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1959年の沖縄: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

1959年の沖縄

Author(s)

組原, 洋

Citation

沖縄大学地域研究所年報 = The Institute of Regional Study,

The University of Okinawa Annual Report(5): 25-41

Issue Date

1994-03-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/9869

(2)

「戦後沖縄の法」班

1 9 5 9 年 の 沖 縄

ま え が き

1959年ということで、どういうことを思い起こす

かは人により、さまざまだろう。

いわゆる米軍用地小作人訴訟と関連して、本文で

述べるような事情によって、私はこの頃の沖縄のこ

とを調べる必要に迫られた。本稿は、その経緯をま

とめたものである。調査を開始したのが93年11月5

日以降であるから、それから3か月ほどしか経って

いない。内容的にはまだまだ調べたりない感じが強

いが、時機的に一区切りつけた方がいいだろうと思

われる状況になったので、こういう形でまとめてみ

た。

私は、沖縄の歴史を含め、歴史一般について、ず

ぶの素人である。実際、資料集めをしながら、その

ことを痛感したが、途中で投げ出すこともできなか

った。そういう次第であるから、思わぬ誤り等があ

るのではないかと思う。読者の忌憧のないご指摘を

期待している。

調査に当たっては、性質上、多くの方々から情報

提供、助言等、さまざまな援助を受けた。できるか

ぎり本文中で触れたが、ここでまとめて感謝の意を

鋤表する。 1

地域研究所の「戦後沖縄の法」班が米軍用地小作

人訴訟とかかわるようになった経緯については、す

でに、沖縄大学地域研究所所報第4号所収の拙稿

「小笠原の現状と沖縄」において述べた。

この訴訟の控訴審が始まってからは、しかし、さ

まざまな事情が重なって、私自身は遠ざかっていた。

法廷傍聴も、控訴審の最初の方だけしかしていない。

組 原 洋

同じ班の小川竹一氏が専らこの事件にかかわる方向

になっていった。ところで同氏は、「沖縄の法体系

の変遷と米軍用地小作人訴訟」(沖縄大学地域研究

所年報第4号所収)を脱稿後、93年4月から、学外

研究のため中国に向けて出発された。それで、同氏

が1年間留守する間、私がこの事件をフォローして

おくということにはなったが、控訴審がそう簡単に

終わるものとは考えられず、せいぜい法廷に提出さ

れた書類を、小作人代表の1人である上江洲由芳氏

を通して入手するぐらいが予想された仕事だった。

こういう事情で、93年の夏休み前、上江洲氏と連

絡を取ったところ、訴訟手続きはもう大詰めで、93

年10月26日には判決言い渡しの予定であると教えら

れて、呆然とした。何しろ、まだ本格的な証拠調べ

は何らなされていなかったはずだからである。そん

なものは必要ないということになったとしか考えら

れなかった。だから、この時期に判決が出るという

ことは実質的に打ち切るということで、小作人側の

敗訴が予想された。

判決期日を知ってからも、しかし、私としてなす

べきことは見当たらず、静観していた。判決言い渡

しの当日も、傍聴には行かなかった。ところが、当

日の夕方、沖縄タイムスの記者が拙宅を訪れ、この

事件について取材していった。この時、裁判所が用

意したという判決要旨(B4用紙で2枚)をいただ

いて初めて判決の内容を知ったのである。予想通り、

小作人側の敗訴である。翌日の沖縄タイムス社会面

の見出しに「判決2分怒りと落胆」とあるのは、

つまりこの要旨を読み上げたのであるらしい。用意

のいいことだ。一審判決の時の「50年かけた開墾た

った3秒の判決」よりはましということか。

− 2 5 − 由 ロ ●

(3)

以下にこの判決要旨をそのまま掲げる。 平成3年(ネ)第90号事件判決要旨 (事案の概要) 本件は、被控訴人が所有し又は所有していた沖縄 市倉敷東内喜納原21外の土地(以下「本件土地」と いうo)に対して戦前から控訴人ら又はその先代が 耕作目的の賃借権を有していたとして、被控訴人が 現在所有する一部の土地について、賃借権の確認を 求め、その余の土地については、平成3年に被控訴 人が国等に売却したために被控訴人の債務不履行に より賃借権が消滅したとして、その損害賠償を求め るとともに、戦後本件土地が米軍に接収使用され続 けたことの対価として被控訴人が受領した賃料又は 被控訴人が右のとおり一部の土地を国等に売却した ことに伴い受領した賃料名目若しくは損害金名目の 金員について、控訴人ら又はその先代が賃借権を有 することを理由に、賃借権の価額が不当利得に当た るとしてその一部の返還を求め(以上主位的請求)、 また、控訴人らの先代が山林・原野を開墾したため に被控訴人は田畑・宅地としてより高額の賃料等を 得ることができたことを理由に、右賃料等の一部は 本来控訴人ら又はその先代が受領すべきもので不当 利得に当たるとしてその一部の返還を求めた(予備 的請求)事案である。 原審は、各請求を棄却したが、控訴人らは、これ を不服として控訴した。 (当裁判所の判断) 当裁判所は、控訴人らの請求はいずれも理由がな いと判断し、本件控訴を棄却する。判断の要旨は次 のとおりである。 一賃借権の確認請求等について 戦後本件土地等が米軍に接収使用され、昭和27年 4月28日発効の対日講和条約3条により沖縄に対す る施政権が米国に帰属した後、米国は、軍用地に対 する占有使用状態を合法化するめ、いくつかの布告、 布令を発したが、そのうち本件で重要なものは昭和 34年1月26日施行の高等弁務官布令20号「賃借権の 取得について」である。布令20号に基づき、本件士 地について、琉球政府と被控訴人との間で基本賃貸 借契約が締結され、琉球政府と米国との間で総括賃 貸借契約が締結されたが、これによって明確化され た米国の賃借権は、その権利の内容や終了権限が米 国に留保されていることから考えると、近い将来に 終了が予定されているものではなかった。したがっ て、仮に控訴人ら又はその先代が賃借権を有してい たとしても、控訴人ら又はその先代に本件土地を使 用させるという被控訴人の債務は、社会通念上、米 国の右賃借権の取得及びそれに基づく本件土地の占 有使用により全部の履行不能となり、賃借権は消滅 したというべきである。 よって、賃借権の確認請求、賃借権の存在を前提 とする債務不履行による損害賠償請求及び不当利得 返還請求はいずれも理由がない。 二控訴人らの先代の労務による不当利得の返還 請求について 仮に賃借権が成立していたとしても、控訴人らの 先代が山林・原野を開墾して田畑・宅地としたのは、 賃貸借に基づく本件土地の使用収益の結果そのもの であり、それにより当該土地の経済的価値が上昇し たとしても、賃貸人に対し、その上昇分の返還を不 当利得として請求できる理由はない。 2 控訴審判決は、一審判決とまったく同じ立場であ り、一審判決を擁護したものとも言える。 この事件の詳細を、初めての人に説明していると、 年表作りの必要性を感じる。93年10月27日の沖縄タ イムス朝刊に載せられている「軍用地賃借権訴訟年 表」は、1879年頃、小作人らの先代が琉球王家の所 有地に入植し、開墾を始めたところから始まってお り、実に長い話なのである。ところが、両判決はこ の流れを布令20号によってすっぱり切った。この点 を、判決をもとに、もうちょっと詳しく説明すると 次のようになる。 すなわち、本件土地について、布令20号に基づき 「折衝により琉球政府と沖糖社との間で基本賃貸借 契約が締結され、琉球政府のため、米国に転貸でき − 2 6 − F 1

