戦後初期民間体育教育研究運動に関する歴史的研究 : 教育科学研究会「身体と教育」部会と「学校体育 研究同志会」を中心に
著者 坂入 明
雑誌名 東京家政大学研究紀要 1 人文社会科学
巻 39
ページ 25‑32
発行年 1999
出版者 東京家政大学
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009010/
戦後初期民間体育教育研究運動に関する歴史的研究
教育科学研究会「身体と教育」部会と「学校体育研究同志会」を中心に
坂入 明
(平成10年9月30日受理)
AHistorical Study on The Movement of imformal physical
Education in the earlier Period of post World War Concerning in the Post of Physical and Education
Sintai to Kyouiku Bukai and the Part of the Team of School Physical Educaition Gakko Taiiku Doushikai 一
Akira SAKAIRI
(Received on September 30,1998)
はじめに
戦後日本の教育改革は非軍事化と民主化の基本路線に 沿って,占領軍であるアメリカの管理や指導・助言に依 拠しながらも,日本側においても改革のための積極的・
主体的な努力が傾注されたこともよく知られている.こ のようにして敗戦を機に形成される戦後民主体育・新体 育,いわゆる「生活体育」教育の思想に対して,1950年 頃を前後して憲法や教育基本法に込められた民主主義や 平和主義を中心とする戦後改革の基本理念の修正ないし,
方向転換(逆コース化)が迫られた.
すなわち,これは戦後間もなく顕在化する米ソ冷戦体 制の下でのアメリカの対日占領政策の転換にその起因を 求める事が出来るのである.また,さらにデューイを中 心とする経験主義教育理論の日本に於ける皮相的受容に 対するアメリカ流プラグマティズム教育批判などを主要 な契機としながら,戦後教育・体育改革の過程で形成さ れた戦後の新しい民主体育・新体育の理念に対して再検 討を促すものであった.このような経過の中で,戦後間 もなく胎動を開始する民間教育研究運動もこうした逆コー スの動きに抗して,全国的な教育研究運動をいち早く繰 り広げていくのである.この時期に展開された民主的な
諸民間教育研究運動は,戦後体育教育の民主化や自由主 義化,科学化等に対してまたその研究運動にも大きな影 響を与えた.このような過程の中で多くの民主的教師や 教育学者などによって推進,検討された新しい戦後体育 の研究,実践運動の成果は今日の体育・スポーツ教育の 問題や課題を考えるうえでわれわれを大いに禅益する事
になると思われる.そこで本稿で戦後の民間体育研究運動の中でも代表的 団体である,すなわち1952年3月に起源を有する,教育 科学研究会「身体と教育」部会と,1955年1月に結成さ れる「学校体育研究同志会」の二っの民間体育研究運動 サークルのそれぞれの発足,成立の過程から,この両団 体が中心的世話役となって活躍し,1963年3月千葉県富 浦で当時の日本の民主的な体育教育の研究と実践運動の ために「民主体育の本質と課題を明らかにしよう」とい う基本テーマのもとに,第1回全国「民間体育研究合同 集会」を開催して戦後の民間体育研究運動の一時期を画 するまでの約十年間程の体育研究実践活動を取り上げ,
それの検討・整理を試みる事によって両者の研究実践運 動の有する今日的意義をもとめようと試みるものである.
教職教養科 体育学第2研究室
1.戦後初期教育改革と体育教育改革
敗戦直後の混乱と空白の中から次第に,戦後の新しい
民主体育及び新体育は模索,形成されて行くのであるが,
坂入 明
その過程で占領軍総指令部(G.H. Q.)や民間情報教育 局(C.1.E.)等の担当官等米国側の果たした役割や影 響力は莫大なものであった.っまり敗戦国である日本は 米国を中心とする連合国軍の占領下におかれ,そこでの 基本政策は総力戦の基に国を挙げて戦争に遭進してきた 軍国主義国家日本の旧体制を先ず非軍事化し,民主化す ることに傾注されたのである。この連合国側の基本政策 は戦後日本の教育や体育の改革に対しても共通に貫かれ たのである.
