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今なぜアウシュヴィッツなのか総集編 : ヴァイツ ゼッカーが残した遺産

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(1)

ゼッカーが残した遺産

著者 大澤 榮

雑誌名 東京家政大学博物館紀要

巻 21

ページ 83‑103

発行年 2016‑02

出版者 東京家政大学博物館

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010375/

(2)

はじめに

戦後は過ぎて丁度 70 年が過ぎ去った。おりしもドイツ統一後初代大統領リヒアルト・フォン・

ヴァイツゼッカー氏が死去(2015 年 1 月 31 日 94 歳)して間もないこの時期に、ヴァイツゼッカー 氏と日本との関わりも含めて、いのちの尊厳について論考すべきと考え起案した次第である。

日本では安倍晋三首相が戦後70年談話を発表した(8月14日)。そして翌8月15日には安倍内閣 閣僚の靖国神社参拝と安倍首相の玉ぐし料奉納が報じられた。そして政府は安保関連法案を、多く の憲法学者が反対意見を述べ、国民の理解も深まらない中で強行可決(2015 年 9 月 19 日)を決行 した。戦後聖域とされて来た非核三原則に触手を延ばした感は否めない。

かつて戦後 50 年記念としてヴァイツゼッカー氏が、中日新聞などの招きで来日し、東京での講 演、名古屋での講演・シンポジュウムが企画された経緯があり、筆者も東京、名古屋でのそれに参 加し、拝聴した。彼は日本もドイツも第二次世界大戦における敗者であるが、内省を進め、敗者で あるがゆえに、平和問題に関して勝者になりうる道が用意されていると語ったのである。これは歴 史に盲目にならないという大きな杭を抱えつつ、日本とドイツであるがゆえに実現しうる道と説い たのである。彼を失った悲しみをどうすることもできないが、日本はこの法律(安保関連法案)に よって、その道から離脱した感は否めない。かつてヴァイツゼッカー訪日が意味したものは何で あったのか。筆者もヴァイツゼッカー氏との出合いについて、当時の月間総合誌「公評」(1996年 4 月〜6 月に亘り、上・中・下の 3 回連載)1)2)3)に拙稿を寄せたのであるが、そこを起点として、

ドイツの戦後処理と文化や歴史とのかかわりについて、今回改めて整理分析し、若干日本とのそれ を比較検討が出来ればと考えている。

ただこの論考を進めるにあたり、この論考の全体の骨格を示すものは、アウシュヴィッツについ て振り返ることを差し置いてあるはずもなく、アウシュヴィッツそのものをもう一度振り返るとい う論点に立ち返って、もう一度ヴァイツゼッカー氏の功績を再考してみたいと考えた次第である。

今なぜアウシュヴィッツなのか 総集編

  ヴァイツゼッカーが残した遺産   

大澤 榮

Why Research Auschwitz Now?

A Final Statement on the Heritage Left by President Weizsacker Sakae O

sawa

看護学科 研究室5

(3)

第1章 今なぜアウシュヴィッツなのか

第二次世界大戦終戦後ハルピンからソ連へ抑留され(1945〜1950)、ツンドラ地帯で強制労働に 従事し、1953 年日本に帰還した詩人石原吉郎の『望郷と海』の冒頭の「確認されない死のなかで

―強制収容所における一人の死」にアイヒマンの言葉が引用されている4)

百人の死は悲劇だが 百万人の死は統計だ。

     アイヒマン

この言葉から一番先にイメージとして私を虜にして離さないのは、彼がしきりに口にした

“ジェノサイド”という言葉の響きである。彼のジェノサイドに対する思いが語られている。

「ジェノサイドは一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとり4 4 4 ひとりの死4 4 4 4 4がないことが私には恐ろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集 団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。

死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりそ の名を呼ばれなければならないものなのだ。

…中略…死に際して、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、彼が4 4その死の瞬間ま で存在していたことを、誰かに確認させたいという希求であり、同時にそれは、彼が結局彼と4 4 して4 4死んだということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその 確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけだという事実は、背筋が寒くな るような承認である。にもかかわらず、それが、彼に残されたただ一つの証であると知ったと き、人は祈るような思いで、おのれの存在のすべてを賭けるだろう。

いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持 つのはなぜか。それは、まさしくそれが一個の4 4 4まぎれがたい符号だからであり、それが単なる 番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからに他ならない。ここでは疎外という

ヴァイツゼッカー氏

毎日新聞2015年2月1日朝刊16) アウシュヴィッツ収容所跡 死の門

(4)

ことはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。

…中略…死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側 ― 私たちが私たちであ る限り、私たちは常に生の側にいる ― からは、何の意味もそれについて加えることはできな い。死はどのような意味を付け加えることもなしに、それ自体重大であり、しかもその重大さ が、おそらく私たちになんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させる だろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに 大きな頽廃であると私は考えざるを得ない。生においても、死においても、ついに単独である こと。それが一切の発想の基点である。

私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者で ないというただ一つの理由からである。しかしそのうえで、あえていわせてもらえるなら、峠 の三吉ただ一人の悲劇である。この悲惨を不特定の、死者の集団の悲惨に置き代えること、さ らに未来の死者の悲惨までもそれによって先取りしようとすることは、生き残ったものの不遜 である。それがただ一人の悲惨であることが、償い難い痛みのすべてである。

さらに私は、無名戦士という名称に、憤りに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありう るはずがない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。不幸にして、そ のひとつひとつを確かめえなかったというのであれば、痛恨をこめてそのむねを、戦士の名称 へ併記すべきである4)

