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転 換 期 の 米 価 ・ 食 管 制

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(1)

転換期の米価・食管制

( 上 )

上 周

ノーに 一はじめに

二二年連続の米価据置きと減反政策

付昭和四四年度の米価決定同昭和四五年度の米価決定︿以上本号﹀

同減反政策に対する農民の反応ならびにその結果三昭和四六年度米価・食管制問題の前哨戦

四米過剰問題の意味するものとその背景

五おわりに││日本農業と農民の将来lll

l ま じ

め 日本農業は大きく変貌した︒簡単にみても次の通りである︒川第一次産業の就業人口は︑別表のように昭和一五年 には四四%であったが︑三五年には三二・六

M m ︑うち農業は三

OM

へ︑四三年にはニニ・九労︑うち農業は二

0

・五

M m へ減少し︑イタリア(一九六七年で二三・六%)︑フランス(一九六二年で二・六銘)より先進的になった︒ただしアメ

0

リカ(一九六七年で五・三

M m )

︑イギリス(一九六六年で三・一%)︑西独(一九六七年で一

OM

﹀にくらべれば︑まだ後進型m

転換期の米価・食管制

(2)

転換期の米価・食管制

であ

る︒

昭和一五年

二 五

O四 二回三

日本

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業構

造の

変化

第 一 次 産 業 第 二 次 産 業 四 四

% ニ 六

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(一

二七

三万

人)

川農家数は︑昭和三五年の五九五万戸から四三年の五三五戸(四二年より六万八千戸減﹀へと約六

O

万戸減少した︒

に約

三︑

同農家人口は︑総人口が毎年一%増加しているにもかかわらず︑逆に毎年八

O

万人ずつ減少している︒昭和二五年

OO

万人(総人口の四六・二一急であったのが︑四一年には二︑六人

O

万人(同二八・九勿﹀と︑この一五年

聞に実に約一千万人減少した︒

凶兼業農家は昭和三五年に六九

M m であったが︑四三年には入

O M

(

農業が主である第一種兼業一三・二勉︑一六六万六千

%︑行方不明一%となっている︒ 戸)となり︑出稼ぎは約一八

O

万人におよんでいる︒この出稼ぎ農民のうち病気︑負傷が一

OM

︑賃銀不払が一

O

同また農業就業者の老齢化︑女性化がいちじるしい︒昭和三五年に五

O

歳以上は三五労であったのが︑最近では四

OM

となり︑三

O

歳以下は二五%であったのが二二%となった︒このうち男性は四割強︑女性は六割弱である︒

減している︒ 川昭和四二年の中卒者一二七万人のうち︑農業へ進んだ者はわずか六万人であり︑二一五年の二六万人にくらべて激

(3)

川農地面積は昭和三五年に六

O

七万一千ヘクタール(国土総面積の一六・四Mm)であったが︑回二年には五九三一万入

千へグタl

ル(

二ハ

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%)

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少︑

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に三

七︑

八年頃から農地転用が目立ち︑農地価格も水田一

0

アー

ル当

り一

︒万円から二

O

万円へと高騰してきた︒

川農産物輸入が増加している︒昭和四四年十月︑グレープフルーツ(四六年までに自由化)その他二八品目の自由化

が閣議で決定され︑増加しつつある輸入総額のなかで農産物輸入の占める割合は︑一一一七

i

四一年では年率一八%増と

いう急テンポであり︑四四年は前年より一二形増の二六億九五

OO

万ドルであった︒こうして現在わが国の農産物輸

入の増加は目ざましく︑

FAO

の資料によれば︑四三年ではイギリス︑アメリカ︑国ドイツに次いで世界第四位の輸

入国

であ

る︒

川農業の機械化も徐々に進んでちり︑動カ耕運機は昭和三

O

年には三

M

mであったのが︑一二五年には八街︑四二年に

は三

O

七万九千台と二戸に一台の割合で導入され︑中小型乗用トラクターも四二年には六万台︑動力噴霧機や撤粉機

などの防除機械は一六三万台︑全農家の三

OM

に導

入さ

れた

同最後に︑国民総生産のなかの農業生産は昭和三五年の九・二%から四二年には七・二%へと減少した︒

農家収入の実情を政府統計でみても︑全国平均水田一ヘクタール(約一町歩)当りの収量一は四四

00

キロ

(二

Q石

弱︑

約七

三俵

)︑

だか

ら︑

一俵

約八

0 C

C

円の生産者米価で全部販売したところで約五八万円︑これから肥料︑農薬︑

農機具などの生産費を差引くと︑二

1

囚人の家族労働から得る収入は何と年間三三万円(月三万円弱で二

1

四人が生

活しなくてはならない)ということになる︒もちろん︑こんなことでは暮してゆけるわけはないから︑農業外収入に

濁ることになるが︑それでも︑農家の年間収入は全国平均約一

OO

万円なのである︒

し か

一ヘクタール以上の農

転換期の米価・食管制

四五

(4)

転換

期の

米価

・食

管制

四六

家は全農家戸数の三

OM

に過

ぎな

い︒

こうした変化のなかで米の作付制限︑米価の据置き︑兼業の増大︑出穂ざの常態化︑零細経営の切捨てと大経営育

成の強化︑過疎等々の一示すように︑日本の農業と農民の将来は暗い︒政府は﹁総合農政﹂を口にしているが︑米作を

転換させ︑しかも休耕でもよい︑としている︒転換にしても何に転換するのかも明示されず︑田園を荒れたままに放

置することに金を出す︒これがどうして﹁総合農政﹂なのであろうか︒

不思議なことに

li

というよりは当然にもというべきか││︑このような日本農業と農民にとっての暗い現実に対

して︑その原因を正しく論評した主張なり見解が︑卒直にジャーナリズムの表面に登場したととはほとすどない︒逆

)

﹁農業への保護過剰﹂とか︑﹁食管赤字は税金の無駄づかい﹂とか︑﹁米価割品論﹂や﹁米価凍結論﹂とか︑さ

らには﹁過剰米宣伝﹂と﹁食管制廃止論﹂などが︑もっともらしい体裁のもとで横行している︒テレビの解説など︑

巧妙

に︑

かつ露骨に政府の代弁をしているのであって︑あまりのことに唖然とすることがしばしばである︒

ベ六

O

年安保﹂の後︑帰郷運動の集会があったことを思い出す︒

﹁戸なさ声﹂からの孤立︑たたかいの挫折を経験した学生諸君が︑﹁安保の農村版日基本法農政﹂のため﹁まさに

荒れなんとすしる田闘に帰って︑農民とひざをまじえて語りあおうとした運動の集会である︒

学生は散っていった︒それからどうなったかを私は知らない︒﹁安保なみの騒ぎになると思った﹂(故坂田英一氏日

元農相の言葉)基本法は︑翌年六月すんなり成立した︒

そし

てい

ま︑

回国は﹁荒れなんとす﹂ところではない︒荒れている︒荒らすことに補助金が支出されている︒転作

の奨励なら︑桑について︑麦について︑これまでなされたことがあった︒だがいまは︑休作︑潰廃をもふくめた減反

(5)

