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戦後沖縄における久米・至聖廟再建と中華民国

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〈論文〉

戦後沖縄における久米・至聖廟再建と中華民国

─ 1975 年前後の協力・寄贈品とその政治・文化的背景への注目から ─

石 垣  直

はじめに

中国の王朝(明朝、清朝)と約 500 年にわたり朝貢・冊封関係を結んだ琉球王国は、周 辺地域との交流を通じて独特の文化を生み出してきた。主として中国東南部にルーツをも つ「久米三十六姓」(閩人三十六姓、久米村人)らが 17 世紀初頭に琉球に導入し、後に王 国における国家的な祭礼のひとつとなった「釈奠」(いわゆる「孔子祭」)もまた、こうし た中琉交流史を背景として根を下ろし、継承されてきたものである。

琉球・沖縄の釈奠は、19 世紀末の「琉球処分」そして戦前・戦後の歴史のなかで変容 を余儀なくされ、久米の至聖廟(孔子廟)・明倫堂は 1944 年 10 月 10 日の大規模空襲(十・

十空襲)で、首里の聖廟と国学も翌年の沖縄戦で灰燼に帰した。しかし、戦後の約 30 年 にわたる空白をへて、1974(昭和 49)年 12 月には久米村人の末裔が組織する久米崇聖会 により至聖廟・明倫堂が再建され、翌 1975(昭和 50)年 1 月 25 日には県内外から総勢 200 名余りが出席した落成式と釈奠が挙行された。筆者は既発表論文において、近世、近代、

そして現代へといたる琉球・沖縄の釈奠の継承と変化を論じた。その中で筆者は、近世以 来の基本的な形式が継承される一方で、祭礼(祭祀)次第の詳細、祭礼の主対象である神 位名、祭品内容や祭礼様式に少なからぬ変更が加えられていることを明らかにし、加えて 琉球・沖縄における釈奠の位置づけの変化についても論じた [ 石垣 2019]。

1975 年の至聖廟再建に際し、台湾側から積極的な支援が行われたことについては、久 米崇聖会の刊行物など、日本国内でもすでにいくつかの論考・文献が言及してきた [e.g. 

国吉(編)1995;輝 2010;具志堅(編)2010;久米崇聖会 100 周年記念史編集委員会(編)

2014;石垣 2019]。しかし、この出来事を扱ってきた日本国内の先行研究は、台湾側の資料・

文献を参照しておらず、支援の経緯と寄贈品の内容、さらにはその背景となる当時の中華 民国(台湾)側(1)の対「琉球」政策との関わりが、詳細には検討されて来なかった(2)

では、1975 年前後に沖縄側と台湾側との間では、いかなるやり取りが行われたのか。

さらには、沖縄の至聖廟再建に対する台湾側からの積極的な支援にはどのような背景が あったのか。筆者は今回、久米崇聖会のご厚意で、同会理事長経験者(在任期間 :1988 〜 1993 年)で 1970 年代半ばには理事の一人であった故・具志堅以徳氏が所蔵していた関連 資料 [ 久米崇聖会 2018](3)のコピーを、入手・参照することができた。また、台湾側での 資料・文献調査を通じて、孔子銅像建立除幕式や至聖廟落成式そして釈奠など一連の式典 に出席した台北市孔廟管理委員会(執行秘書)の劉寧顔による報告や論考 [ 劉 1976、

1989]、台湾側の窓口となった中琉文化経済協会関連の刊行物 [ 中琉文化経済協会(編)

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1989、1998;楊 1990、1997]、そして同会・方治理事長の自叙伝 [ 方 1990] など、いくつか の貴重な資料・文献の存在を確認することができた(4)。本稿ではこれらを参照しながら、

戦後沖縄における至聖廟再建に対し台湾側が果たした役割とその内容、支援に至った経緯 と背景、そして意図・思惑などを整理・検討してみたい。

第 1 節 至聖廟再建に対する台湾側からの協力と寄贈品

1 至聖廟再建に向けた沖縄側/台湾側のやり取り

至聖廟・明倫堂は、久米崇聖会により、1974(昭和 49)年 12 月、那覇市若狭にある天 尊廟敷地内に、天尊廟・天妃宮とともに再建された。孔子や四配の神位は道教の神々と同 じ敷地内で奉祀されることになったが、至聖門の正面奥に孔子・四配の神位が安置された 大成殿が建ち、その隣には明倫堂が位置するという、至聖廟を主とした様式での再建であっ た [ 具志堅(編)2010;輝 2010]。

後述するように、至聖廟再建の際には、台湾側から孔子銅像、孔子・四配神位、祭器(礼 器 ) や 扁 額 な ど が 寄 贈 さ れ た と さ れ る [ 劉 1976:163、1989:144; 国 吉( 編 )1995:

110;中琉文化経済協会(編)1998:21 朱 2018:325−326]。このうち、国道 58 号沿に位 置する近世以来の至聖廟・明倫堂跡地の一角(那覇商工会議所隣)に建立された孔子銅像 左側面(北東側)の碑文には、孔子の来歴に続き、孔子銅像の寄贈に至った簡略な経緯が、

次のように記されている(5)。「崇聖会」(久米崇聖会)によって至聖廟の再建が計画され、

国吉有慶理事長や仲井真元楷理事、そして設計事務所長の嵩原安一郎が台北市孔廟を参詣 し、「匡型」を考察し「儀禮」を参観して、再建の参考にした。これに対応し、中琉文化 経済協会の方治理事長の仲介で、台北市政府から「大成至聖先師銅像」が贈られることに なった。同碑文に記された孔子銅像寄贈経緯の内容は以上にとどまり、また神位、祭器、

扁額などの寄贈に関する詳細な内容は不足している。

しかし、先に挙げた久米崇聖会側および中琉文化経済協会や台北市孔廟管理委員会関連 の資料・文献を整理すると、戦後沖縄での至聖廟再建・釈奠復興に対する台湾側からの支 援をめぐる、より詳細な経緯と内容が明らかになる。(表 1) 久米崇聖会自体は、米軍統 治下の 1962 年に琉球政府から法人資格を(再)認可され「社団法人久米崇聖会」となっ た後、同年末から至聖廟・明倫堂の再建を討議し、翌 1963 年には若狭の天尊廟敷地内へ の再建を理事会で決定した [ 久米崇聖会 100 周年記念史編纂委員会(編)2014 : 189]。資金 計画などについては久米崇聖会側が中心となって作業を進めていたが、1969 年における 蔡温具志頭親方および程順則名護親方の頌徳碑建立をへて、1973 年頃から至聖廟再建に 向けて台湾側と積極的にやり取りするようになったようである。

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西 暦 出 来 事 背景・備考 1973年8月上旬 国吉理事長らの台北市孔廟視察 台湾側へ支援要請  〃 年9月28日 久米崇聖会一行の台北市孔廟・釈奠見学

1974年3月15日 ※中琉文経協会久米崇聖会支援決定 台北市孔廟などの協力  〃 年4月12日 中琉文経協会へ孔子神位の寄贈交渉 対象 : 方治理事長

 〃 年6月24日 久米崇聖会、李雪峰を招き理事会 李氏=中琉文経協会・会員  〃 年8月 方治、李雪峰、劉寧顔へ寄贈交渉

東京・湯島聖堂の祭典その他を調査

中琉文経協会、台北市

 〃 年9月

至聖廟、天尊廟、天妃宮の供物台完成 具志堅理事台湾出張(四配神位注文、神像調 査)