ハバロフスクの一角に、儀礼的に配列された日本人の墓標には、いまなお、索引のための番 号が付されたままである。」

(『望郷と海』石原吉郎 筑摩書房より傍点原文)

詩人石原吉郎は、さらに収容所のなかからの命の希求を切り刻んでいる。

位置

       石原吉郎

しずかな肩には

声だけがならぶのではない 声よりも近く

敵がならぶのだ

勇敢な男たちが目指す位置は その右でも おそらく そのひだりでもない 無防備な空がついに撓み 正午の弓となる位置で

(5)

君は呼吸し かつ挨拶せよ

君の位置からの それが 最もすぐれた姿勢である

しずかな敵

       石原吉郎

おれにむかってしずかなとき しずかな中間へ

何が立ち上がるのだ

おれにむかってしずかなとき しずかな出口を

だれがふりむくのだ

おれにむかってしずかなとき しずかな背後は

だれがふせぐのだ

       石原吉郎

いっぽんのその麦を すべて過酷な日のための 証しとしなさい

植物であるまえに 炎であったから 穀物であるまえに 勇気であったから 上昇であるまえに 決意であったから そしてなによりも 収穫であるまえに 祈りであったから 天のほか ついに 指すものをもたぬ

(6)

無数の矢を つがえたままで ひきとめている 信じられないほどの しずかな茎を 風が耐える位置で 記憶しなさい

(『現代詩文庫26 石原吉郎詩集』思潮社より)5)

石原の葬列を亡くした言葉の群れは、あえて返信しようとする必要性さえ無用にしてゆくような 感慨さえ抱かせる。アウシュヴィッツは歴史上から言っても、民族問題から言っても、ただ一つの 収容所の名前に過ぎないが、石原の言葉を手掛かりに、人間の絶望と希望の接触点を嗅ぎ取ること ができるように思えてならない。

かつて、太平洋戦争(第二次世界大戦)でも、日本も幾多の侵略を繰り返し、そのなかで現地住 民たちに強制労働や皇民化教育を覆いかぶせ、囚人番号を連発して来た野蛮国であるのだから、そ の加害の現実のうえに立って語られるのだが、アウシュヴィッツの場合は、名前を奪われ数である ことさえ許されず、未だに正式な死亡者数は推定でしかなく、180 万とも 400 万とも言われ、今で もその一部は囚人番号簿として、アウシュヴィッツ博物館(ポーランド国立オシフィエンチム博物 館)に保管されているが、その扱い方が家畜以下の扱いの極致であり、かつてのいかなる流血惨事 でも執行されなかった、死体の髄まで(皮脂から石鹸を、頭髪からかつらや反物を、金銀の義歯か ら金の延べ棒を、死体の灰を肥料としてという具合に)の利用にその特筆をみることができるので はないだろうか。神格化という言葉があるなら、アウシュヴィッツに至る道も例外ではなく、必ず 貧困が第一義的にあったと言ってよい。第一次世界大戦に敗れ、当時の国家予算の 17 倍にも及ぶ 賠償金を背負わされたドイツ政府は、手おくれの状況を呈し、事実上国家は破産状況であり、失業 率は 60%を超えていた。この状況に付け入って国民を操作したのがアドルフ・ヒトラーその人で あったのである。

彼は救世主のように立ち上がり、繰り返し繰り返しドイツ民族至上主義を説き、それに不利益な ものすべてを排除して、ドイツだけを救済繁栄させる道を扇動したのであった(救済されるに匹敵 する優秀な民族であるという趣旨)。そのために彼は神にならねばならず、そうなることによって のみ、ファシズムは確立され、世界は我がドイツの手中に入ると。その弱肉強食の論理が、アウ シュヴィッツを始めとする 1000 箇所以上の収容所を作らせ、絶滅収容所の確立によって、ドイツ は完全雇用を実現したのであった。

アウシュヴィッツそれは、人間が人間扱いされなかった、帰る道は煙突から空へ、生きてふたた び収容所の門をでることができなかった。ことごとく名前を奪われ、死ぬ場所は立錐の余地もない ガス室と指定され、容赦なく焼き払われていった。人間が生み出した血で血を洗う歴史の頂点では

(7)

なかっただろうか。

人間は常にアウシュヴィッツを作り出す可能性をはらみ、又貧しさを盾に同じものを作らないと も限らない。

過去を忘れないために、アウシュヴィッツは存在し続けているのだと認識するものである。

宮田光雄は、著書『アウシュヴィッツで考えたこと』みすず書房6)の中で、次のように語ってい る。「アウシュヴィッツはナチ的狂気の象徴であった。それは、人間がどこまで非人間的でありう るかの政治的実験でもあった。そこで人間に加えられた残虐性の極致は、健全な人間の理解力を超 えていた。ある意味では、一切の歴史を超えていたと言ってもよい。それは、いわば人類の歴史的 いとなみを逆照射する“負のユートピア”に他ならない。むろん、同時にアウシュヴィッツの多く の記録は、そこでは人間があくまで人間でありつづけたことを証言している。極限状況において も、なおかつ、“動物的”存在に成り下がることを拒否する人間精神の高みが実在しうることを証 明した。こうした意味で、いわば正負両面から、アウシュヴィッツは、戦後に生きるものにとって の現代史の“鏡”であり、歴史の“原点”となりうるものなのではなかろうか。…中略…しかしア ウシュヴィッツ収容所長ヘスの手記を読めば、この人物が家族の行く末を案ずる“善良な”人間で あることがわかる。人類史上かつてないほどの冷徹な殺戮機構は、こうした“平凡な”人間たちに よって担われていた。アウシュヴィッツで生じたことは、今後の世界において起こりえないという 保証はない。」そしてノー・モア・アウシュヴィッツを実現するために、平和教育とりわけアウ シュヴィッツの原理に抗する唯一の力として、自律性、自己反省と同調しない主体性、いっさいの 集団的なものへの盲目的な同一化に対して抵抗することを教育の主眼に置いているのである。

