは︑このように︑外国貿易によって﹁技術または製造業のある特定部門における分業の最高度の完成が阻
止されなくなるいと言う︒スミスは︑国際分業が行なわれ︑富国が製造業に専門化するならば︑その専門化するこ
とによって︑富国の製造業の内部における分業の導入可能性が拡大されることとなり︑その結果この製造業の生産
性が引き上げられることを外国貿易の利益のひとつとして指摘しているわけである︒それでは︑貧国が農業に専門 121言しているわけである︒ は︑その耕作では劣っていても︑なお穀物の安価さや品質においては︑このような競争ができるなどと主張することはけっしてできぬ﹂というふうに︑工業品の価格が貧国で高価︑富国で低廉であることを述べている︒つまり﹃スミスは穀物がより多くの労働を要する貧国からより少ない労働しか要しない富国へ向けて輸出されうることを明
− 5 6 −
スミスは︑このように︑外国貿易の利益として︑分業の完成を挙げているわけであるが︑これは︑あとで見るよ
うに︑いわゆる外国貿易の利益というのは︑分業の完成によってつくり出されるものであるということをここで指
摘しているというふうに受け取ることができると私は思う︒
スミスは﹃諸国民の富﹄第四編第二章のなかで外国貿易による利益をつぎのようなかたちで述べている︒
﹁ある特定の技術または製造業において︑国内の勤労の生産物に国内市場の独占権をあたえるということは︑ど
ういうふうにその資本を使用すべきかについてある程度まで私人を方向づけるわけであり︑しかもそうすることは︑
ほとんどすべてのばあい︑無用な規制になるか︑または有害な規制になるかのいずれかするにちがいない︒もし国
内の勤労の生産物が外国の勤労のそれと同じように安く国内市場にもたらされるなら︑この規制は明白に無用であ
る︒もしそれができないというのであれば︑それは一般に有害であるにちがいない︒一家の分別あるすべての主人
にとっての金言は︑買︑フよりもつくるほうが高くつくよ︑フなものを自分のところでつくろうなどとはけっしてしな
い︑ということである︒裁縫師は自分の靴を自分でつくろうとはせずに︑それを靴屋から買う︒靴屋は自分の衣服
を自分でつくろうとはせずに︑そのために裁縫師を使う︒農業者は靴も衣服もつくろうとはせずに︑そのためにこ
れらのさまざまの工匠を使う︒かれらのすべては︑自分たちの全勤労をあげて︑その隣人より多少とも有利な方面
に使用し︑自分たちの勤労の生産物の一部で︑またはこれと同じことであるが︑その生産物の価格の一部で︑自分 化する場合にはどのように考えているのであろうか︒かれが﹃諸国民の富﹄第一編第一章で指摘していたように︑農業は製造業にくらべて分業導入の可能性は小さいわけであるけれども︑しかし農業技術においても専門化による分業導入の可能性はある程度は拡大すると見ているわけであろうから︑かれは︑富国の製造業が専門化によって生産性を引き上げる程度にくらべると小さい程度ではあるが︑貧国の農業の生産性もまた引き上げられるものと見ているわけであろう︒
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ところで︑貿易によって労働が節約されるということ︑あるいは︑貿易によって商品の数量が増加するというこ
とはどういうことなのであろうか︒貿易つまり交換行為自体のなかにもともと労働が存在しているわけはないので
あるから︑貿易が労働の存在を減少させるということもありえないはずであるし︑また︑交換行為が商品を生産す
るわけではないのであるから︑貿易が商品数量を増加させるということもありえないはずである︒言うまでもなく︑
商品の生産は生産過程で行なわれているわけであるし︑同じことであるが︑労働の支出も生産過程で行なわれてい
るわけである︒したがって︑貿易による労働節約とか︑貿易による商品数量の増加とかというのはどういうことな
のかというと︑それは︑貿易の行なわれているときの生産の態勢と︑貿易の行なわれていないときの生産の態勢と
を比較してみると︑そこには何かちがいがあるにちがいないのであって︑そのちがいのために︑同じ商品を生産す 4たちが必要とする他のあらゆるものを購入するほうが自分たちの利益だ︑ということを承知しているのである酉
