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1 徐福伝説とは? 出発点は 史記 司馬遷の 史記 ( 1) の巻百十八 淮南衡山列伝 ( わいなんこうざんれつでん ) の記述によると 方士 ( 2) である徐福 ( 徐市 ( じょふつ ) とも言う )( 3) は秦の始皇帝 ( 4) に 東方の三神山に長生不老 ( 不老不死 ) の霊薬がある

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神奈川徐福研究会定例会資料 2014年5月21日(水) 神奈川県民センター

徐 福 基 礎 講 座

神奈川徐福研究会 伊藤健二 1 徐福伝説とは? 出発点は『史記』 2 2 中国各地の徐福関連地 4 ① 浙江省慈渓市 5 ② 江蘇省連雲港市赣榆県 5 3 日本での徐福伝説 6 ① 和歌山県新宮市 6 ② 三重県熊野市 7 ③ 佐賀市 7 ④ 福岡県八女市 8 ⑤ 京都府与謝郡伊根町 8 ⑥ 山梨県富士吉田市 8 ⑦ 東京都北区王子 9 ⑧ 秋田県男鹿 9 ⑨ 青森県小泊 10 ⑩ 神奈川県藤沢市 10 4 伝説と歴史 11 ① 徐福来日は歴史上の事実なのか? 11 ② どうして徐福伝説が生まれたの? 11 ③ 徐福東渡を学術的に迫ろうとする動き 12 ④ 徐福の時代の日本は? 12 ⑤ 学術的でない徐福もある。 13 5 終わりに 徐福研究の意味 14 「徐福基礎講座」の趣旨 徐福に関しては歴史的な資料が乏しいため、各徐福研究家はいろいろな徐福像を展開 しています。そのため徐福初心者にとって徐福はわかりにくいものとなっています。こ の講座では、徐福伝説の出発点である『史記』の紹介、各地の徐福伝説の紹介し、最後 に 歴 史 との 関 係 を 整 理 し ま し た。 徐 福 研 究 者 の 中 に は、「 学術 研 究者 は 歴史 の 真実 を 隠 している」とし、独自な歴史展開をする方もおられますが、この講座は「徐福の基礎」 として、入門者向けに、徐福研究者の方々の記述を参考にして、学術的にも受け入れら れる内容としました。

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1 徐福伝説とは?

出発点は『史記』 司 馬 遷 の 『 史 記 』( ※ 1 ) の 巻 百 十 八 「 淮 南 衡 山 列 伝( わ い な ん こ う ざ ん れ つ で ん )」 の 記 述 に よ る と、 方 士 ( ※ 2 ) で あ る 徐福 ( 徐 市 ( じ ょ ふ つ) と も言 う)(※ 3 )は 秦 の 始 皇 帝 ( ※ 4) に 、「 東 方 の 三 神 山 に 長 生 不老 ( 不 老 不 死 )の 霊 薬が あ る」 と 具申 し 、 始 皇 帝 の 命 を受 け 、3,000 人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、 五 穀 の 種 を 持 っ て 、 東 方 に 船 出 し 、 平 原 広 沢 ( 広 い 平 野 と 湿 地 ) を 得 て 、 王 と な り 戻 らなかった。(※5) こ の 『 史 記 』 が 徐 福 伝 説 の 出 発 点 だ 。 中 国 に は 徐 福 の 故 郷 や 出 港 地 等 の 徐 福 ゆ か り の地があり、日本には徐福が到達したところ、訪れたところなどの伝説がある。 こ の 講 座 で は 、 徐 福 伝 説 の 基 礎 と 、 中 国 や 日 本 の 徐 福 伝 説 を 一 部 紹 介 し 、 歴 史 面 か ら の検証、最後に徐福研究の意味を考えてみます。 ※1 司 馬 遷 は 代 々 歴 史 編 纂 の 家 柄 に あ り 、 前 漢 の 武 帝 に 使 え 、 武 司馬遷と史記 帝 の 勘 気 を 被 り 刑 に 服 す な ど し た が 、 歴 史 書 『 史 記 』 を 完 成 さ せ た 。 史 記 は 物 語 と し て 描 か れ 、 記 述 の 一 つ 一 つ が 事 実 で は な いかもしれないが、司馬遷は政府の歴史編纂担当の役人であり、 情 報 を 調 査 で き る 立 場 に あ る 。 ま た 史 記 の 記 述 が 徐 福 の 時 代 か ら 約 1 0 0 年 後 の こ と で あ り 、 徐 福 の 存 在 は 創 作 で は な い と 考 えられる。 ※2 方 士 と は 、 そ の 時 代 の 肩 書 き で あ る が 、 神 仙 、 医 薬 、 保 健 、 方士(ほうし)とは 摂 生 の 技 を 持 つ と さ れ て い る 。 神 仙 と い う の は 、 あ る 種 の 神 秘 的 な 思 想 で あ る 。 そ の 源 流 は 、 中 国 で い う 五 岳 の 一 つ 泰 山 ( 山 東 省 ) を 神 の 山 と し て 崇 め る こ と に あ り 、 長 寿 を 願 い 、 不 老 を 志 向 す る 。 神 の 山 は い つ し か 現 実 に あ る 泰 山 か ら 「 海 中 の 三 つ の 山 」 と な る 。 こ の 神 仙 思 想 は 、 中 国 の 民 間 に 今 も 根 強 く 残 る 道教の基盤でもあり、重要な要素である。 (池上正治著『徐福』より。一部要約) ※3 徐福は戦国時代に、現在の山東省にあたる斉国に生まれたが、 徐福とは 斉国は秦の始皇帝により滅ぼされた。そして徐福は方士として始 皇帝に近づいた。1982年,江蘇省連雲港市内で、徐福が住ん でいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかった。 ※4 秦の始皇帝は、紀元前 221 年、周辺の国々を滅ぼし、中国史上 始皇帝とは 初めて統一国家を築いた。始皇帝は万里の長城、大運河の建設、度 量法、言語の統一などの業績が知られるが、焚書、儒学者を生き 埋めにするなど、暴君と言われるが、近年再評価が行われている。 一方始皇帝は神仙思想に染まっており、徐福が上奏した、不老 不死の霊薬を東の海に取りに行く事業を了解した。 ※5 徐福は、不老不死の霊薬を取りに行ったのではなく、本当は始 徐福東渡の意図は 皇帝の圧政から逃れるための亡命であったとも解釈されている。 多くの童男童女を連れて行ったのは、表向きは仙人は純真な人間 としか会うことをしない、というのだが、新天地の開拓が目的で あったのではないかと考えられ、五穀の種を持って行ったのも同 様の目的と考えられる。