(4)

る約にて賃借権の設定が登記されるとともに、琉球

政府と米国の間で総括賃貸借契約が締結され」(控

訴審判決第三・一・2・(2))たのであるが、これ

によって設定された米国の賃借権は

①「英米法上のLeaseholdに由来するもので、

わが国の賃借権とは異質の物権類似の権利と解され

ており、その存続期間につき終了権が米国に留保さ

れていることに照らしても、近い将来に終了が予定

される性質のものでは到底なかった」ので、「仮に

本件賃貸借が成立しているとしても、控訴人ら又は

その先代に本件土地を使用させるという沖糖社の債

務は、社会通念上、米国の右賃借権の取得及びそれ

に基づく本件土地の占有使用により全部の履行不能

となり、本件賃借権は消滅した」(同第三・一・3)

というのである。

②「控訴人らは、米国の賃借権は民法上の賃借権

とは全く異質のものであり、控訴人らの本件賃借権

と対抗力を競い合える性質のものではない旨主張す

るけれども、前記のとおり、むしろ米国の賃借権は

物権類似のものであって民法上の賃借権以上に強力

な側面を持っているもの」(同第三b一・5)であ

るから、①の結論は否定できない。

③布令20号は、「それ以前に当該土地について賃

借権を取得していた者に対して補償をする旨定めて

いたところ」、「控訴人ら又はその先代は右に基づ

く補償の請求をせずこれを受領していないことが認

められるけれども、そのことにより米国の賃借権の

成立は妨げられない」(同第三・一・3)

という理由で、賃借権の存在を前提とする小作人

らの主張を退けた。

判決中に、Leaseholdという英米法上の言葉が出

て来るが、園生一彦「アメリカ不動産取引法」(商

事法務研究会・1987年)によって説明すると次のよ

うになる。

同書18頁以下、及び104-5頁によれば、イギリス

での土地権は、自由占有(freehold)と不自由占有

(nonfreehold,leasehold)に大別された。自由占

有というのが、日本では所有権に近いものである。

これに対して、不自由占有というのは、期間の定め

があること、あるいは賃料支払義務があること等に

よって自由占有よりは小さな権利である。日本では、

所有権は物権であるのに対して賃借権は債権と、別

種の権利として構成されるが、英米法では、両者の

間に本質的な差はなく、権利の大小による区別に過

ぎないとされるわけである。控訴審判決が、米国の

賃借権は物権類似のものといっているのはこのよう

なことをいっているものと考えられる。

3 ところで、93年11月5日に上江洲氏からファック

スが入り、来てくれないかと。上告の準備で大忙し

のようだった。その時同氏らの希望として話された

のは、新しい証拠が、出来るなら上告理由書提出期

限までに出るといいのだが、ということであった。

すでに上告しようという段階になっているのにもか

かわらず、当事者本人も、証拠が足りないと感じて

いるわけである。上告理由として事実の問題をスト

レートに取り上げることは困難なので、新たな証拠

によって新たな視点を得て、新たな主張構成をする、

ということだろうか。

事件の背景となる事実をもっと詳しく調べたいと

いうことは私もずっと考えていて、それは事件が終

了してからやり始めようと思っていた。ところが、

前記の沖縄タイムスの記事の中に、私の談話として、

「裁判所は事実を調べる態度にも欠けて」いるとあ

り、事実、そのような趣旨のことを記者に述べたの

で、私なりに事実を調べ、事件を構成してみる必要

を感じた。そういうことで、この機会に調べてみる

か、という気になった。しかし、妙な期待をされて

も困るし、事件の帰趨に直接影響を及ぼすような証

拠なんか、そうそう簡単に見つかるわけはないだろ

うと思い、あくまで研究でやるのだと、くどいくら

いに念を押した。

この事件からは、前記のようにいったん離れてい

たので、手探り状態で再開したが、最初の頃は全然

進まなかった。資料をさがしているうちにだんだん

分かってきたのだが、これを読めばみんな分かりま

すよ、みたいな便利なものはないようである。今思

− 2 7 − p缶1

(5)

えば、すぐにはめどが立たなかったのも当然である。 そうこうするうち、11月18日にも小作人側の代表者 の方々と会った。 この時は、控訴審判決を読んでの意見交換をした。 小作人代表の1人である佐久田朝政氏が調べたいこ ととして挙げたのは、布令20号が定める手続きにそ って実際に権利が保護された例があるのかどうか、 ということである。多分ないであろう。こんな手続 きで権利を消滅させてしまっていいのかと言いたい わけである。しかし、私に言わせれば、本来これは 控訴審までに調べるべきことではないのか。なぜ調 べなかったのだろうか。 この18日以降、備忘のためにメモを作成している。 以下、おおむね、このメモにそって述べていきたい。 4 ,,月20日前後までに、判決文を精読し、小川氏の 前記の論文を読み直した。 まず感じたのは、布令というものの性格を正しく とらえないと、この事件は分からないということで ある。 控訴審判決は、布令20号によって設定された米国 の賃借権は、前記のように物権類似の権利と解され るほか、その存続期間についても終了権が米国に留 保されていて、近い将来に終了が予定される性質の ものでは到底なかったと述べている。そこで、小作 人らに本件土地を使用させるという沖糖社の債務は 「社会通念上」、全部の履行不能となり、本件賃借 権は消滅したとするのである。 布令20号によって設定された賃借権の内容は、布 令20号を直接読めば分かることである。一読して、 米国の思い通りになるようにできているということ が明らかである。そういう意味で強い。しかし、強 いということと、いつまでも続くということを同視 してよいであろうか。「社会通念上」履行不能にな ったと判断することは果たして妥当だろうか。 こういう疑問に答えるにはまず何より、布令とい うものの正確な位置づけが必要である。 参考のために、例えば、1950年11月に琉球政府法 務局に入り、以来1968年11月30日まで18年余りにわ たって法務行政に専念し、布令20号の公布された19 59年からは法務局長の要職にあった久貝良順氏の 「戦後沖縄における法体系の整備」(沖大法学第9 号所収)をまとめれば次のとおりである。 まず、布告・布令という法形式自体に内在する制 約があるといわれる。高等弁務官は立法機関である とともに行政・司法上の機関でもあった。いわゆる 三権分立体制ではない。琉球政府当局としては新た な法令を作っていくという場合に、布告・布令で作 っては困る、琉球政府立法で作ってくれという強い 主張をしてきた。というのは、布告・布令というの は、米国民または米国の安全のため、軍事目的のた め、国策遂行のため作られる可能性が大きいからで ある。サンフランシスコ講和条約が1952年4月28日 発効したのにもかかわらず、占領目的のために公布 されたところの布告・布令というのがいくらもある。 だから、たくさんあった布告・布令をどんどん廃止 する方向で持っていづた。ワトソン高等弁務官就任 の1964年8月31日頃からは布告・布令の廃止を強く 訴え、就任当時145もあった布告・布令を1966年9 月23日現在で約89ぐらいにまで減らしたということ である。このように、琉球住民の権利保護からする と布告・布令では望ましくないということで、「琉 球政府立法への移行」ということがあった。その際、 規定の本土法令との同一化ということが特に留意さ れた。これがいつかは、沖縄が本土復帰する際のス ムーズな移行の基盤作りになるということだったの である。このように、琉球住民の権利義務に直接か かわる事項については、できるかぎり琉球政府の立 法によってなすべきことが琉球政府当局者によって 意識されていたのであり、ちなみに、日本の新民法 と同様の規定内容を有する新民法が沖縄で施行され たのは1957年1月1日であった。 このように、布告・布令は、講和条約締結後にお

