九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
Service Labour and the Production of Value : A Critique of the Marxist Popular View on Service
刀田, 和夫
https://doi.org/10.15017/4476068
出版情報:經濟學研究. 51 (1/2), pp.87-114, 1985-08-10. Society of Political Economy, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
サ ー ビ ス 労 働 と 価 値 形 成
ー一通説的所説の批判――‑
刀 田
和 夫
目 次
はしがき
1. 史的唯物論とサービスー一金子説
2. 人間の自然への働きかけとサービスー~山田説 3. 労働の対象化・物質化とサービス労働ーー大吹
説
4. 抽象的人間労働とサービス労働ー一頭川説 5. サービス労働=消費過程の労働論ー一重森説
はしがき
以 下 の 本 稿 で は , 戦 後 わ が 国 の マ ル ク ス 経 済学者の間で争われてきた, サ ー ビ ス 労 働 の 価値形成性いかんをめぐる論争—サービス論 争一ーにおける通説的見地に立つ所説を取り上 げ,その当否を検討する。
周知のようにこの論争においては,長らく生 産的労働の概念が判定の基準として用いられ,
くサービス労働は生産的労働であるか否か〉とい う形で問題が論じられてきた。けれども1960年 代の後半における,阿部照男,広田純,山田喜 志夫等の諸氏によるこうした論じ方に対する批 判と,長岡豊氏の所説をめぐる論争を契機に,
論争は新たな段階に移行し,様々なバリエーシ ョンは伴いつつも,サービス労働の価値形成を 否定する通説擁護論,あるいは価値形成を肯定 する通説批判論の別を問わず,議論は概ね『資 本論」冒頭の商品論・価値論にもとづくものヘ
と転換して今日に至っている%
論争のかかる転換は明らかに妥当なものであ った。サービス労働の価値形成性いかんが問わ れているその価値とは商品の価値であり,それ が『資本論』冒頭の商品論・価値論で規定され ているものである以上,それは十分理論的に根 拠のあるものだからである。この理由から,本 稿においても主として非「生産的労働論」的見 地に立ついくつかの通説的立場の所説を取り上 げ,その当否を検討していくことにしたい2)0
尚,以下の本稿での考察に当たり,予め次の 3点についてお断りしておきたい。
第1は,本稿におけるサービス業の定義であ る 。 サ ー ビ ス 業 の 定 義 は 論 者 の 間 で も 一 致 せ ず,この確定自体が一つの研究題目であるが,
遺憾ながら本稿の紙幅ではこの点の検討の余裕 はない。この理由から,以下においては,取り
1) この点の経緯については,広田純「国民所得論」
‑ 87 ‑
(日本経済学会連合編「経済学の動向」第2集, 東洋経済新報社, 1982年刊,所収),並びに金子 ハ}レオ「生産的労働と不生産的労働」(山田喜志 夫他編「資本論体系」第7巻, 有斐閣, 1984年 刊,所収)等がふれている。尚,両者共,長岡説 をめぐる論争についてはふれるところがないが,
その点については, 長岡氏自身の論争回顧論文
「サービス労働と価値」(同氏著「労働と資本」有 斐閣, 1972年刊,所収)が詳しい。
2) 本稿で取り上げる問題に関してわれわれが採用 している判定の基準と,この問題に対するわれわ れの基本的見解については,拙稿「サービス商品 の価値と商品体ー~赤堀邦雄教授の所説に関連し て 一(1), (2)」(『経済学研究」九州大学,第44巻 第4・ 5 ・ 6合併号及び第45巻第1号,いずれも 1979年,所収)の「はしがき」及び「結びにかえ て」の項の参照を乞う次第である。
経 済 学 研 究 上げられる諸説の検討にさしつかえないと思わ
...
れる限りで,物質的財貨を商品として生産しか
...
つ販売することのない,しかし何等かのものを
..................
商品として提供する企業活動を行うものをサー
第 51巻 われ,
第 1・ 2号
また有形,無形を問わず商品として販売 される対象を生産するのではないから, それは サービス労働者の販売すべき商品も,雇主の販 売すべき商品も生産しない。 したがってこの場 ビス業とするという,便宜的なサービス業の定
義を採用したい。
ただ, こうしたサービス業の定義によるなら 商業.金融,運輸.保管業等もサービス業とな る。 しかし,周知のようにサービス論争におい ては極一部の論者を除いて商業,金融はサービ ス業とはされず,サービス業とも,また物質的 財貨生産部門とも異なる独自の部門に分類され ている。また運輸と保管については,通説批判 の諸論者の殆んどはこれをサービス業に入れて いるが,通説擁護の諸論者は,多くの場合これ らをサービス業ではなく物質的財貨生産部門に 入れている。われわれは必ずしもこうしたサー ビス業の定義に同意するものではないが,検討 の対象となっている所説とは異なる範囲のサー ビス業の定義を使用することは,議論を不必要 に複雑にすると考えられるので,特に必要な場 合を除いてこれらはサービス業からは除外して 考えることにしたい。
合のサービス労働は商品の価値形成の問題とは 何の関係もないので,議論の対象からは除外す
る。
1. 史的唯物論とサーピスー―—金子説
(1)
『資本論』 冒頭の商品論における価値は商品 がもつ価値であり, マルクスはそれを,商品に 対象化,物質化した労働(抽象的人間労働)と
...
規定している1)。だから価値形成労働とは,
...
然のこととはいえ,商品を生産する労働(の抽 象的人間労働の側面)である。
当
ただマルクス は,価値をこのように規定する際に,商品とし ては物質的財貨のみを挙げており,
ついては触れるところは全然ない。だから彼が 規定している価値は,事実上物質的財質である 商品がもつ価値であり,
サービスに
この故に,価値形成労 働は,事実上物質的財貨である商品を生産する 労働と規定されているといってよい。
次に, サービス業には物質的財貨の生産部門 同様,資本主義的形態をとるものと単純商品生 産の形態をとるものがある。
し
゜
ある。
しかしかかる形態 の相違は,一般に新たに生産された価値の分配 形態の相違はもたらしても,価値生産の有無に かかわるものではないので,以下では特に必要 な場合を除いて一々区別して論ずることはしな
最後に,サービス提供には,家事使用人の場 合のように,雇用関係のもとで行われるものも しかしこれらの場合におけるサービス労
以上の点は, サービス労働の価値形成性の問 題に対する立場のいかんを問わず,議論の出発 点として認めることができると思われる。
しこれを認めたとしても,
ートにサービス労働の価値形成の否定が導き出 されるわけではない。たとえ上述のように規定 されているとしても,
そのことからストレ
サービス商品が,
しか
その経 済的性格において物質的財貨である商品と本質
働は,雇主に販売された労働力の消費として行
‑ 88 ‑
1) 「ある使用価値または財貨が価値をもつのは,
...
ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化
. . . . .
されているからでしかない」(「資本論』岡崎次郎 訳,国民文庫版(1), 78ページ)。 尚, 傍点は引用 者の付加。以下同様。
的に異なるものでないとしたら,価値形成労働 の範囲をサービス労働にまで拡張することを拒 否すべき理論的理由は何もないからである。だ からそれを拒否するには.両者が本質的に性格 を異にするものであることを証明する必要があ り.それを史的唯物論の考え方に求めるのが金 子ハ)レオ氏の立場である。
金子氏は, まず. 「史的唯物論(唯物史観)
の考え」にもとづくならば, 「物質的財貨の生 産こそは人間社会の存在と発展の根本条件」2) であるのに対して,サービス提供は,物質的財 貨の生産が「基礎となって……維持される」3)'
具体的にいえば「サービス労働者の維持に物質 的財貨の個人的消費を必要としまた物質的財貨 であるサービス労働手段を必要とする点で,物 質的財貨の生産を前提とし基礎とする」4) もの であって,両者は「同じ論理次元で取り上げる ことはできない」5)性格のものであると主張す る。以上は,要するに物質的財貨の生産は「人 間社会の存在と発展の根本条件」であるのに対 してサービス提供はそうではないという本質的 相違があり,先のわれわれのいい方では,物質 的財貨である商品とサービス商品とでは,上述 の点で本質的にその性格を異にするという主張 である。そして,金子氏はこうした物質的財貨
(の生産) とサービス (提供)との間の本質的 な性格の相違にもとづいて,物質的財貨生産労 働だけが価値を形成し,サービス労働は形成し ないと主張する。この論証はいく分複雑である 2) 金子ハ)レオ「サービスの概念と基本性格」,同
氏他綱『経済学における理論・歴史・政策』有斐 閣, 1978年刊, 7ページ。
3) 同上。尚,点線部分は引用者による省略を表す。
以下同様。
4) 金子ハ)レオ「サービス理論の諸問題」,「経済理 論学会第32回大会報告要旨J1984年, 30ページ。
5) 同氏他編,上掲書, 7ページ。
が,それは次の通りである。
金子氏は,上述の物質的財貨(の生産)とサ ービス(提供)との間の「物質的財貨の生産こ そは人間社会の存在と発展の根本条件」である のに対して,サービス提供は,物質的財貨の生 産が「基礎となって……維持される」という関 係,したがって物質的財貨(の生産)は「人間 社会の存在と発展の根本条件」であるのに対し てサービス(提供)はそうではないという関係 は,これらが商品形態を取っている資本主義社 会でも同一であり,同氏はそこにおける物質的 財貨の生産とサービス提供との上述の関連を,
「社会の総生産物=総物質的財貨の消費によっ てはじめて,すべての生産が行われ……社会の 全成員の生活が維持される……。したがって,
サービス部門……は,物質的財貨を生産する部 門の生産物である物質的財貨=商品の一部分を 配分されることによってのみ維持される。そう いう意味で,サービスはほんらい「直接にはそ の支払の元本をつくりださない」」6) という関連 ととらえられるとする。あるいはこういってさ しつかえないと思うが,物質的財貨(の生産)
は「人間社会の存在と発展の根本条件」である のに対してサービス(提供)はそうではないと いう関連を,同氏は以上のように言い換えてい る。
こうした上で, 同氏は上の引用箇所に続け て,物質的財貨生産労働の価値形成とサービス 労働の非価値形成を次のようにして導き出す。
「このように, 社会の全成員の生活維持費=
『支払の元本』であるのは, 質料的には物質的 財貨であるゆえに,マルクスは,商品の価値を 物質的財貨であるその商品の使用価値に担われ
6) 同前, 8ページ。
‑ 89 ‑
経 済 学 研 究
て存在するものとして把握した。もしも,価値 がそのように物質的財貨=使用価値に担われて いないものならば, 〔価値は〕 その社会の全成 員の生活維持費=「支払の元本」とはなりえな いものになってしまうからである。
こうして,マルクスは, 『資本論」第1巻第 1章において,流動状態にある生きた労働では なくて,物質的財貨である商品に対象化した…
・・・労働を価値と規定し,価値はかならず物質的 財貨=使用価値をその質料的担い手としている ものと把握したのである。それゆえ,資本主義 社会の総労働のうち.物質的財貨である商品を 生産する労働が価値を生むのであり,サービス
……労働は価値を生まないのである。」7)
以上の金子氏のサービス労働の非価値形成の 論証の要点は,すぐ上の引用箇所に「社会の全 成員の生活維持費=「支払の元本」であるの
. . .
は,質料的には物質的財貨であるゆえに,マル クスは,商品の価値を物質的財貨であるその商 品の使用価値に担われて存在するものと把握し た」とあることからもわかるように. 「社会の 全成員の生活維持費=『支払の元本』であるの は,質料的には物質的財貨である」ということ を理由に「商品の価値〔は〕……物質的財貨で あるその商品の使用価値に担われて存在する」
という結論を導き,これによって「物質的財貨 である商品を生産する労働が価値を生むのであ り,サービス……労働は価値を生まない」とす るところにあるといってよい。
ただ,以上で結論を導く理由とされている,
「社会の全成員の生活維持費=「支払の元本」で あるのは質料的には物質的財貨である」という 関連が意味するものについては,いく分説明を
7) 上掲書, 8‑9ページ。尚, 〔〕内は引用者 による補足。以下同様。
第51巻 第 1• 2号
加えておいた方がよいであろう。
. . . . .
この文は, 「このように社会の全成員の生活 維持費云々」と書き出されていることからわか るように,これはその前の「社会の総生産物=
総物質的財貨の消費によって云々」の文を受け たものであるから,直接にはそれを言い換えた ものと解釈される。因に,前者の文中の「社会 の全成員の生活維持費」は,後者の文中の「社 会の総生産物=総物質的財貨の消費によっては
......
じめてすべての生産が行われ•…••社会の全成員 ...
