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Vol.55 , No.2(2007)069八尾 史「「根本説一切有部」という名称について」

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(132)  印 度 學 佛 教學 研 究 第55巻 第2号  平 成19年3月 「根 本 説 一 切 有 部 」 と い う 名 称 に つ い て 八 尾 史 1問 題 の 所 在 イ ン ドの い わ ゆ る部 派 仏 教 の な か で,有 力 で あ つ た一 派 に説 一 切 有部(Sarvasti-vadin,以 下適宜 「有部」 と略称)が あ り,こ の部 派 に所 属 す る文献 と して,『 十誦 律 』 『根 本 説 一 切 有 部 律(Mulasarvastivadavinaya)』とい う二 種 類 の 律 蔵 が 現 存 す る.こ の こ とは説 一 切 有 部 を な の る二 つ の異 な る集 団 が存 在 した こ と を意 味 す るが,両 者 の 関 係 はい まだ あ き らか に な っ て い な い.従 来 学 会 で は,こ の うち 『根本 有 部 律 』 を伝 持 した方 の一 派 が 「根 本 説 一切 有 部 」 とよ ばれ て き た. これ に 対 し1998年 に,榎 本 文 雄 に よっ て 「根 本 説 一 切 有 部 」 とい う名 称 は不 適 当 で あ る とす る説 が 提 出 さ れ た1).こ の た め 現 在 この 部 派 に 言 及 す る際 に は, 榎 本 説 を踏 ま えた 上 で 自 ら用 い る名 称 を決 定 す る こ とが必 要 とな つて い る.本 稿 で は,樓 本 説 の結 論 へ の 検 討 を通 して この部 派 名 の妥 当性 を確 認 し よ う とす る2). 2従 来 の 呼 び 名 これ まで,二 つ の 律 の 伝 持 集 団 を さす 名 称 の用 い か た は 一様 で はな か つた.そ れ らの主 な もの を整 理 す る な らば,以 下 の 三 通 りに な るで あ ろ う.1)双 方 を 「有 部 」 に よ って 総 称 しなが ら,区 別 す る場 合 に は 『十 誦 律 』 の伝 持集 団 を 「有 部 」, 『根 本 有 部 律 』 の そ れ を 「根 本 有 部 」 とよぶ3)2)双 方 を 「有部 」 と総 称 しつ つ 教 団 の本 拠 地 に よ つ て 『根 本 有 部 律 』 を 「マ トゥ ラ ー 有部 」 と し,『 十 誦 律 』 に は 「有 部 」 以 外 の 呼 称 を あた え な い4)3)「 有 部 」 と 「根 本 有 部 」 とを互 い に 独 立 し た 存在 とみ て総 称 せ ず,そ れ ぞ れ に 『十誦 律 』,『根 本 有 部 律 』 を あて る5) い つ れ も律 蔵 の 区別 を前 提 と した 呼 称 とな っ て い る. 3榎 本 説 の 主 張 これ に対 して 榎 本 の主 張 は 「根 本 有 部 す な わ ち有 部 で あ る」 とい う もの で あ つ

