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明治中期における地方農工銀行 の成立にかんする覚え書

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(1)

−7ク ー 

明治中期における地方農工銀行   の成立にかんする覚え書  

伊 丹 正 博  

目   次  

・−・はじめに  

こ 農工銀行の成立過程  

三 九州地方における農工銀行の設立事情   一特に福岡県を中心として   四 むすびにかえて  

− は し が き  

はじめに,わが国における近代的信用体系の生成過程をたどってみると,明治   2年のいわゆる為替会社制度がその端初であろう。次いで,明治5年の国立銀行   条例,および9年の条例改正後の全国的な国立銀行の族生時代は,西南戦争後の   インフレーション期と,その結末である松方正義の紙幣整理過程に重合しでい   る。松方政策中日標であった中央銀行制度は,明治15年の日本銀行創立,お′よび   18年の銀見換券の発行(銀本位制度の確立)によって,−・応その第一歩を踏み   出し,従って,アメリカのナショナル・バンク・システムに依拠した,  

に・よる分散的発券制度ほ終焉した。すなわち,彼等紅供与された,匡   の発行という最大の特権は失なわれ,その大多数ほ,普通銀行に転化(発券銀行  

(1)  

より預金銀行への性格変化)したのである。こ.のように,日本銀行を中心と   た普通銀行の組織体系は,明治23年8月の銀行条例公布(施行は26年7、月)  

より確立されたのである。   

一一方,明治維新政府は,早くから殖産興業政策を推しすすめるための手段   して,特殊な金融機関の設立を企図していたようであるふこの構想は,幾度  

(1)訂明治財政則(第13巻603貰)によると,鎖店したもの,満期解散したもの,およ   合併したものを除き,国立銀行122行が普通銀行に移行している。   

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(2)

明治中期における地方農工銀行の成立紅かんする覚え沓   −7∫/−  

の内容紅変化を伴いっつ,結局,日滑戦争後の明治29年4月の日本観某銀行  

(2)  

・農工銀行法の制定となって結実した。  

近時,明治期銀行史研究の盛況は,国立銀行を中心、とした個別銀行の史的分  

し31 を広汎紅おし進め,更に,特殊金融機関への接近も行なわれている。  

しかしながら,府県農工銀行に・ついてほ,農業金融史の立場から,すぐれた分析  

(4) 試みられている佐伯尚美氏以外紅は,はとんどふれられていない現状である。  

エ銀行の場合,その成立事情からも,常に日本勧業銀行との密接な連関が取り   げられ,さら紅,その結末が,勧銀への合併吸収(勧銀支店への転換)とな   セ終わるために,農工銀行のみを独自に・取り扱うことが,行なわれないのであ   うと思われる。けれども,国立銀行が,各肝県にそれぞれ分散的に創立さ  

,普通銀行に移行後も,その府県内の中心的金融機関として二成長した例が多  

、のと同様,農工銀行の場合も,各府県に−・行ずつ設立され,その限られた地   内において,産業金融の機関として果した役割を考える時,その地域的特殊  

,個別性を無視することはできないであろう。設立者の性格,ノ 貸付先の分  

,資本金の大小,あるいは勧銀への合併の早く行なわれた銀行と,長く独立   を保った銀行などの点から見て行けぼ,その個別研究の重要性を,充分首肯   きるものと思う。  

以上のような観点から,筆者は,地方農工銀行の個別分析を進める手ほじめ   して,九州地方の−・,ニの農工銀行の成立紅かんし,のぺて見たいと思う。  

)特殊金融機関も含めて,日本における銀行の生成および推移過程を要領よくまとめた   ものとして,後藤新一\氏「現行普通銀行の系譜」(『金融経済』86号所収論文)がある。  

(3)個別研究として取り上げられた国立銀行は,筆者の知る範囲でほ次の通りである。   

欝1,2,4,5,6,15,16,17,18,24,35,37,69,74,77,87,107,117,  

129,152の各国立銀行。その他の金融機関についてほ,加藤俊彦氏の日本勧業銀行に   かんする−・連のすぐれた研究以外に,横浜正金銀行,北海道拓殖銀行,あるいは貯蓄銀   行,信託業,組合金融などを取り扱ったり,これら匿言及した論一文が見受けられる。  

)佐伯尚美氏『■日本鹿集金融史冷』(昭和38年刊)この他では,戦前の杉本正尊氏『全  

国農工銀行発達史』を別にすると,加藤俊彦氏『本邦銀行史論』(昭和32年刊)の中に   おいて,その成立発展過程が概略のべられているのと,朝倉孝音氏のこ著『農業金   融論』(昭和24年刊)・『明治前期日本金融構造史』(昭和36年刊)にかなりふれてあ   

(3)

第37巻 第4弓  

ー・7ヱ ー  

たゞし,まだ史料に制限があり,手許のどく一部の史料紅よったものであ   て,言わば,覚え審であることを,ほじめにおことわり−しておく。  

ニ 農工銀行の成立過程   

先ず農工銀行の成立経過を,全国的な視野から眺めてみよう。   

農工銀行の設立は,日本勧業銀行と共に,明治29年1月の日本勧業銀行法東   農工銀行法案・農工銀行補助法案の三法案同時に議会に提出され,ト審議の後,  

8月に成立し,4月▼18日法律第82,83,84号として公布され,その第一歩を   み出した。   

これより尭,明治10年代後半頃から,財政金融政策の推進者たる松方正義を   心として,これら特殊銀行設立についてこの準備は進められていた。それは,  

めは中央に・ただひとつ大規模の銀行として設けると言う考えから,中央に不   産金融を行なう銀行を作ると同時に,これと「■輔阜唇歯」の関係の農業銀行を   各地方に設けると言う計画に変った。このように,直接殖産興業政策を推進さ  

るための銀行から,むしろ,、小農保護の政策をかなり含んだ,農業金融横顔   しての色彩の,はっきりしたものに変化して来た原因は,明治10年代後半から2   年代にかけての,いわゆるl ̄紙幣整理にともなう原始的蓄積の進行=農成層  