の生活が維持される」を受けたものであるし,
またこれとイコールと置かれている「支払の元 本」も,直接後者に出てきているものである。
そして「社会の総生産物=総物質的財貨の消費 によって云々」の箇所は, 先に説明したよう に,物質的財貨(の生産)は「人間社会の存在 と発展の根本条件」であるのに対してサービス 提供はそうではないという関連を言い換えたも のであるから,この「社会の全成員の生活維持 費=『支払の元本」であるのは, 質料的には物 質的財貨である」という関連も,詰まるところ は,物質的財貨(の生産)は「人間社会の存在 と発展の根本条件」であるのに対してサービス
(提供)はそうではないという関連をこのよう に言い換えたものと解される。
このような言い換えが一体いかなる意義をも ち,またいかなる論理的関連をもつのかは,十 分に説明されているとはいえない。しかしその 点はともかく,金子氏は,上述のような言い換 えを重ね, 最終的には,「社会の全成員の生活 維持費=『支払の元本』であるのは,質料的に は物質的財貨である」ということを理由に,「商 品の価値〔は〕……物質的財貨であるその商品 の使用価値に担われて存在する」という結論を 導くことで,最初に提示した,物質的財貨(の
‑ 90 ‑
生産)は「人間社会の存在と発展の根本条件」
であるのに対してサービス(提供)はそうでは ないという,両者の本質的な性格の相違にもと づく,サービス労働の非価値形成の論証を行っ ているということができる。
以上が金子氏のサービス労働の非価値形成論 の概略である。説明してきたところからもわか るように,同氏の主張は, 「史的唯物論(唯物 史観)の考え」にもとづけばそうなるとされる,
物質的財貨(の生産)とサービス(提供)との 間には上述のような本質的な性格の相違が存在 するというとらえ方と,これにもとづいて「商 品の価値〔は〕……物質的財質であるその商品 の使用価値に担われて存在する」という結論を 導き出す論証との二つの部分からなっていると いえる。以下,順にこれらの点の当否を検討し ていこう。
(2)
金子氏の,物質的財貨(の生産)は「人間社 会の存在と発展の根本条件」であるのに対して サービス(提供)はそうではないという主張は,
厳密にいうと,①物質的財貨(の生産)は,す
. .
べて「人間社会の存在と発展の根本条件」であ
. . .
り,②サービス (提供)はすべてそうではな い,という主張である。そうでなければ,一般 論として,物質的財貨(の生産)は「人間社会 の存在と発展の根本条件」であり,サービス
(提供)はそうではない,と主張することはでき ない。そして, ③物質的財貨(の生産)が「基 礎になって……〔サービス(提供)〕が維持され る」という関係によって,①及び②を根拠づけ ようとするものである。
これら①〜⑧の主張の当否の検討のために は,何といっても「人間社会の存在と発展の根
本条件」ということの意味するものを予め明確 にしておかなければならないが,遺憾ながら金 子氏はこれに明確な定義を与えてはいない。ま た,先程見た,上掲の主張の言い換えの文脈か ら判断して,その中に出てくる「社会の全成員 の生活維持費」等もこれを意味しているのでは ないかと考えられなくもないが,これとて到底 明確とはいいかねる。 こうした事情から, 「人 間社会の存在と発展の根本条件」の意味するも のについては,この文言から常識的にあまり極 端にはみ出さない限りの内容ーーたとえば円滑 な再生産とその拡大,発展の条件等一ーを想定
して検討していくことにしたい。
そこで,始めに①について考えると,これに ついてまず指摘しなければならないのは,物質 的財貨の中には,たとえば,生産手段としても 生活手段としても使用されない軍需品,生活手 段ではあるが,その消費を通して労働力の再生 産には寄与しない奢{多品, また麻薬等の有害 物,さらに,油脂,砂糖,アルコール,タバコ 等,過度の消費が行われれば健康を害し,労働 カの再生産を妨げるもの等が多数あるというこ とである。多くの場合これらの財(の生産)が,
仮に存在しないとしても,円滑な再生産もその 拡大,発展も阻害されないから,それらは「人 間社会の存在と発展の根本条件」とはいえない であろう。ついでにいえば,これらの生産物を 生産するために使用される生産手段,さらには それに必要な労働力の再生産のために消費され る生活手段も同様の性格をもとう。だから,物 質的財貨(の生産)の多くが「人間社会の存在 と発展の根本条件」であることは否めない事実 であるにしても,すべての物質的財貨(の生産)
がそうであるとは到底いえない。
次に②についていえば,以上とは逆に,サー
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ビスのなかには, たとえば教育や医療等のサー ビスのように,労働力の形成,維持に不可欠で あり,
大,発展はありえないものもある。また,金子 氏は言及するところが全然ないが,今日では生 産過程でも消費過程でも,
種の修理サービスを必要とし一ーたとえば工場 の機械の修理,家庭で使う耐久消費財の修理等
これなくしては円滑な再生産とその拡
これなくしては生産も消費も円滑におこ なわれえない。
(提供)が「人間社会の存在と発展の根本条件」
ではないとはいえないことは明らかである。
サービス (提供)
るものと,
り, サービス
その遂行のために各
したがって,すべてのサービス
ある。ところが,
にも. かかる 「根本条件」
であるものとないものとがあるというべきであ る。
このようである限り,質物的財貨(の生産)
にも「人間社会の存在と発展の根本条件」であ そうでないものとがあり,サービス
(提供)にも,「人間社会の存在と発展の根本条 件」であるものとそうでないものとがある,と いうべきであり,物質的財貨(の生産)は,す
.
.
べて「人間社会の存在と発展の根本条件」であ
. . .