 〃 年10月 台北市より孔子銅像寄贈の通知  〃 年10月9日 方治理事長の来沖 建築現場視察

 〃 年12月13日 大成殿・明倫堂、天尊廟・天妃宮竣工 「仰高門」の扁額も完成  〃 年12月17日 台北市の関係者へ招待状送付

 〃 年12月20日 具志堅理事、訪台し孔子神位・祭器等受領 天尊神像等は台北で購入  〃 年12月25日 具志堅理事帰国後に神位・神像などを安置

 〃 年12月30日 徐経満事務所で台湾側来賓歓迎の打ち合わせ 徐氏=台湾省商聯会駐琉代表 1975年1月4日 理事会(式次第、執行係員配置、招待客名簿他)

 〃 年1月5日 釈奠実施に向け、祭典実行委員会を結成  〃 年1月13日 台北市からの孔子銅像が那覇新港に到着

台湾からの来賓への歓迎会打ち合わせ

海雄号での輸送

 〃 年1月16日 久米崇聖会から久米婦人会への協力依頼

小型孔子像や孔子・四配神位の沖縄寄贈要請 中琉文経協会→台北市  〃 年1月21日 釈奠に向け久米村の年長者と懇談、指導依頼

 〃 年1月24日 斯文会・麓保孝および台湾側来賓の来沖

 〃 年1月25日

孔子像建立(13:10 〜 13:30 分)

至聖廟・明倫堂他落成式(14:30 〜 15:20)

釈奠(15:30 〜 15:50)〔+奉納芸能、祝宴〕

歓迎晩餐会(18:30 〜 21:00 過ぎ)

久米・至聖廟跡地 若狭・至聖廟

琉球東急ホテル 表 1 久米・至聖廟再建へと至る沖縄側/台湾側のやり取り(1975 年前後)

関係資料[劉 1976;国吉(編)1995;中琉文化経済協会(編)1998;久米崇聖会 2018]より作成

※表スペースの関係から「中琉文化経済協会」を「中琉文経協会」と略記。表内、以下同様。

しかし、1972 年 5 月 15 日に沖縄が「復帰」した日本は、中国代表権をめぐる国際連合(国 連)・総会でのアルバニア決議(1971 年 10 月)の後に中華人民共和国との「日中国交正 常化」(1972 年 9 月)を選択し、中華民国との国交を断絶したばかりだった。それでも、「復 帰」以前から続く政治・経済的な交流を基礎とし、久米崇聖会側は台湾側に支援を求めた のである。台北市孔廟管理委員会・執行秘書の劉寧顔の報告に基づけば、1973 年 8 月上旬、

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久米崇聖会の国吉有慶理事長と仲井真元楷理事、そして嵩原安一郎設計士らが、中華民国 の対「琉球」交流窓口である中琉文化経済協会の方治理事長や李雪峰とともに台北市孔廟

(台北市大同区大龍街)を参拝し、祭器、祭服、楽器、神位、建築様式を視察したという。

また、劉の記録によれば、同年 9 月には沖縄側から視察団が組織され、台北市孔廟の釈奠 を見学したという [ 劉 1976:163、1989:143](6)

翌 1974 年 3 月 15 日、中琉文化経済協会の方治理事長は、台北市孔廟管理委員会や台北 市崇聖会などの関係者を招き、久米崇聖会による至聖廟再建・釈奠復興に対する支援の在 り方について協議している。この会議では、外交部(外務省に相当)や台北市が前年(1973 年)から進めてきたボリビアの首都・ラパス市への孔子銅像寄贈計画に倣い(7)、台北市 孔廟管理委員会から同様の孔子銅像を、また台北市崇聖会からは孔子神位を、中琉文化経 済協会からは錫製の香炉や燭台などの祭器を寄贈することが決定された [ 劉 1976:163;中 琉文化経済協会(編)1998:21、176;cf. 方 1990:240](8)。沖縄での至聖廟建設が進むな か、その後も、中琉文化経済協会経由での台湾側と沖縄側(久米崇聖会)とのやり取りが 継続された。同年 12 月 20 日には、久米崇聖会を代表して訪台した具志堅以徳理事が台北 市孔廟での贈呈式に出席し、孔子および四配の神位や祭器などを受け取ったとされる [ 劉 1976:163、1989:144](9)

年が明けた 1975 年 1 月には、これまで以上に急ピッチで、除幕式、落成式、釈奠の準 備が進められた。各種式次第やスタッフの役割分担が議論され、1 月 5 日には久米村関係 者を中心に「祭典実行委員会」が結成されている。さらに、落成式の直前である 1 月 16 日には久米村婦人会への協力依頼、1 月 21 日には久米の古老らへの助言・指導依頼が行 われた。これと前後し、1 月 13 日には寄贈される孔子銅像が那覇港に到着し、建立・除 幕式直前まで旧至聖廟跡地で工事が続けられたようである [ 久米崇聖会 2018]。

他方、台湾側では、1 月 25 日の孔子銅像建立除幕式、至聖廟落成式、釈奠に出席する ための訪問団が結成された。中琉文化経済協会の方治理事長を団長、中華民国孔孟学会・

秘書長で考試院(人事院に相当)委員である華仲ならびに中琉文化経済協会・常務理事 で立法委員(国会議員)の謝仁釗を副団長とする、総勢 14 名の訪問団であった [ 劉 1976:164;中琉文化経済協会(編)1998:21;久米崇聖会 2018]。また、この訪問団には、

孔子の子孫で、中華民国によって孔聖奉祀官(大成至聖先師奉祀官)の公職に任命されて いた孔徳成も「顧問」として参加していた。なお孔徳成は、孔子銅像建立除幕式において、

実際の除幕と台湾側代表者としての祝辞を担当し、釈奠でも来賓上香を行っている。沖縄 の至聖廟再建に対する台湾側の窓口である中琉文化経済協会の方治理事長はもちろんのこ と、台北市孔廟管理委員会、台北市崇聖会からそれぞれ代表者が派遣されていることから、

中華民国(台湾)側が、戦後沖縄における至聖廟再建と釈奠復興をいかに重視していたかが 分かる。これは、日本側からの来賓として参加したのが東京湯島聖堂・斯文会の代表者(徳 川宗敬会長代理)である麓保孝常務理事 1 名であったこととは極めて対照的である。(表 2)

資料の散逸が激しく、筆者が確認しえた沖縄側の資料は限られたものだが、先に引用し

(5)

た台北市孔廟管理委員会側の記録によれば、沖縄でも日本および台湾からの来賓を歓迎す るための「歓迎委員会」が組織されたという。その委員長は、稲嶺一郎衆議院議員であり、

台湾の中琉文化経済協会に対する沖縄側のカウンターパートである「中琉協会」の幹部で もあった国場幸太郎(国場組創業者、那覇商工会議所・会頭)や、宮城仁四郎(中琉協会・

会長)も副委員長として加わっていた(10)。また、表 2 にみるように、当日の孔子銅像建 立除幕式、至聖廟落成式そして釈奠には、沖縄側からは上述の三者に加え、米国訪問中の 屋良朝苗沖縄県知事の代理で大島修渉外部長、那覇市からは平良良松市長などが来賓とし て出席している。この来賓・主要参加者の名簿は、1975 年の孔子銅像建立除幕式、至聖廟・