1946年10月22日総司令部から「日本教育制度二対スル 管理政策」が指令され,戦後初期の日本の教育改革に対 する基本方針が示された.この指令に結果的に沿う形で 文部省は10月6日「終戦二伴ウ体錬科教授要項(目)取 扱二関スル件」を通達したのである.これによって戦時 中,体操・武道・教練を中核とする極めて軍事的色彩の 濃い学校体育科目であった,1946年「国民学校令」に基 づく体錬科の解体作業が着手された。具体的には武道と 教練,さらにはその他の軍事的な教材が取り除かれた.
また指導や教育方法に当っても従来行われていたような 高圧的で軍国主義的指導方法を禁止する旨の考え方を示 したものであり,いわばこの通達は戦後初期の禁止的,
消極的な「墨塗り教科書」的性格を良く表している事を 窺い知ることが出来るのである.しかし,そこには一方 で戦後新たに構想し作られていく新体育・民主体育へ向 かっての幾っかの示唆を感じ取る事も可能である.例え ば戦後体育の特徴であるスポーッ教材の導入や児童中心 的な考え方,指導方法の改善等が示されていた.更にこ れらはこれ以降の新体育形成の過程で他の新しい考え方 の数々を加えながら整理,体系化されて戦後体育の基本 的要素となっていくのである.
1946年3月にはストダート(George D. Stoddard)
を団長とする米国の教育専門家27名からなる「米国教育 使節団」一行が来日する.彼等は民間情報教育局等の予 めの調査・情報に従って四分科会に分かれて日本の教 育,文化,歴史等多岐にわたって調査・研究を行った.
また日本が設置した「米国教育使節団二協力スル日本側 委員会」等とも精力的に協議検討を繰り返し重ねた事も 良く知られた事である.彼等はこの結果を最高指令長官 マッカーサー(Douglas MacArthur)に「平和国家 への道」と題して3月31日報告害を提出した.戦後日本 の教育改革に決定的な影響力をあたえたこの「米国教育 使節団報告書」によって,戦後日本の教育・体育改革の
大きな基本的枠組みが規定されることになる.またそこ には戦後日本の体育教育の理念,制度,内容,方法等全 般に渡る構図が展開されていると見る事が出来る.例え ば斬新な保健・体育・レクレーションを包含する体育教 育の新概念やスポーツ教材の教育性の強調,女子体育の 充実,保健教育の強化,大学体育の創設等の指摘が見ら れる.また戦後学校教育制度の特徴の一つでもある学校 教育の為の体育の「学習指導要領」起草のために教師を 中心とする委員会の設置についても勧告が見られる.そ してこの報告書の発表を待って文部省から「新教育指針」
が出されたのであるが,11月15日にその第三分冊の中で
「体育の改善」が示された.この中で文部省は先の使節 団報告書の基本的勧告を実施に移す際の日本側の具体的 処方にっいて一層細かな実施策を示したものと言える.
この指導要領の作成段階では,1946年6月開催される
「全国体育担当地方事務官会議」を経て,9月20日に設 置された大谷武一を委員長とする体育・保健の両分野の 専門家や全国の国民学校から高等専門学校の教師達55名 から成る「学校体育研究委員会」の果たした役割は決定 的なものと言える.そして,1947年4月から戦後の新学 校制度の6・3制義務教育学校のもとで「学校体育指導要 綱」が「指導者のよるべき基本的指針」として作成され,
参考として示され,戦後の憲法・教育基本法体制の下で 初めて新体育・民主体育による体育教育が発足する事に
成るのである.2.戦後初期体育改革と民間体育研究運動 いままで述べて来たように敗戦後に於ける日本の新た な教育,とりわけ学校教育や体育教育の改革と新たな出 発にっいて詳しく述べてきたが,ここではその後の体育 教育の改革の流れや発展にっいて概略しながら,特に,
民間体育教育研究運動の生起や進展と関わらせながら60
年代初頭までの展開にっいて考察を加えていこう.上記
してきたように戦後最初の「学校体育指導要綱」は,そ
の後体育の学習指導要領として53年に改訂告示「学習指
導要領」(体育科編)として改訂され,その性格を一変
して登場するがそのような歴史的流れを戦後日本の社
会,政治等の動きとの関連で,すなわち日本の戦後史を
世界の戦後史に重ねながら日本の戦後初期の教育や体育
の展開を眺めてみる事にしよう.その際特に戦後の東西
の世界史的冷戦体制顕在化の一っの象徴である1950年6
月25日勃発の朝鮮戦争をめぐるアメリカの対日政策の転
換と日本の教育・体育政策の方向転換の問題(逆コース 化)が焦眉の急となってくる.4月マッカーサーに代わ りその後任リッジウエイは占領下諸法令の再検討の権限 を日本政府に付与し,その為の「政令改正諮問委員会」
が5月9日に設置され,追放解除問題の検討等法令の改 正や行政制度,教育制度等の改変を答申し,講和後の法 規や諸制度の改廃に重要な役割を果たした.特に戦後初 期に産み出された憲法・教育基本法体制に対する全面的 な批判と改変構想が示されることに成る. 51年9月8 日日米単独講和条約(サンフランシスコ対日平和条約)
と日米安全保障条約が調印された.また同時に日本の独 占資本の復活問題,さらに 53年1月31日吉田首相の
「警察予備隊を防衛隊に」との発言,また冷戦体制下の 日米関係,とり分け防衛問題を核とする池田・ロバート ソン会談等による政策転換は教育政策の上にも大きな影 を落として行くことになるのである.
