Economies, Japan External Trade Organization (IDE‑JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名 アジア経済
巻 11
号 9
ページ 40‑51
発行年 1970‑09
出版者 アジア経済研究所
URL http://doi.org/10.20561/00052465
1970090042.TIF
( I ) 卜台湾にむけるナシ
Jナルな
d思考
F l 本統治
pa gJ
iH/
林
ケ ズ/ ト
! l , f :
ど周辺ぴ)
「 i l i i l s : J
山l J U i r , , / t
干[ドj仁く 台湾をのみ対象にして」、たわけではふL。、
エ
f l
本の植民i
也であった朝鮮においても, ー i\良市I,の杯
i
氏政策の基調は台湾と軌をーにしていたはず さきの矢内原が,I司じ論 であるのにもカφ 、わらず,1 ; : ; ; , i , ¥
f巧,J: fl、'.I.:ii/l 'Jcc!l 十入1/,、!H二川h'.時,,~fり/ l!
. 1 : ' ; : '
Iiiに,「:,Jjヒパ」 コl』らい i己 J:ヨ '•')i己りて
文J仁出二
r : ;
・''"二三 ,')之f;ヒJtl)J t:勺:! J ' 'YノLなIii(, J , , Iiiい;:L H)じ
I I
')
】
Hオ4
立((})なかでつぎ(/)ようにし、ってし、ることは,
:CL
支 配
i
こおける台湾と朝鮮のあいだに差異があっf
こ L、っそ 台湾統;f;が朝.f在干のそれにくらべて,‑ 1,
) 」 ヲ
台湾近代同研究のt¥l,i,',i,
1」τ h
:f, 円]
それゆえ
i
改正t
してL、7こことを)f,し て余りあんう。p 政治的状態に至りては台湾は朝鮮に劣る こと数等である。同Jtフ総督が陸軍武官たるときは,
軍 隊H'l搾権を
t i
する官制i
土台湾にありて朝鮮にな う: :
1mir :
あり,[
i
本山台湾統治i t l . S
'.民年,f l i
古・ 周知(;")主う;二馬開条約にもとづレて
i
吉 明 か ら け;I店主l
された年 日本帝|可の敗北にレたるまでi
ニ始まり, 19,15{ι
r
i
本のかr ‑ 1 r
弓1年間のj之さにわたって
H e
けられた。地方制定に於ける選挙制度は朝鮮にありて台 湾;こない。官吏特別{壬
J H
の範間は朝鮮に!よくして V C1寺市ljrtJ 従属・
j , , J
{じ主主によった杭民政策J)強{'iであ》たυァ ; ア を し て いJ;f)lj_':と義の,
}ー− 1 ‑r 1 、三二 ' . ・
'−''ーしに v. fし''' 杭
i
台d〕特徴i土7 それを」、才コ
J
よ}民上化したi
也台湾に;央〈…・一台湾に保lfl制 度 あ り て 朝 鮮 に な と11、
F
んだJ)i土,1
バtit紀フラ:,,.・1,,,J.I日、忠家t ./域ー
i;況鮮に数値の柑
i
鮮 人 発 行 の 朝[I.q号ff,新聞あるに/ \ ラ
台湾社会の資本主義化
i
こ似 テスキューであるが,圧し台湾は本l21人発行の日干I]新聞は未ど一つだに
,;{した{反併なさ帝国主主的収奪をおこなず '
f
これ本統治の制度においても,即位者の官
i i " r ‑
されない。まこと二び)モンー干ミ ':'C,,』のアゾ
c')台湾統治 i土
.L,,ミ,J)¥C r=, jfヲ
, t i
,命のれ i却においても,吏
f
壬I i i
にまれ、ても、アに対寸る批判的結話を想起させるに十分なもの
の政治的状態は朝鮮に比して更に専制的たるは明 そし
c ' μ * ,
19'.2lJif,欠内原店、雄はそのであった。
台湾には政治的自由全然欠如し,その れである。
日rp.!
L i
主fJJ{,' 実i
也踏査にもとづL、てl.t;亡した1,/j 非)! f種すら未 t.~ 認め難き状態である J !/' 2
、
cl為川〆官τ
(3ji王手
;;現鮮を見.「朝鮮絞{1,7)方 針d/》13を書き,
i
巧』におL、て、柏j更l
也, { ・
はの現状を.)さ、のように 規定し たのであるコ|給H
専制Cl)栂; ,
r:i,\なる点に於てi : , ' i ' 1 ¥
:土三世界植民J
也「\1村,l ' f( /
){1/1Jに属するi,!いと心 を探査して名店『帝i
弓主義!ごの台湾』を草したこ 台 湾l
こ 朝鮮に比してより すぐ1.1,てI E
しし、。 主i
する日本伝(})植民政策学者のII良は, 戦前山[
l 4 , : :
,r i l r . J
主義の体質/.二規定さi ')'とI)
れよ二専制的従Ji(,.同(ヒ
1
←義の長1'i民政涼l
士、 40もっとも,
,,J i月
i ,
をきj; Jト二と、、う弘MJ:、 こJ
L iよ人j己〜'>一/も「〉!白
l
ぐl
也r:',J:::良士J
号六ノ,、, i
.>" J 忘;/i、一(一1
仁 (,iiえJ r
主 J~;よびiユ後, H ;本:;〈;配の HM夫まで n:m主f·f前,合 {l;•?歩、アJ ・:, 0 A亡
L‑ ‑ ・ ,
二に I;;J; 医
Vr, f ( 1 1
!一νυifを,
1
;ノレn 1 i
,江1
,;陥1 l
) ‑'キ /ごに J土ヒ LI、本(t ( J f . ‑l
民tI~; jミを見れ,i
工,よくj、/J'ふことであ主与 i I 5 o t/¥J忠;土,J( fヒパ'.'.