(提供)はすべてそうではないと いうのは,明らかに誤りである。すなわち①,
Rとも誤りである。
以上は③とは独立にいえることであるから,
③自体がすでに無意味化していることは明らか だが,一応これについても考えてみよう。
③は,容易に看取できるように,論理的には
「〔一方が〕基礎になって……〔他方が)維持さ れる」という関係に,前者が「人間社会の存在
と発展の根本条件」である根拠を求めるもので こうした論理を一貫させるな らば,明らかに,物質的財貨(の生産)がすべ て「根本条件」であるとはいえず,
ス(提供)のすべてがそうではないともいえな し
゜
たとえば,生産手段としても生活手段として も使用されない軍需品,
品,
また生活手段として消 費されても労働力の再生産には寄与しない奢{多 あるいはすでに労働能力を喪失した人々の 消費する生活手段等(の生産)は, これらを生 産するために必要な生産手段の生産と,
不可欠であり,
そのた めに必要な労働力の再生産に必要な生活手段の 生産に一方的に依存している。したがって,こ れらの諸財間の関係は,後者が「基礎になって
……〔前者が〕維持される」という関係にある。
だから金子氏の立場からいっても,軍需品等の 財の生産は,物質的財貨の生産ではあっても,
明らかに「根本条件」とはいえない。
また,質物的財貨の生産に必要な労働力の形 成,維持には,教育,医療等のサービス提供が それを再生産する消費過程には 各種の修理サービスが欠かせない。さらには物 質的財貨の生産過程でも同様に各種の修理サー ビスを欠くことはできない。要するに物質的財 貨の生産には,直接か間接かこれらのサービス の投入を必要としており, この限りでは, これ らのサービス提供と物質的財貨の生産の間に は,前者が「基礎になって……〔後者が〕維持 される」という関係が存在する。このようであ れば,これらのサービス提供もまた「根本条件」
であるといわねばならない8)0
またサービ
‑ 92 ‑
8) 金子氏もこうした反論を予想してか, 「もっと も前者〔物質的財貨の生産〕と後者(サービス提 供〕とは相互に作用を及ぽしあい,後者はまた前 者に影響を与えるのであるが,前者が後者を維持 するということが第一義的=根本なのである」
(前掲書, 7ページ)と述べている。 しかし,何 故このように「第一義的=根本なのである」とい えるのか,その説明は全然ない。
尚,本文におけるわれわれの批判に対しては,
教育,医療等のサービスの提供活動それ自体に,
:•3:.上i.i.9i・1t;,
••
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以上のようであるとすれば,「〔一方が〕基礎 になって……〔他方が〕維持される」という関 係に前者が「人間社会の存在と発展の根本条 件」である根拠を求める限り,物質的財貨(の 生産)がすべてかかる「根本条件」であるとい うことはできないし,サービス(提供)がすべ てかかる「根本条件」でないともいえない。だ からこのような関係によっては,物質的財貨
(の生産)がすべて「人間社会の存在と発展の 根本条件」であり,サービス(提供)はすべて そうでないということは根拠づけえない。よっ て③もまた誤りである。
このように,金子氏の主張①〜③はいずれも 誤りであって,物質的財貨(の生産)は「人間 社会の存在と発展の根本条件」であるのに対し てサービス(提供)はそうでないとは到底いい えない。したがって両者の間に「人間社会の存 在と発展の根本条件」であるか否かという点で 本質的な相違がある等ということも,決してい
えることではない。
(3)
次に,金子氏のいう物質的財貨(の生産)と サービス(提供)との間の本質的相違にもとづ いた,同氏のサービス労働の非価値形成の論証 について見てみよう。もとづくべき当の本質的 相違がすでに明らかにしたように架空のもので ある以上,これにもとづいて行わるべき「論証」
さらに物質的財貨が不可欠であることをもって反 論する向きもあるかもしれない。しかしこうした 反論は無意味である。それには,さらに.その物 質的財貨の生産にまたこれらのサービス提供か不 可欠であることをもって再反論することが可能だ からである。要するにこうした議論は堂々巡りで あり.その意味するところは.両者の関係は相互 依存的であり.どちらかが「第一義的=根本」で
ある等とはいえないということである。
が論証たりえないであろうことは,わざわざ論 ずるまでもないことであるが,一応見ておくこ
とにしよう。
その金子氏の論証であるが,先に説明したよ うに, 同氏は, 「商品の価値〔は〕……物質的 財貨であるその商品の使用価値に担われて存在 する」, したがって「物質的財貨である商品を 生産する労働が価値を生むのであり,サービス
……労働は価値を生まない」という結論を,
「社会の全成員の生活維持費=『支払の元本」で あるのは,質料的には物質的財貨である」とい うことを理由に導き出して,サービス労働の非 価値形成の論証としていた。しかし,かかる関 連が,何故「商品の価値〔が〕……物質的財貨 であるその商品の使用価値に担われて存在」し なければならないと結論することの理由になり うるのか,このこと自体は当然説明を要するこ とであり, また肝心要の非常に重要な点であ る。ところが金子氏の上の説明には明らかにこ の部分が欠落している。何の説明もなくただこ う主張されているだけである。したがって金子 氏のこの「論証」は,予想された通り全然論証 になっていないのである。
これはいささかあっけない結末であるが,そ れは十分理由のあることといわねばならない。
先に説明したように,ここでサービス労働の 非価値形成の結論を導き出す理由とされている
「社会の全成員の生活維持費=「支払の元本」で あるのは,質料的には物質的財貨である」とい う関連は,物質的財貨(の生産)は「人間社会 の存在と発展の根本条件」であるのに対してサ ービス(提供)はそうではないという関連の言 い換えであり,したがってそれと同義である。
しかし,すでに明らかにしたように,両者の間 にはかかる本質的相違はそもそも存在しないの
経 済 学 研 究 だから,これと同義の「社会の全成員の生活維 持費=『支払の元本』であるのは,質料的には 物質的財貨である」ということそれ自体も,実 は存在しない架空のものである。ところが存在 しもしない架空の関連にもとづいては,サービ ス労働の価値形成いかんというような経験的事 実に関する主張に妥当な理由づけをする等とい うことは,そもそもできるはずのないことであ る。そしてこの故に上述の欠落が生じ,論証と しての体を為さない結果となったのである。
尚,金子氏は,上で問題にした箇所のすぐ後 で,「マルクスは商品の価値を物質的財貨であ るその商品の使用価値に担われて存在するもの と把握した」ということを受けて, 「もしも,
価値がそのように物質的財貨=使用価値に担わ れていないものならば, 〔価値は〕 その社会の 全成員の生活維持費=『支払の元本」とはなり
. . . . .
えないものになってしまうからである」と述べ ている。これも文脈からして,「商品の価値〔が〕
……物質的財貨であるその商品の使用価値に担 われて存在」しなければならないことの理由を 述べたものと解することができるものである が, このように解してさしつかえないとすれ ば,金子氏は,ここでは,価値が「社会の全成 員の生活維持費=『支払の元本」」である,ある いはそれになるべきものであるということを前 提として議論をし,「商品の価値〔が〕……物 質的財貨である……商品の使用価値に担われて 存在」しなければそうはならないから,それは
「物質的財貨である……商品の使用価値に担わ れて存在する」と主張していることになる。し たがって,かかる帰謬法的表現ではなく,直接 的表現を用いるならば,価値は「社会の全成員 の生活維持費=『支払の元本』」である,あるい はそれになるべきものであるから,それは「物
第51巻 第 1・ 2号
質的財貨である……商品の使用価値に担われて 存在する」と主張していることになる。
以上で主張されていることが,すぐ上で見た 説明とどういう関係にあるのか,率直にいって よくわからない。また,先に見たように「社会 の全成員の生活維持費」及び「支払の元本」等 は「質料的」関連に関して用いられていたのだ から,「質料的」関連ではない価値が,「社会の 全成員の生活維持費=『支払の元本』」である,
あるいはそれになるべきものであるとされてい る,この前提それ自体も説明の必要があろう。
しかし,これらの点を不問に付したとしても,
以上の主張が全然論証になっていないことは明 白である。なぜならば,価値が「社会の全成員 の生活維持費=『支払の元本』」である,あるい はそれになるものであるということが,いかな る理由から「商品の価値〔は]……物質的財貨で ある……商品の使用価値に担われて存在する」
という結論を導くのか,当然説明を要すること であるが,これも全然説明されないままになっ ているからである9),10)0
9) 金子氏の主張には,本文で指摘した点以外にも いくつか疑問な点がある。
その一つは,方法論的な問題で,同氏のように
「史的唯物論(唯物史観)の考え」をサービス労 働の価値形成性いかんというような価値論の問題 の基礎として用いることの根拠についてであり,
同氏はこのことを何等証明することなく自説を展 開している。金子氏の主張のかかる側面を批判し たものとしては,赤堀邦雄「『唯物史観」とサー ビスの経済学」(『経済系』関東学院大学,第93集, 1972年), 及び飯盛信雄「唯物史観とサービス部 門」(『経済論集」佐賀大学,第15巻第1号, 1982 年)がある。
二つ目は,金子氏の,「サービスとは·…••物質的 財貨の生産過程にたずさわる労働と対立〔する〕…
…直接に人間に働きかけ,したがって物質的財貨 を生産することをとおしてではなく直接に人間の 欲望を充足させる労働である」(前掲書, 4ペー ジ)というサービスのとらえ方で,それは明らか に妥当でない。何故かというと,クリーニング,
衣服の仕立,各種の物質的財貨の修理サービス
‑ 94 ‑
2. 人間の自然への働きかけとサーピス
—山田説ー一
(1)
『資本論』冒頭商品論の価値は商品の価値で
......