一方教育関係に限ってみても, 49年7月19日C.1.E.
顧問W.G.イールズによる新潟大学における共産主義教 授排除講演と教員の「レットパージ」の全国的な展開,
そして 50年8月には第二次訪日アメリカ教育使節団が 来日し,9月22日第二次「訪日アメリカ教育使節団報告 書」を提出した.この報告書のトーンは,東ヨーロッパ や東アジアでの共産主義諸国の成立や日本における労働 運動や教育界での教職員組合の結成やその影響力等を背 景にして,第一次のそれが教育の非軍事化と括弧付なが らも民主的で自由主義的原則を有していたものと比較す ると,第二次のものは人的資源の開発と教育投資論的で なお且っ反共的教育を色濃く勧告するものへとはっきり と方向転換をしている事が理解できるのである.さらに
55年改訂の高等学校学習指導要領には「試案」の文字 が消え 58年10月1日「官報告示」への布石が敷かれる 事に成るのである.続いて 52年6月6日には文部大臣 の私的諮問機関として中央教育審議会が設置され,また,
54年2月15日教育二法,すなわち「義務教育諸学校にお ける政治的中立の確保に関する臨時措置法」,「教育公務 員特例法」が国会で強行採決され,教員に対して直接的 締め付け策が実施され,やがて次に任命制教委の下で教 師に対する勤務評定が実施される事に成る.また反動的
「道徳教育」の一層の強化策等も展開される中で全国の ほとんどの教職員が加盟していた日教組等は時の政府,
文部省。教育委員会によって強行される反動的教育策に 対してそうした教育の強行を阻止しようとして熾烈な実
力衝突を繰り返すことになるのである.以上述べてきた ように,講和後の教育反改革の動向,特に戦後初期の教 育改革によって打ち出された「憲法・教育基本法体制」
の教育への批判が集中した.と同時にこの事は復活しっ つある独占資本や財界の教育要求や教育行政の中央集権 化と教員の国家統制また戦前の軍国主義教育への方向性 の動向等が再び戦後の学校や教育界をひたひたと襲い始 める事を意味する事に成るのであった.
日本の民間教育運動は,戦前にも見られたように次第 に帝国憲法・国家主義的教育の国家動向が強化される過 程で社会的,政治的矛盾が激化されその矛盾を隠蔽した りさらにその為に権力や政治的勢力が教育や文化などに 対して権力統制を強化して行く時に,教育や本来子ども の為の教育が次第に時の権力によって歪められ,かえっ て子どもたちの人間的成長や発達が阻害された事は日本 の教育の歴史の諸事実が示す通りである.このように国 家や資本の政治的手段として学校や教育が虐げられる時,
本来の子どもの成長,発達を目指す真の国民教育を求め て,地道な下からその改革を推進しようとする自主的,
民主的な運動が生起され,次第に一大国民教育運動とし て展開されるように成るのである.この様な父母や民主 的教師や進歩的学者・研究者等によって引き起こされ推 進された,国民の側に立っ教育の追求の為に結集された 民間の自主的教育の研究活動の事をわれわれは国民教育 研究運動と呼ぶ事が出来るのである.上述したような19 50年代初頭から見られる日米両国の第二次世界大戦後の 世界の米ソを中心とする東西の世界的冷戦体制の枠組み の後の一連の政策的展開は,米国の対日占領政策と戦後 日本の新国家体制変更を余儀なくした.特にこの点を教 育の観点からいえば戦後初期に確立した戦後の新しく,
民主的な「憲法・教育基本法体制」や米国の占領後の初 期対日教育政策に修正を加えざるを得なかった.っまり この事,逆コース化は「教育基本法体制の空洞化」であ り,戦前の国家主義的「天皇制教育勅語体制」への後戻 りする事を意味していたのである.