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注:『史記』の中の徐福(徐市)

『史記』の構成 ・ 十 二 本 紀 史 記 の 中 心 と な る も ので 、 各 皇 帝 等 ( 五 帝 、夏 、 殷 、 周 、 秦 、 秦 始 皇、 項羽、高祖、呂后、孝文、孝景、孝武)が描かれている。 ・七十列伝 いろいろな人の人生を描く ・ こ の ほか 、 表 ( 年 表)、 書( 暦 、封 禅 など の テー マ 毎の 書)、世 家 (魯 周 公、 孔 子な どの歴史の中心とはならない人物を描く)で構成されている。 秦始皇帝本紀 ①(始皇帝28 年=紀元前 219 年) 斉人の徐市は次の事を上書した。「海中に三神山あり。名を蓬莱・方丈・瀛州といい、 仙 人 が 住 む 。心 身 を 清 め て 、 童 男 ・ 童女 と 共 に 三 神 山 へ 行 くこ と を請 う」。そ こ で徐 市 を遣わし、童男・童女数千人を発たせ、海に出て仙人を求めさせた。 ②(始皇帝35 年=紀元前 212 年) 多大な費用を費やしたが、仙薬は得ることはできなかった。 ③(始皇帝37 年=紀元前 210 年) 海に入り神薬を求めたが、数年経っても得られず、出費ばかりが多かった。偽って報 告したことは、大鮫に妨害されたので、今度は弓の射手を同行させたい。 淮南衡山列伝(わいなんこうざんれつでん) 第五十八(元朔5年=紀元前124 年の条) 淮南衡山列伝は、漢代初期の諸侯王・淮南王劉安に関する記事であり、徐福を紹介し たものではない。漢代初期の諸侯王・淮南王劉安が皇帝の自分への処遇に不満を抱き、 反乱の意思を口にしたのに対し、側近が諌めて言った言葉の中に徐福が引き合いに出さ れる。その部分は、つぎのやりとりとなっている。 徐福は海に出て、不老不死の薬を求めたが、帰って来て、始皇帝に偽りの報告をした。 「 私 は 海 の 上 で大 神 に会 い 、こ う 言わ れ まし た。・・ ・『 あな た たち は 何を 求 めて い る の か ? 』。『 不 老 長 寿 の 薬 を お 願 い し た い 』。『 秦 王 の 礼 物 で は 足 ら な い 。 不 老 長 寿 の 薬 は 見 せ る だ け だ 。』 と 言 い 、 私 を 蓬 莱 山 に 連 れ て 行 っ た 。『 何 を 献 上 す れ ば よ ろ し い の でしょうか』と言うと、海神は『良家の少年少女三千人、五穀の種子、各種の職人を献 上すれば、神薬を得られよう』と言われました」 始 皇 帝 は 大 へ ん悦 ん で 、 少 年 少 女 三 千人 と 五 穀 の 種 ・ 諸 道 具 ・職 人 を 与 え 、 東 方 に 行かせた。 徐福は平原広沢(広い平野と湿地)に着き、そこの王となって帰ることはなかった。 それで秦の民は嘆き悲しみ、乱を起こそうとする者が十戸のうち六戸も出るような状態 になった。

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2 中国各地の徐福関連地

中国では、徐福の時代はすで に神話 の時代ではなく歴史の時 代であ り、歴史としての徐福研 究も進 められている。最近の研 究で、 徐福の生まれ故郷の地が 明らか となった。一方徐福がど こから 出航したかについては、 司馬遷 の『史記』には記載され ていないが、中国の各地に、「徐 福の出 港地」の伝承が残されて いる。 これらの徐福ゆかりの各 地では、徐福像が建立されたり、徐福に関するイベントが開催されたりしている。この うち、慈渓市と連雲港市の様子を紹介する。 徐福に下命する始皇帝(山東省琅琊台)写真提供:池上正治