あり,もっと正確にいえば生産物である商品の 価値である。 し た が っ て 価 値 を 形 成 す る 労 働 等 「直接に人間に働きかけ」るのではないサー ビスが現実には多数あり,また,衣服の仕立.部 品の委託加工及び機械の修理サービス等,直接に
「物質的財貨の生産にたずさわる」. したがって
「物質的財貨を生産することをとおしで••…人間 の欲望を充足させる」サービスも現実に多数存在 するかである。
金子氏の上掲のサービスの定義は,サービス提 供を非物質的労働とし.これを物質的財貨の生産 と排他的に対立させるところにその狙いがある。
しかしこのことの不当性は,以上の点からも明ら かであり, このことを考慮に入れるなら, 「人間 社会の存在と発展の根本条件」をもって価値形成 労働であるか否かの判定基準とし,しかも物質的 財貨の生産だけが「人間社会の存在と発展の根本 条件」であるとする金子氏の立場に立っても,す べてのサービス労働が価値を形成しないとはいえ ない。 したがって金子氏の立場に立ったとして も,一般論としてサービス労働の非価値形成は主 張できない。
最後に,かつて長岡豊氏が,金子氏と方法論的 には全く同一の見地から,結論としては逆の主張 を行ったことがある。すなわち物を生産する労働 だけが生産的労働であり,かかる労働だけか価値 を形成するというマルクスの考え方の背景には,
「「物」を生産する労働だけが人間社会存続の基本 的条件であるという唯物史観の認識」があり,か かる認識を甚礎に,物を生産する労働=生産的労 働=価値形成労働という考え方がされている。し かるに生産力の発展とともに「「物」以外に,多 様なサービスの充足……の〔人間社会存続の〕基 本的条件としての重要性が高ま〔り〕……現代社 会では基本的条件を「物」の生産を遂行するだけ の労働に限定することはできない」から,すなわ ちサービス労働も「〔人間社会存続の)基本的条 件」であるから,それも価値を形成するとすべき だと主張した。(以上,長岡「サービス労働と価 値」,前出「労働と資本」所収)
以上のような長岡氏の主張に対しては,主とし て通説的見地に立つ多くの人々から,同氏は「価 値規定のなかに労働の有用的性格・使用価値視点 をしのびこませている」という批判がなされた
(同上)が, 同様の批判は,結論は長岡氏と正反 対とはいえ,「人間社会の存在と発展の根本条件」
...
は,商品として販売される生産物を生産する労 働(の抽象的人間労働の側面)である。この点 から考えるならば,サービス労働の価値形成い かんは,商品生産を前提するなら,それが,生 産 物 を 生 産 す る か 否 か に か か っ て い る と い え る。そして,かかる観点から問題を論じ,人間 の自然への働きかけを生産の概念と不可分のも のととらえ, したがって物質的財貨生産労働だ けが生産物を生産するととらえ, 「自然への働 きかけを行わない」サービス労働の非生産物生 産を根拠に,その価値形成を否定するのが山田 喜志夫氏である。
山田 氏 は,国 民 所得生 産 労 働 の 問 題 と の 関 連 でサービス労働の性格を論じ, まず, 「国民所 得 と は 社 会 的 総 生 産 物 の 一 部 で あ る か ら , 国 民 所 得 を 生 産 す る 労 働 と い う こ と は 生 産 物 を 生 産 する労働と同義である」1)と 規 定 す る 。 こ こ で いう国民所得は価値概念であり,質料概念では であるか否かという使用価値的相違に,物質的財 貨生産労働の価値形成とサービス労働の非価値形 成の根拠を求める金子説にも, 当然あてはまるも のである。
10) 「史的唯物論(唯物史観)の考え」へのもとづ き方はいく分異なるが,金子氏とほぼ同様の主張 が斎藤重雄氏によってもなされている。同氏は,
金子氏が「人間社会の存在と発展の根本条件」と 名付けた生産物(物質的財貨)とサービスとの関 係を,史的唯物論の上部構造,下部構迭というと らえ方になぞらえて,前者が「基層」であり,後 者がその上に成立する「上層」であるととらえ,
これを「使用価値の階層性」と名付け(以上.同 氏著『国民所得論序説』時潮社, 1984年刊, 34ペ ージ及び182‑3ページ), こうした「使用価値 の階層性」が.「一方の労働〔物質的財貨生産労 働〕を価値にするのに対して,他方の労働〔サー ビス労働〕を価値にしない」(同上,35ページ及び 182ページ)と主張し,サービス労働の価値形成を 否定している。尚,同氏においても,「使用価値の 階層性」ということから何故サービス労働の価値 形成の否定が導き出されるのかという肝心の点に ついては,明確な説明がなされているとはいえな い(同上, 35ページ及び182‑3ページ参照)。
1) 山田喜志夫著『再生産と国民所得の理論』評論 社, 1968年刊, 117ページ。
‑ 95 ‑
経 済 学 研 究 ないから,上の最初のくだりは,正確には「国
. . .