J i ' ) { , ; 1 1
{によ!ていぺそう1 i ' 1 , ! i
をρべTじ わ れ わ れ の 歴 史 学ρ それを知ろうとしなかったこ 上 、 そ れ は11本 敗 北 山 II士で終l,,ることがなj,,、 と, L、ぐ'1ELくは, そ の も つ 特 殊 性 を 理 解 で き な 吃の?点'・' J' か.'たことに起[,::\f
るっとし、うのは,朝鮮の場_; [{/)J三/;'・ ,
t,パ司三_/;
・ : r ・ r
:を等ド午,I
に(、l
牛Lてきた〉い\》. 十lj}/i,i 打 倒 → 朝 鮮 のq
虫立/ ,、とストレ一トに直結したt : f l
;汁う 三l,ι!''J:、士jj、Jj;「/Lて芳えてきJ争三3 こ山こ に対し, f,'i常dJそれがそのような告l ' i l
(±也民htj笠切 J''・'士、
l
リゴIIi f ' f
1<以降電!;司!昨ノ)民政運砧わな、;散なfじ 般に共通ナる発展のバターンを持人つつも,L
/l!'l二 j/;:I守二i
の ft,11[ 手’ II ノド!と;両[~v' I ::; l円i i
主.t
こ対す心JJ1(/1'cとど。\えら,'r'・.iiんι「〉 ![引を
1 1
:本のlllt'i/UそJ U ¥
石l)',t/, a 日記11 •, 'r.,: . (二号:t i
史主;/lる宇J J ! X f f
,11T 0 f
'j[f二上り大さく(l(i1 ! I_たこと, そtI, i ,,ぇfi't:tJ、J)
l t ' l : i ' , 1 1
;:さ i,; / 1
てFレi;/,. 'たことに, にくあ,・,),;jし守 「 ¥̲. : .
\ 、 ι ノ イj:どに, I
J ‑ ; , j . :
c'; iII 依11.::l血i J 1 , f,ii~
かし,、独立〉それ白体への
m 1 1 ¥ 1
としどではなく,If本
i ' ( J f
こは,〈光弘i ;
(中国八C l ) j k i ' J , t i
• 'l , 1 ¥ J ,
引 に 帰 結3
れる;白煙l
こJヨL、てm w : 1
さ;!Lf
ことL、うこと,この ことを意味してレる。に独立;rか,\光復、か、 芝 山知;/i : 1 i
,,:ょをどんらにFとるかに対して, 日本心歴史γ
ii川 答 を ね た な かJ》たというえきであろう。よりも朝鮮に|:!本支配の t:JJ\lj がよ'~i'lf,:して L 、たかの もんろん, iI可じく 1!本の植民地とはし、っても,
ょうtr̲印 象 はt,t:,、ぎれたL、のである3 明/!(f'に 見1・1 A民 族 ・ −
l
玉i
家が?で」的な支配を受けた朝鮮と,t !ノる ··,::i酷な支配と i~·'c".!!/dJ~H-
L , ,
、う「メ』ン 中 ほ か 九J)分断・隔離におし、て支配された台d
]'の か九, f,;i;: . t
干、台にし♂)},_,に述、;' J: l,、やf,れて 迭し、をええたとさ,問題はつとに早く解決されね さだ。 ばならぬはずであった。どが, IJ本 の 台 湾 史 研 究 この原同(上許可であんうかc 台 湾v')J弘行 ,'lir¥iit , i
こと1 亡のイ、幸は,すでに触れた矢内原の選択が,支 配1 のみあ)て, 朝 鮮 に おL−、
nl
人れたような ¥jムi
反Jにおいてではなくに独立〉におし、て全体を 低 抗 は な か っ た の で あ ろ う か コ 台 湾 の 人L(it, M促していた点であソて, わ た く し が こ こ で 問 題 11 :本の J出得を絶した ;;:./) 支配のもと,ただおl~l ど にしようとしてし、る1 1 1 1
目改造論争jにしくも,r , , 1
化 に 甘 ん じ た ど け ど っ た の で あ ろ う かυ す べ て 矢内阪はこれを無視し, 一 般 だ に 与 え よ う と し な 百 で あ る 。 恒 見 の 乍 実 が お し え てL、るのは,あら かソたことである。すなわち,矢内!忌は当時,中 ゆる他民地の佳史をつムぬく!呉氏族支配ノ、の’•l\ [Li革 命 の 影 響 の も と 新 た な 指 向 を 求 め て 台 頭 し た 族的-ll~抗の ;1三日j が‘ fr !おこも例外 !;_く存在して おi
丈 化 協 会 お よ び£ 1
民t1L合 そ の 他 の マ ル ク ス 主 義ν
たとし、う三と, ぞ れ は 朝 鮮 に 比 し て 優 る と も お 的注品J J
を,i
タト来思想の影穏による観念的産物た とるものでなかったとL、うことである。このこと るのf c J
!なさ能はないJ
'Li tり と し て , 否 定 し 去 っ て は, Fl本 のf,
山内凶方、c ,
191:'i'Fにv、たるどり午fI\!に し た の ぞ あ る 。 矢 内 原 の 業 縞 が 卓 抜 し た も の で あ わた・)て, If,、山民主i 1 J
を 先 駅 と す る 台 湾 人 片 山 るがゆえに,また, この点での把棋を除し、ての分4'
1970090044.TIF
−J
tl
h成
ぴ1
H t
e,ノ− jじf}l
t J T
iJきわめて刊学的であるかために、 ;! レ、−' 'ι, j J、 !,'If/ f C ,~ 1' q』:i ;
1 t: ・ 11ν
︷e泊︑
f
Lよこえって
, {
i青山抗i
I l( iJお室長!J士, 11,,,,,ザ!ν、「 ,,, '一町 、 \
(. I 4) こ,; ) :'! , ;I:民/;cこ ‑: ,L、て:t,fu1T人日flでずf/l
,; !'!かい必1,,1,J'.,[:I ':;/;,,,下計 •Ii
̲ J ,
i ‑kう。 1,,11(ιけl‑!‑,‑r,",J (f dノ;';ζ,;'t.!],l()()Jノ,,,_;三if¥ij 「Iiトb:行ける J二 ,(;:,‑: 1‑1,,1山剣先」 一一〕。lt'‑1のそれと山
‑ t f l l