が奨励されているのである︒いたましい︒やりされぬ思いがする︒戦前の減反案は軍部の一喝でつぶれた︒いま減反

を︑農協も協力し︑推進しているJ

右は﹃日本農業年報﹄第一九集(昭和四五年九月﹀﹃農崖物過剰

il

国独資体制を支えるもの

! l l

﹄の﹁はしがき﹂

での阪本楠彦氏のことばである︒連日のマスコミによる過剰米宣伝と米作農民への過保護宣伝がなされ︑高米価と︑

食管赤字イコール税金無駄づかい論︑をきかされるたびに︑なぜ真の農民的︑労働者的観点︑

そ れ ゆ え 人 間 的 観 点

から︑この米価問題が取り扱われないのか︑とつくづくいや気を覚えるこのごろ︑右の発言が﹃日本農業年報﹄の立

場上当然であるとしても︑﹁一服の清涼剤﹂と感じられた人は少なくないであろう︒

日本農業の荒廃への方向転換を法的に確定したものは︑昭和三六年六月二五日に制定・施行された﹁農業基本法﹂

であった︒この農基法は︑﹁農工問所得格差の是正﹂を掲げて笠場したが︑﹁聞いて極楽︑見て地獄﹂と一部からい

﹁羊頭狗肉﹂のそしりを免れないものであった︒この批判が正しかったことは︑農基法実施以降︑農

業所得の農家所得に占めるウェイトが逐年低

LU

︑出稼ぎ︑兼業の増大︑蒸発亭主の嘆き︑三ちゃんから二ちゃん農 われたように︑

業への転落など︑農民にとってほとんどプラスになる内容をもたらさなかったことからも明らかである︒

( 1 )

農林省統計調査部が発表した四四年度農家経済調査報告(この調査は︑同省が全国の農家から地域別︑階層別に抽出した

約一万一戸について︑家計簿をつけてもらって︑毎年調べているもの﹀は︑農家の家計費がますますふくらみ︑農業収入は頭打ちとなり︑足りない分は兼業収入で辛うじて補われており︑しかも︑経営規模が大きくて︑専業の度合いの高い︑いわば

﹁曲

民家

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今回の調査結果によると︑農外所得を含めと四四年度の農家所得は︑

一戸

平均

一二

五万

円で

︑四

三年

度よ

り一

一・

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転換期の米価・食管制

(6)

転換期の米価・食管制

えた︒しかし︑このうち農業による所得は五二万九三

OO

円で︑前年度より0・四鰐しかふえていない︒農家一所得増加に占

める農業所得増加の割合(増加寄与率)は四三年度は一六%だったのに︑四四年度はわずか二%︑実に九八%が農外所得の

増加によるものだった︒農家所得全体に占める農業所得の割合を﹁農業依存度しというが︑これは四二年度の四九@五%か

ら次第に下がって︑四百年度は四二・コ一句となっている︒

農業依存度はもちろん経付規模によって述︑九四四年度の場合は︑

0

・ 一

10

Oヘクタール以上の階胞の八0・七%まで大さく開いている︒畏業の生産性は規模の小さいほど低く︑農業労働一一二時間当 りの生産額は︑0

・ 一

0・二一ヘクタール階層の場合一一一一一八円と︑二ヘクタール以上の階層の五一・五対に過ざない︒と

ころが︑この零細な﹁農家らしくない農家﹂の方が︑農外所得のわかげで︑家族一人当りの家計費は二四万五二

00

円と最

高で︑以下︑経営規模の大きくなるほど一人当り家計費が減ヮて︑一・五二・O

00

川が最低

地域別の農業依存度とエンゲル係数

(農業依存度=農業所得/農家所得、

エンゲル係数口飲食費/家計費、いずれ も単位は%。地域名のうち東山は長野、

山梨両県。カッコ内は40年度〉

農 業 ヱシゲル

依存度 係 数

75.5(80.0)  30.6(358) 54.7(59.5)  32.7(39.6)  39.1(47.5)  29.8(35.0)  46.1(51.8)  30.5(35.9)  41.7(44.7)  30.6(34.2)  39.5(45.4)  29.4(34.6)  34.7(40.4)  28.1(33.4)  28.0(32.7)  28.4(33.6)  38.8(43.2)  31.1(36.2)  31.8(36.1)  28.1(34.4)  44.3(46.2)  28.9(35.8)  47.0(55.6)  31.7(37.1)  49.1(51.9)  34.3(39.4)  42.3(48.0)  30.2(35.8)  北 海 道

東 北 北 陸 北 関 東 南 関 東 東 山 東 海 近 畿 山 陰 山 陽 四 国 北 九 州 南 九 州 全 国

生活水準の高さをはかる尺皮として︑家

計費に占める飲食費の割合を示す﹁エンゲ

ル係数﹂が使われ︑数字が小さいほど生活

水準が高い︑とされているが︑これも0

10

・三ヘクタール階層が二九・()%で

最高の水準︑以下︑規模が大きくなるほど

水準が低くなって︑これも一・五二・

o

ヘクタール階層が二二・一二%で最低水準で

ある︒家計費もエンゲル係数も︑二

‑ O

クタール以上の階層は少しよくなる︒それ

でも農業依存度が三四・二%の0

i

.︒ヘクタール階層と同じ水準にしか達し

(7)

このように︑二・Oヘクタール以上の階層は一応別として︑それ以下の農家では︑経営規模が大きいほど生活水準が低いという︑一見︑奇妙な結果が現われている︒つまり︑二・Cヘクタール以下の階層では︑生活水準の高さを左右するのは農業ではなく︑兼業なのである︒

いいかえると︑二ヘクタール以下の農家は︑もはや﹁農家らしい農家しではなくなってしまった︒ところが︑﹁農家﹂の経済状態を調べるためのこの調査は︑ニヘクタール以下の階層を五段階にも分けながら︑それ以上の農家は分類せず︑一本にしか扱っていない︒分類方式が︑すでに時代おくれになっているのである︒

しかし︑地域別にみると︑農業依存度をある程度維持しながら︑生活水準をかなり向上させたところもある︒四国がそのよい例で︑別表のように︑囚0年度の調育報告にくらべると︑農業依存度ははとんど変らないのに︑エンゲル係数は引目立って減っている︒これに対して稲作が振わない南九州は︑農業依存度もエンゲル係数も大きな変化はない︒四0年度の東北にかわって︑生活水準が全国最下位になっている(﹁朝日﹂四五年一一月一六日埼玉版)︒

