学・会・近・況
企画セッション 2
包括的成長へのアプローチ
─インドの挑戦─
代表者小田尚也
高い経済成長が続くインドにおいて、州・地域間、社会階層間、そして世 帯・個人間で、所得のみならず公共サービスに至る様々な面での格差の 拡大が見られ、経済成長の陰で、成長から取り残されている地域、集団、 そして世帯・個人が存在する。格差拡大は社会的・政治的な不安定要素 となり、経済成長へ悪影響を及ぼす可能性がある。Heterogeneous
な社 会構成を持つインドにとって、格差拡大は深刻な問題である。本企画 セッションでは、インドにおける格差問題を取り上げ、格差拡大がもた らす経済的・社会的問題を検討し、その根源的な要因を探ることを目的 とした。なお、本報告は、2007年度から2008年度にかけて実施された 日本貿易振興機構アジア経済研究所「包括的成長へのアプローチ─イン ドの挑戦─」研究会の成果の一部である。各報告者の発表の要約は以 下の通りである。 辻田祐子(アジア経済研究所) 概要説明 マンモハン・シン政権は、第11次5カ年計画(2007/
08-
2011/
12)の スローガンとして成長と格差是正を目指す「包括的成長」(Inclusive
Growth
)を掲げ、経済社会分野の格差是正に取り組んでいる。しかし、 例えば成長から取り残された地域では不満を持つ極左組織によるテロ が増加するなど、国内格差問題は政治、経済、社会の足を引っ張りかね ない重要な問題である。「包括的成長」という考え方は、決して新しい ものではなく、初代ネルー首相の「社会主義型社会」を国家建設の理念 とする開発戦略の延長線上にあるが、社会経済環境の変化とともに、そ の特徴が変化していると報告者は指摘する。本企画セッションの目的は、これまでの格差研究においてありがちな単なる現状と傾向を示す実 証研究ではなく、経済・社会分野、弱者層、後進州の幅広い視点から議 論を行い、格差の構造的側面の分析や政策インプリケーションを議論す るという野心的な目的を持つものであることが説明された。 小田尚也(立命館大学) インフラ整備の不均衡と州間格差 小田報告では、インドにおける州間格差問題を取り上げ、格差拡大の 現状とその要因をインフラストラクチャー(以後、「インフラ」と呼ぶ) 整備の視点から説明を試みるとともに、何故、低所得州においてインフ ラ整備が進まないかの発表が行われた。 報告では、ジニ係数と変動係数から州間所得格差の明確な拡大傾向を 確認し、格差拡大は低所得州の低成長によるところが大きいと指摘して いる。その低成長の一要因として、インフラの供給不足・未整備を挙げ ている。例えば、1人当たりの電力消費量で見た場合(2006
/
07年度)、 主要州の中ではパンジャーブ、グジャラート、ハリヤーナー、そしてタ ミル・ナードゥの4州において消費量が1000kWh
を越える一方、ビハー ル州やアッサム州のそれは、それぞれたったの91kWh
、175kWh
であり 大きな州間格差が存在している。概ね工業や農業は盛んな州や豊かな州 で電力消費量が多く、貧困州では少ないといった傾向が見られ、インフ ラ整備と州の所得水準との間の正の強い相関が存在することを指摘し ている。 またインフラの供給不足・未整備の背景として、低所得州の脆弱な財 務体質を挙げている。ビハール州の場合、歳入全体に占める独自歳入の 割合は近年減少傾向にあり、中央政府からの財政移転に一層依存するよ うになっている。しかし中央政府からの支援も十分であるとは言い難 い。1人当たり所得と1人当たり計画支出の関係を見た場合、概ね低所 得州ほど計画支出額が少なく、高所得州ほど多いという関係を指摘して いる。一方で開発計画を実行する側の州政府にはマネージメント面での 問題があり、多くの開発プロジェクトが計画通りに実施されていない現 実もある。このように、現状、インフラ整備を通じた格差是正の方向性 は十分にその役割を果していないと結論づけている。