奈良教育大学学術リポジトリNEAR
風流踊歌考 −語りぐさをめぐって−
著者 真鍋 昌弘
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 29
号 1
ページ 245‑267
発行年 1980‑11‑25
その他のタイトル A Study on Furyu Odoriuta −Concerning
Katarigusa−(Excerpts of Legends and Tales)
URL http://hdl.handle.net/10105/2436
奈良教育大学紀要 第29巻 第1号(人文・社会)昭和55年 Bull. Nara Uniy.Educ,Vol. 29, No.1 (cult. & soc. ), 1980
風 流 踊 歌 考
‑ 語 り ぐ さ を め ぐ っ て
‑ 真 鍋 昌 弘
(国
文学
教室
)
(昭
和五
十五
年四
月二
十二
日受
理)
は じ め に
日本歌謡史上へ 1つの注目すべき歌謡群として、中性小歌圏歌謡
の流れを受けて成立した風流踊歌がある。風流鏑は近健初期あたり
に隆盛と定着を見たものとされており'現在も'民俗芸能の中心的
ジャンルとして、雨乞踊・太鼓鏑などの名前で'西日本を中心とし
て少なからず伝承しているが'歌謡文芸として最も重要なその歌詞
は、踊歌本其の他の書き留めによって知ることができる。中世小歌
圏歌謡の様相を探‑残しながらへ伝承過程においてへ その素材や表
現の上で'近世的変貌も少なくなかったであろう。またへ どこま
でが風流桶歌であるかという点もかなり難しいと言える。しかし、
例えば丹後の笹嚇子・播但地方のざんざか柄・河内の拍子踊・阿波
の神踊などの如‑、それぞれの地域に伝承する特色ある色々な種類
を抱え込みながらもへ その様式や内容面からして'広い意味の風流
踊歌群という大きな1つの世界は、ほぼ認定することが可能になっ
てい
る。
本稿は、その広い意味の'しかもなるたけ広い地域における風流 踊歌群の中で'伝説や物語あるいは語り物などの断片をうたう'いわゆる語りぐさ系列の歌を烏臓し、紙幅のゆるすかぎりにおいて'25項目に分けてそれらを摘出・判定する。それぞれにおいて、今後、
L ̲ ・
・ I1 1
かつて二つの拙稿において書いた如‑、より詳細に'その歌謡化の
文芸的手法や庶民生活における風流の実相などについても'述べて
お‑必要があろうと思われる。
各項の標題は'1応その踊歌に出て‑る語りぐさの主人公名を出
した。各踊歌本(書名は﹃ ﹄で示し、標題のないものや欠損して
いるものは踊歌本とした。それ以外のものは口承の記録) について
は、ほぼへ 旧国名・郡又は市町村名・書写年次・所蔵者名・踊歌本
の題・問題とする踊歌の名称、といった膿に示し'紙幅の都合'そ
れぞれの歌詞の例示は最少にとどめた。翻刻されたもので'本稿に
関係した資料のみ'所載誌名・翻刻者名を最後にまとめて掲げてお
いた
。
︹こ 牛若・弁慶 日 生若干斬人
イ 和泉・岸和田市・文政十三年本・兵主神社蔵・﹃当社祭礼小
245
リ チ ト へ ホ ニ ‑ ロ踊﹄
・牛
若踊
和泉・且塚市・本田氏蔵・踊歌本・牛若踊和泉・田尻町・南清右ヱ門本・﹃小躍歌﹄・牛若踊和泉・岸和田市・安政三年本・﹃拍子踊り歌﹄・牛若踊紀伊・有田郡・城山地方・雨乞踊・牛若踊紀伊・忍頂寺文庫蔵・﹃紀伊地方踊歌集﹄・牛若桶紀伊・高野口町・嵯峨谷神踊・牛若踊山城・相楽郡・原山・久保本・﹃踊寄企催如﹄・丑若をどり近江・甲賀郡・油日神社・慶鷹三年書写・平右衛門本・﹃小
踊り寄」・牛若蹄
ヌ 近江・守山市・古高・鼓桶・牛若おどり
ル 近江・草津市・上笠・安政三年本・﹃講踊稽古本﹄・牛若踊
ヲ 伊勢・1志郡・阿坂村・﹃鼓桶歌本﹄・牛若踊
り 伊賀・阿山郡・島ヶ原村上村・嘉永元年本・﹃雨乞踊歌﹄・
牛若
踊
力 但馬・朝来郡・和田山町・寺内・ざんざか踊・牛若踊
ヨ 播磨・姫路市・自国・明治十九年本・﹃早魅雨乞願関守音頭
井行列目録﹄・牛若踊
( :
・
・
・ ,
タ 播磨・加東郡・上鴨川・嘉永元年本・﹃あまごをどり﹄・丑
若をとり
レ 阿波・鳴門市・池の谷・﹃御神踊歌本﹄・牛若踊
ソ 阿波・鳴門市・三俣・﹃七夕桶歌集﹄・牛若蹄
ツ 江戸末期書写本・﹃阿波踊﹄・牛若踊
ネ 天保七年本・伏表紙﹃雨乞踊歌﹄‑つし若踊
ナ 忍項寺文庫本・﹃徳島地方踊歌集﹄ こ銃世音他
牛若千人新の話型をふまえたグループで'この歌謡群における語
りぐさ系列の代表。ネ以外は'例えば'
ニ 牛若殿は五条の橋で千人切をめされた 九百九十九人までは
きられた
のように'「五条橋」 の型でうたわれ'ロバニへトチ‑ヌルカヨタ
は'右引用の如‑「九百九十九人」を斬るパターンでうたう (タは
「九百九十」とあるが、「九百九十九」の誤写と見る)。また'ロ
バニへ‑ルカヨタは、その 「九百九十九人」を受けて'それぞれ
「弁慶」を出す。ソは、︹六︺牛若・浄瑠璃御前t の語りぐさにも関
係す
る。
このグループの中で'次に引用するように'七例はそのうたい出
し及び締め括りが同じである.それぞれ一部分抜き出すと'
( マ マ )
イ あら美‑しの牛若殿や日本一のむまれ人‑‑五条の橋で姿を
みれば烏か小鳥か空飛ぶ烏か 千人切りの見事さよ‑㌔
ホ あら美しの牛若殿や日本で1の誉れ人‑・・・五条の橋で姿を見
れば烏か小鳥か空飛ぶ烏か 千人切りの見事さよ
り やらうつ‑しの牛若様ハ日本一のまわり人‑‑五条が橋へと
出てハみたれど とりか小鳥かとんぼ雀か まづハ見事な千
人ぎり
り やら美しの牛若殿は 五つでは親に勘当‑‑学文を召さりよ
ば召され 千人切を召され候 ‑