宮田が指摘した、戦争とファシズム体験の批判的継承のための教育、すなわちアウシュヴィッツ 以後の教育は容易なことではない。

後年アウシュヴィッツ収容所長ヘスは、ビルケナウ、いわゆるアウシュヴィッツ第二収容所の死 体焼却炉傍らの絞首台で処刑されているが、手記の中でこう記したそうである。「牢獄の孤独の中 で、私は自分がいかに重い人類に対する犯罪を犯したのかということを苦い思いで認識した。この 手記の公表が、今後永久に、かくも恐るべき出来事を防ぐために役立つことを望む」と7)

宮田の論述を待つまでもなく、アウシュヴィッツは、絶望せずに最後まで希望を捨てなかったも のたちが、今でも全身全霊の声なき声で悲嘆し続けている教訓であるにちがいない。それらは、い かなる歴史や民族紛争をも超えて、永遠に不変である。

石原吉郎の言葉を借りれば、「極限状況といわれる体験にあって、人は多く目を閉じ、口を閉じ る。それはついに知識となることはないものである。知識とは何か。おそらくそれは“教訓を有す る”ということであろう。それが教訓とはならず、共有もできないとき、人はなぜ不毛の証言を試 みるのか。あるいは、不毛であることだけが、最後に残された教訓であり、かけがえのない収穫で あるのかもしれない。そのような収穫の仕方を、黙示録はすでに警告したはずである。」(『断念の 海から』石原吉郎 日本基督教団出版局)8)

今なぜアウシュヴィッツなのか。日本でも、世界でも、先の大戦の体験者は一様に高齢となり、

(8)

語り部数は激減の坂を下るばかりである。この現実の中で、不毛であることだけが、最後に残され た教訓だとすれば、それが唯一アウシュヴィッツの原理に抗する道であるとすれば、今こそアウ シュヴィッツである。

平和教育への砦として残された唯一の墓標=世界最大の墓場=アウシュヴィッツである。

1994年(今から約20年前)の酷暑に、筆者も現地を訪ね、死の門から死体野焼き焼却場にまで足 を踏み入れた経験から、すべての人類の歴史の原点がここにあると訴えて止まないゆえんである。

ユダヤ系ドイツ人の両親を強制収容所で失い、自らも収容されたが、奇跡的に脱走に成功し、そ の位置から詩を書き続けたパウル・ツェランの詩を引用したい。

ぼくひとりぼっち

       パウル・ツェラン

ぼくはひとりぼっち、ぼくは灰の花を 熟れた暗黙のコップにいける。妹の口よ、

おまえは語る、窓のまえに生いしげる言葉を、

すると音もなく、ぼくが夢みたものがぼくにまつわりのぼる。

ぼくは咲きつくした時刻の爛漫のなかに立ち、

晩い時期にやってくる鳥のために樹脂をためている―

鳥はひらひらの雪を赤いいのちの羽根にのせてやってくる。

嘴に一粒の氷をはさんで、夏をとおってやってくる。

(『パウル・ツェラン詩集』思潮社 飯吉光夫訳編)9)

アウシュヴィッツⅠ

別荘を思わせるレンガ造りのバラック ナチスが証拠隠滅のために爆破したガス室跡

(9)

第2章 ヴァイツゼッカー訪日が示唆したものとは

1995年8月7日のリヒアルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏(1920〜2015)当時75歳の訪日(講 演等)は、中日新聞東京本社の招きによるものだが、氏の軌跡を辿れば、戦後ベルリン市長から西 ドイツ大統領となり、その当時、戦後 40 年にボンの連邦議会で行ったあまりにも後世に光彩を放 ち続ける講演として有名な『荒れ野の荒野』(岩波ブクレットとしても邦訳されている)13)があ り、それらにより、「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」と訴え、世界平和の牽引者とし て、1990年には統一ドイツ大統領に就任し、2期10年を務め、当時は国連の国連改革作業部会の共 同議長を務め、文字通り「包括的視野に立った新たなる世界秩序の創造」に向かって炎熱に行動し 続ける、新たなる50年の世界地図を描いて見せた哲人と言える人と称して間違いはなかろう。

換言すれば、過去の歴史の清算というテーマについて、民族問題と戦争責任の2つに言及して和 解への道をリードしてきた生き証人と表現できるだろう。

氏の講演の論旨を辿ってみたい。

論調は東京新聞翌日 8 月 8 日朝刊に反映されている11)。まず、日本とドイツの類似点を挙げて、

両国が今世紀の前半に軍事的手段で勢力を拡大したこと、ほとんどの近隣諸国と戦争状態にあった こと、50 年前に終わった第二次世界大戦では無条件降伏をしたこと、その後は特に経済面で劇的 な復興を遂げたこと、したがって両国とも「戦争の敗者で平和の勝利者」と呼ばれていること、又 両国は「パックス・アメリカーナ(アメリカの平和)」の戦後体制を支える重要なパートナーであ り、同盟国として共に繁栄を享受してきた点と整理している。

