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万葉集の学習と関連画像

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万葉集の学習と関連画像

̶〈見ること〉・身体感覚・共感̶

Learning of “Manyosyu” and related picture

               田 場 裕 規  

               TABA Yuuki  はじめに

 平成 26 〜 28 年度日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究(C)に「〈見ること〉

と〈読むこと〉をつなぐ「デジタル教材」に関する研究」(課題番号 26381295)が 採択された。

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 本稿では、児童生徒に提供されるデジタル教材のあり方について考察をめざし、ま ずは、補助教材としての画像等について考えていきたい。とりわけ、万葉集の学習と 関連画像について考察し、〈見ること〉と身体感覚につなぐ視点について考えていき たい。

 筆者は、第 127 回全国大学国語教育学会(筑波大会)において、 「〈見ること〉と〈読 むこと〉をつなぐ古典教材̶万葉集歌の見る̶」と題して自由研究発表を行った。そ の中で、「〈見ること〉から〈読むこと〉につなぐ」という文言によって、万葉集歌の 教材化を述べた。これは、研究分担者の仁野平智明氏より、科学研究費が採択されて 以来、様々な示唆を受けたことによって見出したものであった。仁野平氏は「『見る こと』を『読むこと』につなぐ文学的文章指導̶『城の崎にて』に現われる「自分」

の視覚イメージ̶」(熊本大学教育学部紀要 第 63 号 17‐22 頁 2014 年 12 月 12 日)

をまとめ、「見ること」を「読むこと」につなぐ文学的文章指導について考察した。

教科書の「学習課題」 (設問)が招く「読み」の問題点を指摘し、 「見ること」を起点に、

〈擬〉既知としての視覚イメージを「読むこと」に展開していくことを指摘している。

 仁野平氏の言う「『見ること』を『読むこと』につなぐ」というフレームと、当方 の言う「〈見ること〉から〈読むこと〉につなぐ」ということは、一致したものではなく、

助詞の位置や機能から考えても、仁野平氏の論文等の意図を正しく踏まえたものでは なかった。

 一方筆者は「万葉集歌における見る」ということを古典教材として位置付け、且つ

デジタル教材として授業内容に関わらせ、〈見ること〉と身体感覚の関係について、

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より深く考究することに意図があった。また、その学会発表において「風景」に言及 したこと等は、「〈見ること〉から〈読むこと〉につなぐ」フレームではなく、〈見る こと〉を身体感覚につなぐということが考察の中心にあった。当方の学会発表の不分 明な点によって、仁野平氏の知見に誤解を与えかねない。そのことをお詫びするとと もに、同学会発表において不分明であった点を以下に論じていきたい。

1 問題の所在

 昨今、「電子黒板」や「タブレット PC」が急速に普及し、学校現場における教材、

教具の概念が変わろうとしている。そして、その教材、教具の変化が授業内容に変化 を与えようとしている。「学校の ICT 環境の整備」が盛り込まれた「スクール・ニュー ディール」構想に基づいて、教育環境を抜本的に見直すことが求められており、「21  世紀の学校」にふさわしい教育環境として、「電子黒板」や「タブレット PC」等を整 備していくことが打ち出され、今後ますます学校現場は変化するものと考えられる。

しかも、10 年以内に教室は劇的に変化すると思われる。

 このような現状を踏まえたとき、岡田尊司

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によって、情報化によるさまざまな危 険性が指摘されている。情報化社会において、情報過負荷と情報依存が、人びとの「愛 着スタイル」に影響を与えているという岡田の指摘は、深刻な指摘である。岡田は、 「人 間の脳が処理可能な情報は、どんなに頑張っても 1 秒間に 126 バイトが限度だという。

このトップスピードで一睡もせず情報処理を行なったとしても、人が 1 年に処理で きる情報量は、4 ギガバイトに届かない。ちなみに、本書 1 冊の文字情報の量は、お よそ 200 キロバイトだから、4 ギガバイトは、この本の 2 万冊分に相当する。現実 的に 1 年でこれだけの冊数を読むのは不可能である。」

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 と例を挙げた。また岡田は、

人間の脳が主体性を維持し、バランスの良い判断やスムーズな情報処理を行なうため には、思考の “ スペース ” が必要だと言う。思考のスペースの不足は、マインドコン トロールを受けやすい状況を作ったり、愛着障害を引き起こし、夫婦関係や子育てを 困難にすると言う。うつ病などの精神疾患などに影響を与えることも指摘している。

 学校現場の ICT 機器の整備が進む中、多様なメディアによって、網羅的、拡散的、

概略的に情報が児童生徒に提供されることは、これらの危険性にも配慮する必要があ

る。特に推進する立場の者は自覚的でなければならない。PC やインターネットを活

用した授業において、常に問題になるのは、簡便なウェビングと自己の狭間にあらわ

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れる学習欲求の方向性である。際限なくウェビングする欲求と、学習の目標に応じた ベクトルとを、どのようにバランスをとるかは、古くて新しい問題である。このよう に考えると、デジタル教材は副次的な作用しかもたらさないように思われるが、情報 の危険性にも配慮しつつ、知識・理解を深めることを考えるためには、デジタル教材 とともに身体感覚や共感について考える必要がある。