スミスは︑このように︑特定の技術または製造業に国内市場の独占権をあたえることは︑無用であるかさもなけ
れば有害であると主張するのである︒かれは︑この場合に︑﹁買うよりもつくるほうが高くつくようなものを自分
のところでつくろうなどとはけっしてしない﹂とい︑うふ︑フに説明している︒この説明はどういうことかというと︑
交換のために差し出した自国の商品を生産するに要した自国の労働と︑その交換によって取得した外国の商品をか
りに自国で生産するとするならば要するであろう自国の労働とを比較してみると︑後者が前者を上回っているので
あるから︑その上回る分だけは貿易によって労働が節約されているわけで︑このようにして貿易による利益が生ず
るのであるという理くつを述べているわけである︒この理くつは︑国際交換によって取得した商品の数量と︑国内
交換によって取得されうるであろう商品の数量とを比較してみると︑前者が後者を上回っているのであるから︑そ
の上回る分だけは貿易によって商品数量が増加しているわけで︑このようにして貿易による利益が生ずるのである︑
ということでもある︒
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それでは︑国際分業が行なわれると︑どこの生産過程でどのように生産性が上昇するのであろうか︒
この問題は︑スミスが第一編第一章で述べていることと第四編第二章で述べていることとのあいだにはどのよう
な関係があるのであろうか︑という問題でもある︒
というのは︑スミスは︑貿易利益の説明のために︑﹁裁縫師﹂︑﹁靴屋﹂︑﹁農業者﹂︑つまり﹁さまざまの工匠﹂と
﹁その隣人﹂を引き合いに出してきているが︑このような説明の仕方をしているところを見ると︑かれは︑重商主
義政策を撤廃して自由貿易にしたならば︑どのような国際分業構造が出現すると見ているかというと︑かれは異な
る職業のあいだの関係では絶対生産費差の存在による分業利益を見ていると思われるのであるから︑それは絶対生
産費差の存在する国際分業構造なのであろう︒スミスは︑このように︑﹃諸国民の富﹄第四編第二章では絶対生産 あり︑ブ︵一︑﹃ノ0
こういうわけであるから︑貿易による労働の節約とか︑貿易による商品数量の増加とかというのは何であるのか
というと︑それは︑生産過程でなされる労働の支出が国際分業による生産性の引き上げによって減少するというこ
と︑ないし︑生産過程で生産される商品の数量が国際分業による生産性の引き上げによって増加するということ︑
こういうことが起るその結果つくり出された労働の節約分または商品数量の増加分が貿易によってつまり一定の交
換比率で商品交換が行なわれることに媒介されて貿易当事国に分配されるその分配分にほかならない︑ということ るのであっても︑前者による方が後者によるよりも︑労働の支出が減少している︑ないし︑生産される商品の数量が増加している︑つまり︑生産性が上昇している︑ということでなければならない︒それでは︑そのちがいというのは何であろうか︒それは︑貿易の行なわれているときの生産の態勢には国際分業が行なわれているということであり︑これに対して︑貿易の行なわれていないときの生産の態勢には国際分業が行なわれていないということであ
である︒
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費差による貿易利益の観点から重商主義政策を批判しているわけであるが︑すでに見たように︑第一編第一章では︑
当時の現実として︑諸国民のあいだに比較生産費差の構造の存在することをかれは指摘してもいるわけであって︑
こうして見ると︑スミスにあって︑第一編第一章の叙述と第四編第二章の叙述とはどのような関係にあるものとし
て受け取ればよいのだろうか︑という問題が出てくるわけである︒
私の思うには︑かれは出発点としては︑第一編で述べている比較生産費差の存在する構造のうえに立っていて︑
そこで重商主義政策が撤廃されて自由貿易となったならば︑富国と貧国はそれぞれ比較優位に導かれて︑国際分業
の態勢のなかに次第に入りこんでいくのであるが︑そうすると︑かれが第四編第一章で言うように︑専門化による