いても占領者の都合によってどのようにでもなる法

規という性格を強く帯びていたものである。事実、 朝令暮改の状態であったと、久貝氏は述べている (本稿7参照)。 − 2 8 −

(6)

布令20号自体を一覧しても、収用による米軍の権 利取得は琉球政府と関係地主との折衝が不成功に終 わった後という制約は設けながら、「立入又は占有 する権利を直ちに与えるよう命令する緊急の必要が ある場合において時間的に余裕がないとき」はあら かじめ折衝を行うことを要件とはせず(2項a)、 あるいは、高等弁務官に即時占有命令権限を認める (2項i)など、占領者の都合でどのようにでもで きる法規たる性格を明瞭に示している。 このような、事実上占領に近い状態がいつまでも 続くことはないのは、いわば常識であろう。現在の、 特に第二次大戦後の国際法はそのような状態を是認 しないのである。サンフランシスコ講和条約で予定 された沖縄の地位は信託統治領ということであった が、これは実現しないままに、沖縄は1972年本土復 帰し、布令20号は効力を失った。布令20号の賃借権 は日本民法の賃借権と内容がかなり異なるので、民 法上の賃借権に移行できなかった。そのため、日本 政府は、軍用地につき新たに地主と賃貸借契約を締 結したのである(小川・前掲12頁)。 私が言いたいのは、布令20号で設定された賃借権 は確かに非常に強いものだったが、それは物権類似 の云々といったレベルのものではなく、占領法規的 性格の故にそうなるということである。そういう状 態は、国際法的にいつまでも継続はできないもので ある。権利内容が強いということと、いつまでも続 くということとは同義ではない。そして現実にも、 このような状態は沖縄の本土復帰とともに終了した のである。 このように考えると、控訴審判決の立場は、本件 土地がたまたま今も基地のままであるということか ら導き出した皮相な結果論というべきであろう。 以上から考えられる、1959年という時代の性格は、 表向きは米軍万能であるが、そういう状態は永続的 には継続不可能で、底流では、あるべき状態に向け ての模索が続く、といったものであろうと想像され る。 5 それから次に、布令20号は、米軍の賃借権設定以 前から当該土地について賃借権を取得していた者に 対する補償を定めているが、控訴審判決も述べてい るように、小作人らやその先代はこれに基づく補償 の請求をせずこれを受領していない。なぜなのか。 それはどういう法的意味を持つのか。 まず布令20号の条文を見ておこう。控訴審判決も 引用しているように(第三・一・3)、「合衆国が 取得した土地及び(又は)地上物件又は賃貸借権を 現実に保有している者は、すべて適正補償金の配分 を一定の割合で受ける権利を有する」(7項a)o

本件土地の場合、賃貸人である地主に対する賃料は

年払いであり、もし本件賃貸借が布令20号の手続き

に従って認められていたなら、地主に行くはずの賃 料のうちの一定の割合の補償金が本件賃借権のため に支払われるということになったのではないかと考 えられる。つまり、ちゃんと賃借権の存在が認めら れた場合、その賃借権は履行不能であるとして消滅 するのではなく、逆に、土地所有者とともに補償金 を一定割合で受け取ることとなると考えられる。も っとも、この点は、現に補償を受けたものがいない ので、そういう補償の仕方が条文上自然ではないか ということである。補償金の配分を得た結果、賃借 権が消滅し、登記も抹消されなければならないと解 すべき理由はないと思う。 小作人らは布令20号5項a(3)の規定に従って本 件賃借権を登記すれば、補償金を一定の割合で受け 取る権利者と認められたはずであったのに、実際に はこれをなさなかった。これは、控訴審の準備書面 上での小作人らの主張では、小作人らは布令20号の 公布を知らなかったためというのであるが、それに ついてはすぐ後で考えるとして、この登記の手続き は、それをしなかった場合にどういう効果をもたら すのか。小川・前掲論文も指摘しているように、こ の登記手続をしないと賃借権がなくなるなどという、 権利失効の効力を有するものではない。そうではな く、「適正補償を受けるべき正当な人を確認するこ とを唯一の目的として」(同布令5項)規定された 手続きであるに過ぎない。前記のように、控訴審判 決は、布令20号によって設定される米軍の権利は − 2 9 − 一

(7)

Leaseholdに由来するとし、あたかも英米法上の権

利であるかのどとく言うのであるが、「アメリカで

の登記は、法文によっては、無効Ⅶidという表現

を用いていても、権利の要件としてではなく、対抗

問題として把握されており、登記は義務づけられて

もいない」(園生・前掲書47頁)のであり、要する

に、原則として対抗要件であるとされる白本におけ

る登記以上の効力を持っているのではない。小川氏

の論稿には、布令20号の賃借権の登記の持つ効力、

申請期間を90日としたことの妥当性、あるいは実際

にこの登記がなされたのかなどの具体的検討を行っ

た研究は見当たらないとある(同論文の注19)が、

ともかく形式的にはこのように、補償手続きの規定

は設けられているのである。

さて、小作人らが布令20号の公布を知らなかった

ので、補償手続きをとらなかったといっていること

に関してだが控訴審の準備書面に書かれていること

を簡単にまとめてみると、次のようになる。

布令20号2項bで、米国が物件を取得するに当た

っては当該財産取得のための要求告知書が琉球政府

行政首席に交付され、かつ、所轄登記所及び市町村

役所に提出され、この要求告知書は所轄市町村役所

により同役所内の目立った場所に掲示され、さらに、

当該市町村長の責任で登記上の所有権者及び既知の

利害関係者に対して早急に通知されることとなって

いる。しかし、このような通知は小作人らに対して

一切なかった。そこで、同布令5項aの規定に従い、

同布令施行の日より90日の期間内に賃借権の補償を

要求する手続きを取ることはなかった。

59年3月4日、沖縄市町村軍用土地委員連合会に、

地主会社に対する軍用地料配分の件で小作人らが依

頼に行った際、同委員会の誰からも布令20号の話は

なかったし、同年4月11日、知花英夫立法院議員宅

で、知花議員、大山朝常コザ市長、嘉手納村長、読

谷村助役、小作人代表8名で軍用地料についての話

し合った際も、布令20号の存在について話す者はな

かった。同月24日、上江洲由樽氏宅(コザ)で、桑

江朝幸氏、知花英夫氏、嘉手納村長、読谷村助役コ

ザ市経済課喜屋武課長、小作人代表10名で軍用地料

について話し合った際も布令20号についての話はな

かった。 以上である。

ところで、「旧沖糖社小作人組合折衝記録」とい

うのを以前上江洲氏からコピーさせてもらっていた

(大学ノート3冊分)が、その1冊目を見ると、こ

れがなんと1958年10月から始まっている。つまり、

布令20号が公布された前年から始まっているのであ

る。この頃組合が結成されたということであろう。

布令20号施行の日(59年1月26日)から90日の申し

出期間が経過するまでの間、布令20号のことは記事

として全く出ていない。

果たしてこういうことが起こり得るのか。桑江氏

や知花氏などとと会いながら、布令20号が公布され

たことを1年以上も知らなかったというのである。

常識的には信じがたいといわねばなるまい。

93年11月27日に電話で確認したところ、上江洲氏

の話では、布令20号の存在を知ったのは60年3月頃、

桑江朝幸氏に頼んで陳情文を作ってもらっていた時

で、すでに90日は経過していたので、もう手続きは

やってもらえないだろうと余り気にしていなかった ということである。

93年12月2日に、上江洲氏から、1959年2月15日

の沖縄タイムスの記事が見つかったといって、コピ

ーが送られてきた。布令20号公布関係の記事で、結

構大きな扱いであり、記事は大きく2分されていて、

後半は、「適正補償の訴願権も」と題して、前記の

補償についてもちゃんと触れられているのである。

続いて、同日の琉球新報の記事も送られてきたが、

こちらも補償についての解説がある。 補償のことと関連して、控訴審判決を読んでいて

非常に印象に残ったのは、判決末尾で、沖糖社から

小作人らに対する1万Fルの給付契約書について、

かっこ書きながら、詳細に触れていることである。

判決のこの部分を、以下に掲げる。 なお、甲3ないし5号証、乙1号証の1及び弁論 の全趣旨によると、沖糖社所有地の沖縄市字御殿敷、 読谷村字牧原及び嘉手納町宇久得の小作人代表者3 − 3 0 −