こうした状況下に,戦後民間教育運動は先ず何よりも,
日本の子どもの教育を官制の「公」の国家権力や行政当 局に子どもの教育や発達の問題を托さずに,彼等のそれ に直接責任を負う父母や教師達等の手によって科学的に 究明し,発達を保障していくための教育実践運動でなけ れば成らないという事から出発したのである.
多くの民間体育サークルの発足の時期が1955年以降で
坂入 明
あり, 46年に発足の山形県「西置賜体育指導者連盟」
や「日本教育舞踊研究会」は体育関係の民間研究団体と しては例外的に戦後早期に結成されたものという事が出 来る.特に機関誌「体文」によると,敗戦直後1945年11 月「終戦二伴ウ体錬科ノ取扱イニ関スル件」の通達があ り「どうすればよいのかというとまどいに包まれた体育 界のなかに,何とかして,私たちの手でこの混乱した糸 をときほぐそうと,実質的な同好の士が集って連盟をっ くった.会員20〜30名のグループである.時に21年の 春であった.」と.このように敗戦後間もない時期に,
戦時中の軍国主義思想にもとつく体錬科的体育から先に 述べたように墨塗り的な戦後の新体育への180度の転換 はほとんどの教師達に混乱と戻惑いを与えるものであっ た.そこで当時の教師達の多くは「私たちの手で」とい う精神でサークルや同好,同志の連盟などを組織し,各 地の研究会,講習会へと出かけたり,中央から講師を呼 んだりしながら自分たち自らの集まりや会を組織し,新 体育実施の為の検討努力を積み重ねた事が窺われるので ある.こうして組織された研究サークルもその活動を経 過する過程で,4〜5年の間は教育委員会等とも授業研 究やカリキュラム・指導法研究など実践研究に多くの成 果を上げた時期もあった.
ところが1950年代に入り, 53年〜 56年頃に遅れ馳 せながらも戦後の体育界にも先に述べた米ソ冷戦体制に 起因する米国の対日占領政策の転換(逆コース現象)と アメリカのデューイを模した経験主義教育批判が戦後日 本の新体育・民主体育に対して再改革を迫る事に成るの である.この点にっいて先の機関誌「体文」は「社会の 波は,容しゃなく私たちをゆるがした.教育が教育だけ にとじこもり,体育が体育だけにとじこもっておれなく なった.世界の情勢を語り,イデオロギーを問題にし,
人間像が討議され,体育の目標がまた根本に返って論じ られた.……体育座談会を各地区毎に開き,会員の思い のままの放言,討論,座談会をくりかえしたのである.
私たちは今こそ実践と,体育の目的内容等に関する思索 と授業技術の面での研究を深めるべきだと考えざるをえ
なかった.」と語っている.こうしたこの連盟の思索や地区活動に重点を置く組織 改革努力の過程を経るとともに,全国的な研究会や教育 科学研究会,グループ学習研究会等に参加しB型学習や
「考える体育」に見られるような新しい体育論,体育授 業の実践研究を追求していく事に成る.しかし時は60年
安保を目前に控え所謂教育反動化真っ最中であり教育闘 争下先の機関誌が当時の民間体育研究にっいて述べてい るように,「霧がかかっていたのは学校の庭にだけでは なかったようだ.時勢は研究校を困難にした事も考えて みたい.勤務評定にからんだ闘争,官制研究会への抵抗 等などの明暗がカクテルされた研究校の歩みでもあった のだ」という表現に当時の状況が端的に示されている.
