西魏の統治領域区分についての補論 Su pp leme nt t o t he T err ito ria l G ov ern me nt S ys tem s of W es ter n W ei
前 島 佳 孝
要旨
政権がその統治領域をどのように区分し︑どの地域・都市を重要視していたのかは︑政治・経済・国際関係の状況と密接に関わるものであり︑相互に検討を深めていくことができる︒その際には地図を描き起こすことが重要である︒西魏政権については︑かつて毛漢光氏が府兵制に基づく地域区分がなされていたという主張に基づいて地図を作成されたが︑本稿はその所説に若干の批判を加えるものである︒主な問題点として︑仮説のベースとなった根本史料たる﹃周書﹄巻一六・末尾部分の信憑性が︑史料批判の結果︑大いに揺らいでいること︑地域区分が地理的に不自然なこと︑検討対象者に付与する属性の項目に問題があること︑判断材料とするデータの採否に恣意的な例が見られること︑検討対象者が少ないことなどが挙げられる︒
キーワード西魏︑領域区分︑柱国︑府兵制︑毛漢光
緒 言
政権がその統治領域をどのように区分して︑どの地域・都市を重要拠点としていたのか︒中国の歴代王朝では︑州・郡・県といった行政機構が階層的に設置され︑これらは明瞭な地域区分といえる︒しかし︑南北朝時代ではい
くつかの州を跨ぐ都督区とも称すべき大きな単位での地域区分も恒常的に行われていた︒制度とは異なる形での地
域区分がなされることは珍しいことではなく︑より実態に則したものであったと考えられる︒同じ等級の行政区画
であっても︑それぞれが備えた政権運営上での重要性が均等でないこともまた当然である︒戸口数に基づいて上・
中・下にランク分けされもするが︑これも指標の一つに過ぎない︒地域区分のありようや︑重要性を備える地域・
都市の分布は︑その当時の政治・経済・国際関係等の状況を反映して変化するものである︒そこで逆に︑地域区分
や重要拠点の設定︑特殊な事情を抱えた地域などを見ることで︑国内外の情勢︑政権の戦略などを窺い知ることも
できるであろう︒その際に︑地図を活用することは大きな武器になるに違いない︒
より卑近な例を挙げるならば︑企業が規模を拡大するにあたって︑本社・支社・営業所のネットワークをどのよ
うな形で構築し︑支社・営業所ごとに管轄する地域をどのように区分し︑どの地域・拠点を特に重視し︑人材を配
置するか︑といったことであり︑そこから逆に︑ネットワークと人材の配置などから︑その企業が置かれた状況や
戦略をなにかしら読み取ることができるのではないか︑といったことである︒方法論としてまだまだ熟したものと
するにはほど遠いが︑端的にいえば︑図に描き起こすことによって︑それまで気付いていなかったものが見えてく
西魏の統治領域区分についての補論
ることがあるだろう︑ということに行き着く︒
上記のような展望のもとで︑先に筆者は自身の専
門としてきた六世紀後半期の中国を対象として﹁西
魏・北周・隋初における領域統治体制の諸相﹂︵以下︑
﹁先稿﹂と表記︶を公刊し ︶1
︵︑そこでは西魏時代につい
て一枚の図を示した︵図一︶︒
ところで︑筆者に先だって︑西魏の統治領域が軍
事的にどのように分割されていたか︑すなわち︑一
人の柱国と二人の大将軍によって構成される六つの
グループがそれぞれどの地域を管轄していたかを示
す地図を毛漢光氏が描かれている ︶2
︵︒毛氏の図は詳密
であるがゆえに縮小掲載すると明瞭さを欠くところ
があったため︑毛氏の意図を損なわないと考える範
囲で情報を若干整理し︑あわせて本稿での説明上必
要な情報を加えたものが図二である︵なお︑図のタイ
トルは筆者が仮に附したものである︶︒毛氏の図の特徴
は︑精密な地域区分の境界線を備えていることで︑
出所) 前島佳孝「西魏・北周・隋初における領域統治体制の諸相」(『唐代史研究』第15号・
2012年)所掲の図を一部修訂。
図一 西魏中期以降の地域ブロックと宇文泰が重視した二地域
これは統治領域の区分・把握という視点︑そし
て図示するという点で先稿の主旨とも合致する
ものである︒ごく大雑把な概念図に過ぎない筆
者の図一と比べれば︑一瞥して情報量の点で図
一が大いに劣ることを認めざるをえない︒
毛氏の図は︑後に吉岡真氏がいわゆる講座も ので用いられ ︶3
︵︑また︑論文全体に対しては加藤
国安氏によって﹁日中台の研究を踏まえた大作
で︑府兵制研究上重要な報告である ︶4
︵﹂と高く評
価されている︒したがって︑この高い評価を受
けている先駆的業績については︑先稿でもなに
かしら触れるべきところではあったのだが︑控
えることにした︒それは︑筆者としては毛氏の
述べられた府兵制の全体像についてはともかく︑
少なくともそこで描かれた図二については疑問
点があって採ることができないと考えたからで
あった︒
出所) 毛漢光「西魏府兵史論」(『中国中古政治史論』聯経出版・1990年)所掲の図をもとに、
整理・加筆したもの。
図二 西魏六柱国による軍府管轄区分
西魏の統治領域区分についての補論
本稿は先稿の補遺として︑図二の問題点と検討上留意すべき点を挙げることを主眼とする︒広汎な読者を対象と
した講座にも取り上げられ︑高評価を得ているからこそ︑些かの疑問点・問題点を内包していることを示すことに
は意味があると思われる︒ただし︑筆者は府兵制と呼称される軍事制度について充分な定見をいまだ持ち合わせる