(51  

分解に.影響された」ものと考えられる。  

かくてニ,この農業銀行は,その対象紅中小工業も含めること紅よって二,虚エ   行と言う名称の下に発足することになったのであるが,その目的および性格   次のような言葉で示されている。  

l ̄当銀行ハ明治29年法律界83号農工銀行法ニヨ.り組織セラレ,専ク本県内   トレテ琴   工業ヲ改良発達セレムル為メ,長期低利ノ資本ヲ供給スルノ機関   

セラレタルモノニシテ,特二厳重ナ政府ノ監督ヲ受ケルモノナレバ,貸借   ノ如キモ,勢ヒ他ノー一腰営利的銀行等ノ如ク単純ナ・ル能ハサルモ亦,英ユ   t5I前掲加藤氏『本邦銀行史論=69〜175貫。最初の構想は,日本の銀行組織の体系   

て,いわゆる三木建ての構成であり,商業銀行の中央銀行として日銀を設立し,殖  

糞政策の推進のために日本興業=勧業銀行を設立し,別に貯蓄銀行の老齢   

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(4)

?1   明治中期に.おける地方農工銀行の坂立にかんする覚え審   

・−7∂−−   

ヲ得サルナリ,然レトモ,当銀行ノ、借入請求者ヲ待ツユ十分ノ注意卜親切ト    ヲ以テレ,勉メテ繁雑ナ手数ヲ省キ,及フ文,ソノ便利ヲ計ク,以テ県下農  

(6)   

エ共著ノ希望二副ワンコトヲ期待スルモノナリ,(後略).」  

このように,勧銀と同様,長期低利の貸付を行なう金融機関であるが,その営業   内容を、前掲『株式会社大分県農工銀行営業案内l』によって見よう。兜ず,貸   付については・,「 第一・貸付ヲナスべキ事業ノ種類」とし′て,次の7項目が列   記されている。  

1.開墾排水潅漑及耕地土質改良    2.耕作道路ノ築造又ハ改良    3.殖林事業   

4.種別巴料其他農工業用原料ノ購入    5.農工業用ノ器具器械及舟車獣畜ノ購入   6:」染工共用建物ノ築造又ハ改良   7.前各項ノ外農工業ノ改良  

以上のように・細かく規定した上,更に追記して,「右二列記レタル.以外ノ資   傘ニノ、,貸付ハナナゞルモノエソテ,例へ・貸出ノ後卜離,猥ヅニ其目的以外三   位用レタルトキへ 当銀行ハ貸付金ノ払戻ヲ請求ス可グレへ借主ハ初メヨヅ  

(7)  

十分注意アジタキモノナリ」としている。   

こ.れによって見れば,農工業と一風記されているとは言え.,その内容は,は   とんど,農業者を対象としたものであったと思われる。   

貸付紅・は,年賦償還貸付と定期償還貸付の二・種類があり,年鱒償還貸付の場合   は,「事業ノ種類卜性質トニ因リ,−−・ケ年乃至五ケ年迄ノ据置年限ヲ定メ,此   期限内ハ単二其利息ノミヲ仕払ヒ,其後償還スへ・キ元利金ハ,三十ケ年以内ノ約  

(6)安心院家文寄打■株式会社大分県展工銀行営農案内.』この史料ほ,罫紙11枚を和綴にし   た沓冊で,22貫からなり,毛筆で記されている。原本ではなく,恐らく筆写されたもの    で,県内の農工業老を対象匿配布されたものと思う○引用文は原文のまゝであり,読点    ほ聾者が入れた。  

(7ト前掲史料 2頁。   

(5)

第37巻 第4号  

ー..74−   592  

(3) 束期間工於テ,済崩レノ法二依り,年々均等ノ金額ヲ定ム.」ものであって,更  

に,その金額を折半し,6月,12月の二度紅分骨て仕払うことになってごいた。  

又,この年賦償還貸付紅ほ,抵当物を要するものと,要しないものとがあった   が,これほ,−・般農工業者に貸出す場合にほ,必ず抵当物をとり,「市町村其他  

(9)  

法律ヲ以テ組織セル公共団隠」に貸付する時は,無抵当でよいことを規定した   ものである。  

−、方,定期償還貸付ほ,5ケ年以内であって二,約定期限の終りに完済する普   通貸借の方法で,こ.れも抵当物の要否は,年賦償還の場合と同様であった。し   かし,これには,特紅農工業老20人以上の連帯者に貸付ける場合紅限り,彗洪抵   当貸付となっでおり,この定期償還貸付の−−・般農工業者に貸付ける金額は,銀  

(l11ヽ  

行が既に年賦償還に貸出したる総金額の5分の1を超過しない範囲であった。   

この20人以上連帯者に対する無抵当貸付ほ,農工銀行法制定の叫つの目標で  

(11)  

あった,小農保護にもとずくものであった。前掲史料によると,「…‥佑農工銀行   法二於テ,農工共著二十人以上ノ連帯者二無抵当貸付,即対信用ノ迫ヲ開キタル   ハ,小農小工業老エンデ勤勉力行信用確実ナルモノニ,資本ヲ得セレメソカ為メ  

(12)  

エソテ,猥リニ資力アル農工業者二対シ,適用スルモノニアラズ∴」となっ   て:おり,それ故に銀行は.,この貸出の場合,特に規定を設け,20人以上の連帯   老僧入に.かんするものは,その契約書,及び各自の資力,信用と事業の大小と   の関係などを調査して,次のような項目を標準として貸付を行なった。  

「− ニ十人以上ノ連帯者へ本県内二於テ,・剛ケ年以上原籍ヲ有シ,′居住   ラロメ,農工業二従事レタルモノニシテ,同市町村,又ハ同大孝二居  住スルモノニ限ル,但レ接近ノ地二居住スルモノハ此限リニアタズ  

ニ ニ十人以上ノ連帯者二貸付ケル金高へ其連帯者資力ノ五分ノー必   

トス,若シ資力ナキモノハ,勤勉力行者ート認メ得クルー」モノエソデ・  

は)同史料 2〜3貢「第二 貸金ノ区別」。  

(9)同史料 3買。  

(1功 同史料 3〜4頁。  

刷 加藤氏前掲音136頁。  

q払(1劫 前掲史料 4貰。   

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(6)