以上のような官庁自身の調査数字です︑りが︑農基法政策が﹁聞いて極楽︑見て地獄﹂の﹁羊頭狗肉﹂政策であり︑農業破壌政策であったことを物語コている︑といえよう︒

そし

て︑

﹁曲り角﹂に来た日本農業は︑今日では︑決定的に︑この﹁曲り角﹂を曲り切ってしまったといえよう︒

その端的なあらわれが︑米過剰問題を焦点とする︑日本の米価・米穀問題であり︑財界・政府を先頭とする日本の米

作小農民の切捨て政策が︑農協中央︑および︑

ついには社会党によっても︑既成事実として部分的にではあれ︑追認 されつつある現実がこれである︒二年続けての米価据置き││実は米価切下げ││と︑作付制限︑減反政策︑自主流

通米制度の押しつけこそは︑

日 本 の 米 作 小 農 民 へ の 攻 撃 そ の も の で あ っ た

︒ 五

OO

万トン以上の過剰米(古米︑古古

米)の存在と︑食管赤字(税金の無駄づかい)宣伝のまえに︑過剰米の解消こそは︑

何がなんでも実施しなければなら ない量品任務であるとされ︑この大義名分のまえに︑過剰米問題の木質︑その隠きれた真実を追求する貰面白な理論

転換期の米価・食管制

四九

(8)

転換期の米価・食管制五O

は︑ジャーナリズムの表面にほとんど取上げられることなく︑日本米作農民の一歩一歩の後退︑敗北がいまや確定し

つつ

ある

昭和四主年度産米について︑政府は一

0

アール当り三万五千円の休耕補償金を支払い︑ともかくも過剰米の減小を

はかるという口実のもとに︑米作農業を縮小しようとした︒こうして︑昭和一七年制定以降存在し続けた﹁食管法﹂

辻︑最終的に骨抜きされ︑死文化されつつあるが︑この食管制廃止こそは︑つとに︑財界の一部から提出要望されて

いた既定路線の実現化だったのである︒すなわち︑昭和一一

0

年代のり終ごろから︑財界の有力者の聞では︑日本農業

の方向転換が考えられていたのであって︑彼らは経済同友会などを先頭に︑農業問題の研究会を聞き︑米価︑食管

制︑食糧輸入︑農業構造の改革について︑財界の立場からの︑農業のビジョンを発表していた︒この財界内﹁明日の

農業への展望﹂こそが︑現在の政府の農政の方向を規定づけているごとは︑財界の研究誌に発表された諸提言と今日

の最政を対比してみれば疑問の余地はない︒

農民はこのことを知らなかったのであろうか︒四五年度の減反政策を農民がのんだのは︑減反政策に協力すること

が︑食管制度を維持するために是非とも必要である︑という政府の宣伝を︑ともかくも︑ことば通りにうけとっての

結呆であった︒

昭和四五年一月二八日︑秋田県西馬音内の公民館で﹁日本農業の現状と動向﹂についての話合いをもった︒公民館

の二階で私が︑減反政策の宣伝意図を︑農基法政策およびその基礎である高度経済成長政策との関連で問題とし︑米

作員民は政府の意図を見抜き︑減反政策に反対しなければならないという趣旨をのべていたとき︑下の事務室では各

農家への減反割当表を作成中であった︒おそらく︑農民ひとりひとりの考えは︑いろいろと複雑なものがあっただろ

(9)

うが︑最後的には農民の希望は食管制堅持であったし︑減反反対であったし︑もし減反に協力するなら補償金は四万

円以上を要求するというものであった︒しかし町および農業団体の大部分はこのような農民の声を生かすことなく︑

結局は︑時流には勝てないと考えたこともあろうし︑また減反に協力することが︑食管制をともかくも守る途だと考

えた

il

考えさせられたーーからでもあろうが︑政府に協力する方向で行動したのである︒

それにしても︑米作農民には︑﹁米が余ヮている﹂のだから︑政府の処置は当然である︑という世論に反対すること

は︑なかなか容易ではなかったであろう︒しかし︑私は次の点はどうしても強調しておきたい︒ぞれは︑

﹁人

示っ

てい

る一というなら︑いったい日本の資木家の生産物で余っていないものはあるのか︑というととである︒﹁過剰のなか

の貧困﹂包括ユ可古目︒

E u

ーこそは︑資本主義経済の本質ではないのか︑原価三

O

円ぐらいのウイスキーが一二丁円で

あったり︑圏内価格が二

O

万円前後のカラーテレビが︑輸出価格では︑その半値以下であるなどという氷山の一角的

事実からみてもわかるように︑その会社の従業員すらも知ることのできない﹁原価の秘密しのもとでの独占価格と︑

ガラス張りのなかで毎年︑米生産費調査を実施され︑物価や人件費の年々の高騰のなかで︑なわかっ米価据置さ

ll i

実は切り下げーーーを強要されている農民の運命とを私たちはどう考えなくてはならないのか︒

昭和四四年六月二四・五の両日︑麦価を審議する米価審議会が開催されたが︑食管制度を守る全国連絡会議は第一

H日に全日農と連名で︑社会党︑全国農民総連盟とともに農林大臣︑食糧庁長官申入れを行い︑﹁米価据置に抗議す

ると共に︑米価に需給事情を考慮するならば︑国内需給が二割しかない麦価に需給事情を考慮して大幅に買入れ価格

を引上げるべきである︒主要食糧自給を強化すべきである﹂と申し入れたが︑余っているのを下げるのが当然なら︑

不足なら値上げが当然ということにもなろう︒政府の米麦価の決定は︑より深い政治的経済的配慮のもとでなされて

転換

期の

米価

・食

管制

(10)

転換期の米価・食管制

いることを忘れてはならないのである︒

過日参議院の社会党議員のある集りで︑日本の米価問題について話をする機会をもった際︑﹁余っているから値段

が下がるのは仕方がないではないか﹂という一議員からの反論があった︒私は﹁時計屋へ行けば時計が山のように並

んでいる︒靴屋に行っても︑カメラ屋に行っても︑そうである︒電気器具その他︑どれをとってみても︑何一つ余つ

ていないものはない︒余っているから安くしろ︑というのも︑資本主義経済のもとでは一理である︒しかし︑なぜ︑

一方は余っていても︑原価の数倍の値段を維持できるのに︑他方は原価以下の値段で売らなければならないのかが間

題ではないのか﹂と答えざるをえなかった︒その際︑他の議員から︑﹁農基法政策で︑小息切捨て政策を白民党が実

施しているのに︑選挙では︑その自民党に農民が投票するので困る﹂という発言もあった︒

たしかに現実はそうである︒大島清教授は﹃米と牛乳の経済学﹄で︑この農民の保守性を次のよ7に明快に指摘さ

れて

いる

﹁農地改革後︑農地法・農協法・食管法という二一本の支誌に支えられた農業のワク組の中で︑農民は大勢

として︑バラバラで受動的な性格を深め︑資本の攻勢と外国農産物との競争が強まる中でも︑いぜんとして休制への

依存

いわ

ば他

力本

願の

姿勢

を変

えて

いな

い﹂

(岩

波新

書︑

昭和

四五

年一

一一

月︑

一一

一六

頁)