相違点は、日本が経済力の規模でドイツを 50%も上回っているだけでなく、地政学的にも日本 は島国であり、ドイツは大陸の中央に位置するということであり、さらに日本はその島国が持つ独 自性や伝統、歴史、文化を隣国の諸国に対し、一定の距離を持つ形で醸成している。アジア・太平 洋地域と比較すると自分たちは特別な範疇に入ると感じており、その国民感情は、長い鎖国の時代 を経て、さらにあらゆるその後の戦火にも関わらず、その独自性は隣国からも相対化されることな く、経済大国として、APEC(アジア太平洋経済協力会議)の主導的役割を担う今日でも、基本的 に変化していないということである。

ドイツはそれに比して、大陸のただなかに居る為、不断の相互作用として隣国と深く結び付き、

互いに影響し合い、9つの主権国家と隣接している。そしてしばしばナショナリズムの台頭から内 戦を引き起こし、決定的とも言えるドイツのポーランド進攻、それらによって第二次世界大戦の口 火を切り、多くの戦争犠牲者を生み出し、最後は無条件降伏する道を辿っている。

ここで重要な keywords をして、「断絶のドイツ」と「連続の日本」という言葉で表現し、ナチ スが行った非連続性からの脱却を挙げ、日本は連続性ゆえに自浄能力を失ったと指摘した。

1.断絶のドイツ

氏は「断絶のドイツ」の歴史の解釈について語り出す。「両国の国民、そしてそれぞれの隣国が この前の対戦とその結果についてどのような反応をみせてきたかを比較してみる価値はあります。

(10)

過去は歴史であります。しかし、過去はただの歴史に過ぎないでしょうか、それとも現在でもある のでしょうか。過去を解釈するのは歴史の仕事で、ドイツでも日本でも歴史家たちはそのことで論 争しています。しかし、過去の解釈とは歴史家だけのものでありましょうか。われわれ政治家や精 神的指導者たちも参加する責任があるのではないでしょうか。私は“ある”と確信しております。

もし仮に、責任ある立場のドイツの政治的指導者が、― 自国の戦時中の行為を歴史的に評価しよ うとしなかったり、あるいはそうできないとするなら…中略…戦争を始めたのが誰であり、自国の 軍隊が他国で何をしたのか、についての判断を躊躇するようなことがあるなら…中略…まずは戦利 品に手を出すことになったような、他国に対する攻撃を自衛だと解釈するようなことがあるなら

…。そんなことがあると、これは現在のわれわれにとって重大な外交上の結果をもたらすことにな るでしょう。隣国から政治的・倫理的判断力に欠けるという評判をとったり、まだまだ何をするの か分からぬ危険な国だとみなされる。ドイツがそんなことを望んだり、したりする余裕があるもの でしょうか。不信を解消していくことが大切なのですが、不信が生まれたのは戦争が原因であるこ とを年配のドイツ人ならばはっきりと覚えています。不安の解消に成功すること、これこそ現在及 び将来にわたる死活の関心事であります。これはアカデミックな論争だけに任せておいていいテー マではなく、今日のわれわれの政治的責任なのです。自らの歴史と取り組もうとしない人は、自分 の現在の立場、なぜそこにいるのかが理解できません。過去を否定する人は、過去を繰り返す危険 を冒しているのです。」11)

ドイツではこのような歴史的認識に立った国民的結論に至るまでの道のりについては、多難で あったことを振り返り、1950 年代当時、アデナウアー首相がナチス被害者の遺族、とりわけイス ラエル国家に対し多額の補償政策を打ち出したこと、プロテスタント教会がナチズムの支配下での 抵抗する勇気のなかった沈黙の罪を告白したこと、そして 1968 年の若者の反乱をきっかけに、以 後の犯罪が世論として市民権を獲得するに至った。氏による戦後 40 年記念のボン連邦議会での講 演『荒れ野の40年』は、ある意味総仕上げの意味が付されているとの理解をすることが出来る。

西ドイツの過去に向き合う姿勢が、国際関係に良好な影響を与え、ECやNATOへの加盟、ポー ランドとの和平条約締結、青少年交流、共通教科書製作のための教科書委員会設置を進める方向を 生み出し、相乗効果として、われわれの歴史の中での、非連続な一章としてのナチズムによる独裁 政治、盲目的反ユダヤ主義から生まれたホロコーストによるユダヤ人大量虐殺の歴史について、断 絶のドイツからの決別の道へと至ることになったということである。

2.連続の日本

ドイツが過去と決別し隣国との共存関係に入った道と比して、日本はどのように行動してきた か。氏の表現を借りればこのようになる。「19世紀以来、日本は精神的な意味でアジアの隣国にあ る程度背を向け、同時にこの地球で軍事的・政治的な権力を拡大したのでした。日本ではこの解釈 を巡って論争が行われましたが、日本軍が進出したアジアの隣国からの日本軍占領に対する評価は 一致しており、それは今日的意味を持っているのであります。12 年に亙るナチズムの支配が、ド

(11)

イツの歴史における異常な時期であり、断絶であったのに対し、日本はむしろ連続であり、日本が 戦後自ら犯した過去の軍事行動に背を向け、ひたすら市場経済、民主主義を基礎とする経済基盤の 整備に向けられていた。それと同時に、天皇制や宗教的な基盤は維持されて来ている」11)と少し 抑制ぎみな語りでありながら、過去の反省を置き去りにした日本の体制に批判の矢を当てている。