 「伝統的な言語文化」に係る教材は、国語便覧や VTR 等による視聴覚教材などを 活用して、知識・理解を深めることが多い。国語便覧や VTR 等の利点は、授業内容 を強化し、深化させる点にあり、その活用方法は多岐にわたる。ゆえに、国語便覧、

VTR 等の問題点は、網羅的、拡散的、概略的な点である。もちろん、網羅的、拡散的、

概略的であることによる利点は、いかなる授業内容にも容易に対応できる点にある。

しかし、多様なメディアによって、網羅的、拡散的、概略的に与えられる情報は、授 業内容を歪ませることがあることにも配慮しなければならない。

2 万葉集歌の学習

 清野隆

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によれば、戦後(昭和 25 年〜平成 18 年)、中学校 3 年生の教科書は 163 冊出版されており、最も掲載の多かった歌は、

A 東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

            (巻 1・48)柿本人麻呂 であり、(94 冊)に採録されている。次いで、

B 田子の浦ゆうち出て見ればま白にそ富士の高嶺に雪は降りける

            (巻 3・318)山部赤人

(89 冊)であった。

いずれも、長歌に対する反歌(短歌)である。

 この二首を知識理解として暗誦することによって、身体化していく実践は多くある。

万葉集歌を繰り返し暗誦することによって歌に親しみ、作られた背景などへの興味関 心を徐々に高めさせて鑑賞することは、指導方法として定番化している。暗誦を基点 にした指導方法は、学習に階梯性を見出す点において有効である。

 すなわち、 (1)暗誦 → (2)歌の内容理解 → (3)作歌の背景などの理解 → (4) (2) (3)

を踏まえた鑑賞という階梯性である。暗誦という主体的な活動を通して、万葉歌に親

しんだにも関わらず、万葉研究を意識した内容理解、作歌背景などの理解に収束して

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しまい、万葉歌を自らの身体感覚で実感したり、共感したりすることが忘れられてい る。しかし、そのような身体感覚や共感を補助するものとして国語便覧や VTR、教 科書の挿絵などの画像が活用されることはしばしばある。視聴覚教材などを活用して、

知識・理解を深めることは授業場面においてよく見られる。

 しかし、身体感覚や共感を補助するものとして与えられた視聴覚教材は、感覚を通 して提供されているにも関わらず、知識理解に変換されてしまう。これは情報の一単 位として示されたに過ぎず、主体的な活動を通して暗誦した万葉歌が、学習者自身の 感覚や感性に還元されないということにならないだろうか。もちろん、知識理解の一 つとして万葉歌を学習することを否定するものではないが、画像や動画などで、視覚 を通すのであれば、身体感覚や共感に焦点化した学習も見出されるのではないだろう か。

 AB の歌には「見へて」「かへり見すれば」、「見れば」が確認される。視覚を前提に 生み出された歌と言える。視覚に依拠した身体感覚の世界を、歌人の視覚に沿わせた 時、学習者にはどのような身体感覚が生まれるだろうか。暗誦から内容理解に進む指 導ではなく、暗誦から身体感覚に進むことによって、 〈見ること〉を身体感覚につなぎ、

万葉歌の理解を深める指導方法を考察してみたい。

3 〈見ること〉・身体感覚・共感 3.1 ミラーニューロン

 1996 年、イタリアにあるパルマ大学の神経科学者ジャコモ・リゾラッティらは、

ミラーニューロンという運動性の神経細胞を発見した。ブタザルを使った実験で、他 者がある行為をすると自分が実際に動作を行っていなくても脳の中ではあたかも自分 がその動作をしているような活動が生じるということであった。脳内ニューロンの電 気的活動を記録した結果、明らかになった。ミラーニューロンは、人が無意識のうち に他者と共感しようとする「共感システム」をもつということが分かってきた。この「共 感システム」をどのように使うかが、画像や動画などを活用した万葉集の学習には鍵 になる。これを、学習者と歌人との関係に置き換えて捉えてみるとどうだろうか。学 習者は、歌人の言葉を読み、歌人を他者としてとらえ、 「共感システム」を駆動させて、

自らの身体感覚を導き出す。つまり、歌人の言葉をたよりに、視覚を導き出すのである。

視覚情報を伝達する神経や、身体感覚を生む情動は、言葉によって認識に変換される

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のであれば、視覚を中心に身体感覚を発揚させ、理解につなげることは可能である。

3.2 風景と身体感覚・共感

 木岡伸夫は風景について次のように述べている。

風景を論じることの難しさは、その経験が何か見えないものにかかわるところか ら来ている。風景の「景」は、「日の光、影」を語意にもつように、客観として 眼に見えるものを表わす。いっぽう風景の「風」は、「風土」「風水」に含まれる それと同じく、眼には見えない仕方で存在するものを表わしている。見えるもの と見えないものに相わたって成立するのが風景であるとすれば、風景を論じるこ とと景観を論じることのあいだには、おのずから区別がなければならない。

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 万葉集歌 AB を身体感覚につなぐためには、木岡のいう「景」と「風」に配慮し、