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① 中国浙江省慈渓市

寧 波 ( ニ ン ポ ー )は 、 遣 唐 使 の 上 陸 地 点 で あ り 、 ま た 道 元 が 禅 を 学 ん だ 場 所 と し て 日 本 人 に な じ み が 深 い 。 そ の 近 く の 慈 渓 市 に 「 達 蓬 山 」 が あ り 、 徐 福 出 港 地 と し て 多 く の 伝説が残されている。 「 達 蓬 山 」 と は 、「 海 の 彼 方 の 仙 人 の 地 で あ る 蓬 莱 に 達 す る 山 」 の 意 味 だ 。 最 近 達 蓬山を公園として整備し、ここで 2009 年に国際徐福フォーラムが開催された。日本、 韓 国 を 含 む 研 究 者 が 発表 を 行 い 、 ま た 新 た に 作っ た 徐 福 像 の 除 幕 式 、徐 福 時 代 の 儀 式 の再現劇が行われた。

② 中国江蘇省連雲港市赣榆県

連 雲 港 市 赣 榆( カ ン ユ )県 の 北部 に 、 か っ て 徐 福 村 の 地 名 が あ り 、 1982 年 、 歴 史 学 者 の 調 査 に よ り 、 こ こ が 徐 福 の 故 郷 で あ る こ と が 判 明した。戦前は、ここに「徐福廟」 が あ っ た が 、 日 本 軍 に よ っ て 破 壊 されたそうだ。しかし 1998 年立派 な廟が再建された。 赣 榆県 で は、定 期的 に徐 福祭が 開催 され 、 2010 年 10 月に第8回徐福祭が開催された。 昼は 徐福 廟(道 教の 寺院 )で大 勢の 地元 高 校 生 によ る 徐福 東 渡の 寸劇 が行わ れ、 夜は 大 勢 の 市民 が 参加 し 、芸 能花 火大会 がお こな わ れ 、 歌、コン ト、京 劇が 催さ れ、合 間に は花 火 が 打 ち上 げ られ た 。歌 も若 い人向 けの もの が 多 く 、大 型 スク リ ーン も設 置され 、演 技者 と 若い観客たちで盛り上がった。 2009年中国浙江省寧波市慈渓市での国際フォーラム 徐福時代の儀式の再現 徐福公園の徐福像除幕式 徐福廟での高校生による劇 芸能花火大会

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3 日本での徐福伝説

『史記』によると、徐福は平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となり、二度と帰っ てこなかった。この「平原広沢」がどこであるかは書かれていないが、日本の各地には 徐 福 が 来 た と い う 伝 説 が 残 っ て い る 。 ま た 韓 国 済 州 島 に は 、 徐 福が通過したという伝説もある。 右 の 地 図 は 徐 福 の 伝 説 が あ る と さ れ て い る 場 所 で あ る が 、 伝 承 と 言 っ て も 内 容 は 様 々 で 、 民 話 と な っ て い る と こ ろ 、 神 と し て 神 社 に 祀 ら れ て い る と こ ろ 、 徐 福 の 墓 が あ る と こ ろ 、 徐 福 の 絵 巻 な ど が 残 さ れ て い る と こ ろ などである。 こ の 中 の い く つ か の 伝 説 地 を 紹介する。

① 和歌山県新宮市

新 宮 市 は 紀 伊 半 島 南 部 の 「 熊 野 地 方 」 の 中 核 都 市 で あ る 。 伝 説 で は 、 徐 福 は こ の 地 に 永 住 し 、 土 地 の 人 た ち と 田 畑 を 開 墾 し , 農 業 技 術 , 漁 法 , 捕 鯨 , 製 紙 な ど 多 く の 技 術 を 伝 え たと言われている。(HP 徐福伝説より) 現在、新宮駅の近くにある徐福公園内には、 江 戸 時 代 初 期 に 紀 州 藩 に よ っ て 建 立 さ れ た と い う 徐 福 の 墓 が あ る 。 ま た 平 成 に な っ て か ら 中 国 風 の 門 、 徐 福 像 等 を 建 設 し た 。 毎 年 お 盆 に 、 こ の 徐 福 の 墓 の 前 で 供 養 式 典 が 開 催 さ れ る が 、2013 年 の 式 典 で は 、 初 め に 爆 竹 を な ら し たり 、チ ャイ ナ服を着た 子供達が茶 の接待をし た りして、中国風の演出があった。 こ の ほ か 新 宮 市 内 の 、 蓬 莱 山 南 麓 の 阿 須 賀 神 社 に は 徐 福 を 祀っ た「 徐福の 宮」、 徐 福 の 重 臣 を 祀 っ た 「 重 臣 塚 」 等 が あ る 。 お 盆 の 夜 は 徐 福 の 慰 霊 の た め の 花 火 大 会 が 開 催 さ れ 、 市 民 に 根 付 い た 徐 福 伝 説 が 感 じ ら れ る 。 徐福渡来伝承地(HP徐福渡来伝承の地紹介サイトより) 徐福公園入り口 徐福の墓 徐福の墓前で僧侶による供養