これは、ドイツでは第二次大戦後資産階級の特権が消滅したが、日本では維持され、伝統や社会構 造も温存された形で復興がされ、歴史的に見ても過去との決別に至っていないことを示唆している とも言える。

ただ戦争の敗者で平和の勝者の視点から見ると、人類史上初の原爆投下からの立ち直りと生きる 意欲の証明に至っている点は、過去との対峙として評価されていることを重要視してしかるべきと も結んでいる。

3.平和の勝者の責務

戦争に対する敗者の責務もあるが、ヴァイツゼッカー氏は勝者の責務にも言及している。一例を 挙げるが、ドイツとチェコの関係について、ヒトラーがチェコを占領していた時期もあるが(ドイ ツは敗戦国として無条件降伏している)、一方戦後1945年から1947年にかけてチェコはナチスへの 報復的措置として、チェコ国内にいたドイツ系少数民族 300 万人を事実上力づくで国外追放した。

後年この国の共産主義支配が解けた時、時のハベル大統領は、ナチスからの不当な侵略について述 べると同時に、やってはいけないチェコ国内のドイツ系の人びと(その人びとにナチスの罪を負わ せた)を追放するという仕業について、チェコ国民に反省を促し、和解のために貢献する努力を チェコ国民に呼びかけている。この例をしても、氏の独自性は、歴史の上での公平性と言えるだろ うし、敗者も勝者も公平に責務を負うということに帰結されてゆく。

4.憂慮すべき国際情勢 ―ネオナチの動向―

当時氏が取り上げたテーマは、1993年6月にドイツのゾリンゲンの町で起きた、16歳の右翼少年 による何のかかわりもないトルコ移民の家庭に火焔瓶を投げ入れて、幼児を含む5人家族を焼き殺 した事件について、これは「非ドイツ的」なるものを一切排除しようとする、過去の「血の純潔」

を思わせるような不気味な暴力行為であり、ヒトラーの時代へ逆戻りさせようとするネオナチの目 論みと言えるのだが、この家族の葬儀の場にコール首相(当時)は列席することを断ったが、ヴァ 一ゼッカー氏はこの場に出向き演説しているのである。

発言は東京新聞朝刊(1995年7月29日)である10)。「たとえ単独犯行による犯罪であったとして も、それが無から発生することはありえません。かかる暴力の雰囲気を生み出している極右の行動 はわれわれの文明をおびやかしているのです。若者が放火犯や殺人者になるとき、その責任はかれ らにのみあるのではない。かれらに感化を及ぼしたわれわれすべてにもある。家庭や学校、クラブ や共同体、そしてわれわれ政治人にもある」と述べ「純粋性」への危惧と警告を発している。

日本はどうだろうか。島国でないドイツが隣国に囲まれながら、自浄能力を発揮せざるを得ない

(12)

状況の中で過去の清算に向かったのと比べて、日本は隣国との間で共通教科書も作れなければ、戦 後補償も道筋がつかないままである。

東京新聞朝刊(1995 年 12 月 30 日)にハンス・A・ヤコブセン(当時ボン大学名誉教授)は『ド イツと日本の役割』という稿を寄せている12)。「冷戦時に最も得をしたのは、疑いもなくドイツと 日本だった。米ソ対立の陰にあり覇権への努力を全く放棄したことと控えめな外交のおかげで、廃 墟から驚くべき復興を遂げた。その際西側陣営からの援助が奏功したのは言うまでもない。特に日 本は、戦後復興期にアジア諸国に対して何らの責任を担うこともなく経済活動に没頭していたと言 えないだろうか。かつては諸悪の根源とされたドイツと日本が、今日では調停役として一目置かれ るようになった。また混沌とした世界にあって、大国として、より重責を担うべき立場にあること をようやく理解するようになった」と指摘した。ここでの指摘は、両国に対して過去の過ちから出 発して二度と再び自国の利益だけに走らぬことを誓って同盟関係を結び、その枠内で行動する努力 の中から、現在の国際間信頼関係に至ったことを忘却せず、大きく変遷したグローバルな国際的リ スク(飢餓、貧困から難民問題、組織暴力、麻薬、生命系全般を網羅する環境問題等)を応分な形 で担い、「償い難い過去を持ち、特別な内省を永遠に負荷された二国」としての自覚の中から、そ の果たすべき役割が見えてくるとヤコブセン氏は警告しているようにも聞こえる。

ヴァイツゼッカー氏はさらに「“遅れてきた勝者”としていわくつきの国、ドイツも日本も、よ うやく世間並にその責任を自覚するようになった。対外的には、両国は、その先進的役割を活用す べきとして、予防外交を通じて紛争を未然に防ぐため、その指導性を発揮する。有事の際に国連の 要請があったら、かつてのように特殊事情や逃げ口上を持ち出さずに、普通の国として侵略国に立 ち向かう。さらに文民大国として、ロシアとその周辺国の安定にドイツと日本が確固たる貢献を成 し遂げたら、その時こそ両国は悲惨な戦争体験からいかに意義ある教訓を引き出したかを実証で きる」と語ったのである。このような政治姿勢は必ず若い世代を説得する力となる。お金では買え ない他人からの信頼、これはお金で取り戻すことは叶わず、心からの謝罪と心からの国際貢献から でしか回復不可能であり、その原点に立ち返るとき日本の前に道はできると筆者は感じた次第で ある。