(8)

名は、昭和35年7月6日、沖糖社との間で、「一 右3名が代表する小作人たちは、沖糖社と永年に亘 り小作契約を締結し小作関係を継続した。 二第二次大戦後当該小作地が軍用地に接収された ため、小作人たちは離作の己なきに至った。 三 右 代 表 者 ら は 小 作 契 約 書 を 保 持 し て い な い た め に布令20号第5項に基づく諸手続もできず、従って 同布令第7項aに基づく軍用地料の配分を請求する ことができないとして沖糖社に対し離作による生活 の窮状を訴え沖糖社の理解と寛容に基づく同情ある 措置を要望した。四4月4日法務局長斡旋の下に 双方が話し合ったところ沖糖社は代表者らに対し援 助金を給付することに同意し、その額については後 日当事者間で取り決めることを約した。五立法院 行政法務委員会においてはこの問題を取り上げ6月 4日に委員会を開き、双方のの互譲による円満解決 方を勧告した。六以上の事実に対し沖糖社は代表 者らの立場に深く同情し援助金の給付額につき7月 6日双方合意したので法務局長、沖縄市町村軍用地 土地委員会連合会長桑江朝幸、立法院議員知花英夫 立会の下に次の契約をした。1沖糖社は代表者ら に対し昭和36年5月31日までに金1万ドルを給付す ることを約した。2右給付を証するためにこの証 書を5通作成し各署名押印し各その1通を保持する ものとする。」旨の給付契約を締結し、昭和36年8 月18日、沖糖社から右1万ドルを受領した(領収書 の名目は「調査費その他諸費として」とされたが、 右の「調査費」とは、戦後まもなくに実施された土 地調査の際に小作人らが負担支出した測量費その他 の費用を意味するものである。)ことが認められる。 (控訴審判決第三・二・2) 判決では、布令20号によって米軍の賃借権が設定 された結果、小作人らの賃借権は履行不能になって 消滅し、補償も、手続き期間徒過とともに受けられ なくなったということになる。ところが、布令20号 の公布後1年以上経た時点で、このような契約書が 結ばれていたのである。

当時1万ドルというのは大金であるが、上江洲氏

の話では、調査費用等を差し引いて、皆に分けたら、 土地の面積で分けたので一律ではないが、1人当た り15ドルから30ドルになったということだった。 それはともかく、1万ドルの給付契約で、立会人 の1人とされている法務局長というのが、久貝良順 氏なのである。直接、話を聞きたくなった。お願い してみたら、転んで足を痛めたとかだったが、とも かく11月30日に話が聞けることになった。 6 研究対象としてこの事件を考えた時、一番興味を 感じていたのは、沖縄社会の分節社会性ということ とこの事件がどう関連するかということである(拙 稿「法人類学の内容(Ⅵ)」(沖大法学第14号所収) の「五分節社会のとらえ方」参照)。 資料を集めていてすぐに感じたのは、小作権に関 する資料が少ないということである。本土では戦前、 小作制度が広く見られ、農地改革でこれがくつがえ ったのである。沖縄においてはどうだったのか。 小川・前掲論文8頁によれば、戦前からいくつか の製糖会社などは本島のほか、宮古・石垣・大東の 各島に小作地を大量に所有していた。これに関する、 同論文の注7では、大東の小作地では1964年7月30 日、高等弁務官布告「両大東島の土地所有権につい て」が出され、小作地の解放がなされたということ である。 それからまた、上江洲氏の話(93年11月18日)で は、宮古でも、法的根拠は分からないが、似たよう なことがあり、しかも大東より規模が大きいという ことだった。 11月25日前後に、県議会図書室の宮城剛助氏の協 力を得て、「議会時報」第5号(琉球政府立法院。 1956年)、琉球政府文教局編「琉球史料第4集」 (1945年∼1955年)などをコピーし、ざーつと目を 通した感じでは、沖縄は小作というのが本土のよう には一般的ではなかったのである。 「琉球史料第4集」に収録された「沖縄における 軍用地問題」(情報課発行情報第4号「軍用地問 題はこう訴えた」)に、沖縄における農地と農業の − 3 1 − 、 ■ 、

(9)

特徴が書かれている。抜き書きしてみよう。 *零細農業であり、その当然の帰結として、家族 労働を主とし、しかも、手足労働に頼らざるを得な かった。 *後進経済のため、農業以外に安全かつ大量の雇 用源がなく、農地が少ないので、農業を継続するに は自己所有地を持たないと安全ではない。すなわち、 所有することと耕作することとは同一義である。封 建時代の地割制度を廃し、土地私有を認めた土地整 理法(1899年)によってなされた1904年の土地整理 で土地はすでに細分化されている。その後も、社会 的経済的条件によって、細分化されたまま。 *自給作物の栽培が優先される。 *土地を手放すことは祖先に対する不敬であり、 家系に対する背信であるとの考えが強いので、特別 の事情がない限り土地を売却することはない。売却 される場合も、必要最小限だけ、くずし売りされる のが通例で、そのため、小面積で分散しており、ま とまった売地は少ない。 *自ら農業を営みつつ自作できないか、またはそ の他の事情によって生じた余剰地を、耕作できない 事情が消滅するまでの間小作させるのが普通。それ ゆえ賃貸借関係は不安定。小作地だけに依存した通 常の規模の農家は成立しがたい。 *文書による小作契約はまれ。長期小作契約もほ とんどない。 こういうふうだから、関心も所有権にばかり集中 しているのである。狭い島の土地を何とか保有しよ うとする気持ちが痛いほどに伝わってくる。米軍は、 高い軍用地賃借料の要求を、地主階級を育成するよ うなもんだというふうに見ていた節が見られるが、 そうではなかったのだと。 同じ「琉球史料第4集」に収録されている、1955 年5月19日琉球立法院の「軍用地問題に関する協力 要請決議」に添付された「補償要綱」に賃借権等の 補償も取り上げられているが、他に見当たらない。 同様のことは、琉球銀行調査部編「戦後沖縄経済 史」(琉球銀行・1984年)の「第6章プライス勧 告と“島ぐるみ闘争”」を読んでいても感じさせら れた。関心が所有権にばかり集中していて、小作権 が一向に出てこない。 とにかくそうすると、この小作人訴訟というのも、 沖縄一般に見られるのとはちょっと違う種類の紛争 ではないか、ということであらためて考えてみると、 この事件の小作人らの祖先は、実は士族だった。も ともと百姓だったのではない。尚家に仕えていたの が、琉球処分とともに仕事がなくなって、救済事業 として尚家の王様が土地を提供し、そこを小作人ら の祖先が開墾したのだった。この土地は30年後に小 作人に与えるとかの口約束があったのに守られず、 製糖会社に売られてしまったというわけである。で、 やむなく小作人の身分のままで戦争を迎えたわけで ある。なるほど、なるほど。 東南アジアが分節社会性を有するという時、政府 がなくても自然にまとまっているということと同時 に、支配層と被支配層もまた分節構造になっている ということが指摘され、本件はこの後者が表に出た 事件なのではないか。 こういうふうに本件のことを考える時、事情がよ く似ているのが大東島のケースである。大東島にお いては、1900年(明治33年)、開墾開始に当たって、 開拓主玉置半右衛門が八丈島からの開拓移住民に、 向う30年後に開拓地を開拓民の所有にするとの口約 をしたにもかかわらず、玉置氏没後事業困難に陥り、 1916年(大正5年)、開拓地は東洋製糖株式会社に 移譲され、同社は1927年(昭和2年)大日本製糖株 式会社に合併された。 「南大東村史」(1966年。なお、改訂版は、1990 年)の「土地問題特集」に、南大東島の土地所有権 の問題がどのように解決されたのかが詳しく書かれ ている。戦後、南北大東島は米軍財産管理課の管理 するところとなった。1951年に、南大東村長が陳情 するところから問題が始まっているが、同年、大東 糖業株式会社(社長は宮城仁四郎氏)が設立され、 事業を開始しており、大日本製糖社は1946年以降、 本土に引き揚げていた。1959年頃は、日糖社が接収 − 3 2 − ■ ■甲一等

