抵抗と 1960 年代アメリカ-大衆文化と政治
君塚淳一
*・赤木大介 **・名越萌美 ***・君塚貴久 ****
(2016 年 11 月 1 日 受理)
Encounters and America in the 1960s: Popular Culture and Politics
Junichi K
IMIZUKA* , Daisuke A
KAGI**, Moemi N
AGOYA*** and Takahisa K
IMIZUKA****
(Accepted November 1, 2016)
抵抗と 1960 年代アメリカ―大衆文化と政治」序論(監修著者として)
君塚淳一 はじめに
アメリカの
1960
年代は第二次世界大戦後に極度に保守化した1950
年代への反発から,「ペン ジュラム」が逆方向へ振り切るように大衆の時代が訪れる。その中心になったのが,「三十歳以上 は信じるな」(“Don’t Trust Over Thirty”
)と彼らが宣言していたように,いわゆるその下の世代であ る「ベビー・ブーマー」の若者たちで,対抗文化(Counterculture
)の名のもとに,これまでの多 くの旧体制文化の解体と新たな文化の構築をした。この政治的な
10
年間において,反戦や公民権を訴える政治活動に対して,大衆文化は間接的に,時に は直接的にも「大衆の心」に訴え,脇でこの運動を支えていたことは明らかだ。だが,真っ向から「闘 い」を挑む形ではなかったものの,逆にその効果は絶大であったとも言える。それはその後,イラク 戦争が2003
年3
月に開始され,反戦の意識が徐々に国内で動きだすと,アメリカ政府はなんとメディア に1960
年代のヴェトナム反戦を歌う曲をリストにし,放送しないよう指示したことでも理解できるだろ う。この
1960
年代において大衆文化はいかにアメリカにおいて政治的な効果を民衆に与えたのであ ろうか。章立ては1
章で「フォーク・ソングとプロテスト」,2
章で「公民権運動とロックン・ロー茨城大学教育学部教育学研究室(〒
310-8512
水戸市文京2-1-1; Laboratory of Education, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan).
日本大学非常勤講師(東京都千代田区神田駿河台 1-8-13; Nihon University, Tokyo 101-8310)
茨城大学大学院教育学研究科修士課程(〒
310-8512 水戸市文京 2-1-1; Graduate School of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan).
明治大学大学院法学研究科博士前期課程修了(東京都千代田区神田駿河台
1-1; Meiji University,Tokyo 101-8301)
*
**
***
****
ルそしてマン法」,
3
章で「ロックと大衆のパワー:ブリティッシュ・インヴェイジョンと人種差別そして
The Beatles
」,4
章で「映画と公民権運動」を扱うことにし,各章のテーマでその事例を探り分析することにした。これこそが今回,若手の研究者に依頼して執筆してもらった意図であ る。監修執筆者としての仕事は内容へのリクエストと文体の統一などを行った。また今後,この論 文を基にテキストや論文集へのステップアップを考える。当論文では
1950
年代から1960
年代を 扱うためアフリカ系アメリカ人と表記するべきところ,時代性を考慮してアメリカ黒人や黒人と表 記する場合もあることを記しておく。1章 フォーク・ソングとプロテスト
赤木大介 はじめに
反戦や黒人公民権の訴えと共に
1960
年代のフォーク・ソングは人々が集まるデモ活動での歌声 となった。そしてフォーク復興運動がカレッジ・フォークと共に盛んとなり若者世代の代表としてBob Dylan
(1941-
)を生み出した。1930
年代頃より「国民文化」となったフォーク音楽とその基盤を築きあげた
Woody Guthrie
(1912-1967
)やPete Seeger
(1919-2014
)の功績は60
年代のプロ テスト・ソングへと受け継がれていくこととなる。(1)フォーク音楽の特質
移民がアメリカに持ち込んだ民謡は日常生活の苦悩を歌う人々の声となり,その物語を後世に伝 えていくメディアとしての役割を担っていく。そしてフォーク音楽は楽器を演奏しながら個人や少 数派の意見を歌声で表現する
1960
年代のプロテスト・ソングになっていった。ギターを片手に場所 を選ばずに共に歌うことができるスタイルはカレッジ・フォークとして60
年代の表現手段となる。フォーク音楽の題材はもともと多岐にわたり,悲劇や事件,民間英雄,そして様々な抗議や抵抗の 歌がある。フォーク・ソングの父と呼ばれる
Woody Guthrie
は1932
年からの20
年間で1000
曲以上 の歌を作詞,作曲したと言われる。その楽曲では大恐慌の影響を受けた1930
年代の労働者達の苦 労を表現していた。John Steinbeck
(1902-1968
)の小説Grapes of Wrath
(1939
)で描写されているオ クラホマ州のオーキー(季節労働者)達の歌や中部平原地帯を襲った大砂塵(ダスト・ボウル)の 歌などが作られ歴史的な記録として貴重な資料となっている。彼の作品の中でも“This Land is Your Land
”はアメリカ第2
の国歌と言える位置づけとなりオバマ大統領の就任祝賀コンサートでも歌われた。
Guthrie
のソング・ライティングや歌い方,替え歌の手法は「ガスリー・チルドレン」といわれる
Bob Dylan
をはじめとする60
年代の若者達に引き継がれていった。Dylan
は次第にその才能が認められてフォークの貴公子として人気を得ることとなる。黒人公民権運動の歴史的なデモとなっ た
1963
年ワシントン大行進では彼の代表曲である“Blowin' in the Wind
”が同じくフォーク・グルー プの顔となったPeter, Paul and Mary
によって歌われた。この曲は黒人霊歌の“No Mo' Auction Block
for Me
”をもとにして作られたと言われている(三橋22
)。フォーク・ソングはアメリカが世界のリーダーとしての存在感を高める中で国家の文化的アイデンティティとなり,また社会問題とも結びつ きを強めて人々の表現手段としてのプロテスト・ソングに形を変えていったのであった。
(2)フォーク音楽における Pete Seeger の存在
兄貴的存在の
Guthrie
と一緒に放浪の旅をしながらソング・ライティングを学び,1940
年代以降 のフォーク音楽で重要な位置付けをもたらしたのがフォーク・ミュージックの父ともいわれるPete
Seeger
である。60
年代の社会問題がフォーク音楽と強く結びつきを持ち若者たちの支持を得たのは彼の地道な普及活動が背景にある。フォーク音楽の中心にあるのは言葉であり,旋律にあたるメ ロディについては皆がよく知っている,または一度聞いたらすぐに覚えられるものが何度も利用さ れ,いわゆる替え歌による手法で曲が作られていた。古い旋律は屋根をそなえた建物のようなもの で集会所や教会,病院など何度でも使えて目的に応じて形を変えていくことができると
Seeger
は 例えている(三橋28
)。彼のステージでの振る舞いはフォーク音楽の特徴をよく捉えており1940
年代にアパートに集まり歌を歌っていたフーテナニーの集会を彷彿させる。観客はSeeger