もちろん︑全国各地で︑生産や経営技術の改善のための芽ばえもみられるし︑農業破壊に掠抗する農民の動さもあ

る︒しかしそれは﹁まだ全く部分的な微小な現家﹂︿同上﹀にすぎない︒

いうまでもなく︑農民の保守性は︑それなりの理由があって生まれたものである︒それは︑新しい社会が誕生した

としても︑そこに持ち越されるほど根深いものがあろう︒だが﹃実感的農業論L(家の光協会︑昭和四五年十月)を書

いた﹁山びこ学校﹂の位藤藤三郎氏のような農民もたしかに一方で生まれている︒だから若い世代の農民の自覚と︑

(11)

自主的な行動の拡大に期待しなくてはならないし︑またそれhはくしては︑七

0

年代日本農業の展望を一語ることも無駄

であろう︒社会党議員の嘆きも判らないではない︒だが︑その社会党も今日では︑政府の農基法政策と︑米価対策を

認めたうえで︑対策をたてるという方向へ変化しつつある︒結局は︑政府︑財界の勝利︑農民の敗北への五向が確定

しつつあるのではないか︒時の流れには勝てない︑といえぽそれまでであろが︑六

0

年代の石炭業と坑夫の運命が七

0

年代の農業に再現されようとしているのである︒

ここで誤解を避けてちかなければならないが︑政府の政策に反対はしても︑それは︑日本農業がいまのままの零綱

農耕制であヮてよいと考えているからではもちろんない︒ただ政府が農業の近代化を考えているのなら︑それなりに

その前提条件をつくり出さなければならない︒

かつ

て︑

一九

O

年の旧安保のとき︑エネルギー産業としての石炭業

が石油資本により打撃を受け︑その犠牲はあヴて炭鉱従業員に背負わされ︑ニ九万人の首切りが実施された︒ボタ山

の悲劇がそれでめり︑中高年齢層は砲に転職の機会がないままに︑社会保障制度の僅かなおこぼれのもとに生活保障

を受

けて

その生命を細々と維持してきたことは︑雑誌のグラビア写真の印象などを通しても︑私たちの脳裏に消え

ずに残っている︒

のみ

なら

ず︑

その悲劇は今日も続いている(たとえば北海道雄別炭鉱の四五年における閉山)のである︒

一九

O

年の新安保のもとでは︑かつての石炭業に桐当するものが︑まさに日本の農業である︒重化学工業を中心と

する

年率

O

M m

にもおよぶ世界一の経済成長率を実現しつつ発展してきた日本経済は︑︑その食糧自給率を逐次低

下せしめながら︑海外からの輸入増加の方向に進み︑その分だけ︑重化学工業を中心とする独占資本の製品輸出の増

大をはかりつつあることは数字の示すところである︒

日本政府は︑明治以降から農基法制定にいたるまで︑一貫して︑小農維持政策を実施してきた︒戦後の農地改革

転換

期の

米価

・食

管制

(12)

転換期の米価・食管制

五四

も︑また小農維持政策そのものにほかならなかった︒そして日本の農民は︑兵士の給源として︑低賃金の源泉とし

て︑また低価格農産物の供給者として︑一貫して日本資本主義を下から支えてきたのである︒そして︑いまや︑支配

階級にとっての農民の役割りは︑質的ー没化をとげたのであろう︒もはや小農を維持するととに︑日本の支配者は利益

を感じないのである︒かつて池田総理は農民切捨て論をぶった︒当初農林漁業基本問題調査会の﹁答申しは︑農業構

造改善事業の目標として次のようなデッサンを描いていた︒﹁平均二町の専業経営を二五

O

万戸三戸当り労働力単位

三人未満)︑平均凶反の安定兼業農家(一戸当り一人)二五

O

万戸で︑農業就業人口が一千万人︑戸数五

σC

万戸︑耕地

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解説

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一七

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万戸農家のうち︑二五

C

万戸は平均二

町歩の自立経営すなわち中農の上層から富農︑二五

O

万戸は四反未満のプロレタリア的農民という構図である︒とこ

ろが池田首相の案はそれよりもっときびしく︑それは昭和三五年の総選挙をまえにしての一i

O

年後に農業人口ば今

の四割に減る﹂という発言によって表明された︒

農基法が問題となった当時の農業開業人口をみると︑昭和三五年二月一日現在の農業就業人口は︑農家人口三︑四

四七万人の四割強︑ざっと一︑五

CC

万人といわれ︑全産業労働人口比では一一一八・五%であった︒池田言明はこの一︑

OO

万人の就業人口を四割の六

00

万人(全産業労働人口比一五・四銘)に減らそうというものであった︒この池田

言明のように︑農業就業人口が一

0

年間で四割の六

C

む万人になるには︑年々九

O

万人もの割合で減ってゆかねばな

らないのであり︑そこでまず考えるべきことは︑この離農する人たちの生さる道︑転職その他の保証がなされている

かど

うか

︑ と い

7ことである︒佐藤藤三郎氏は経済同友会の一幹部が﹁われわれはなにも三千億円の赤字をどうこう

いうのではない︒この三千億円のより有効な使い方が重安だというのだ︒つまり零細な農業を近代化して︑われわれ

(13)

の第二次産業に労働力を回してもらうような方法を講ずるべきだ︑と考えているのだ﹂と明快にいってのけた(前出

司実感的農業論﹄一二頁﹀ことを書いているが︑高度経済成長政策の過程で労働力不足に悩まされた財界の必 A要が零細

農切捨ての一要因であったことが︑ここにも示されている︒

しかも︑農墓法農政の当初は︑ささにものべたように︑自立農家の適五経営規模として二ヘクタール前後が考えら

れていたのであるが︑現在の総合農政のもとでは︑四から五ヘクタールあたりが考えられており︑このため︑大経営

育成の障害物になった﹁農地法し(紹和二七年制定)をはじめ︑農協法の改正︑

一本の線で農地を真二つに区分する

﹁新

都市

計画

法﹂

﹁農業振興地域諮備法﹂︑離農促進のための﹁農業者年金基金法﹂などの新農業関係法律を︑昭和

四五年の特別国会で成立させたのである︒こうして日本農業は﹁曲り角﹂を出ること安余儀hはくされたのである︒以

下当面の米価問題を中心に︑政府の畏政のもつ意味を考察しよう︒

二年連続の米価据置きと減反政策

(

昭和四四年度の米価決定

昭和四四年度米価は︑米の過剰宜伝と両米価の据置さという政府の激しい攻撃のもとに︑農民の反対も空しく︑政

府の既定方針どれり生産者米価の据置きとさまった︒このような結果は︑米作農民の所得切下げであるだけでなく︑

自主流通米制度発足をひかえ︑食管制度廃止の方向と︑さらには日本農業全体をますます衰退の方向に︑追いやる以

外の何ものでもなかった︒

昭和四四年度の米側要求として︑全日農では︑政策の米価決定時期が例年より一月ほど早︿なるものと予想し︑四

転換

期の

米価

・食

管制

(14)