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② 三重県熊野市

三重県熊野市内の波田須(はだす)地区に は、徐福の宮がある。伝説では、徐福の船が ここに流れ着き、やがて窯を設け、焼物を人 に教え、また、土木、農耕、捕鯨、医薬など の 中 国 文 明 を 里 人 に 教 え た 。 徐 福 の 宮 で は 江 戸 時 代 か ら 徐 福 を 祀 っ て い た が 、 明 治 政 府 の 神 社 合 祀 に よ り 、 徐 福 の 宮も近くにある「波田須神社」 に 統 合 さ れ 、 徐 福 の 宮 は 廃 社 となった。しかし氏子たちは明治 40 年、ここに墓を作り、名目上は墓を 守 る と い う こ と で 密 か に 徐 福 の 宮 を 祀 り つ づ け 、 戦 後 に 復 社 を 果 た し た ということだ。明治時代の神社統合により多くの神社が破壊され、鎮守の森が伐採され、 徐福の宮の杜も伐採されたそうだが、現在はこんもりとした鎮守の森となっている。

③ 佐賀市

佐 賀 市 内 の 金 立 神 社 に は 徐 福 が 神 と し て 祀 ら れ 、 市 内 各 地 に 徐 福 の 上 陸 地 、 お 手 洗 い の 井 戸 、 お 手 植 え の 神 木 な ど の 伝 説 が 残 さ れ て い る 。 ま た 、 伝 説 の 中 で 、 徐 福 を 慕 っ た 「 お 辰 さ ん 」 が 金 立 神 社 に 祀 られている。 ( 写 真 は 全 て ホ ー ム ペ ー ジ 「 伝 説 の 扉 ・徐福伝説」による。) 徐福の墓 徐福の宮と守り抜いた鎮守の森 金立山と徐福像 徐福のお堂 お堂の中の徐福象

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④ 福岡県八女市

こ こ の 伝 説 で は 、 徐 福 の 乗 っ た 船 は 嵐 に あ っ て 沈 没 し 、 徐 福 は 息 絶 え 海 岸 に 打 ち 上 げ ら れ た 。 村 人 達 は 、 火 を た い て 一 所 懸 命 に 介 抱 し 、 徐 福 は 息 を 吹 き 返 し た 。 徐 福 は 全 て を お 話 し し 、 最 後 に 「 私 が 求 め て い た の は 、 不 老 不 死 の 薬 で は な く 、 あ な た 方 の 暖 か い 情 け で し た 。 私 は 、 こ の な に も の に も か え られない宝物を手にいれることができ、 思 い 残 す こ と は あ り ま せ ん 」 と 言 っ て 安らかに息を引き取った。村人たちは、 徐福のために墓をたて、そのまわりに火をたいて徐福の魂をなぐさめた。 墓は八女市の「童男山古墳」とされ、現在も毎年1月20日に古墳の周辺でたき火を する「童男山ふすべ」が行われている。

⑤ 京都府与謝郡伊根町

伝説では、徐福が伊根町新井に漂着してか ら、里人をよく導いたので邑長(むらおさ) となり、死後、産土神(うぶすながみ=生ま れた土地の守護神)となり、現在も新井崎(に いざき)神社に祀られている。伝説の内容は 江戸時代安政年間の記録にあり、最近それを 石碑にして建立した。なお、この地区の地形 は海岸段丘が発達し、独特の景観を呈してお り、また近くには浦島太郎伝説地もあり、仙人が住む神仙思想にふさわしい地形となっ ている。

⑥ 山梨県富士吉田市

富 士 吉 田 に は 、 徐 福 雨 乞 い 地 蔵 が あ り 、 平 成 11 年 に 徐 福 祠 と 徐 福 像 が 建 て ら れ た 。 ま た 、 市 内 の 福 源 寺 に は 、「 鶴 塚 」 と 呼 ば れ る 石 碑 が 残 さ れ て い る が 、 そ こ に 書 か れ て い る の は 、 徐 福 が 死 ん で 3 羽 の 鶴 に 化 身 し 、 空 に 舞 い 上 が り 、 そ の 鶴 が 千 何 百 年 か 経 っ た こ ろ 1 羽 が 死 ん で 福 源 寺 に 落 ち 、 そ れ を 葬 っ た の が 鶴 塚 だ と 言 う 。 こ の ほ か 、 徐 福 の 祠 、 徐 福 の 墓 な ど が あ り 、 さ ら に は 徐 福 が 書 い た と 記されている『富士古文献』まであるが、これは近年に書かれた偽書とされている。 徐福公園(2013年2月、徐福祭開催) 「童男山ふすべ」の行事(ホームページより) 新井岬の先端に新井崎神社がある