辻田祐子 デリー・スラムにおける労働移動と子供の就学 ─都市教育格差へのインプリケーション─ デリーのスラム家計の調査を用いて、デリーへの移動世帯と非移動世 帯との間にある子供の教育格差を分析する報告がなされた。報告要旨は 以下の通りである。 近年、インド政府は義務教育の普及に取り組み、農村部では就学率が 上昇するなど一定の成果を挙げつつある。一方で、都市部の就学率は、 人口増に伴う貧困人口の絶対数の増加傾向がみられるなか、多くの州で 停滞、低下している。労働移動と教育の先行研究では、教育の需要、供 給ともに都市部に偏って存在する都市バイアスが指摘され、都市への労 働移動は子供の就学に有利だと指摘される。しかし、インドでは農村か ら都市への労働移動が増加しているにもかかわらず、子供の就学への影 響についてはほとんど分析されていない。とりわけ低い経済社会階層が 集中するスラム世帯の就学については労働移動の影響のみならず、その 実態は小規模なケース・スタディーに限定されてきた。 そこで、2007
-
08年にデリー政府作成のスラム名簿から3段階のラン ダム・サンプルによって抽出した50のスラムに住む5-
14歳の子供718 人を対象とした調査をもとに、労働移動の就学への影響について分析し た。その結果、移動世帯の子供を非移動世帯の子供と比較すると、カー スト、宗教、ジェンダーの比率、親の教育水準には差はないが、家計の 所得水準では有意に低い傾向がみられた。就学年齢、子供が就学して いない理由、教育費などの就学過程を検討した上での主な分析結果は、 次のとおり。(
1)
移動世帯の子供は、そうでない子供よりも就学の可能 性が低い。とりわけ低カースト層で低くなる。(
2)
子供が就学していない 状態にあるときは、ドロップ・アウトよりも一度も就学したことがない 傾向が高くなる。(
3)
以上の要因としては、家計の経済状態のみならず、 子供の入学前の準備(出生証明書の取得、予防接種、就学前教育)に 起因する可能性が高いことを指摘している。 近藤則夫(アジア経済研究所) 電灯とムスリム─インドにおける公共財の供給と弱者層 ─ 2005年に設立された「サッチャル委員会」の報告で、改めて宗教的少数派であるムスリムの社会的・経済的地位が他のコミュニティに対し て相対的に低下しつつあるという事実が明らかになった。ムスリムが順 調に社会的・経済的発展の軌道を歩むためには、準公共財としての性格 が強い、政府や公共機関からの様々な公共サービスを他のコミュニティ と同じように享受し得ているのかどうかが、一つの重要なポイントと なっており、本報告では準公共財である「電灯」を取り上げ、ムスリム と他のコミュニティの間でその供給に差があるのかないのかについて 精緻な統計的検証が行われた。 検証では、⑴コミュニティが混在していることが供給レベルの低下を もたらす、⑵ムスリム自体の社会的、政治的弱体性のゆえに供給レベル が低い、という二つの仮説を、ムスリム人口比の高いウッタル・プラデー シュ州、ビハール州、西ベンガル州、そしてコミュナルな亀裂が甚だし いグジャラート州の主に都市部のデータを使用し分析を行った。その結 果、例えばグジャラート州ではムスリムと他のコミュニティとの社会的 亀裂が大きく、ムスリムが、電灯という基本的な準公共財の供給におい て、「差別」されているのではないかという予想があったが、実際は同 州では都市部の電化水準が全般的に非常に高いため、コミュニティ間の 差異が全般的に目立たず、統計的に明確な結果は得られなかった。しか し、電化水準が比較的低いウッタル・プラデーシュ州や西ベンガル州で はムスリム居住区でかなり明確に電灯の供給水準が低いことが明らか となった。コミュニティが混在していることが供給レベルの低下をもた らしているとする第一の仮説はほとんど有効ではなく、それに対してム スリム自体の社会的・政治的弱体性のゆえに供給レベルが低いとする第 二の仮説の方が統計的に明確に支持される結果となった。 都市においてムスリム・コミュニティの「ゲットー化」が政治的・社 会的に重要問題と考えられる状況で、本研究の結果は、後進地域の都市 の開発政策の方向性に一定のインプリケーションを与えるものとなると 報告者は締めくくっている。 湊一樹(アジア経済研究所) 低開発と捕らわれの民主主義の歴史的起源 ─ビハールに関する分析的物語─ 本報告は、ビハール州の長期的な後進性の構造的要因を、政治経済的