レ あら美しの牛若殿は鞍馬へ参りて‑‑五条ケ橋で姿を見れば
烏か小鳥か空飛ぶ烏か 千人切の見事さえ牛若殿の見事さえ
ツ おもしろの牛若どのや 五つてハ‑らまへ参り‑‑五条の橋
てすかたをみれバ 烏か小鳥かそらとぶ烏か 千人きりとや
を も し ろ し
︿
ネ やらうつ‑しのうし若殿ハ 五ツでハおやにかんとうめされ
候‑‑が‑もんもめさりよハめされ 千人きりをめされ候
′ /
\
の如‑うたわれている。 ツとネは伝承地不明とされていたが' ツ
は、「烏か小鳥か空飛ぶ鳥か」 で締め括りへ 第二聯目を'「昼は学
問」 「夜は太刀を打つ」とLへ しかも「日本1の」 の部分をもたな
いところからへ その書名の如‑'レソと同類で、阿波の神踊歌系
の書き留めと見ることができ'ネは'「五つでは」 のあと「六つで
は」と'わらべうたの成女謡に近い部分があること'「烏か小鳥か
空飛ぶ烏か」がないこと'などからりにも見える伊賀の系統ではな
いかと思われる。ともか‑'「あら美しの牛若殿や」 の系統は、主
に和泉・紀伊・近江・伊賀・阿波に伝承することがわかるが、さら
にこれの'「あら美しの」の部分のみについて見ると'
高田の町をヤレとおりて見れば あらうつ‑しのヤレぬりつぼが
さや ェィ あれがなとのどのみやげにしよ ィヤ みやげにしよ
ォット と云うてはとのどについもつれ ェィ いうてはとのどにか
いもつれ ェィ 高田おどりを1とおどり(丹波・氷上郡・谷村・
新発意踊・高田おどり)
わかさのまちをけさでてみれば わかさのまちをけさでてみれば
やらうつ‑しのあしげのこまや あれこそとのどのみやげにしよ
う (但馬・養父郡・若杉・ざんざか踊・ゆりあげ)
などにも見えるように、より広い地域に同類を求めることができ'
風流踊歌の代表的な発想・表現の型であったことがわかる。なかで
も'右の新発意桶の例や'阿波・名東郡・国府村・早測・神踊歌の
殿御桶における「やら美しのぬり (つ) ぼ笠、あれがな殿御の御陣
往2笠に'しようと言ふては殿御にもうつげる」などを通して、﹃閑吟
集﹄・48番'
あらうつ‑しのぬりつぼ笠や これこそかわち陣みやげ えいと
ろえとなえいとろえとな 湯口がわれた 心えてふまひ中た1ら
えいとろえいとえいとろえいな
へ'確実に至ることができる。おそら‑は'室町後期において、風
流踊歌として最も親まれていたであろう常春的な歌詞で、たたらの場本来の嚇子詞「えいとろえとな」と1つになり、仕事歌としても
定着し'1方ではそれがまた仕事の場を離れて'小歌としても当時
口ずさまれることもあったのであろう。この﹃閑吟集﹄の書き留め
を参考として'イホ‑ワレツネの歌詞が、室町期風流踊歌の口調を
残し
てい
る事
が確
認で
きt
よ
り広
げて
、︹
一︺
牛若
千人
斬、
の類
型も
、
室町ぶりをほのめかす古風であると見当づけてお‑ことができる。
周知の如‑'﹃義経記﹄では'弁慶が五条天神で千振りの太刀を
奪い'﹃弁慶物語﹄でも同様であるが、場所は五条橋となる。謡曲
﹃橋弁慶﹄ ﹃笛之巻﹄では'牛若が五条橋で、小太刀をもって斬り
廻り'人を失う。﹃橋弁慶﹄の問狂言では「千人斬り」と言ってお
りへ 御伽草子﹃橋弁慶﹄も同類である。寛永二年書写・古浄瑠璃
﹃常盤物語﹄・七段目でも'五候の橋詰めで千人斬り'九百九十九
人までになったと語りへ 古浄瑠満では別に延宝七年刊 F牛若千人
闇B E
切﹄が同様の語り口であると報告されている。牛若の様子は 「蝶
烏の
如‑
とび
ちが
ひ」
(
F弁
慶物
語﹄
)、
「蝶
烏の
如‑
なる
由申
し候
」
(謡曲﹃橋弁慶﹄)などとあったりする。「九百九十九本の太刀」は﹃義経記﹄以下に見えへ 「九百九十九人を斬る」 型は'語り物で
は、古浄瑠瑞においてはっきりする。この風流踊歌︹1)の部類は'そうした伝承の中に生まれたものであるが、内容からゆ‑と、謡曲
・古浄瑠瀬の系統ということになろう
ナは、次に引‑ように、ど‑断片的に関係歌詞が見えているのみ
であ
る。
いよとも出してハ'源の牛若どのハ 五候かはしで千人切を 其
よし弁慶見るよりも 其よし弁慶かなわひで
︹二︺ 牛若・弁慶 臼 弁慶千人斬
イ 伊賀・上野市・小田・慶応三年本・﹃雨乞踊歌﹄・牛若踊
ニ ノ\ ロ
伊賀・忍頂寺文庫本・﹃伊賀地方踊歌集﹄・牛若踊
三河
・新
城市
・天
保本
・﹃
放下
歌﹄
・牛
若ど
の
近江
・草
津市
・渋
川・
明治
二十
八年
本・
﹃雨
乞御
躍花
踊歌
﹄
風流桶歌考
(真 鍋昌 弘)
・弁慶おどり
ホ 播磨・宍粟郡・鷹巣・八月踊・弁慶踊
これらはともにへ 弁慶千人斬をうたう。イロバは牛若踊'ニホは
弁慶桶と題している。ニホは弁慶を題に置いているように'イロバ
に‑らべて'弁慶中心にうたっていると言える。場面はやはり五条
橋型で'﹃義経記﹄ ﹃弁慶物語﹄などに見える弁慶千振り太刀奪い
と、︹こに見た牛若千人新とが混合した語りぐさの歌謡化。物語類
にある'弁慶千振り太刀奪いの型は'風流踊歌には見えない。謡曲
﹃橋弁慶﹄系統の1つの変型として'︹こに附属させてお‑ことも
できよう。伊賀以外は「九百九十九人」をうたう。
イロは同7系統本で、所収踊歌も同じ (踊歌の題で'イの 「大神
楽踊」 「小神楽踊」が'ロでは「大順達」 「小順約」となっている
程度の違い。伊賀では「じんや‑踊」というのが1般的な呼び方で
ある)。牛若桶の歌詞も両者相違はほとんどない。ハは、「お寺へ
参って御門を見れば」ではじまる「お寺踊」系統の類型から発展し
たもので、「九百九十九人目」にもうたい及ぶがへ その歌詞の流れ
は'やはり畿内のものと趣を異にし、放下踊歌独自なものとしてよ