3   明治中期における地方農工銀行の威立紅かんする覚え審   −−75岬  

(18)    ケ年力投収利ノ五分ノーー以内トス」  

これで見ると,20人以上連帯者の無抵当貸付は,土地を所有しない小作人に   融資を可能にしているわけであるが,金額その他の点からは,かなり制限が   あったと言よえう。   

次匿,これら貸付の金額については,市町村又は公共団体を別とすれば,そ   の最高額ほ,「同一・借金二対レ,当銀行払込資本金ノ百分ノ十以内(即チ払込  

(14) 資本金十一方式千五官円ナルトキハー・万千弐百五十円以内).」であって,その  

抵当に対して,銀行が鑑定評価した価格の8分の2以下というこ.とに・なってい   る。又,年賦償還貸付金の毎年償還額は,その抵当物の純収益を超過しない範囲  

(柑)  

められていた。   

さて,以上のべて来た申で蛮要なことは,抵当物件である。農工銀行設立の趣   旨からも窺えるように,農工業者への長期低利の貸付金であるから,その抵当  

当然,不動産で 

(16)  

ノハ,不動産ニテ,永続.スへキ確葵ナル収益ノ見込アルモノニ限り」第・−抵当た   ることとしたが,建物は保険付でなければならず,そうでない場合ほ,地金  

(17)  

銀,国債,地方債,その他の有価証券の提出を求めて:いる。この抵当物にほ,  

に制限を加わえ,㊤明治17年第7号布告地相条例第4粂によって免租地にな  

た,公立学校用地,.墳墓地,用春水路,溜池,堤塘井梁,鉄道用地,禁伐  

,及び公衆の使用する道路。⑧学校,社寺,病院,劇場,その他共同使用の   物と敷地。⑧農工業に使用しない宅地建物。④塀琉,石坑,池沼,鉱泉地。  

入会地。⑥数人共有ノ不動産(ただし,共有者一周が承諾の上,その全所有  

(18)  

を抵当とするときは構わない)。というように規定している。結局,抵当物   件となる不動産は,農工業に使用して.いる土地建物ということになる。それ故  

,借入請求に・当って提出する書類には,抵当物件の位置,種類,価格だけ  

軋㈹ 同史料 5貢「第三 貸付金高ノ事」。  

6),(1ア 同史料 6頁「第五 抵当物ノ事」。  

胡 同史料 6〜7頁r■−当銀行二於テハ左ノ不動産ハ抵当二取ヲサルノ定メナリ」として   以上の6項目をあげている。   

(7)

第37巷 籍4号   

ーーー76 −  

でなく,その収益把・ついても,下記のような例に.従って記入することに.なって   いた。  

抵当物最近五ケ年間平均収入高及純益高ノー・  

収   穫   払  陰  金  

差引純益  

地租J県税儒窟    仁一●、−こ斗ざ・⊥‥∴ 

... 

地目ハ種目毎二掲ク  

同上ノニ  

収 穫   前四グ年  

平均収穫高   

貸地料  

小作米   差引計  

二工ニコニ  

栗駒掲史料12貫による  

これに対し,抵当を要しない市町村及び公共団体の借入の場合は,  その市町  

村の戸数・地価・国税に属する営業税の額,これに対する附加税を賦課し得る   年額金,その内現在賦課徴収すべきものを差引いた額,この借入金の償還匿充   てる財源の余裕があり,尚将来他に何らかの収入をもたらす財源があるかどラ  

か,などを記載し,その他公共団体の場合にほ.「何々組合区域ノ市町村ノ、何ケ市  

町村何部落」で,その区域内の戸数,又は地価より徴収し得る財源のあること  

(19)  

などを,記載するとと紅なっていた。   

以上に見て来た貸付金の利子についてほ,長期低利の貸付を櫻梯する所から   も,最高額ほ限定されており,年賦偵還貸付ほ大体9分,定期偵還貸付ほ1剖   

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(8)

595   明治中期における地方鹿■工戯行の成立密かんする覚え沓   −77−   

(19)  

が普通であった。明治86年4月の調査では次の通りである。  

筋1表 全国農工銀行貸付利率一億表  

(明治36年4月調)  

仕切 この調査は.明治36年4月大阪において開かれた全国虚行銀行大会において,大阪府儲   工銀行に委託し,調査されたものである。〔二『銀行要録』明治36年9月欝飢5弓(『日本金融   史資料』明治大正篇欝6巻661〜2頁).〕前掲『大分県農工銀行営業案内』紅は,「欝四   利息ノ事」と題し,「貸附金利息ノ最高歩合ハ当分ノ内年賦償還貸付金へ 年9朱.定   期償還貸付金ハ年一骨けり,尤モ金額ノ都合ニヨリ営巣年度ノ初メ又ハ臨時工大蔵大臣   ノ認可ヲ鱒テ,其歩合ヲ改ムルコトアルへサレハ,其都度便宜ノ方法エヨリ公告スへ   シ。年賦償還貸付金据置年限申ノ利息及定期償還貸付金ノ利息ハ,毎年六月十二月ノ両   度ニ,其月ノニ十日道三当銀行ニ・払込ムモノナリ.j(同史料5′}6頁)としている○   

(9)

ヽ  

第37巻 第4号   

−−7苫・−−   

農工銀行の業務にほ,こうした貸付を行なうための資金をあうめる方法とし   て,農工債券の発行が許されていたが,これについては後でふれるとして,受  信業務としてこは,定期預金の業務が許されていた。これは農工業者の貯蓄を奨   励する意味からであろう。前掲史料に.ほ,営業案内の最後の項目として,「■第   七定期預金及保護預.リノ事」として,次のように記している。  

「当銀行ハ営業ノー・トレテ定期預金(−・口五円以上二眼ル)ヲ為スモノナリ,   

凡ソ預金二於テ尊フ所ノ、,信用ノ筆固卜支払ノ確実ナルニアリ,当銀行ハ鱒    二此ノ点ニ㌧就テ,預金者二深ク注意ヲ乞ハント欲ス。己二世人ノ熟知セラレタ    如ク,当銀行ノ営業ハロロ敏速ノ′ミヲ目的トセスシテ,寧口慎重確実ヲ旨ト    スルモノナレハ,仮令−・般経済界ノ恐慌二際スルモ,照苦ノ淵二沈ムカ如キ    憂ナキ・ハ云フ迄モナク,殊二義務上二付テソ、,法律命令ノ下二於テ,大蔵大    臣ノ厳義ナル監督ヲ受ケ,及ヒ同大Eヨ、り命セラレタル監理官へ時々臨準    ノ上,金膵帳篭其他諸般ノ業務ヲ監視セラル」カ故ニ,最モ安全確実ナル資    金ノ供託所トレテ,預金者ぷ・満足ヲ与フルコトノ、,当銀行ガ弦二特筆ヌルヲ    悍クサル所ナリ。(中略)   

