イタリア近代建築とオスティア遺跡発掘(1938-1942)ーファシズム期ローマの背景にみる古代ローマ遺跡ー [ PDF
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(2) 左 表 1. 第 1 回イタリア合理主義建築展の会場と参加グループ一覧 右 表 2. 第 2 回展イタリア合理主義建築展の参加者と所属 MIAR 支部名一覧 _'
(3) KNYJ4'/(.` MZ]S ' ( ) * + , - . /. \LQP \LQP PYR []V []V []V []V MZOU-5WXR D[]VC. 5 . H I=MZ]SH; ^2103@D0&YTX8'/(.B[]VB>. . YhAd`.
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(5) )'", . . E<D[]VC. 図 3. 新議事堂大ドーム計画案 アルベルト・シュペーア 1937-40. m5Ge3 0! n YhAd` . (TfLICle1(W4DlP1&]IelP +\IMlP. _dS/ _dS. . "gPblPb. \hlPb. %^iEIK41&_;IJ4 UNj2. . +\IMlP1$"AeIW4lP1&^iWgL4 _dS/. . &_iQIH. . &<I]lP. . ,^hIJ:kLIdkhI< hl^. hl^. . &<iH8hIK4 )H8g?lP1*MLE>lP. _dS. . .UdL4lP. hl^. !. -@IJ4. MeS. . "U7gIG. Me9EK. . hl^. "LId@3. _dS. *LcfBhW. MeS. . $W2fL4. _dS. . (W4DlP1&WgIK1"eZd1&]IelP _dS/hl^. . &W4;elP. hl^. !. . &U=lS. hl^. &[iC[lR (VIHOlM. MeS. Ugfa hl^. . $XI]. hl^. . )eNfW4. hl^. . ,hEHb5fN. _dS. 44:<KNYJ#C9@?6G. . &WgIK. _dS. . ,fEK4H8Ie. hl^. ^D2103C ?DA7. . &?d. MeS. . "CfMeE. DcRlj. ^[]VC. @99?":<FCD5. 442103[]V$C E<D5"% 440&YTXH;. . $"AeIW4lP1&^iWgL4. hl^. )d\. D8Sj2. ! . "E<f[Ie $FIMCE. hl^ MeS. !. &gj4aiGfHlP1&U=lS. MeS. . &KIdlP. _dS. . "eZd. hl^. . &Mi\d. UNj2. . "eZd1)eNfW4. hl^/. . &j8NgE. Te. . "eZd1&]IelP. hl^_dS. . (j49IK4. hl^. もたらしたものはローマの合理主義者達の活動の域の 拡大であった。つまり、「ミラノの合理主義」のロー 写真 2. ベルリン都市改造計画写真. 2.3. ナチズムベルリン改造計画. マでの浸透、体制への介入を試みることで「イタリア. 図 4. ヒトラーのスケッチ 1925. 合理主義」を確立しようとしたリベラの意に反して、. 1938 年に公表されたベルリン改造計画全体案 ( 写. 結果的に「ローマの合理主義」を確立させたのである。. 真 2.) は、幅員 156m の南北軸線道路とそれに直交す. 3.2. ローマの郵便局設計競技(1933 年). る東西軸線道路、環状アウトバーン網等に見られる大. 更に 1933 年、国家プロジェクトとして行われたロー. 規模な交通計画であった。また、ヒトラーは南北軸の. マの郵便局の設計競技で、A. リベラがアヴェンティー. 