い。ニは、歌詞が明瞭ではなく、「はうぐわん殿とべんけいと」が
千人切を召されたとあるが、第二聯以下へ 弁慶がうたわれているの
で'このグループに入れておいた。すなわちへ この弁慶踊は、
扱舞慶 具足は何とた‑まれた かみ六だん八唐糸ぞろよ しも
七だんはむらさき糸よ あやのはずして拾三所とおとされた 排
塵おどりハ 1おとり︿
の第二聯以下'弁慶の兜・母衣・刀・槍を歪めているからへ各地の
具足踊'あるいは寅松桶などに近いものと言えよう。語りぐさの主人公をまず掲げて'以下こういうふうにへ その衣装や武具の1つ1 つを取り上げてうたい尽すのは、語りぐさを歌謡化する代表的な手法と見ておいてよい。風流桶のいわゆる「風流」 の心の具体的な現れであり'それが同時に祝言性をかねている。
ホほへ その最後の部分に特色があって'
弁慶の!‑1 ヨヲ 切たるりよぶをつ‑してみれば 門の内でのし
のび切り ヨヲ 袖のうちでのか‑しぎり ヨヲ た1みの上でのす
べりぎり 併風のうちでのたとみぎり ヨヲ ついじの上でのしば
らい ヨヲ 水の上での なみか‑し ヨヲ とんぼかやりの水車
ヨヲ やつはら刀できらせたをば ついには弁慶かなはざるもの
ヨヲ ベんけいをどりは是迄よ!\
とある。「ついには」以下混乱があるが'このように弁慶兵法尽し
となっている。幸若舞曲や室町時代物語で、太刀や長刀の手に及ぶ
場面は多いがへ ここで特に注意しておいてよいのは、すでに︹こで
も引用した、寛永二年本の古浄瑠璃﹃常盤物語﹄における兵法尽し
であろう。つまりこの五修橋・牛若千人斬の場面以下へ 鞍馬で天狗
から兵法の伝授を受ける部分、関原与一との決戦の部分(風流踊と
しては次の︹三︺参照)へ 美濃の国・山中で夜盗へ復俳を行なう部分
の'都合四箇所にもわたって詳細に語られている。いま右と関係す
る兵法を抜き出すと次のようになる。
ひやふのうちてのたゝみきり つゐちのうへてのはらひきり な
みのうへてのとう‑1きり たゝみのうへてのへりか‑し つゐ
ちのうへてのしははらひ みつのうへてのうかみきり ひやうふ
しやうしのた1みきり とんほうかへり みつくるま
これらは'牛若の兵法として 語られているが'「弁慶の兵法へ尽
しみれば」として、適当に並べ補えば'すぐにホの右掲の部分は出
来上る。「ついには」以下、ホの内容の流れからして'混乱がある
としたが、「ついには弁慶かなはざるもの」とするのがむしろ本来
の語りに則したものなのであって、そこにうたわれている兵法は'
実は'弁慶を倒すために牛若が楓爽と使ってきた秘術なのであっ
た。つまりホの背後には'寛永二年本﹃常盤物語﹄'あるいはそれ
と同系同類の牛若千人斬を語る古浄瑠璃を見ておいてよいのではな
いか
と思
われ
る。
︹三
︺
年若
・関
原与
一
イ 和泉・且家市・半田村忠右ヱ門本・﹃神おどりうた手はん﹄
・牛若おどり
ロ 紀伊・高野口町・嵯峨谷神踊・年若踊
イは四聯から成っている。はじめに七つの年の鞍馬入りを置いて、あと三聯は次の如‑うたう。
牛若殿はあづま‑だりのかどいでに!‑'関原与1に出合して1
と太刀ぬいておなぐさむ
牛若殿はやる手引お手に裏表て!1'蔦のお手ちつ‑さるる
牛若殿は乗りたる馬にむち打って!‑へ しよろり ‑ 谷を乗りた
も, つ ロは、牛若千人斬をもうたうので、すでに︹このトとして出した
が'これでもその1部分に'
ァ牛若殿ア東国下り と御触有りや 東下りやァ東下りの門出に
や 関原与一にいきようてァ そこで一立召さるどや!‑‑
とうたわれている(「一立召さる」は、イにある如‑「一太刀召さ
る」
の意
)0
関原与一は、牛若東下りの一助に登場する脇役である。幸若舞曲
「鞍馬出」では'東下りの途中へ牛若が近江松坂に着いたところ' 美濃国住人、平家方関原与1が'椀飯役を受けて都へ上るのに出くわす.与1の馬が牛若に泥をかけた上、部下に命じて狼籍をはたらいたので'牛若は与1を懲らしめて立ち去る.謡曲﹃関原与一﹄もその筋はほぼ同じであるがへ その最後のところは'「駒駆け寄せてえいやとうった太刀を'飛び違ひ切り落しへ駒引き寄せてゆらりとうち乗りへ 太刀さしかざし'われは知らずや源の牛若と'名乗りののしり美濃の中道へ東路さしてぞ下りける」とうたっている。イの最後がこれに近いおもむきをもっているが、直接的関係は説明できないとしてよかろう。幸若では'最後に駒でゆうゆうと引き上げるところは語らない。もう一つは'古浄瑠瑠で関原与一が出て‑るOかつて横山重民によって紹介せられた零葉1枚物と'︹11︺で引いた寛永二年本﹃常盤物語﹄・第八段とにおいてである。前者は断片であるからいまは取り上げないとしても'後者では、判官と与1との対決が最も詳細に‑ど‑どし‑なっておりへ特に牛若の兵法尽しと'与一の子供・十三才になる「いぬはうまる」 の登場を加えてへ浄地盤作品的様相を濃‑しているのであるが、ここでも歌詞の対照は不可能であるo しかし、1応その事若・謡曲・古浄瑠瑠の各ジャンルに受け継がれてきた関原与一の語りぐさとの関係において、このイロの位置を決めてお‑べきだと思う。また'金剛・葛城山脈の両麓に伝承していたのであるからへ その伝播についても今後聞き出す必要があるかもしれない。︹
四︺
牛
若・
金売
吉次
イ 近江・草津市・上笠・安政三年本・﹃講踊稽古本﹄・奥州踊
口 山城・京都市・久多・﹃花笠踊本﹄・金うり吉次
イは奥州踊'ロは金売吉次と題するが'歌詞は同系統と見てよ
風流踊歌考
(真 鍋昌 弘)
い。ともに熊坂長範をもうたい込むもので'物語の上ではもちろん
︹三
︺及
び︹
五︺
と一
連の
もの
であ
る。
最初
の、
r , つ し ォ
‑ .