分業導入の可能性が拡大し︑これによる生産性の上昇が︑富国の製造業と貧国の農業とにそれぞれ起り︑その結果
として︑第四編第二章の絶対生産費差の構造が出現するというふうに予想したのであろう︒
そうであれば︑スミスにとっての国際分業による労働節約というものはどこでつくり出されるものであるのかと
いうことは自ら明らかになる︒それは︑富国の製造業の生産過程と貧国の農業の生産過程とでそれぞれつくり出さ
れるものである︒つまり︑専門化によって分業導入の可能性が拡大し︑それによって富国の製造業と貧国の農業と
でそれぞれ生産性が引き上げられて︑その結果そこに労働の節約が生ずるわけである︒
こういうふうに見てくると︑﹃諸国民の富﹄第四編の第一章で指摘されている貿易利益と第二章で指摘されてい
る貿易利益との関係はといえば︑前者はつくり出される利益であり︑これに対して︑後者は前者が分配されたもの
にほかならない︑という関係であることがわかるわけである︒
いま見てきたように︑スミスの現実認識と重商主義批判の見地とを総合してみると︑かれは︑比較生産費差の国
際分業構造から出発しても自由貿易を行なうならば絶対生産費差の国際分業構造に到達しうると見ていることにな
るわけであるが︑そのようにかれが見うる根拠は︑専門化したならば︑分業導入の可能性の拡大による生産性の上
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したがって︑.スミスのような把握の仕方に対しては︑専門化した場合に︑富国の農業部門における分業導入の可
能性の拡大による生産性の上昇程度がかれが暗黙のうちに前提しているような工合に︑富国の農業の絶対的生産性
に追いつきこれを追い越すようなわけにいかないとなるとどうだ︑という疑問が生ずるわけであるし︑また︑そう
なると諸国民の間には国境があるではないか︑﹁さまざまの工匠﹂と﹁その隣人﹂の関係のようなわけにはいかない
のではないか︑という疑問も生ずるわけである︒
①アダム・スミス著大内兵衛・松川七郎訳﹃諸国民の富﹄岩波書店七一七二ぺlジ︒
スミスは︑﹃国富論草稿﹄︵水田洋訳︑日本評論社︑五七五八ページ︒︶のなかでも同様の趣旨のことをつぎのように述 昇が起るということ︑そして貧国の農業におけるその程度は少なくとも︑富国の農業の絶対的生産性に追いつきこれを若干でも追い越す程度のものであると暗黙のうちに前提していることによるものであろう︒また︑そのように︑貧国の農業が富国の農業に追いつき追い越すことができると前提すればこそ︑諸国民は︑たがいに︑﹁さまざまの工匠﹂と﹁その隣人﹂のようにつき合えるであろう︑つまりある国の一日の労働と他の国の一日の労働が等しいものであるという関係をもちつづけながら︑つき合えるであろう︑というふうにスミスは観念することができたわけ151
︽︲矛辛︵︾フ︵/︑﹁ノ◎
﹁分業は︑この些細な製造業におけるとおなじ結果を︑他のすべての職業においてもあたえ︑同様にしてそれぞれの職
業の生産物の莫大な増加をもたらす︒すべての富祐な社会においては︑農民は農民以外の何物でもないし︑製造業者は
製造業者以外の何物でもない︒ある一つの完成品を生産するに必要な労働は︑無数の人々のあいだに分割されている︒
亜麻の耕作者︑羊毛の飼育者から︑織物の染色工や仕立工あるいは亜麻の漂白工︑熨斗附工にいたるまで︑いかに多く
の︑それぞれちがった人々が︑亜麻布や毛織物の製造の各部門に︑使用されていることだろうか︒たしかに︑農業にお
いては︑その性質上︑製造業で一般におこなわれるように︑多数の労働に細分割することも︑一つの仕事から他のそれ べている︒
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を完全に分離することも︑ゆるされない︒牧畜者の仕事と穀作農業者の仕事とを︑大工と鍛冶屋の仕事がふつうにわけ
られているように︑完全に分離することは︑不可能である︒紡績工は織布工とは︑つねに別個の人間であるが︑型耕者︑
杷耕者︑播種者および収穫者は︑大ていの場合同一人である︒彼等のいろいろの労働の機会は︑一年の季節のうつりか
わりにつれてくりかえすのであるから︑一人の人間がこれらのさまざまな仕事のどれか一つだけに専念することは︑不