また自主的,民主的立場から,このような教育委員会等 の研究指導体制下に「西置賜体育指導者連盟」は指導要 領完全実施や集団行動の押し付け等の困難や苦悩のなか で当時の会長坂井は「連盟はいかにあるべきか」と各会 員に問い掛けながら,連盟発足当初の精神での再発足を 期して「今年度から新しい組織で進む連盟に私は次のよ うに感じ希望したいのです.……今後の連盟に望みたい 事は,『連盟創造』と考えています.今後は同志の集い
としての会合,活動は何らの制約なしに万能になる.大 いに研修が出来るわけだ.『研修』ということばは自己 の発意で自由な立場で自由な考えから生まれる.拘束力 のないところに人間の創造は可能である.」と連盟の有 るべき姿や理想を目指す立場を表明している.この様な 時代状況のなかで,「からだづくりの認識を深める体育 指導」のあり方に関する体育指導論を展開し纒め上げた
事は特記されて良い.3.教育科学研究会「身体と教育」部会の活動 前節で述べたように戦後の一番早い時期, 46年に発足
したのは山形県の西置賜体育指導者連盟であった.戦後 日本の民間体育運動の起こりやその発生に関してややま とまった唯一の先行研究である丹下保夫の「体育研究民 間サークルの成果と今後の問題」によれば「民間サーク ルの発生は,昭和21年という時期と昭和30年以降という 二時期にわけられる.30年以降は,30〜32年の時期と3 6年という時期に分けられる.歴史的にみるならば,本 格的に民間サークルが発生したのは30年以後ということ
に成るのかもしれない.」と述べている.
ここでは教育科学研究会「身体と教育」部会における,
1952年から 60年代初期の研究運動を,戦後「民主体育」
論成立の視点から取り上げてみよう.
すなわち,戦後教育科学研究会が再建されるのは1952
年3月であるが,この前年の11月には雑誌「教育」の復
刻第1号が出版され,城戸幡太郎をはじめとする12人に
よる「教育科学研究会綱領草案」が掲載され,翌年に綱
領草案は若干修正されて正式決定されるのである.また,
民主教育を守り育てようと考える全国の多くの教師はこ の年の5月に「教え子を再び戦場に送るな」と決議し,
生活と権利を守り,自主的教育の確立を組合闘争の旗印 とした日本教育職員組合に賛同し結集し,1951年11月10
〜12日には栃木県日光市で第1回全国教育研究大会を 開催するのである.こうした状況の中で教科研は 52年
3月教育科学研究全国連絡会議再建大会で戦後再発足し,
毎年夏に全国的な研究集会や研究大会を開いて会員やサー クルの課題を研究討議しながらその研究運動を推進して きている.特にその機関誌「教育」は教科研の様々な教 育や研究実践活動や運動の展開,発展を理解する上で中 心に成る重要な資料の一っといってよい.
またこの時期には体育の分科会も既に設置されていた が, 58年第3回教育科学研究会全国研究集会で「保健 体育分科会」という性格を色濃く残してはいるが,現在 の「身体と教育」という名称に改称され, 61年1月に は今日の「身体と教育」部会名が発足し現在に至ってい る.っまり今年はこの体育研究民間サークルの性格や特 色を良く特徴的に示す名称が明示されて40年が過ぎたの である.このような名称変更や組織的変遷の過程を経過 するなかで,常に体育の中心課題をからだづくりに置き,
からだづくりや,からだづくりの認識を育て,主体的に からだづくりに立ち向かっていける権利意識を持った子 どもの形成やその教育に主眼をおいてきたのである.そ してまた,体育教育にあたっては「体育文化」の教材と しての価値追求の問題を取りあげてきた点に教科研「身 体と教育」部会の特徴的な考え方が示されているという
事ができる.それでは「教科研『身体と教育』部会十年の歩み」に 従って1956年までを前史として考えて先ず,教科研の全 国研究集会についてや機関誌「教育」等を中心としてそ の特徴的な動向を見ていくことにしよう.1952年3月27
〜28日熱海で「平和と独立のための具体的教育実践」
をテーマとしてひとっひとっの教材を子ども達のものに していく実践と研究を深める研究活動方針のもとに教科 の研究に集団で取り組んだ最初の集会とも言うべき,第 1回教育科学研究全国連絡協議会が開かれ,和歌山県か ら佐々木賢太郎が出席している事が理解できる.
っぎに1953年3月に福島県飯坂で第2回教科研全国連 絡協議会が開催され山形県の小関太郎が体育にっいて研 究発表を行った事が記されている.