の歌声 を聴くだけの役割ではなく一緒に歌声として参加をする。歌詞をその旋律の前に伝える音楽技法は「シンガロング」と言われ聴衆が一緒に歌える工夫がなされた。さらに
Seeger
は聴衆がハーモニー を歌えるようにパート分けをしていき,最終的に自分は自由にアドリブをしながら歌声を重ねその 場にいる観客を歌う共同体にするのである。自分の後ろ側にも聴衆が並ぶ会場の客席配置はフーテ ナニーの効果をもたらし60
年代の歌の集会はその形式を引き継いでいったと言えるだろう。
2014
年に94
歳で亡くなるまでに常に社会問題と向き合っていたSeeger
の活動は労働運動から 公民権運動,反戦運動,そして環境問題にも発展をしていく。音楽民俗学者である彼の父チャール ズはかつてカリフォルニアで労働者達の過酷な実態を見て社会主義に目覚めており,Seeger
の左 翼的な取り組みに大きく影響を与えている。Seeger
にとっての共産主義思想が純粋な愛国心から きていることは彼の長年の音楽活動からも汲み取れる。またSeeger
はもともとジャーナリスト志 望であったこともあり,彼のフォーク普及活動はステージ上の演奏だけではなく出版活動でもその 才能を発揮している。1962
年に刊行された「アメリカのトピカル・ソングの雑誌」という副題を持つ
Broadside
誌では曲の紹介や記事の投稿を盛んに行なっている。この雑誌には,より多くの曲をより多くの人になるべく早急に広めていくという意図があり,楽譜と曲の解説が掲載されている。
これにより
Dylan
をはじめPhil Ochs, Tom Paxton, Malvina Reynolds
などのプロテスト色の強い若 手フォーク歌手が世間に名を広めていく機会となった。(3)1960 年代のフォーク復興運動とその後
1930
年代から1940
年代にかけてのフォーク音楽では労働問題が最大の関心事であった。ガス リーやSeeger
は第2
次世界大戦前にはThe Almanac Singers
を結成し労働組合のための音楽演奏集 団として労働問題を歌によって表現していた。その後のプロテスト・ソングの題材は60
年代の反 戦運動や黒人公民権運動に向けられていくこととなる。またSeeger
が立ち上げたThe Weavers
の“
Goodnight, Irene
”が1950
年最大のヒット曲となりフォーク音楽の商業化が進んでいく。商業ベースでの人気はフォーク音楽が世間的な影響力を強めていったことも示していた。その結果として
Seeger
とグループのメンバーは赤狩りを受けることになり,暫くの間,主要メディアから姿を消すことになる。
Seeger
にとっては辛い時期であっただろうが,フォーク音楽の歴史にとっては好 機と捉えることもできる。Seeger
は大学やラジオ局をゲリラ的にめぐりながら子供達や大学生を 対象とした地道なフォーク音楽普及活動を行い,後のカレッジ・フォーク世代を育てていった。60
年代における彼の活動は当時,国内での活動規制という理由もあり,世界ツアーを敢行しアメリカ 国外にもフォーク音楽の普及,そして反戦運動や公民権運動の歌を広めていった。
1960
年にリリー スされた“Where Have All the Flowers Gone?
”は多言語に訳されて世界規模での反戦歌となってい く。また公民権運動の代表曲となる“We Shall Overcome
”もSeeger
によって盛んに歌われていた。彼を尊敬し平和運動に専念した
Joan Baez
(1941
-)はこの曲をワシントン大行進で歌っている。1958
年にThe Kingston Trio
の"Tom Dooley"
がヒットし,Dylan
やバエズなどの若者世代のフォー ク歌手が人気を得るフォーク復興運動(フォーク・リバイバル)が全盛期を迎え,フォーク作品の 商業化がさらに進んでいった。この時期におけるフォーク復興運動のフォーク音楽ファンには大き く3
つのタイプがあったと言われている。公民権運動などの社会問題に関わろうとする者達,ビー ト族などにみられる反社会的なカウンターカルチャー系の青年達,そしてフォークを歌曲として愛 好する者達である(太田151
)。Dylan
はその中心的な注目人物となり60
年代前半にプロテスト・ソングの名曲を多く生み出しフォーク・ファンを魅了していた。
1965
年のニューポート・フォーク・フェスティバルでのロックへの転身事件以降はフォーク色が薄くなっていき最終的にはフォーク音 楽ファンを裏切っていくこととなる。しかし作品を重ねる毎に彼の才能は再評価を受けてフォーク
音楽の
Dylan
のみならず多くの音楽ファンの支持を受けていった。そして1950
年代後半から盛り上がりを見せるビート族は
Dylan
のロック転身と共にその反近代主義の傾向をヒッピー・ムーブ メントとして管理社会への不安をロック音楽の中に表現していくこととなる。おわりに
言葉に重点を置き,シンプルなスタイルで歌われてきたフォーク音楽は
1960
年代の社会問題と 繋がることにより少数派の意見を伝え,団結力を深めるプロテスト・ソングとなっていった。アメ リカ音楽としてのフォーク音楽の基礎を築きあげたGuthrie
や,長年の音楽活動で社会問題への取 り組みを続けてきたSeeger
の偉業があったからこそ,60
年代には若い世代が反戦運動や公民権運 動の中で抵抗の歌を盛んに歌いその伝統を引き継いでいくことができたのであろう。引用文献
太田睦『ボブ・ディランの転向は,なぜ事件だったのか』東京:論創社,2011.
大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ,ブルースからヒップホップまで』東京:講談社選書 メチエ,2013.
奥田恵二『「アメリカ音楽」の誕生 社会・文化の変容の中で』東京:河出書房新社,2005.
三橋一夫『フォーク・ソング アメリカ抵抗の歌の歴史』東京:新日本出版社,1967.
皆河宗一『アメリカフォークソングの世界』東京:岩崎美術社,1971.
2章 公民権運動とロックン・ロールそしてマン法
君塚貴久 はじめに
ロックン・ロールは
1950
年代半ばにアメリカ音楽界に登場し,当時まだ人種差別が激しい南部をも含むアメリカ全土,そしてその後は世界でも,人種を越えて若者の心を一気に掴んだ。だが その勢いも
1960
年代に入るか入らぬかのうちに急速に衰える。当時のアメリカと言えば,1950
年 代後半に本格的に始まった公民権運動は南部白人を困惑させ,二次大戦後の冷戦が生み出したマッ カーシズムは大衆を怯えさせ,朝鮮戦争も勃発していた。このような中でロックン・ロールはいか に政治的影響を受けて失速したのかを検証したい。(1)公民権運動のはじまりと 1950 年代の南部の状況
公民権運動は,
1955
年12
月1
日にアラバマ州モンゴメリでRosa Parks
(1913-2005
)がバスで 白人に座席を譲らなかったため,ジム・クロウ法(Jim Crow Law
)違反で逮捕されたことを契機に,赴任したばかりの
Martin Luther King Jr.
牧師(1929-1968
)が運動を率いた「バス乗車ボイコット 運動」に始まったと言われている。だがそれに先立つ
1954
年には「人種隔離の下での教育は平等ではない」とした,いわゆる「ブ ラウン事件判決(Oliver Brown et al. v. Board of Education of Topeka et al.