自作1
係におし、てとらえるための;妥 L、土 I,で不l可能であ− )t
ここどしまfニポ:t
なJjJI• ち
λ日!!「 T1H/1 ir;'‑;t?'J
こij i' ')、、ご t' (. i 5〕
I
i
本仁y
矢内原の見解がどうであろうと,
のである Lカhし,
F 山市山一一−.1c ,;;、文•,:;-, 19641,十 1970'!';生,, f!;え), i , .L
r
ノHill('.(j、「i i
i1'! lじff)任、I』t , o J i
王h吐:( )()」〔n
伶世:,if,,:』, ]CJ只0'111:1 >,', 5111 1 i! ',;)努j札 fこた,L、jれ )'ti反〉を指1,1]し;',、
統治下山台
; t ;
(I')氏峡i i l i
引が,[1卒;立代 丘二とのGIIJu'11の
W 1 ‑
;を品川i
す一ることは,,'1 JJ.1 I I V ¥ ,,it,̲/'− 乙、;'制,1,',犬fI :Fj,'、、守、、F"i'サバ•!ザ f 、、J: jノY、(,ず
!とにおける
1
也氏J
也のIUJ姐を改めてちえなおす立味I !! ,',JJ.¥ L I_,'/.人 ι 1一一, ̲ ,0
(, I (i〕:・jJI!/, :3K6< − ン 。
(17) い→本, h(は\~itll研究三台めど, f,h宅ヘバ'/ ‑/
i ̲' ,!J』
, :
,た11:IT;[し,flifl/11: 1
:!利ふ)(11) ・1・1!、')II -~ ''."「11i I~ 革命史の主体的 11i:1i寺jJX:C) 必 と
f
こ.J千二レ、1、v♂
『)イJ司ι、、司
不可欠な o:'t~ 題であろう。 :~ /;l
Hf・I
ゴ
;/;ゐ仁、L〜)ごも,,);,ア, 1、戸、,
r ,
m n 1 :
1 匂 /ι
るかし)'、,r
'JIi
たM,カ「!お!/{さj: ( 1,,, ' /?γ,,、たるも1Fi約九を−:\グ〉ご'l)かれヅ)戦1liJJ)竿\'i , , ti j人:;,i,、
i :
J ¥ ) , ch ,:少なL。、 1,1:ノ[志、H,−触れ¥ t:宍iI,、九Vo‑,
t
。:−
h一︵
L1
jイ
'i111ij(/) I I工・ドリ
J主f!J, -Ji: ・三(〆 l 」『あるいは北{比、さんに ~9]鮮の' !) }' 事件一」淳司 ;i)(し< 'lよ起した
f l ' . :
IAi r i '
;;士r1:tl争の校長iJl山()年代?
ド
f i i
,ll'百、f';(jf;l,! ,
,;、,:1, ¥' ,: !れ l : どハう11JIC 1ツI:'.':1「,YJ1‑f:
!, l件、子 j、ご十 '}',「 y 、 P'll引·~、 •11 J >
・ ' J :
I【f"1 "‑' 処IJC『!り111,1], I CJG'..'. IF :l ; : : ; )心力I))ι,i",, ・' [欠;人}!京:,i;.対L 判的J
()'!1,̲1, ,,i̲JJ、1965'F 9 I 1ιju
上7)[i,j ,,: L、
TADAOY A N.A.IIJARA Ilis Colonial Studies及ml Religious Faith一," The Deueloping Ecrmomies (VoL IV, 1%6)。'FJJ,j¥,,lii,一I,・:内lj;(Jι/!Jt,;) ア >! ivl'J\.'.批判J(L/1; I ti.;, fl£,:i ' i
!l 自主;J,10,;‑, :; t, i11Jr, I(い付近代 •): MlW;, h』;以fl), : ‑r t,, /:, o
をそけて
:
c'.:1‑;fふc̲̲υ〉伝換}.'、Lとか
j
比三t;JJ昼IHJを見せゐ,/]¥j'ir̲'.f)J/J・,
「
1 1 1[
EJL'¥(j';j̲ぷ, t 二 "
iIIトつi<:放置動指導者f l ¥ J
によるそ
':II寺、つ
, ; {
与におit
/f, IのもJ, ; G r
味合さくり,−_, /),る iズ ft子氏!ぷi恒例J ゴ) f甘l 題 t)~出の究明にあるつ
三の"!t;ll,IJから
i
工「帝国主義干の台湾jが ふtl︐
ノ\
̲/ > J)
f R l ] r I 1 i ,
えた刀、った
f
「湾民族運動のもつもう氏に「一!ン!十,L」な
l W f o n
が十1l1IU,"h 十次わ人,矢内)J
;
〔ル主さにこのJI寺 どr;:;i1r与にうるはずであるJ
I I
一主体的民族運動のj¥fj芽とf
;凶し、ま士vごi王 期に台j;与を,,方
l : r J
Lたことにかんかみfl可化会
J
から新民会への発展台湾における近代的かっ組織的な民族運動は,
I Li. • PLJ」を勃発せしめた中同のそれと同じく,
とんど知られることのなかった矢内原にた}する台 したがって矢内原のか;?子'(!)かかわ y;'~,人の対応‘
I)
t ' j
についてもi収;flしておきたLつ、活C)近代的民族運動U〕係態か「〉概慢しておく。
(ぃ1)ノ、|ノ−1,,i‑:,1:.!11‑ 1 r1i1トJI fぬ'IC; ‑f
'
内J(『コ:1¥J¥;、',七九Li'.11.」,辺三〔と, ,';Jぇ。i1.1;), 38片♂ご
〔}み'.?) '>: Iノ I ;~,, 36片J :
(: I :‑l ) : ・・‑・,,,;i
t :
t , >二)んL)̲! :i¥ l 11:υ;
,,u,,下派行(1924 年CJiJ〜10; J) lfl Iせに,',かれ f!, ,'J C' ♂i)&'ノ『,1,;,1.と午白白」 (1926;!付ノリ'J) . , ιl以戸〈, かり!(t・,J IJ),;tり,i
−
− ず
板垣退助の 2度目の来 台によって台北で結成を見た台湾同化会の運動で 知説階級を主体とする啓蒙運動から始まった。
のさきがけは1914年12月,
「l字国改造論争」にv、たる
h
‑t寸七)
l i f t
序として︑ .
r﹁﹁?