5.日独の歴史教育のゆくえ

ヴァイツゼッカー氏が講演の中で語った重要な部分を整理したい。

過去を認識することの意味から、隣国の人びとが未だに第二次世界大戦の不信感をドイツと日本 の両国に向けていることに触れて、世代や国家間の境界を超えて、過去に対する責任について学ば なければならないとして、既にEU(欧州連合)の中では、統合された教科書を作成することに成 功したことを示している。

又、ドイツでは高校生の歴史に関する作文に、大統領賞が設けられていて、50 年前、60 年前に ユダヤ人が扱われた差別の内容や抵抗運動そして戦争の災難に対しての人びとの取り組み方など、

さまざまな内省的テーマが研究されていることを紹介している。「両国とも過去から学んだ教訓を

(13)

礎に、非軍事国家として経済政策を優先してきたが、これからは物質的な経済優先に偏ることな く、意識と意欲を持って軍事国家になることなく、ツィビル・メヒテ(非軍事国家)、市民社会を 土台とした国家を目指すのです。他の国の市民と寛容の精神の中で生きてゆく。そしてさまざまな 文化と出合い、その出合いが暴力の衝突にならないようにしなければならない。」2)と語った。

氏の演説は今思い起こせば、日本にとっては敗戦国としての友人として、一緒に“平和国家とし ての勝者になろう”と語りかけた言葉であったと思えてならない。氏は力の限りを振り絞って次の ように語った。「日本はドイツから遅れること50年と言わねばならない。たとえば被爆者軽視の姿 勢、戦後 50 年の国家決議(衆議院の不戦決議)の中の戦争責任の曖昧さから、国連の核廃絶を世 界に訴える項目が削除されてしまっており、中国やフランスの核実験にも、世界で唯一言葉を持て た立場を自ら葬り去ってしまった歴史を持っている。日本で最も政治的に力を持つ多数派は、天皇 を、憲法にある天皇条項以上に拡大解釈して受け止め、又受け止めさせようとする考え方の人びと である。そういった土壌の中で、日本は唯一憲法を指針として、憲法の天皇条項や不戦条項をその ままの形で実現してゆくことが大切であり、市民が積極的に意識すべき行動であるとしている。…

中略…日本は、ドイツがアウシュヴィッツを超えてきたように、民族差別と略奪そしてナショナリ ズム操作の大罪を心に刻み、原爆を乗り越えて来た人びと、そして現在の沖縄の沈痛を思い遣り、

憲法の下で結集し、未来に向かう学習を始めなければならないだろう」2)と。

これに関しては、安保関連法案が国会を通過した現在では、残念ながらこのヴァイツゼッカー氏 の指摘から大きく逸脱したかのような事態に差し掛かっていると言わねばならず、憂慮すべき事態 と記さねばならない。もう一度日本政府も日本国民も、氏が語った“荒れ野”を思い返し、踏みし めるべきと、声を大にして訴えておきたいと思う。

第3章 「ビルケナウの烏」とアウシュヴィッツ埼玉県北展について

筆者がワルシャワ蜂起 50 年記念式典への参加の目的で、日野市の関係者に同行してポーランド を訪れたのは、1994年7月28日〜8月6日であり、おりしもこの年が戦後50年の節目の年であった。

そしてもう一つの重大な目的としては、アウシュヴィッツを訪れて、国立博物館館長(絶滅収容所

髪の毛を加工した布地(遺品) 義足(遺品)

(14)

子ども服(遺品) 囚人顔写真(遺品)

跡は広大な敷地の博物館として、当時のそのままの形で保存され民間開放されているが、このアウ シュヴィッツ収容所に収容されていた死刑囚の中で数少ない生還者の一人であるスモーレン氏)と の面会を果たすためであった。

その訪問の経過と帰国後の心の経過は、詩集『ビルケナウの烏』14)にまとめ、戦後 50 年記念心 に刻むアウシュヴィッツ埼玉県北展(開催:埼玉県行田市;1995 年 5 月 12 日〜同年 5 月 14 日)に おいて、その内容(写真等)を公開した。同展は筆者がポーランドから帰国後自ら実行委員会を組 織し開催したのものである。日本人の詩人によるアウシュヴィッツに関する詩集はほとんど例がな い。この作品群の中から代表的な詩2編を選び書き記しておきたい。

ビルケナウの烏

       大澤 榮

家畜運搬車が真夜中を選んで到着する わずかな包みを小脇に抱えて

肉体が焼かれる 焦げた屍臭

それを吸い込んだ瞬間から瓦礫が深堀のようにのしかかる 烏は 闇を 瓦礫を

さらに黒煙色に染め上げて

引き込み線の強制労働か死かの選別地帯 ここに人間としての証拠を

すべて抹殺した生殺しの焼却現場があったのか

半世紀ぶりの炎熱火皿

深堀しても水蒸気ひとつ立ちのぼらない 石ころだらけの砂礫の原に

(15)

凍えた魂のバラック 使われなかった偽装の 暖炉の煙突群と

木造バラックの肋骨だけが建ち並び 百八十万の魂は野草の花々に移ろったのか 広大な砂礫の原の引き込み線に

野あざみの群落

鎮魂歌は花になって流れて零れる 血も肉も消え失せた

この地に烏は住めない

烏も住まない熱射の中で魂が噴出するビルケナウ 酷熱のビルケナウ

永遠に守り抜かねばならない 不戦のアピールの発信点 そのままを見て

そのままを伝える 不戦の烏が舞い降りて

平和の灯火を世界に向けて灯し続けて欲しい ビルケナウを立ち去る われわれの背中に 遺品と亡骸が煙突のように折り重なって 今でも胃袋から苦い酸を津波のように 唇へと送り続けているのである