(10)

解除を要求したのに対して、村長が管理解除保留を 陳情している。最終的には米琉土地諮問委員会で話 がまとまり、1964年7月、土地所有権は農民の手に 帰した。ここでも、久貝氏の名前が出てくる。 この経過を読んでいて、一番印象的なのは、農民 たちがあくまで所有権を要求するという態度を崩し ていないことである。形式的には、日糖社が主張し ていたように、玉置は地主ではなく、貸し下げを受 けただけで、そういう者から口約を得ても法的には 問題が残ろう。しかし、実質的には農民の労働なし には土地は使い物にならなかった。そこで、「永久 土地使用権」(同書323頁)とか、聡有地」(同3 24頁)とか、表現は色々だが、とにかく限りなく所 有権に近いものなのだという主張を押し通している。 本件のケースもまったく同じである。実際、当初は このような主張をしていたようだが、それが、本件 訴訟では賃借権ということに限局されてしまってい る。なぜなのか。こういう点は、「社会通念上」権 利が消滅すると考えるべきかどうかの判断に当たっ ても、大きな影響を及ぼすと思うのだが。 私は、大東島はまだ訪れたことがない。できれば 本稿作成前に行きたかったのだが。最近は、大東島 のことを、会う入ごとに尋ねている感じだが、94年 1月15日に、近所に住んでいる、大東島で生まれた おばさんの話を聞いた。おばさんのお父さんは那覇 の松山の人、お母さんは久米の人だそうで、お父さ んは三男で窮屈なのがいやだということで、次男と 共に大東島に行ってさとうきびを作っていたそうで ある。大正3年か4年頃のことだそうである。それ からおばさんのお兄さんが生まれ、次いでおばさん が生まれ、それからお父さんが大東で亡くなって、 もう60年ほど前に那覇に引き揚げてきたそうである。 おばさんは今74歳ぐらいだ。今は、大東には甥たち がいるようである。お父さんの25年忌とかにいって、 それから10年以上もたってか、とにかくずいぶん間 を置いて甥が亡くなったとかで行ったそうである。 最後に行った時は区画整理が進んでいて、一面にさ

とうきびの畑であったそうだ。それぞれの家の畑の

面積が大きいそうで、おばさんの親戚は10町歩だそ

うで、少なくても5町歩ぐらい持っているのが普通 のようである。で、畑の中に家があるみたいな風景 だそうで、それもトタン屋根が多かったと。だから 本土の田舎に似ていると。ヤンバル出身の人も多い そうで、伊是名出身の人と結婚した親戚の話をして いた。大東に腰を落ち着ける気の人は少ないんだそ うで、行ったり来たりの人が多いと。さとうきびの 収穫期が3月頃までだそうだが、この時期だけ帰っ てくるとか。おばさんが住んでいた頃は、八丈島出 身の人と、沖縄の人とは合わないというか、八丈島 出身者が沖縄出身者を馬鹿にしていたそうである。 で、距離があったようで、通婚も少なかったらしい。 おばさんたちは島の北の方に住んでいたのだが、そ こでは八丈島出身の人とも普通に付き合っていたが、 そういうのは一般的ではなかったということだ。戦 前だから、そうだろうな。戦後はそんなことなくな って、混じるようになったようだが、八丈島の血の ひとはやっぱり顔が違うから分かるね、と。つまり、 目が違うのである。墓は、八丈島の人は本土の墓、 沖縄の人は沖縄のを小さくしたような墓だそうであ る。飛行機はコミューターの小さいのしかないので、 ちょっとの風でも欠航になる。で、船の方が早いと いうこともある。船なら1昼夜でつく(「離島情報 ガイドSHIMADAS'93J(財団法人日本離島センター ・1993)によれば13時間)。でもまあ、いつ帰れる か分からないから、いつでも行けるというわけでは ないと。なるほどoSHIHADASによれば、人口は、 南大東島1399人、北大東島519人である。 7 予定通り、11月30日に久貝氏に会って話を聞いた。 その時のメモを以下に掲げる。 93.n.30午後2時∼3時半、久貝良順氏に会っ て話を聞いた。 スカイプラザホテル1階ロビー横の喫茶室。妻が 同席。妻のメモから構成。 *軍用地問題に全体的には関与しているが、小作 人問題については関与していない。歴史的な背景と − 3 3 −

(11)