1954年6月には機関誌「教育」6月号No.33で「日本の 社会と国民の保健体育」というテーマで,初めて体育関 係の特集が組まれた.そこには小関太郎「健康記録をか く少年たち」,佐々木賢太郎「肩をくみあう子どもたち」
などが特集されている.体育教育の実践記録についての 記録が展開されていて当時の体育教育や子どもたちの実 態や様子が窺えて非常に興味深い.
1955年8月兵庫県尼崎温泉で第4回教科研全国連絡協 議会がひらかれ,佐々木賢太郎が「体育をとおしての生 活指導」を研究発表した.この年10月「教育」No.51は特 集で城丸章夫「体育の正しいあり方を考えるために」,
中森孜朗「実践記録・体育教師のなやみ」を取り上げた.
また1956年1月には佐々木賢太郎の戦後初期における名 著「体育の子」が出版された.
以上述べてきたように戦後初期の教育科学研究会の多 くの研究実践活動の中に,戦前の日本の体育を反省し,
批判しまた戦争責任に対しても厳しく責を問いながら,
日本の子どもの現実と生活を真摯に子どもに見っめさせ る取り組みの中から,子どもを守り子どもの自主性を育 て,子どもの思考力を高めていく戦後の「新体育」の多 くの実践の萌芽を日本の各地での研究実践活動のなかに 明確に認める事が出来るのである.
1956年8月東京で教科研全国研究集会が開かれ,全国 的な集団的な研究集会の実質的な始まりとなる.分科会 では体育教育を取り巻く問題状況を話し合い検討したり,
戦後体育を日本の体育史的観点から振り返り特に体育の 民主化や生活化そして学習指導,評価等の観点から体育 教育にっいて検討討議した.この集会の結果については
「教育」No.76城丸章夫「体育教育の本質」の付録に再録 されている通りである.この点にっいては 56年度の研 究活動とも関わっているが,特に体育におけるからだづ くりの問題やからだや生活の認識の問題,民主体育にお ける集団行動等の問題が提起され検討された.こうして 体育科や体育教育における教科の役割や意味が問われる ことになるのである.また 56年には先の「体育の子」
に引き続いて体育と作文を体育教育の実践に上手に取り 入れた亀村五郎の「考える体育」が出版され体育の学習 指導の面に大いに影響を及ぼす事になった.またこの年 の体育の実践記録として,中森孜朗の「運動における生 徒の自主参加を目指して」や佐々木賢太郎の「鉛筆をに ぎる運動会」がだされ,続いて1957年には佐々木賢太郎
「働く子どもたち」,「健康なからだを育てるために」等
坂入 明
が出版され実践的な前進が見られるようになるのである.
1957年8月第2回教科研全国研究集会でそれまでの実 践研究の過程で得たところから,また学校教育に対する 親や国民のからだへの要求や期待は大きく,この点を考 え体育科の基本的役割の中に「からだ作り」を位置づけ る事を再確認する事に成るのである.然しこの事は一律 に子どもたちの体を鍛えるという事だけでは十分ではな く,一方でからだの悲惨さに気づきそれに立ち向かって いける実践力を身にっける事が大切である.またこの様 な体作りの側面と同時に体育教育として生産や労働のた め,身体的活動の技術・知識や体育文化をきちんと身に っける事との両面を教科の中で統一させて子どもに獲得 させるものでなければならないと教科研ではからだ作り と同時に体育文化の両面を目指していた事が伺えるので ある.また当時のいわゆる体操領域軽視の中で徒手体操 をからだ認識の大切な教材として再評価したり,秩序運 動として整列や行進等を戦前の命令,服従的なものとは 異なって,主体的な秩序観を身にっけた子どもを育てる 指導を,戦後体育の中で置き忘れられた領域や教材を再 吟味,再評価し戦後新体育の教科としての役割を明確に したところに,先の「からだづくり」と共に教科研の体 育教育論の特徴が見られるのである.