に至っていない︒そこで︑指摘は主に政治・人事・地理の観点からのものに限られることをお断りしておく︒
第一章 図 の 概 要
毛氏の説に基づく図二と先稿で筆者が描き起こした図一と比較することにも意味があると思われるので︑筆者の図についても概要を述べておくことにする︒
図一﹁西魏中期以降の地域ブロックと宇文泰が重視した二地域﹂には二つの視点からの要素が詰め込まれている︒
すなわち︑﹁西魏中期以降の地域ブロック﹂と﹁西魏後期に宇文泰個人が重視した二地域﹂である︒
まず︑﹁西魏中期以降の地域ブロック﹂という視点から描き込まれたのは︑東南に延びる荊州地域︵現在の河南省
西南部にあたる︶︑長安と華州を含む関中の京畿地区︵都の長安がある雍州と宇文泰が本拠地を置いた華州を含む地域として
この語を用いる︶︑秦州を中心とする隴西地域の三つの楕円である︒これは︑東西両魏の抗争が膠着しておおよその
前線が定まった大統六年︵五四〇︶から︑西魏が漢川・四川に進出し︑統治領域を劇的に拡大させ始める大統一七年
︵五五一︶頃までの時期において︑西魏政権はその統治領域をおおよそこのように区分して把握していたであろう︑
ということを示したものである︒
中央の京畿地区は都の所在で︑政治・行政・軍事の中核であるという点で他の地域と比べれば特殊ではあるが︑
国家・政権が存在すればたいてい形成される地域︑いうなれば首都圏であるので︑ここで特に指摘することはない ︶5
︵︒
議論の対象となるのは東西の二地域である︒当時の地方行政区画としては︑南北朝ともに州・郡・県の三等級が
あり︑さらに州を跨ぐ形で軍事的な都督某州諸軍事が置かれているのが一般的であった︒西魏では︑そこに行政と
軍事双方の権限をあわせて付与して治めさせる特殊な地域があり︑それが尚書省の出先機関である行台を常置して
都督と並置させた︵しばしば兼任となる︶荊州と︑地域の軍事・行政をあわせて統括する大都督が置かれた秦州隴西
であった︒
東南の荊州地域は対東魏戦線の正面ではないものの︑東魏と梁の二勢力に接する︑すなわち三国が衝突する地域
であり︑軍事・外交においてより現場での速やかな判断が求められる地域であったため︑他よりも裁量権の大きい
地域ブロックが設定されたと考えられる︒西の秦州隴西方面については︑広大な後背地をひとまとめにして統治を
委ね︑中央行政府の事務負担を軽減させる狙いがあったと思われる︒
以上のように︑西魏の中期以降︑西暦では五四〇年代︑西魏政権は一般の州刺史や都督某州諸軍事よりも裁量権
の大きい地域ブロックを荊州と隴西に設定し︑統治地域を区分して把握していたと考えられるのである︒
次に︑もう一つの﹁西魏後期に宇文泰個人が重視した二地域﹂という視点から描き込んだのが︑京畿地区から東
西に延びた二本の矢印である︒矢印の延びる先は︑西は先程から出ている秦州︑東は黄河の渡渉ポイントであり︑
洛陽や太原への交通路を扼す蒲坂である︒西魏で実権を掌握していた宇文泰には︑頼りになる親族が少なかった︒
兄たちは既に亡くなっており︵宇文泰は末子である︶︑自身の子たちもまだ幼く︑伯叔父や従兄弟などは存在を確認で
西魏の統治領域区分についての補論
きない︒そのような状況下で︑地域を統治させ軍を率いさせる手駒として使うことができた親族は︑甥である宇文
導・宇文護の兄弟の二人だけであった ︶6
︵︒宇文導は宇文泰の出征時には安心して京畿地区の留守を任せられる能力を
備えた極めて貴重な人材であり︑大統一三年︵五四七︶に至って宇文泰はその宇文導を秦州隴西に配置した︒一方︑
宇文護は北周時代に専権し︑武帝に誅殺されたことで悪評が高いが︑北周前半期に宇文氏の中心となって政権の屋
台骨を支えたことも事実である︒その宇文護が配置されたのが東の蒲坂であった︒
ここから読み取れることは︑宇文泰は蒲坂―京畿―秦州を結ぶラインを西魏政権の背骨と見なしていたというこ
とであり︑二つしかなかった貴重な駒で秦州と蒲坂を抑えたのである︒これは︑元氏の政権から宇文氏の政権への
移行を意識した動きであると考えられ︑当図の第二の視角でこれらの地域を重視した主体を﹁西魏政権﹂ではなく
﹁宇文泰個人﹂としたのもこのためである︒
さて︑図一を例として︑地域区分や重要拠点︑人事を地図に表すことで︑内外の状況をより容易に推測できるで
あろうことを示した︒それでは毛氏はいかなる検討の結果︑図二のような地域︵管区︶区分線を描かれたのであろ
うか︒基本史料は﹃周書﹄巻一六の末尾︑﹁史臣曰く﹂のさらに後に附されている︑いわゆる﹁八柱国・十二大将
軍﹂についての記述であり︵以下︑﹁史料A﹂と表記する︶︑そこに﹃資治通鑑﹄巻一六三・梁簡文帝大宝元年︵五五〇︶
末のやや詳しい記事︵以下︑﹁史料B﹂と表記する︶を挿入して示している︒西魏北周の府兵制や門閥の形成を述べる
根本史料としてよく知られたものであるが︑引用しておこう︒
史料A︵﹃周書﹄巻一六・末尾部分︶
初︑魏孝莊帝︑以爾朱榮有翊戴之功︑拜榮柱國大將軍︑位在丞相上︒榮敗後︑此官遂廢︒大統三年︑魏文帝
復以太祖建中興之業︑始命爲之︒其後功參佐命︑望實倶重者︑亦居此職︒自大統十六年以前︑任者凡有八人︒
太祖位總百揆︑督中外軍︒魏廣陵王欣︑元氏懿戚︑從容禁闈而已︒此外六人︑各督二大將軍︑分掌禁旅︑當爪
牙禦侮之寄︒當時榮盛︑莫與爲比︒故今之稱門閥者︑咸推八柱國家云︒今幷十二大將軍録之於左︒
使持節・太尉・柱國大將軍・大都督・尚書左僕射・隴右行臺・少師・隴西郡開國公李虎︑
使持節・太傅・柱國大將軍・大宗師・大司徒・廣陵王元欣︑