明倫堂落成式、そして戦後初となる釈奠の実施が沖縄側にとっても、重要なイベントであっ たことを示している。なお、孔子銅像建立除幕式については『台北市政紀要』[ 台北市政 府秘書処(編)1976] が概略と写真を、至聖廟再建・釈奠復興を含む一連の式典について は台湾側および沖縄側双方の新聞が簡単な概要を報道している(11)

関連資料 [ 劉 1976;中琉文化経済協会(編)1998;久米崇聖会 2018] より作成

地域 氏  名 所 属 ・ 役 職

01 麓 保孝 斯文会・常務理事(同会・徳川宗敬会長代理)

02 方 治 訪問団・団長 : 中琉文化経済協会・理事長 03 孔 徳成 〃顧問 : 孔聖奉祀官、孔子 77 代孫

04 華 仲 〃副団長 : 中華民国孔孟学会・秘書長(考試委員)

05 謝 仁釗 〃副団長 : 中琉文化経済協会・常務理事(立法委員)

06 陳 重光 〃団員 : 中琉文化経済協会・理事(台北市政府顧問)

07 楊 寶發 〃団員 : 台北市孔廟管理委員会・主任委員(同市民政局・局長)

08 辜 偉甫 〃団員 : 台北市崇聖会・常務理事 09 李 團居 〃団員 : 中琉文化経済協会・理事 10 陳 錫慶 〃団員 : 台北市崇聖会・董事

11 劉 寧顔 〃団員 : 台北市孔廟管理委員会・執行秘書

12 張 清來 〃団員 : 中琉文化経済協会・会員(中華民国全国総商会・理事)

13 陳 澤吉 〃団員 : 台北市崇聖会・会員 14 李 火徐 〃団員 : 台北市崇聖会・会員 15 李 雪峰 〃幹事 : 中琉文化経済協会・会員 16 大島 修 屋良朝苗沖縄県知事・代理(渉外部長)

17 平良 良松 那覇市長

18 稲嶺 一郎 参議院議員(歓迎委員会・委員長)

19 国場 幸太郎 那覇商工会議所・会頭 20 宮城 仁四郎 中琉協会・会長

表 2 久米・孔子像建立除幕式、至聖廟落成、釈奠 主要来賓

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2 台湾側からの寄贈品

上述のように、戦後沖縄における至聖廟再建に際して台湾側から沖縄の久米崇聖会側に 贈られた寄贈品には、孔子銅像、孔子・四配神位、ならびに関連する祭器や扁額などがあっ たとされる。ここでは、沖縄/台湾側双方の関連資料・文献をもとに、可能な範囲でその 詳細を整理・確認してみたい。

すでに言及したように、現在も至聖廟・明倫堂跡地である那覇商工会議所傍(国道 58 号沿)に立つ孔子銅像は、台北市孔廟を管理・運営する台北市孔廟管理委員会から贈られ たものである。(写真 1) 大理石製(採掘地 : 花蓮)の台座(約 4.3 メートル)の上に立っ た孔子銅像(約 2.7 メートル)は、中国彫塑学会理事長である劉獅の設計・彫塑により作 製された [ 具志堅(編)2010:13;劉 1976:173、1989:146]。この銅像の建立に際しては、

台座の材料として台湾側(台北市孔廟管理委員会)から、台座四面用の各種碑文を刻んだ 大理石(4 片)、「孔子問禮圖」「仁」字を刻印した大理石(32 片)、白色大理石(大小 60 個)、

赤レンガ(6,000 塊)なども贈られている [ 中琉文化経済協会(編)1998:178]。

完成した孔子銅像の台座正面(南東側)には、「大成至聖先師孔子造像」の文字と寄贈 当時(「中華民國六十三年七月」= 1974 年 7 月)の中華民国総統である「蒋中正」(蒋介石)

の名前と印章が刻まれている。(写真 2) また台座右側面(南西側)の石板には、国連創 設時に中華民国が国連に贈った碑文としても知られる国父・孫文書の『礼記』「礼運大同篇」

が刻印されている。他方で、台座左側面(北東側)には、孔子の生涯と儒教の世界的な普 遍性、中国と琉球の歴史的関係や今回の寄贈の経緯概略(上述)を記した碑文、そして孔 子銅像の寄贈者である台北市政府側の代表者・「楊寶發」(台北市政府民政局局長/兼台北 市孔廟管理委員会主任委員)の名前が刻まれている。期日は、「中華民國六十三年十月」(1974 年 10 月)となっている。また台座後方(北西側)の石板には、「德配天地/道貫古今」の 文字が、「孔子七十七代孫  孔徳成  敬書」・「中華民國台北市長張豊緒敬献」・「中華民國 六十三年九月二十八日立」(= 1974 年 9 月 28 日)の文字とともに刻印されている。

沖縄側への孔子銅像の寄贈者は、あくまでも、台北市民政局・局長が主任委員を務める 台北市孔廟管理委員会であった。しかし、その前例となったボリビアへの孔子銅像寄贈自 体が、外交部の建議に従い、国立故宮博物院の蒋復䚶院長や中華民国孔孟学会の陳立夫理 事長らに意見を求めて台北市が進めたもので、孔子銅像自体も中国彫塑学会の協力を得て 作製されたものだった [ 台北市政府秘書処(編)1974:54]。また、蒋介石総統名での「大 成至聖先師孔子造像」の文字、孔徳成による「德配天地/道貫古今」、国父・孫文の名で の「礼運大同篇」の刻印といった様式での孔子銅像寄贈は、ボリビアの前例だけでなく、

沖縄側への孔子銅像の寄贈、さらには国交をもつ中南米の重要国であるグアテマラに対し て 1982 年に行われた孔子銅像寄贈の際にも踏襲された様式である(12)。これらの事実から、

当時の中華民国が、関係国・地域への孔子銅像寄贈をいかに重視していたかが明らかにな る。

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既述のように、戦後沖縄における至聖廟再建の際には、この孔子銅像以外にも台湾側か ら孔子・四配神位そして祭器や扁額などが寄贈されたとされるが、これらの寄贈品の詳細 が論じられることはなかった。例えば、筆者が入手した台湾側の資料でも、久米崇聖会へ の寄贈品の詳細などは確認できず、これらの物品に関する多少なりとも細かな情報は、琉 球建築における中華文化の影響を論じた劉寧顔の論考中で紹介された、孔子神位は台北市 崇聖会が作製・寄贈し中琉文化経済協会寄贈の香炉・燭台は台北で作製された [ 劉 1989:

144] という内容にとどまっていた。ただ、同論考に掲載された、1974 年 12 月に台北市孔 廟で孔子・四配神位が贈呈される様子(写真 3・4)、祭壇前に並べられた神位〔5 柱〕・香 炉〔角型  大・小〕・燭台〔1 対〕・爵〔12 個〕の写真(写真 5)は大変貴重な資料であり、

以下で転載しておきたい [ 劉 1989:156−157]。

筆者撮影(2017 年 8 月 11 日)

出典:劉 [1989:156]

(孔子神位を抱える楊寶發氏)

出典:劉 [1989:156]

(楊寶發氏と具志堅以徳氏)

出典:劉 [1989:157]

(神位、香炉、燭台、爵)

筆者撮影(2017 年 8 月 11 日)

写真 1 那覇市久米の孔子銅像 写真 2 台座(正面)の碑文

写真 3 神位・祭器の贈呈式(1) 写真 4 神位・祭器の贈呈式(2) 写真 5 神位・祭器の贈呈式(3)