‑ . 蝣
」
イ かねふり橘治は奥州へ下る 北国をそろりと出て 刃の宿の
菊屋敷へよ!1 奥州桶をいさやおとろよ!\
口 金うり吉次はおうしゆえ下る きたのかうりをそろりと通り
き‑やどのに宿とりそろて いふべの荷をもつみやおかれた
にうたわれている「菊屋」は'﹃義経記﹄'謡曲﹃烏帽子折﹄、﹃熊
坂﹄'古浄瑠瑠﹃義経記﹄などには見えず'幸若舞曲﹃烏帽子折﹄
の冒頭に出て‑るものである。
抑安元々年三月中旬に'源の牛若殿'‑らまの寺を御出ありへ け
ふよろこびに近江なる野路の宿にて'吉次信高に行合せ給ふ。其
目の留りはかゞみの宿'吉次か宿は菊屋ときこゆる (大頭左兵衛
本・内閣文庫本'その他)
続いて両本とも'荷物の番をする年若の細目をうたう。すなわ
ち、イ 菊屋とのに宿取そめて 七駄片馬の荷を積おゐて 丑若殿は
荷の番召れ 左の御目を卸休おゐて 右の御自て番とめされ
たヨ!‑‑ 奥州おどりをいざやおどろよ‑‑I
ロ 年若どのは荷の番しよよの みぎの細目はおやすみ候て左
りの御目でばんのあそばす
とうたうが'これも「菊屋」 の場合と同様、幸若舞曲﹃烏帽子折﹄
の'吉次1行の荷物の番を牛若がするところの語りと対応させるこ
とが
でき
る。
こむねむどうの腰の物一文字におさしあり かうかいぬき出枕と
さだめ ひけ切の卸はかせを腹の上にたふどをき 弓手の足をさ
しのへ めての足をきつとたて 弓手の細目のまどろむまに め ての御眼か 天じゃうをはったとにらむで'とのゐをしてこそふさ
れけ
れ
(大
頭左
兵衛
本)
熊坂長範をはじめとする盗賊の数を、「七拾飴人」 (イ)、「七拾四
人」
(
ロ)
とす
るの
も'
幸若
舞曲
の'
奴も青野が原にt よりき仕る盗人どもは誰々ぞ.先づ一番に越後
と信濃の境なる熊坂長範親子六人坐するへ (中略) このものども
を先として、大将七十飴人、その外都合小盗人三百人に過ぎざり
けり
(
寛永
坂本
)
とあるへ その 「七拾飴人」 (上山宗久本へ 大東左兵衛本なども同
じ) と同一であることがわかるLt また'風流踊歌の方で'長範が
ただ一人最後まで残ったとうたっているところ、結局「二つに割ら
れ」 てしまったところなども'関連は認められる。
謡曲﹃烏帽子折﹄では'牛若の超人的な目の使い方はな‑'七拾
鉄人の数も見えない。あえて近い数を引き合いに出すならへ 「高瀬
の四郎」が'今夜の夜討'形勢悪Lと見て'「手勢七十騎で退い
て」ゆ‑部分、﹃熊坂﹄の方で'「究貴の手柄のしれ者等'七十人
は典力して」とあるあたりが比較的近いと言えるぐらいであろう。
﹃義経記﹄でも'「何れも聞ゆる盗人、宗徒の者二十五人へ その勢
七十人連れて」(日本古典文学大系本)とある。幸若舞曲﹃烏帽子
折﹄以外で'超人的な日の使い方の説明'盗人七十偉人の語り口は
見あたらないということである。
これらによって'この近江・山城に伝承するイロの系統は'幸若
舞曲﹃烏帽子折﹄に最も近いと言うことができる。対照させること
によってへ 語りぐさを踏まえた歌謡化の手法をうかがうことができ
る部
分で
ある
。
︹ 五︺
イ
ニ ノヽ ロ
牛若・五郎大夫
播磨・宍粟郡二戸倉・ざんざこ踊・ゑぽLをり
播磨・宍粟郡・道谷・ざんざか踊・烏帽子踊
但馬・美方郡・久谷・ざんざか踊・高木もがれ
明治三十年本・菖蒲邑・久賀芳吉蔵・﹃御神踊﹄・よんぽし
踊
烏帽子折の語りぐさで、イロバともに 「五郎太夫」という'鏡の
宿の烏帽子屋亭主の名を掲げている。ロを例にするとへ
ヤ牛若君は夜の問に元服せぼやとて 牛若君は夜の問に元服せぼ
やとてツイツイ 喋 ヤア宿の下女を近づけて ヤこの宿に ヤ
烏帽子折りは無いかとて ヤ御問ひある ヤ宿の下女の申せLは
ヤあれに見えし竹のもがりのその内に ヤ五郎大夫と申せLは
ヤ都に聞こえし烏帽子折り 都に聞こえし烏帽子折りツイツイ
(下
略)
とうたうもので'イはほとんど同じへ ハは、右掲の部分のみで見て
も前半が欠けている。謡曲﹃烏帽子折﹄では'「いかにこの内へ案
内申し候」 「烏帽子の所望に参りて候」と牛若が頼んでいるが'亭
主の名前は出ない。幸若舞曲﹃烏帽子折﹄では次の如‑ある。
あんのむかひ見えたるたかもかりの内こそ、五郎太夫と申て烏帽
子の上手にてさふらへ (大頭左兵衛本)
あのむかひにみえたる高もかりの内にこそ 五郎大夫と申てか‑れもなき烏帽子の上手にて候へ (上山宗久本)
これらから'ざんざか柄の烏帽子踊系統は、幸若舞曲﹃烏帽子 折﹄と関連をもち、なかでも'大頭系諸本の語り口に見えている
「五郎太夫」をうたい伝えていることになる (幸若系の'例えば内
閣文庫本では'五郎太夫の名は出ない)。続いて、左折りの烏帽子 を召す人は'イでは「壱にいまわかt に1をとわかよ、さんにくらまのうしわかきみわ」としへ ロでは「一条殿や二条殿、平家方では小松殿、鞍馬の寺に在はします牛若殿よりその他は」とする。ハはロと同じである。幸若舞曲﹃烏帽子折﹄ に見える人物名とは異なる。