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「根 本 説 一切 有 部 」 とい う名称 に つ い て(八 尾)  (133) た.こ れ を 要 約 す れ ば 以 下 の ご と くで あ る . 《現 在 の 研 究 者 の 多 く は 『根 本 説 一 切 有 部 律 』 の 伝 持 部 派 を 「根 本 説 一 切 有 部 」, 『十 誦 律 』 の そ れ を 「説 一 切 有 部 」 と よ ぶ.し か し,文 献 の 上 で は 「根 本 」 は 諸 部 派 の 分 か れ る も と と し て の 尊 称 で あ り,「 根 本 説 一 切 有 部 」 と 「説 一 切 有 部 」 と い う 二 つ の 名 称 は 区 別 せ ず に 用 い ら れ る(Sakyaprabhaの 、Arya-Mulasarvastivadi-sra-manerakarikavrtti prabhavatiお よ び 義 浄 『南 海 寄 歸 内 法 傳 』6)).し た が つ て 有 部 」 「根 本 有 部 」 は も と も と 同 一 の 部 派 を さ す 名 称 で あ っ て 相 対 立 す る 二 つ の 実 体 を 指 し示 す も の で は な い.よ つ て,『 根 本 有 部 律 』 を 伝 持 し た 分 派 の こ と を 「根 本 説 一 切 有 部 」 と よ ぶ の は テ キ ス トの 用 法 に 反 す る た め,他 の 名 称 を 使 用 す べ き で あ る(以 後 榎 本 が 用 い て い るの は 「中央 有 部 」 とい う名 称 で あ る7)).》 「根 本 説 一 切 有 部 」 と 「説 一 切 有 部 」 が 用 法 と し て 区 別 さ れ ず,か つ 根 本 と い う語 に よ っ て 互 い に 排 除 し あ う 概 念 で は な い こ と を 証 し た 榎 本[1998]の 成 果 は 大 き い.し か し,そ こ か ら 導 か れ る 結 論 は た だ ち に は 受 け 入 れ が た い も の で あ る. 筆 者 の 結 論 を さ き に い え ば,「 根 本 有 部 」 と 「有 部 」 と は や は り同 一 視 さ れ る べ き 言 葉 で は な い.そ して 個 々 の 律 蔵 が 存 在 す る と い う事 実 を 前 提 と し た と き,「 根 本 有 部 」 とい う言 葉 は 『根 本 有 部 律 』 の 所 属 部 派 と し て あ な が ち 不 当 な 呼 称 で は な く,む し ろ 問 題 は 研 究 者 間 で 用 い ら れ て き た 「有 部 」 と い う語 の 用 法 に あ る. 3榎 本 説 の 問 題 点 榎 本 説 の 問 題 点 は,あ る 特 定 の 文 献 内 で 「有 部 」 と 「根 本 有 部 」 の 語 が 同 義 に 用 い ら れ て い る とい う事 実 を 根 拠 に,あ た か も そ の 文 献 の 外 部 に お い て も つ ね に 「有 部 」 と 「根 本 有 部 」 とが 同 一 の 実 体 を 持 つ も の で あ つ た か の よ う な 結 論 を 引 き 出 し て い る こ とで あ る8). 引 用 され た 資 料 は,シ ャ ー キ ャ プ ラバ お よび 義 浄 に と つて,す なわ ち 『根 本 説 一切 有 部 律 』 を もつ 立 場 の 著 者 に とつ て,「 根 本 有 部 」 が 「有部 」 で あ つ た こ と を示 す にす ぎ な い.『 十 誦 律 』 を伝 持 した 集 団 に とって も 「根 本 有 部 」 と 「有 部 」 が 同 義 で あ つた の か,そ も そ も そ の集 団 で 「根 本 有 部 」 とい う言葉 が 使 わ れ た の か ど うか は この 事 実 に よ っ て は あ き らか に な らな い.し か も十 誦 律 との 関 係 につ い て 義 浄 が 「十 誦 律 は根 本 有 部 で は な い 」 と明 言 して い る こ とか ら,『 十 誦 律 』 と 『根 本 有 部 律 』 との伝 持 者 の間 で 「有 部 」 とい う言葉 の 意 味 が 食 い 違 って い た こ とは ま ち が い な い.榎 本 は この 差 異 に ま つ た く触 れ て い な い が,こ の事 実 は 『十 誦 律 』 『根 本 有 部 律 』 の 両 者 を と も に視 野 に 入 れ る とき,「 有 部 」 と 「根 本 有