)」が最高裁から出される。ジム・クロウ法の中核となる,南部白人たちが死守してきた,
1896
年の「プレッシー対ファーガ ソン事件裁判(Homer A. Plessy v. Ferguson
)」における「分離すれど平等(Separate but Equal
)」と いう先例を完全に覆すことになるなどその予兆は起きていた。その一方で,南部ではアメリカ中が注目する事件も次々と起きる。中でも
1955
年8
月には14
歳の黒人少年Emmett Louis Till
(1941-1955
)が白人2
人に無残な姿で殺害されたが,「南部の裁判」で無罪になり,南部が抱える人種問題の根深さをアメリカ中に知らしめ,公民権運動への気運を高 めることになる。(1)因みにこの事件はアメリカ全土に衝撃を与え,多くの小説や戯曲の題材にさ れる。だが問題は南部白人の側で,これまでジム・クロウ法と「南部のルール」で公然と黒人への 差別を行ってきた体制が,じりじりと批判され後退を余儀なくされるという事態に,困惑と混乱を 感じざるを得なかったことは明らかだった。
(2)ロックン・ロールとアフリカ系音楽(黒人音楽)との関係
1920
年代に最初にレイス・レコードと名付けられた黒人のアーチストによる黒人大衆向けの販 売ジャンルとしてのレコードは,その後,リズム・アンド・ブルースに改名される。音楽ジャンル としてのブルースは,起源となる南部デルタ地域での,「カントリー・ブルース」,「シティ・ブルー ス」「シカゴ・ブルース」など地域や演奏法そして時代で進化を続けることになるが,一般的にロッ クン・ロールへの進化は,①「ギター,ベース,ドラム」というバンド編成と②電気化したエレキ・ギターやエレキ・ベースという楽器の使用,また③コード進行などの音楽的要素がそのまま移行さ れている。
このようなロックン・ロールへと繋がるリズム・アンド・ブルース人気が黒人を中心に高まりつ つあったことは事実である。
Charlie Gillett
はその著The Sound of the City: The Rise of Rock and Roll
(
1996
)で,「1954
年3
月発行『ビルボード』誌のリズム・アンド・ブルース特別号によれば,第 一次世界大戦前には黒人音楽市場は国内レベルではないに等しかった。(中略)しかし戦後の10
年 間でロサンジェルスには,成功したリズム・アンド・ブルースを専門とするインディペンデントの レコード会社が最も多くあった」と述べているからだ(Gillett 10
)。そんな中で,リズム・アンド・ブルースの熱烈なファンであった
DJ
のAlan Freed
(1921-1965
) がロックン・ロールという名のもとに,自らの番組「ロックン・ロール・パーティ」で,リズム・アンド・ブルースを白人の若者を含む,より多くのリスナーに人種偏見なく聞かせたいために流し 始めた。誰もが知るこの有名なストーリーを加えれば,まぎれもなく,ロックン・ロールの音源が ブルースにあることは明白な事実だろう。さらに当時の若者たちの側も,ジャズがインプロヴィゼ
―ションとスキルを追求する
Bebop
が主流となり,もはや踊る音楽から離れたために「踊れる音楽」を探していたから飛びついたのであった(
Palmer 50-51
)。そこで活躍するミュージシャンたちには黒人の
Little Richard
(1932-
),Chuck Berry
(1926-
),Fats Domino
(1928-
)などや白人のElvis Presley
(1935-1977
),Jerry Lee Lewis
(1935-
),Buddy
Holly
(1936-1959
)などの人気者が登場する。このようにロックン・ロールの音楽的ルーツが黒人音楽であることに加え,ロックン・ロールで活躍するミュージシャンが白人と黒人の両方に亘るこ と,白人の若者がこの音楽に熱狂するようになることに南部白人が良い顔をするわけもない。
(3)南部白人からの攻撃,そしてロックン・ロールの勢力は急降下した
「黒人音楽(ロックン・ロール)を聴くな」という南部を中心に「ロックン・ロールへのボイコッ ト運動」が教育者や宗教家を中心に展開される。これはロックン・ロールの人気が,動き出した公 民権運動と重なり,白人の若者がそこに取りこまれることへの反発から起きていたことは,十分に 考えられることである。ロックン・ロールが人種を越えて「白人と黒人の若者」の心を掴んでいっ た
1950
年代後半が,公民権運動とそれに対する南部白人の抵抗の時期に重なっていたことになる。
1950
年代末,ロックン・ロールで白人と黒人のミュージシャンたちが大活躍し人気があった時期,何故か,次々と彼らは災難に襲われる。
1957
年Little Richard
は飛行機墜落事故の難を「救われた ら今の地位をすべて捨てて神に仕える」と祈り危うく逃れ,牧師の道に進む。1958
年5
月Jerry
Lee Lewis
の妻が13
歳であることが判明し,大スキャンダルとなり,おまけに前妻との離婚が成立しておらず重婚罪も問題になり,芸能界から追放される。また
1958
年3
月には人気が絶頂期のElvis Presley
が徴兵されステージを去る。続いて同年年末にはあの「ロックン・ロールの大の貢献者」である
Allan Freed
が,ペイオラ(payola:
それまでは普通に行われてきた「金銭を渡してラジオでレコードかけてもらう」という
DJ
やラジオ局とレコード会社との間での習慣)が不道徳・倫理に 反すると突然,糾弾され,彼はラジオ界から追放される。当時のブルースやロックン・ロールを売 り出していたインディペンデントのレコード会社はこのペイオラという習慣を大いに活用していた からその痛手は相当なものだった(Palmer 137-139
)。更に1959
年2
月Buddy Holly
(1936-1959
),Ritchie Valens
(1941-1959
),Big Bopper
(1930-1959
)が飛行機事故で死亡し,その悲劇はその後,いわゆる「音楽が死んだ日」(
The Day the Music Died
)と言われる。そして1959
年12
月にChuck Berry
(1926-
)がマン法(The Mann Act
)で逮捕される(詳細は後で述べる)。飛行機事故を含めて人為的,意図的な背景への疑惑は考えたらきりがないが,中でも
Elvis
Presley
とChuck Berry
に関して,ここでその疑惑に触れておきたい。まずElvis Presley
のような 兵役経験のないアイドルを徴兵するのは,あまりにも納得がいかない。慰問かなにかで若者に志願 を促す役の方が適役なのは誰にでも明白なことだ。ロックン・ロールという黒人音楽をベースに黒 人と白人のアーチストが活躍する音楽ジャンルで,「反逆児」のイメージで売り出し人気の頂点にあった彼が,その注目度から政府にターゲットにされたと考える方が妥当だろう。(2)
その一方,
Chuck Berry
が逮捕されたマン法とは,未婚の間柄で,性行為を目的に州境を越えて 女性を移動させることを罰する連邦法で(Langum 3
),1910
年に立法され1913
年に連邦最高裁判 決で認められたもので,マン法を立案をしたJames Robert Mann
に因んで名がつけられた。性行 為目的というだけでなく,誘拐や飲み屋やいかがわしい店で働かせようと半ば強制的に女性を連 れまわす商売を目的とした男たちの逮捕の範囲は広い。そもそもこのマン法に関する事例と問題 を指摘したCrossing Over the Line: Legislating Morality and the Mann Act( 1994
)によれば,その起 源を“However, in the 1910s and 1920s a great many Americans probably saw real harm to the women themselves who engaged in sex outside of marriage.