転換

期の

米価

・食

管制

五六

月二三日の中央常任委員会で︑四四年産米要求米価として玄米一玉

0

キロあたり︑二万九六六

C

円土俵︑六

0キ

ロ一

万一千円以上)と決定した︒対前年要求額一二ハ

O

円(

一五

0キロあたり)の値上げ要求である︒これはバルクライン八

C W

加による﹁生産費および所得補償方式﹂によるもので︑従来逓り︑米作に要した生産費と家族労働費とを補摂し︑

雇用労働費も家族労働力と同様に補償することを要求するものであり︑このため製造業規模一

OO

人以上の男子一時

間あたり賃銀三四八円九一銭で評価している︒

農協を始めとする農民諸団体の方も五月七︑八の両日にかけて︑一五

0

キロあたり二万四二二三円土俵︑六0

キ ロ

あたり九六五三円)を統一要求米側と決定したが︑この算定方式も前年同様の﹁生産費および所得補償方式﹂によるも

ので

あっ

た︒

これにたいし政府は︑予期されたように︑例年より一ヵ月早く六日刀一

C

日に︑玄米一五

0

キロあたり︑二万

O

六四

O

円(

うる

ち一

7四等平均︑包装代込み︑決定時見込み)と正式に決定した︒これは過剰米宜伝を背景に︑四四年度予算案

編成時から政府の宣伝していた生産者米価据置きか実現したもので︑米価据量きは昭和三一年産米以来のことであ

ところで︑政府が四四年度崖米の生産者米価を﹁据置さ﹂にした背景ば︑さしあたり四宍年末の四四年度予算の編 る

成段階にさかのぼって説明できよう︒すなわち︑新聞︑雑誌の報道によれば︑累増する食管会計の赤字をコ一

CC

一億

円として組込むことを大蔵︑農林当局が決定するにあたって︑補同蔵相と長吾川農相との聞で︑まずニ抗置き﹂の確

約が結ぼれたというのである︒そしてそのご予算の復活折衝のなかで︑福田蔵相は佐藤首相になんらかの形で政府の

﹁据置き﹂の決意を表明きせる一方︑総合農政予算の追加要求を隠し財源のなかから認めろという方針を︑自民党三

(15)

役と約束し︑こうして佐藤首相は︑つことしは生産者︑消費者両米価を据置きたい﹂と︑一月の施政方針演説のなか

で表

明し

た︑

というのである︒

囚四年六月四日︑政府は米価審議会(小倉武一会長)に試算米価を諮問したが︑その内容は既定方針通り﹁据置き﹂

であ

った

一五

0

キロ当り二万

O

六四つ円(一

1

四等平均︑包装代込み価格)であり︑この金額は四三年産米の二万

O

六七二円より三二円低いがこれはそチ米加算金に相当するもので︑もち米は四四年から大部分が白主流通にまわって

政府の買入れ対象からはずされ︑加算金もなくなるので︑うるち米に関して稲作農民が政府から受けとる米代金は︑

前年水準と全く同じになるわけである︒

昭和四四年度産米についての米価審議会に対する政府の諮問は︑米価摺置きの方針でつらぬかれていたが︑この諮

聞の算定方式は︑今年度三割︑来年度は五割の米作農家の生産費を補償しない︑つまりそれらの農家の切捨てを意図

する内容をふくんでいるものであり︑その伏線は諮問主文のなかに﹁米穀の需給事情を考慮してしという字句を挿入

することによってなされていた︒この字句の挿入は明らかに食管法違反である︒すなわち︑食管法第三一条第二項には

政府の買入れ価格は︑﹁政令の定むるとこるにより生産費および物価︑その他の経済事情を参酌し米穀の再生産を確

保することを旨としてこれを定む﹂となっていて︑とのことは︑米は政府の直接続制物資であるから︑その価格決定

2

)

にあたっては︑需給事情を考慮して決められる性質のものではないことを意味しているとみるべきなのである︒

(2

)

米審の初日に︑社会党議員団十数人は︑東京・九段南の農林省分室につめかけ︑長谷川農相と交渉をつづけ︑期点目は農相

と桧垣食糧庁長官を一日中衆参の農林水定委員会にクギづけにし︑ついに二口問ほとんど米審の審議に出席させなかった︒そ

のさい社会党側の主張したことは︑政府の諮問内容が食糧管瑚法に違反するから︑諮問を撤回せよ︑というものであった︒す

転換期の米側・食管制

五七

(16)

転換期の米価・食管制

五入

なわち︑社会党は︑食管法の三条二項のなかの米の政府買入価格は﹁生産費及物価其の他経済事情を参酌し米穀の再生産を健

保すること﹂とあるのを重祝し︑J﹂の﹁経済事情﹂とつ需給事情﹂という字句は農林関係法令のなかでは区別して使われて

いるのであって︑このことは食管法では米の需給事情を反映させて米価を決めてはならないことを意味している︒政府が諮問

のなかで﹁需給事情﹂とうたっているのは明らかに違法であるHと主張したのである︒

ところが農林省当局は﹁需給事情は当然経済事情にふくまれる﹂と反論して︑このやりとりは結川水かけ論になってしまっ

た︒しかし︑右のやりとりのなかに重要な問題がひそんでいたのであって︑それは以下の点である︒

食管法(昭和一七年﹀は︑それが制定された当時︑今日のように米が余る時代が来るとは一般に予想されてはいなかった︒

このためこの法律が﹁経済事情﹂のなかに米が過剰だという需給事情を考えていたはずがない︒食管法は︑米不足のなかで︑

農民から強制的に米を供出させるための強権発動を合法化することに貰かれていたからである︒だから︑食宥法は今日のよう

な︑小麦の大量輸入によって人為的につくられたとはいえ︑いわゆる米の過剰を念頭においていなかったのは︑たしかであ

る︒しかし︑このことからn農民団体や社会党の主張は︑食管法の基本精神にたちかえれば当然正論である︒しかし︑それを

現在そのまま押通そうとすれば︑食糧不足時代の国の強権発動に﹁報復﹂する意味があるだけになってしまう︒それでは国民

の食糧として︑いるものも不用のものもひっくるめて︑なにがなんでも政府に買わせる要求となり︑政策として長続きするも

のでもない︒一方︑政府が食管法のなかで現実の問題を運用しようとすれば︑もともと同法はその任務に耐えきれないのだか

ら︑設弁を使わなくてはならないHという主張も︑これを正当なものとして認めることはできない︒このような考え方は︑一

日凡中立的で妥当であるかのよ︑つにみえながら︑実は日本の米作曲農民が︑日本資本主義機構のなかで過去において背負された任

務と︑それが昭和三

O

年以降変質してきたことの意義を忘れ去ったものどからである︒

にもかかわらず︑米審の多数は政府の﹁据置さ﹂を支持した︒

そして小数意見として﹁引上げ﹂︑﹁引下け﹂の両論 を併記した︒引上げの意見は生産者の代表のものであるが︑引下げの考えは学識経験者委員の一都から出たもので︑

いずれも少数意見である︒例のように︑政府は米審委員の人選をする段階で︑答申がそうなるように委員の人選を考 慮したことはいうまでもない︒政府のほかの審議会と同じように︑大筋では政府に都合のよい結論が出るように事前