か、布令、布告、琉球政府の動き等は分かるので述 べられるでしょうが、特定のものについては話せま せん。 *(1万ドル給付契約)契約書は法務局が準備し たものではない。小作人側ではなかったかな−。小 作人側が要求したので沖糖社側が受けて、かな一。 小作人側が希望したので法務局は立ち会った。 受取の際にオフレコの約束があったのかどうか今 となっては調べようがない。久貝氏はただ呼ばれて 立ち会っただけなので分からない。 *今日布令が出たと思うと2∼3日後にまた新し い布令が出るといった状態で、矛盾、取り消し。 feetitle、絶対的所有権がどうのこうのとか。 *たくさんの布令等を集大成したのが布令20号。 「現地会談」(1958)地料の算定が主であった。 一括か10年払いかとか・琉球側は速記とっていない。 米側はとっている。58年の8,9,10,11月4か月 ずっと討議している。久貝氏は第2委員会。一区切 りついた時共同声明(第5回)(公式)。第1回土 地政策会議の共同声明(58.8.11)、第2回共同 声明(9.8)、第3回共同声明(10.6)、第4 回共同声明(10.13)、第5回共同声明(11.3)。 ,米側でずっと出ていたのは、ジョン・P・キング大 佐(委員長)(故人、生きていればもう90余るだ ろう)とT・S・スクージラス大佐。「土地関係法 令集」に収録。これに載っていなければ(話に出な かったのだろう)o *(布令20号5項の賃借権等保護規定)この問題 は当時、主な論点ではなく、調べてみないと分から ないが、記憶では、琉球側から積極的に要求したと いうことはなかったのではないか。「こういうもん だ」ということで挿入された規定ではなかろうか。 *大東島 八丈島の玉置半右衛門が国有地を借りて、30年後 に開拓民に払い下げるということだったが、玉置は 事業に失敗、会社に売った。大日本製糖は裁判で自 分の土地といった。当時経済局がどうにもならない。 で、法務局。.大日本製糖社長を飛行機でよんだ。高 等弁務官、大田主席、キング、ひざ詰め談判した。 南大東村史の他、土地連の「土地連30年の歩み」 (3冊、1冊950頁ぐらい)に記述あり。 *宮古 久貝氏は宮古出身なので、大東解決後、宮古でも と考えた。 製糖会社が払い下げを決め、祝賀会も準備したの に、小作人側が反対。払い下げすると、小作権がな くなると(このあたり、よく分からないので保留)c その後、国が地主に無償で返した。 *当時は政治的解決が多かった。今のような訴訟 ではない。 物品税(さんま)後で取らなくていいということ になった。申立人が勝った。友利事件。 *米は土地を借りた。市内一牧港まで高圧電線が 張られ、その下は軍用地。担当が替わるごとに、沖 縄住民も電気を使っているから払う必要ないといわ れたが、新しい部長に前の取り決めの書類見てもら い、納得させた。 *自由と正義1972.4特集号に久貝氏の論稿あり。 *土地政策会議 軍用地問題のいきさつ→土地連折衝会議 *刑務所暴動(1954年):大変だった。瀬長亀次 郎が手術が必要になって、しかし刑務所内ではでき ないというので、松尾の医者に連れていって手術し た。 *戸籍再生。 久貝氏には、11月6日に、沖縄法政学会でお会い したばかりだった。会場の沖国大でつまずいて転ば れたが、その時そばにいて、私も支えた。それはと もかく、個人的に話を伺ったのは初めてである。今 度の調査をやり始めてから、何度久貝氏の名前にぶ つかったか知れない。だから本当に、生きている史 料である。お会いした翌日、12月1日の沖縄タイム スタ刊を見ると、知花英夫氏死去のニュースが大き く報じられていた。知花氏も1万ドル契約書の立会 人になっている関係で久貝氏にきいたら、まだ生き ているということだったのでびっくりした。12月16 日には、やはり立会人だった桑江朝幸氏が亡くなっ − 3 4 − 一 09

(12)

た。小作人訴訟に関する同氏の原稿が上江洲氏のと ころから私宛に送られてきて、それを検討していた ところだったので、やはりびっくりした。しかし、 急がないと、といってもなあ。

久貝氏に会った11月30日の夜、糸満の「くれない」

という喫茶店に行った。妻の友達の上原文子さんが、 ここで「さき織り」(古布を切り裂いて、それで織 ったもの)の個展を開いたので、見に行ったのであ る。この店に写真集等が置いてあり、その中に、井

上孝治写真集「あの頃1959年、沖縄の空の下で」

(沖縄タイムス社。1991年)があった。それまで19

59年というのが、頭の中の観念でしかなかうたのが、

丸ごと把握できたような感じ。写真ってのはすごい。

この写真集は「くれない」の店主のお姉さんにあた るという金城初子さんのものだが、糸満の写真も20

枚近く収録されていて、彼女の知っている人が写っ

ているそうだ。井上さんという人は耳が聞こえない んだよとも教えられた。末尾の経歴を見るとその通

りで、1919年(大正8年)に福岡市で生まれ、1938

年(昭和13年)福岡県立福岡ろう学校中等部を卒業

している。写真集中に、沖縄盲ろう学校の写真もあ

る(102番の写真)o難聴の私には興味ある事実で

ある。

その後、運よくこの写真集を入手できたので、か

なりの人に見せてきた。35年間が過ぎて、本当に今

は昔だ。写真集では、結構、裸足が見られる。53番

の写真が食堂のメニューで、そばが20セントと15セ

ントの2種類、親子井35セント、トンカツ35セント、

味噌汁20セント、ビール70セント、コーヒー、コー

ラ、ジュース、ココア等が10セント。ドルの時代だ

ったのである。B円からドルへの切替が1958年9月

16日である。 8

久貝氏の話の中で、宮古関係の部分には特に興味

を感じた。

宮古についてはもともと興味を持っていたので、

平良市役所で働いている、沖大卒業生の仲宗根均さ

んに、誰か適当な人がいないだろうかと手紙で尋ね

たら、すぐに返事があって、宮古製糖創立当時から 長いこと社長をやっていたらしい、真喜屋恵義氏を 紹介してくれた。連絡すると、12月6日に会ってく れることになった。この時も、妻が一緒に行ってく れた。どうやら、私の調べていることに興味を感じ 始めたようである。以下に、その時のメモを掲げる。 93.12.6午後2時∼3時半真喜屋恵義氏に会 って話を聞いた。 田崎病院にて(ここに宮古郷友文化協会事務局が ある)。妻が同席。妻のメモから構成。 *大東島は大日本製糖の土地だった。沖縄本島と 行政が分離していた。高等弁務官が立ち会った。

*宮古の小作地:地主と小作人の関係ではない。

経済的・政治的にからんでいる。 沖縄製糖は農家に、土地を担保にして金を貸した。 さとうきびの値段で貸した。払えない時、二束三文 で。わずかな借金で土地を取り上げた。もともとは

土地を持っていたのだから内地の小作人とは違う。

*戦後は、説明が若干主観的になるかもしれない が、沖縄製糖のオーナーは鳥居さん(サントリーの

社長)であった。戦争で爆撃されて工場が使えなく

なっていた。

*真喜屋氏は宮古製糖創立に関わった。

*終戦後、竹野寛才さんは取締役であり、経理を

担当しているただ1人の役員であった。従業員が集

まって、退職金を払ってくれという運動をしていた。

*竹野さんは東京にいた。大阪にいる鳥居さんの

ところにいって、会社を譲ってくれといって、法的

な書類を作って引き継いだ。それまで休眠。同じ会

社名(沖縄製糖)。竹野個人の会社と同じである。

宮古の工場を再建しようと、下地で操業を始めて、

退職金を払っていこう−と、推移してきた。

*沖縄製糖は農民対策をやらなかった。

*竹野はさとうきびをたたき買いしていると問題

にされていた。

*真喜屋氏は役所(琉球政府)で企画・統計・経

済局を担当していた。

*宮古の農民は沖縄製糖に対抗しようとした。当

− 3 5 − 1 1 己 ■ q − = q 夕 、 =

(13)