(8)

他方、沖縄側の資料で、台湾側から久米崇聖会側への神位・祭器・扁額などの寄贈品に 関する多少なりとも詳しい情報は、『至聖廟復興二十周年記念誌』に掲載されている。そ こでは、台湾側からの寄贈品として、孔子神位(台北市崇聖会  昭和 49 年 1 月 5 日)(13) 扁額(「萬世師表」〔陳立夫氏書〕中琉文化協会 昭和 52 年 1 月 5 日)、扁額(「至聖廟」〔方 治氏書〕 昭和 52 年 1 月 5 日)、扁額(「有教無類」中

琉文化協会 昭和 59 年 4 月 20 日)、扁 額(「有教無類」・「明倫堂」訪琉祭孔団)、錫香炉・錫角杯台・錫燭台(中琉文化化協会  昭和 49 年 12 月)が挙げられていた [ 国吉(編)1995:110]。

今回参照した具志堅以徳氏所蔵資料 [ 久米崇聖会 2018] には、至聖廟再建前後に作成さ れたと考えられる「社団法人久米崇聖会」名での「備品・什器台帳」(大成殿、明倫堂、

天尊廟、天妃宮毎の綴り)が含まれていた。同記録中で大成殿の「備品・什器台帳」にお ける「寄贈者名/購入金額」の欄に注目してみると、同欄に寄贈者の記載があるのは、① 香炉(錫製・大型〔角〕1〔個〕、萬世師表銘あり  昭 49・9)、②  扁額(萬世師表 1〔面〕

昭 52・1・5)、③ 燭台(錫製・大型 1 対 昭 49・9)の 3 つのみであった(全て「(台北・)

中琉文化経済協会」名)。他方、同欄が空欄になっているものとしては、④大成至聖先師 孔子神位(1 昭 49・12)、⑤ 復聖顔子神位/宗聖曽子〃/述聖子思子〃/亜聖孟子〃(〔各〕

1 昭 49・12)、⑥ 香炉(真鍮製・小型 1)、⑦ 香炉(真鍮製・大型、龍文 1 前面)、⑧ 酒 杯(銀製 15)、⑨ 杯台(角型 5〔個〕)、⑩ 燭台(真鍮製 1 対)/⑪ 帷(絹 金色 3 張 昭 49・12)があった。また、同じ具志堅以徳氏所蔵の資料(「程順則  蔡温頌徳碑建立 孔子 廟復興再建記録」の綴り中)には「至聖廟、明倫堂、天尊廟、天妃宮建立費中間報告(昭 和 49 年 10 月 4 日現在)」という文書もあり、そこには「台湾にての購入」として「〔御〕

神体 6 4/体」(14)「〔御〕神位 4 配」、「〔爵〕(12 個)30 斤」の購入費用が記載されていた(〔 

〕内は不完全な複写部分を筆者補記)。この他、損傷のため既に使用されなくなっているが、

至聖廟再建三周年を記念した 1977 年秋の釈奠前後には、以下で述べる扁額などとともに、

巨大灯篭一対が「訪琉祭孔団」から久米崇聖会に贈られたとの記録がある [ 国吉(編)

1995:15;久米崇聖会 100 周年記念史編集委員会(編)2014:190]。

これらの諸資料を総合すると台湾側からの神位・祭器などの寄贈について次のことが明 らかになる。すでに論じてきたように、台湾側/沖縄側双方の資料から判断し、④孔子神 位が台北市崇聖会から寄贈されたことは確かである。次に、『至聖廟復興二十周年記念誌』

の「錫香炉・錫角杯台・錫燭台」であるが、これは形状・素材から上記①香炉 ─、⑨杯 台 ─、③燭台に該当すると判断できる。⑤の四配神位については、一部の資料に記載内 容の不一致が見られる。方治理事長の自叙伝や中琉文化経済協会の資料では四配神位も台 湾側から贈られたとしていたが、久米崇聖側では上記のように台湾で「購入」したものと している。『久米崇聖会 100 周年記念史』内、年表の 1974 年の項にも「四配神位の注文」

との記載が見られるため [ 久米崇聖会 100 周年記念史編集委員会(編)2014:189]、作製 は台湾側であっても、最終的には久米崇聖会が購入したのだと考えられる。「爵」は、上 記の具志堅以徳氏資料に台湾で 12 個購入した旨の記載がある一方で、同「備品・什器台

(9)

帳」には「酒杯(銀製)」が「孔子神位  3 個」・「四配  3 個宛」で計「15」とある。孔子お よび四配各神位への三献(初献、亜献、終献)を考えれば、爵が 15 個必要なのは確かで ある。資料不足のため確定はできないが、残りの 3 つは台湾側から寄贈を受けたか、ある いは久米崇聖会側で後に追加購入したものと思われる。なお、「備品・什器台帳」で「寄 贈者名/購入金額」が空欄になっていたその他の物品については、資料上の限界から、現 時点では台湾側からの寄贈なのか久米崇聖会側での購入なのか判断できなかった(15)

至聖廟再建に前後した台湾側から寄贈品としては、上記の資料でも部分的に言及されて いる扁額類がある。先にも引用した中琉文化経済協会の工作紀要や同会・方治理事長の自 叙伝には、総統府資政(顧問)の陳立夫が揮毫したⒶ「萬世師表」の扁額、Ⓑ孔徳成書の 扁額、方治自身によるⒸ「有教無類」およびⒹ「至聖廟」の扁額が沖縄側に贈られたと記 されている [ 方 1990:240;中琉文化経済協会(編)1998:21]。また、久米崇聖会側の資 料によれば、1979 年 5 月に「中華民国祭孔団」の名で再度Ⓔ「有教無類」の扁額が贈ら れてきたという [ 久米崇聖会 100 周年記念史編集委員会(編)2014:191]。なお、1975 年 前後ではないが比較的新しい寄贈としては、1982 年 8 月にⒻ孔聖奉祀官・孔徳成からの「扁 額」があり(16)、さらに至聖廟・明倫堂が久米に移転した 2013 年 6 月には当時の中琉文化 経済協会理事長であった蔡雪泥の名でⒼ「至聖廟」の扁額が沖縄側に贈られている [ 朱 2018:327]。

以上で挙げた物品の内、孔子・四配神位は現在でも大成殿内に安置されており、上述の 祭品の①・③は孔子神位前の香炉と燭台、⑦・⑩は大成殿中央の香案上の香炉と燭台、⑧ は現在も使用されている爵だと考えられる。また、台湾側から贈られた扁額類は、現在で も至聖廟および明倫堂内の各所に掲げられている(17)

ところで、筆者は既発表の拙稿において、実質的には既に台北市孔廟管理委員会に吸 収・改組されていた台北市崇聖会から久米崇聖会に贈られた孔子神位には「大成至聖先師 孔子」の文字が刻まれており、「大成至聖先師」は中華民国独自の諡号であること、台北 市孔廟など台湾の主要な孔子廟でも同様の諡号が使用されていることを指摘した [ 石垣 2019 : 42−43]。この点に関連し、中琉文化経済協会に残された資料をもとに編纂された『中 琉四十年交流紀要』には、同会および関係団体が久米崇聖会支援の基本方針を決めた 1974 年 3 月 15 日の会議(上述)で、久米崇聖会に贈る孔子「聖牌」(神位)の規格(高 さ三尺)は、台北市孔廟の規格を参考に作製することが記されている [ 中琉文化経済協会