可能になる︒しかしながら︑農業についても︑よく耕作されている国々では︑打穀者や溝掘人は一年中彼等の仕事がで
きるので︑彼等の仕事はしばしば︑他のすべてのものと区別され分離された︑それだけで完全な職業と︑みなされてい
る︒それは︑梨製造工やその他すべての農具製造工︑大鎌や刈取鎌の鍛工︑車大工と二輪荷車や四輪荷馬車製造工の場
合と︑おなじである︒しかし︑このように︑農業に使用されている労働の︑すべてのさまざまな部門を︑完全かつ充分
に分離しえないということが︑農業が製造業の進歩と歩調をあわせるのを︑つねにさまたげるにちがいない︒もっとも
富祐な国民は︑農業においても︑製造業におけると同様に︑そのすべての隣接諸国民にまさっているのがふつうである︒
そして農業の方が大きな価値をもっていることもあろうが︑ふつうには︑農業の優越よりも製造業の優越によって︑き
わだつであろう︒フランスの小麦は︑少くとも平年作の場合には︑イングランドの小麦と品質がほとんど同様であり︑
小麦生産地ではイングランドのそれよりもやや安価である︒しかしながら︑イングランドの玩具︑時計︑刃物︑戸の錠や
蝶つがい︑バックルやボタンは︑正確︑堅牢︑完全なことにおいて︑断じてフランス製品の追随をゆるさない︒そして︑
品質がおなじならば︑安くさえある︺
②吉村正晴︑山田孝士の両氏︵﹃講座国際経済﹄︑有斐閣︑第三巻八六八七ぺlジ︒︶は︑スミスの時代の状態は諸国民の生
産諸力の発展程度に一般的差等が生じていない状態であったが︑これに対して︑リカードの時代の状態は﹁諸国民の生
産諸力の発展に一般的に差等が生じるようになった状態﹂であった︑したがって︑スミスの時代の貿易は絶対生産費差
によるものであるが︑これに対して︑リカードの時代の貿易は比較生産費差によるものである︑と見ておられるようで
ある︒両氏は﹃国富論﹄第一編を典拠にしていることを注記しておられるが︑私が引用しているあの個所について︑両
氏はどのような見方をしておられるのであろうか︒私には不可解としか言いようがない︒あの個所によるかぎりは︑ス
ミスの時代の状態はすでに諸国民の生産諸力の発展程度に一般的差等が生じるようになった状態であり︑したがってま
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日いま見たように︑スミスは︑国際分業によって専門化した場合︑富国の製造業と貧国の農業とにそれぞれ分業導
入の可能性が拡大することから︑そこに労働節約が生ずるとしているわけであるが︑これに対して︑リヵードは︑
スミスの見たこの分業導入の可能性の拡大ということを考慮しないケースを取り扱い︑その場合でも国際分業によ
って労働節約の生ずることを見ている︒
リカードは︑﹃経済学および課税の原理﹄第七章のなかでつぎのように展開している︒
﹁一国における諸商品の相対価値を左右するのと同じ規則が︑二つあるいはそれ以上の国々のあいだで交換され ③アダム・スミス前垂側同書四一三ページ︒⑤絶対生産費差による貿易の場合にも︑不等労働量の交換が行なわれる事態のでてくることを充分考慮しなければならな
いと思うが︑その場合には︑諸国民の関係は︑一国内部における簡単労働と複雑労働︑熟練労働と不熟練労働との関係
になぞらえて捉えることができるように思う︒ たスミスはかれの時代において比較生産費差による貿易の行なわれうることを明瞭に指摘しているわけである︒
木下悦二氏︵﹃資本主義と外国貿易﹄二七二九ぺlジ︒︶も︑吉村・山田両氏と同じように︑そして両氏よりも
いっそう明確なかたちで︑﹃アダム・スミスの世界﹄と﹃リヵァドォの世界﹄の差異について述べておられる︒木下氏に
よれば︑スミスの時代の状態は絶対生産費差による貿易だけが存在する状態であって比較生産費差による貿易は存在し
ない状態であり︑したがってまたスミスの理論認識も絶対生産費差による貿易利益論である︑というふうなことになっ
ている︒私の思うには︑木下氏は︑スミスがかれの時代の状態は比較生産費差による貿易の存在する状態であると明瞭
に認識している事実の存在していることを完全に見落しておられる︒
アダム・スミス前掲書四一三ぺlジ︒