      1994年9月20日

靴(遺品)  かばん(遺品)

(16)

形の亡いあなたたちへ

      大澤 榮

飲まず食わずの不眠不休で ガス室建設の苦役に駆り出されて

そしてみんな水も飲まされずに作らされたガス室から 自らの骨と肉とを削られて

作り上げた窯戸から

寿司詰めで密閉度を高くして効率を高めた 大量屍体生産軍事工場から

屍体焼却場で働いた人びとも 証拠隠滅のために

サイクルが来ると

ガス室へとベルトに載せられ もくもくと立ち上る煙の

屍臭と焦げた頭髪と窒息臭が充満して それだけでも絶命するほどの

濃厚な高速熱処理の中 キャラメル工場のように

処理された魂は囚人番号もろとも廃棄物にさえならずに 灰神楽となって形を抹消されていったのです

囚人番号の人びと

秒読みのように待ち受ける

囚人服(遺品) 眼鏡(遺品)

(17)

絶滅への逆算

それはどう現代に換算すれば思い辿れるものなのか

さようなら お父さん さようなら お母さん 弟たち 妹たち 優しかった姉さん 学校の仲間たち 見慣れた故郷の街角

道草したあの川辺の穏やかな風景 安息日の心尽くしの母の笑顔と団欒 みんな忘れ難い 僕の生まれた 僕を育てた 産湯の縁

形の亡いあなたたちへ

囚人番号が唯一訴え続けている

囚人番号だけが焼かれずに歌い続けている 聞こえませんか

番号の点呼の声に合わせた

音楽隊の指揮者のタクトの涙のさようならが 聞こえませんか

野積みの焼き場へトラック輸送されてゆく その中ででもタクトを振り続けていた 囚人の秒読みの振り子の屍音が

女性専用バラック 男性専用バラック

(18)

真夜中の雨音に起こされて ふと 両手を仰げば灰神楽の驟雨

ぐっしょり濡れた囚人服に番号が浮かんでは消えて 囚人番号の隊列が続くのです

引き込み線から

木造バラックへ そして馬小屋でもない 三段木枠ベッドに真空で透き間さえないほどの 囚人番号が詰め込まれ

用便と睡眠だけは家畜以下に与えられて 囚人番号

わたしの心根は野積みの上に旅をする いつでも深夜の雨音へ旅に出掛けて 隊列の中

どうにもできずに舞い戻る

彫刻師はこのわたし

わたしがわたしに刻み込むほかには何も無い 立ち返って

野草のわたし 灰神楽を浴びながら タクトを振り続ける 女囚たちに

行き場を亡くしたわたしの魂が

重なって盲目の道を捜しあぐねているのです       1994年10月28日

チクロンB(毒ガス) ビルケナウ 収容所の丸穴トイレ

(19)

第4章 詩集『ビルケナウの烏』 解説文より14)

詩集『ビルケナウの烏』に

石川逸子

先年、旧ユーゴの子どもたちが描いた絵を見た。人は、仰向けにあるいは俯伏せに倒れ、殺 されて死んでいた。家は破壊され、炎え、走るトラックも銃撃され、避難しようとする人々が 倒れ、血を流していた。むごたらしい記憶が子どもたちの心に焼き付いていて、他の絵は描け ないのだという。

また、これも先ごろ、日本軍に「慰安婦」にされた韓国人女性Uさんの証言を聞いた。勤め ている工場からの帰り道、警官から呼び止められ、そのまま朝鮮国内の「慰安所」に連行され て日々日本軍人に輪姦され続けた十五歳のUさん。彼女は今も毎晩、日本軍人に追われる悪夢 にうなされ苦しんでいると訴えた。「何とかこの辛さを抜け出したいけれど抜け出せない。死 ぬまでこうしてうなされ続けることになるのでしょうか。」

半世紀以上前になされた余りに非人道的な戦争犯罪ゆえになお一夜の穏やかな眠りさえ得ら れない人がいて、片やそれから半世紀の間にまた一体どれだけの無益な戦争が行われ、あどけ ない幼児たちが、少女たちが、その命をその魂を裂かれていったことだろう。

人は遂に歴史を学ぶことができない存在なのだろうか。いや、そんな筈はない。その様な事 が許されてはならないと、詩集『ビルケナウの烏』で詩人大澤榮は訴えているようだ。

ビルケナウを立ち去る われわれの背中に 遺品と亡骸が煙突のように折り重なって 今でも胃袋から苦い酸を津波のように 唇へと送り続けているのである

―「ビルケナウの烏」部分―

詩集「ビルケナウの烏」表紙 筆者1994年当時

(20)

ナチス・ドイツによって造られた死の収容所、アウシュヴィッツへ、さいごまで子どもたち が描き続けた、さいごまで子どもたちに密かに絵を教え続けたディッカー・ブランディスのい たテレジン収容所へ、同じく子どもたちとともに生きたヤヌシュ・コルチャックのいたトレブ リンカ収容所へ、詩人はめぐり、重い旅を続ける。

消毒するからと真裸にされ、250人ずつガス室に連れ込まれ、「チクロンB」ガスで絶滅させ られたユダヤ人たち。

30 分後に扉は開き、死体から金歯と指輪を取り、穴の中に死体を薪と交互に詰めて焼き、

骨はセメントの床の上で囚人たちの手で重い木槌で粉砕させ、車でビスチュラ河に運び捨て た、と収容助長ヘスは法廷で陳述している。丸い穴だけの便所に3人掛けし、10秒の時間しか 与えられなかった排泄。極度の栄養不足。「一体自分は何なのか?人間の肉でしかない群集、