民所得とは社会的総生産物の〔価値の〕一部で ある」というべきである。だから山田氏は,
「国民所得を生産する労働ということは生産物 を生産する労働と同義である」ということによ って,価値を形成する労働は生産物を生産する 労働である,といっているわけである。そして 同氏は, サービス労働については, 「サービス
〔労働〕 は, 資本制サービスであれ何であれ…
…生産物を生産しない。したがって,サービス
〔労働〕は社会的総生産物(の価値〕の一部たる 国民所得を生産しない」2) という。 すなわちサ ービス労働は生産物を生産しない,だから価値 は形成しないというわけである。
以上のような山田氏の問題の立て方自体は,
われわれも肯定できる。したがって山田氏の主 張の当否は,生産と生産物の概念,及びそれと の関連において規定されているサービス(労 働)のとらえ方いかんにかかっているといえ る。
まず前者についていうと,山田氏は,生産を
「人間が人間の外部の自然に対して……働きか け」,「自然質料を人間にとって有用なものに変 形」することであると規定し,この働きかけに よって「自然が変形,加工された結果たる財貨」
が生産物であると規定する3)。こうした規定か らもわかるように,同氏においては生産の概念 は, 「人間の……自然に対して 〔の〕……働き かけ」ということと不可分のものと規定されて いる。そして, これに対しサービスは,「労働
2) 同前, 119ページ。
3) 同上, 112ページ。 尚,このような生産及び生 産物の概念が,マルクスが「資本論」第1巻第5 章第1節「労働過程」において,人間の自然への 働きかけをもって生産と規定し, 「形態変化」さ れた「自然素材」を生産物と規定したのと同ーで あることは,容易に看取できよう。
第51巻 第 1・ 2号
それ自体の有用性のことであって,入間ら自然
...
に対する働きかけではなく,人間の直接人間を 対象とする活動である。……自然に働きかけず 生産物を生産しない不生産的労働がサービスで ある」4) と規定されている。 このサービスの規 定を見ると,それが「人間の自然に対する働き かけではな〔い〕」ということが強調されてい ることがわかるが,そのことと,上の生産の概 念が,「人間の……自然に対して〔の〕……働き かけ」ということと不可分のものと規定されて いることとを考慮するなら,サービス〔労働〕
は,「人間の自然に対する働きかけではな〔い〕」
から,「生産物を生産しない……労働」である,
と規定されているといえる汽
仮に,こうした山田氏の生産及び生産物の概 念,並びにサービスのとらえ方が妥当であると したら,そこからは,サービス労働は生産物を 生産しないのだから,それは商品として販売さ れる生産物は生産しない,したがってそれは,
生産物たる商品のもつものであるその価値は形 成しない,という結論が必然的に従ってくる。
(2)
以上のように, 山田氏の主張は, 「人間の…
…自然に対して〔の〕……働きかけ」というこ とと不可分の生産の概念と, 「人間の自然に対 する働きかけではな〔い〕」というサービスのと
4) 同前, 114ページ。
5) 山田氏の「サービス」が直接意味するものは
「労働それ自体の有用性」ということであり, こ のとらえ方は,サービスをサービス労働の生産物 ととらえる比較的多くの肯定説に属する諸論者の 考え方との対比でいえば,大部分の否定説並びに 赤堀邦雄氏等一部の肯定説の諸論者のとるサービ ス=労働説に属するものである。そして山田氏 は,サービス労働が「人間の自然に対する働きか けではな〔い〕」ということによってそれを根拠 づけようとするものである。
‑ 96 ‑
らえ方との二つから構成されており,したがっ て同氏の主張の当否もこの二つの点の当否に依 存している。
最初に生産の概念から見て行こう。
これについてまず指摘したいのは,先に掲げ た山田氏の生産の概念には,二つの一応別の要 素が,あたかも不可分であるかの如く入り交じ っているということである。それは,①生産と は「人間が……自然に対して……働きかけ」る ことであるということと,②生産とは,何らか のものを「人間にとって有用なものに」するこ とであるということである。上でも述べたよう に,同氏は①を生産の概念にとって不可分のも のと考えている,あるいは少なくとも,②は必 ず①として行われると考えている。だから生産
. . . . . .
を上述のように, 「人間が……自然に対して…
. . . . .
…働きかけ」,「自然質料を人間にとって有用な ものに変形」することであると規定し,そこか
. .
ら,「自然が変形,加工された結果たる財貨」
が生産物であるという生産物の概念を導き出し ているのである。 したがって同氏は, 「人間が
……自然に対して……働きかけ」るということ が生産の本質的要素であると考えているといえ る。
しかし,たとえば登山や海水浴等のレジャー が「人間が……自然に対して……働きかけ」る 活動であることは明白であるが,だからといっ てこれらが生産であるとはいえない。だから① そのものは,独立に,人間のある活動を生産と 規定する要素ではないことは明らかであり,し たがって生産の本質的要素であるとはいえな い。他方,同じ登山等のレジャーの例からもい えるように,人間のある活動が,何等かのもの を「人間にとって有用なものに」するのでなけ れば,それがたとえ「自然に対して〔の〕……働
きかけ」として行われたとしても生産とはいえ ないことも,議論の余地がない。だから生産の 概念にとって本質的であるのは, 明らかに② の,何らかのものを「人間にとって有用なもの に」するということであり,①は②を目的に行 われる場合にのみ,それは生産となるというべ きである。したがって,②が必ず①として行わ れる場合にのみ,山田氏の生産の概念は肯定さ れる。しかしこのこと自体は説明さるべきこと であって自明のことではない。すなわち何等か のものを「人間にとって有用なものに」すると
. . . . . .
いうことが,山田氏のいう「自然に対して〔の〕
……働きかけ」以外の活動によっても行われる としたら,この活動も生産であり,したがって 同氏の生産の定義は妥当でないということにな
らざるをえない。
以上のようであるから,山田氏の生産の概念 の当否は,同氏によって「人間の自然に対する 働きかけではな〔い〕」とされているサービス 労働がこうした活動を行わないといえるかどう かということにかかっているが,サービス提供 の実際に即して見るならば,同氏の不利は明白 である。
たとえば衣服の仕立サービスでは,布が衣服 という「人間にとって有用なもの」にされ,音 楽家のステージ演奏では,空気が楽器によって 振動させられ,一定の音色,拍子,強弱,旋律 等を備えた音すなわち音楽という「人間にとっ て有用なもの」にされる。また教育サービスで は,学力が形成され,医療サービスでは,病に 冒された身体が健康な身体にされる。学力や健 康な身体が「人間にとって有用なもの」である ことはいうまでもないことであって,これらの サービス提供において対象がかかる「人間にと って有用なもの」にされることは議論の余地が
‑ 97 ‑
経 済 学 研 究 ない。このようである限り,何等かのものを
「人間にとって有用なものに」するということ
...
は,山田氏のいう「自然に対して〔の〕……働 きかけ」以外の活動によっても行われるのだか ら,②が必ず①として行われるとはいえない。
したがって山田氏の生産の定義は明らかに妥当 でない。この故にそれを基準に生産と非生産と を区別し,したがってある活動の生産物生産の 存否を判定することはできないことである。だ
......
