「分子の立体構造の視覚的教育法」
著者 山辺 信一
雑誌名 奈良教育大学教育工学センター研究報告
巻 3
ページ 51‑57
発行年 1980‑03‑08
その他のタイトル An Educational Use of Perspective Diagrams of Molecular Structures
URL http://hdl.handle.net/10105/4660
山辺信一(教育工学センター)
An Educational Use of Perspective Diagrams of Molecular Structures
SHmichi Yamabe (Educational Technology Center)
Abstract
Before teaching the concept of the quantum theory, it is needed to give an intuitive idea of molecular structures. By the use of two display computer programs of molecules, the perspective diagrams of three‑dimensional skeltons of various species are presented, and its educational signifi‑
cance is discussed. For the introduction to the microscopic world, the easily understandable pictures which appeal strongly to students should be adopted as much as possible. After demon‑
strating these pictures, teachers may call students'interest through explanation of the relation between the structure and the electronic distribution.
Key words:
Molecular structure Visual method
(I)研究目的
現在使われている高校化学I 、 IIの教科書において、 Lewisの電子式から原子軌道を用いた 化学結合論への話の展開は、生徒が理解に苦しむ箇所ではないかと懸念される。これについて は、電子の分布という量子論的概念が数学的記述に基礎を置いていること、およびいくっかの 型の混成軌道がなぜ結合論に必要かの説明が不充分であることが原因として考えられる。特に 後者は分子の形と関連して、生徒自身に立体的な感覚が与えられていないとなかなか理解しに
くい。その意味では、 Sp2やSp3などの混成軌道と、分子の立体構造の対応を言う場合、まず 後者の分子の3次元的ひろがりを正しく把握させる必要がある。もちろん分子の形と電子状態 はどちらが原因でありどちらが結果であるかの点では"にわとりと卵"の関係にあるが、少な くとも高校レベルの教育においては、分子構造の話を先にもってきた方がわかりやすい。すな わち、分子がこういう形をしているから、原子軌道Sとpがどういう混成軌道を形成しなけれ ばならないというタイプの説明である。この目的のために、球や棒を用いる分子模型があるが、
自分の体験では教壇でそれを使って説明しても生徒の反応はあまりよいとは思えない。それよ りも生徒1人1人に教科書やプリントとして、分子の形を立体的な図で手許に与えた方がより 深く彼らの印象に残ると期待される。そしてそれが、結合論へ話を移す際の助けになるであろ
う。
本稿では、電子計算機のplotterプログラム、 NAMODl'とORTEp2)を用いて、いくっかの 分子や相互作用系の立体的な透視図を作製し、それが分子構造の3次元的な把握にどれだけの 助けになるかの試みを述べるO
(II)研究方法
現在、分子構造表示の電子計算機用プログラムとして、 Ⅹ線結晶解析のソフトウェアORTEP Oak Ridge Thermal Ellipsoid Plot)および名古屋大学理学部物理学科の別府良孝氏が作 成されたNAMOD (Nagaya Molecular Display)が広く使われている。これらのプログラムは分 子の遠近感を球の大小で定量的にあらわし、かっ「隠線消去」といって、視角により隠れる原 子や結合は自動的に消されるので、作成された分子構造の図は非常に直観に訴えるものとなっ ている。特に、著者は本研究用に、分子軌道計算プログラムGAUSSIAN703)を応用し、分子 内の角度や結合のパラメータを入力することにより、分子構造の図が描けるようNAMODプロ グラムを改良したo図のplotは京都大学大型計算機センターのCalcomp‑960 X‑Yプロッター によった。
(Ill)研究結果
C2H6
図 Staggared型ethane (C2H6)の分子構造。 NAMODにより描かれた。