時の経済連会長は山城栄徳氏であった。 真喜屋氏が竹野さんに、工場を2つつくることは ない、会社の株を分けて一緒にできないかと説得し ようとした。 竹野さんは、スクラップを集めていた。これで製 糖工場をつくっていた。 *宮古製糖をつぶす運動があった。 真喜屋氏は本土のコネを持っていた。内地から金 を借りなくてはならないa25万ドル借りて会社をつ くった。琉球銀行は金を貸さない。5万ドルは操業 代。 *真喜屋氏は台北帝大で熱帯農業を勉強した。パ イン・砂糖・米が熱帯農業の3大基本。大日本製糖 で就職。藤山愛一郎から面接を受けた。 *宮古製糖は、でき上がってから砂糖をつくるま でいばらの道を歩んだ。琉球政府によばれて、違法 だと言われた。登記を見てくれと答えた。公庫(琉 球開発金融公庫)が金を貸さないとできないという のが一般常識だった。公庫は琉球銀行の中に最初は あった。真喜屋氏はできると言い、竹野氏はできな いと言い、毎日のように新聞に出た。標準決済LC ができなければできないというのが常識であった。 日本政府と琉球政府の書類を作って、後払い方式で いれることにして、可能になった。 *宮古製糖の工場が動くことになったが、竹野氏 はこれをつぶせると思っていた。 *(竹野さんはお金を持っているが)真喜屋氏は 金だけで仕事をすると思ってない。 竹野さんは資本主義経済、真喜屋氏は社会主義経 済、か。 農民株を募集した。金を借りてきて株を持たせた。 農家株主が3,000人になった。生産をするのが実権 を握る。経営をスタート。原料を株主からしか取ら ない。 株主への恩典として、肥料と営農貸付をした。 株をもてない小作農民が、宮古製糖に原料を運び たい、隠れて原料をいれたい、と。 沖縄製糖と宮古製糖が6対4なのを逆に4対6に した。宮古製糖は最初から利益を上げた。 *小作人はできなかった。 *前の年の12月に宮古製糖を去った。しばらくし て戻ることになっていたが、帰れない状況になった。 だから整理も何もしてなかった。 *地下ダムの件で、農林省に日本政府援助を頼ん だ。 水だけでは問題は解決しない。品種や機械化の問 題もある。 工場が原料の争奪をする。原料区域を設定するな と言ったが、真喜屋氏がやめたらすぐ始めている。 最初の原理を忘れている。 *復帰後、沖縄製糖は小作人の土地をもてなくな った。約800町歩。沖縄製糖は払い下げざるを得な かった。 *マホナリ?唯我独尊ではいけない。文化が必要。 普遍的な文化を。自分の殻を破る。泡盛について。 サツカラミセス泡盛。 フーゼ流。好き菌、嫌い菌がある(空気に触れて よくなるものとそうでないもの)。 真喜屋氏の話は大変面白かった。とにかく、ボン ボン話してくれるのである。そして、その話を全部 公表したって構わないとおっしゃるのである。いず れ自分で本にするつもりだから、と。たんたんとし た久貝氏の話しぶりと非常に対照的である。 宮古のことをたどっていたら、戦後の沖縄製糖の 初代社長竹野寛才氏が、とうとう登場した。興奮し た。本件土地は米軍基地となっていて、製糖業など できないわけである。ところが、宮古ではやってい たんですね。竹野氏は、1952年、沖縄製糖を設立し、 53年から宮古下地町で操業を開始した。一方、宮古 製糖は1959年、大阪製糖(現三井製糖)と資本提携 して設立され、翌年から城辺町工場の操業を開始し た。 話の終わりの方の、土地払い下げの件については、 再び仲宗根さんに尋ねると、当時の新聞記事をファ ックスで送ってくれた。まったく頼りがいのある人 だ。送られてきた、宮古新報1973年2月21日「小作 地の買い上げ」、同紙同年3月2旧「小作人に譲渡 へ農地法で買収した用地」、同紙同年5月10日 − 3 6 −

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「小作地買収値で売る県農水部坪当り326円」 という記事を総合すると次のような内容である。 すなわち、沖縄の本土復帰後、農地法等が適用さ れたが、農地法によって所有できない小作地の国に よる買い上げ措置第1号が、沖縄製糖株式会社の子 会社である沖縄土地住宅株式会社の所有の土地であ った。対象となったのは宮古平良市在の小作地128 筆56万1,917平方メートル、同上野村在46筆14万1,1 11平方メートルで、対価は総額7,029万1,000円、坪 当たり平均326円。そして、この土地は買収値で、 原則として買収時の小作人に売り渡されたというも のである。5月10日の記事には、農林省は農地法の 適用で所有できない小作地を全県で約4,200ヘクタ ールと推定している旨の記述がある。 とにかくこういうことで、製糖業関係のことも勉 強しないといけなくなってきた。当時私がこの事件 のことでよく話し合っていたのは、友人の島袋隆さ んであるが、島袋さんは宮城鉄夫(みやぎてつぷ) と同郷の出身である。宮城鉄夫の名は、「中部製糖 二十年のあゆみ」(1980年)の「第3章大正時代

の糖業」で見かけて知っていた。県立農林学校の校

長として、大正8年「糖業意見書」を発表し、優良 品種の取り入れに貢献した人である。彼の出身地の そばには今も、北部製糖羽地事業所がある。こうい

うこともあって、島袋さんも興味を持って色々協力

してくれたが、勧められた本の中では、沖縄タイム ス編「私の戦後史第1集」(沖縄タイムス社。19

80年)に収録されている宮城仁四郎氏(大東製糖

(株)社長。本稿6参照)の自伝がとりわけ愉快だ

った。これによると、製糖関係の者は、非製糖期間

が長いので、その間に色んな勉強ができるらしい。

それから、根間玄幸「沖縄宮古島農民運動史」

(オリジナル企画・1976)という本を、那覇市立中

央図書館で見つけたが、これも面白い本である。真

喜屋氏の話が、おおむね裏づけられる(117頁以下

に宮古製糖設立関係の記述がある)。1959年4月1

日に日本政府が発表した甘味資源需給計画は沖縄の

糖業を一層有利にするものであると同時に、分蜜糖

への移行を強力に推進するものだった。これに対応

0 して、琉球政府は同年9月4日糖業振興法を制定し、 小型工場の乱立防止と計画的な大型工場の配置並び に融資等について規定している(同書111頁以下)。 こういう流れの中で宮古製糖は設立許可されたもの である。なお、1959年というのは、宮古にとって、 サラ、シャーロット・エマ等の記録的な台風が襲来 した年で、作物全滅のため食糧難に陥り、新城や保 良の部落ではソテツを食糧にするものも出たのだそ うである(同書106頁以下)。 農民株の話に関しては、島袋さんから、同じよう なことが琉球製糖でもあったようだという話を聞い たが、これについては、偶然次のような話を聞いた。 94年1月19日に、入院中の妻の父を見舞いに南部 病院に行った時、隣のベッドに入っている、玉城村 の嶺井さんというおじさんと1時間ほど話した。こ のおじさんは大正2年(1913年)生まれであるが、 喉に穴があいていて、話す時穴を押える。空気が乾 燥したりすると咳が出るそうで、疲を出すため吸入 器を使うんだそうである。それからまた、片耳聞こ えないそうで、しかし補聴器は雑音が煩わしいので 使っていないと。今度両足を手術して成功したそう で、「明後日退院する」と嬉しそうだった。体がこ んななので、隠居してもう30年だそうだ。6歳下の 奥さんはいるが、この人も体が弱いそうだ。それに、 この病院はバスで来るにはとても不便で、港川まで 歩かないといけないそうである。戦時も小倉の病院 に回されて、時間がかかるからと東京に転送され、 それから沖縄に帰って除隊だそうで、沖縄戦の時は、 まず具志頭に逃げたが、とてもだめだ、と食べ物を ありったけ持ってヤンバルに歩いていった。着くま でに食料は皆、なくなってしまった。草でも何でも あるものは皆食った。食べ物がないため子供も2名 だか3名だか死んで、そして米軍に捕まったと。当