から,サービス労働が,仮に山田氏のいう「人 間の自然に対する働きかけではな〔い〕」として も,そのことをもってサービス提供が生産では なく,サービス労働が生産物を生産しないとは いえない。
(3)
このように,そもそも基準となるべき生産の 概念が妥当でないのだから,「人間の自然に対 する働きかけではな〔い〕」というサービスのと らえ方の当否いかんにかかわらず,既に山田氏 の主張の当否は決しているというべきである。
しかし,このことの当否も,問わるべき価値の 十分あるものであるから,ともかくその点も見 ておくことにしたいが,結論を先回りしていう なら,こうしたサービスのとらえ方は,かつて 旧稿でも指摘したとおり6), サービス提供の事 実を無視したものとしかいいようがないもので ある。
簡単に数例を挙げるに留めたいが,衣服の仕 立,クリーニング,家屋や生産設備の修理等の,
物的対象を加工したり修理したりするサービ ス,あるいはペットの理容,獣医のサービス等
6) 拙稿「労働の対象化,物質化,凝固とサービス 労働」(『経済学研究」九州大学,第42巻合併号,
1977年,所収)の第6節。
第 51巻 第 1・ 2号
のサービス提供における労働が,山田氏のいう
「人間の……自然に対して〔の〕……働きかけ」
として行なわれることは議論の余地はないであ ろう。あるいはこれとは幾分性質を異にする,
無形物を提供するサービスである,演奏家によ る音楽のステージ演奏等の場合,彼等は楽器を 使って空気を振動させて,一定の音色,拍子,
強弱,旋律等を備えた音を発生させるが,この
...
場合の活動の対象は自然である空気であり,こ れを振動させて上述のような音に変えるのだか
ら,ここでも活動が「自然に対して〔の〕••…•
働きかけ」として行われることは明白である。
これらのサービス提供をサービス提供から除外 するのでないかぎり,サービス(労働)一般を
「人間の自然に対する働きかけではな〔い〕」と 規定することは決してできない。また,教育,
医療等肛接人間を対象とするサービス提供の場 合には,確かにそこでは「人間の外部の自然に 対して……働きかけ」はしないが,人間もまた 自然の一部であり,人間と「人間の外部の自然」
との区別は,非自然と自然との区別と同一では ないのだから,これらのサービス提供の場合で も,これを「人間の自然に対する働きかけでは な〔い〕」ということはできない。
いずれにせよ,サービス提供の実際に即して 見る限り,それが「人間の自然に対する働きか けではな〔い〕」とは到底いえない。したがって,
既に明らかにしたように妥当とはいえないが,
仮に「人間が·…••自然に対して……働きかけ」
るということを生産の本質的要素として認めた としても,この生産の概念によっては,サービ ス提供は生産ではないとはいえない。つまり生 産の概念について山田氏の立場に立ったとして も,サービス提供が生産ではないとはいえな し,サービス労働の生産物生産も否定すること
‑ 98 ‑
はできない。
(4)
以上で見てきたように, 山田氏の, 生 産 を
「人間の……自然に対して〔の〕……働きかけ」
ということと不可分のものと考える生産の概念 と,「人間の自然に対する働きかけではな〔い〕」
というサービス(労働)のとらえ方のいずれも が,決して妥当なものとはいえない。この故に,
サービス労働の生産物生産の存否をもって, そ の価値形成を判定する山田氏の問題のたて方は 評価できるものの,同氏の「サービス 〔労働〕
は••…•生産物を生産しない。 したがって, サー ビス〔労働〕は社会的総生産物〔の価値〕の一部 たる国民所得を生産しない」という主張.すな わちサービス労働は生産物を生産しないから価 値は形成しないという主張自体は.妥当でない
と結論しなければならない。
3. 労 働 の 対 象 化 ・ 物 質 化 と サ ー ビ ス 労 働
—大吹説ー一
(1)
「資本論」第1巻の冒頭商品論では. 価値は
...
商品に対象化・物質化した労働(抽象的人間労 働)と規定されている。この価値の概念との関 連でいえば.否定説は.物質的財貨生産労働だ けが商品に対象化等々し, サービス労働はしな いから価値は形成しないと主張していることを 意味する。このような観点から否定説を展開し ている論者に大吹勝男氏がいる1),2) 0
大吹氏は, 「活動状態にある有用労働である
1) 大吹氏に先行してほぼ同様の主張を展開してい る論者に,故遊部久蔵,荒又重雄の両氏がいる
(遊部「生産的労働とサービス」,同氏著「労働価
サービス『商品」はそれ自体として対象化され た労働を実体とする価値を有するということは ありえない」3)' 「サービス『商品」は活動状態 での労働そのものであるがゆえにそれ自体とし ては価値をもたず, また生きた労働として価値 の源泉ではあるが価値形成労働ではない。こう
...
したことは…••価値とは対象化された労働であ ...
るという規定を堅持する限り,サービスを生き
...
た労働と規定したときにすでに与えられている
. . . . .
結論である」4) と主張している。
以上に見られるように,同氏はサービス商品 を,労働によってつくりだされた, その結果た る対象,すなわち労働の生産物ではなく,労働 それ自体,活動状態の労働ととらえている。そ して,同氏がいうようにサービス商品が活動状 態の労働であるなら,活動状態の労働は, それ が対象化等々した労働ではありえないが故に,
サービス商品は 対象化等々された労働である 価値はもたず, またサービスとして行われる労 働も, サービス商品に対象化等々しないがゆえ 値論史研究J世界書院,1964年刊,所収。荒又重雄
「生産的労働論新考」,「経済学研究J北海道大学,
第25巻第3号, 1975年,所収)。
また問題の論じ方はいく分違うが,広田純氏も 同様の観点から否定論を展開している(広田「国 民所得統計・産業連関表によるわが国主要産業の 剰余価値率の推計」,雑誌『経済J1975年4月号 所収)。
遊部,荒又両氏の見解については,前出の拙稿
「労働の対象化,物質化,, 凝固とサービス労働」
でふれているので,参照を乞う次第である。
尚,広田氏の上掲論文には,上の見解とは異な る,サービス部門への価値法則の不貫徹説とでも いうべきもう一つの否定論がある(同上, 116‑
7ページ)。 しかしこの主張は, 遣憾ながら論証 抜きの単なる主張に止まっている。
2) 大吹氏には本節で取り上げたのとは異なる見地 からの否定論があるが,その点については本稿第
5節で言及する。
3) 大吹勝男「人間の運輸とサービス」「経済学論 集」駒沢大学, 第16巻第1号, 1984年, 109ペー
ジ。
4) 同上誌, 110ページ。
経 済 学 に.価値を形成することはありえない.