(17)

に仕組まれていたのである︒米審はこの年も政府のカグレミノとしての役割を果したわけである︒

米審の茶番的役目剖が終ったあと︑政府が米価の決定を下すまえに行う︑おきまりの政府・自民党折衝で︑政府は米

何は形式的にも﹁据置さ﹂のままとし︑約二

M m の米価引上げに相当する二二五億円を稲作のための格設︑肥料︑曲農薬

などの資材の補助として支出することにした︒との支出は︑四一年に出た五

C

億円のつかみガネと同じ性質のもので

ある︒しかし︑この程度の支出では︑

はもちろんであって︑池田内閣の所持倍増計画当時から始ったところの︑経済の高度成長でとり残νされて行く農村社 一般物価の値上りなどを考えると︑生産者米価は実質的には引下げであること

会の所得格差を是正するという政府の歌い文句は︑ここでも空文句であることを暴露したのである︒

政府はそれまで三年間︑米価を毎年九・二勿ほど引上げてきたが︑四三年産米価から据置きを意図し︑また白民党

首脳部もそれを予期していた︒しかし︑農林関係議員の抵抗が強く︑四三年度は︑最終的には九銘と一一一%の中間にあ

たる五・九%まで引きもとされた︒だが政府は︑ここに低米側への強力な第一歩をふみだしたのであり︑この四一二年

度の布石のうえに︑四四年度産米の生産者米価﹁据置さ﹂という異常な措置にでて︑﹁低米価←農業所得の低下←兼

業︑出稼ぎの増大←農業就業者の減少←農産物輸入の増大←見返りとしての工業生産物輸出の増大←高度経済成長の

維持という方針を貫徹しようとしたのである︒

ところで政府決定米価は米審諮問米価算定にくらべ若干計算内容を修正しているが︑﹁据置き﹂価格であることに

は変りがない︒その内容は前年までの方式で計算すれば一五

0

キロ当り一︑七八

O

円高くなる筈のものが低く押えら

れているのであるから︑農民手取りは約一億円も切下げられたことになる︒また物価が五銘以上︑春闘賃銀相場が一

六銘程度も上昇していたのであるから︑米価を据置くことは﹁実質的な大幅値下げしであった︒そのうえ︑食管法に

転換

期の

米価

・食

管制

(18)

転換期の米価・食管制

ノ、

違反する算定内容だったのだから︑まったく不当︑不法な米価といわざるを得ないものであった︒

とくに問題なのは︑まλにもふれたところの宅産者米価据置さと同時に閣議決定された﹁①稲作特別対策事業費と

して

四四年度に二二五億円(米価にして二・一八勿アップに相当する)を支出する(この補助金は過去コ一ヵ年の米の政府売

り渡し数量に瓜じて市町村に文付し︑木生涯の合理化︑効率化のための施設︑設備の整備︑資材の購入︑その他の事業の実施に必

国宝な財源にあてる)という点と︑②内閣に農政推進閣僚会議を設ける﹂という点である︒

第一の稲作特別対策事業費は︑

﹁つ

かみ

Lであり︑これで据置さ米価に対すろ農民の不満をそらそうとしたもの

であり︑さらにとのような措置は財政法上にも違反している︒第二の農政推進閣僚会議は︑据置き米価を出発点とし

て︑食管法の改廃︑米の生産抑制︑農地法改悪︑第二次構造改善事業の推進など︑いわゆる農民首切りの総合農政を

推進する体制強化の措置であることはいうまでもない︒

さて政府が米価を据貴くための表面的理由は︑これまでに再三ふれた如︿︑まず米の過剰問題であった︒その計算

は次のようなものである︒すなわち昭和四四年の一

O

月末に国民の配給の約一

0

ヵ足分に当る五六

O

万トンの持越し

米が出る︒このうち︑二度つゆを越して品質が著しく落ちた古古米(囚二年産米)が約一一

O

万トンにも達する︒

他方︑国内の米の生産は平年作でも二一六

U O

万トンを下ることはなく︑毎年一の

O

万トン程度の米が︑現在ある過

剰米のうえに累積してゆく︒食糧庁の松元総務部長が当時の﹁米審﹂の質疑で説明したところによると︑いまの米の

生産力からすると︑平年作手二

CM

下回る凶作でも米は不足しない︒ところがこんな大凶作は戦後二八年に一度見舞

われたことがあるだけで︑米の生産が安E疋してさた三

0

年代以降は︑半年作を五

v m 以上下回る不作も経験したことが

. ︑ ︑ ︒

JC

u

(19)

このような政府の古米宣伝は︑なぜそうなったかという責任問題をまったく回避しているのであるが︑一般国民に

対してはいちおう説得的であった︒とくに︑配給米のなかに古米をまぜて押しつけられる消費者が不満を感じるのは

当然である︒こうして﹁古米﹂宣伝は消費者の不満を生産者側に向けさぜ︑米価の﹁据置き﹂や﹁引下げ﹂を合理化

させる役割を十分に果した︒

そのうえ︑現在の米価が国際価格にくらべて約二倍の高値であること︑ジヤボニカ型の米が韓国や沖縄などをのぞ

いてはほとんど市場性がないこと︑などのため︑東南アジア方面への輪山や援助がきわめてむずかしい事情が︑過剰

米の深刻さに拍車をかけ︑米のだぶつきを避けるためには米生崖調整が必要だとされ︑それには米価を相当思い切っ

て間引下げることが必一要だとされ︑これには少なくとも数年はかかるが︑手始めとしてこの四四年度に﹁据置き﹂を実

現しなければならない︑ということになワたのであろ︒しかし物価や賃銀が一方であがっている︒そこでこの点から

の農民の反撃をかわすためにとられたのが四月米価決定説であった︒すなわち昭和四四年度産米の生産者米価決定時

については︑長谷川農相が﹁田植えの前︑なるべく五月ごろに﹂という五月説を唱えていたのに対して︑自民党の一

部では︑それよりもさらに一月早い四月説の強い主張が出ていたのである︒つまり春闘の影響が政治的に生産者米価

に結びついてくるのを断ち切ろうという狙いからであった︒この点にも︑﹁だれよりも農民を愛す三四二年の全国農協

中夫

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催の

要求

米価

大会

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幹事

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れて

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それだけに四四年の農民団体の怒りは強かった︒昭和四三年の同大会で︑福田幹事長は﹁米価は農民が満足のいくよ