時もひげをはやしていて、それは喉の穴を隠すため。

その後一時切ったそうだが今はまたはやしている。

前置きが長くなったが、おじさんは以前は農協に勤

めていたのだそうである。玉城はさとうきびの産地

だが、きびは琉球製糖に出すのだそうである。農民

− 3 7 − 寺 ,一 一 一 、凸 ■ ワ

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/ はせいぜい5株ぐらい会社の株を持っているそうだ。 会社をつくる時、割当みたいなのがあったと。昨年 から、糸満の製糖工場は操業していないそうだ。プ リックスで買いたたくということと関係があるのか なあ。そのブリックスというのもごまかす方法はあ ると、おじさんは楽しそうにいっていたが。このブ リックス(糖度)ということばが自然に出るように なった。真喜屋氏との話で初めて聞いて、その時は 意味が分からなかった。(本稿末尾の追記を参照さ れたい) ところで、上告理由書の提出期限は当初93年の年 末になるはずだったのだが、上告状の受理が手続き 上の理由で遅れたとかで、その分だけ遅くなり、94 年の1月20日になったということだった。その分余 裕ができたわけである。 12月17日には、那覇市史編集室の島尻克美氏に会 って話を聞いた。 現在、沖縄県農地制度資料集成編集事業というの が県で進行中だそうで、専門員として島尻氏のほか 小川氏等も加わっていて、中心は沖国大の来間泰男 氏なのだそうである。で、予定されている事業の中 に宮古などのことも含まれているのである。私が今 調べていることとぴったり一致している。この事業 は、予算の関係で、すでに刊行されている「沖縄県 農林水産行政史」からこぼれ落ちたものを集めると いうことになっているそうである。で、これまで出 ている資料というのはだいたい、この「沖縄県農林 水産行政史」に載っているであろうと。これが基本 資料である、と。そこに載っていないものを、この 事業でこれから載せる予定だと。なるほど。この、 「沖縄県農林水産行政史」は沖大図書館にもあった。 しかし、これが基本資料だとさえ分からなかったの である。島尻氏の話を聞いて、まずこれに当たって みようと沖大図書館に行って、農業関係の8冊を借 りた。第1,2巻(合冊)が来間氏の執筆である。 まずはこれから読むことにした。まあやっとスター トラインに立ったって感じである。 g 私は、12月20日に上京した。そして1月7日に沖 縄に帰るまでずっと、小平の母の家にいた。 上京中にやった作業は、資料を読んで、まとめる ことである。 「沖縄県農林水産行政史」の関連すると思われる 部分のコピーも宅送して目を通していったが、この 事件に直接関係するのは、「沖縄県農林水産行政史 第3巻(農政編)」(財団法人農林統計協会・19 91年)第3部「農地」(仲地宗俊氏執筆)である ことが分かった。 直接関係するのはこの第4,5章「琉球政府期I、 Ⅱ」であるが、その後も、例えば農地法適用の状況 を知るために第6章「復帰後」も読んでいくという ように、読む範囲が少しずつ広がっていった。そう いう作業をやっているうちに、59年だけでは謎は解 けないというより、59年の状況の暫定性というのが はっきりしてきたと思われる。59年から遡る必要性 というのはどの程度あるのかな。時代に、落ち着い た時代、落ち着かない時代というのがあると思う。 どうやって判断できるのだろうかo59年というのは 落ち着いた時代だったのかどうか。今はどうなのか な。メルクマールとして、どういうものが適当だろ うか。以下に、第4,5章からのメモを掲げる。 仲地宗俊「農地」 第4章琉球政府期I *布令20号に至る一連の立法で「島ぐるみ」闘争 は収束。 一括払いは許さない(4原則の1つ)。 プライス勧告「土地を接収された地主が、なんら の労役を払わずに、全土地生産量に匹敵する地代を 受け取るならば、地主階級とでもいうべき社会をつ くり出すことになるであろう。とくにこの多額の地 代支払いは進行型インフレを引き起こし、地主以外 の人々を毒することになろう。」 *地代算定方式は最終的には最高借賃方式によっ て決められることになった。1959年1月13日付立法 第1号「土地借賃安定法」。 − 3 8 − ●

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最高借賃方式というのは、まず基準値として水田 3等地をとり、その最高借賃を算出し、その他の地 目、等級についてはそれに一定の比率を乗じて求め る。 この方式で算出された軍用地料は、アメリカ軍が 最初に提示した軍用地料の6.1倍に上昇。これは明 白に高率小作料算式であって、実際に定められた最 高借賃の水準は土地耕作からの所得には及ばないが、 農民間の実勢小作料よりはかなり高額になる。(石 井啓雄氏) このあとの軍用地地主の運動は、軍用地の存在そ のものを問題とするのではなく、軍用地料引き上げ。 復帰時に一気にそれまでの6倍に引き上げられた。 防衛施設庁が調達してアメリカ軍に提供する方式に 切り替わることに伴うトラブル回避のためである。 本来は耕作権の主張なのに、狭く所有権主張とし てのみ整理、拡大され、そしてそれがただ地代請求 権に昇華し、かつただ地代の増額だけを求めていく かたちは、農業の発展に重荷となってはね返らざる をえない。(石井氏) *いわゆる「黙劉耕作地 アメリカ軍が軍用地として囲い込んだ土地のうち で、当面施設や使用の妨げにならない範囲で住民の

使用が認められる形になっている土地。

1964センサス1627ha総耕地面積の3.2% 7 1 1 0 1 5 2 . 1 7 5 6 2 6 1 . 7 8 0 6 8 8 1 . 8

軍用地が集中する本島中部では10%前後。市町村

別では嘉手納町で全耕地面積の94%、読谷村では41

%、北谷町では53%・

黙認耕作を法的に根拠づけたのは、高等弁務官布

令20号1項aであるといわれる。 恩恵という位置付け。

その10年前に農地を住民に使用させることを指示

する文書を発布。むしろアメリカ軍の必要に基づい

て耕作を指示したことがうかがわれる。24.10.4

付規則第85-4号「航空隊用地を住民の耕作地として

使用の件」(琉球史料第7集、行政史12巻424頁)

「軍の必要とすべき又は確保すべき土地の制限内に 於いて、出来る限り多くの可耕地を沖縄の民衆にに 耕作用地として利用せしめる」ことを指示。食糧確 保についての米軍の財政的負担を軽減するため。 黙認耕作地は復帰時に一部返還されたが、なおか なりが「黙認」のもとで耕作されている。権利とし ては極めて不安定。これとは別に、これらの土地を 小作している耕作者に対して、地主が耕作を認めな いという事例も発生している。返還後の補償問題な ども絡んでいるといわれる。これらの耕作者はアメ リカ軍による無法な耕作侵害だけでなく、地主の利 己的な耕作権取り上げにも脅かされているのである。 ははあ、こういう形の重畳的権利関係もあるんだな。 第 5 章 琉 球 政 府 期 Ⅱ *アメリカの、沖縄を日本の経済圏から分離する という経済政策は基地収入でもって貿易赤字を補填 できなくなると破綻。外資(主として本土資本)を 導入することによって沖縄の産業育成を図ろうとす る方向に大転換(1958年から60年にかけて)。 作物構成は、1960年頃以降さとうきび単作型。さ とうきびは、終戦直後は食糧増産の妨げになるとし て栽培禁止。貨幣経済復活とともに換金作物需要高 まり栽培再開。1959年の外資導入により本土の糖業 資本が進出、原料需要高まる。しかし63年には粗糖 の輸入が自由化され、65年以降は後退を続けながら 復帰迎える。 *1971年農業センサスにおける借入農地の相手方 調査。 借入れ農地のうち、親戚から預かって耕作してい る土地は、沖縄本島周辺の離島でその割合が極めて

高い。その他の個人から借入れている土地は沖縄本

島中南部の市町村に集中。個人以外のものから借入

れている土地は沖縄本島北部、宮古、八重山で大き な割合を占め、土地の借入れが地域によってかなり 分化。 控訴審判決の立場は、1952年のサンフランシスコ 講和条約を区切りにしている。しかし、具体的なテ − 3 9 − 1 0 ー 一 4 −凸宇再一

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