湾人の口本人"(!) 「
i
軍然同化J
C')推進であった。日本帝国主義支配強 こfl,を一言でいえば 出じ会の起立
i
守はある。
「 i
買I
然 し治通し,そしてこのかぎりにおいて,
化の
j
午内にはいるものであろう。斗4
同化」の前提としてー 「内台人権利の平等化」が うたl:)わ いたこと、
ti
:,その該J
人極d
;書:およ び同{ヒニーだ九式におlr
ゐ以上司の発言/人、 f令国との 関係の密接f
じを主張していた点において,f f . i f f l l ( 1 ' : 1
武断政治へのアンチを意図していたことは疑いな い三l I L:立趣意書:二;士、つぎの一一む;\ /:;−まれて いた,/)守点〕る。 「… 的ι
進んで東洋平和の光輝 を掲げ,以て対岸に;於ける支那人民と相交歓する 基礎どなら十ずるの理あムんやJ
C/12け)同
f
ヒ会川市湾全島にjj l,、て加盟せしめた会員数 は:−n o o
余名に遣したという。だが,総督府は在台 日本人の川化会への反対i̲,I' '.l ),および同化会内部 への不自( / − /1人の潜入、 をi
里由に秘!む二これをF E
J i
{に集まってし、た台湾留学生は約,100人といわれ ',
' 'るが,それらち 100 入金 J生える数が l'Ji 氏 6~ :ニ )J,l入してし、ゐ。
新民会の活動は,その章程(規約〕において規定 しているように,「専ラ台湾ノアラユル革新スヘキ
•j\JQ ヲ考究シ, 丈化ノ伯]上ヲ
i
手司Jcヲ以テHtドjト→え
i
とL、う1冴(先七lf体として限定3れたものであぜ) た。だが,その内実は,(1)台湾人の幸福を増進するため,台湾統治の改革運動をおこなう,(2)苔等
,))主張を広く
μ
ヱ{i
し,島民を件発し同志をj
堅1 i J t
る為め,機関雑誌を刊行する,(3)支那人間志との 連絡を図ること,などの3点の基調のもと,民族 i'J iJと主義のj'f:¥};;(.̲−;主って民権の
w .
張を目的とした 迫し, 伝),3力J J H
トニl‑−(これに解散を命じたのι
ぴ〉であった。 二のことは,機関誌『台t'1r ' T
年1
であったi;1 l '0
1
反町は追放同様の態で台湾を去っ 発行に先だって頒布された「雑誌『台湾青年」発 たといわれてし、る。伯爵板垣退助にして抗しかね 行趣意書」に(1116 l,はっきりと現われている。す るほζ, は国府専制(/)内外さを示す pJ ・
;:といわね /よねち,ばなるまU。、 「諸君, 4}J年半に互/レi:11:界/武力大戦乱ハ共 しかし,挫折したとはいえ,同化会の成立それ ノ終ヲ告ゲ,今ヤアラユノレ人類ノ平和的戦争ハ盛 自体の立味ぷ,台湾民族連動発展のζ /}'ング・ 二
r r
ハレツヴアノL,是レ正二世界人類ノ反古W l
戸 ボードiこなったことは明られであってう 111‑J化会の Jペーイカ。台湾側中心人物であった林献堂'. i' 5 •·を擁した新し 其ノ国際間ニ於ケノレ永久平和ヲ保タンガ為メ,
い運動が,台湾人東京留学生のあいだからi新井と 悶|際聯盟ノ条約ガ出来シ,人類間ニ於ケル弱肉強 してわき起こり, 191'パーに;まそれが性京的政治団 食C!避ケン万為メ,人類解放/11¥J題ヲ惹起シ,
n
体,
r : : r ‑
花会として結i走さi t
,翌20年には社会人を ニミー於ケル低!!存劣敗ヲi
訪ガン力、為メ,社会改造/加えて新民会へと発展したのである。のちの「台 呼声ノ、高調セラレタ。
湾文化協会」の母体ではある。新民会の指導的人 然ル二世界人類ノ平和ヲ計ラントスルニハ,先 物は, HiJ
, , L . ' . H
、献堂,会志郎I(台中,t
也l),休呈禄 ノー国内ノ平和ヲ;,十Jレベク,i
d内ノ平和ヲ Aふれ(新竹,明大政経〕,奈培火(台南,高嗣i),王紙川(台 トスルニハ,先ヅ一社会ノ平和ヲ計ラナケレバナ 中,早大政経),主主式穀(新竹,明大法科〉,呉三連 ラヌ。又一社会ノ平和ハ先ヅ一家ノ平和ニ求メ,
(台南,束J江市大)なとであって,林献蛍合会長に 九家ノ平和ハ先ゾ個人身心/平和ニ求メザノレヲ得
し,引也、立|!主副会長,午、 I:リえを機関紙 '{,(,-/~青年』 ) ‑ (0 蒜ニ於テケ,我々ハ克二段大ナノレ世界人出 の編集主任に推してu、る。禁培火は後述するよう ノ平和ヲ求メンガ為メニハ,先ゾ最小ナル身心ノ に,矢内原忠雄の終生の友人であった。当時,東 平和ヨリ求メ始メナケレパナラナイノデアノレ」。
4,
検閲を考慮しての巧妙かっ抽象的な文体のなか に,
ワ。
明らかに日本統治への批判がかくされていよ この傾向t工3 『台湾白ニ
t f .