(編)1998:176]。興味深いのは、同書のもととなった(数)年度ごとにまとめられる中 琉文化経済協会の工作紀要(18)やそれ以前の手書きの資料(19)、そして同会設立 30 周年を 記念して出版された書籍 [ 中琉文化経済協会(編)1989:147] には、久米崇聖会に贈る孔 子神位は、台北市孔廟の孔子神位の規格(高さ/幅)から「比例折算」(割り引いて計算)

し作製するとしていることである。これは、台湾側(具体的には中琉文化経済協会や台北 市崇聖会など)が、沖縄の至聖廟と比して台北市孔廟がより高位の孔子廟であるとの認識 をもっていたことを示している。

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また、同日(1974 年 3 月 15 日)の会議では、中琉文化経済協会から沖縄側への香炉・

燭台などの送付には、中国国民党(以下、国民党)中央委員会の下部組織である「中央海 外工作会」や「文化工作会」に対し、その補助経費での支払いを要請することが決定して いる(20)。当時(民主化以前)の中華民国が国民党を核とする「政党国家」(party-state)だっ たことや、香炉・燭台などの輸送費に関する事実からも、孔子銅像の寄贈と同様に沖縄側 に対する台湾側からの支援が、対「琉球」交流の窓口である中琉文化経済協会や台北市の みならず、中華民国政府(国民党)の関係諸機関とも連動した動きであったことが分かる。

第 2 節 台湾側からみた戦後沖縄の至聖廟再建

前節で言及したように、台湾側が沖縄における至聖廟再建を支援するようになったのは、

1973 年 8 月の久米崇聖会関係者からの相談・協力要請がはじまりだったようである。し かし、台湾側が 1970 年代に沖縄の至聖廟再建に対してこれほどまでに積極的な支援を行っ た背景、あるいは意図・思惑とは何だろうか。本節では、中華民国が当時置かれていた国 内外の状況、ならびに中琉文化経済協会の初代理事長で長年にわたって台湾と沖縄の交流 事業を牽引してきた方治の対「琉球」観などを整理・検討することで、この問題に迫って みたい。

1 蒋介石の中華文化復興運動と釈奠制度改革

1960 年代から 1970 年代は、中華民国にとって大きな転換期であった。1949 年、国共内 戦に敗れた同政府は、毛沢東の中国共産党(以下、共産党)による中華人民共和国政府樹 立を傍目に見ながら、その政府・統治機構を本来の国土の一部に過ぎない台湾に遷さざる を得なくなった。しかし、総統として中華民国を率いていた蒋介石は「反攻大陸」のスロー ガンの下で中国大陸への復帰を目指していた。そこで当時の中華民国では、同国が中華文 化の正統な継承者であることを国内外にアピールするために、かつてはその文明の辺境で あり、また半世紀にわたる日本の植民統治を経験していた台湾住民に対し、「国語」(標準 中国語)の使用や「祖国の固有の文化道徳」の学習を基調とした「中国化」政策を推し進 めていた [ 菅野 2011]。こうした意図に基づいた内政諸政策が施行される一方で、外交に おける中華民国の苦難は続いていた。1960 年代末に始まる米中接近、さらには国連を舞 台とした中国代表権論争における敗北と国連脱退(1971 年 10 月)により、中華民国の国 際的な立場はより一層弱まっていった [ 若林 2008:第 3 章 ]。

他方で、中国大陸では大躍進政策(1958 〜 1961 年)の失敗によって政治的影響力を弱 めていた毛沢東が、「文化大革命」(1966 〜 1976 年)の名で劉少奇や鄧小平等の党首脳部 を批判し、権力の奪還を目指していた。この動きは『人民日報』誌上で始まっていた「破 四旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の打破)言説と相まって、20 世紀初頭以来、中 国の後進性の象徴として目されてきた儒教は、さらに多くの批判・攻撃を受けることになっ

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た。いわゆる「批孔」である。清末以来の混乱や日本軍の侵攻、さらには修復・保全の不 備によって荒廃していた中国各地の孔子廟は、この「革命」によって破壊され、場合によっ ては学校その他の建設・拡張のために撤去された [ 孔/孔 2011:132−150]。

中国大陸における文化大革命の始動に対抗し、台湾を「復興基地」と位置付けて「反攻 大陸」の機会を狙っていた蒋介石総統は、孫文の生誕百年を祝って建設された中山楼中華 文化堂の落成紀念文(1966 年 11 月 12 日)において、孫文の三民主義を継承し、中華民 族文化を発揚すべきだと主張した。蒋総統のこの発言に国内各界のリーダーらが呼応し、

1967 年 7 月 28 日には中華民国総統を会長とする「中華文化復興運動推行委員会」が結成 され、国家主導の「中華文化復興運動」が大々的に展開された。この国家主導の文化復興 運動は、家庭レベルでの教育から、古典などの整理・出版、善良風俗の宣伝や「四維八徳」

の推奨、さらには歴史文物の保存や国外(華僑および文化人)への情報発など、多方面に わたるものだった [ 林 2005:第 4 章;菅野 2011:第 3 章 ]。

こうした国家的な動きの中で、儒教・孔子廟そして釈奠の在り方もまた、中華文化の推 奨と復興において重要であると認識されていた。現在の台北市孔廟は、もともと 1880 年 代初頭に台北府内の南西部(現在の中華民国総統府の南東)に建設された官製の「台北府 文廟」が日本による植民地統治の過程で取り壊されたため、有志による募金活動を通じて 1939 年に台北市大同区大龍峒に新建されたものである。その初期には有志らが組織した 民間の(台北)崇聖会が管理・運営に当たったが、同会は 1951 年には台北市長を主任委 員とする「孔子廟管理委員会」に改組され、1970 年には崇聖会幹部が行政院(行政府、 

内閣に相当)への孔子廟寄進の意向を表明し、1972 年には台北市民政局が管轄する「台 北市孔廟管理委員会」が正式に発足した [ 董(総編審)2011:10−23]。民間が管理・運営 する孔子廟が政府への寄進希望をへて最終的に台北市政府所管となったのもまた、国家レ ベルでの中華文化復興運動を背景とした出来事であった [ 黄(編)1987:81−82;菅野 2011:249]。

中華文化復興運動における儒教および釈奠の重要性は、その位置づけや実施の在り方を 定めた「大成至聖先師孔子誕辰紀念辦法」(公布・施行:1969 年 9 月 19 日)、ならびに祭 礼 改 革(1968 年 〜 1970 年 ) か ら も 見 て 取 る こ と が で き る [ 杜 2003:190−194; 水 口 2010]。同紀念辦法では、孔子の生誕日と定められた 9 月 28 日(新暦)に中央および各地 方政府で首長・幹部・職員・学生らが出席する式典(「紀念大会」)を実施することや、式 典概要、各種学校や文化学術団体における広報および「六藝」を基礎とした競技大会の行 事開催などが規定された(21)

同辦法の公布・施行と歩調を合わせ、翌 1970 年には、政府主導によって有識者らが組 織した祭孔礼楽工作委員会が、歴代王朝の釈奠礼式を継承・発展させた楽・舞・服装・典 礼儀節・祭器などを定めた小冊子『祭孔礼楽之改進』[ 祭孔礼楽工作委員会 1970] を発行 している。それ以前、日本植民地期を除けば、台湾各地の孔子廟では主として清朝の釈奠 様式が用いられてきたが、1960 年代末からの釈奠改革によって、明朝およびそれ以前の