使持節・太保・柱國大將軍・大都督・大宗伯・趙郡開國公李弼︑
使持節・柱國大將軍・大都督・大司馬・河内郡開國公獨孤信︑
使持節・柱國大將軍・大都督・大司寇・南陽郡開國公趙貴︑
使持節・柱國大將軍・大都督・大司空・常山郡開國公于謹︑
使持節・柱國大將軍・大都督・少傅・彭城郡開國公侯莫陳崇︒
右與太祖爲八柱國︒︹後竝改封︑此竝太祖時爵︒︺ 使持節・大將軍・大都督・少保・廣平王元贊︑
使持節・大將軍・大都督・淮安王元育︑
使持節・大將軍・大都督・齊王元廓︑
使持節・大將軍・大都督・秦七州諸軍事・秦州刺史・章武郡開國公・宇文導︑
西魏の統治領域区分についての補論
使持節・大將軍・大都督・平原郡開國公・侯莫陳順︑
使持節・大將軍・大都督・雍七州諸軍事・雍州刺史・高陽郡開國公・達奚武︑
使持節・大將軍・大都督・陽平公・李遠︑
使持節・大將軍・大都督・范陽郡開國公・豆盧寧︑
使持節・大將軍・大都督・化政郡開國公・宇文貴︑
使持節・大將軍・大都督・荊州諸軍事・荊州刺史・博陵郡開國公・賀蘭祥︑
使持節・大將軍・大都督・陳留郡開國公・楊忠︑
使持節・大將軍・大都督・岐州諸軍事・岐州刺史・武威郡開國公・王雄︒
右十二大將軍︑又各統開府二人︒毎一開府領一軍兵︑是爲二十四軍︒自大統十六年以前︑十二大將軍外︑
念賢及王思政亦作大將軍︒然賢作牧隴右︑思政出鎭河南︑竝不在領兵之限︒此後功臣︑位至柱國及大將軍
者衆矣︑咸是散秩︑無所統御︒六柱國・十二大將軍之後︑有以位次嗣掌其事者︑而徳望素在諸公之下︑不
得預於此列︒︵二七一〜三頁︶
史料B︵﹃資治通鑑﹄巻一六三・梁簡文帝大宝元年末︶
泰始籍民之才力者爲府兵︑身租庸調︑一切蠲之︑以農隙講閲戰陳︑馬畜糧備︑六家供之︒合爲百府︑毎府一郎
將主之︑分屬二十四軍︒泰任總百揆︑督中外諸軍︒欣以宗室宿望︑從容禁闥而已︒餘六人各督二大將軍︑凡十
二大將軍︑毎大將軍各統開府二人︑開府各領一軍︒︵五〇五八〜九頁︶
これらの記事で述べられていることを整理すると︑
(1) 功績を重ねて大統一六年︵五五〇︶までに柱国大将軍︵以下︑﹁柱国﹂と略す︶に至った者が八名おり︑そのう
ち宰相宇文泰と宗室代表の元欣を除いた六名がそれぞれ二名の大将軍を率いて軍を分掌していた︒
(2) 六名の柱国は李虎・李弼・独孤信・趙貴・于謹・侯莫陳崇︒
(3) 一二名の大将軍は元賛・元育・元廓・宇文導・侯莫陳順・達奚武・李遠・豆盧寧・宇文貴・賀蘭祥・楊忠・
王雄︒
(4) 一二名の大将軍はそれぞれ二名の開府を統べ︑開府が率いる軍を一単位として︑合計で二十四軍が構成され
ていた︒
(5) この十二大将軍以前に大将軍に就任していた念賢と王思政は︑地方︵隴右と河南︶に出鎮していたため扱いが
異なる︒
(6) 彼ら以降に柱国や大将軍に至った者は多かったが︑肩書きのみで軍を率いる職務はなかった︒
(7) 六柱国・十二大将軍の子孫で職務を継いだ者たちは徳望が劣るため︑この列には加えられなかった︒︵以上︑
史料A︶(8) 軍府が百あり︑それぞれ郎将がつかさどり︑二十四軍に分属していた︒︵史料B︶
となる︒毛氏は図を描くにあたっては
(1)〜
(3)を論拠とし︑六名の柱国と一二名の大将軍の対応関係を定めること︑さ
らに六つのグループが管轄した地域を定めることを試みられたわけである︵以下︑﹁八柱国﹂の語と並行して︑軍を分掌
したとされる六名を指して﹁六柱国﹂の語も適宜使用する︶︒
西魏の統治領域区分についての補論
人員の組合せや管区を当てはめていくにあたっては︑あらかじめ設定されていた西魏政権への参加状況に基づく
分類︵宇文泰親信・魏帝追隨部隊・賀抜岳余部など︶での人間関係や︑各人の列伝から拾い上げられた官歴や軍事行動
などの経歴が判断材料として用いられ︑その中では刺史への就任が重んじられている︒
例えば︑達奚武は大統一六年︵五五〇︶当時︑雍七州諸軍事・雍州刺史であり︵史料A︶︑没後には同州︵もと華州︶
刺史を追贈されている︒賀蘭祥は︑渭南県で出土した造像記に賀蘭氏の名が複数見られるので︑この地域と深い繋
がりがあったのだろう︒于謹は関中北部の僑州や華州・雍州の刺史を務めた︒于謹と賀蘭祥はともに﹁宇文泰親信﹂
であり︑北周武成元年︵五五九︶に賀蘭祥が吐谷渾を討った際にも于謹が中央から遙領しているなど関係が深い︑と
いったような事項を積み上げていくわけである︒
その結果︑府兵制が構築されたと推定される大統一六年頃の状況として︑左記のようなグループ分けと︑それぞ れの管区が示された ︶7
︵︒
①于謹
―
達奚武・賀蘭祥―
渭河下游︑雍華一帯 ②独孤信―
宇文導・元廓―
渭河上游︑雍州一帯 ③李虎―
元賛・元育―
京城及長安付近 ④侯莫陳崇―
李遠・侯莫陳順―
涇水流域原・涇・寧・雍 ⑤趙貴―
王雄・宇文貴―
渭河中游岐・雍至秦嶺 ⑥李弼―
豆盧寧・楊忠―
洛水上中下游僑州・北華・雍州 最高級将帥たちによる地域分掌となれば︑単に軍事制度にとどまらず︑政治的な領域統治とも密接に関連するであろう︒したがって︑毛氏が示された図は筆者の先稿の趣旨に合致するものである︒そして筆者の図一と比べてみ
れば︑河川や都市の多寡はともかくとして︑図が示そうとする情報量には一瞥して大きな差があった︒情報量の多
寡は説得力の強弱に繋がる︒毛氏の図を踏まえてさらに検討を深めることも考えられるだろう︒しかし︑先稿執筆
時︑筆者はそこに疑問点︑問題点があると感じたので︑取り上げることを回避するに至った︒それではいかなる問
題点があるのか︑章を改めて指摘していくこととする︒