?‑‑45‑の方向から見た図。
b) ♂‑‑90。の方向から見た図。太い方のC‑H結合は手前にある。
ただし、 ♂‑0つま+Z軸に沿った視角。
図1 a)にstaggared型エタンの分子構造を示す。それは基本的な飽和炭化水素で2っの炭 素原子上でそれぞれ4つのSp3混成軌道が延びている。図1 b)は同じエタンをⅩ軸方向に沿 って見た時のものであるが、有機化学ではstaggared (ねじれ)型とeclipsed (重なり)型の 配座異性体を下図で区別する。教育上、下図を導入する際、図1があれば、エタンの回転異性
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体の説明が容易になると思われる。
図2にジボラン B2He)の形を示す。電子欠損 分子BH3が二呈体となり橋かけ構造が作られる。
ここでC2HeとB2Heの構造の差異を電子論的に解 説すると面白い。すなわち、 「なぜ炭素とホウ素 が入れかわるだけで図1と図2の形の遠いがでて くるのか?」と生徒に問いかけ、彼らの興味をひ き起せないか。これは大まかに言えば、エタン内 のすべての結合が電子を対で与えられるのに対し、
ジボランでは結合の数に比して電子数が足らない ために、仕方なしに3中心2電子型結合で、電子 不足分を"ごまかしている"ことによる。このジ
ボラン内の不十分な電子割りあてのために橋かけ のB‑Hh結合は通常のB‑Ht結合より長い。以 上のことを含めて、 Lewisの電子式で示されるよ うな正しい電子対の割りあてがないと、それに伴 って分子構造が不自然な構造を持たされることが 理解される。
図3にCHI 陽イオンの構造を示す。この陽イ オンはイオン源内試料圧を高めた質量分析の際生 ずるが5)、 B9Hfiの場合と同様、結合の数に比べて 電子数が不足している。よって、炭素より下側の 3っの水素はピラミッド形で、メタン(CH4)と あまり変らないが上側で3中心2電子結合を作っ ている。それは、 C‑HiがC‑Htより長いこと で示されている。
B2H6
図2 Diborane (B,H6)の橋かけ構造NAMOD)c Hbはbridgeの位置にある水素、Htはter‑
minal水素を示す。図中の結合距離は実験値4) を用いた。
H.H
む \ H
二一
\£ イ一 IH
%cyH 60‑‑f
H鞄
STAGGAREDECLIPSED
図3 Protonated methane (CH㌻) の構造 ORTEP)。図中の結合 距離はMO計算値6)による。
蓋一一一ノ′
0.0583 =二日
a H:‑(Cs) 若一一/ b亘(C3V)
図4 Hnクラスターの構造(NAMOD)。図中のマルは水素原子をあらわし、数値はA単位。
Cs、C3Vは系の対称性、点線は分子間力の存在を示す。
図4に、水素原子のみで作られるH*の2つの可能な構造を示す。これもCH5+と同様質量分 析の際にあらわれるカチオンであるが、その*J山ま真申の3角形にある。つまりHaま2電子3 中心結合より成り、まわりのH2分子はそのカチオン性を緩和するように配位している。その意 味では、 H3+は一般にHnl型クラスタ‑増長の際の「核」になっている。図4は、点線で示され た分子間力を生徒に直観的に把握させるための教材になると期待される。
分子間力の中で最も重要なものは水素結合である。図 5で、右図の水の2量体を定量的に描いた。図5は明確 に2つ目のH20の遠近感を示している。教師が生徒に水 素結合の解説をする際、この図より構造に関する説明を 省け、いきなり本論に入ることができる。特に、この系で の教育上のポイントは0‑H‑‑10が直線に並び、それが 水素結合の一般像であること、およびB H20のH‑0 結合がA H20の0原子上の1one pair電子雲へ向いて いることの2点であるO あと、水素結合エネルギーが数 kcal/molであることを言えば、高校程度では十分であっ て、それ以上の余計な情報はかえって教育上マイナスで
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面害芸呈㌫43 ItI誓言;u霊票慧禁豊富l 意義は「立体的緊張(sterichindrance)」とそれを含 む環状化合物の安定性の間の関連を述べる際に兄い出せるoすなわち、図1のエタンの炭素原 子上の4本の結合がお互いに109‑28'のSp3混成軌道方向にひろがっているのに対し、cubane の各炭素上から3本のC‑C結合が"きゅうくっな"90‑の角度に延びている。このサイコロ 形の構成は、各炭素原子に無理な結合軸方向を強要しており、従って分子としての熱力学的安 54
0 0.B
三一三≡
a
(H20), 図5 水の2量体(H,0),の構造(NAMOD)。
a)水素供与体の水(B)を手前に持ってきた図。
b)水素受容体の水(A)を手前に持ってきた図。
魂
C8 H8
図6 Cubane (C8H8 の構造(ORTEP)1'‑2).