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⑦ 東京都北区王子

東京 都北区の王子神社に残 された 絵巻に、船に乗った徐 福一行が描かれている。 どのよ うな経過でこの絵巻が 王子神 社にあるのかは分から な い が 、11 世 紀 半 ば 、 中 世 武士団 豊島氏がこのあたりを 支配し 、土地を熊野山に寄進 するなど、熊野三山との結びつきを深めた。 王子神社のそばに、桜の花見で有名な「飛鳥山」が あ る 。 こ こ に元 文 2年 (1737 年)に建てられた石碑が 現在も残っている。そこには、次のことが520字余 り の 字 で 書 か れ て い る 。 (『 新 発 見 週 刊 日 本 の 歴 史』(朝日新聞社)による) ・ 飛 鳥 山 に 紀 伊 国 熊 野 新 宮 の 飛 鳥 明 神 の 祠 が あ っ た 。 ・ 元亨( げ ん こ う )年 間(1320 年代)に豪族・豊島氏が、 飛 鳥 山 を 王 子 権 現 社 ( 現 王 子 神 社 ) に 寄 進 し 、 金 輪 寺 に そ の 管 理を任せた。 東京都北区飛鳥山博物館発行の 資料に よると、飛鳥明神は、和歌 山県新 宮市の阿須賀明神を分社し たもの だと言われており、飛鳥山 で発掘 された仏像も阿須賀明神系 のもの だった。新宮の「阿須賀明 神」は、現在は「阿須賀神社」となったが、今でも境内に徐福を祀る「徐福宮」がある。 北区には、廃社となったものも含めると、数カ所の熊野社、紀州神社があったといい、 熊野地方との濃厚な結びつきが感じられる地域だ。

⑧ 秋田県男鹿

江 戸 時 代 後 期 の 紀 行 家 、 菅 江 真 澄 ( す が え ま す み ) が 記 録 し た ス ケ ッ チ と 文 の 中 に 、「 徐 福 塚 」 が 記 さ れ て い る 。 こ の「 徐福 塚」 は現 在は失 われ たが 、平成 17 年、地元の有志 により、自然石を用いて復元した。この場所は、廃寺となっ た「永禅院」の敷地内であり、ここはかって巨大な修験者の 寺院で、現在は赤神神社の一角となっている。 元々の徐福塚は、道路の拡張工事により取り払われたので はないかと言われている。 石 碑 「飛鳥山花見」(1780年代)石碑も描かれている 復元した徐福塚

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⑨ 青森県小泊

青 森 県 中 泊 町 小 泊 の 尾 崎 神 社 に 秘 仏 の 徐 福 象 が 保 管 さ れ て い る 。 尾 崎 神 社 は 、 江 戸 時 代 に は 修 験 道 の 飛 竜 宮 で あ り 、 背 後 の 権 現 崎 全 体 が 修 験 道 の 聖 地 で あ っ た 。 熊 野 の 修 験 道 と の 関 係 が あ っ た が 、 明 治 の 神 仏 分 離 令 に よ り 現 在 の 尾 崎 神 社 と なった。 こ の 秘 仏 の 徐 福 像 が い つ ど の よ う な 理 由 で 持 ち 込 ま れ た か は 、 今 と な っ て は わ か ら な い 。 し か し 近 年 、 地 元 で は 立 派 な 徐福像が建立され、地元の振興に役立っている。

⑩ 神奈川県藤沢市

藤沢市の旧東海道藤沢宿内にある妙善寺にある福岡家の墓 に 、「 天 文 二 十 三 甲 寅 歳 粛 道 日 正 居 士 」 と 刻 ま れ た 墓 石 があり、裏面には「居士諱粛政 称正兵衛。其先出於秦徐福 徐 福 避 始 皇 帝 之 乱 航 海 来 我 神 州 而 卜 居 於 富 士 山 周 麓。故子孫皆以秦為姓。其以福岡為氏者 亦取徐福一字也。 但近地有名秦野者蓋係政粛 一族之旧蹟。亦足以微為祖先之 地 也 。 我 子 孫 其 永 記 勿 忘 焉 。」 と 書 か れ て い る 。 こ れ を 作 家 ・翻訳家である池上正治氏に現代文に翻訳していただいた。 「故人はいみ名を粛政と称し、俗名を正兵衛という。その祖 先は秦の徐福から出ている。徐福は始皇帝の戦乱を避けて海 を渡航し、我が神州(日本)まで来て、富士山の周麓に場所を 選んで下り住む。それ故、子孫は皆、秦を姓とした。福岡を氏 と為すものは、また徐福の一字を取ったのである。且つ、近く の地に秦野の名があるのは、粛政の一族の旧蹟に係るものらし い。これは、祖先の地を明らかにするに十分である。我が子孫 は 、 そ の こ と を 永 く 記 憶 し 忘 れ て は な ら な い 。」 天 文 二 三 年 甲 寅(1554 年)一月十一日」 墓石 は割 れた 石を補 修し た跡が あるが、500 年近くたっている に も 関 わ ら ず 刻 字 は 鮮 明 だ 。 全 国 に 徐 福 関 係 の 墓 や 石 碑 が あ る が 、 多 く は 江 戸 時 代 以 降 の も の で 、 年 代 が 明 ら か で 、 戦 国 時 代 に さ か の ぼ る 遺 物 は ほ と ん ど な い の で、この時代の徐福伝説を調べる上で 貴重なものと言える。 福岡家の墓全体 墓石の表 墓石の裏面 青森県小泊の徐福象

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4 伝説と歴史

① 徐福来日は歴史上の事実なのか?