第二章 毛氏図作成上の疑問点・問題点
﹃周書﹄巻一六・末尾部分について₁改めて毛氏の検討の前提を確認しておくと︑まず六名の柱国がそれぞれ二名の大将軍を率いて軍︵ないし軍府︶を
分掌していたことは︑根本史料である史料A・Bに明記されてはいる︒しかしながら︑一名の柱国と二名の大将軍
との組合せを具体的に示す史料は確認されていない ︶8
︵︒加えて︑一名の柱国と二名の大将軍からなる各グループが︑
それぞれ管区をもって軍府を分掌していたことについては︑毛氏の推測︑仮説であり︑これを具体的に示す史料は
やはり確認されていない︒
そこでまず︑史料Aについてである︒毛氏の論著が公刊されて以降︑史料Aに対する史料批判が進んだ︒筆者が
史料Aを含めた﹃周書﹄全般における李虎に関する記述に対して︑唐王朝の奉勅撰という編纂背景から来る操作・
曲筆が多分に盛り込まれていることを指摘し ︶9
︵︑さらに山下将司氏が﹁八柱国﹂という概念が西魏・北周当時にはま
西魏の統治領域区分についての補論
だ存在せず︑唐初に創造されたものであると論じた ︶10
︵︒これらの検討を承けて︑平田陽一郎氏などは﹃周書﹄巻一六・
末尾部分について︑﹁西魏期の実態を伝える史料としての信憑性は︑ほぼ失われたといって良い ︶11
︵﹂と断じており︑現
在では無批判に﹁八︵六︶柱国・十二大将軍﹂という語を使うことが躊躇われる状況になっている︒
実際︑史料Aを各人の列伝と突き合わせてみると︑細かな違いを見出すことは難しくない︒例えば︑史料Aで都
督某州諸軍事・某州刺史を帯びているのは宇文導・達奚武・賀蘭祥・王雄の四名であるが︑本伝と一致するといえ
るのは宇文導の秦州のみで︑賀蘭祥の荊州は大統一四年︵五四八︶に就任したものの︑翌年には楊忠が後任として赴
任しており︑王雄の岐州は大統年間としか絞れず時期不明で︑大将軍就任時には行同州刺史事となっており︑達奚
武の雍州は本伝には見えない ︶12
︵︒また︑廃帝二年︵五五三︶に漢川を平定して凱旋した達奚武に柱国を授けようという
意見が出た際に︑達奚武が﹁元子孝より先に柱国になるわけにはいかない﹂と固辞したことがあるのだが ︶13
︵︑この段
階で柱国に擬された元子孝が大将軍の列に並んでいないことは不自然であろう︒
とはいえ︑かなりの点で一致することもまた確かであり︑柱国に叙された時期︑国公に封じられた時期などを基
準とすることで︑八柱国クラス︑十二大将軍クラス︑その下︑というおおよその階層区分があったことも認められ
る ︶14
︵︒個々人のキャリアを羅列することと︑制度の大枠を説明することとでは主旨が異なり︑ミスが生じる可能性も
違ってくるであろう︒そこで︑史料Aの史料的信頼性については限界があることを認めた上で︑仮に六柱国と十二
大将軍による軍府統括体制が存在したとして︑検討を進めることとする︒
₂地域区分︑管轄の妥当性 毛氏の所説に基づく図二の性格を確認しておこう︒図二が示しているのは︑大統一六年︵五五〇︶に西魏の府兵制
が概ね整った時期の状況とされている︒ただし︑これがたまたま大統一六年という特定時期の状況を示したもので
あるのか︑ある程度の長期にわたって固定されていたものなのかで意味が大きく変わってくる︒というのも︑仮に
前者であった場合︑人事異動が定期的に行われていれば︑人はどんどん入れ替わっていくことになるので︑地図一
枚だけでは﹁ある一瞬の状況﹂としかいえなくなってしまい︑そこから統治体制や戦略︑人事構想などを読み取る
ことが極めて難しくなるからである︒
その点︑毛氏は西魏政権成立以来の人物と地域との関係︵特に州刺史就任︶を重視しており︑また﹁北周の武帝が
原州に巡幸した際に侯莫陳崇が扈従したのは︑当地が侯莫陳崇の管区であったから︵二四〇頁︶﹂といった例を挙げ
ていることからも︑後者︑すなわちある程度の長期にわたって固定されていたものとして描かれたことは明らかで
ある︒これは毛氏の検討が︑西魏では特定の将帥個人︑それも多くが元来この地域と縁のない外来の者たちと地域
との繋がりを強めさせる政策が施行された︑という前提でなされたということでもある︒将帥に限らず文武官と地
域との繋がりが強まれば︑たちどころに癒着が釀成されずにはおかないのが中国社会の通例である︒それは政権中
枢ないし宰相宇文泰にとっては歓迎できることではないはずで︑それを助長するような政策を採るだろうか︑とい
う根本的な疑問が湧く︒しかし︑将帥たちとの関係を維持する上では︑旨味を与えて折り合いを付けざるをえなか
った︑というような筋書は認めることもできよう︒
それでは︑この図二に表された地域区分が長期にわたって固定されたものとして話を進めることとし︑その地域
西魏の統治領域区分についての補論
区分のありようについて見てみよう︒一見してどのような印象を懐かれるであろうか︒ざっくりまとめれば︑軍府
が集中していたであろう京畿地区を中心として︑放射状に管区が延びたものとなっており︑特に西から北西にかけ
て延びた⑤趙貴管区・②独孤信管区・④侯莫陳崇管区の三つの細長い管区が並行している様子が印象的である︒こ
れらは軍府の管区であるから︑それぞれ軍事行政単位としての側面を持っていることになるわけだが︑このように
細長い形をしていては︑行政の効率が下がるように思え︑不自然さを拭えない︒似たような地域区分として︑日本
の律令制時代の五畿七道が思い起こされる︒もとより細長い日本列島を中央畿内から延びた官道単位に区分したた