うに責任を持って党が決める﹂と言明する余裕をもっていたが︑四四年は根本政調会長が︑六月二日︑東京の日本武

道館に集った一万三千人の農協代表者を前にして︑﹁米価は物価︑労賃など上げる要素と︑需給事情というマイナス

転換

期の

米価

・食

管制

~ J

(20)

転換

期の

米価

・食

管制

ノ、

面をも考慮し︑将来の日本農業が安定するよう決めたい﹂と︑値上げを示唆することを避け︑﹁農民が納めている国

税は

OO

億円にすぎない﹂と︑﹁ろくに税金も納めていない農民が︑米価の引上げ要求などするな﹂という︑まさ

に農民への挑戦状を突きつけたような発一一百をしたとき︑場内はヤジと怒号で騒然となったのであるが︑このことは︑

例年の大会の挨拶で農民に﹁コビ﹂る発言をし︑反農民政策をカモフラ

l

ジュする配慮をしてきた自民党が︑財界の

強い要望で︑米価据置さ︑食管制度改廃︑日本農業の全面的合理化を行わざるをえなくなって︑これまで自民党みず

からの選挙基盤であった農村に対して政治的な配慮をも捨て︑名実ともに支配と収奪の対象にすることを明確にせぜ

るをえなくなったことを意味している︒

ただ右のような変化を︑早急に自民党が農民票とたもとを分つ姿勢をとみるわけにはゆかない︒

そ れ は 米 審 の あ

と︑政府︑自民党の政治折衝に移ってからも︑ペトコン議員の会合では体を張って据置さを阻止するという威勢のよ

い発言が目立っていたことのなかにも示されている︒総合農政調査会(西村直己会長)でも﹁据置き﹂をやむをえない

としていたのは︑西村会長︑野原正勝同小委員長ら数人であったといわれている︒このため同会の結論は︑二・一八

の引上げを求めることになり︑これが党の態度となった︒党と政府の交渉で︑妥協が生れたが︑政府は結局﹁据置M m

き﹂を押し通したのである︒

せいぜい二%程度の要求しか出さない自民党の態度におこった全国農協中央会は︑米価の決定の前日﹁選挙を通じ

て自民党と対決せざるをえない﹂という決議文をつきつけ︑党本部前にすわりこませていた農民を途中で郷里にかえ

した︒宮脇朝男会長││昭和四二年︑森八コ二前会長(自民党参議院議員)のあとをうけて全中に就任││は︑その

直後の説者会見で︑﹁虫の入った子竹とは知らず︑杖についたが身の不調法しという都々逸の文句を引用し︑

﹁わ

(21)

われは虫食いの竹にすがっていた︒自民党は農民を反安保へ追いやるつもりなのか﹂と会長の辞表をふところに痛烈

に政府︑自民党を攻撃した︒もっともその二

O

日後︑会長に再選されるや︑氏改積極的に政府農政への対応策を模索

しはじめ︑現在みるがごとき︑協調路線を歩み出すごとになった︒この宮脇会長の変身と関連して考えられるのほ︑

自品党内農村山身議員の変化である︒自民党内には︑まだまだ農民票依存体質が強く残っているが︑財界︑政府首脳

の意向によって︑彼らのいう高米価政策が︑もはや限界であるという認識をもっにいたった農村出身議員は︑ここ

に︑それまでのベトコン的存在をやめ︑農村を政府の政策に同調させる方向に転じたのである︒

凶四年度の米側闘争での破綻は明白となワた︒農協中央首脳部はそれまで米価が自民党で決められるという暗黙の

前提に立っていた︒だから農民大衆のエネルギーを米価闘争という名で自民党への陣情という性格のものに変質きせ

てさた︒そして︑各級段階の農協幹部の多くは自民党に入党して︑農協が白民党の票田であることを示してきた︒白

民党は今まで米審に低い引上げ価格の諮問をよせ︑答申後︑米対協(ベトコン議員﹀からつき上げ︑それにうわのせす

ることによって米価は自民党がさめるという体裁をつくり農民票をつかんできた︒

ところが宮脇会長の文身でも判る通り︑凪四年は財界の据置さ方針が上うやく徹底し︑米対協の幹部ですら︑積極

的に据置きの説得にあたるというほどの変身を余儀hはくされ︑若干のつかみ金や︑零細農民切捨てのための農業予算

をふやすこなどによって︑政府の方針に押し切られてしまったのである︒農協の米価闘争は自民党の変身によって破

綻したのである︒この果︑農協のような︑話合い︑なれ合いのたたかいでは米価要求が実現しないことが明らかとな

り︑本来生産者米価は︑売手である生産者と買手である政府との直接交渉によって決められるべきものであること︑

たたかいの主体は農民であること︑が明らかとなった筈である︒しかし︑農協米闘が破綻したことを教訓として︑農

転換期の米価・食管制

ノ ¥

(22)

転換

期の

米価

・食

管制

六四

協を農民のための農協は民主化するとともに︑全農民の団結か一促進し︑労働者・消費者との共闘を実現することは︑

まだまだのようである︒

ω 

昭和四五年度の米価決定

四五年度の米価と食管をめぐる情勢は︑いよいよこの問題が大詰めにまできたというきびしさをただよわせてい

た︒すなわち︑まず佐藤首相は︑二月一四日の第六三届国会冒頭の施政方針演説で︑生産者米価と消費者米価の双方

ともに措置くと︑いち早く一言明した︒そして四五年一月に政府原案としてまとまったところの四五年度予算案との関

速で︑自民党の総合農政推進の構想にたいして︑政府の考えが答弁としても具体的にのべられるようになり︑政府が

あらためて文書で﹁総合農政の推進について﹂を閣議決定したのは︑予算編成後の四五年二月二

O

日で

あヲ

た︒

これよりさき︑四四年九月一二日︑自民党の総合農政調査会は︑﹁総合農政の強力な展開﹂と名付けた中間報告を

まとめた︒それは﹁農業生産の調整再編成﹂︑﹁農業生産基盤の整備﹂︑﹁構造政策の強化﹂の三点を柱に︑

ω

生産の地

域分担を明らかにする︑同稲作面積の現在の三二七万ヘクタールを一

O

年後には二七

O

万ヘクタールに減らし︑四五

年度を初年度として年間一五

O

万トンの生産抑制をはかるため︑三五万ヘクタールの作付制限︑転換︑休耕を実施す

る︑同米価は据置く︑などの点を明らかにしていた︒

また九月二九日︑総理大臣の諮問機関である﹁農政審議会﹂の答申は︑主要農産物について︑各種の価格制度が

運崩︑整備され︑農産物の安定的な供給と確保︑農業の所得向上に価格政策が相当な役割を果してきたが︑他の生産

政策・構造政策なととの関連が必ずしも考慮されなかった︑として︑要旨つぎのような提言を行っていた︒

(23)