北端に高さ約 300m を誇る新議事堂大ドーム ( 図 3.). ノ郵便局 ( 写真 3.)、M. リドルフィがボローニャ広場. を計画していた。ヒトラーは古代ローマで見られるよ. 郵便局 ( 写真 4.) に入選した。両者は MIAR のローマ. 3). うな都市のシンボルを希求しており、ベルリンの新議. の代表的メンバーであり、この設計競技にて「ローマ. 事堂大ドームがそれを担うと考えていた。その設計者. の合理主義」は実現を迎えた。. は A. シュペーアであるが、実情はパンテオンを模倣 したヒトラーのスケッチ ( 図 4.) が計画案の基盤であ 4). る。まさにヒトラーが目指した「古代の都市の公共の 記念建造物」そのものであった。 このようにファシズムローマ都市改造では、古代. 写真 3. アヴェンティーノ郵便局 1933-34 A. リベラ. 写真 4. ボローニャ広場郵便局 1933-34 M. リドルフィ. 3.3. リットリオ宮設計競技(1934,1937 年). ローマより積層し続けた都市の歴史に対して「選別」. 1934 年にリットリオ宮 ( ファシスト党ローマ中央. と「破壊」という方法を用い、強弱・疎密を与えるこ. 本部 ) 設計競技が行われた。ムッソリーニの審査介入. とで、ファシズムへと続く「歴史の ( 連続性の ) 強化」. が大きな混乱を招く結果となり、結局一等案は選出さ. を図ったのに対して、ナチズムベルリン改造計画は「歴. れず、1937 年の第二次設計競技へと持ち越された。. 史の始点」の創出を目指していたと言える。両者の計. 古代ローマ遺跡コロッセオを背景とした、ファシズ. 画は、ともに変革性とダイナミズムを過度に演出した. ムの象徴としての建築を要求されたことから ( 表 3.)、. 暴力的な歴史の一部であることに間違いはないが、両. 多くの計画案はシンボリック、モニュメンタルな表現. 計画間には差異が存在し、それは古代ローマ遺跡との. であった ( 図 5-10.)。また、設計競技を通して古典化. 距離感の差から生じたものであった。. する「合理主義」が可視化されたため、それを拒絶す. 3. ローマの合理主義. る「ミラノの合理主義者」により、様々な議論が巻き. 3.1. 合理主義建築展(1928 年、1931 年) 5). グルッポ7の形成によりミラノで合理主義運動が誕. 表 3. 第 1 次リットリオ宮設計競技要項. 生した。ローマから唯一グルッポ7に参加していた A. リベラは、合理主義運動の全国規模への拡大と体制 への介入を目論み、1928、1931 年にローマで合理主. +CA $`8d^@TX0_$ +DA. 8dOc(hDGH7SVInzlkOc_ryxo_*&P>SfZ`]cUI8d^@TXjs}< `[KeR\. +EA 1js}_;]/^'3r~h2Qe +FA (_BS`:5
(6) _qx{lmv_u ph4N]LR\ +GA. W_)_\! ^%?_="h#MR\J,_rx|`I_-\_9. _b\^IjtwP a6iY S\ S\TXb_\]gM. 義建築展を開催した。その結果、第2回展の開会式翌 日の政府機関紙には「ムッソリーニはその運動に同意 6). を示した」と掲載され、体制の支持を獲得したと考え られる。しかし、両展覧会に占めるローマの合理主義 7). 者の割合が高いように ( 表 1.2.)、この展覧会が事実上. 第1次リットリオ設計競技計画案 1934 年 上左 図 5.A. リベラ案、上中 図 6.M. パランティ案、上左 図 7.B.B.P.R. 案、 下左 図 8.G. テラーニ A 案、下中 図 9.G. テラーニ B 案、下右 図 10.E. デル・デッビョ、フォスキーニ案. 18-2.