な分析を通して明らかにしようとするものである。「ジャングル支配」と 呼ばれた1990年から2005年まで続いた民族ジャナタ・ダルによる州政 権、つまりラルーおよび彼の妻であるラブリ政権を例に、ビハール州に おいてなぜ政治的安定と経済的後進性の共存が可能であったかを検証 した。報告者は、その背景として、植民地期の土地制度とカースト制度 という過去の制度的遺産が、上位カーストおよび上層の後進カーストに 対して経済的に有利な立場を与え、他方でそれらのカースト集団は人口 規模の大きさによって民主的な選挙の下で有利な立場を得ることがで きたことを挙げている。ビハール州では人口の8割以上が農業とその関 連産業に従事している。しかし、土地所有が上層に位置するカーストに 著しく偏っており、小作者や農業労働者が貧困層を形成している。土地 改革などの農村改革が貧困削減を含む経済発展には重要となる。しか し、政治的に優位な立場にある土地持ち上層カーストは自分たちの利害 に反するような改革を阻止し、それが結果としてビハール州の長期的な 低開発と貧困をもたらしたと指摘している。 2005年11月の州議会選挙で選ばれ、さらに2010年に再選を果たした ジャナタ・ダル(統一派)のニティーシュ・クマール政権は矢継ぎ早に 様々な政策を打ち出し、ラルーによる「ジャングル支配」が終わり、ビ ハール州が経済発展に向けた道を歩み出したとの高い期待がある。しか し、報告者は、ビハール州が抱える上記の根深い構造は依然として残っ ており、問題の解決は容易ではないと指摘し、その具体例として、小作 権の保護やマハダリットへの福祉政策の失敗例を挙げている。ビハール 州の過去5年間の経済成長率は年平均11%を超え、鉱工業部門やサービ ス部門を中心に経済は急速な発展を遂げている。一方で、多くの貧困層 がその生活の糧とする農業部門は低い成長にとどまっており、近年の経 済成長の成果は農村の多くの貧困層には届いていない。その結果、成長 は貧困削減には結びつかず、格差拡大の可能性が高いと結論づけている。 4名の報告のあと、討論者である押川文子先生より、貴重なコメント を頂戴した。我々が取り上げた問題は、果たして格差なのかそれとも低 開発なのかというものである。この点は我々が研究会を立ち上げた時か らメンバーで共有していた問題意識でありながら、最期まで研究会とし てのはっきりした答えを持ち得ておらず、その弱点を見事に指摘された
わけである。また学会報告後の押川先生とのメールのやりとりで、「成長 のなかで取り残されるという意味では格差というよりも排除という言葉 のほうがぴったりなのかもしれない」という指摘は非常に考えさせられ るものであった。貴重なコメントに報告者一同感謝するところである。 押川先生のコメントのあと、フロアからも多くの貴重なご意見および 質問を頂戴した。改めて感謝を申し上げたい。 さて本報告のベースとなった研究成果は、以下の出版物で発表されて いる。ご一読いただけると幸いである。 ・「特集 包括的成長へのアプローチ-インドの挑戦」、『アジ研ワールド・トレンド』、2011年4 月号。
・Hirashima S., H. Oda, and Y. Tsujita eds., 2011, Inclusiveness in India: A Strategy for Growth and Equality, Basingstoke and New York, Palgrave Macmillan.
註
各発表内容に関する記述は、それぞれの報告者から提出された報告要旨および当日の報告 内容をもとに、代表者である小田が取りまとめたものである。