』第4; ‑ } , n
茶培火(I)..•文「我島と我等JvこL、たって, 蕗管なまでに明確 なキ
1 1
貌を示す。すなわら,である。
害警培火;
t
こう書レたし)/I 1 1 . ! :
浮ハ過i
、二於テ恰モ無神経デf!告思麗ヂfソタマJI 1/日ク, jfuほノ精神ガ之シク, itIT珂創造ノ
x t
風ガ沈ンデ居タタメニ,
i
差ニ今日ノ如キ境遇ニ陥 ラーλべ「ラヌin;二ナッタ。1 x
等ハ今JL二猛/t i '
大 凶 スベギ秋ニアルト予ハ痛切ニ感ズルノデアノレ。.・・・{, 沌,、帝国ノ {,'湾テ、71トト同時二, 我等f1i;主人 ノ日湾デアル。 風雨ノ前ニ錨戸ヲ刷
f l
スベキアア ノレ。我答ハ稀ユハ矢張リ銃剣ヲ弄ツテ見ルガヨイ、勿論/;−"、ソン「自由ハナ fケ レ ド 七 然シ立/心 掛ケハ飢クマデ必要デアノレ。 真剣デ、ヤレナケレノ:
木J
J
ヂモ差支ハ}イ弄スルニ投立ツゴトハ liijl主7守アノレ。我等ハ今ノ中ヨリ自由ノ範閉内ニ於テ将来 ノ真十Jレ生活ヲ果ス準備三我等ノ'
t i
:力ハ既述ノ如 ク主主クナクテパ十ラヌト共二, 我ミ子ノ体力ノに!レ ヲ充実シ, 練ヘテ置ク必要ガアル。軍国主義ノ末涜ヲ引イタ料館デナク,
コレハ決シテ 我等ノ本分 ヲ全フスノレタメノ覚悟デアノレj(fr 7 ) 0
この文章を掲載した『台湾青年』れ 即座に先 禁になったことはいうまでもない。 こ二こ
i
こは;, .L、口
湾人の民族精神に訴え, 日本帝国主義支配への批 判を喚起させようとする窓図がにじみ出てし、たカ・
らである。 「台湾は台湾人の台湾ならざるべから ずJ,これが新民会の指針のアルファであり, オメ ガであった。そしてこの方向にそって, 新民会の 活動は,中国,朝鮮留学生との親臨・交流を目的 とした声応会の結成,また,新民会の下部機\jjと しての東京台湾青年会(注8)の組織化をおこなし、,
さらに「六三
i
去」撤廃運動J、と触T
を伸ばしたの44
であった。 「六五訟」 とは, 台湾総督に法律と
i
可 じ効力をもっ律令の制定権を付与した,明tfl29
年 j):;千jt第53
\_;のことである。しかし, 新民会の活動が台湾本島から速く隔つ た東京におU、て, Lかも一部の知識人と!封印
i
地 主 によってのみおこなわれてャるかぎり, L、かに立r
i
民な主張のもと行動しようとも, 台湾人全体の要 求を体現寸るものとはなりえなし、。 新民会が,れが自己の主唱のもとおこなわれたとはいえ,
そ
良直iJ
!?すの中小f/l,ジョア雇および知識階級の最小限の 襲*を体現したかに見える 「台湾特別議会設置運 重
i u
の組織化に着手したのは, 新民会組織拡大の 事f i l l ! :
からU、っても, 当然といわね(まなるまL。、2
文化協会の結成とその文化行動における ナショナJI,な指向台湾特別議会設置連動は,
1 9 2 1
年1
月,第1
回[台湾議会tf支配請願〕軍部ljjとして,第
44
帝i
五議会へ 請願書を提出したことによって結実化した岨9。)との第
1
阿の運動は,新民会々長林献堂以下1 8 7
名 の署名のもとおこなわれたものであって、 署名者 この挙 の大部分は新民会の会員であった。 だが,が
i i
(民地台湾人の宗主国に対する最初の民放的要 求行動であったという意味において, 画期的な:事 業であり, 一団体の思惑と利害をはるかに越えたものであったことは確かである。
こ町〉こと
1 " 1 ,
第1
凹請願直後,新民会副会長楽 志如が中!t'lヘオ}たり,北京,上海,天津,広東な どの各地台湾人を回って, 東京の運動を告知する と2:もtこ,『台湾青年』を碩布してその支援を求め たζとで, その後,これら中聞各地の台湾人が,連動支援のための組織を, つぎつぎと結成したこ と, また, 台湾本島においては第
1
回詰尉に刺激 された台北の有力者で医師の待問水が, 林献堂に この運動の全史的な推進組識の結成を はかつて,f呼びかけたととに端的に現われてし、る。どくに,
汚清水の提唱が,林献堂を緯照
i
こ, f得自身を台め て察情火,主敏JII,ザ恵如,林s l :
禄,連淑卿「ftlO)(山川均の影響を受けた社会民主主義者〉らを理事と した台湾文化協会の結成へと発展したf注
1 1
)ことは 二のj逗動の主作が東京でではなく白湾本品i
こi
量か れたこと仁沿iて,,t
た 守 結fjx̲当初jから''f;生を含 ハて1 0 0 0
{',以上Jア〕会0を訂したことが も、、って,1 1
湾における民族運動が組織的かつ今主体的な形成 金なしたことを意味している。というのは,結成 当初から数年間の文化協会の活動は,古if0c台湾議 会設鼠請軍再選重JICi〕母体として, I;計!日(tZJなJ主義'
1,穏{ii_~ なる宣伝J し m を楳傍[つ J コも, 1,;J 時に, f, 湾
人の民族情神喚発を目;全と
L
た各種活動を展開 し,その規模,取組の方法,さらに効果の面にお いて, 日本統治下においてかつておこなわれたこ とのない米曽有な業械を崩したからじあ必。読:,
r 1
処〈新聞・雑誌閲覧1 I r
>の各蛇・各所への設丈:: ~~i与 l寅会 tハ開 fl\', ¥1,it劇・映画(/)巡
1 , , i
i it:::',延期学校σJI¥目設、 ローマ乍・ ii活文の普子主主主刊,
女 権
w :
張連動一一これらはすべて,文化協会が 1922年から27年にかけて,全島的に展開してきた 活動であり, 192;1年から泌年末までの4年間ιi島 内でD'il催lノえ記1 / S t
会は回数iこしと8 0 0
伺f.U,1)ラ理主法 渡 辺 弥 億
第2[ii] 1925年(大正14年) 7月
経 済 学 陳
1
斤商洋文明史 林 茂 生
窓 法 大 意 察 式 穀
科 学 概 論 察 培 火
経済思想史論 陳 逢 源
契約に関する注管 !委1松 崎 陳 万 ff}{
衛生について 陳 朔 方
支部古代文明史 林 幼 春
外閣す:情 王 受 禄
第3日 19261‑f (大正:15年) 8月
中国学術概論 林 幼 空 手
西洋文明史 林 茂 生
社 会 学 林 履 信
新 聞 学 謝 春 木
人 生 我 観 察 培 火
J
去 の 知 識 陳 紹 7菩 資本主議の功過 陳 逢 務 、;去の精神 鄭 松 崎
結 婚 問 題 陳 万 位
自治トハ何ソヤ 前 田 武 夫 これらの議積に共通しているれは,総督専制八
;;!~者数 lま 30 瓦に及ん/:のであっ fこ tcl iユ弘、ま,そ の批判で、あ) , \
1 1 ' . :
族1 : 1
決主義d巧T i l
調であった。と の全般にわ之って詳述することはできないが,夏 のことは,たとえば第2凹で「外国事情」を語っ 期学校の例に限って述べるならば,その状況は日 た王受禄がつぎのように述べたことからうかがL、 本人賛同者の参加を含めて,つぎのようなもので 知ることができょう。かれは日本語の強制に反対あった。 して,こうレったのである。
第l回 192
t i f ‑
C大正rn年)お月 宗 教什湾、
i
南史 哲 学西国天香の精神生活
上 与.いて郎
i
事 務 ." 4 t
林 茂 生 松 本 安 蔵
「一・・元来被統治者に取って
M
が幸福かとし、う ど,心の自ft]が第ーである。外観が如伺に平和で あっても心に自由がなく,束縛を受けてU、るなれ ば,其の植民地の民衆は決して幸福であるとはい えなヤ。 この意味において欧州の植民地は誠に幸4ラ
相, かっ立派に統治されていると思はれる0 ・." ••
高々本島人は実に三重の負担をせねばならぬ。日[J ち
i
英文, 台湾語,日本語の負担である。之がため にでfヒの発達が遅れる。l 1 ' L
市 ;\'i丈の負担は之をr:・_.\',、 fr湾語文tこすればJ[常に)住忠/;・,Ii.い 。 職 業
モ レ .)