ニはどの地方のものか明瞭ではないが'﹃日本歌謡研究﹄・4号
・解説では'和泉地方のものではないかとあるが、管見では'阿波・那賀郡・菖蒲村に伝来したものであろうと思う。イロバのざんざ
か踊系とは異なった歌詞で'例えば'
壱年一度か二年にふた1び‑るからわよんばし改人とある せ‑
世にあずけてとをすべし せ‑仕にあずけてとをすなら おりて
(ママ)にどなんハござるまい 左りをりかれいせいをりかとをせいカ
などは、幸若舞曲﹃烏帽子折﹄の'
其時烏帽子折の太夫 牛若殿をLやうし申 放‑わしや殿のめさ
れうする烏帽子は 大さびざうかこさびざうか 新せいやう当健
やう 如何様なるをめされうするそおこのみ候へ
あの吉次は一年に1度二年に二たひ折上する 其供して下(る)
‑わじゃ殿なれば心安‑おもはれよ (大頭左兵衛本)
に照合することができる部分であろうが、風流桶になってだいぶ‑
ずれてきていることがわかる。
なおへ幸若舞曲﹃烏帽子折﹄から出たと思われるものに、愛知県
注4・北設楽郡二ニッ瀬の念悌踊・「牛若殿」がある。段物で、風流桶
にも近いジャンルとしてよいが、
縫物なんぞの見事さよ 左手の肩の肩先に 小松を千本縫われた
千本の小松のその中に 源氏の氏神正八幡とや 社だんに鳥居を
縫われた
風流踊歌考
(真 鍋昌 弘)
以下衣装の紋様をうたいつぐ部分は、長範の手下が'牛若の衣装を
報告する語りを摂取したものである。
︹六
︺
年若
・浄
瑠璃
御前
イ 山城二男都市・久多・﹃花笠踊本﹄・牛若
口 美濃・本巣郡・下大須・雨乞踊歌・牛若丸
ホ ニ ハ
紀伊
・旦
局郡
・東
内原
・雨
乞踊
歌・
三河
踊
土佐・香美郡・手結・﹃手結浦八幡宮祭礼小踊唱歌﹄・牛若
踊土佐・﹃巷謡篇﹄ (天保十三年)・土佐郡神田村中踊歌・う
しわ
か
へ 阿波・鳴門市・三俣・﹃七夕踊歌集﹄・牛若踊
卜 安芸・山県郡・千代田・花笠おどり・大返り
これらは、古浄瑠璃の﹃浄瑠璃十二段﹄ などとして知られてい
たへ御曹司と矢矧長者の娘・浄瑠璃御前との恋の語りぐさをうたう
ものである。イは後半へ
矢はぎが宿に高札書て立るとも めぐらしふみをまはすとも 何
とひ‑ともなび‑まひ 雲にかけはしかすみにちどり をよばん
こひハせんものじゃ
‑もにかけはし霞にうき雲 およばんこひこそこひなれ
こよひの夜は しやかとあみだと ふげんとばさつに身をばまか
せ 是へこれへとしやうじある
とあって、1例を掲げると、「枕問答」 の 「上るり御せんは、なに
とも物はのたまわす。‑もにかけはしかすみにちとりt とはかりな
り。細さうしはきこしめし'‑もにかけはしかすみにちとりとのた
・ ^. i n
まふは、およはぬこひとのおはせかや」といった部分をもとにして いる。ニホは同系統であるが、
ニ牛若殿 浄瑠璃御前に忍ばれて 忍ふ女郎ハ十四也 牛若は
十五なり 十四十五の事なれハ 側におよるも愛らしい
ホ 牛若殿はしようろ御前を忍ばれて 忍ぶじょうろは十四なり
牛若殿は十五なり 十四十五のことなれば そばに御寝るも
愛らしや
と並べて'ホの「しようろ御前」が'浄瑠璃御前であることがわか
る。この部分も'寛文元年板﹃上るり御前十二たん﹄ で見ると'
「御
座う
つり
」
の、
細さうLは十五なり。上るりは十四也。十四と十五の事なれは'
なれうなれしのなれことば
に照らし合わせることができる。ーも「牛若様は十五なり上醇の姫
は十四なり十四と十五の事なれば歌と和歌とで夜を明す」 の部分は
同じである。へばへ ︹このソとして掲げたように、年若千人新をう
たうが'中にニホトで共通していた「十四と十五のことなれば」 の
部分を有する。そして'次に見るロにも同じ歌詞を指摘できるの
で'結果として'ロニホへトに共通する類型的な1節を確認するこ
とが
でき
る。
ロは雨乞踊歌としては長大である。「牛若殿の其の夜の装束に
は」として、詳細にうたってゆ‑が'例えば'
じゆんれの袴のけまはしに 唐土の猿を縫ほれたり 唐土は大国
とてせいを大きう 面を自‑縫ほれたり 召手の袴のけまはしに
日本の猿を縫ほれたり 日本は小国とてそのせいを小さう 面を
赤‑縫ほれたり 唐土の猿が日本へ越さじ 日本の猿が唐土へ越
さじ 起さう越さじの其の風情を 物に上手が手をこめて 五色
の糸で縫ほれたり
とうたうところは、﹃十二段草子﹄の'「笛のだん」、
唐土の猿と日本の猿とを繍はせたり たうどの猿は大国なれば
せいも大きにおもても‑ろ‑見えてあり 日本の猿は小国なれば
せいも小さ‑おもても赤‑みえたりけり 唐土の猿は日本へ趨さんとす 日本の猿は唐土へこさんとす 唐と日本との潮ざかひな
る ち‑らの沖にて行逢ひて 越さう越さじの境をば 物の上手
が秘曲をつ‑し繍ひてありをほとんどそのまま用いていることがわかる。このように、ロは浄
瑠璃御前物語における牛若の衣装紋様尽しを、出典としている。
ハは三河桐と名付けられているもので'