川価格水準は︑基本的には生産者および消費者を含め︑国民的合意のえられる安定的かつ適正な水準でなければな

らない︒わが国の農度吻は国際的にみて︑相当割高になっているので︑こんごは長期的にみて︑国際価格と国内価格

との動向が相反することのないよう留意する必要があり︑また物価の安定を阻害するような引上げが行われることを

さけるべきである︒

川こんごの価格政策は︑需給の実勢を反映した価格の形成と︑過度の季節的周期変動などを防止する意味での︑価

格の安定に重点を移すとともに︑価格の需給調整をいかす方向で考えなければならない︒

とくに︑同審議会は﹁米の過剰対策﹂として︑稲作の転換・休耕奨励策のほかに︑生産者米価の引下げによる調整

と生産者米価据置さ︑さらにには買入制限の併用による調整を示した︒

こうした動きを︑つけて︑四四年一一月一九日︑総合長政調査会小委員会は﹁総合農政実施大綱﹂を決定した︒その

内容

は︑

付米の一五

O

万ト

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五万

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上)

の生

産調

整︑

同生産の地域分担︑日基盤整備︑構造政策の

強化

同自由化による輸入には関税による調整︑課徴金の創設︑同農業者年金制度の創設︑内需要増進および加工流

通の合理化︑消費者保護対策の実施︑出農村地域の生活環境整備︑農村地域への他崖業誘致︑円総合農政五力年計画

の樹立︑などからなっていた︒

以上のような布石のうえに︑さきの農林省の﹁総合農政の推進について﹂が二月二

O

日に発表されたのであって︑

そこでは①近代的農業の育成︑②離農の援助促進︑@食料の安定供給︑④価格の安定と流通加工の近代化︑@農業所

得の確保︑@新しい農村社会の建設︑など︑さきの農政審議会の答申をほとんどそのまま受け入れたものが発表され

てい

たの

であ

る︒

転換

期の

米価

・食

管制

ハ 五

(24)

転換

期の

米価

・食

管制

四五年にはいり︑首相の諮問機関である﹁経済審議会﹂(会長木川田一隆氏)は︑四月六日に﹁新経済社会発展計画﹂

を答申し︑七

0

年代に向かっての経済政策の道標を示したが︑ここでも︑農業については︑きわめてきびしい注文を

つけ

てい

た︒

この計画は︑七

0

年代前半(昭和四五年から五O年)に︑わが国経済がとりくむべき重要課題として︑①経済の国際

化に対応する経済構造の革新化︑効率化︑②物価の安定︑③社会開発の推進︑④適正な経済成長の維持と︑発展基盤

の培養をあげ︑これらの基本的課題を達成するために︑物価安定︑貿易・資本自由化︑高生産性農業の実現など六項

目の政策をかかげていたが︑これらの政策のなかで︑農業など低生産性産業の近代化

l l

i

実は切捨てーーーを進めて行

く意向が随所にもりこまれており︑輸入政策の積極的展開をはかる品目については︑政府はできるだけ低い価格で安

定をはかり︑価格体系は需給事情に適合したものでなければならないとして︑米価はさしあたり据置くと提一一一一目した︒

ほぼ以上のような政府与党の方針は︑四五年度の予算︑農地法ならびに農協法の一部改正案︑農業者年金基金法

案︑農業振興地域整備法︑新都市計画法などの第六三特別国会での成立によって法制化され︑裏付けされた︒

こうした情勢のもとで︑全日農は︑五月一コ一日の中央委員会で︑四五年産米の要求米価を一俵(六0

キロ

︺当

り一

万二

千円

以上

一五

0

キログラム(石)当り︑一二万円以上と決めた︒この要求米価は︑従来通り︑米販売農家につ

き︑その米の生産に要した生産費と家族労働費を補填し︑かつ米作のための雇用労働者にも家族労働と同等の賃銀支

払いを保障でさることを目標として算定したもので︑バルクライン入

OM

による﹁生産費および所得補償方式しによ

っている︒すなわち︑労賃は製造業規模一

OO

人以上の男子一時間当り四二二円七

O

銭で

評価

一五

0

キロ

当り

コ一

万 二八五一円土俵六

0キ

ロ当

り一

万一

三四

O円)が︑算定米価だが︑四四年の要求米価一俵一万一

0 0

0

円以上より一

O

(25)

︒円引上げた﹁一万二

O Q

O

円以上﹂を最低要求米価として掲げたわけである︒

全国

農協

中央

会と

全国

農業

会議

所は

五月

一一

一一

日︑

一 五

0

キロ当り二万四八一五円土俵六

0キ

ロ当

り九

九二

六円

)を

統一要求米価として決定した︒これは前年の要求米価より一俵当り二七三円の引上げであった︒

この算定方式は︑前年までの稲作農家の収入と都市勤労者社帯の収入との均衡をはかる方式では要求米価が前年よ

り安くなるので︑三九年まで採用していたバルクライン八

O%

による﹁生産費および所得補償方式﹂に一戻ったもので

ある︒前年までは平均収益をとっていたが︑四五年はバルクライン入

O M m

の収益をとったので︑反当収益が減り︑要

求米価が上がる結果となった︒しかし︑家族労働の評価は製造業六人規模以上の男女平均賃銀一時間当り三

O

九円六

︒銭で評価していることをどのため︑全日農の要求米価を大幅に下凪っているのである︒

このような全日農および農協中央の要求米価にたいし︑四五年産米の政府買入れ価格は六日九日の閣議で︑基準価

格(

うる

ち一

t

五等平均)玄米一五

0

キロ当り二万

O

一 二 二

O

円と︑前年の基準価格と同額に決定された︒この決定によ

り︑四五年度予算の編成等を通じて︑政府がかねてから表明してきた生産者米価の二年連続措置さが実現したわけで

ある︒なお︑昭和三七年産米以降の生産者米価の推移は表一のとおりである︒

また︑閣議にさきだち︑政府・与党折衝で︑米価据置きとともに︑米価とは諸般の事情を考慮して︑良質米の生

産︑

販売

および米の品質の改良についての農家の努力を助長するという名目で︑四五年産米につき︑その販売数量

に応じて良質米奨励金および米品質改良奨励金を交付することが確認された︒良質米奨励金は︑良質米の生産︑販売

を奨励するため︑

一 五

0

キロ当り一等米に七五

O

円︑二等米に三五

O

円を交付するものであり︑米品質改良奨励金は

米の品質の改良を奨励するため︑一

t

五等の各等を通じて一五

0

キロ当り二

OO

円が交付されるもので︑その総額は

転換

期の

米価

・食

管制

六七

参照

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