”(Langum 7
)と指摘している。だが逮捕される のはごく一般人の未婚のカップルや犯罪者や商売人にとどまらない。特に黒人が白人とデートする ことも異人種間結婚に否定的な点から見せしめに,政府はターゲットを決めて機会を狙いこの法律 で逮捕したとDavid J. Langum
はこの著書で指摘し,古くはボクサーのJack Johnson
(1978-1946
),そして
1959
年の人気絶頂だったChuck Berry
の逮捕の例を挙げている。(3)Berry
については3件 の公判が行われ,最初の疑惑は晴れたものの,その後の女性が性的商売に関わっていたことから,罪を公判では問われて5年の懲役と5千ドルの罰金が宣告されたがその後,3年と1万ドルに減刑 された。だが後にインタヴューや自伝
Chuck Berry: The Autobiography
(1987
)において,彼自身も 述べているが,多くの点で人種問題がそこに根強く影響していることは誰もが認めている(Berry
195-209
)。アメリカの1950
年代は冷戦による反共ヒステリーの嵐が吹き荒れる時代で,マッカーシズムが,特に注目を浴びるだろうハリウッドをターゲットに,「
20
世紀の魔女狩り」を行ったば かりだった。だが今度は国内の人種問題とロックン・ロールを結びつけ,そのアーチストがターゲッ トにされたと考えられる。おわりに
これまで見てきたように,「黒人(アフリカ系)の人種問題解決」に動き出したアメリカにおい てまさにその同時期に,大衆,特に白人の若者の心さえも掴んだロックン・ロールが登場した。こ の「リズム&ブルース(黒人音楽)」を基本とした音楽は,「黒人ミュージシャン」にも活躍の場を 与え,戦後の黒人音楽を扱うインディペンデント・レーベルのレコード会社も大いに潤うことにな る。だがその勢いを止める政治的な様々な動きが生じたこと明らかで,それが単なる偶然とは言い 難いと言えるだろう。
注
1. エメット・ティルの事件は,北部シカゴの黒人少年の彼が,深南部ミシシッピーの親類の家を訪れていた際 に,「南部の人種間のルール」を知らず,店で白人女性に口笛を吹いたことから,白人男性二人に殺害され,
有刺鉄線で回転式綿搾り機に縛られ近くの川に投げ込まれ,その後に発見された事件。「白人が黒人を殺し ても無罪」という当時の南部特有の裁判で二人は無罪。後にこの二人は雑誌のインタヴューで堂々とその 詳細を自白している。アメリカ司法省は
2004
年になって,この裁判の再審を決め,彼の遺体を掘り返し検 死をさせた。2. 東理夫もこの件については,『エルヴィス・プレスリー』(1999)においてエルヴィス自身も気づかぬ中で,ロッ
クン・ロールの鎮静化を図る目的で大衆向けに兵役を与えられたと指摘している(東 176-177)。
3.1件目は
1958
年ミズリー州で,車がパンクしたところで銃と大金を所有していたことで警官に逮捕され女 性が同乗していてマン法適用で2
人共が逮捕。2件目は1959
年ミッシシッピーで演奏後,ステージに上がっ て抱きつきキスしてきた娘の兄が警察にBerry
が妹をデートに誘ったと通報,マン法適用で彼は逮捕。3件 目はエル・パソ公演後に米国南西部ツアーの間に14
歳の売春婦の女性にツアー関係の仕事を与えてやり一 緒に移動し,衣装係の仕事をさせてホテルの部屋に一緒にいたところをマン法で逮捕された。なお1件目 は公判で女性本人が被害を否定しBerry
は無罪(Langum 186-187)。引用文献
Berry, Chuck. The Autobiography. New York: A Fireside Book, 1987.
Gillett, Charlie. The Sound of the City: The Rise of Rock and Roll. New York: Da Capo Press, Inc., 1996.
Gitlin, Todd. The Sixties: Year of Hope, Days of Rage. New York: Bantom Books, 1989.
Langum, David J., Crossing Over the Line: Legislating Morality and the Mann Act. Chicago: U of Chicago Press, 1994.
Marcus, Greil. Mystery Train: Images of America in Rock’n’Roll Music. London: Plume, 1975.
Palmer, Robert. Rock & Roll: an Unruly History. New York: Harmony Books, 1995.
Shuker, Roy. Understanding Popular Music Culture. New York: Routledge, 1994.
大和田俊之『アメリカ音楽史―ミンストレル・ショウ,ブルースからヒップホップまで』東京:講談社,2011.
北中正和『ロック-スーパースターの軌跡』東京:講談社,1985.
東理夫『エルヴィス・プレスリー』東京:文春文庫,1999.
3 章 ロックと大衆のパワー:ブリティッシュ・インヴェイジョンと人種差別そして The Beatles
名越萌美
はじめに
1960
年代のアメリカのポピュラー音楽シーンは,いわゆる「音楽が死んだ日」(The Day the
Music Died
)と言われる「ロックン・ロールの死」からポップ・アイドルの時代が到来し,一方で,アフリカ系の中ではドゥ・ワップやソウルなどのボーカル・グループが人気となる。一時,低迷し たアメリカ音楽の伝統的な音楽産業形態「ティンパン・アリー(
Tin Pan Alley
」も息を吹き返した。しかしながら,ブルースやジャズまたはドゥ・ワップやソウルなどの黒人音楽に影響を受けた英国 勢バンドが,アメリカに突如として押し寄せ,アメリカの十代の若者はその魅力の虜になる。これ こそがブリテッシュ・インヴェーション(
British Invasion
)で,それは1964
年2
月のThe Beatles
のアメリカ公演に始まったことは周知のことだろう。その影響は,ティンパン・アリーで歌を作る 作詞作曲家やスタジオ・ミュージシャンまたレコード産業界への打撃のみならず,結果として,実 は,音楽から人種差別を崩しにかかったのである。この章の目的はその現象と効果をアメリカにお ける大衆文化と政治の関係から,特にThe Beatles
より検討するものである。(1)イギリスにおけるアメリカの影響と The Beatles -スキッフル,ロックン・ロール,ブルース,
ドゥ・ワップという黒人音楽
1964
年,既にイギリス本国やヨーロッパでは人気が出つつあったThe Beatles
もアメリカ進出を 機にさらに世界を狙う戦略を着々と始めていたが,ようやく,その機会を得ることになる。その舵 取り役が全てを統制していたマネージャーのBrian Epstein
(1934-1967
)であることは言うまでも ないが,このアメリカ中の若者のハートを掴んだサウンドがリバプール・サウンドと称され,スー ツとマッシュルームカット,ビートルズ・ブーツなどのファッションそして英国訛りも含めて,そ の後にイギリスから押し寄せる「ブリテッシュ・インヴェーション」のスタイルとなることも周知 のことだろう。
The Beatles
を先駆として称されるリバプール・サウンドは,彼らの出身がリバプールという港町であるからだが,この
The Beatles
サウンドの源はアメリカのアフリカ系音楽にあり,この土地 との関係は深い。18
世紀かつて奴隷船が停泊し,奴隷は一時的にここで繋がれその後アメリカ南 部へと送られた。つまりこの港町リバプールは,当然,アメリカ史最大の汚点である「奴隷制度」を支えていたことになる。
その縁はまず多くのアフリカ系音楽要素が入ったスキッフルが,アメリカ本土では
1920
年代が 全盛だが,1950
年代にイギリスで流行り,当然,この港町でも人気となる。The Beatles
の前身と なるJohn Lennon
(1940-1980
)が結成し,その後Paul McCartney
(1942-
)とGeorge Harrison
(1943-
2001
)が加入したバンドがスキッフルを演奏するバンドThe Quarrymen
であることも知られている。
The Beatles
の初の伝記の執筆者でも知られているHunter Davis
はThe Quarrymen: The Skiffle Group That Started The Beatles( 2001
)を書いているが,その中で当時のことを以下のように記して いる。In 1956, it
(skiffle
)blew across Britain,
swept the country like a contagious disease, creating the same symptoms, same reactions amongst the same types of suffers.