みかわの国のやはきのしゆ‑へいて見ればイヤ 四方障子にしせ
つのしきに
ではじまるもので'特に'
すあまに池を掘らせしっイヤ 池の中には島ついてイヤ 島から
陸地へ橋をかけイヤ 橋の下をながむればイヤ 浦島太郎はつり
のふねイヤ とうほうさ‑はうつろぶねイヤ 五色の糸でつなか
してイヤ 東南かよふの風ふかばイヤ みぎはへよれとつながし
て
とあるところは'赤木文庫蔵(山崎美成旧蔵)本﹃Lやうるり御せ
ん物語﹄の、四段・せんすいそろえ、に見える'
きたおもてのせんすいにわ うらしま太郎かつりふね とうなん
‑わしよかうつおふね 五しきのいとにてつなかせて Lやうら
‑かしやうのかせふかば みきわへよれとつながれたり
と対照できるLへまた'幸若舞曲﹃屋嶋﹄の、義経1行が奥州佐藤
継信忠信の館を訪れへその四季の庭を見物する段にも同じ文章が利
用されているところを参考にすることができる。すなわちハは'右 掲の﹃Lやうるり御せん物語﹄や辛苦﹃屋島﹄などを通して、和泉地方・﹃掃守郷藤井村神踊覚書﹄所載・四季桶へ通じていることに
注6もなるわけである。ハは1種の四季桶である。
この浄瑠璃御前の語りぐさをふまえているのではないかと思われるものには、別にへ愛知県・北設楽郡・三ツ瀬の念悌踊歌「山伏」
があって'「枕問答」 の部分が意識されたようである。
注7なお、この︹六︺と関連するものに'金高長者桶があるが'前稿で
ふれたので省略する。
︹七
︺
牛若
0
イ 近江・甲賀郡・多羅尾・文久元年本・﹃太鼓踊﹄・源氏
口 伊賀・上野市・小田・慶応三年本・﹃雨乞踊歌﹄・源氏踊
ハ 伊賀・忍頂寺文庫本・﹃伊賀地方踊歌集﹄・源氏踊
二 束永五年本・﹃野間村蹄歌本﹄・源氏踊
イは、別に﹃多羅尾太鼓踊歌拍子﹄にも所収されている。ロバは
ともに、︹二︺の牛若踊の場合と同様'「源氏踊」 についても同系香
書き留めている。ニは「野間村」とのみあって、その出所が明確で
ないとされているが、その所収踊歌2 5種中へ イロバに共通するもの
が1
1
種あ
り'
この
「
源氏
踊」
に
おい
ても
'同
系で
ある
こと
はは
っき
りしている.1例を掲げると'最後の歌詞は、四種とも'
イ すへははるぐまたながけれど 源氏の洞は是までじゃ
( マ マ )
ロ 末わ遥ぐまだ長けれど 源氏の桶は是わまわでノヲヤ!‑
ハ 末ハはるぐまだ長けれど 源氏の踊ハ是やまで
こ 末ハはる ‑ まだ若けれど 源氏の踊ハ是やまでさんや
である。また中程にある1行をとっても'
イ ここはひおろしふる雪あられかなはず!‑ものうやのふ
風流踊歌考
(真 鍋昌 弘)
ハ 愛ハ山道ふる雪やあらしならわぬかちみち物うや
こ 愛ハひばらき降雪やあらし おもへど叶わずや物思ひ
とある (ロは欠損部分)。すなわち、この「野間村」は'甲賀地方
に同名の村がないかぎり'ほぼ伊賀の上野市・野間であると断定し
てよいと思われる。
さて'これら四本に見える源氏桶は'これまでにたどってきた牛
若桶の1端に属するものであるが、そのうたい出しにおいて特色が
ある。つまり'
イ 我は源氏の牛若なれど!1月にも花にもすてられたイノ
わ㌫ロ 我等わ源氏の牛若なれど月にも見捻られてノヲヤ!‑
ハ 我ハ源じの牛若なれど月にも花にも見すてられてのふや
こ 我ハ源氏の牛若なれと月にも花にも拾やられ
は'謡曲﹃鞍馬天狗﹄・子方・牛若丸の科白へ
さん候 唯今の稚児連は平家の1門 中にも安芸の守清盛が子ど
もたるにより一寺の賞翫他山の覚え時の花たり 自らも同山に
は候へども よろづ面目もなき事どもにて 月にも花にも捨てら
れて候
を引いてうたっているものである。謡曲の詞章の利用という面で参
考となる部類である。
物語歌謡性という面では'ニが
ヽ
̀
、
<
・ ) i C ォ
‑
都堀川を早立出て奥州のひでみらへと落足られ
の行
を入
れて
いる
こと
(
︹7
0︺
参照
)、
また
、
イ ひとり小娘を浜浦におけばあぶなや!‑身をやすといの
こ 一人小娘を花浦においてあぶなや!1と身をハなげ
の部分が'ハでは、
ひとり静をお山にをけば皆と宿坊たちや心がわり とし'吉野山中に迷う静へ焦点を絞る方法をとっていることなどがt
応指
摘さ
れる
O
︹八
︺
牛若
ロ
イ 周防・熊毛郡・八代・花笠踊・牛若踊
口 安芸・山牌郡・加計町・伝天正九年(安政二年書写)本・﹃太
鼓踊歌拍子形﹄・牛若様
ハ 安芸・御調郡・久井町・祇園踊・‑らまひがき
7つの同1系統であるとすることはできないが'周防・安芸に伝
承するグループである。
イ 鞍馬の山から月が出た 月かと恩ふて出て見れば 牛若殿の
りうの駒
ハ ‑らまの山から月が出て 月ではな‑て牛若丸の乗りの駒
また
一方
では
'
イ 牛若殿はどこ育ち 鞍馬の奥の稚児育ち
ロ 牛若様はお小さいときに!1 イヨ 鞍馬のお山の稚兄育ち
i i 別 l
l
などと共通していて'それぞれ連鎖していると言えようし、特に三