当銀行ハ亦,有嘩証券地金銀等ノ保護預ヅヲモ為スモノナ・ヅ,此保護預タ    ハ当銀行ノ委任ヲ以テ,堅固二保管スへヰカ故ニ,預ケ主二於テハ,安全便  

(20)  利ナール方法ナリ,(後略)」   

このような営兼内容中農工銀行の設立を容易に.するため紅,政府ほ農工銀行   補助法を制定しているが,こ.れによって,各農工銀行の営柴区域を管静する   県に粛レて,政府は総額30万円を限度(払込資本金の8分の1以下)としで   式引受金を交付し,これ紅よる府県の出資分については,5ケ年間は利益配  

(21)  

を行なわなくてもよいことにした。  

鋤 前掲史料 20〜21頁  

但1)農工銀行設立について,各府県への交付金に対する一腰の態度について,・前掲r   要鉄』明治30年7月欝140号(相木金融史資料』明治大正虜第6琴291頁)で払   

ように・のべている。   

「農工銀行の設立に裁て 農工銀行資本額 先頃地方官会議も終へて各府県知事    紀夫々任地へ帰着したれば誠次農工銀行の設立に着手するならんが此際特に各地   

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(10)

597   明治中期における地方農工銀行の成立紅かんする覚え沓   −\79−  

更に,農工戯行の株式が,−・口20円という比較的小額のものであったので,  

(22)  

小農工業省でも株主になり得る通があったことも注意しなければならないが,  

恐らく大部分の株主は,地方の豪農。中小地主・商工業者であったといえよ  

(2S)  

うム   

かぐて,明治30年10月の静岡県農工銀行の設立を皮切りに,相ついで各府県   匿設立されることとなったが,その設立委員には貯県の嘗記宮などが直接参加  

(24)  

して屠り,33年8月の徳島県阿波農工銀行の設立紅よって,全国各府県に・そろ   

為めに注意を要する点は該銀行資本額を土地の状況紅応じて適当比定めんこと之なり    府県が其地方銀行の為めに濫りに政府より多くの交付金を獲んとして必要もなきに資    本額を巨大紅すれは法律に特許したる農工債券発行の利益を減殺するものなり例へは    蕊に三十万円の交付割当を受く可き地方に於て其農工銀行資本を百万円とし直ちに金    額を払込むものとすれば其の三分の−・は三十万円以上に・当るを以て注文の規定上,上    記交付金全額を請求し得可き道理なれとも当時其地方農工共著が実際に需要する資本    が四百万円位に過きさる時は払込資本の五億即ち五百万円の債券中二百万円の債券発    行権は不用に帰す可し,故にか」る場合にほ二十万円の交付を受けて資本金は六寸一万    円呼止め之に対して三百万円以内の債券を発行すれば資金融通に不便を感せず債券発    行にも損失なき得可し此れ其の営業区域を一地方に限られ屠る結果にして注意すべき    所なり.」   

尚,加藤氏前掲蕃187買春照。  

銅この点について.−ほ,次章において−,株式会社福岡県應工銀行の株主構成の際に詳しく    のぺる。  

錮 佐伯氏前掲書71,88貢参照。ついでに,同書にある鹿銀資本金の内訳表(杉本氏前掲    書による)を再引用して参考に供しておく。  

農銀資本金の内訳  

(単位千円)  

(金融史資料293賢)「先月末各地方官の其任地に.帰へりしより農工銀行設立の準備もぽ   つぽつ起りたる様にて現に静岡愛知の二県の如きは既に其の設立委員を定めて大蔵大臣   の認可を得中り東京府め如きも近々其設立委員の任命を見るべしとか」『朋治30年9月   算142号』(同史資料295貰)「岐阜県展工銀行設立委員ほ去月二.十五日渡辺甚富民外二十   名に任命あり要点長ほ石原書記官に.て設立事務に付き種々協議の末資本金を百方円に決   

(11)

−β0−   

い,46行を数えた。  

簿37巻 簡4弓  

こうした農工銀行設立の盛況に対して.批判的な意見をのぺるものもないでほ.′/  

なかった。その−−\人は,『\東京経済雑誌』の主宰者田口卯書である。彼は土地   抵当の危険を排除すれば,国立銀行,私立銀行であっても必ず低利で融通する  

であろうとのべ,特に,農工銀行が,その資本金の5倍の額の農工債券を発行   できる点を追求して−,「然るに此回法律となりて実施せらる」所の農工銀行ほ其   資本金二十万円以上に.して,百方円の債券を発行するものなり,当今我府県に於   て百二十万円の資金を有する銀行は大銀行なり,決してこ以上の如き小口の貸付   を為すに適せざるぺし,_昆.其性質に就て観察するに,其資本金の三分の一一−・は政府  

より下付するものなり,故に二十方円の資本を集めたる銀行当局者ほ之を三十   方円の資本となし,百五十方円の債券を発行するものなり,二十方円の資金ある  

もの俄に百八十方円の資金を運転するに当りてほ,焉ぞ謹慎自重なるを得んや,  

銀行の道理に於て.諸預金にして資本金の三倍以上とならば大に戒心すべしとの   言あり,夫れ銀行者が其資本金三倍以上の預金を受くるに.就てこは,非常の勤勉  

と注意とを要することになり,然る陀尚は三倍以上とならぼ其の気弛み貸付に  注意せずして数多の滞貸を生ずるの慨あり,然るを況んや地主若く軋政覚員粧  

してご備に銀行当局者となり,五倍の債券を発行して集めたる貨幣を貸付くる場  

し内三十万円は政府交附金を以て之に充て■」『明治30年10月第143弓』(同史資料298  ●●●●●● 

〜9頁)「佐賀県 同県螢工廠行設立重点ほ同県書記官大庭寛十億其地名誉職会社員等十   三名紅命ぜられたり福岡県 資本総額六十万円内国庫補助十八万三千七百八十円一  般夢集額四十一万六千二百二十円にして入佐書記官を委員長に富山県 同県にては   去る十三月を以て宮松参事官(中略)の諸氏を同県農工銀行設立委員紅任命したるよし  