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仮にポルトガルが他の諸国との通商関係をまったくもたないとすれば︑この国は︑その資本と勤労の大部分をブ
ドウ酒の生産に使用し︑それをもって自国用のために他の諸国の服地や鉄器類を購買するかわりに︑その資本の一
部分をそれらの商品の製造に向けることを余儀なくされ︑したがっておそらく量ばかりでなく質においても劣った 同一の国では︑利潤は︑一般的にいって︑つねに同一の水準にあるか︑あるいは資本の使用の安全度および快適
度の多少におうじて異なるにすぎない︒異なった国々のあいだではそうはゆかない︒ョIクシャで使用される資本
の利潤が︑ロンドンで使用される資本のそれを超過するようなことがあるならば︑資本はすみやかにロンドンか
らョ−クシャヘ移動して︑利潤の平等が遂げられるであろう︒しかし︑仮に資本と人口との増加のためにイギリス
の土地の生産率が減少する結果として︑賃銀が上昇し︑利潤が低下するとしても︑資本と人口とがイギリスから︑
オランダ︑またはスペイン︑またはロシアのような︑利潤がより高いかもしれない国へ必然的に移動するというこ 幸︿唖フ︵︾0
とにはならないであろう︒ る諸商品の相対価値を左右するわけではない︒
完全な自由貿易制度のもとでは︑各国は当然その資本と労働を自国にとってもっとも有利となるような用途に向
ける︒この個別的利益の追求は︑全体の普遍的利益とみごとに結びついている︒勤勉を刺激し︑工夫力に報い︑ま
た自然によって賦与された特殊の諸能力をもっとも有効に使用することによって︑それは労働をもっとも有効にか
つもっとも経済的に配分する︑一方︑諸生産物の全般的数量を増加させることによって︑それは全般の利益を普及
させ︑そして利益と交通という一つの共通の紐帯によって︑文明世界をつうじて諸国民の普遍的社会を結成する︒
ブドウ酒はフランスとポルトガルで醸造されるべきであり︑穀物はアメリカとポーランドで栽培されるべきであり︑
そして鉄器類およびその他の財貨はイギリスで製造されるべきである︑といったことを決定するのは︑この原理で
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ものを取得することになるであろう︒
この国がイギリスの服地とひきかえに与えるであろうブドウ酒の分量は︑仮にこれら両商品が共にイギリスで製
造されるか︑あるいは共にポルトガルで製造されるならばそ蕾7であろうように︑おのおのの生産に向けられる労働
のそれぞれの分量によって︑決定されるのではない︒
イギリスは︑服地を生産するのに一年間一○○人の労働を要し︑またもしもブドウ酒を醸造しようと試みるなら
同一時間に一二○人の労働を要するかもしれない︑そういった事情のもとにあるとしよう︒それゆえに︑イギリス
は︑ブドウ酒を輸入し︑それを服地の輸出によって購買するのがその利益であることを知るであろう︒
ポルトガルでブドウ酒を醸造するには︑一年間八○人の労働を要するにすぎず︑また同国で服地を生産するには︑
同一時間に九○人の労働を要するかもしれない︒それゆえに︑その国にとっては服地とひきかえにブドウ酒を輸出
するのが有利であろう︒この交換は︑ポルトガルによって輸入される商品が︑そこではイギリスにおけるよりも少
ない労働を用いて生産されうるにもかかわらず︑なおおこなわれうるであろう︒ポルトガルは服地を九○人の労働
を用いて製造することができるにもかかわらず︑それを生産するのに一○○人の労働を要する国からそれを輸入す
るであろう︑なぜならば︑その国にとっては︑その資本の一部分をブドウの樹の栽培から服地の製造へ転換するこ
とによって生産しうるよりも︑イギリスからひきかえにより多量の服地を取得するであろうブドウ酒の生産にその
資本を使用するほうが︑むしろ有利だからである︒
このようにして︑イギリスは︑八○人の労働の生産物にたいして︑一○○人の労働の生産物を与えるであろう︒
このような交換は同一国の個人間では起こりえないであろう︒一○○人のイギリス人の労働が︑八○人のイギリス
人のそれにたいして与えられることはありえない︑しかし一○○人のイギリス人の労働の生産物は︑八○人のポル
トガル人︑六○人のロシア人︑または一二○人の東インド人の労働の生産物にたいして与えられうるであろう︒こ