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(134)  「根 本 説 一 切 有 部 」 とい う名 称 につ いて(八 尾) 部 」 とい う二 つ の 名称 の さす 実 体 が か な らず し も一 致 す る もの で は な い こ と を示 して い る.実 際 榎 本 自身,根 本 有 部 と有 部 は 同 じで あ る と しな が ら結 局 は 『根 本 有 部 律 』 伝 持 集 団 を特 定 して 呼 称 す る必 要 を認 め て い るか ら,部 派 そ の もの の あ りか た は従 来 の研 究 に よつ て え が かれ た も の となん らか わ る と ころ が な い. 5「 説 一 切 有 部 」 と い う 名 称 の 用 い ら れ か た の 問 題 要 す る に,「 根 本 有 部 」 は 「有 部 」 と同 義 に用 い られ る名 称 で あ る,と い う榎 本 の成 果 を よ り厳 密 に言 い換 え て,「 根 本 有 部 」 は 『根 本 有 部 律 』 伝 持 集 団 に お い て 「有 部 」 と同義 に用 い られ る名 称 で あ る,と した上 で,現 在 律 蔵 に 関 して 客 観 的 な立 場 か ら 「有 部 」 とい う語 を使 う とす れ ば,そ れ は三 通 りの対 象 を 指 示 し うる こ とに な る.1)『 十 誦 律 』 を伝 持 した集 団(有 部 を 自称)2)『 根 本 有 部 律 』 を伝 持 した集 団(有 部,根 本有部 を併称)3)両 者 を含 む,説 一 切 有 部 を 自称 した集 団 の す べ て(そ れ らの集団が互いを含めて 「総称 」 したか否 か とは別) か よ うに み れ ば,問 題 は む し ろ 「根本 有 部 」 で は な くて 「有 部 」 とい う名 称 に あ る こ とが あ き らか に な る.『 十 誦 律 』 も 『根 本 有部 律 』 も 「有 部 で あ る」.し か し異 な る律 を も つ 以 上,二 つ の伝 持 集 団 は適 宜 区別 さ れ る必 要 が あ る.そ の 区 別 に従 っ た 名 称 と して も し 『十 誦 律 』 を有 部,『 根 本 有 部 律 』 を 「根 本 有 部 」 に 対 応 させ る とす れ ば(こ の とき 『根本有部律 』は有部 とはいわれない),「 有 部 」 の 指 示 対 象 は 『十 誦 律 』 伝 持 集 団 に 限定 され,『 根 本 有 部 律 』 伝 持 集 団 あ る い は他 の 「有 部 」 を も排 除 す る こ とに な る.こ の 用 法 は律 の文 脈 に お い て も問題 が あ り,さ ら に も し この文 脈 を は な れ て他 の 文 献 につ いて も用 い られ る とす れ ば,そ の 文 献 に お け る 「有 部 」 の語 義 を誤 っ て 限 定 す る こ とに な りか ね な い.『 十 誦 律 』 を 有 部 の律 とい う こ とは誤 りで は な い が,有 部 を 自称 す る集 団 の い つ れ に も あて は ま る 名 称 が 『十 誦 律 』 伝 持集 団 に か ぎ つて 用 い られ る の は,す で に複 数 の 有 部 が確 認 され て い る現 状 で は,む しろ この部 派 を め ぐる議 論 を混 乱 させ る こ とに な る. 一 方 「根 本 説 一 切 有部 」 とい う名 称 は,少 な く と も 『根 本 説 一切 有 部 律 』 伝 持 集 団 の 自称 と して 用 い られ て お り,指 示 対 象 が 一 義 的 に き ま る とい う意 味 で か え つ て 問題 が な い.榎 本 の 提 案 に な る 「中央 有 部 」 と比 べ て も,律 とい う文 献 に 即 応 して い る点 で よ り明 瞭 で あ る とい え よ う9). 6結 論 よっ て,本 稿 の 結 論 は 以 下 の ご と くで あ る.「 根 本 説 一 切 有部 」 とい う名 称 が

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「根 本 説 一 切 有 部 」 とい う名 称 につ いて(八 尾)  (135) 「説 一 切 有 部 」 と同義 に用 い られ るの は,「 説 一 切 有 部 」 を 自称 す る複 数 の集 団 の 中 の一 部 の み に お け る用 法 で あ る可 能 性 が 高 く,「根 本 説 一 切 有 部 」 を 自称 す る 文 献 を考 察 す る際 に は,現 段 階 で は この 名 称 は妥 当 で あ る.む しろ 『十 誦 律 』 を 伝 持 した集 団 の 呼称 を再 考 し な けれ ば な ら な い.こ れ に は 「説 一 切 有 部 」 よ りも 限 定 され た(た とえば 「『十誦律』伝持集団」,な どの)名 称 が 必 要 とな ろ う10). 1)「 「根 本 説 一 切 有 部 」 と 「説 一 切 有 部 」」,『 印 佛 研 』47-1 ,pp.400-392,F.Enomoto" 'Mulasarvastivadin' and 'sarvastivadin'