種共に牛若の駒讃めとして構成されているところに特色がある。年
若伝説からの飛躍であり、風流踊歌化の一手法をここに認めること
もできる。衣装紋様尽しや具足揃えなどに発展してゆ‑手法と同様
に'祝言性を強‑出しているものだと言えよう。
イの中ほどに見える'
牛若殿のりうの駒 この駒何よとはめられた 連銭月毛にとら葦
毛 轡は何よとはめられた 妙珍轡をかまされて 手綱は何よと
はめられた 錦手綱をよりかけて 鞍をば何よとはめられた 金
覆輪の鞍置いて あや1の腹掛あら見事
の部分は'中国地方田植歌の'例えば、
田の神はいまこそござれ官の方に 葦毛の駒に金覆輪の鞍をなげ
しき 大和鐙にさかの轡に 紅梅手綱をしゃんとゆりかけ (﹃井
野串
崎本
田唄
集﹄
)
今日の田の三宝様はどちらの方からお出るの ‑ 龍の駒に錦の
手綱に 南の方からお出るの!1 (周防・都濃郡・EE植歌)
などに近似している。田植歌では、田の神の駒褒めである。田の神
は'判官(牛若・源) のイメージでうたわれる場合も多かったと思
われ
る。
︹九
︺
年若
ロ
*r cc
イ 駿河・安倍郡・平野・盆踊り歌・なにがた
年若踊という題はないがへ次の如‑うたわれている。
おとにきこへし牛若どのは なにがしよもんでしまわたる におさまるとらのまきもの これがしよもんでしまわたる のかわらでひろたるふへば とんろりとろりとおふきやる をおにLがききうけたまへ 八十やつぼのひろまのざしき
へこれへとしうじあげる
こ そ 十天 れ れ 三 下
徹伽草子﹃御曹子島渡﹄などで広‑知られている語りぐさをもと
にしている。渋川清右衛門坂で見ると、この 「しま」 は 「千嶋とも
ゑぞが烏とも申す」 「興がる嶋」 のことであろうし、「天下におさ
まるとりのまきもの」 は'「かの内裏にひとつの巻物有り、其名を
大日の法と申してかたき事なり」というそれをうたうのであろう。
と さ
また「十三のかわら」は'陸奥国・西津軽郡・十三を言うのであろ
うか。﹃加背子島渡﹄の 「四国とさのみなと」は地理的に不審であ 托9る。笛を吹‑場面は、御曹司一行が'千島の都に着き'牛頭馬頭阿防羅利などの鬼に笛を聴かせ'大王の城に入るところをうたっているとしてよかろう。「八十やつぼのひろまのざしき」は'渋川板で見るなら 「八十二間の贋緑」 あたりに対照させることができようか。諸本とのかかわりをもう少し詳し‑見てお‑必要もあるかと思うが (語り物の口調を残している伝本もあるという)'語りぐさを比較的変化させないで歌謡化している部類であろう。管見では'この語りぐさを踏まえたのはイだけである。︹
一〇
︺
義経
・正
尊
堀川
イ 山城・京都市・久多・﹃踊番附﹄・はり川踊り
堀川夜討をうたっている。
打でにのぼすは そをじゆんな もしこのきみを打へすば ふた
たびあといわかいらぬと をもいさだめてのはりそろ
「そをじゆん」は、﹃義経記﹄で「土佐坊呂俊」、謡曲は﹃正尊﹄へ
幸若舞曲﹃堀川﹄では'「正存」 (大頭左兵衛本) とか「正等」 (上
山宗久本) とかある。続いてt
はちじゆさんざのひとびとは 五条のしゆ‑にしんどりて うと
うつもうつあそばさる まへつさ1りつさかもりに
八十さんざのひとびとは はり川どのにどんとつかれて ときの
こへをもあけにける
とあり、「八十三騎」を三回繰り返している。﹃義経記﹄(日本古典
文学大系本) では'呂俊一行の人数は'「判官の悪日を選びて、九
十三騎にて鎌倉を立ち」 「九十三騎三手に分けてへ白地なる様にも
てなし、五十六蹄にてわが身は京へ入り」とある。これに対し'幸
若舞曲﹃堀川﹄では、「むねとの兵を八十三騎揃へつつ鎌倉内を忍
風流踊歌考
(真 鍋昌 弘)
び出」 (人頭左兵衛本)、「むねとの兵を八十三騎揃へつ〜鎌倉内を
忍ひ山」 (内閣文庫本)へ 「宗徒のつはものを八十三騎そろへつゝ'
かま‑らをしのびいで」 (古活字本) などとあって'「八十三騎」 で
ある。謡曲﹃正尊﹄は'人数にふれない。古浄瑠璃﹃義経記﹄・巻
三では'土佐坊が「‑つきやうの兵五六十人」をつれている。イの
「八十三騎」 は'幸若舞曲の語り口と一致する。イは続いて 「しず
川 (静は) をんなともうせどもへ こ桜をとしのよろへをめして、こ
だちのつかにてをかけてへ よろいかぶとのを〜しめる」とありへ 辛
若の方の'義経と共に戦う静の衣装へ「茄葱にはひの腹巻」「義経秘
蔵の日柄のなぎなた」とは異なるがへ この八十三騎において共通す
ることは、以上見てきた他の踊歌と幸若の関係に合わせて注意して
おい
てよ
い。
れないがへ この系統に近いものである。
通覧すると、屋島軍の諸々の語りぐさがうたわれている。各本が 引いている人名は、書写されたそのままで掲げてお‑と'次の如‑
なる
。
\
ノ
ニ
ホ
ヘ.「
ト へ ホ ニ ハ ロ イ U‑
義経
・菊
王丸
・与
1
他
屋島
伊賀・上野市・小田・慶応三年本・﹃雨乞踊歌﹄・装束師
伊賀・忍頂寺文庫本・﹃伊賀地方踊歌集﹄・装束踊