(Davis 35
)Davis
によれば,しかしながら,その人気は2
,3
年で消え,若者の興味はロックン・ロールやロカビリーへと変わる。だがその一方,ブルース(あるいはリズム・アンド・ブルース)への本格的
な人気は
The Beatles
を含むミュージシャンを目指す者たちの中で特に高まり(Leigh 34-31
),シカゴ・ブルースの大御所
Muddy Waters
(1913-1983
)はこの時期,2
回もイギリス公演を大成功さ せている。その後,多くの「ブルースを基調」としたアドリブを曲に盛り込むギタリストを生み出 すイギリス屈指のブルースバンド,The Yardbirds
が登場する。アメリカでは
1950
年代後半,南部で公民権運動の先駆けとなる事件が次々と起きるが,メンター として尊敬するアメリカのブルースの偉人たちへの尊敬と共に,未だに存在する人種差別が激しい アメリカ深南部(Deep South
)で,黒人たちが差別に苦しむ不条理が,彼らの中で認識されていな かった訳がない。さて1950
年代後半から60
年代初頭のアメリカにおける黒人音楽はこのブルー スに加え,これまでのジャズ,そしてゴスペル,ドゥ・ワップやソウルと多様だ。当然,白人ミュー ジシャンたちも活躍するロックン・ロールやロカビリーではあるが,黒人音楽ブルースあるいはリ ズム・アンド・ブルースがその骨格にあることを考えると,この時代の黒人音楽の影響が非常に大 きいと言わざるをえない。
(2)The Beatlemania とアルバムにおける黒人音楽のカバー曲
既に述べたように,アメリカの
1950
年代後半から60
年代初頭のアメリカにおいて黒人音楽の躍進は目覚ましいものがあった。当然,そこには人種差別からの影響もあったが,その魅力を評価 する者も以前よりは増えた。それは様々な黒人音楽を扱うインディペンデントのレコード会社も増 えたことや,ビルボードがゴスペルのヒットチャートが新たに設けたことでも理解できるだろう。
The Beatles
がこのような黒人音楽に影響を受けない訳がなかった。彼らがリリースした初期のアルバムは,
Lennon & McCartney
で登録されたオリジナル曲においてはその影響が,またその収 録曲の半分がブルース,ソウルやロックン・ロールを彼ら風にアレンジしたカバーであることも,ファンには知られていることだ。例えば
1963
年に発売されたアルバムでは以下の曲がカバーさ れ収録されている。(カッコ内はすべて黒人アーチストとグループ名)“Anna
”(Arthur Alexander, 1940-1993
),“Chains
”(The Cookies
),“Boys
”(The Shirelles
),“Baby It's You
”(The Shirelles
),“
A Taste of Honey
”(Lenny Welch,1938-
),“Twist and Shout
”(The Isley Brothers
),“Please Mr.
Postman
”(The Marvelettes
),“Roll Over Beethoven
”(Chuck Berry, 1926-
),“You've Really Got a Hold on Me
”(William "Smokey" Robinson, Jr., 1940-
),“Devil in His Heart
”(The Donays
),“Money
(
That's What I Want
)”(Barrett Strong, 1941-
)。また1964
年では“Long Tall Sally
”(Little Richard, 1932-
),“Slow Down
”(Larry Williams, 1935-1980
),“Rock and Roll Music
”(Chuck Berry
),“Mr.
Moonlight
”(Dr. Feelgood and the Interns
),“Kansas City
”(Little Richard
),“Hey, Hey, Hey, Hey
”(Little Richard
)。 ま た1965
年 で は“Bad Boy
”(Larry Williams
),“Dizzy Miss Lizzy
”(Larry Williams
) と続く。またそれ以外でも,例えば“You Can’t Do That”は
Lennon
自身が語るようにゴスペル・シンガー のWilson Pickett
から影響を受けて作ったものであるし(Turner 57
),“I’m Down”のPaul
のシャウトは
Little Richard
を意識したとポール自身が語っている(Turner 73
)ように,オリジナル曲においてもその影響は大きい。
The Beatles
のレコードには,斬新なアイディアで,ライナーノーツが充実されていてメンバーの紹介や曲の解説が詳しく書かれ,それが多くのファンの心を掴んだこともよく知られているが,
それを読めば,収録曲の半分のオリジナルが黒人アーチストのものであることは分かるはずだ。だ がビートルマニア(
The Beatlemania
)はそれよりも,スーツとマッシュルームカットそして英国 訛りの彼らの姿に熱狂したとも言える。言い換えれば,しかしながらそれがカモフラージュとなり 黒人音楽をルーツに持つ彼らの音楽(その後のブリテッシュ・インヴェーションのバンドも含め)が,アレンジされカバーした黒人音楽と共に,アメリカの若者の中に浸透していったことは確かだ。
(3)The Beatles とアメリカ人種問題と政治への影響
The Beatles
のメンバーたちに黒人アーチストである「自分たちの音楽の源」となるメンターたちへの「尊敬」,また自分たちの生まれ育った港町がアメリカの奴隷制へ加担していたことへの歴 史はいかに影響したのか。後者に関しては,あの有名なゴスペル“
Amazing Grace
”の誕生が,実 は奴隷貿易(奴隷船船長として)に関わり,仕事を辞めた後に一時,リバプールにも関税職員とし て滞在した作詞家John Newton
(1825-1807
)が,その後,罪を償うために牧師になり作ったとい う話をも思い出させるものだ(ニュートン230-244
)。また前者については以下の点が挙げられる。
The Beatles
はアメリカ公演を行うたびにアフリカ 系のブルースを始めとする音楽関係者や各界で活躍する人物に会い写真に収まっている。例えばその中には,
Little Richard
やソウルやガールズ・ボーカル・グループといったアーチストから,Muhammad Ali
(1942-2016
)などの選手まで,一緒に撮影をして雑誌に掲載されている。中でもアメリカ進出を果たしたばかりの
1964
年の秋の全米ツアーでは,アメリカ南部への公演も行われ たが,その皮切りとなるフロリダ州ジャクソンビル・ゲイタボールのコンサートの前に,観客を 白人と黒人で人種隔離して行うなら公演中止の要請を堂々とPaul
は宣言し,その後の南部での公 演は人種隔離なく行われた。しかしながら会見でのマネージャーのEpstein
はアイドルとしてThe
Beatles
を売り出していたのと,当時アメリカで起きていた政治的問題と彼らとの関りを極力避けさせていたため,脇で渋い顔をしていたと語られている。(1)アメリカでは公民権法(
Civil Right Acts
)が同年1964
年7
月に制定されたばかりでThe Beatles
がそれを知らない訳もなかっただろ う。またPaul
は自身のインスタグラムにおいて1954
年のブラウン判決(黒人白人の分離教育が 違憲とした判決)以後に,アーカンソー州リトル・ロック高校事件に関わった9
人のうちの2
人,Thelma Mothershed Wair
とElizabeth Eckford
と,2016
年に会い,その功績を称えて写真に納まっている。(2)