,"Vividharatnakarandaka: Festgabe fur Adelheid Mette, Swisttal-Odendorf,2000,pp.239-250も ほ ぼ 同 様 の 内 容 上 記 二 論 文 を 補 強 す る も の と し て 榎 本 「「根 本 説 一 切 有 部 」 の 登 場 」,神 子 上 恵 生 教 授 頒 寿 記 念 論 集 『イ ン ド 哲 学 佛 教 思 想 論 集 』,永 田 文 昌 堂,京 都,2004,pp.651-677が あ る.2)筆 者 は こ こ で 部 派 分 裂 史 に つ い て 新 し い 知 見 あ る い は 資 料 を 示 そ う と す る も の で は な く,そ の 用 意 も な い.研 究 を 進 め る に あ た つ て 用 語 の 意 味 を 正 確 に し て お く必 要 上,榎 本 説 に 修 正 を 加 え る に す ぎ な い こ と を 断 っ て お か な け れ ば な ら な い.ま た 部 派 の 概 念 に は い ま だ 問 題 が 多 い が,こ こ で は そ れ に 立 ち 入 る こ と は せ ず,律 の 伝 持 集 団 と そ の 名 称 と の 関 係 に 限 っ て 議 論 を 進 め る こ と とす る.3)塚 本 啓 祥 『改 訂 増 補 ・初 期 佛 教 教 團 史 の 研 究 』 山 喜 房 佛 書 林,東 京,1966,p.7,A.Bareau Les sectes bouddhiques du petit vehicule, Ecole Frangaise d'Extreme-Ori-ent, Saigon, 1955,pp.131-1544)塚 本 前 掲 書p.448,静 谷 正 雄 『小 乗 仏 教 史 の 研 究 』 百 華 苑,京 都,1978 5)E.Frauwallner The Earliest Vinaya and the Beginnings of Buddhist Literature,Serie Orientare Roma Ⅷ,Roma,1956,p.27,平 川 彰 『律 蔵 の 研 究 』 山 喜 房 佛 書 林, 東 京,1960,p.102 6)Peking Tanjur, hu, 182a3-5,大 正54,pp.205a-206c 7)榎 本 「『雑 阿 含 経 』 の 訳 出 と 原 典 の 由 来 」(石 上 善 應 教 授 古 稀 記 念 論 文 集 『仏 教 文 化 の 基 調 と展 開 第 一 巻 』,山 喜 房 佛 書 林,東 京,2001)P.358)「 古 来 の 文 献 資 料 に お い て 「根 本 説 一 切 有 部 」 と 呼 ば れ る も の は,「 説 一 切 有 部 」 内 の 分 流 で も な く,「 説 一 切 有 部 」 外 の 異 部 派 で も な い.「 根 本 説 一 切 有 部 」 と は 「説 一 切 有 部 」 と 同 一 の も の に 他 な ら ず,前 者 は 自 部 派 の 尊 称 に 過 ぎ な い と考 え ら れ る.さ ら に,根 本 説 一 切 有 部 と説 一 切 有 部 の 相 違 に よ っ て 『根 本 説 一 切 有 部 律 』 と 『十 誦 律 』 の 相 違 を 説 明 す る こ と も テ キ ス トに 反 す る.こ の よ う に,「 根 本 説 一 切 有 部 」 と 「説 一 切 有 部 」 が 同 一 で あ る 以 上,『 根 本 説 一 切 有 部 律 』 『十 誦 律 』 の 両 者 と も 「説 一 切 有 部 」 所 属 で あ り,こ の 点 で は 両 者 は 区 別 で き な い.し た が つ て,「 説 一 切 有 部 」 内 部 に2種 類 の 律 が 存 在 し た こ と に な る.」(榎 本[1998]p.17) 9)榎 本 が 「中 央 有 部 」 を 採 る の は,『 根 本 有 部 律 』 と マ ト ゥ ラ ー の 関 係 が 推 測 さ れ る か ら で あ る が(註7参 照),地 理 的 な 問 題 は な お 検 討 を 要 す る で あ ろ う.10)口 頭 発 表 の 際,榎 本 文 雄 教 授,松 村 恒 教 授 よ り 貴 重 な 御 教 示 を い た だ き ま し た.本 稿 執 筆 に あ た っ て 両 教 授 の 御 指 摘 に よ り修 正 を 施 し え た こ と を 感 謝 申 し あ げ ま す. 〈キ ー ワ ー ド〉 根 本 説 一 切 有 部,説 一 切 有 部,律 (東 京 大 学 大 学 院)

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(246) Abstracts

punishment. (3) Those nuns who abuse monks on no ground for committing sexual intercourse (methunadhamma). (4) Those bhikkhu, bhikkhuni, samanera, samaneri, and sikkhamana who commit the offence of methunadhamma. These accounts, defining the object to which the punishment of nasana is to be applied, clearly show that this rule has, in principle, little to do with the situation of violating the four parajika dhammas and lacking any conscious of guilt.