三重県 三番農工銀行設立委員会は去十四日より開会し資本金を七十万円とし常   務委員紅大海原書記官,天春又衛,海野謙次郎の三氏当選し引続き開会中なり・福島   県 同県の設立委員会は己に去月廿八日を以て閉会を告げしが同会の決議に依れば資嬉   金を八十五万円(劇株二十円即ち四万二千五百株)とし県引受株即ち補助額を二十八万  ●●●●●●●●●●● 

●● ニ千九百二十円(−・万四千四首十六株)とする筈紅・て当分該事務所を県庁内紅設置する  

よし・福井県 同県農工銀行の設立委員として山田同県寄記官,同罪五課長(中略) 

の諸氏を推挙申請せしに此程認可ありたるを以て直紅任命したりと云ふ」(傍点一イー引  

用者=明治30年11月第144号』(向史資料305,6貢)「設立委員 山口県一一書田寄記官・  

広島県一瀾寄記官,島根県−−原田審記官,青森県一一戸田沓記官,埼玉県−一骨森   書記官」(按粋一引用者)。   

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(12)

599   明治中期における地方農工銀行の成立にかんする覚え章   一∂ユー    合妃於てをや.」と断じている。そうして,これがため農工銀行は,業務の安仝  

をはかるためには,新しい事業(開墾・排水・築堤等)には貸し出さず,豪商   や大地主の所有する土地に貸付けることになり,彼等がこの低利の恩典にあす  

(25)  

一かり,しかも,この資金は商業へと流れるであろうとのべている。さらにこの   後5年経って,彼は,「農工銀行の害」と題する論説を発表し,「鳴呼災なる \   かな,農工銀行の府県を菜乱するや,近時政争の府県に.激烈なる所以のもの実   に農工銀行の争奪に.基くなり,政党の之を得るものは其め勢力拡張し,政党の   之を失ふものは其の勢力消衰す,故に彼等は之を得るを以て府県政争上の天王  

山となせ、り,近時聞く所に因れば,全国農工銀行の中に.て其の四十は立憲政友会  

紅属し,其の余は憲政本党及び中立に属すと云へり,其の此の如きに至る所以   のものは,実に腕力,権力,其の他種々卑劣なる手段を濫用したるの結果にし   て,而して−・たび農工銀行の・一政党の手紅帰したる以上は,実に腕力,権力,  

其の他種々卑劣なる手段を濫用するの源因となるなり11・彼等(農工銀行− 

筆者註).が−・たび政党の機関となりし後は,彼等ほ決し七反対党に貨幣を貸  

(26) 与せざるなり,彼等は自党に.入るにあらざれは貨幣を貸与せざるなり」とのぺ  

て,某県の例をあげているが,たしかに彼の指摘するような農工銀行内部での   政争が各地で表面化している。先の『銀行要録』によると,   

「福井県展工銀行の紛囁 福井県展工銀行ほ創立の際より実業派と政党派と    の間に役員選挙競争ありて創業総会の当時非常の紛嘩を極めたる未憲政党の    竹尾茂氏が頭取となりしが開業以来五箇月を経過するも未だ貸出に着手せず    三十−L年度下半期の計算報告に拠れば二千四百五十四円八銭三度の欠損を生   

じたるより株主は何れも頭取不信認を唱へ通常総会にて頭取の報酬八百円を  

\ごご\  否決し尚役員改選の運動を為し居る由」  

【 ̄長野農工銀行の紛:優 長野農工銀行ほ創立の際頭取以下の重役は自由派よ  

鍋 田口卯富民「勧業銀行及び農工銀行.」〔.『粛京経済雑誌』820〜821号所載明治29年4月   11日発行(前掲「金融史資料第5巻645〜6頁))。  

鍋 田口氏「農工銀行の害」〔『東京経済雑誌』1091弓所載明治34年7月27日発行(同史資   料欝5巻648′叫・′9頁)〕。  

帥『銀行要録』明治32年2頁第159号(前掲『金融史資料』第6巻343頁。。   

(13)

第37巻 界4弓  

…−82・−  

り選出サーることゝし支配人以下の役員も成るべく自由派の人より取り若し非   自由派の人なれば強て/憲政党に入らしむるなど殆んど全く自由派の手に落ち   たる姿なりしを以て非自由派及び実業家の憤激−−・方ならざりしも其健泣寝入   の姿となり居りしが其後重役等の為す所兎角公平を軟き自由派の実業家には   出来べき限り融通するも進歩派の企つる事業に対してほ.種々の口実を設けで  

貸附を拒絶するのみならず蚤役に縁故ある銀行に対しては−ニ万両以上四五   万円の金額を七朱位の低利紅預入る」が如き専韓の振舞ありて直接農工の事\  

業把・利する所なく農工銀行設立の主意に反する所多しとて進歩派及び英米派    の反抗甚だしく日下内々運動中なる由にて次期の総会には重役不信認問題を  

(28)   

提起すべしといふ」  

こ・のよう紅,農工銀行内の主導権が政党に結びついたものによって争われたこ   とは,大きなマイナ・スであったことはいうまでもなく,政府の目標からはずれ   るものであるが,か一」る事例は,国立銀行系の銀行の場合にもあったこ.とを,  

(99)  

念頭において∴おくぺきであろう。  

以上,農工銀行の設立過程における営業内容の問題,銀行経営陣の構成間率  

(30)  

などを概略みて来たが,これら農工銀行の全般的な営業状況などについては,  

こ・」ではふれないが,農工債券の発行が現実には円滑にすすまず,資金不足に  

lこ;い 悩み,やがて明治33年紅代理貸付制度が生まれ,勧銀との関係はますます密接  

(32)  