徐福が不 老不死の霊 薬を求めて 東渡したの は、紀元前 210 年ごろとされている。こ れは卑弥呼の時代から 400 年以上前、古事記、日本書紀が書かれた時代から 900 年以 上前であり、文字がない時代でもあり文献として残るには、時代が古すぎる。 日 本 に 徐 福 が 来 た と 記 さ れ て い る 最 初 の 文 献 は 、960 年頃、 中国 で書か れた『 義楚 六 帖 』 だ と 言 わ れ 、 日本 か ら 来 た 僧 侶 に 聞 い た話 と し て 、 蓬 莱 山 、 すな わ ち 富 士 山 に 来 た こ と が 記 さ れ て いる 。 こ の こ ろ か ら 日 本 に徐 福 伝 説 が あ っ た こ とが わ か る 資 料 で あるが、徐福の時代から約 1200 年もたっており、歴史の資料とはなりえない。考古学 的 に も 、 こ の 時 代 の 金石 文 字 ( 金 属 や 石 に 刻 まれ た 文 字 ) な ど が あ るわ け で は な く 、 徐福が本当に日本に来たかどうかは、歴史的には確認できていない。

② どうして徐福伝説が生まれたのか?

徐 福 伝 説 の あ る 所 はほ と ん ど が 修 験 道 の 寺 院、 聖 地 で あ る 。 新 宮 を中 心 と す る 熊 野 地 方 は 、 修 験 道 の 本 拠地 で あ る し 、 こ の ほ か の主 な 徐 福 伝 承 地 を 見 ても 、 佐 賀 市 の 金 立 神 社 、 山 梨 県 の 富 士山 麓 、 秋 田 県 の 男 鹿 、 青森 県 の 小 泊 な ど 、 多 くが 修 験 道 寺 院 と 関 わ り の あ る 場 所 だ 。修 験 者 は 熊 野 を 本 拠 地 とし て 全 国 を 渡 り 歩 い てお り 、 修 験 者 が 徐 福 伝 説 を 全 国 に 伝 えた 、 と い う の が 徐 福 研 究者 の 間 で は 有 力 な 説 とな っ て い る 。 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 教 授な ど を 勤 め た 修 験 道 研 究者 で あ る 田 辺 三 郎 助 氏は 著 書 の 中 で 、 「 日 本 国 内 に お け る 徐福 の 渡 来 伝 説 が 九 州 筑 紫山 地 の 金 立 山 ( 佐 賀 県) や 英 彦 山 福 知 山 ( 福 岡 県 ) あ る い は熊 野 ( 和 歌 山 県 ) 富 士 山な ど 、 修 験 道 に か か る山 に め だ つ こ と は 、 修 験 道 に 神 仙 思 想 が 受 容 さ れ や す か っ た こ と の 一 端 を 物 語 っ て い る 。」 と 記 し て いる。 修 験 道 は 、 山へ 籠 も っ て 厳 し い 修 行 を行 う こ と に よ り 、 悟 りを 得 る こ と を 目 的と す る日本古来の山岳信仰であり、修験道の実践者を修験者または山伏という。修験道は、 仏 教 や 神 道 を 取 り 入 れた 神 仏 習 合 の 信 仰 で あ り、 日 本 の 神 と 仏 教 の 仏( 如 来 ・ 菩 薩 ・ 明 王 ) が と も に 祀 ら れる 。 表 現 形 態 と し て 、 権現 ( 神 仏 が 仮 の 姿 で 現れ た 神 ) な ど の 神 格 や 王 子 ( 参 詣 途 上で 儀 礼 を 行 う 場 所 ) が ある 。 ま た 修 験 道 は 道 教( ※ ) か ら も 大 きな影響を受けており、徐福と修験道が関連づけられる。 ※道教とは 中 国 、 古 代 の 民 間 信 仰 を 基 盤 と し 、 不 老 長 生 ・ 現 世 利 益 を 主 た る 目 的 と し て 自 然 発 生 的 に 生 ま れ た 宗 教 。 の ち 、 仏 教 へ の 対 抗 上 、 神 仙 説 な ど 道 家 の 思 想 、 お よ び 仏 教 の 教 理 儀 礼 が 取 り 入 れ ら れ た 。5 世 紀前半 、北 魏の寇 謙之(こ うけん し)が 教祖を 黄帝・ 老子と し 、 張 道 陵 を 開 祖 と し て 道 教 教 団 を 形 成 し た 例 も あ る が 、 多 く は 民 間 信 仰 と し て 発 展 し た。(goo 辞書より) 日 本 に は 道 教 の 経 典 や 道 士 の 組 織 的 な 導 入 は な か っ た が 、 中 国 と の 交 流 の 中 で 、 道 教 的 な 考 え が 取 り 入 れ ら れ 、 神 道 の 祭 祀 、 陰 陽 道 、 庚 申 信 仰 な ど に 影 響 が 見 ら れ る 。 庶 民 の年 中行事の中 にも、正月の不老長寿の仙薬の屠蘇(とそ)、端午の節句の鍾馗(しょう き ) 様 の 人 形 を 飾 る な ど が 見 ら れ る 。 特 に 山 岳 信 仰 と 仏 教 が 習 合 し た 修 験 道 は 、 山 で 修 行することにより神通力を得るなどの考えなど、道教の影響を濃厚に受け継いでいる。