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漢族王朝の釈奠様式を基調とした総合的な新様式が登場したわけである。同冊子には、「祭 孔典礼義節」(釈奠の祭礼様式)について、孔子の神位に必ず「大成」の二文字を冠する こと、舞・佾生の在り方などの基本にも言及しながら、新たに定められた釈奠の次第概要 および所作の概要説明も収められている [ 祭孔礼楽工作委員会 1970:19−22]。

久米崇聖会による至聖廟再建・釈奠復興との関連でいえば、同廟の再建と釈奠復興から 三周年となる 1977 年には、10 月 10 日の中華民国・国慶節に合わせ、台湾側から礼生・

楽生・佾生ら総勢 160 人から構成される「祭孔舞佾訪問団」が沖縄を訪問し、44 種の楽 器を用いた「楽」や、台北市立の成淵中学校や大龍小学校の児童・生徒らによる「舞」を 伴う釈奠を、若狭の至聖廟で挙行している [ 中琉文化経済協会(編)1998:26−27;久米 崇聖会 100 周年記念史編集委員会(編)2014:190;久米崇聖会 2018](22)。同様の「祭孔 舞佾訪問団」は、1980 年 7 月および至聖廟再建・釈奠復興の 10 周年となる 1984 年 4 月 の記念釈奠にも組織され、大龍小学校の児童らが「舞」を披露している [ 中琉文化経済協 会(編)1989:167、1998:201;国吉(編)1995:15−16;久米崇聖会 100 周年記念史編 集委員会(編)2014:191−192]。上記の具志堅以徳関連資料に含まれる至聖廟落成三周 年記念(1977 年)の台湾側の釈奠次第も、基本的には祭礼改革で定められた台北市孔廟 の釈奠様式であった [ 久米崇聖会 2018]。沖縄の至聖廟で披露された釈奠の様式は、台北 市孔廟が歴史的に継承してきたありのままの姿というよりもむしろ、上記の中華文化復興 運動における祭礼改革を通じて新定された祭礼様式に基づいたものだったのである。

この新様式は、基本的には楽や舞などで明朝の様式を復元しつつも、それ以前の宋朝や これまで台湾で一般的だった異民族王朝である清朝の様式(例えば、鐘・鼓の節奏様式、

楽生・舞生の配置など)も部分的に継承したものであった [ 杜 2003:190−194]。また、「崇 聖祠」名称の使用、十二哲、先賢・先儒とその「位次」(順位)など、至聖廟・崇聖祠内の 設備や配置においても、かつて台湾で普及していた清代の様式が継承されている。ただし、

当時の祭礼改革で示された新様式は、必ずしも歴代王朝による釈奠の単なる折衷案だった わけではない。『祭孔礼楽之改進』の詳細な内容および改革に携わった国立故宮博物院の 蒋復䚶院長らの言説を分析した水口拓寿が指摘するように [ 水口 2010:396−397]、この 祭礼改革は、孔子が生きた周代から異民族王朝である清朝までをも含めた「中華文化」の 正統な継承者として、中華民国の存在をアピールすることを意図したものだったと考えら れる。

このことは、同改革に際して台北市孔廟のために新たに鋳造・奉納された「鏞鐘」に刻 まれた「復興中華文化」・「発揚民族精神」の銘文、同冊子に記された「新孔子廟建築後の 総統あるいは総統代理による主祭」という構想、この祭礼改革によって釈奠が「古礼」の 様式に接近しつつもさらに「荘厳肅穆」であり「復興中華文化」の要旨に合致するもので ある、といった説明文 [ 祭孔礼楽工作委員会 1970:20] からも窺い知ることができる。また、

孔子・儒家思想の継承や孔子廟の建設、そして釈奠の実施が「中華文化の復興」・「中華文 化の発揚」にとって肝要であり、中華民国総統(蒋介石)も歴代の皇帝同様に孔子に対す

(13)

る国家的な祭礼の主祭者であるとする認識・姿勢は、同冊子の約 10 年後に台湾省新聞処 から刊行された書籍『台湾的孔子廟』の各所にも示されている [ 黄(編)1987](23)。1975 年 1 月の至聖廟再建・釈奠復興時の孔子・四配の神位や孔子銅像と同様に、1977 年 10 月、

1980 年 7 月そして 1984 年 4 月に台湾側が「琉球」側に提示したのは、中華民国が当時置 かれていた国内外の特殊な状況下で生み出された政治・文化的意味合いの強い釈奠だった のである。

2 中琉文化経済協会の役割と方治らの対「琉球」認識

前節で整理したように、久米崇聖会による戦後の至聖廟再建を支援した台湾側の窓口は、

中琉文化経済協会であり方治理事長であった。同協会そして方治理事長は、沖縄の至聖廟 再建・釈奠復興にいかなるまなざしを向けていたのだろうか。

中華民国は国共内戦に敗れて台湾に遷った後も中国大陸への復帰と統一国家の樹立を画 策しており、蒋介石総統は「復興基地」としての台湾に隣接する「琉球」の存在を重視し ていた。さらに言えば、中華民国は第二次世界大戦中および戦後も、1870 年代に起こっ た明治政府による「琉球処分」と「沖縄県」の設置を正式には承認してこなかった [ 2000;許 2008;石井 2010;赤嶺 2013]。中華民国では戦後も、中国歴代王朝(明朝・清朝)

との歴史的な関係の中で用いられてきた「琉球」という呼称を意識的に継続使用してきた が、実はそのこと自体が、沖縄に対するかれらのスタンスを物語っていたのである(24)

中琉文化経済協会は、国民外交を担う団体として 1958 年 3 月に設立された。同協会は 民間団体の形を採用しているが、本来は中華民国政府の対「琉球」政策の一環として、蒋 介石総統の意を受けて設立された団体であった [ 方 1990:136−139;楊 1990:481−482、

1997:119;石井 2010:87−88;許 2014:36]。したがって同協会は、中華民国と「琉球」

との政治、文教・学術、経済・貿易、観光、婦女組織、青年組織などの分野で全方面的な 交流を進めただけでなく、過去には米軍統治下での技術者・労働者派遣事業 [ 八尾 2010]、

1980 年代半ば以降にはビザ発行業務などを担当したように、戦後の台湾と沖縄の関係に おいて半ば「官」的な役割を果たしてきた [ 楊 1997:119−144;中琉文化経済協会(編)

1998](25)

中琉文化経済協会の初代理事長に就任したのは、安徽省桐城県出身で 1920 年代に日本 へ留学した経験をもつ、方治(1895 〜 1989 年)であった(26)。彼は戦前に国民党中央委 員会の執行委員や宣伝部副部長代理を経験し、1958 年当時は、中華人民共和国成立に伴 う中国大陸からの難民保護を担う内政部所管の民間団体「中国大陸災胞救済総会」の秘書 長であり、総統府国策顧問でもあった。これと前後して国民党中央評議員や国民大会代表 なども務めた国民党幹部の一人であった方治は、蒋介石総統の命を受けて中琉文化経済協 会初代理事長に就任し、29 年間(1958 年 3 月〜 1987 年 6 月)にわたって同協会をリード した戦後の「中琉」交流の中心人物であった [ 方 1990;楊 1990:479−484、1997:106−

115](27)

(14)