なものとなり,遂紅は合併への道を辿ることに・なるのである。  

(28)岡安録明治32年7月解164弓(同史資料375貰)。  

位鎖 国立銀行が県内の政争に関与した例としてほ,簿五国立銀行の場合が   ぁる。帝国議会   の開設以来の吏見・民党の抗争において,鹿児島においては,民党である鹿児島同志   

に対して,政府発たる帝国同志会が繚成されたが,これほ,箪五国立銀行頭取有村国    を中心としており,一腰匿五銀派と呼ばれた(鹿児島県社会科教育研究会痴一度児    の歴史』217〜8頁)。もちろん農工銀行の場合と同一儲は出来ないが,一つの比較例   

ほなると思う。〔拙稿『明治期銀行史における士族銀行の間藤・岬第五国立銀行の特   

な性格紅ついて−』(「鹿児島経大論集」算三巻革二号121頁参照)〕。  

(30)佐伯民前掲苔及び加藤氏前掲古参順のこと。  

81)代理貸付制度というのほ,農工銀行が勧銀の貸付を代理し,かつその支払保証をお  

なう制度である。  

(3勿明治32年4月18日に日本勧業銀行の職制改革庭当って,藤島副総裁の訓示匿払次   ようなことをのべている。「(前略)次に一言致しますのは本行と農工銀行との   

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(14)

明治中期における地方農工叙行の成立にかんする覚え苔   ー ∂3 −  

三 九州地方における農工銀行の設立事情  

−一時に福岡県を中心として    九州における農工銀行ほ,明治30年12月の宮崎県農工銀行を初めに,翌31年   芦月まで吟各県1行ずつ,7行が設立された。これらの名称,当初資本金,設  

lゝ:ミ)  

.時斯;最終資本金,勧銀への合併時期は次の通りである。  

第2表 九州各県農工銀行設立−・覧  

名   称l 設立時期 l当初資本金l 合併時期 事 最終資本金   福岡県展工銀行  

大分県 〝   佐賀県 〝   肥 後 〝   宮崎県 〝   鹿児島県 〝   長崎県 〝  

明治31年3月  

〝 31年6月  

〝 31年2月  

〝 31年8月  

〝 30年12月  

〝 31年3月  

〝 31年5月  

大正10年8月   昭和9年3月   大正10年7月   昭和2年10月  

〝 4年6月  

〝 9年2月  

〝 4年1月    以上九州地区7行の中から,福岡県農工銀行を取り上げて−,その設立経過   を,『株式会社福岡県農工銀行界壱期営業報告』により眺めてこみよう。   

資本金額は60万円で,九州内でほ第3位であった。   

先ず,明治80年9月17日,福岡県知事より銀行設立委員を任命されている  

(34) が,それ闇次の22名、である。、   

㊥入佐 清静    岡部 覚 ○小林作五郎    倉田津九郎   望月 蔵平    栗田 伴蔵    麻生 太苫   井手武右工門   多田  勇   津田 守彦    尾崎 藤 ○三谷 有信   佐々木正蔵    林田 守隆   武内美代吉   松延 忠次   ります。元来此二戯行ほ其目的に於ても其性質に於て−も同一のものであり又其関係より  

云へば一腰中央簡閲にして他は地方機関でありますから最も連結密接たし彼此提携瀾助    して農工業の改良発達を計らねはなら、ぬ,勿論今日と難連結関係のないではありませぬ    が私は尚此上一層の密接を加へんことを鶉ふものであります,故に幸に他日農工銀行と   

協約が出来ますれほ或る事件に対しては成るべく農工銀行に依托し代理処分せしむるの    考であります」〔『銀行要録』明治32年5月軍162号(前掲『金融史資料』第6巻362頁)1  

(33)九州産業経済新聞社編『九州金融変遷史』による。  

鋤『株式会社福岡県農工銀行箪壱期営業報告』(以下紆福岡農工銀行史料』と略)2′叫h′3乱   

(15)

ー∂4−   欝37巻 雰4号  

富安保太郎    野田卯太郎 ○守永 勝助    佐々木正恐   長野 盛徳   大森 武雄  

(索 ④印は委員長,○印ほ常務委員)   

この委員の中心から,眼についた人物をひろってみると,先ず委員長の入  

(35)  

消静は,先に・ものべたように,福岡県の書記官である。岡部覚は,福岡県士族(  

と馬廻観120石)で,福岡第17国立銀行に.設立当初から墓要な一山員として参加  

(3り 大株主であり,支■配人をしている。次に,小林作五郎は,酒造業(万代醸造元)  

大地主(粕屋郡)であり,その土地所有高はこの明治卯年代において,田(65・  

町),畑(5.16町),宅地(2774坪),山林(191,81晒し),原野(3,218反)で  

(き7)  

た。麻生太苦ほ,いうまでもなく筑豊地方に.おいて∴鉱業(麻生鉱山)を営み,  

麻生系の各種企巣の基礎を独力で築いた人であり,私立銀行の嘉穂銀行にも  

(38)  

きな関係をもっていた。三谷有信は福岡県士族で,赤松社々長,福岡第17国   行の主要株主である。又,林田守隆ほっ 近世筑後の豪商手津屋の二代  主であり,前述の士族授産場赤松社の社長にはじまり,九州鉄道,久留米  

(39)  

国立銀行などの大株主や頭取をつとめ,久留米商工会議所会頭であった。   

すなわち,これら委員の大部分は.,福岡県内の大地主,商人,産業資本   あり,後に.みるよう粧,主要株主であり,役員ともなっ七いるが, このよう   顔ぶれを揃え.るこ、とは,限定された(農工銀行は・一府県内という)地域内   いてのみ成立しなけれはならない農工銀行にとって,その地域の名望家の社  

(40)  

的信用を利用せざるを得なかったというのほ,当然の成り行きであろう○   

かくて,明治亭1年5月15日営業を開始したが,当初の役員は,次の通り  

(41)  

る。  

脚 本稿註銅参照。  

㈹ 岡部党については,福岡第17国立銀行紅かんする拙稿を参照のこと。  

(37)『福岡県農地改革史』上巻。  

(38)『西日本相互銀行十年史』及び,松井安信氏「九州金融史の−・幽ロー一明治研   

の福岡県金融事情」(『西南学院大学商学論集』欝3巻欝1号)参腰。 

朗)武藤患漁民『林田守隆翁伝』及び,伊茶健二即近世筑後の豪商手浄屋の研郊  

㈹ 佐伯氏前掲番。  

値1)前掲『福岡農工銀行史粁』4〜5頁。   

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(16)