1958年6月雑誌「教育」No.88は特集・体育と人間形成 を掲載する.中身は城丸章夫「体育と道徳教育」,木村 吉次・正木健雄・中森孜朗の共同研究「生活体育を検討 する」,小倉学「健康教育への提案」と実践記録として 小関太郎「体文によって十年」,佐々木賢太郎「身体の ための体育教育」,塚田実「マット運動を指導して」,亀 村五郎「運動会の作文」等が取り上げられている.城丸 論文は当時のスポーツ教育の立身出世主義的性格批判や 体育と道徳教育と言う観点から体育実践における認識を ルールや技術,自分と仲間のからだ,仲間との人間関係 の認識の三っの認識に整理し,体育における道徳の指導 は子どものからだへの願いを尊重し,お互いのからだや 生活を認め合い,そうした中で進んで体育文化を自主的 自発的に獲得する事にあると述べている.小倉論文では 生命尊重や国民の健康に対する社会科学的認識から学習 内容が考えられている.さらに共同研究「生活体育を検 討する」では戦後体育の中で追求された一定の到達点と も見ることもできるのであり,既に,1953年「学習指導 要領」体育科編の中心思想として考えられてきた「体育 の生活化」概念に対して正面から批判を挑んだものであ
る.っまり戦後のそれは体育を生活の中へ,仲良く楽し く上手に持ち込み組織化する事であった.しかし当時の 多くの子どもたちの状況は体を支える米がないと言った ような状態も多く見られたのである.そのような農村の 悲惨な子どもたちのからだを歪めている生活を見っめ書 かせる方法を取りいれて,体育と生活の双方を結び付け る事によっていままでの体育教師が捉えきれなかった事 柄に迫っていけるような,戦前北方の東北の教師達の生 活綴方の伝統に学んだ教育実践と言えよう.この点にっ いて先の東京部会の「十年の歩み」ではこのようにして,
一人一人のからだ作りに立ち向かえるような,「日本の 生活に根ざした体育の実践を位置づけ,体育と生活との かかわりを運動生活の次元でとらえて,遊びを強調して いた当時の主流の考え方に対して,もっと深く,体作り の次元で,しかも,生活の基底である生産・労働と結び っけて考える」と述べて教育と労働との結合の問題にっ いて一定の見解を示したところに教科研の特徴を見出す
事が出来るのである.1958年8月の第3回教科研全国研究集会高尾山大会か らは分科会の名称が先に記したように「身体と教育」と 言う現在の名前に変更に成り,この集会では認識の問題 を中心に取り上げ,子どもを全体として補らえ,頭とか らだの統一を図っていくためにはどうしても認識の問題 を避けて通る事が出来ない事が分かった.そこで体育で はまず技術の認識やルールの認識を取り上げ,からだの 認識へと発展させ生命尊重に対する認識から,仲間や集 団の認識へと発展させ,生活と認識へと関連させながら 展開する,認識の発展の筋道を辿りながら体作りへの意 欲を掘り起こしていくものであると言う仮説を考えた.
1959年8月第4回教科研全国研究集会は勤評闘争の嵐 の中で,第3回集会の成果を更に発展させ主体的にから だ作りに立ち向かって行く子どもを育てる手だてを明ら
かにしようとした.体育科の授業は現象としては技術の習得場面が,技術
の蹟きは学習意欲を低下させ主体的な学習の大きな壁と
なっている.技術の中にある法則性の認識を深あ主体的
にからだ作りに立ち向かう子どもを育てる後の系統性研
究への萌芽が示されている.この5月は「教育」100号
が出され「教科研の進路を考える」座談会「『教育』こ
れまでとこれから」を掲載し,小倉学は「日本の青少年
の身体発達」を書き,戦争の影響がわずかながら上向き
昭和31年頃に戦前の値に成って都市や農村の栄養の増加
や低所得層の子どもの体位の低下問題について述べた.
1960年は安保闘争の年であり国民的な闘争に参加する 中で,国民の要求に応える国民体育を考え出して行く事 に直面せざるを得なかった.またオリンピックの開催に 向けて鍛練主義的傾向と国民のスポーッをする権利とオ リンピック主義の対立,社会的問題として国民のレクリ エーション問題など体育を取り巻く情勢の分析整理が必 要であり,身体についての社会問題の調査研究が必要で ある事を確認する.国民大衆の体育要求を「身体的な権 利意識を持った子どもを作る」事と考え,「私たちが権 利一人間として,スポーツをする権利,レクリエーシ ョンをする権利,体を守り育てる権利一の意識を子ど もたちに育てていこうと自覚的に捉え始めたのは,この ように,安保闘争の経験をもとにしてでした.」と「十 年の歩み」は述べている.