め︑細長い区画が並行することとなったのだが︑これは基本的に按察使などの中央から地方に派遣される使者が赴
く際の単位であって ︶15
︵︑一つの島としてまとまりのある九州=西海道以外に︑平素から道単位での行政機構が常設さ
れていたことはないようである︒
この時代の軍事行政単位といえば︑都督某州諸軍事の管轄区︑いわゆる都督区がより総合的な地方軍事行政単位
であり︑軍府の統括も各地の都督に委ねれば︑軍府管轄の管区を重ねて敷く必要もない︒これについては毛氏は軍
府府兵を中央軍としており︑軍府を地方ではなく中央政府の管轄とするために︑都督区とは別の枠組みを必要とし
たということで︑ひとまず筋は通る︒ただしその場合︑管轄地域を推定する際に州刺史就任を重要視する点には若
干の齟齬があるように思われる︒それはさておくとして︑都督区は固定されるものではなく︑情勢に応じて大小変
化するものではあるが︑一般に当時の地域的なまとまりを反映し︑ことさら都との繋がりを強調することはない︒
それと異なり︑毛氏が各管区をこのように細長い形にしたのは︑多くの将帥が京畿地区と地方の両方で州刺史を務
めるなどの活動をしたことから︑管区を﹁○○地域と雍州・華州﹂という形でとらえざるをえなかったためであろ
う︒しかし︑周辺に延びる②独孤信管区・④侯莫陳崇管区・⑤趙貴管区・⑥李弼管区がそれぞれ京畿地区をも含む
のであれば︵図では⑤趙貴管区のみ京畿地区を含んでいないが︑本文では含めている︶︑都の長安のみを管轄する管区︵③李
虎︶を置くのはともかく︑京畿地区専従の管区︵①于謹︶を設ける意味は薄いのではなかろうか︒
また︑各管区を無理にひと続きにする必要はなかったのではなかろうか︒細部にこだわることになるが︑特に秦
州隴西の②独孤信管区が京畿地区から延びている点に不自然さを感じる︒涇水沿いの④侯莫陳崇管区と渭水沿いの
⑤趙貴管区との間に︑京畿地区と隴西とを結ぶ回廊を設定しうるだけの主要交通路は存在しないと考えられるから
である ︶16
︵︒
西南の仇池・宕昌地区が岐州から延びる趙貴管区に含まれる点にも違和感がある︒毛氏は﹃周書﹄巻一〇・宇文
導伝に見える﹁秦南等十五州諸軍事﹂を﹁秦州とその南の諸州﹂と解釈しており︵二三四頁︶︑それはそれで正鵠を
射ていると考えられるが ︶17
︵︑それでいながら秦州南方の仇池・宕昌地区を宇文導が属する秦州隴西の②独孤信管区で
はなく︑⑤趙貴管区に含めているのは不可解である︒
全体像に戻ると︑仇池・宕昌地区は西魏政権の統治が行き届いていたとはいいがたく︑宕昌羌の梁仚定など叛服
常ない状態であったが︑これに対して東南の荊州地域は︑大統四年︵五三八︶末以降は時に東魏の侵攻を受けつつ
も︑西魏の統治領域として落ち着きを見せている︒軍府の分布が関中・隴西に集中していたとすることに異議はな
いが︑不安定な仇池・宕昌地区まで軍府分布地域に含めるのであれば︑安定していた荊州方面を外す必然性は薄い
ように思われる︒
西魏の統治領域区分についての補論
₃職名 もともと柱国は政権主宰者に与えられる名誉称号であり︑大将軍は大司馬とともに二大と括られる最高位の軍職
であったが︑これが大統一四〜一五年︵五四八〜九︶にかけての官制改革によって︑不特定多数に与えられる将帥の
位階を示すものとなった︒いうなれば︑散官化したのである ︶18
︵︒史料A
(6)にもあるように︑柱国や大将軍に叙されれ
ば自動的に軍府を統括するようになるわけではない︒つまり︑位階・階級なのである︒何かしらの職務を帯びる際
にはそれを示す別の肩書き︑すなわち職名が必要である︒したがって︑管区をもって軍府を統括するという職務が
あるならば︑それを示す職名︵それも地域名称を含むもの︶があってしかるべきなのだが︑柱国・大将軍についてそれ
は確認されていない︒
₄採択データの有効性 柱国・大将軍の各人の経歴から判断材料の取捨選択がなされているが︑大統一六年︵五五〇︶の前後で管区となっ
た地域との密接な関わりが示されるのは︑秦州隴西の独孤信と宇文導くらいのもので︑それ以外は﹁大統年間の初
めに当該地の州刺史に任じられた︒それ以後は特になし﹂といった感じのものが多い︒顕著なのは趙貴で︑大統初
めに⑤管区の中心地である岐州刺史を拝したものの赴任せず︑兼任していた宇文泰の大丞相府長史としての活動が
主であった ︶19
︵︒岐州刺史以後︑他の地域に赴任したこともないので︵出征したことは数多くある︶︑他の地域にあてがう
ことも難しい︒
李虎が西魏宗室元氏との距離が近く︑③京城及長安付近を管轄していたとする判断材料として︑大統四年︵五三
八︶︑いわゆる河橋の戦いのあとに東魏兵の捕虜たちが長安で起こした反乱の際に︑李虎らが皇太子を助けて渭北に
逃れさせたことが挙げられる︒東魏軍との河橋の戦いに至る出兵は︑宇文泰が率いるのみならず︑西魏文帝までも
出御する大規模なものであり︑捕虜たちの反乱は︑多くの将兵が東征に駆り出されて関中地域の守備が手薄になっ
た隙を突いて起きたものであった︒この時の李虎の動きは︑﹃周書﹄巻二・文帝紀下・大統四年八月条に︑
開府李虎・念賢等爲後軍︑遇︵獨孤︶信等退︑即與俱還︒︵中略︶大軍之東伐也︑關中留守兵少︑而前後所虜東
魏士卒︑皆散在民間︑乃謀爲亂︒及李虎等至長安︑計無所出︑乃與公卿輔魏太子出次渭北︒︵二六頁︶
とあるとおりで︑もともと後軍として参加して東進していたところ︑主戦場であった河橋から退いてきた独孤信ら
と遭遇したので︑さっさと引き返してきたのである︒そして関中に戻ったところ反乱が起きており︑東魏との戦闘