(7) 起こされた。その一端は 1933 年から 1938 年の『カー. ローマ中心部. 8). ザベッラ』において確認することができる。. EUR. 体制との妥協の中で徐々に変容した「ローマの合理. テヴェレ川. 主義」は、リットリオ宮設計競技を期に「ミラノの合. ティレニア海 オスティア・アンティカ(オスティア遺跡) リド・ディ・オスティア. 理主義」と完全に乖離した。そして、その引き金となっ. 古代から存在する土地 近代に埋め立てられた土地. たのは「古代ローマ遺跡を背景とした近代ファシズム. ローマ中心部からティレニア海へ 向かう高速道路. 写真 5.EUR. 図 11. ローマ地図. 建築」という構図の登場であったのは間違いなく、そ れはリットリオ宮設計競技の結果が物語っている。 4. 小結 2、3章より、古代ローマ遺跡はファシズム期ロー マの建築・都市に対し以下のように機能したと言える。. 写真 6. オスティア遺跡. 図 12.1938-1942 の発掘範囲. 1)そのシンボリックさゆえに、明確な時間軸を都市. 覧会は中止となった。. に与えるため、ファシズムの都市改造の利用対象と. 5.2. オスティア遺跡発掘(1938-1942). なった。それが起因して「選別」と「破壊」による. オスティアは、紀元前4世紀テヴェレ川河口を防衛. 建設活動が促進し、「ファシズムへと続く歴史=連続. するために創建された軍事植民都市であり、ローマ市. 性」という新しい概念がファシズムの中で定着したこ. の遠洋航路用の港として繁栄し、都市域を拡大させた. とで、「歴史の最先端」として選択された「合理主義」. ( 図 11.)。しかし、紀元後 3 世紀には外敵の侵攻とマ. はファシズムと接近した。. ラリアの蔓延で都市が衰退し始め、紀元後 5 世紀にテ. 2)近代ファシズム建築の背景として登場することに. ヴェレ川の氾濫により都市は土砂に埋もれた。そのた. より、それらを古典化させる要因となり、様々な議論. め当時の町並みの保存状態は良好である ( 写真 6.)。. を巻き起こさせた。. イタリア政府によりオスティアで本格的に発掘が開. 3)それとの距離感が作用し、ローマは他都市と異な. 始されたのは 1890 年以降であり、発掘は現在まで継. る都市計画に至った。. 続して行われている。オスティア発掘史上最も集中的. このように、古代ローマ遺跡を回転軸とし、その周. に大規模な発掘が行われた期間は 1938-1942 であり、. 辺を回転している多くの事象が複雑に絡み合っている. 発掘主任グイド・カルツァのもと遺跡の約3分の2に. のがこの時代の特徴と言える。また、 「リットリオ宮」、. 当たる 17ha の範囲が明るみに出された。発掘範囲は 9). ミカエル・ハインツェルマンにより後に明らかにされ. 「コロッセオ」、「帝国通り」が示す「ファシズムへと 続く歴史=連続性」の構図は、1938-1942 に飛躍的に. ている(図 12.)。. スケールを拡大させ、ローマにて実現することになる。. 5.2.1. 発掘主任グイド・カルツァの思想的背景. 5. 1938-1942 のローマ. 1938-1942 発行の雑誌に掲載された、当時の発掘. 