Paul
がThe Beatles
時代に作りいわゆる『ホワイト・アルバム』に収録されている”Black Bird
”で飛び立つ鳥は,アメリカの「黒人女性」を歌ったと言われ,そのモデルはこのリトル・ロック高校事件で勇気を以て入学した彼女たちとされている。(3)このほかにも
The Beatles
の歌詞 には政治的な意図を込めて書かれているものがあり,例えば“Revolution
”についてLennon
は,「我々 もヴェトナム戦争への回答を避けるのはそろそろやめるべきで,(この曲で)革命に対する考えを 伝えたかった」(ザ・ビートルズ倶楽部150
)と語っているし,同インタヴューではEpstein
に政 治的発言を止められていたことも明かしている。
おわりに
以上のように,
The Beatles
とアメリカとの関係はリバプール時代の「黒人(アフリカ系)音楽」からの影響にはじまり,この彼らの音楽のメンターとも言える黒人たちが,公民権運動において苦 悩し闘う当時のアメリカの時代と重なることになる。それは初期のアルバムで影響を受けた音楽の カバーやアメリカ公演時の様々な彼らの行動にも既に見たように多く表れており,それは結果とし て,主に音楽を通じて白人の若者たちに人種差別撤廃への目を徐々に開かせることになったことは 明らかだろう。
注
1. The Beatlesの
2016
年公開ドキュメンタリー映画,Eight Days A Weekにおいて,この件について詳しく解説 されている。2. リトル・ロック高校事件は,分離教育が違憲とした
1954
年のブラウン判決。3. “Black Bird”とリトル・ロック高校事件は
Paul
自身のインスタグラムに明記されている。また1960
年代 後半の公民権運動中のアメリカにおける人種闘争の最中,アフリカ系アメリカ人たちの苦悩との関係は,AHard Day’s Write
において詳しく語られている。更に2015
年のPaul
の日本公演においてPaul
自身が“BlackBird”演奏前に「この曲を作った頃は現在とは想像できぬほどの人種問題がアメリカにあり,その問題をテー
マにこの曲を作った」と紹介している。引用文献
Davis, Hunter. The Beatles. New York: McGraw-Hill Book Company, 1968.
. The Quarrymen: The Skiffle Group That Started The Beatles, London: Omnibus Press, 2001.
Leigh, Spencer. The Beatles in Liverpool. London: Omnibus Press, 2012.
Martin, George. All You Need Is Ears. New York: St. Martin’s Press. 1979.
Turner, Steve. A Hard Day’s Write: The Stories behind Every Beatles Song, London: A Carlton Book, 1994.
秋山直樹
.
『ビートルズ作品読解ガイド』(増補版).名古屋:星雲堂, 2013.
大人のロック編
.『ザ・ビートルズ:アルバム・バイブル』2012/01.
ザ・ビートルズ倶楽部
.『ビートルズの英語』東京:集英社 , 2012.
ニュートン
, ジョン /
中澤幸夫訳.『「アメ-ジング・グレース」物語―ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝』
東京:彩流社
, 2008.
4 章 映画と人種問題- Sidney Poitier の活躍-存在という抵抗
君塚淳一 はじめに
1963
年公開の『野のユリ』(lilies of the Field)で,アメリカ黒人(アフリカ系アメリカ人)とし て初のアカデミー賞を受賞した黒人俳優Sidney Poitier
(1927-
)の存在は,いかに1960
年代の 人種問題解決に貢献していたのか。当時Poitier
はその数々の作品で,「知的で」「洗練された」「差 別され窮地に追い込まれようが暴力ではなく知性で乗り越え」「白人社会の中で認められる」黒人 青年を演じていた。だが彼が活躍し始めその存在を認められつつあった1950
年代後半から60
年 代にかけてのこの時代のアメリカは,人種問題解決において様々な政治的な事件が起き,特に彼の 代表作はその節目となる出来事が不思議と重なることが多い。事 実,『 暴 力 教 室 』(
Blackboard Jungle ,1955
) は,Poitier
自 身 が 自 伝The Measure of a Man: A Spiritual Autobiography .
(2000
)で「撮影されていた時期(1954
年)は,まだアメリカ白人たちか らは黒人の学校教育に関して全く知られていなかったが,まさに〈ブラウン判決(人種分離教育は 違法とした)〉の年であった」(Poitier 98
)と指摘している。またその後『野のユリ』公開の1963
年には,Martin Luther King Jr.
牧師(1929-1968
)のワシントン大行進と有名なスピーチ“I Have a Dream
”が行われ,『招かれざる客』(Guess Who's Coming to Dinner ,1967
)公開の1967
年は,まさ にその作品内容と合致するように,アメリカ最高裁がそれまで認めてきた「異人種間結婚の禁止」が違憲であることを宣言した年となる。
Donald Bogle
は著書Toms, Coons, Mulattoes, Mammies, and
Bucks: An Interpretive History of Black in American Films( 2016
)で当時,「彼のような洗練された若 い黒人は中流の白人と黒人両方にとって貴重な存在として重要視されていた」(Bogle 158
)と解説 するがそれはなぜなのか。また1950
年代後半から1960
年代という「人種問題」が政治的に激し く変化し揺れ動くアメリカの時代に,大衆娯楽産業として影響力あった映画作品において,「黒人 俳優」としてのSidney Poitier
の存在は,どのようにアメリカで作られ大衆に映り得たのかを考え たい。(1)
Blackboard Jungle
と公民権運動,ロックン・ロールそして Sidney Poitier
Evan Hunter
(1926-2005
)による原作を映画化したBlackboard Jungle
の評価は,「タイトル曲で 使われた〈ロックン・ロールという音楽〉をアメリカから世界に広めた」作品,そして内容がニュ-ヨークという都会の不良たち,学校崩壊の状況を描いたものゆえに,暴力とロックン・ロールそ して若者の反抗を結び付けたとされている。それは
Charlie Gillett
がThe Sound of the City: the Rise
of Rock and Roll
(1996
)で以下のようにこの映画とロックン・ロールの関係を述べているとおりだ。The film version of Blackboard Jungle was a large success and a much discussed movie. What the presence in it of the music of Bill Haley, rather than of Tony Bennett and Perry Como, helped to establish in the minds of both adolescents and adults was the connection between rock’n’roll and teenage rebellion.