見えるものと見えないものが合一する視点を見い出さなくてはならない。表現された 景物は、A では「東の野」・「かぎろひ」・「月」、B では「田子の浦」・「ま白」・「富士 の高嶺」・「雪」である。いずれも、見えるもの「景」として位置付けられる。それで は、眼に見えない仕方で存在する「風」は何だろうか。その眼に見えないものを感覚 するときに見出すべきものが、共感である。AB に関わる(図 1)(図 2)を例に考え てみたい。

      (図 1)

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           (図 2)

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 (図 1)は 48 番歌に関わるものであり、 (図 2)は 138 番歌に関わるものである。 (図 1)

において、見えないものは、画像中央の人物が「見ているもの」である。何を見てい るのかを問うことは、画像の中に感覚されたもの(ここでは画像中央の人物)と共感 することに他ならない。

 (図 1)は、昭和 14 年に描かれた中山正實フレスコ壁画で、制作事情は犬養孝の

取材ノートや澤瀉久孝『萬葉集注釋』に詳しい。

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 A では「東の野」 ・ 「かぎろひ」 ・ 「月」という「景」に相当する言葉がある。しかし、 (図 1)

には、「月」がない。中央の馬上の下級官吏が人麻呂とした時、視線の先に「月」を 想定している。そこで見い出される学習課題は、「なぜ、『かへり見』するのか」とい う問いである。A は、題詞に「軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌」とあり、長 歌一首と短歌四首からなる。A は第 3 反歌である。題詞から、軽皇子の遊猟に従った 人麻呂が阿騎野に仮宿で父草壁皇子を追懐する軽皇子の心中を詠んだものと理解され る。見えないものを見る世界を「風」の中に見い出すことは、〈見ること〉と身体感 覚をつなぎ、共感を促すことになる。「かへり見すれば」の中に「風」を見い出した 明快な「釈文」は伊藤博『萬葉集釋注』である。伊藤博の「釈文」寄り添わせたもの でなくとも、見えない「月」に気づかせ、どのような「月」かということを画像と対 話させることによって共感を見出すことができると考える。

 B では「田子の浦」 ・ 「ま白」 ・ 「富士の高嶺」 ・ 「雪」という「景」に相当する言葉がある。

学習課題として、まず歌に表現されていないものを問いたい。つまり、歌だけでは見 えないものは何かということである。例えば、 「田子の浦ゆうち出て見れば」という時、

「田子の浦」を「景」とするのであれば、通過を示す格助詞「ゆ」や、さらに視界の 開けた広いところに出るという「うち出て」に着目して、見えないものを見るとすると、

どうだろうか。まず、歌人は徒歩で、 「田子の浦」を行き、視界の狭まったところから、

大きく開けたところに出て、富士山を拝んだという見えない世界が考えられる。その 時、富士山には白い雪が「ま白」に冠雪しているということは、空とのコントラスト が見い出され、見えない空を感覚することができる。また天空を仰ぎみる歌人の仰角 は、どのようなものであるかについて、「風」として見出すことは、共感を導きだす ことができる。

むすびに

 万葉集の学習と関連画像について考察してきた。実践による検証・考察が不可欠で ある。また、教室空間において、身体感覚や共感を鍵にして学習をするためには、身 体教育やボディーワーク等の知見や方法論も検討しなくてはならない。進藤貴美子

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は、大学生を含む多くの現代人の「闇雲・無自覚・大雑把」な身体感覚に言及し、さ らに画一的「学校的身体」(体育座りなど)がこのような身体感覚を醸成したと言う。

言語の教育とは無関係だという議論もあろう。しかし、情報化社会において、身体感

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覚や共感は言語によって見出されるものであり、情報過負荷と情報依存が深刻化し身 体感覚を攪乱し「愛着障害」などの問題を引き起こしているのであれば、「意識して、

自覚的に、丁寧に」身体感覚を呼び戻す術を、言語の教育で見出すことも必要であろ う。今後は万葉集の学習と関連画像について、身体感覚と共感をキーワードにして深 め、実践研究の視点を複数持つ必要がある。〈見ること〉と身体感覚をつなぐ視点を 再考し、授業プランの研究、教材、教具の作成を目指したい。

1 研究分担者:仁野平智明氏(熊本大学)、崎浜靖氏(沖縄国際大学)

2 岡田尊司『回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち』(光文社新書)2013年12月20日 3 前掲書

4 清野隆「戦後中学校国語教科書の万葉集の説明と万葉歌の掲載状況について」『語学文学』第49号、2011年3月、

北海道教育大学語学文学会

5 木岡伸夫「沈黙と語りのあいだ」『風景の哲学』(安彦一恵、佐藤康邦編)、ナカニシヤ出版2002年10月 6 中山正實画伯製作の壁画「阿騎野の朝」(http://home.kobe-u.com/tokyo/topics/topics037.html#2008.02.29)

より。

7 村瀬憲夫氏の撮影。薩埵峠から富士山と駿河湾を望む。

8 進藤貴美子「感覚・動きの再構築̶教師としての身体へ̶」『教科教育学研究』第24集、2005年

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参照

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