{1也の関係上必要の人I::陥',)';i
::ご、 その他の人[レ.i~tm を研究する必要 it t; .ぅ、人「}と思うj i冶
円本統治下台湾において,日本のな
L
た「業績!として教育・文化の普及とその水準の肖さを誇る 人は,意外と多い。しかし, 日本帝悶主義の奴隷
{ヒうと「ヒ正教育の内在的批判として 帝国主義文化 を
1 1
宅再十る論理においてF : ! A
、丈化のγi!易を1 3 i
会とl二三j;)ら文化協会に上る文化
r , : f : ‑ i t i
ヘ台湾人の 教育;)(準の高さを規定した主f
世であ,たことは,看過してならな十事実であるc 文化協会が政治行 動展開の基盤としての人民の覚醒を立図していた ことは, その民族自決のスローカ〉かおい.'‑c、''1
伏であ1た。したが,pて, このようhJiよ盤, L火、
︐ ︑
u
s w入
︑?
4J
大 ﹂ 鴻 山 江 ず
H T ず ず
則 的 町
1
ム ら ら ら 説 択 択 ト ム 一 会 計 め で 了 エ 了 一 品 温 室 了 存 採 採 け た に 未 に 宋 守 に 択 に 米 総 不 一 小 口 の 訟 ぷ 程 議
ω山村採程議
問 共 共 口 会 上 審 上 審 上 不
⁝ 上 審 院 院 リ ん い け 一 院 両 同 年 続 院 院 院 院 院 院 院 院 一 一 族 衆 衆 担 族 族 議 一 族 議 族 議 族 議 一
︶ 貴 貴 員 同 市 問 責 ず 貴 衆 一 貴 衆 血 民 衆 貰 衆 一
回
f i l l
−
−1 11 11 11 11 11 11 1I
8 1一 一 一 一 九 九 一
− ﹄
A性 一
第 一 日 一 一 日 一
f 1 4 q d t l
つ ム
1 A
一
ト 一 月 一
↑ 昨
2一 川 月 九 一
↑口 一一 一
; 一 口 い
HHiA円
HJ a口
£
: け 日 日 日 日 日 日 い れ 日 初 日 目 日 月 お
:
1 1 β 1 3 7 2 2 9 1 7 h y
−
−
3 f︑
f A η L 1TYムワムムよ寸ム
τl
?ι f t
1Jqd
川ハ 川一 ふじ 一日 け悶 片円 凡円 凡日 川白 川
H凡 け 川 口 け 川 白 川 口
H
円 け川 け 何 月日
HHH
Aコi
2 3 2 3 2 3 3 7 7 1 M
河口 1mm 委 行 衆 食 品 刑 血 民 衆 巾 べ 燃 え 衆 向 衆 衆 詰 川 コ 川
|
|
﹂
1叶
1判
|
J J η i
! 判1判1
1 t
判 一
思 臨 時 数 以 名 以 名 以 名 以 名 以 名 以 名 以 名 以 名 一
t
− 島 一 堂 加 川 堂 ロ 如 刊 堂 ね 火 お 堂 山 山 内 旦 卯 公 刊 一
幻 一 よ い
γ
細川阿川附い︺
7 1 時 同 一
議一 員一 一一 制約 制叶 玄一 明玄 河一 寸玄
J J
I
一 玄J
⁝⁝暢 糊一
寸
M
⁝服
⁝川 原⁝ 川瀬 脇⁝ 川瀬 山川 以内 引瀬 川間 協辺 瀬辺 飢肝 辺瓶
﹁同一一仏閏一江田清山田清山山川市山山神山波消波滑中波清
表iドは衆品民衆貴衆氏自代中川央ー
1 2 f
二一A
出 品 世 九 一 門 会
お わ 一
/
↑ 義 一 議 議 謀 議
d M
−
↑
5 6 0 0 9 議一
4一
4 4 4 4 第 一 第 第 第 第
口H
月
•{\ l .'', . 1921年 1月30I王
1922、午 第2問 I 2月1611
1923年 第3回: 2月22日
4 [:ii 1924年 1月30日 1924年 1ィ・・;:, :・' 7月5A
1925午 I I
"fi 6 [<,] i 2 Jj 17日|第5叫
; 1
第
1 1 , j 1 I
附([二 [第時会1 !
1 I 2 Jl 9日 | | 衆 I 1927午 | | 品
評'§8[司| 1月20H [第52議会
1 . : .
|衆へ1月19|日 |県
かえれば前記文化・教育活動の効果があったれば こそ,第1
l
目請願運動以後14年間,前後15回にわ たリて,その政治行動がえいえいと持続されたの ご心、人ケJ‑ J .