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③ 徐福東渡を学術的に迫ろうとする動き

2013 年 3月 3日 、 佐賀 県徐福会主催により「徐 福フ ォーラム in 佐賀-今 解 き 明 か さ れ る 徐 福 伝 説 」 が 開 催 さ れ た 。 パ ネ リ ス ト は 土 井 ヶ 浜 遺 跡 の 博 物 館 館 長 、 佐 賀 大 学 農 学 部 、 元 吉 野 ヶ 里遺跡の発掘リーダー、 愛 知 県 立 大 学 の 民 俗 学 博 士 な ど の 学 術 研 究 者 だ 。 人 類 学 の 立 場 か ら は 、「 縄 文 人 と 弥 生 人 の 人 骨 の 形 状 は 大 き く 異 な る が 、 弥 生 人 で も 地 域 に よ り 特 徴 が 異 な る 。 中 国 大 陸 の人 骨 も 研 究 し 、 山 東 省の 前 漢 、 周 (東 周=戦国時代)の人骨は、北 部 九 州 や 山 口 の 人 骨 と 酷 似 し て い る 。」 そ れ 故 、 弥 生 人 が 中 国 大 陸 か ら 来 た で あ ろ う と の 説 明 が あ っ た 。 農学 の 立 場 か ら は 、 遺 跡 に残 さ れ た 炭 化 米 の 研 究か ら 、 当 時 の 米 が 直 接 中 国 か ら も た らさ れ た こ と の 説 明 が あ った 。 ま た 、 民 俗 学 の 立場 か ら 、 徐 福 伝 説 生 成 の 過 程 が 説 明 され た 。 こ の フ ォ ー ラ ム は、 徐 福 が 実 際 に 来 た かど う か は 確 認 で き な い に し て も 、 徐 福の 時 代 の 中 国 か ら の 渡 来人 は 歴 史 的 な 事 実 で ある こ と を が 説 明 された。 佐 賀 県 徐 福 会 で は 、2015 年度 も学 術 的な フ ォー ラム を予 定し ており 、期待 した い。

④ 徐福の時代の日本は?

弥 生 時 代 の 始ま り の 年 代 は 、 近 年 ま では 、 紀 元 前 3 世 紀 だ と言 わ れ 、 徐 福 の 時代 と 一 致 す る こ と か ら 、「 徐 福 一 行 が 縄 文 時 代 を 終 わ ら せ 弥 生 時 代 が 始 ま っ た 」 と の 見 解 も 生 ま れ た 。 し か し 近年 の 年 輪 法 ( 年 輪 は 年 によ り 育 ち 方 が 異 な り 、発 掘 さ れ た 遺 跡 の 木 材 の 年 輪 を 見 る こと に よ っ て 年 代 が わ か る) な ど 、 考 古 学 の 発 達に よ り 、 弥 生 時 代 の 始 ま り は 紀 元 前 5世 紀 ご ろ と さ れ る よ う にな っ た 。 さ ら に 国 立 歴史 博 物 館 の 炭 素 法に よる研究( 炭素 14 が時間と共に減少するので、「おこげ」などの炭素を測定する ことにより年代がわかる)では弥生時代の始まりは紀元前 10 世紀ごろとされるが、異 論 も あ る 。 い ず れ に して も 最 近 の 考 古 学 の 研 究成 果 に よ る 弥 生 時 代 の始 ま り と 、 徐 福 とは、時代が一致しない。 では徐福の時代の紀元前3世紀の日本はどのような時代だったのか。 文献に初めて日本が現れるのは、紀元前1世紀の『漢書』であり、そこには、漢字19 文 字 で 「 夫 れ 楽 浪 の 海中 倭 人 あ り 。 分 か れ て 百余 国 を な す 。 歳 時 を 以て 来 り て 貢 見 す と 云 う」( 倭 は 百 余 国 に 分か れ 、漢 の 楽浪 郡 まで 定 期的 に 朝貢 し た。) 徐福 の 時代 は そ れの 約 200 年前であるが、考古学的調査からも、当時の日本は、戦乱の中で、地域 的な統合が進展し、多くの「クニ」が形成されつつある時代だと考えられている。