163. On the Name 'Mulasarvastivadin'

YAO Fumi The name 'Mulasarvastivadin,' accepted by modern scholars as denoting those who handed on the extant Mulasarvastivada-vinaya, has been subject to reconsideration since 1998, when Fumio Enomoto attempted a refutation of the understanding on the ground that the term 'mula,' semantically imply-ing 'the origin, or the orthodoxy, of all denominations,' is not to be regarded as a term of qualification indicating a different sect from Sarvastivadin, and offered the conclusion that Mulasarvastivadin is nothing other than Sarvasit-vadin.

His argument, clear and accurate in the comprehension of the use of the term 'mula' in relevant texts, is still in need of re-examination. The examples afforded by Enomoto merely show that those who follow the compilers of the Mulasarvasivada-vinaya, e.g. Sakyaprabha and Yijing, are in full sup-port of Enomoto in the apprehension of term 'mula,' but they do not tell us anything of the fact that the compilers of a different text belonging to the Sarvastivadins, the Shisong lu, for example, regard their own sect as identi-cal with Mulasarvastivadin. On the contrary, the explicit statement by Yijing of the fact that the Shisong lu does not belong to Mulasarvastivadadins ada-mantly insists on the need to distinguish between these two lines of compil-ers.

For differentiating several groups associated with the Sarvastivadins, the name 'Mulasarvastivadin,' applied at present exclusively to the group of compilers of the Mulasarvastivada-vinaya, has no room for confusion, whereas the term 'Sarvastivadin,' applicable by right to the compilers of all

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-1274-Journal of Indian and Buddhist Studies Vol. 55, No.3, March 2007 (247 )

the relevant texts, is misleading if it is to be applied in fact to a specific group, such as the compilers of the Shisong lu. Current studies on the vi-nayas suggesting the possibility of the existence of different groups of Sarv-astivadin must be taken into account: it is the use of 'SarvSarv-astivadin,' not that of 'Mulasarvastivadin,' that should be subject to careful reconsideration. 164. Characteristics of the Verses of the Sanskrit Vimalakirtinirdesa-sutra

IWAMATSU Asao It is needless to mention the significance and importance of the recovery of the complete text of the (hitherto unknown) Sanskrit Vim alakirtinirdesa in Tibet.

The Vimalakirtinirdesa has verses collectively in two places, that is, in Chaps. 1 and 7 (or 8 in the Chinese versions). In the Sanskrit text are contained 15 verses in Chap. 1, and 42 in Chap. 7 (the number completely corresponds with the Tibetan version, but differs in both chapters of all three Chinese versions); two dif-ferent metres, the Vasantatilaka and the (so-called) Tristubh jagati, are em-ployed in Chap. 1, while a single Sloka is in Chap. 7. The oldest text among

the extant five is no doubt the Chinese one translated by Zhi Qian (支謙) which has 10 verses in Chap. 1, and 40 in Chap. 8 (=7 in the Sanskrit text). Judging from this, it is probable, and the present author is confident, that the original text of the Vimalakirtinirdesa had just 10 verses (probably in the Vas-antatilaka metre) in Chap. 1, and 40 verses (in the Sloka, as well) in Chap. 7.

Although, of course, the verse is in general composed in BHS, it some-times shows features of probably not being original but Sanskritized (in later times). For example: in

bharya dharmaratis tesam maitri karuna ca duhitarau |

satyadharmav ubhau putrau grham sunyarthacintana ‖ ([7] 2)

the metre requires the two short syllables duhi of duhitarau in the 2nd pada to be a single long one; and the dual ending au of the same word (and of the following three words satyadharmav [=$mau], ubhau and putrau in the next pada) is also doubtful (regarding this, see BHSG, 5.6 & 25.1-3; the dual form appears only in this verse). Thus the older form of this duhitarau may have been like

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