1938-1942 のローマでは E42 開催に向けた EUR 建. 主任グイド・カルツァの記事に注目し、オスティア遺. 設、オスティア遺跡発掘が行われた。. 跡考古局文書館書庫部門にてそれらを閲覧した。カル. 5.1. E42( ローマ万国博覧会 1942). ツァは 5 年間で 24 のオスティアに関する記事を書い. EUR( 写真 5.) とはファシスト革命 20 周年にあたる. ており、1938 年の専門誌『Gnomon』と 1939 年の. 1942 年完成を目指したローマ万国博覧会 (Esoposizione. 一般紙 『Le vie d'Italia』 では、 以下のように発掘の意義、. Universale di Roma) の略称である。ローマ郊外に位置す. 表 4.1938-1942 に発行された雑誌の E42 に関する記事の内容一部(カルツァ著). る EUR は現在も地名として残っている ( 図 11.)。. ne. vĀ6ĀéÝíû. vsÇ2 ªýāõ5$Ç&WÇIÇLR4®Ө5$ Ç#M;&®ÔâçìÜÛ´¨ 6ýāõ$q ØOÆ[o¸ÕÔï°(ÈÉÊÁÇýāõÇ_bjÆ~}¸Õ¨P¸ ÕÔÆ¯Å¯©«. E42 とも呼ばれるこの博覧会は、1935 年当時ロー マ総督であったボッタイがムッソリーニに進言したこ とが発端であり、会場である EUR 地区は博覧会期間 後ローマ新都心として機能することを期待されてい た。ファシズムの未来を背負う新都市 EUR の建設に は 1941 年までに 3 億 7000 万リラが投入されていた. §¬£¤¢¤£6 ªýāõ$q Æ ¶¾âçìÜÛĀÛþ ªâçìÜÛȲ½ÒµºýāõÇôþóÝÏàûäùāðƨY%ÇøāýëñÇZVà ýāõÃÇ g=Ø`w¸¼°Ô+%®ԩ ìÜãÇlZ« ªÑÓr0Æ \ÅÿÜæ÷þØwz¹ÁÎÒ°¾Íƨ$1DcÆÑÓ4 ¯Ø¶¾©«. Æo¹Çk. ªâçìÜÛÇ*pNÅ[CȨ6Ç$q Øi@¹ÁîÞāêßăöëèúāïĄÆÑÀÁS.¸ Õ¨'ÎÕ¾ýāõ4ÇÉÊ ØlZ¸¼Ñ°Ã¹Á¯¾©òáýĀýõāð¨5$Ó¨ñù ìÜāðǨàûäùāð¨ôþóݨÛòúãLR&Ç[CÇѰŨÝéúÛÇi,ÇÇ*p NÅMȨ7ÆÎ-f¹Á¯¾¨Î¹µÈV[ÆÈm×ÕÁ¯Å¯X?®À¾©½Ç¾ÍîÞāêß È¨ìÿßü3TÇýāõLR4ùÁW|GÆÑÓÆhK¹¾âçìÜÛÆ¨ºÑ°ÆU ^Ø9Á¸¼Ñ°Ã¹¾©« ¬¦ ¥¡ 6 ª*pNÅi,MȨyJÇ8*¸¨/mǸбƨi,ÇQƲ¯ÁÝéúÛË¾È ªýāõ$q Æ )$¸±Î
(8) ´Å¯ÉÄ®À¾©« ¶âçìÜÛÈlÔ« ªăâçìÜÛØĄ:V¸¼¾Ç¿Ă·Õ´ Ø>!¹Á¯ÔdzxjÇ]¸ÙȳԿְ³©¾¿ ýāõÆÇÌ+%»ÔýāõdaÇuBùÁǨòÚåçíÆÑÔ$\ Ç®Ôi, Mﰷîԩ« ªq ´Î¾Ò»Â®Ö°ÝéúÛÇEFÇ8*ÅHȨâçìÜÛÃÃÎÆ¶ÔÇ®ԩ«. が、第二次世界大戦の影響により開発は中断され、博. ªòÚåçí" 6s<Çq ăýāõ$q ĄÇØOÆ{ØFҳƻÔ®ְâ çìÜÛØtÕÔ·ÃȨýāõ5$ÇÿÜæ÷þÇ-AØ>!»Ô®ְ©«. 18-3.