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⑤ 学術的でない徐福もある。

羽田氏は徐福一行か? インターネットで徐福 を検索すると、「失われた徐福のユダヤ人、物部氏の謎」、「安 曇 族 と 徐 福 の 接 点 」、「 物 部 氏 は 徐 福 一 行 の 末 裔 」「 徐 福 は 神 武 天 皇 」 な ど の 多 く の ホ ー ム ペ ー ジ に ヒ ッ ト する 。 こ れ ら に 特 徴 的 な のは 、 日 本 書 紀 の ス ト ーリ ー と 結 び つ け て い る こ と で 、 徐 福 を神 武 天 皇 や ス サ ノ オ だ とし た り 、 徐 福 一 行 を 物部 氏 や 秦 氏 だ と し てい る。徐 福の時代 から日本書 紀が書かれ た時代から 900 年たっており、徐福の解 明には日本書紀は役にたたない。 一例として、富士山麓にも帰化人の末裔とされている「羽田」姓が多数あり、これが 徐 福 一 行 の 子 孫 で あ ると の 伝 承 が あ る 。 な ぜ この よ う な 考 え が 生 じ たか に つ い て 、 富 士 吉 田 の 徐 福 研 究 家 で あ る 故 羽 田 武 栄 氏 が 、『 真 説 徐 福 伝 』 の 中 で み ご と に 分 析 し ている。 紀元三世紀頃、富士北嶺に渡来人が住み着いたことは歴史的な事実と説明した上で 「 紀 元 三 世 紀 と い え ば 、 徐 福 ら が 東渡 し て す で に 4 0 0 年余 り の 歳 月 を 経 て い る 。に もかかわらず、これらの渡来人たちは徐福一行であると何故いわれたのであろう。 こ れ に つ い て は 、 大 変 興 味 あ る 文 章が 残 さ れ て い る 。 そ れは 江 戸 時 代 中 期 に 前 述 の川 口 御師 団 が徳 川 幕府 巡 察使 青 木文 蔵(蘭学書・儒学書で甘藷先生の名で知られる)に 差し出 した『河口御師団由緒』である。 こ の 中 で 、 渡 来 人 秦 氏 ( 波 多 氏 )の 末 裔 を 自 認 す る 御 師団 は 、 彼 ら の 先 祖 が 河 口の 里に来た理由として、徐福がかって住んだ縁の地であるので移り住んだと述べている。 つ ま り 、 こ の 地 の 秦 氏 は 徐 福 の 子 孫で は な い が 、 同 郷 の 徐福 を 慕 っ て い る と い う わけ で あ る 。 し か も 、 彼 ら の 祖 神 を 祀 る波 多 志 之 神 祠 ( こ の 由緒 で は 秦 大 明 神 と な っ てい る ) が 徐 福 を 祀 る と あ れ ば 、 彼 ら 自身 が 偽 称 す る ま で も なく 第 三 者 が 徐 福 の 子 孫 と誤 認するのは無理もないことであろう。 注:秦氏は、『日本書紀』によれば、応神天皇 14 年(283 年)に百済より百二十県の 人 を 率 い て 帰 化 し た と記 さ れ る 弓 月 君 を 祖 と する 。 羽 田 氏 、 波 多 氏 も「 秦 氏 」 が 変 化 し た も の と さ れ て い る 。 さ ら に 平 安 時 代 の 『 新 撰 姓 氏 録 』( し ん せ ん し ょ う じ ろ く )に よ れば秦氏は秦の始皇帝の末裔とされるが、その真実性は疑問視されている。

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5 終わりに

徐福研究の意味 徐福が歴史研究としての対象とはなり得ないことは今まで述べてきた。それでは日本 各地の徐福研究者達は、どのような立場で徐福研究を行っているのだろうか? 和歌山県新宮市や、佐賀県佐賀市などでは、地域に根ざした伝説があり、市の協力の 下に行事などをもり立てている。これらの地域では、行政も加わって、伝説の継承、街 おこしなどのために、関連行事や講演会等を行っている。 外にも各地に「徐福会」が設立され、これらの「徐福会」では相互に交流を図ってい る 。 各 地 の 徐福 会 は 、「 ど の 地 域 の 徐 福 が 正当 か ? 」 な ど と いう 論 争が 生 じる わ けで は なく、楽しく交流している。 ま た 中 国 の 徐 福 研 究 者 と の 交 流 も 活 発 で 、 定 期 的 に 日 中 の 徐 福 研 究 者 が集まり、フォーラムを行っている。 日 中 間 で は 徐 福 は 日 中 友 好 の シ ン ボ ルとして、活躍している。 神 奈 川 徐 福 研 究 会 は 、 神 奈 川 県 日 中 友 好 協 会 の 中 に あ り 、 徐 福 講 演 会 の 講 師 に 中 国 大 使 館 の 書 記 官 を 招 く な ど 、 徐 福 を 通 じ て 厳 し い 関 係 に あ る 日 中 間 の 友 好 促 進 に 役 立 て て 行 こ うと考えている。

参考文献

(この資料をまとめるに当たり、次の書籍を参考にいたしました) 『徐福』 池上正治著 原書房 2007 年 10 月 『徐福伝説考』 逵志保著 一季出版 1991 年3月 『徐福論』 逵志保著 新典社 2004 年6月 『真説 徐福伝説』羽田武栄・広岡純 三五館 2000 年2月 そのほかの徐福関連図書の紹介 『太古のロマン 徐福伝説』 佐賀市 監修 加茂禎一郎 『弥生の日輪』飯野孝宥 新人物往来社 1993 年9月 『月花の旅人』中上紀 毎日新聞社 2007 年7月 『吉野ヶ里と徐福』内藤大典 西日本新聞社 2008 年4月 『南紀新宮・徐福伝説の殺人』西村京太郎 2013 年1月 『徐福東渡の物語』 原作:中国慈渓市徐福研究会 翻訳編集:神奈川徐福研究会 中国大使館書記官 王麟先生 2013.7.17

参照

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