方治は、国場幸太郎、宮城仁四郎、大城鎌吉、稲嶺一郎、西銘順治ら沖縄側の政治・経 済界の要人らとの親交も厚く、中琉文化経済協会の活動を通じて「中琉」交流の全般にお いて「日本復帰」前後の沖縄に多大な貢献をなした。方治が果たした「中琉」交流への貢 献を記念し、彼の存命中の 1983 年 10 月 10 日(中華民国・国慶節)には、沖縄および台 湾側有志の協力を得て、沖縄県恩納村ムーンビーチを見下ろす丘に建てられた顕彰碑(生 壙)の除幕式が行われた [ 方 1990:262−276;楊 1997:107−108;中琉経済文化協会(編)

1998:752−753]。さらに 1989 年 3 月 28 日の方治逝去(享年 94 歳)に際しては、台湾だ けでなく沖縄でも告別式が開かれ、遺骨は故人の意向を尊重し、同顕彰碑が建てられた場 所に納骨された [ 楊 1997:109−110;中琉文化経済協会(編)1998:771−778](28)。同顕 彰碑・墓は、当初は「方治先生顕彰会」によって、30 年の月日が流れた現在でも、沖縄 出身の「華留」(中華民国への留学)経験者によって組織される「華思会」メンバーら方 治理事長を慕う沖縄県内の有志によって、維持・管理されている。

「琉球」に対する方治の認識と思い入れは、彼が生前にまとめた自叙伝『我生之旅』[ 方 1990] に示されている。例えば方治は、同書中の「中琉協会」(中琉文化経済協会)の設立 と役割について述べた箇所 [ 方 1990:136−139] で、「琉球」は古くは隋そして特に明代以 降には中国と朝貢関係にあった歴史的つながりの深い「藩属王国」であったが、「光緒 5 年」

(1879 年)に日本の「海賊的な占領の強行」に遭ったとする。そして洪武年間の「漢族 三十六姓」(久米三十六姓)の派遣などにも言及しながら、台湾は中国大陸を「光復」(領 土回復)する上での「基地」であり、「琉球」はその東北に位置する「安全屏障」である との認識を示す。また方治は、中琉文化経済協会の業務を進めていく上では、①「琉球」

の経済リーダー(国場幸太郎、大城鎌吉、宮城仁四郎、具志堅宗精)の求心力、②メディ アや大学などの文教人士との友好関係、③留学生交流、④「琉球」の政治リーダーとの連 携、⑤「琉球華僑総会」の設立が重要であると述べる。方治はさらに、ニクソン大統領と 佐藤栄作首相の「糸で縄を買う」(「琉球」の)返還協定を非難し、一部の「愛国有志」が 組織する「琉球独立運動委員会」の活動を重視して、中華民国は「琉球」の日本「復帰」

を承認してはいないと明言する。

方治はまた、同書の「琉球は琉球人の琉球である」(「琉球是琉球人的琉球」)という文 章で [ 方 1990:163−167]、改めて中国と「琉球」との歴史的関係の深淵さと近代日本に よる「侵略・占領」行為に言及する。そして方治は、第二次世界大戦後の戦後処理(カイ ロ会談、サンフランシスコ講和会議)に際して中華民国側は戦勝国として「琉球の中国復 帰」を主張することも可能だったのだとする。方治はさらに、「琉球」では長期の米軍統 治で「日本復帰」の声が高まってはいるが、戦後の旧植民地諸国の相次ぐ独立の潮流や「民 族」の「自主決定」に鑑みて、人口「百万人」、「72 島嶼の面積」をもつ「琉球」は、独 立した新興国家の一員になることができるのだと主張した。方治はこの文章を、次の言葉 で結んでいる。「琉球は琉球人の琉球である。それは米国の琉球ではなく、あるいは中国 の琉球でもない。ましてや日本の琉球ではない。総じて、琉球の前途は琉球人の自主決定

(15)

に基づくべきである」。

「琉球」に対する方治のこうした眼差しは、当然、「琉球」における「尊孔」に対しても 向けられていた。同自叙伝の「尊孔崇儒」という文章 [ 方 1990:239−242] の中で方治は、

「琉球」と「我」(中華民国側)とは「同種同文之血縁関係」にあるとし、改めて近代日本 による 1879 年の「占領」を非難した。その上で方治は、至聖廟再建と釈奠復興に際し、

中華民国(台湾)側から孔子銅像、孔子・四配の神位、そして総統府資政の陳立夫や孔徳 成そして方治自身から「萬世師表」・「有教無類」・「至聖廟」の扁額が、さらには釈奠に必 要な祭器類が寄贈されたとする。加えて方治は、中国大陸における文化大革命の下での「批 孔」について触れ、「琉球」の人々が中華民国(台湾)側から贈られた孔子銅像にどれだ けの敬意を払っているか、そして至聖廟再建三周年となる 1977 年の祭孔訪問団による釈 奠と楽・舞が、「宏揚孔道」と「闡発東方文化」に対する大きな貢献であるかを強調した。

方治はまたこの文章の中で、中琉文化経済協会の主導によって「琉球」の「華留」学生ら が結成した「華思会」の存在にも言及しながら、「反共尊孔教育」が「琉球」の青年や人々 の間に浸透していくことを期待している。

1975 年 1 月 25 日の一連の式典の内、方治理事長の祝辞内容は、台湾側ならびに沖縄側 の関連する資料・文献の中に記録されている [ 劉 1976:179−181;方 1990:245−247;

久米崇聖会 2018]。落成式の際のものと考えられるその祝辞の中で方治は、「中華民国と琉 球」が歴史的に深い関係を有する「兄弟さながらの国」であり、「中琉両大民族」が孔子 銅像建立除幕、至聖廟落成、そして釈奠のために集うことは、「アジアの伝統」である「儒 家のひかり輝く歴史」のより一層の発揚のための崇高な努力の表れであり、「自由世界」

の全ての人々の喜びであろう、と述べた。続いて方治は、「仁」「忠恕」「民為邦本」「有 教無類」・「四海之内、皆為兄弟也」といった言葉を引用しながら、「孔子の道」が世界的 な普遍性をもつものであると主張した。さらに方治は、共産党による孔子批判や石油危機 に起因する食糧不足と経済恐慌の現象が起こっている現代世界において必要とされるのは

「孔子の仁愛」や「道徳」であり、「聖なる孔子の大道」を推し広めることは、〔中華民国と〕

「同種同文」の「守礼之邦」と称される〔「琉球」の〕人々、そして「中華民国と琉球すべ ての孔子信徒」が「ともに背負うべき責任」であると強調した。

先にも引用した「血縁関係」や「同種同文」という語りや、「琉球は琉球人の琉球である」

という文章の中に登場する「その歴史的ルーツを遡れば、大多数の琉球人は中国の末裔で ある」といった認識は、方治の「琉球」に対する思い入れの強さの表れであり、もちろん 歴史・言語・文化的な事実と合致しない。しかし、孔子思想の普遍性と現代世界における 意義を強調する方治のスタンスは、1975 年 1 月 25 日の一連の式典に出席した他の台湾側 来賓の祝辞でも示されている。例えば孔徳成は、孔子銅像建立除幕式の祝辞の中で、孔子 の「学説や思想」は「中国文化精義の所在」であるだけでなく、「東方全体、乃至は、全 世界の精神文明の精髄」であると述べた [ 劉 1976:173;久米崇聖会 2018]。また、中華民 国孔孟学会を代表して至聖廟落成式での挨拶に立った華仲も、陳立夫理事長の祝辞を代