(Gillett 17)主人公で新米教員の
Dadier
が同僚教師とジャズを好んで聴く一方,彼らに反抗する暴力的な生 徒たちとタイトル曲“Rock Around the Clock
”を重ねれば,観客が「教師とジャズ」と「暴力的な 生徒とロックン・ロール」を対称させたことは明らかで,前者を「旧」,後者を「新」とし,この 保守的なアメリカの時代で,親の世代は「何かが崩れ始める予感」を音楽に読み取っただろう(作 品では同僚のジャズ・レコード・コレクションは粉々に割られる)。元来ジャズもアフリカ起源で 元はアメリカ黒人の音楽だが,スイングのビッグバンドをはじめ多くの白人ミュージシャンが活躍 しアメリカに浸透していたからだ。だがロックン・ロールはAlan Freed
(1921-1965
)が,白人が 黒人音楽ゆえに受け入れなかったリズム&ブルースを改名し,ラジオで流し始めたこの音楽にはま だ偏見が強かったのだ。映像作品
Blackboard Jungle
の中に感じる「変化」はそれだけではない。1955
年には,アメリカ南部で
King
牧師らによるバス乗車ボイコット運動が行われ(1954-55
),1954
年の公立学校における人種分離教育の違憲判決「ブラウン判決(
Oliver Brown et al. v. Board of Education of Topeka
et al.
)」が最高裁から出された後,それを受けてリトルロック・セントラル高校(アーカンソー州)が
1957
年からの「人種分離教育撤廃の決定」をした頃である。この状況下で,この映像作品は,
Hunter
自身がニューヨーク・ブロンクス職業訓練学校教師時代の経験をもとに書かれた原作を,Richard Brooks
監督が映画化したものである。教師Dadier
が不良たちの中でも,Sidney Poitier
演じる黒人生徒Miller
を自分の側に引き入れ,クラスをまとめようとする。あくまで主人公はDadier
だが,ストーリーの展開上,Miller
の存在感は圧倒的に大きい。つまりこの作品は,保守的なアメリカ人にとって「ロックン・ロール」「若者」「暴力」「アフリカ系」を単純に結びつける要 素を意図的ではなくとも,結果的に結びつけることになったことは明らかだ。いじめ,暴力,授業 にならぬ学級崩壊に加え,女性教師への暴行未遂や教員の家族へも伸びる被害と言った内容の酷さ に,若者への悪影響を考えて上映禁止を出した地域さえあった。
Reidは
Reading Black Film( 1993
)で,「Poitier
はアメリカ映画産業において,反抗する白人の若 者の映画では数少ない黒人俳優で,1950
年のNo Way Out
(1)以降のBlackboard Jungle
では,非行 の若者を演じ,〈融通の利く黒人俳優〉としてアメリカ映画を牽引している」(Reid 52
)と解説し ている。だがPoitier
の作品での設定は確かに「不良」ではあるが,彼の役はその中でも単純な非行少年の
Vic Morrow
(1929- 1982
)演じる不良のボスとは異なり,やはり知的で,単にねじ伏せようとする教員たちよりも状況をよく判断する賢い人物として演じられている。
(2)『野のユリ』(Lilies of the Field,1963)- コメディ,異文化としての作品
King
牧師のワシントン大行進(2)が行われた年に公開されたLilies of the Field
はWilliam Edmund Barrett
(1900-1986
)による1962
年出版の同名小説をRalph Nelson
(1916-87
)が映画化したもの である。既述したようにこの作品で主演男優賞を黒人で初めてPoitier
が受賞する。ストーリーはPoitier
演じる「一匹狼の建築業者」の黒人青年Homer Smith
が車の故障で偶然,アリゾナの5
人の尼僧が住む建物に立ち寄る。彼女たちは東ドイツやオーストリアなどからの亡命者として設定さ れる。彼女たちはこの地に教会を建築中で,神に建築を助けてくれる人物を送ってくれるよう祈っ た途端の彼の登場に,神のご加護と信じて疑わない。結局,簡素な食事と宿泊以外は無報酬で手伝 うことになる彼だが,マザー・マリアのペースに巻き込まれ,途中で逃げ出したかとも思える場面 もあるが,近隣のメキシコ系たちとも関係を保ち,最初は人種差別的な地元の建築会社の社長の信 頼も得て,教会を完成させる。(最後には
Boy
と呼ばれていた彼だがBoss
と呼ばれ,作品内で尼 僧に彼が教える黒人霊歌“Amen
”が歌われるエンディングで大きく画面に現れる“Amen
”が”黒 人を認めるA man
”に見え聞こえるのは不思議だ。)
Barrett
の原作自体が全くのフィクションではなく,事実を基に書かれたものだが,まず作品の構成はアメリカの人種問題とは無関係な「外国」から来た「尼僧」が偏見や差別なく,「神が使わ した人物」である黒人に教会建設を任せるというもので,この設定の巧妙さはこの時代を考えると 評価できる。だが重要なのは
Smith
は確かに風来坊だが,ここでもこれまでのPoitier
演じる役と同様,
Bogle
が言う「白人黒人両方に温かく受け入れられる存在」(Bogle 158
)として描かれている点だ。それは
Smith
が「建築の知識」また「大型機器」を操作できる技能を持ち,性格も温厚で,英語がまだ話せぬ尼僧たちに英語を教え,外で働き金が入ると,その自分の金でみんなに食料まで 買ってくるよう描かれているからだ。またタイトル且つ作品の中でも触れられる「野のユリ」は聖 書のマタイ伝
6
章28
節29
節からの引用で「なぜ着るものを気にするのか,そんなことに関係なく,野に咲くユリを見てみなさい」という内容から付けられた。当然これは肌の色でとやかく言うアメ リカ人種問題への隠喩ともとれる。
更にこれはアメリカがソ連や中国,そして東独など社会主義や共産主義国との冷戦時代に身を置 き,
1950
年代の赤狩りのマッカーシズムの脅威がいまだ尾を引いている時代の中で,充分アメリ カ国民全体に受け入れられるものだ。なぜなら「社会主義国から亡命」してきた「信仰一筋」の尼 僧たちに,無償で手を貸すアメリカ黒人のSmith
は,「アメリカの心の広さとキリスト教国として の主張」をアメリカ国民に,冷戦で向き合う相手国に示す,まさに象徴と成りうるからだ。Poitier
の自伝
This Life
(1980
)には監督をしたRalph Nelson
のこの作品映画化への気合いが尋常ではなかったと以下のように述べている。
Ralph Nelson’s faith in the material was strong, and in support of his judgement he put his house and other worthy possessions on the line as collateral to insure United Artists agent loss.(This Life 287)
このような点に加えて,注目しておくべきは,マザー・マリアや尼僧とのテンポの良いやりとりや 結局は教会を完成させ,やり遂げた充実感を持って去っていく
Smith
の姿にコメディ要素もつけら れて描かれている点だ。この効果はGuess Who's Coming to Dinner
においても彼の持ち味として定 着することになる。(3)『招かれざる客』(
Guess Who's Coming to Dinner
, 1967)と「異人種間結婚禁止」違憲判決 Guess Who's Coming to Dinnerは既に述べたように「異人種間結婚禁止法」を最高裁が違憲とした1967
年に公開された。この契機となったのは周知のように同1967
年の「ラヴィング対ヴァージニ ア」訴訟(the Loving v. Virginia case
)である。当時,異人種間結婚を禁止していたヴァージニア で白人の夫と黒人の妻ラヴィング夫妻は,州外(ワシントンDC
)で結婚し,州内に戻り生活して いたが,法律違反として妻が逮捕(1958
年)。その後,ワシントンDC
に移った上でヴァージニア 州を訴え,1967
年,最高裁はこの法律が違憲であるとした。この歴史的な判決がアメリカ中で議論を招いたことは言うまでもない。だが同年に公開されたの が