掘っ立て小屋に押し込まれた群集、毎日その一足のパーセントで死んで腐っていく群衆、の一 小部分なのだ」と奇跡的にアウシュヴィッツから生還したフランクル教授は記している。(『夜 と霧』みすず書房)15)

そのような地を訪ねて、詩人はふと咲く花に目を留める。

死の門からの引込み線沿いに咲く 野あざみの群落の美しさ

この美しさはなんなのだ

―「アウシュヴィッツ・ビルケナウへの鎮魂歌」部分―

あるいは

栗の花はこんなに満開なのに なぜ扉は昇天できないのか

―「アウシュヴィッツの森」部分―

バラックの塀越しに咲く花々 引き込み線沿いに咲く花々

(21)

と。〈なぜヒトは花のように生きられないのか〉と詩人は問うているようだ。

30 年もの長い間、精神医療の治療現場という現代日本の病弊のいわば最前線ともいうべき 仕事にたずさわってきた詩人は、病理の裾野をひろげる現代人の精神世界の荒廃を、アウシュ ヴィッツの殺戮と重ねて見ている。ネット依存のなかで心をむしばまれる子どもたちに向き合 う詩人には、「今の個人情報の津波」の状況が、「大衆操作と大量殺戮を繰り返したナチス・ド イツ」と相似に思えるのであろう。

「子どもたちの中に入り、一緒に溝さらいをするほかはない」と決意し、実践しつづけてき た詩人なればこそ、アウシュヴィッツの惨が、被害者たちの慟哭が、より強く、より身近に心 に迫ってきたに違いない。白樺の木膚に囚人番号が乗り移って見え、降り立った引込み線の枕 木の上に、殺されたものたちの号泣を聞いてしまう詩人。

今春から詩人は、長く身を置いた治療現場から離れ、北海道の大学で、看護師や保健師の卵 たちの教育に携わると聞いた。

かつては有機農業も手がけ、『生きもののうた』17)という環境や反戦を謳った雑誌を編集・

発行してきた大澤さんが、「歴史の井戸を汲む釣瓶の桶」となることを念じつつ、「夜を通して 咲く香草」のように、また、一歩、歩みだされていくことを喜び、新たな仕事からまた新たな 詩群が生まれていくことを期待したい。

*石川逸子(いしかわ いつこ)

1933 年東京に生まれる。お茶の水女子大学卒業後、中学教員としてヒロシマ修学旅行に関わったことか ら、戦争の惨にふれ、1982年よりミニ通信『ヒロシマ・ナガサキを考える』発行。

主な詩集に『狼たち・私たち』飯塚書店・第11回H氏賞受賞、『千鳥が淵へ行きましたか』影書房・第11 回地球賞受賞。主な著書に『〈日本の戦争〉と詩人たち』影書房、『従軍慰安婦にされた少女たち』岩崎ジ ュニア新書。

引用文献

1) 公評1996 4月号 大澤榮 『ヴァイツゼッカー訪日が残したもの(上)』P116-123.

2) 公評1996 5月号 大澤榮 『ヴァイツゼッカー訪日が残したもの(中)』P126-133.

3) 公評1996 6月号 大澤榮 『ヴァイツゼッカー訪日が残したもの(下)』P128-135.

4) 『望郷と海』石原吉郎 筑摩書房 P5-13.

5) 『現代詩文庫26 石原吉郎詩集』思潮社 P10, 53.

6) 『アウシュヴィッツで考えたこと』宮田光雄 みすず書房 P110-111.

7) 『アウシュヴィッツ収容所』ルドルフ・ヘス 片岡啓治訳 講談社学術文庫 P358-376. 8) 『断念の海から』石原吉郎 日本基督教団出版局 P190.

9) 『パウル・ツェラン詩集』思潮社 飯吉光夫訳編 P32. 10) 東京新聞朝刊(1995年7月29日)

11) 東京新聞朝刊(1995年8月8日)

12) 東京新聞朝刊(1995年12月30日)

13) 『ヴァイツゼッカー大統領演説集』永井清彦編訳 岩波書店 P1-28.

14) 『ビルケナウの烏』大澤 榮 北海道文教大学大澤榮研究室(蓮の花のぶんか社)P28-29, 51-54, 60-63.

15) フランクル著作集Ⅰ『夜と霧』霜山徳爾訳 みすず書房 P113.

(22)

16) 毎日新聞朝刊(2015年2月1日)

17) 『生きもののうた』第1集から第9集 生きもののうた文学会(1987年-1994年)

参考文献

1) 『技術と人間』1994年12月号 大澤榮 「50年後のポーランド絶滅収容所」 P97-107.

2) 『変革のための総合誌 情況』1995 年 5 月号(第 6 巻 4 号)  大澤榮 「今なぜアウシュヴィッツなのか」

P151-155.

3) 『歴史の終わりか幕開けか』リヒアルト・フォン・ヴァイツゼッカー 永井清彦訳 岩波書店 4) 『血で書かれた言葉』ピエロ・マルヴェッツイ著 サイマル出版会

写真出典

リヒアルト・フォン・ヴァイツゼッカー写真(2010年2月9日毎日新聞小谷守彦撮影)

アウシュヴィッツ関連写真提供 大澤榮

参照

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