明治中期における地方農工銀行の成立紅かんする覚え沓   ーβ茸−  

取締役頭取、緒方 道平   恢締役   小林作五郎  

〝   守永 勝助  

〝   三谷 有信  

監査役 多田  勇      大森 武雄  

〝   松延 忠次   

〝   野田卯太郎  

初期の営業についてほ,「当期ハ開業日浅ク執業日数健二四十日間ニシテ殊   農工銀行ノ農務タル本邦二於テハ創始ノ栄二属スルヲ以テ処務上梓二慎重ノ   扱ヲナシ又一面ニハ可及的当行業務ノ性質及借入請求手続等ノ周知ヲ図リタ   共闘業以来期末迄ノ間二於グル借入ノ請求ハロ数十六具申込金額ハセ万千百   ニ・シテ内貸付ヲ了シタルハ六月内二於テ五口壱万参千五首円ナリ爾後借入ノ  

漸次多キヲ加へ来ルハ言ヲ待タス当行ノ\えこ対レ資本融通ノ程度二於テ   フ限り借入者ノ利便ヲ計ラン1欲ス」「定期預り金ノ、開業日浅ク未夕世間ノ   知スル所トナラサルト金融逼迫ナーレ為力甚夕少額ナ・リ」「余裕金ハ貸付二要   ル供給ノ程度ヲ計り確実ナ・リト認ムル銀行二定期又ハ当座預金トナレ筍モ遊   ノ生スルコトナキヲ期セリ」とあり,貸付ほすべて年賦償還貸付であった。  

このように,欝1回営業報薯からは,その営兼状況を患うこ.とほ不可能であ   るので,こ.こで眼を転じて.,株主構成に、ついて,・一一応眺めてみよう。  

先に.ものぺた通り,農工銀行の株式は1株20円であるので,国立銀行の1株   50円に比してかなり少額であるため,多数の出資者を集めるこ.とも可能であっ  

た。  

株主総数は2,062名であるが,その中の大株主ほ福岡県庁で,9,189株であ  

(42)  

る。 こ.れほ前節でふれたように・,畢工銀行補助法によって,営業区域を管轄す   る庖県にほ,払込資本金の8分の1以下で,総観80方円までの範囲で株式引受  

(4虚)  

金を政府が交付することに.よるものである。  

㈹ 同史料3貫。   

「同月(明治30年10月)廿六日本県知事ヨリ本県引受株ハ九千百八拾九株二決定ノ旨   通達アクタリ」  

劫 本稿註釦参照。   

(17)

筋37巻 欝4弓   

−′β6−  

さらに,各郡・町・村の引受け■たものが,8郡4町46村で合計1,943株あり, 

残り,18,868株が−・般個人の出資にもとずくものであった。50株以上の株主は  

(44)  

次の通りである。  

鱒3表 福岡県農工銀行株主姓名表(創立時50株以⊥.)  

【 ̄ ̄ ̄ ̄ 

諒主義盲¶蒜嘉  株数l獅名l鮎姓名I一株数i郡市名ユ  

福 岡 県  

○小林作五郎    谷  彦一  ま田佐七郎    田 川 郡  

(9緒方 道平    戸 畑 村    浮 羽 郡    古林 与六  

●松延 忠次    江口正九郎    鈴木  事    広田久太部  

⑳多田  勇    中村 多乎    富安 雷行    高田 弥六    松右 敬重    石橋  裂   小野隆助  

竹下 武乎    三原 義比  

○守永 野助    黒 崎 町    八 幡 村  

 ̄ 

・  

_ 

吉原正左工門  

一  久留米  

福 岡   企 救   遠 賀   八 女   八 女  

熊本 寿   綿貫 千   清見 恒蔵  

※佐々木正  山本 久   書谷理一段  

※林田 守  

※倉田津九郎    立花 寛正    池上 儀八    土斐崎  

三二石工門    春日 丈夫    河野 修造    坂田 清治  

 ̄ 山口米太郎   璧富安保太郎    阿部辰次郎    川島 準平   

限本兎−・郎   

隈本妻次郎    江口 顕吾  

○野田卯太郎    永江 純一  井上文五郎    広津 義助  

柴田L文城  

樋口已之ま   豊村源之   熊谷藤五   貝蕗 太   蔵内次郎  

川渡単三郎 伊藤∵伝六  

山本権右串巳   山本診冷点   竹腰虎太卓  

※麻生 太畠    中野徳次郎    高橋 永痙    芦 屋 叩    京 都 郡    花村 久助    船越 村  

○三谷 有信   

国武喜次郎  

柏木勘八郎   浅尾三保薫   筒井嫡   求佐々   

行  

(㊥印 頭取,○印 取締役,○印 監査役,染印  

㈱ 前掲『福岡農工銀行史料』附録「株主姓名表」による。   

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(18)

明治中期匿おける地方農工銀行の成立紅かんする覚え審   −β7−  

′これらの株主中に・ほ,設立委員(役員を含む)の大部分が顔を見せているが,  

ぞの他の施主を眺めてみると,第17国立銀行の株主が目につく。すなわち,  

(45) 田佐七郎(士族・40株所有−一層17国立銀行株一以下周様),小野隆助(士  

lコ  

(4¢)  

族・89株),小河久四郎(農業・147株一胡冶16年1月28日より同37年1月29  

(47)  

日まで,第17国立銀行頭取をつとめた)などがそれであり,立花寛.正ほ柳河第  

(4$) 白6国立銀行の株主.(士族・18株)である。又,鞍手郡の貝島太助はいうまでも  

なく,月島炭抗を築いた鉱業資本家である。   

与ーのように・,主要株主は,先の設立委員の場合紅のべた通り,県内の知名士   の大部分が顔を揃えたわけである。  

次に,株式所有数別の株主構成を表にまとめると,第4表となる。  

欝4表 株式所有数別人員表  

脚 欝17国立銀行考課状附録の株主姓名表によると,住所ほ大阪庭なっている。たゞし,   

年代は明治20年代で,若干ずれがある。尚,解17国立銀行にかん■する部分は,三奈木黒    田宏文番申の同行考課状に拠ったものであり,同史料を収録した「九州近代史料叢書」   