伊賀・阿山郡・束柘植村・雨乞踊歌・屋島踊
山城・京都市・久多・﹃花笠踊本﹄・八島
和泉・田尻町・南清右ヱ門本・﹃小躍歌﹄・八島踊
嘉永五年本・﹃野間村踊歌本﹄・八島踊
日向・西臼杵郡・鞍間祇園神社・太鼓踊・奈須の与市 源氏の大将義経 佐藤次信忠信 平家の大将のり経 菊お丸源氏の大Lやう義つね 佐藤次のぶたゞ信 平家の大将のりつね 菊王丸よしつね 敦盛 玉織姫 なすの典一平家の大将のりつね悪七兵衛景清ほうぐわんどの つぎのぶ 平家の侍き‑をゝ登登の守 さとうつぎのぶ源氏の大将義経 次信忠信兄弟 亀井・伊勢・駿河・鈴木・熊谷・鴬の尾・常陸かいそん・武蔵坊・佐々木・梶原・三保: ‑ y
イロはともに装束踊となっている。ともに「源氏の大将義経」 の
装束として'鏡・太刀・御属などをうたう。伊賀地方踊歌本として
のへには、別に 「装束踊」 とするものがあって、「源氏三男牛若
ハ'今年十五に成けるが'軍の装束好れた」 で始めて'鎧・直垂・
腹巻・甲・太刀などをうたってゆ‑。特に屋島との関係はみとめら ト 奈須の与市この内'能登守の童へ大力の菊王丸は'最初﹃平家物語﹄の八島
合戦で'嗣信最後にからんで登場して‑るのであるが'その後へ幸
若舞曲﹃八島軍﹄には'「能登殿のわらは菊王丸、次信の首とつて
げんざんにまいらんと'船より下にとんでおる1」 (毛利家本) な
どと語られ'謡曲では、周知の如‑、﹃摂待﹄・﹃屋島﹄の戦語りへ
及び﹃菊王﹄に登場する。﹃菊王﹄は'菊王丸の母が'遺行人に接
待して菊王の最後を聴‑ものである。伊賀・山城の風流踊歌に登場
してくるのは'こうした室町期の語り物の影響をうけてのことであ
ろう。菊王好みがここに見られる。
‑にはへ この 「奈須の与市」の他にへ敦盛・熊谷をうたう「四方
じめ」がある。ハの「玉織姫」などは'並木宗輔﹃一谷轍軍記﹄
(*サ
(宝暦元年初演) 以後のものとしてよい。
語りぐさ「屋島」の歌謡化という点では'ニのうたいぶりが注意
される。つまり'
平家の侍き‑を〜ハ いだでをおふてふなばらへ まはるこ1ろ
ハ水
章
なにをなけ‑よ浜ちどり 心みだれてよるをれに 友を呼ぶかや
いたハLや
のように、菊王丸のあわれに傾きへ合戦の一駒を小歌の拝情で包む
手法がおもしろい。これも語りぐさの消化の一例となる。
︹三︺ 判官・富樫 安宅
イ 山城・京都市・久多・﹃花笠踊本﹄・とがせ
ロ 嘉永五年本・﹃野間村踊歌本﹄・東踊
イは'幸若舞曲﹃富樫﹄冒頭部分をふまえたものである。
イ 此まつはとうぎゃうさひざやう おくおんごくのあまたのひ
とがとふれども松となづける人もなし。此まつはとうぎゃう
さひざやうあまたのひとがとうりきて あたかのまつとよば
はれた
・
・
、 .
∵
おゝゐのなかりいろよきあふぎをとり出し'子どもらにとら
し 道のなんじよをかたりきこ
辛苦曲舞﹃富樫﹄で'右に直接関係あるところだけを抜き出すと、
「さむ候、当国は坂をへたててこなた、‑さふかき遠国にてかほど
( ず)
のまつに名付る人も候はす。去なから、在五中将のなかめには'あ
( ず)
たかのまつともよまれて候。それのみならす、鳥羽院の御内なる'
佐藤兵衛教清は、うはの空なる恋をして'北国修行に出るとて西行
とかれはなのる。かの西行の苛には'ねあかりのまつとよまれた り客僧と申しけり」 「弁慶承って'笈の中よりも色よき扇とりいたし'わらんへともにとらせ'やあいかにわらんへ'是よりひらいつみへの服道はいつ‑をとなたへ行そt と委尋とふ時に」 (大頭左兵衛衛本。弁慶が村の責に道を尋ねる場面) の部分である。また'イは後半にその童達が'陸奥への三つの遺 (下遺・上道・中道) を示すありさまがうたわれる。これも'風流踊歌の方では'富樫の関所が下道にあるとうたうような混乱はあるものの (幸若では、中道が臓道であるが'ただ1つの難点は'吉松の関所があることだtと語る)へ その踏まえている部分は明瞭である。謡曲﹃安宅﹄にはへこの場面がない。
ロも'安宅の語りぐさをもとにしているが'「いら高数珠をおし
( マ 1 7 )
もんで'それ(山)伏と中るハ'役行者の琉なり」 「夫でも関を通さ
ねば'なみのうち物抜かけてへ みな︿勇いさんだり」 のあたりか
らすれば'やはり謡曲﹃宇宅﹄に近似した調子である。歌舞伎﹃勧
進帳﹄以前である。
︹三
︺
忠信
イ 駿河・安倍郡・平野・盆踊歌・なにがた
佐藤四郎忠信は'吉野山合戦の後へ 再び京都に帰る。﹃義経記﹄・巻六・忠信都へ忍び上る事、の条には'「その比、忠信他事な‑
恩ふ女1人へ 四惟室町にこしぼの入道と申 (す)者の娘に'かやと
申 (す)女なり」 「その志未だ忘れざりければ、二十九日の夜打更
けて'女を尋ね行きけり」 (日本古典文学大系本) などとある。こ
の女は'すぐその夜の程に心変りして、鎌倉方に密告することにな
るのであるが、イはこの語りぐさと関係を有すると思われる。つま
れノ '
風流踊歌考
(真 鍋昌 弘)