1961年7月「身体と体育」部会の発足,5月の「教育」
で「教育実践と子どものからだ」として,小倉学「子ど ものからだ」,正木健雄「体育科の教材研究」や「学校生 活と子どもの健康」と題して養護教諭の座談会がもたれ,
また体育の実践記録の特集が組まれた.正木論文や特集 は部会の初めての成果をまとめたものとして労働条件を からだに従属させていける身体的な権利を意識できる体 を作り上げることを述べた.1961年8月の第6回教科研 研究集会は教材各個の分析から進んだ教材の系統性の問 題を中心に検討した.そして体育科の教材を総称する言 葉として「体育文化」という概念を使い,体作りの手段 であるとともにそれ自体の面白さを追求するという二重 の性格を持っことを示した.このように教材各個の分析 から進んで教材の関連性や発展性つまり体育教材の系統 性と言う角度からの研究に取り掛かった.
1962年8月には新しい組織個人加盟の組織のもとに 第1回教科研全国大会が開催された.この集会は養護教 諭,保母の参加が多くいままでの保体の問題が体育分散 会と保健分散会とに分かれ独自に問題を追求するように なった.体育教育は「将来の生産労働と生活向上のため に体育文化(体操・スポーツ・ダンスなど)の教授学習 により,多面的に発達した身体を形成し,重要な運動能 力を発達させ,かっ身体と体育文化にっいての権利意識 と連帯感とを育てるものである.このためには,順序を 追って運動能力の習熟をはかり,正しい運動技術や基礎 的なルールを教授・学習し,体育文化の面白さをわから せること,さらにこれらの過程において,身体の認識・
技術の認識・仲間の認識を深あつつ,身体形成の意欲,
目的意識を育て,身体形成の科学,技術,思想を学ばせ る事が必要である.」と成文化した.そして保健分散会 では小倉学が「保健学習五領域試案」を提案した.
4.学校体育研究同志会の活動
1955年学校体育研究同志会は, 48年結成されたコア・
カリキュラム連盟C53年日本生活教育連盟と改称)に参 加した丹下保夫と若い教師達が世田谷の和光学園に集ま
って7人で発足した.戦後の新体育・民主体育を目指し,
「生活体育論」から「中間項」理論を経て「運動文化論」
へと理論展開を示しながら,今日の「国民運動文化論」
へと自分たちの理論を発展,進化させ今日に至っている.
当時1953年小学校学習指導要領・体育科編を理論的到達 点とする立場をとったがその後修正の立場をとることに なった.体育におけるねらいを子どもたちの喜びや運動 経験を大切にしながら,仲間と運動技術の獲得形成の教 育過程を重視する運動文化論に基づく「運動文化とその 主体者形成」をその教育目的とするものであった.
それでは大略上記したような会の性格や成立発展を辿 る「学校体育研究同志会」にっいて当時の社会的,歴史 的教育状況やその背景とともに創設者である丹下保夫や このサークル誕生やその後の展開等にっいて眺めていこ
う.
丹下保夫は1916年11月,茨城県東茨城郡に生まれ,戦 前茨城師範を卒業し短期兵役後水戸市内の小学校に2年 在職し東京高等師範に進学, 42年卒業後東京文理科大 学教育学部に入学し在学中に終戦を経て 46年卒業と同 時に東京女子高等師範学校に勤務し 56年5月東京教育 大学体育学部に転じた.この間敗戦を経験し,戦中の八 紘一宇の教育環境の中でのかつての自分の経験が「ガタ ガタと音をたてて崩れ落ちる」のを経験し自己批判をし た体育界に在って希な入物の一人と言える.戦後は憲法・
教育基本法や米国使節団報告書等の戦後新教育や民主教
育に触れ,「戦後の体育は民主主義の人間尊重,人権尊
重を基本とする教育原理によっているから,生徒の興味
欲求を尊重する.」との叙述や遺稿となった博士論文「戦
後民主体育思想の変遷過程の研究」からもその点を理解
することが出来よう.しかし戦前から戦後体育の転換は
先に記したように冷戦体制の下での逆コース化さらに教
育界内部からも新教育批判の挟撃を受ける事になり,戦
後における丹下の教育現場に基礎を置く集団的性格を有
坂入 明