ことに当然なる。
研 究 という
第51巻 第 1• 2号
・・・・・・労働」 であるということと, 「労働とは区 別された労働生産物を生産」しないということ このようだとすると, この説の当否は, サー とが不可分ものととらえられており, したがっ ビス商品=活動状態の労働というサービス商品
のとらえ方の当否いかんにかかっているといえ る。 したがって問わるべきは,いかなる論拠か らこのようにとらえるのか,ということである。
大吹氏の場合, それは, サービス提供の種類 に応じて二つ提出されている。
その一つは,歌手の歌唱や音楽のステージ演 奏等の,人を対象とする,同氏のいう「人的サ ービス」の場合におけるもので,
しないならば,
見られるように,
そこにおいて は,サービス労働はその成果・結果としての生 産物を生産しない,あるいはそれは労働それ自 体と区別される生産物を生産しないというもの である。すなわちサービス労働が生産物を生産 その場合には,売買の可能性の ある対象として残っているものは労働だけとな り,サービス商品は労働それ自体であるという ことになる。その点を大吹氏は次のように説明 している。
「〔サービスは〕活動状態での労働の形態でし か人間の必要を充たすことができない労働であ
...
り,労働とは区別された労働生産物を生産する
...
わけではない。」5)
「〔サービス企業の〕資本家は労働力を買って それを働かせてはじめて使用価値=労働を手に 入れる。そして.その労働の働きを売る。つま
...
り.その労働が対象的生産物を生産しない労働
...
である限り,資本家は生きた労働を売る以外に
...
ないのである。」6)
サービスが「活動状態での
5) 同前。
6) 大吹「サービスおよびサービス労働の概念につ いて」,前掲誌,第12巻第2・ 3合併号, 1980年, 207ページ。
て後者をもとに前者のようなとらえ方がなされ ていると解され,さらには,「〔サービス〕労働 が対象的生産物を生産しない労働である」がた めに,「資本家は生きた労働を売る以外にない」
と,すなわち商品として売買されるものは労働 であると主張されている。
以上のようだとすると,次に問わるべきは,
いかなる理由でこの種のサービス労働は生産物 を生産しないといえるのかということである。
その点を大吹氏は,「『サービス提供過程」では,
対象的生産物の生産のように商品の基体を形成 する労働対象が存在しない。
では新たな対象的生産物が生産されることはな く本来的商品は生産されない」7)と説明してい る。
ここでいう「対象的生産物」とは労働生産物 を意味し,「商品」,
のもとで,
したがって,
「本来的商品」
そこ
とは労働生 産物である商品を意味している。だからサービ ス提供の場合は「対象的生産物の生産のように
. . .
商品の基体を形成する労働対象が存在しない」
ということは.そこでは.生産物の生産が行わ
. . .
れる場合のように.生産物の基体を形成する労 働対象が存在しないということである。そして このようにいうからには.生産物生産において は.一般に労働対象が生産物の基体を形成し.
それが「新たな……生産物」になるということ が前提になっているといえる。そしてこの前提
サービス提供においては生産物の基 体となるべき労働対象が存在しないから,「新 たな……生産物が生産されることはな 〔しヽ〕」
7) 大吹「人間の運輸とサービス」.
ージ。
前掲誌, 93ペ
‑100‑
と主張しているのである。
しかし,以上のような大吹氏のサービス労働 の非生産物生産の主張は,この主張それ自体に 論理的な欠陥があり,またこうした問題を論ず る際の問題の論じ方の点からいっても疑問であ る。
まず前者からいえば,大吹氏は,生産物の生
...
産が行われる場合は労働対象が生産物の基体と
...
なり,それが「新たな……生産物」となると前提 し,サービス提供における生産物の基体となる べき労働対象の欠如をもって,そこにおける生 産物生産を否定する。だが,同氏の前提にみら れる労働対象と生産物との関係は,明らかに物 質的財貨の生産,とりわけ加工・組立等の産業 における生産からとられたものである。そこで は,たとえば労働対象である布地が加工されて 衣服という新たな生産物となり,また各種の部 品が組み立てられて乗用車という新たな生産物 となるから,これらの産業では確かに労働対象 が生産物の基体となり,またそれが新たな生産
...
物となっている。したがってこれらの産業にお
. . .
いては,生産物の基体となるべき労働対象が存 在 し な け れ ば , 生 産 物 は 生 産 さ れ な い と い え
る。
...
しかし,こうした論理を,この産業ではない サービス提供における生産物生産の存否の判定 に使うことは明らかにできない。サービス提供 は,加工・組立等の産業ではなく,そこにおけ る生産とは異なる特色をもつ活動である。した がってそれに応じて,加工・組立等の産業とは 異なる,この産業独特の労働対象と生産物との 関係があるかもしれないのであり,そのことの 可能性は,加工・組立等の産業での関係がどう なっているかということによっては排除されえ ないからである。少なくとも,加工・組立等の
‑101‑
産業における労働対象と生産物との関係が,
.....................
生産一般における労働対象と生産物との関係で あることが予め証明されていない限り凡 その 可能性は論理的に排除はできない。ところが論 理的にはできないはずのことを,明らかに大吹 氏はしているのである。
次に後者の点についていうと,サービス労働 の生産物生産の存否は,すぐれて実際的な問題 であり,観察可能な経験的事実に関する事柄で
8) 加工・組立等の産業以外に目を転ずるならば,
物質的財貨生産部門に限ってみても,生産物の基 体のすべてが必ずしも労働対象ではない‑―ーした がって一般に労働対象が生産物の基体となるとは いえない—―ー,あるいは労働対象が生産物の基体 とはなっても,加工・組立産業のごとくそれが変 化させられて「新たな……生産物」となるのでは ない場合を容易に見出すことができる。
たとえば養蜂業における蜜の採取では,蜜蜂が これを行い,養蜂業者の行うことは蜜蜂の巣箱を 良好な状態に保ち,蜜の採取に適した場所にそれ を移動することであって,生産物の基体となるべ き蜜蜂が集めてくる花の蜜は彼等の労働対象では ない。勿論蜂蜜を巣から取り出すときにはそれを 労働対象とはする。その場面に限って考えた場 合,一応労働対象は生産物の基体となるとはいえ る。しかしその場合でもそれが労働によって変化 させられて新たな生産物となることはない。そし て上の場合の後者の例としては,漁労や鉱物資源 の採掘等の一部の採取産業が挙げられる。そこで は労働対象は労働によってその位置を変化させら れるだけで,素材性状上の変化はなにも起こら ず,労働対象は生産物の基体となるとはいえ,そ れは新たな生産物になるわけではない。
また,農業では,労働対象ではない空気中の炭 酸ガスや土中の水等が生産物の基体の重要な部分 を構成する。だから,労働対象であるものだけが 生産物生産物の基体を形成するとはいえない。
さらに電力の生産ー~これを物質的財貨生産部
門に入れることは議論の余地があるかもしれない 一の場合,労働対象は落下させる水(水力発 電), あるいは熱せられた蒸気(火力発電)と見 てさしつかえないと思うが,生産物である電力は こうした水や水蒸気をその某体としているとはい えない。
以上はわかりやすい例をいくつか挙げたものだ が,これらからだけでも,生産においては一般に 労働対象が生産物の基体を構成し,それが「新た な•…••生産物」となる等とはいえないことがわ かろう。