こでは, 徒労i
こ終j) , 1:: (:もかかわ 心 札 で;v心。いま, 台湾議会設!丹市郎氏運動の経 i:'!/iを第1! i r l / J
ミム19'..‑'7年の第8~'It ごに ilH-yて, こ れを慨r兄?γると第1
支のようにふ/〉う。あなみに,新民会の機関誌
r
台湾脊年』は,文 化協会の機関誌『台湾雑誌』となり,のち1922年4
月には,『‑ h
湾民報』〔半月千jl〕 けつがれてL、(:
とこんむ,以上のような文化協会川
t l i
l,\・動を概 同Lてきて、 そこに濃厚にあ「〉才,A,こし、るのは,巾!Tl市命の影持である。というのは, 店Ji記機関誌
『台湾青年』は, 明らかに北京の『新青年』;I司7〕
の意を体したものであったということ,前述した 文化協会の大衆的啓蒙活動が, まさに「五・凹」
運動以後、北京大学の教師.'−'!:生*::中心にして民
要
〔
:H1;Tr) 『台湾総督府警察i{,•'( 史 C:1 ;ご山 .I. (llf,干口14年7月}, GU おは貴族院,衆は衆ぷl注射打「し
斗6
問されていた北京平氏教育捉進会など山大衆教育 運動の推進形態に酷似しているということ<ct!S,〕
さちに「台湾
l
守山』がその発刊にあたってお活文(口語文)を採用したのは,
1 9 2 3
年1
月の『台湾雑芯』に約三聡:;-_;工び黄~,:i1琴らが、 いわゆる漢才:改 革論を提起したことに端初をもっとはいえ, それ
I
t
直接的に中|干jcl!国 詰 本 命 を 昨t
−__とい円てと,等々である。 前;世の「持報 処jには, 「つねに祖国に対する認識を深めるた め,中|到の新l
五1 ‑ W
誌がi
汗かれていた!去 し、士、A t
て おり, とのことは日本側官憲の資料につぎのよう(三記述さhていることによっても確l認できるので ある。 「読報処には・…島内各地新聞雑誌と共に 多数の支那新聞椎誌(|一数種〉を備付けて一般民 衆の閲覧に供し,植民地解放運動に関する記事の 如きは,殊更に来書
I
須点を施して注:をを喚起する 等の方法を講じ,開設の当初に於ては相当の閲覧 自を来,,行方=り; 1Tl9Jと。また,
l 9 2 2
年 台北で初めて信生運動Iii20) (日本 瞥察との衝突〕が起こっているが,これはまぎれもf
トく,l
1/'.・四!の北京学生の??:[如こ制限 fされ/三も のであったっこのように, 文化協会の行動のな志、;:中国不命 の影響を見い出す材料は枚挙にいとまがないので ふってーこのホ実は, 改めてれ湾人かi干:華民放の 員であること, その意味で, 「五・四」から北 ii<にカ •i 十て革1ffr がもっとも高 i析したl尋問の中!誌の 動静に敏感であったことを想起させるのである。
事実,
1 9 2 2
年から26年比 いたる時期,台湾からの ij1 国留乍生が.~,J持していること t, とれの反映で あろう(行21。,3 .
新たな胎動jと採態しかし,文化協会の中国革命への以上のような け応がう即,
q 1
同との[戸i
化=r ! l
国への帰震の方向へ,文化協会を指向させたわけではなかった。総 督府による専制が, そのようなことを許容するわ けがなカミったからである。と同時に, 文化協会の よって立つ階級基盤からいっても, 中国革命との
・体化ト二お
ν
、て台湾の全的f
将放を考える思たはな かった。このことは, 文化協会の主体がすでに述 べた上うに, •I :小開明地主を中心とするブルゾョア層とインテリ層(医師・教員・学生〉から成って いたーニとを考えれば, 明らかであろう。文化協会 の指
i
旬以, あくまでも民族自決=台湾自治の立場 であり, そのJ
主体的表現である台湾議会設置請願 運動と、 そのための大衆啓蒙の諸活動から 歩も 出ることができなかった。したがって, 文化協会 における中日苛L命への対応が, 民族自決=f , i
汚自 治の要求を犯さないかぎりでの, 中国革命との接f i J 1 l
であり, l"'Jじ意味での 連帯感 にとどま')た ことは当然であった。事実,林献堂は自らの民族 自決\山気瓶をつぎのよう仁表現していたのであ る。「天は自ら引くる苦を
! V J
く, 証人t土目的貫徹の為 にはノ??をまll何!.rる障Htにも印せず, II#には奴隷と なることも隠忍せねばならぬ・・・ー。現在よりまLい台市『新 LI,、台湾を建設する方 法を講じなければならぬ。それには不撲不胞の努 カが必要であメ〉 σ 依村心を 'i:jl_•{' )IR;'[独歩の裡
i
こ 団結を霊堂固にし,事に当ることを忘れてはならぬJ泣
2 :
(1925年パli 1
台湾人青年の行くべき道j,傍店主筆 者〉。林献盆がこLこでいう「目的
i
が古;汚議会設[母語 商運動のこ土であり,傍点存~分,すなわち「依頼 心を棄てー・ぃ・」以下が, 中国との連磁を否定した 立味でふることは,ν
うまでもない。かれはあく までも民族自決に立った台湾自治・独立論者であ ったのであり, そのかれを首とする文化協会に,47
それが反映しないわけはなかった。林献堂におけ る中国市命
i t ,
そ,it/;のhれ['.j J ' f i
装い影響を受けた 消末保皇派の梁啓絹の漸進的改良主義を出ないも のであ−) に そ の むnJ;で, う立の柔軟性はもっぅ、問時に一定の保守性を文化協会に与えたことは否 定できないのである<tt2:1\文化協会が自らの運動 を政治涯引になる二とをかたくなに拒
f i i L ,
そむ を丈化}謀議運動の枠内に限定したのも,以との(主うな保守十
l
tあっPそこJだが,植民地・従属国におけるいかなる運動も,
吃極的仁は司 それれ政治運動.<:::民的解!}J..運動r、 と転化ト\可必然l'LをもってL、ることは, r
i i
:・同一; から北伐にいたる中間革命の様態に直接的にあら われてU、るffけに、 ひ、とたびtllI g:革命η影響のも と触発された〈光復3への希求が, 広範な台湾人 〆::して, r( :,英運動の},t盤を土化事会の1 ' 1
"内にお L、 てではなく, それを越えたより大衆的基盤におけ る思考へ左発展させたことは、 けだし四戸、であ〉r。こ 1921
i i
十ミ,そ1 1i
、l前かじw m
;買収1ili1持の引|げ\ および採取
K
域の撤廃などの要求をめぐって' N
糖会干I
:とのあいたに争議を起こしていた台湾q ,
部二林の薦作農民が, 「二林熊隣組合」を結成し,
竺れを契機に各地に喚民組合が続出しそてと,ぞ れはやがてけ26年付 IJ,組(I[
i
ゴ万4(1()(山越えら「台湾農民聯合会」の結成へと発展したこと, 主: アニ,各地にふける/卜fl争議の読売が, 19'.::fi年まで に400件を数えたことは, そのことを如実に物語
〉ていよろ 1 汁 2~ )。
いう支で七なく, 当時の台湾にお
ν
てi i
本帝似;主義支配による長大の収奪を受けていたのは,
l
(とくに:I
{1,;農民ごあり,‑ f i 1 / ; C
つ製糖、伝はそのh i
蓮主義的搾取の魚、型的なものであ, ) 1 /こ。 このこと は,矢内J J ; t
i'.,>とくにこの解:y 1
の!'::.めにf
,(湾糖業 帝問主義』の一書を著しているミとで, 自明の理48
であろう。すなわち,製粉会社は小作慣行を無視 して原料採取ぱ域制度を設定し, 一定区域におけ る原料と製造の独占権を得ていたばかりか,一方 的;二JI
ヌ ギ i
価格を決定する権限をもFベーし、たのであ る。このため熊作農民は,耕作資金,肥料代,熊 苗代tr.立の前併合;!J I
]度, 各種の害lJ
明会制度が設け られてし、たとitL、え,i i i H
背奴隷,諒属的小{' t "
人的 地f
ウ.におかれていた。策作農民は,製糖会社によ って生殺?子奪の権を握られーていた2 : : , .