−65−
このような事情のもとでは︑ブドウ酒と服地とが共にポルトガルでつくられること︑それゆえに︑服地の製作に
使用されるイギリスの資本と労働がその目的のためにポルトガルへ移動させられることが︑イギリースの資本家およ
び両国の消費者にとって︑うたがいもなく有利であろう︒その場合には︑これらの商品の相対価値は︑一方がョI
クシャの生産物であり︑他方がロンドンの生産物である場合と同じ原理によって︑左右されるであろう︑またその
他のあらゆる場合にも︑もしも資本が︑もっとも有利に使用されうる国々にむかって自由に流動するならば︑利潤
率の差異はありえず︑そして諸商品が売却されるはずの種々の市場までそれらを運搬するのに要する追加労働量以
外には︑諸商品の実質価格すなわち労働価格の差異はありえない︒ ※明される︒ の点での単一国と多数国とのあいだの差異は︑資本がより有利な用途を求めて一国から他国へ移動することの困難と︑資本がつねに同一国内で一つの地方から他の地方へ変転するその活発さとを考慮することによって︑容易に説
※こうしてみると︑機械と熟練について非常にいちじるしい利点をもち︑それゆえに︑その隣国よりもはるかに少ない
労働を用いて諸商品を製造しうる国は︑たとえ︑そこから穀物を輸入する国よりも︑自国の土地がより肥沃であり︑ま
た穀物がより少ない労働を用いて栽培されうるとしても︑そのような商品の代償として︑自国の消費に要する穀物の一
部分を輸入することがある︑ということは明らかであろう︒二人の人が共に靴と帽子をつくることができ︑そして一方
の人はこれら両方の業務において他方の人よりもすぐれているが︑しかし帽子をつくることにおいては︑彼は彼の競争
者に五分の一すなわち二○パーセントだけすぐれているにすぎず︑そして靴をつくることにおいては︑三分の一すなわ
ち三三パーセントだけ彼にすぐれている︑としよう︑l︹この場合には︑︺すぐれたほうの人がもっぱら靴の製作に
u従事し︑そして劣ったほうの人が帽子の製作に従事するのが︑両者の利益ではないであろうか?
①A・スミスの仕立屋と靴屋の例︑︹三の巴三島z貫き︒め.︺国家三.g︐房︹○四コ.§︾切巴..︺く○一.げっ金画を参
昭心
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しかしながら︑経験の示すところでは︑資本がその所有者の直接管理下にないときの︑資本の想像上ないし実際
上の不安は︑各人が︑彼の出生しまた親戚たちのいる国を去って︑その固定化したすべての習慣をつけたままで︑
異国の政府と新しい法律とに自らを託することにたいしてもっている自然の嫌悪と相まって︑資本の流出を阻止す
るものである︒私はこれらの感情が弱められるのをみるのは残念であるが︑それが大抵の財産家に︑彼らの富にと
ってのより有利な用途を諸外国に求めるよりも︑むしろ彼らの自国での低い利潤率で満足する気持を起こさせるの
リカードは︑諸国民間では︑資本と労働とが自由に移動しないために利潤率の差異は解消しないままに存続する
と言うのである︒つまり︑かれはこういうふうに言うことによって︑諸国民間における生産性の格差は解消するも
のではない︑ということが言いたいわけであろう︒
先進国の方で︑資本蓄積が進んだ結果として穀物の価値が上昇するために︑利潤率が低下すると︑そこから資本
と労働とが︑まだ穀物の価値がそれほど高い水準に達していない後進国へ移動していくとしてみよう︒そうすると
後進国の方でもやがて︑穀物に対する需要増加をまかなうために︑穀物価値は上昇することになるであろう︒それ
だから諸国民のあいだで資本と労働とが自由に移動するかぎり︑諸国民間の利潤率の格差は平準化してしまうであ
フ︵︾︑可ノ︒ このように︑リカードは︑スミスがとっているふたつの態度︑つまり︑専門化による分業導入の可能性拡大の要
因を重視する態度と諸国民が一国内部における異なる職業のあいだの関係とおなじようにつき合えるとする態度す
なわちそこに国境が存在していることを度外視する態度とをいずれも拒否するという取り扱いをしているわけであ
る
。
111である︺
また︑製造業の方では︑先進国から後進国へ移動してくる資本は先進国の高い技術をたずさえて後進国へやって