(9) または発掘と E42 との関係を示していた ( 表 4.)。. が予想される Caseggiato degli Aurighi であったが、. ⅰ)オスティアが古代ローマ研究において重要であり、. 発掘誌を見た限りでは発掘報告にその根拠は見られな. 現代との連続性を示す存在であること. かった。つまり、「発掘の実質」には見かけ上政治的. ⅱ)象徴性(発掘のタイミング・発掘規模と速度・ロー. 圧力がかかっておらず、学術的独立性は保たれていた。. マの地域性と歴史性)を帯びた発掘であり、その発掘. 6. 結. を行うファシズムの偉大性を強調していること. 1938-1942 の 古 代 ロ ー マ オ ス テ ィ ア 遺 跡 発 掘 は、. ⅲ)E42 の開催、つまり新ローマ都市 EUR の完成時. ムッソリーニによって「選別」された象徴性を帯びた. 期と古代ローマ都市オスティアの全貌が明らかになる. 発掘であり、新都市 EUR 建設とともに進行・実現す. 時期を意図的に合わせていること. るよう演出されていた。その目的は「未来の展望」と. ⅳ)オスティアと EUR を物理的にも感覚的にも繋ぐ. 「栄光の歴史」の誇示を同時に行うことにより、その. ために見通しの良い道路が存在すること. 二つの事項から導かれた時間軸の中心に「偉大なファ. 5.2.2. ファシスト党幹部ボッタイの遺跡訪問. シズム」を位置づけることであった。これらのことか. オスティア遺跡考古局文書館写真部門では、遺跡の. ら、イタリア近代建築史において「オスティア遺跡発. 写真が地区・建物・年代別で保管されており、遺跡訪. 掘(1938-1942)」は「EUR」と並列関係として捉え. 問者・発掘者等の人物が写った写真も年代別で保管さ. ることができる。. れていた。タイトルを参考にし、1938-1942 の遺跡訪. さらに、両者を繋ぐ道 ( 海の道 ) についても言及さ. 問者・発掘者等の写真を確認したところ、ファシスト. れていたため、 「EUR」、 「オスティア遺跡」、 「海の道」は、. 党幹部ボッタイまたは E42 最高責任者等の写真が 3 枚. 「リットリオ宮」、「コロッセオ」、「帝国通り」が示し. 存在した ( 写真 7.8.9.)。これらから、ファシスト党と. ていた「ファシズムへと続く歴史=連続性」の構図の. E42 関係者が「発掘後の遺跡」に実際に注目していた. 拡大であったということも指摘することができる。. こと、また、ボッタイが Caseggiato degli Aurighi( 図. 一方、ファシズムによって発掘後には政治的に遺跡. 14. 写真 10.) を訪問したことが分かる ( 図 13.)。. を利用されたオスティアであったが、当初より研究者. 5.2.3. 発掘誌からみる考古学的側面. によってその発掘の学術的価値は認められていた。ま. オスティア遺跡考古局文書館歴史部門には発掘誌が. た、発掘誌によれば、「発掘の実質」である学術的部. 保管されており、1938-1942 の発掘は発掘誌 24 巻か. 分の純粋性は保持されつつ進行されていたと言え、そ. ら 28 巻にあたる。この発掘誌には日付、発掘場所、 そしてその日の発掘の情報が記録されており、ボッタ. れは当時のオスティア遺跡発掘の一つの側面である。 【参考文献】. ※以下は参考文献の一部であり、参考文献一覧は本論に記載している。 [1] Antonio Cederna, "MUSSOLINI URBANISTA", Laterza, 1979 [2] 井上章一、『夢と魅惑の全体主義』、文春新書、2006 [3]Alex Scobie, "HITLER'S STATE ARCHITECTURE The Impact of Classical Antiquity", College Art Association, 1990 [4] 藤澤房俊、『第三のローマ イタリア統一からファシズムまで』、新書館、2001 [5]Terry Kirk, "the architecture of MODERN ITALY", Princeton Architectural Press, 2005 [6]『SD』8306、鹿島出版会、1983 年 6 月 [7]Guido Calza, "SCAVI DI OSTIA TOPOGRAFIA GENERALE", Istituto Poligrafico e Zecca dello Stato, 1996 [8] 北川 佳子、入江 正之、「イタリア合理主義建築展とそれに伴う MIAR の活動について」、建築雑誌、 昭和 55 年 11 月号 [9]『日伊文化研究』第 32 号、日伊協会、1994 年 [10]"Gnomon14", Princeton University Press, 1938 [11] "LE VIE D'ITALIA RIVISTA MENSILE DELLA CONSOCIAZIONE TURISTICA