第七輯『鮮十七国立銀行史料 上†−−創立証書・定款・考課状之部∴−・』(九州近代史   料刊行会刊)も参照した。その他,筆者の同行にかんする諸論稿を参考にされたい(以    下同様)。  

㈹ 前掲考課状によると,「小野隆介」となっている個所があるが,どちらが正しいか判   定できない。   

前掲考課状及び,『株式会社1一七銀行沿革』(昭和2年記述・昭和38年2月福岡銀行調   査課複刻)による。  

㈹「第九十六国立銀行第六回半事実際考課状』(甲木与一郎氏所蔵)所収の株主姓名表に    よる。   

(19)

欝37巻 解4号   

−ββ・− 

県庁引受額を除外すれば,20株(400円)未満の出資者ほ,全体の約半分に.近   い48.6%になっており,特に,株主総数の6割弱は5株(1do円)以下の小額撫   主である。その族譜身分などは分らないが,住所が郡部であ畠ことから,恐ち  

く,はとんど農業に従事している人達であろう。この点でほ,1株20円とし   て,広汎に小農工業者へも株主となる道を開いたことが,出資金額の多少は別   として,農工銀行の立場なり,性格なりに.ついて,彼等に.認識を深めることに   かんしてほ,ある程度,効果をあげていたと言ってもよいと思う。   

最後に,農工銀行設立当時の福岡県内の普通銀行設立状況を見て二,金融機関   内でのその位眉をのべておきたい。   

明治20年代に入ると,福岡県内には次々に銀行が設立され,農工銀行の創設   された前年(明治80年)にほ,第17国立銀行も普通銀行に移行している。その  

ピ・−・クは34軒で,94行を数えて:いるが,その中から資本金15万円以上の銀行を   摘出してみると,次の通りである。  

第5表 福岡県内主要銀行の資本金額(明治85年末)  

※『西日本相互銀行十年史J77〜80真による。   

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(20)

07  明治中期における地方農工銀行の成立にかんする労え沓   ユβ9 

上位2行は,言うまでもなく国立銀行よiり転化したもの,8番目の嘉穂銀行  

,筑豊地良二の石炭産業をバックに,麻生太吉等によって作られたもので,産業   資  本と密接な相互依存の関係をもって発展して行く,近代的銀行の本質を備え  

(49)  

た銀行である。.以上8行についで,この農工銀行が位眉を占め,その資本金額   からも,次位の筑肥銀行とほかなり差があり,4行でトップ・グループを形成  

していることに・なる。虚工銀行の場合,たしかにこその性格は,国立銀行から普   通銀行へ転化した福岡十七銀行と逢うけれども,県庁の為替方として官公金取   扱いに優位を示して:いた同行鱒とって,政府甲保護を受け,県庁が多額の株金   を引受けて言いる農工銀行は,やはり,ある桂皮の脅威となったことは間違いな   い。その例は,従来,県金庫であった十七銀行が,明治37年,福岡市・筑紫   部・柏屋郡のl市2郡を農工銀行に.割譲しており,さらに・44年には,早良郡・  

(∂0)  

糸島郡・宗像郡の3郡を割譲していることである。   

以上,福岡農工銀行の設立当初の概略を見て∴来たのであるが,最も重要な営   業状況を 

他の農工銀行と共に・,さらに㌧史料の収集調査を蛋ねて後稿に期したいと思う。  

四 むすびにかえて  

はじめにものべたように,本稿では,農工銀行の性格や,果した役割を,地   方琴工銀行の個別分析を通じて把握するために,その接近の手がかりとして,  

福岡農工銀行の設立当時にふれてみたものである。   

同行ほ,佐賀農工銀行と共に,勧農合併の第一・期に参加したため,大正10年   夏にほ福岡農工銀行としての幕を閉じているから,その独自の歩みほ20余年間   であった。7,8年遅れて熊本(肥後)・宮崎・長崎,さらに数年経過して,  

大分・鹿児島の各農工銀行が,勧銀に合併されてル、るが,後者の2行は,先の  

(49)松井氏前掲論文125〜6頁。   

前掲『株式会社十七銀行沿革』によると,福岡県議会に「−・,従来十七銀行ヲシテ取   扱ハシ㌧り雷レル県金庫事務ハ来年度以後之ヲ福岡県展工銀行ヲシテ取扱ノ\シメラレンコ  

トヲ希望ス」なる案件が提出され,可決されたため(明治44年),同行は各方面に交渉   して,3郡のみの割譲で噴い止めたのである。   

(21)

第37巻 瘡4号  

−・9〃−−−  

福岡・佐賀に比べて,約18年延びているわけであり,その原因も追求さるづき   であろう。このように,九州内の7行をみて:も,合併時期別に8っのグループ,  

地域的にも南北九州と中間地帯,あるいは,農業を主としていた地域(県)と   工業の発達して.いた地域に従って,それぞれの農工銀行に,自らある程度の差   異が生じるのではなかろうか。それは,さら軋,九州と四国の農工銀行を比較   するという作業によっても,より一層の分析を裏附けることに・なるであろう′。   

又,こうした個別研究をふまえて,勧業銀行と農工銀行とめ類似点と相違点   を指摘しうるであろう。この両者ほ,もともと同一・趣旨から生まれたもので,  

類似的性格は当然であるが,−・般に,中央の金融機関と地方金融機関,大口   貸付を対象とするものと,小口貸付を本務とするものという違いから,さらに,  

地方紅密接紅根をおろし,その実情に即した営巣を行なうこ.とができるとヤ、  

\ご・=  

点でほ,むしろ,勧銀の欠点を補うものとして期待されたのである。   

それ故に,明治中期より大正年間を通じてご,地方農業金融の主要な役割を   したとの農工醜行の具体的な房究を,尚一層,続ける必要があると思う。 

(後記)本稿を草する紅当っては,福岡銀行の中村浩理氏,大分県   日田市の安心院家の皆様に.,史料紅かんし種々お世話にな   りましたことを,ここに記して感謝申し上げます。  

61)佐伯氏前掲苔70〜71頁。   

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