(16)

読して、「孔孟の思想」・「孔孟の道」は「中国文化」の中心をなしているだけでなく、「全 人類」の共存にとっての「真理」であるとした。陳立夫が用意した祝辞はまた、「道徳」

や「礼治」が軽視される現代、そして行き過ぎた資本主義と共産主義の双方を非難する。

その上で同祝辞は、国父である孫中山(孫文)の「三民主義」や「五権憲法」そして蒋介 石総統が担う「道統」が、孔子や孟子によって継承されてきた「中国文化」に連なるもの であり、「世界平和」と「人類幸福」に寄与するものだと強調した [ 劉 1976:181−183;

久米崇聖会 2018]。

ただし、中琉文化経済協会の方治理事長や孔徳成孔聖奉祀官そして陳立夫孔孟学会理事 長の祝辞内容や文章、さらには釈奠に臨む態度から、かれらが「儒教」や「孔子思想」を 無批判に「信仰」し、その「布教」を目指していたと考えるのは正しくないだろう。確か に、孔子の子孫で孔聖奉祀官という公職に任じられている孔徳成は中華民国がその政権の 文化的な正統性(「道統」)を強調する上で不可欠の人物であり [ 菅野 2011:153−154]、

陳立夫は総統府資政でかつ中華民国孔孟学会理事長を務めた人物であった。そして両者は いずれも、中華文化復興運動の核心である「中華文化復興運動推行委員会」の常務委員(孔 徳成)あるいは副会長(陳立夫)として、同会・会長の蒋介石総統とともにその運動の中 核にいた [ 林 2005:第 3 章;菅野 2011:第 3 章 ]。しかし、中琉文化経済協会の方治理事 長は、その自叙伝にも記されているように、68 歳の時に胃の病を患う中で「福音」と出 会い、キリスト教を信仰するようになった人物であった [ 方 1990:222−224]。孔徳成や 陳立夫はもちろん、敬伲なクリスチャンであった方治が上述したような積極的なかたちで 久米崇聖会による至聖廟再建と釈奠復興を支援し、「琉球」が「孔子の道」をともに実践し ていくことの重要性を再三にわたって強調したのは、必ずしも特定の「宗教」に対する「信 仰心」からではなかった。それはむしろ、かつての朝貢国であった「琉球」に対し、中華 文化の中核としての孔子の思想が現代文明に対してもつ意義、さらに言えばその教えの正 統な継承者としての中華民国の存在を訴えるという使命感ゆえであったと理解できる。

他方で、久米崇聖会側および沖縄側の来賓は、どのような思いで一連の式典に臨んでい たのだろうか。現在確認可能な資料の制約上、主として台湾側の資料に依拠せざるを得な いが、改めて劉寧顔の報告内容を確認してみたい。同報告によれば、至聖廟落成式におけ る謝辞の中で久米崇聖会の国吉有慶理事長は、来賓諸氏への謝辞と久米の至聖廟・明倫堂 の歴史ならびに再建の経緯について述べた後、諸氏・諸団体へ感謝の意を表し、「儒道」

の発揚と久米村関係資料の収集と公開、そして育英事業の推進という目標に言及して、挨 拶を締めくくっている [ 劉 1976:177−178]。同じく落成式において屋良朝苗沖縄県知事 の代理で挨拶した大島修県渉外部長も、戦後の至聖廟再建と孔子の道徳の宣揚に対する久 米崇聖会の尽力を評価しつつ、自己中心主義や利益追求が優先される現代社会における「孔 子思想」の役割を強調している [ 劉 1976:178]。戦後に経済復興はしたが、人々の精神性 は軽視されており、こうした時代であるからこそ、孔子・儒教の「精神教育」や「仁・徳・

忠恕之道」が日本や世界にとって必要であるとする同様の認識・語りは、斯文会・徳川宗

(17)

敬会長の代理で出席した同会の麓保孝常務理事や平良良松那覇市長の祝辞の中にも登場す る [ 劉 1976:178−179]。劉寧顔の報告を読む限り、こうした認識は台湾側からの来賓を 歓迎した稲嶺一郎、宮城仁四郎、国場幸太郎ら、沖縄側の要人にも共有されていたようであ る。

しかし、沖縄側の要人らが公の場で発言できたのは、孔子・儒家の思想の現代的な意義 と役割の重要性に対する共感までであった。方治の自叙伝や劉寧顔の報告の中には、与党・

自由民主党の国会議員として 1972 年の日華断交を止められなかったことに遺憾の意を表 す稲嶺一郎、また中華民国との関係維持のために尽力した政治家として西銘順治や国場幸 昌らが登場する [ 劉 1976:168;方 1990:234−235]。同じく劉寧顔の報告には、釈奠終了 後の歓迎晩餐会における、沖縄側の要人の発言、すなわち「中華民国と我々との千年余の 関係」・「中琉のさらなる相互団結」(稲嶺一郎)や「蒋総統のご健勝と中華民国国運の昌 隆を祝う」(大城鎌吉)が記録されている [ 劉 1976:185]。このように、「本土復帰」・「日華 断交」以前より台湾側と深いつながりを持っていた沖縄の一部の人々は、戦後沖縄の至聖 廟再建・釈奠復興に対する中華民国(台湾)側の思いをある程度理解していたと考えられ る。しかし、これらの資料を見る限り、沖縄の「本土復帰」そして「日中国交正常化」「日 華断交」の 2 年後という時代性の中で、孫文の三民主義や五権憲法を引き継ぐ蒋介石総統 の中華民国こそが中華文化およびその中核の一つである孔子思想を現代において継承・体 現する正統な存在であるという主張に対し、沖縄側の要人らが公に言及したり賛同したり することはなかったようである(29)

久米・至聖廟再建への協力・支援をめぐる方治らを中心とする中華民国(台湾)側の思 い入れと、それに対する沖縄側の関係者が公に発言した応答との間にみられる差違は、こ の歴史的な出来事に関連する台湾側/沖縄側双方の新聞報道にも表れていた(30)。至聖廟 再建・釈奠復興に関連した台湾側の報道が、中国大陸での文化大革命に対抗する「中華文 化復興運動」や「孔子之道」の重要性、「琉球華僑」としての久米崇聖会の存在を強調し たのに対し、沖縄側の報道はあくまでも戦争で焼失した廟の再建や釈奠の様子、釈奠の継 承や「孔孟の道」・「儒教道徳」に基づいた人材育成を強調する久米崇聖会の今後の在り方 などにとどまっていた。そして、至聖廟再建・釈奠復興に対する台湾側からの積極的な支 援の内容やその思惑が沖縄の人々に広く記憶されることのないまま、数十年の歳月が流れ、

現在に至っている。

おわりに

戦後沖縄における至聖廟再建に際し、台湾側から積極的な支援が行われてきたことは、

久米崇聖会の刊行物やその他の関連する論考でも指摘されてきた。しかし、本稿の冒頭で 述べたように、これまでに日本国内で発表されてきた刊行物や論考は沖縄側の資料のみに よって当時の状況を断片的に記すのみで、台湾側の資料や文献を参照してこなかった。し たがって、台湾側からの当時の積極的な支援が、どのような背景の下で、いかなる意図・

参照

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*(4) 大交易時代を支える重要な役割を果たしていた、

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本協議会はこれまで一貫して、日米地位協定第5条に基づく米軍 による民間空港及び港湾の使用については、緊急時以外、自粛する