、うべきであ ろう。大衆的基盤における思考が,まず農民運動 lこむいて発展したο
は,i
、ソ・,のような農村iI 二おけ る階級矛盾お上び階級関係μよる。もちろん,大衆的基盤におけるこのような指向 は, Jl!R運動に限ったわけではなLc 1923年から 24年にかけて島内各地で結成を見た各種青年会に よる日憂事件は, 1925,t下二
4
ミのr f r r i
;無産青年会!の指向に端的に現われているように, 日本支配に 対すゐ明確な抗抗を意図した階級的民族運動jの様 相を+したものむあったの二のことは,無産古一年二ち が附習打破大講演会を企聞したのを手はじめに,
1925年4月, f,−;北におし、て最初のメーデー阿倍 を i
l十両したこと(/1'25),さらに,翌26年6月の台湾施 政記号、11には,とれに反対する集会を聞いて, II 本赤
i
11主義支配J、の非難と打倒を叫んだことなど の事態によく現われていよう。ちなみに, この始 政記土ij 反対集会で用意されていた古言書iこは, 民放問題の階級的指向性が明確に看取できるので あるつ, 19 jl:1:紀以来,資本制度は機械発達の結果,小 数の資本家をして一国の経済権を把握せしめ……
而してり;結果if;1 は剰余商品の売J5)1Jの為め,第三 は他所の製造原料の需要を供給すべく, 其の横行 の結果ft今日の台湾に来て見る悲惨を招来せり。
即ち被侵略民族が若し反抗したる時, 軍隊は馬上
より屠殺を開始すべく,五
J t
十(「五・三O
」事件を 指す… 安ず)の惨はこのよき例証を示せりc我等 は既に行1 ' l i l
+義とは艮[Jt,
強盗の先発隊にして,資 本家は即ち潜血を搾取する大強盗の領主なることを知るぺきたり。敵人はすでに定まれり。諸君,
速かに攻訟に着手せよ̲Ij ''126。)
もっとも, 以上のような大衆基盤における階級 運動への指向が, すべて中間革命の鼠接的影響か ら生じたものであったど断定する二とはできな い。それはむしろ, より多く文北協会のj主張運動 によって啓発された台湾人の民族意識の自覚が,
階級的自覚へと連結した結果,結実したものであ ると見るのが正しい。しかし,民族的・階級的自覚 を運動にまで高め,社会的に顕在化させたもの,こ れは,中国革命を民族的・階級運動としてとらえ,
それを古市的に宣揚しよろとした人♂とを
media
としていたとと,これは,疑いのないf
実である。すなわち,農民運動に対する文化協会内部の 社会主舗への指向者である連温卿,王敏川, 察孝 乾, 黄 ~,k~土、「J の積極白イJJttjfiと組織化への努力,お よび無自立平会を中心とする青年運引に対する前 記察孝乾,許乃昌,呉市法,謝廉清,翁沢生, j番 欽信らの指導的影響力の行使と,文化協会創設者 蒋消水ci)禎¥1!G市介入,などがそれであったの しか も, これらのうち連溢卿が山川イズムをポじた社 会民主主義者であり,蒋
i
円水が国民党の信奉者で あったことを除いて, ぅ門学乾以下すべて中間留学 生であi.l,Jjf!Jに留学中,中国共産党,とくに諌独 秀の指導と影響を受けた人物〔注27)であったことを 思えば,かれらの大衆的基盤に立った運動が何 を目途としていたかは, 改めていうまでもなU。、1 9 2 6
年,Z
民組合は,日本の土地政策反対と農民 の解放を基軸とする労働者階級との統一戦線の結 成を, 青年会は,日本帝問主義の打倒と中国革命との連帯を, それぞれのスローガンにしていたの であった。すでに問題は,文化協会の既制の枠内,
したがって林献堂 察培火らの指向する運動規定 ではとらえがたい方向において, その転化が進ん でいたというぺきであろう。前記階級運動への指 向者が, いずれも文化協会の指導者であったこと を考えれば,その
J
惑はいっそう講じえまし、。にもかかわらず,
1 9 2 5
年末まで,運動方向をめ ぐる以上のような傾向性の相違は,文化協会の分 裂宅あるいは内紛の形では表面化しなかった。意見 と行動方式の違いを越えて,保守派(察培火など〉,改革派(連混卿なのいずれも統一戦線への努力を 続けたこと,保守派とはいえ, 首領林献堂の人望
と権威が分裂の危険を抑制してきたからであっ た。
それだけに,文也協会の悲劇は,
1 9 2 6
年にはい って7回目に及んだ台湾議会設恒請願運動が,け っきょく, なんらの効果もあげ得ず,徒労に終わ づたことにある。なぜなら, これをめぐって協会 内部からのそれを含め,従来の「哀頼叩頭j方式 に対する批判が, 広範な愚から続出したからであ づた。方向転換が考えられない以上, 文化協会の 分裂は誰の自にも明らかであった。台湾議会設置請願の継続か, それとも無産階級 による解放か 中国における資本主義の有無の 検討に仮託して, このような問いかけが台湾人に 発せられたのは, 玄さにこのような時点において であった。機関誌『台湾民報』によった上記2派 の代表者による論争,すなわち「中国改造論争」
がそれである。
(注1) 和五1に;t;ける同化合と
, n
かかわり方法:,台 湾内意要性を,r,1話yの接触点としてし、たことにあっf、ことは,中国との分断・隔離を前提とする日本統治方 式と著しく異なる特質であろう。このことは,かれの 講演につねににじみでている。