Guess Who's Coming to Dinner
で,Poitier
はここでNo Way Out
と同様に優秀な医師を演じている。この作品で
Poitier
自身,個人としてはアカデミー賞受賞にはならなかったが,作品は白人の娘の 母親役のKatharine Houghton Hepburn
(1907-2003
)が主演女優賞,脚本を手掛けたWilliam Rose
(
1918-1967
)がオリジナル脚本賞を受賞している。作品中では国際的に評価が高く世界的に活躍する医師という設定の
Dr. John Prentice
をPoitier
が演じている。ストーリーは黒人医師
John
と白人の娘Joey
はハワイで出会いすぐに結婚を決め,二人でそれを 報告にサンフランシスコの彼女の両親に報告に向かうところから始まる。許可されなくても結婚し,すぐに二人でニューヨーク経由にてスイスに向かうつもりの娘に対し,
John
の彼女を愛する気持 ちには変わりはないが,人種問題には慎重で彼女の両親の許可がなければ結婚しない気持ちでいる。人種問題にはリベラルな娘の父親だが早急な決断には慎重な新聞社代表の父親。彼に対して娘の応 援側につく母親。そこにロサンジェルスから駆け付ける
John
の両親が加わり,結局,父親側と母 親側に意見が分かれ,娘一家の友人であるカソリックの神父が中立な立場から「愛」を称えて二人 の結婚をまとめる。作品中の各人の議論が,全て二人の将来を案じるもので,「差別」や「憎しみ」はなく,その一方,
娘の両親や
John
が演じる知的な医師,また神父にはコメディの要素も含ませ,作品全体の緊張感 を緩め,シリアスな問題を扱いながらも観る側に,「仕方がない,許してやるか」という親側の立 場に立たせる展開は,完璧に最高裁の判断を助けている。この誠実な黒人を演じられるのはこの時代,
Poitier
のほかにいなかったことは誰もが認めたことだろう。
Poitier
は最新の自伝The Measure of a Man( 2000
)で監督のStanley Kramer
に脚本を読まされ,読後に感じた時のことを回想して書いているが,この作品の主人公に関して,「人種問題が益々,
加熱し,自分が演じて来た黒人像に疑問を抱いていた時期であったが,政治的な意味も意識し受け 入れたこと」はここから読み取れるもので最後に示しておく。
In 1967, when he had me read the script for Guess Who’s Coming to Dinner, I was very impressed.
Stanley knew that the country wasn’t ready for this one, but his attitude was – well, we’re going to do it anyway.
(Measure 119)おわりに
これまで見てきたように
Sidney Poitier
は1950
年代から60
年代のアメリカが,人種問題におい て大きな課題を通過するたびに,知的で繊細なアメリカ黒人として話題作に登場し,この時代の 黒人の象徴として,注目されていたことは明らかだろう。だがPoitier
は「Guess Who's Coming to
Dinner
が公開された後,New York Times
が“Why Do White Folks Love Sidney Poitier So?
”という 見出して記事を書いた」ことに自伝で言及し,そこで「人種問題に怒りを表す過激な黒人指導者が 現れている中で「なぜ自分が〈怒らないでおとなしいのか〉」と指摘されと述べている。「彼らは自 分がいわゆる〈白人にこびへつらう黒人―アンクル・トム〉と解釈したいのだろうが,自分は普 通の人間を演じただけだ」(Measure118
)というのが彼のそこでの主張だ。だがそれこそが当時,実は最も重要なことだ。なぜ普通の人間なのに黒人であることで問題視されるのか。それを映画作 品を通して理解させる役を彼が演じること,その点で
Sidney Poitier
の存在はこの時代を通じて欠 かせぬものであったと言えるだろう。注
1. No Way Out
は郡立病院で働く努力家の黒人医師Brooks
をPoitier
が演じるもので,彼は負傷して病院に担ぎ込まれる強盗兄弟を担当するが,兄の足の弾摘出よりも先に脳腫瘍を疑い検査を先にするが,その途中で彼 は亡くなる。黒人に偏見を持つ弟は
Brooks
の責任を問い,それが暴動にも発展する。しかしPoitier
演じるBrooks
は常に冷静且つ知的に解決策を考え,最後に彼に復讐をするため銃を向けたものの,逆に負傷した弟の手当ても公平にする場面で作品は終えられる。
2. 1963
年8
月28
日に行われたワシントン大行進(Civil Rights March on Washington)には俳優としてSidney Poitier
もCharlton Heston
らと参加している。引用文献
Benshoff, Harry M. and Griffin, Sean. America on Film: Presenting Race, Class, Gender, and Seuality at the Movies.
Malden: Blackwell Publishing Ltd, 2004.
Bogle, Donal.Toms, Coons, Mulattoes, Mammies, and Bucks: An Interpretive History of Black in American Films. New York: Blooms bury Academic, 2016.
Gillett, Charlie. The Sound of the City: The Rise of Rock and Roll. New York: Da Capo Press, Inc., 1996.
Poitier, Sidney. This Life. London: British Library C.I.P., 1980.
Poitier, Sidney. The Measure of a Man: A Spiritual Autobiography. New York: Harper Collins, 2000.
Reid, Mark A.. Reading Black Film. Berkeley: U of California Press, 1993.
君塚淳一「異人種間結婚とアメリカが抱える様々な課題―シンポジアムに向けて」(MESAシンポジアム特集「ハ リウッド映画は異人種間結婚をどう描いてきたか」)『多民族研究』第
6
号,2013.リトル・ゲットー・ボーイズ編著『ソウル・オブ・ブラック・ムービー
/
グレイテスト・ヒッツ』東京:白夜書房,2003.
あとがき
対抗文化・大衆文化とアメリカ
君塚淳一
1967
年のいわゆる「サマー・オブ・ラブ」でサンフランシスコのヒッピーたちの聖地と言われ るヘイト・アッシュベリーに集まった若者たち。彼らに無料の食事・衣服・住まいを提供した集団「ディガー」の創設者ピーター・コヨーテは,インタヴューで「文化は政治よりも重要だ」と述べ
ている。文化が人の心を動かし,いつのまにか世の中を変えられるということだろう。ここから始 まるモンタレー・ポップ・フェスティバルは,
1969
年の伝説のウッド・ストック・フェスティバ ルを生むことになるし,ドラッグ・カルチャーはロックやアートに多大な影響を与える。大人数が 集結し時間と気持ちと空気を共有する。音と視角は感性に訴える。そこに感性を研ぎ澄ますドラッ グ・カルチャーが当時,入り込んでいたのも理解できる。
1960
年代の大衆文化は,歌では政治的に闘う者の気持ちをひとつにした。だが同時に別の力も ある。大衆文化としての映画は,観客に笑い・泣き・怒りの感情を持たせつつ物語を見せ,様々な 立場の議論を理解させ,起きている状況を自分側だけでなく多面的に理解させる。ビートルマニア の熱狂は彼らの歌う曲なら肯定し,オリジナルがアフリカ系のブルースやソウルでも受け入れる聴 衆を作った。こんな文化の侵入の形も,この時代には,旧体制にしがみつき頑固にその砦を崩さな い者の心に染み込み,いつのまにか溶かしていったのだった。掲載した4
論文を読んでいただけれ ばそれが理解できるだろう。