に参加していなかった李虎の部隊が︑河橋での戦闘で疲弊した他の友軍に率先して反乱軍への対処に立ちまわった
のは当然のことであった︵しかし効果的な動きはできなかった︶︒これらの史料から︑李虎と元氏が近い関係にあった
と判断することはできないし︑また他に李虎と元氏との関係を窺わせる史料も確認されていない ︶20
︵︒
また︑毛氏は李虎の配下に元賛と元育を据えた上で︑彼らが軍府の兵のみならず︑禁衛軍を率いていたとする︒
根拠となる史料として引かれたのは︑﹃周書﹄巻二・文帝紀下・廃帝三年正月条の︑
自元烈誅︑魏帝有怨言︒魏淮安王育・廣平王贊等垂泣諫之︑帝不聽︒於是太祖與公卿定議︑廢帝︑尊立齊王廓︑
西魏の統治領域区分についての補論
是爲恭帝︒︵三五頁︶
という文章で︑近臣の元烈を誅殺されたことで宇文泰に怨み言を発した廃帝に対し︑元育と元賛が泣いて諌めたか
らだという︒廃帝を諌めたことと禁衛を率いたことがどう繋がるのか︑筆者には理解できない︒
大統一七年︵五五一︶から翌廃帝元年︵五五二︶にかけて︑西魏軍は南朝梁の漢川地域に侵攻した︒達奚武が散関 を経て漢中南鄭を取り︑王雄が子午道を経て上津・魏興︵東梁州︶を取るというものであった ︶21
︵︒この出征についてそ
れぞれ管区からの検討がなされており︑﹁︵達奚武が属した管区の︶雍州は南鄭に頗る近い﹂︵二三〇頁︶︑﹁︵王雄が属した
管区の︶岐州は子午谷から東梁州に入るのに最も便利である﹂︵二四一頁︶と説明されている︒地図を確認すれば一目
瞭然であるが︑子午道へは雍州からなら直接入れるし︑散関に近いのは岐州である︒侵攻時の利便性を強調するの
であれば︑達奚武と王雄の管区は逆でなければならない︒
宇文貴は岐州刺史の経験をもって趙貴管区に配属されているが︑夏州の出身であり︑かつ夏州刺史の経験もある ︶22
︵︒
地域との繋がりを重視する毛氏にしてみれば格好の事例であり︑夏州方面を管区とする李弼の配下に組み込まれて
しかるべきと思われるが︑特に言及はない︒
₅人物の属性 毛氏論文では柱国・大将軍に限らず︑西魏政権に所属した多くの文武官僚について︑宇文泰親信・賀抜勝集団・
侯莫陳悦余部・魏帝禁衛軍・魏帝追隨部隊・賀抜岳余部の六つの項目に分類され︑人物の配置を推定する際に︑同
じ項目に属したものは︑その後も活動を共にすることが多いという見込みが用いられている︒一般論としてその傾
向はあったと思われるので︑方針そのものは首肯できる︒問題は︑個々人の分類が妥当であるかである︒
まず気になったのは宇文泰親信という項目の扱いについてである︒毛氏はこの項目を﹁宇文泰の宗室・姻戚︑及
び最も親信の部将﹂と定義する︵一七六頁︶︒宗室・姻戚はともかくとして︑﹁親信﹂について辞書を引いてみると︑
﹁親密で信頼すること︑ないしその人﹂ということになる ︶23
︵︒しかし︑親密さや信頼の度合いを数値化することはでき
ず︑これでは何を基準に親信とするに足るのか判断ができない︒なにより他の項目が宇文泰政権に参加する以前の
所属を分類の基準にしているので︑これらと並べることができない︒仮に﹁孝武帝の西遷に従って入関し︑西魏政
権に参加したのちは宇文泰から絶大な信頼をうけた﹂という人物がいた場合︑彼を宇文泰親信とすべきなのか︑魏
帝追隨部隊とすべきなのか︑判断に窮する︒そして︑﹁宇文泰から信任された﹂といった表現は︑史料上頻出するの
である︒
実際に毛氏が﹁宇文泰から特に信頼された﹂という条件でこの項目に分類したのは︑于謹ただ一人であるが︑﹁于
謹と賀蘭祥はともに親信であった﹂ことを理由に同一グループに含めているので︑影響は小さくない︵賀蘭祥は宇文
泰の姉の子で姻戚枠︶︒于謹が宇文泰から絶大な信頼をうけたとすることに異議はないが︑他の数多くの﹁信頼され
た﹂と記録された人々との差はどのように見出されたのであろうか︒宇文泰は関西軍閥を掌握する直前︑賀抜岳か
ら派遣されて夏州刺史を務めており︑于謹はその下で長史を務めていた︒毛氏はその関係も強調しているが︑そう
であれば︑同じく夏州で録事を務めた長孫倹や︑記室参軍兼府主簿を務めた申徽︑さらには宇文泰が夏州に赴任す
る以前から配下に加わっていた蔡祐︵官は帳下親信︶なども親信に含めるべきであろう ︶24
︵︒現状では︑于謹を宗室・姻
西魏の統治領域区分についての補論
戚と同じ枠に含めるために設定されたかのような歪さを孕んでいるのである︒
次に分類の妥当性についてで︑独孤信と楊忠に関わる︒この両名は賀抜勝集団に分類されている︒太昌元年=永
煕元年︵五三二︶から三年までの約二年間︑彼らが荊州で賀抜勝配下にいたことがあるのは確かである︒しかし︑孝
武帝の西遷に先だって洛陽に徴還されており︑孝武帝の西遷に従って入関している︒これによるならば︑両名は賀
抜勝集団ではなく魏帝追隨部隊に含めるべきである︒加えて︑賀抜勝は永煕三年︵五三四︶九月に︑独孤信・楊忠は
同年閏一二月にそれぞれ東魏軍に敗れて荊州から梁に亡命しているが︑西魏に帰参したのは賀抜勝が大統二年七月
︵五三六︶︑独孤信らが翌大統三年︵五三七︶七月で︑やはり一年ずれる ︶25
︵︒これは︑梁朝廷が二つのグループを別々に
扱ったことを示していよう︒梁において賀抜勝と独孤信・楊忠との間に交流がなかったとは思えないが︑それを示
す史料もなく︑やはり別行動と見なすべきであろう︒
₆検討対象者の枠組み 六柱国・十二大将軍の面々は︑大統一六年︵五五〇︶の段階で充分な功績を積み重ねた上に存命であったため︑柱