ITALIANA45 9", Touring Club Italiano, 1939 [12] Leon Krier, "ALBERT SPEER ARCHITECTURE 1932-1942", Archives d'Architecture Moderne, 1985 [13]Pino Scaglione, "EUR a Roma" Testo & immagine, 2000 [14] V. グレゴッティ、『イタリアの現代建築』、鹿島出版会、1979 [15] ディヤン・スジック、『巨大建築という欲望 権力者と建築家の 20 世紀』、紀伊国屋書店、2005 [16] Carlo Belli, "La citta fascista" Il Popolo di Brescia, 1931 [17] V. グレゴッティ、『イタリアの現代建築』、鹿島出版会、1979. イが訪問した Caseggiato degli Aurighi の発掘につい 10). ても記録が残っている。その記録内容は全て発掘の状 況や発見された碑文の内容等についてであり、ボッタ イの訪問を含めファシストに関する情報は全く記録さ れていない。当時の写真からファシズムの関与と注目. 左 写真 7. ファシスト党幹部ボッタイのオスティア遺跡訪問(Caseggiato degli Aurighi) 1938. 【注釈】. 1)1921 年 11 月にファシスト党は結成し、1943 年 7 月に崩壊したため、その期間である 1921-1943 年をファシズム期と定義する。参考文献 [14]p14 、2) 参考文献 [4]p224、3) ヒトラーは「今日の我々の 大都市には、市の景観に大きな位置を占める記念建造物が存在しない。それはある時代全体の象徴とも 見なしうるものだ。こうしたことは、古代の都市では実際に見ることができた。」と述べている。参考 文献 [15]p62、4) 参考文献 [3]p109-118、5)Gruppo7「ラッセーニャ・イタリアーナ」誌上に掲載され た4篇の建築宣言によってその名を築いたグループ。参考文献 [17]p22、6) 参考文献 [16]、7)「ローマ の合理主義者」とここで記したものは、A. リベラと MIAR ローマ支部会員を示す。8)『La Casa Bella』 や『Casabella』等、現在まで雑誌名が 7 度の変更をみせるが、本稿ではそれらを総称して『カーザベッ ラ』と呼ぶ。9)Michael Heinzelmann(1966-) ケルン大学考古学専攻教授。著作 "Die Nekropolen von Ostia", Pfeil, Dr. Friedrich, 2000 等。10)「発掘場所」の欄の記録を見た限り、長期間連続して記録 されていたのは「デクマヌス通りマリーナ門方向」、「地区 A・B・C」、「発掘区 4」、「Caseggiato degli Aurighi」、 「発掘区 5」、 「デクマヌス通り」、 「マリーナ門」、 「山頂」、 「パラッツォ・インペリアーレ方向」 の9つのみであった。この 9 つの中で唯一「Caseggiato degli Aurighi」のみが建築物単体の名称であっ たことは特筆すべき点である。. 中 写真 8. ファシスト党幹部ボッタイのオスティア遺跡訪問(フォーチェ通り) 1938 右 写真 9. 国民教育大臣と E42 最高責任者のオスティア遺跡訪問 1940. テヴェレ川 ロマーナ門. 円形劇場. 写真 8. カピトリウム. デクマヌス通り フォロ. フォーチェ通り. 写真 7.Caseggiato degli Aurighi デクマヌス通り. ラウレンティーナ門. 【図版出典】. ( 図 1.) 参考文献 [1] より筆者作成、( 図 2.) 参考文献 [2]p17 より筆者作成、( 図 3.4.) 参考文献 [3]、( 図 5.) 参考文献 [4]、( 図 6.7.10.) 参考文献 [5]、( 図 8.9.) 参考文献 [6]、( 図 11.) 筆者作成、( 図 12.) 参考文献 [7] より筆者作成、( 図 13.) 参考文献 [7]、( 図 14.) 参考文献 [7]、( 表 1.2.) 参考文献 [8] より筆者作成、 ( 表 3.) 参考文献 [9] より筆者作成、( 表 4.) 参考文献 [10][11] より筆者作成、( 写真 2.) 参考文献 [12]、( 写 真 1.3.4.6.10.) 筆者撮影、( 写真 5.) 参考文献 [13]、( 写真 7.8.9.) オスティア遺跡考古局文書館写真部 門より入手. マリーナ門. 左 図 13. オスティア遺跡の地図と写真 7.8. の撮影位置 右上 図 14.Caseggiato degli Aurighi 平面図、右下 写真 10.Caseggiato degli Aurighi. 18-4.
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