立方体の各頂点の大きな楕円体が炭素原 子、小さい球は水素原子を示す。
定性に欠ける。事実、 cubane分子の有機合成は困難とされている。このように「環状分子にお ける不自然な結合角の内在」 ‑→ 「分子は存在しないか、あっても不安定である」‑「反応性に富 む」を教える際、 3次元的な図は特に必要となる。
1.10 A
H
1.25 Å
/"響
図7に二つのN2H2同志の反応の遷移状態での各原子の位置を示す。遷移状態とは反応座標に 沿った径路上の自由エネルギーが極大になる点(鞍点)を指すが、ここではM工NDO/3 分子軌 道計算7)によりそれが求められた。この反応は、 Diels‑Alder型の応用例で、B N2H2の2つの 水素がA N2H2に移動し、 Bが窒素分子にかわる。現在、理論計算によりいくつかの小さい分 子の反応の遷移状態の姿がsimulate (追跡)できるようになってきたが、この種の図は教育上 にも必要であろう。それは、反応に伴って各原子がいっせいに動き出し、決して、例えば移動 する水素だけがB N2H2からまず飛び出すわけではないといった重要な点を理解させられるか らである。高校の教科書はよくH2+I2‑2H工反応をとりあげ、 4っの原子が台形を作ってい
(N2H2)2
図7 cis‑diimide (N2H2)のDiels‑Alder型反応、
N2H2+N2H2‑N2H4+N2、の遷移状態の原子 配置(NAMOD)。
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る定性的な図が描かれてい るが、ここで示されるよう な定量的な図を生徒に与え
ることによって、遷移状態 について、より具体的な話 ができると期待される。
(Ⅳ)議論、結論、今後の課題
本稿では、分子や反応についてコンビュ‑ターで描かれた3次元的な図をいくつか紹介した。
従来、化学の教科書では分子構造をあらわすのに「豆細工模型」や「縮尺模型」などが使われ てきたが、本稿で紹介した図の方が直観的に把握しやすいと期待される。それを教材として用 いるのは、生徒に3次元的感覚を養わせ、電子論、化学結合論‑の話の糸口をっけるためであ る。すなわち、このような図を見せた後、構造についていろいろ比較の形で生徒に問かける。
Hjtま正三角形(D3h)だが、町は直線(D∝)h)の構造をとるのはなぜか B2H6とC2H6の構 造の違いは NH,はかさ型でBH,は平面、 etc‑・。その次に、 ̀惟方なく(必然的に)"、結合 論、電子論を持ち出して構造の差異を解説する。
元来、日常生活で、直接目に見えない対象物の分子を扱うことは教育上困難であるのは当然 である。なぜなら、生徒にはいかなるミクロの世界の描写も、それらは実在物ではなく単に現 象をうまく説明するための方便(約束事)としか聞こえないはずだから。しかし約束事か実在 物かどちらと認識しようが、教育上必要なことは、ミクロの世界、特に立体化学、に対する直 観的印象を与えて、まずその世界に慣れされることであろう。その意味で、生徒が受け入れる かどうかの基準は用いる立体図の理解しやすさにかかっている。研究論文でも、教材でもその 種の構造の図を載せる場合、それに脚注の説明が要ること自体、図が不完全な証拠であって、
わかるために努力を要するような図を用いてはならない。それは教育者、執筆者の怠慢である。
どの学問でもそうだが、導入部分での約束事(定義)、注釈の乱発は生徒をうんざりさせ、教育 的効果を半減させる。少なくとも、物理、化学でのミクロの世界を教える際は、教育者は言葉 使いや厳密さをある程度捨てて、その世界の印象を与えるようにすべきであって、彼らを専門 分野に引っぼりこもうとしてはならない。
図3の作製に大阪市大・理の島村吉祥博士、図7の遷移状態決定に京大・工の湊敏博士の協 力を得たことを感謝する。
(Ⅴ)文 献
Y. Beppu, Program ♯ 370, Quantum Chemistry Program Exchange (QCPE), ll (1979).
C. K. Johnson, ORTEP, ORNL‑3794, Oak Ridge National Laboratory, Tennessee (1965)
and C. K. Johnson, ORTEP‑I王. ORNL‑5138, 3rd Revision, Oak Ridge National
Laboratory, Tenessee (1976).
3) W. J. Hehre, W. A. Lathan, R. Ditch field, M. D. Newton and J. A. Pople, Program ♯ 236, QCPE, Indiana University (1973).
4) L. S. Bartell and B. L. Carroll, J. Chem. Phys., 42, 1135 (1965).
K. Hiraoka and P. Kebarle, J. Ame. Chem. Soc. 97, 4179 (1975).
6) V. Dyczmons, V. Staemmler and W. Kutzelnigg, Cliem. Phys. Letters, 5, 361 (1970).
M. J. S. Dewar and S. Kirschner, J. Ame. Chem. Soc, 96, 5246 (1974).