国や大将軍に列することになり︑その栄誉を史料に書き残された︒しかし︑もとより彼らが最高将帥層を担うこと
が事前に決められていたわけではなく︑それはあくまでも結果である︒政権・制度のありようは彼らのみによって
構築されたわけではないのであるから︑最終的な結果からこぼれ落ちているところにも目を向ける必要がある︒
大統一〇年︵五四四︶に没した賀抜勝は将帥の中では明らかに別格の存在であったため ︶26
︵︑彼があと六年存命であっ
た場合の処遇を考えることは難しい︒しかし若干恵ならどうだろうか︒
若干恵は﹃周書﹄巻一九等に列伝があり︑西魏政権の多くの将帥たちと同じく武川の人で︑賀抜岳の元で活躍し︑
賀抜岳亡き後は趙貴・寇洛らとともに宇文泰を軍閥の長に推戴した︒その後︑東魏との主だった戦いにはあらかた
参加し︑大統一三年︵五四七︶に没したのだが ︶27
︵︑その時彼は﹁諸将に於いて年︑最少﹂という年齢ながらも既に三公
の司空の地位にあった︒これを八柱国クラスの将帥と比較すると︑太尉李弼︑大司馬独孤信に次ぐ存在であり︑趙
貴や于謹よりも上位であった︒したがって︑人並みの寿命を保ち︑大きな失敗を犯すことがなければ︑大統一五年
︵五四九︶には趙貴らとともに柱国に列していたことは間違いなく︑八柱国クラスと認定して良い人物だといえる ︶28
︵︒
それでは︑六柱国と十二大将軍による軍府統括体制が存在したという前提のもと︑もし若干恵が大統一六年︵五五
〇︶の段階で存命で柱国に列していたと仮定するならば︑六柱国と括られている面々から一名が大将軍クラスに落
ちることになり︑それは序列 ︶29
︵からすると侯莫陳崇ということになる︒若干恵の経歴で地方に出たのは︑永煕三年︵五
三四︶︑孝武帝西遷直後の北華州刺史と︑大統一一年︵五四五︶頃に拝したものの︑その後すぐに司空に叙されたた
め赴任するに至らなかった秦州刺史のみである︒毛氏が侯莫陳崇に対して措定したのは涇水流域であり︑これと重
ならないのでそのまま入れ替えることはできず︑必然的に他のグループ・地域の検討にも影響が及ぶことになる︒
同様に︑﹃周書﹄巻一九に居並ぶ怡峯︵大統一五年︵五四九︶没︶・劉亮︵大統一三年︵五四七︶頃に東雍州刺史で没︶・
王徳︵大統一四年︵五四八︶に涇州刺史で没︶といった面々は︑その昇進経過や戦歴から大将軍クラスと見なせるが︑
大統一六年︵五五〇︶以前に没したために︑いわゆる十二大将軍には列していない︒彼らのうちに大統一六年に存命
だったものがあれば︑それだけ十二大将軍と括られている面々から開府クラスに落ちることになる︒誰が︑という
ことを推測することは難しいが︑その影響もまた玉突き的に六柱国・十二大将軍の組合せや管轄地域の措定にまで
西魏の統治領域区分についての補論
及ぶことになる︒
毛氏の検討はこれらの可能性を排除しており︑それこそ大統初年の段階から︑六柱国・十二大将軍という未来の
最高将帥層の構成員が決まっていることが前提になってしまっているといわざるをえないのである︒結果として残
った要素から遡って検討するだけでは︑経過の多くを見落とすことになるだろう︒
結 語
以上︑毛氏が示された図に対して筆者が感じた疑問点︑問題点を並べ立てた︒使える史料が少ないということは︑
明確に否定することが難しいということにも繋がるので︑批判として的外れなものが含まれている恐れはある︒し
かし︑やや極端にまとめれば︑毛氏はその独自の仮説のもとでいくつかのわかりやすいデータを持つ人物・地域を
軸に全体像の枠組みを作り︑次にその枠組みに合致しそうなデータを拾って︵しないデータを捨てて︶肉付けし︑最
後に判断材料がない人物を空白の部分に放り込む︑という手順を踏まれたのではないかと思われる︒史料が少ない
場面では︑筆者を含めて誰しも似たような手順を踏むとは思うが︑その際に成否を分けるのはまず仮説の質である︒
図二とその構想を見ると︑少ない史料でよくここまで組み上げたものだと思わされる一方で︑そこに潜む少なから
ざる問題点の存在は︑史料が少ないゆえの限界というよりも︑仮説に問題があるようにも思わせるのである︒
本稿での指摘はあくまでも毛氏が示された図に対してであって︑兵員の供給や平時・戦時の体制といった軍事制
度の基層部分については論評していない点は重ねて述べておくが︑根本史料であった﹃周書﹄巻一六・末尾部分の
有効性に大きな疑問符が付いた現在では︑これによらない研究も試みられている ︶30
︵︒ともあれ︑本稿は雑駁な指摘に
終始して代案を示したわけでもないので︑およそ建設的とはいえない代物ではあるが︑筆者の指摘には︑新たな説
を構築する際に考慮すべき点も多少は含まれているはずである︒それらがこれからの府兵制研究に活かされれば幸
いである︒
注︵
︵ 1︶﹃唐代史研究﹄一五・二〇一二年︒
︵ 2︶毛漢光﹁西魏府兵史論﹂︵﹃中国中古政治史論﹄聯経出版・一九九〇年所収︑一九八七年初出︶︒ 3︶吉岡真﹁北朝・隋唐支配層の推移﹂︵﹃岩波講座世界歴史
︵ 頁︒ 9中華の分裂と再生﹄岩波書店・一九九九年︶・二七六〜七
︵ 4︶加藤国安﹁孝閔帝期の庾信﹂︵﹃越境する庾信﹄研文出版・二〇〇四年所収︑一九九四年初出︶・五三四頁︒
︵ 地区としてまとめておく︒ なテーマであるが︑長安・華州間は一〇〇㎞ほどと近く︑地形的にも同じ関中の渭水下流域にあるので︑ここでは一つの 5︶君主の所在地である都︵長安︶と政治・軍事の中枢︵華州︶が別個に存在していることについては別に検討すべき重要
︵ る﹁等夷﹂関係について﹂︵﹃名古屋大学東洋史研究報告﹄八・一九八二年︶参照︒ 6︶姉の子である賀蘭祥や尉遅迥・尉遅綱兄弟が︑一族に準じる存在として重用されている︒藤堂光順﹁西魏北周期におけ
︵ 7︶左記の順番は毛氏論文第四章での検討順︒結語では﹃資治通鑑﹄に記載される順で示されている︒
た例はあるが︑宇文護と韋孝寛は前章の史料整理の 8︶西魏恭帝元年︵五五四︶の江陵征伐の際に︑司令官の柱国于謹が宇文護・楊忠・韋孝寛の三人の大将軍を従えて出征し
あるので︑﹁八柱国十二大将軍﹂という視点で検討することが難しく︑また︑五万という動員規模からしても︑平時の枠組(6)﹁彼ら︵=八柱国十二大将軍︶以降に柱国や大将軍に至った者﹂で
西魏の統治領域区分についての補論
みの中で行軍組織が構成されたという可能性はない︒したがって︑ここで論じる対象とはなり得ない︒︵
︵ 周政権史の研究﹄汲古書院・二〇一三年所収︑一九九七年初出︶参照︒ 9︶拙稿﹁いわゆる西魏八柱国の序列について―唐初編纂奉勅撰正史に於ける唐高祖の記述様態の一事例﹂︵拙著﹃西魏・北
︵ 10︶山下将司﹁唐初における﹃貞観氏族志﹄の編纂と﹁八柱国家﹂の誕生﹂︵﹃史学雑誌﹄一一一―二・二〇〇二年︶参照︒
︵ なく西魏の時代にまで遡って用いられているとして︑注意を促している︒ ついても︑唐代の兵制を呼称するために後の時代になって作られた﹁府兵制﹂という用語・概念が︑これといった根拠も 11︶平田陽一郎﹁西魏・北周の二十四軍と﹁府兵制﹂﹂︵﹃東洋史研究﹄七〇―二・二〇一一年︶︒平田氏は﹁府兵制﹂の語に
︵ といわざるを得ない︒なお︑毛氏は達奚武の雍州刺史を判断材料として採用している︒ 莫陳崇︶と比べると︑北雍州はともかく︑京師長安を含み諸州の中でも一際格式の高い雍州の刺史は少々バランスを欠く の同じ文章では﹁北﹂がなく雍州刺史となっているが︵二三〇〇頁︶︑彼の昇進過程やこの前後の時期の就任者︵趙貴・侯 奚武伝では大統九年︵五四三︶の邙山の戦い以前に北雍州刺史に就任したとあり︵三〇四頁︶︑﹃北史﹄巻六五・達奚武伝 12︶﹃周書﹄巻二〇・賀蘭祥伝・三三六〜七頁︑同巻一九・楊忠伝・三一六頁︑同巻一九・王雄伝・三二〇頁︒同巻一九・達
︵ る︵六八九頁︶︒ い︒﹃周書﹄巻三八・元偉伝の末尾で西魏の宗室元氏を羅列した箇所では柱国︵その他に特進・尚書令・少師︶とされてい 弟︶の孫︒孝武帝の西遷からは遅れて入関し︑私第に学館を置いて子弟たちと昼夜講読したという︒武功の記事は見えな 13︶﹃周書﹄巻一九・達奚武伝・三〇四頁︒なお︑義陽王元子孝は﹃北史﹄巻一七に列伝があり︑陽平王拓跋新成︵文成帝の 出︶参照︒史料Aでは︑これらの階層区分が強固なものであったことがアピールされているが︵史料整理 14︶拙稿﹁柱国と国公―西魏北周における官位制度改革の一齣﹂︵前掲拙著﹃西魏・北周政権史の研究﹄所収︑二〇〇六年初
(6)・
︵ のように血縁的に宇文泰に近く︑巨大な勲功を挙げれば︑これらの階層区分を越えて栄達するものもあった︒(7)︶︑尉遅迥
︵ 15︶渡部育子﹁律令的地方支配と広域行政区画﹂︵虎尾俊哉編﹃律令国家の地方支配﹄吉川弘文館・一九九五年所収︶参照︒
︵ 16︶厳耕望﹃唐代交通図考﹄︵一︶京都関内区︑︵二︶河隴磧西区・中央研究院歴史語言研究所・一九八五年参照︒
残念ながら西魏の都督区についての項は設けられていないが︑﹁北周総管区図﹂では仇池・宕昌地区を秦州総管府の管轄エ 17 ︶厳耕望﹃中国地方行政制度史乙部魏晋南北朝地方行政制度﹄中央研究院歴史語言研究所・一九九〇年︵三版︶では
リアに含めている︒︵
18︶前掲注︵
︵ 9︶拙稿参照︒
︵ 19︶﹃周書﹄巻一六・趙貴伝・二六二頁︒
︵ 〇七年初出︶参照︒ いない︒李虎に関する史料については︑拙稿﹁李虎の事跡とその史料﹂︵前掲拙著﹃西魏・北周政権史の研究﹄所収︑二〇 20︶西遷入関直前の孝武帝に謁見した話が﹃冊府元亀﹄巻一・帝王部・帝系にあるが︑西魏成立以降については確認できて
︵ 初出︶参照︒ 21︶西魏の漢川出兵については拙稿﹁西魏の漢川進出と梁の内訌﹂︵前掲拙著﹃西魏・北周政権史の研究﹄所収︑一九九九年
︵ 22︶﹃周書﹄巻一九・宇文貴伝・三一一〜二頁︒
︵ 23‒︶﹃漢語大詞典﹄︵上海辞書出版社・一九八六年〜︶では﹁指親近信任的人︒﹂︵一〇三四五頁︶とある︒
︵ も参照︒ 信集団与魏周革命﹂︵﹃関隴集団的権力結構演変―西魏北周政治史研究﹄稲郷出版社・二〇〇二年所収︑一九九四年初出︶ 24︶﹃周書﹄巻二六・長孫倹伝・四三四頁︑同巻三二・申徽伝・五五五頁︑同巻二七・蔡祐伝・四四三頁︒呂春盛﹁宇文泰親
︵ 〇二年初出︶参照︒ 25︶拙稿﹁西魏・蕭梁通交の成立―大統初年漢中をめぐる抗争の顛末―﹂︵前掲拙著﹃西魏・北周政権史の研究﹄所収︑二〇
︵ 26︶拙稿﹁西魏前半期の対梁外交の展開と賀抜勝﹂︵前掲拙著﹃西魏・北周政権史の研究﹄所収︑二〇〇二年初出︶参照︒
︵ 27︶﹃周書﹄巻一七・若干恵伝・二八一〜二八二頁︑﹃北史﹄巻五・︵魏︶文帝紀・大統一三年七月条・一八〇頁︒
れていたことがわかる︒前掲注︵ 兼ねていたと考えられる︒この点から見ても︑若干恵は柱国に至っていないものの︑八柱国クラスの面々と同格と見なさ 28︶若干恵の子の若干鳳は︑保定四年︵五六四︶に李虎の子の李昞とともに国公に封じられており︑ともに亡父への追封を
︵ 14︶拙稿参照︒
29︶前掲注︵
︵ 9︶拙稿参照︒
30︶前掲注︵
11︶平田氏論文参照︒