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「特選留学生」学費補給制度(1924-1940 年)に関する研究
早稲田大学大学院 アジア太平洋研究科 博士課程退学 潘吉玲
要旨
本研究では、「対支文化事業」の一環である「特選留学生」学費補給制度(1924~1940 年)の実態と、「特選留学生」経験者が果たした歴史的な役割について考察する。まず、
アジア歴史資料センターの H 門「東方文化事業」の記録に散在している関係資料を集 め、「特選留学生」(90人)の名簿を作成した。
「特選留学生」学費補給制度の実施状況には日本の国益が優先され、日本の国家政策 の一環としての性格が強く見える。しかし、1945年終戦後、羅宗洛ら、一部の「特選留 学生」経験者は、台北帝国大学接収を行った。羅宗洛は、「学問の世界には国境なし」
という理念に基づき、台湾大学を「世界の大学」として再建するために、多数の日本人 教授の留用を主張した。「特選留学生」学費補給制度には、国益や国家政策の論理では 論じきれない歴史的役割が含まれていた。
キーワード: 「特選留学生」、台北帝国大学接収、羅宗洛
はじめに
清末民国期に数多くの中国人留学生が日本で学んでいるが、高等専門教育を終えた 後に、学術研究に従事した者は極少数である。それが博士号の取得状況からうかがえ る。1923年に中国人が初めて日本の博士学位を取得し、1931年までに20名が取得し た。その内、16名が医学博士である1。1939年までに博士学位を取得したのは100名で あると言われている2。その大半は医学博士であると推測される。
中国人留学生の学術研究をサポートしたのは、主に「特選留学生」学費補給制度で ある。「特選留学生」学費補給制度は、義和団事件賠償金を運営資金とした「対支文 化事業」3の一環として、1924年から始まった。この「特選留学生」学費補給制度は、
1940年まで存続したことが確認できる4。1931年までに博士学位を得た20名の内、11名
が「特選留学生」として学費補給を受けている。
本研究では、「特選留学生」学費補給制度の実態と、「特選留学生」経験者が果た した歴史的な役割、特に台北帝国大学接収について考察する。これらの考察を通じ て、留学史研究は、国益が追求される留学政策の視点と、「越境」する人間の教育と いう視点の双方からなされるべきであるという問題提起をしたい。
主な資料と研究手法については、アジア歴史資料センターのH門「東方文化事業」の 記録に散在した関係資料を集め、「特選留学生」の名簿を作成し、それに基づく分析を 行う。中国語資料については、『羅宗洛校長与台大相関史料集』などを使用する。
「対支文化事業」、またその一環としての留学生教育に関しては、研究が重ねられ てきた5。「特選留学生」学費補給制度に関する研究は、中村みどり「『対支文化事 業』と陶晶孫 : 特選留学生としての軌跡」6を除き、見当たらない。中村の研究は、
タイトルの通り、主に陶晶孫との関連で行われたものであり、「特選留学生」学費補 給制度自体に焦点を当てているわけではない。
本稿は、3章から構成されている。第1章では、「特選留学生」学費補給制度の制定 について、背景、立案とその改正などを考察する。第2章では、「特選留学生」学費補 給制度実施の実態について、「特選留学生」の専攻分野、満洲事変後の選考基準と選定 者の変化などから考察し、それが日本の国家政策の一環としての性格を持っていたこ とを論証する。第3章では、「特選留学生」経験者が果たした歴史的な役割について、
彼らが帰国後に学界で占めた地位、また1945年の終戦後に「特選留学生」の一部が台 北帝国大学接収を行ったことから考察する。
1.「特選留学生」学費補給制度の制定
1924年に「特選留学生」学費補給制度が設けられた背景としては、二つのことが挙げ
られる。一つ目の背景は、中国人留学生が受けた教育レベルの向上である。留学生は清 末期に主に速成・普通教育を受けている。「五校特約」(1908-1922年)7の締結によって、
留学生の専門・高等教育を支える制度が整備された。1915-1929年に、毎年数十名が帝 国大学学士学位を取得している。
二つ目の背景は「対支文化事業」による留学制度の再編である。1922 年に「五校特 約」が満期となった。1923年に「対支文化事業」が始まり、留学生に対する学費補給は その重要な一環であった。大学、大学予科、専門学校の在籍者を対象とするのは「一般 補給留学生制度」と「選抜留学生制度」である。前者の選定と補給は外務省文化事業部 と駐日留学生監督処、日中共同で行われ、後者は日本側のみで行われた8。
学部、専門学校卒業後の研究従事者を対象とするのは「特選留学生制度」である。そ の立案は、日本外務省が中国人留学帰国者の意見を取り入れる形で行われた。一方、中 国政府の教育部や在日本公使館などは無関心であった。その背景の一つとして、当時中 国における教育文化事業は政府ではなく、教育文化界が主導していたことが挙げられる。
1923 年夏に外務省事務官岡部長景が「対支文化事業」に対する意見を聴取するため に、中国視察を行った。北京大学教授陳啓修が次のように意見を述べている。学費補給 の一部は、日本の海外研究員のように、大学卒業後も、学術研究に従事する者を対象と し、再び日本に留学させることに充てるべきである9。陳啓修は1917年に東京帝国大学 を卒業し、当時北京大学政治学科主任であった。1916年在学中、後に日本留学経験者の
「本部」10と呼ばれた中華学芸社を創設し、その初代理事を務めた。陳啓修など中華学 芸社のメンバー達は、「五校特約」に基づいて留学し、帝国大学学士を取得した者が多 い。清末期に日本に留学した者に対して新しい世代となり、米国留学経験者の「ヤング・
チャイナ」と類比され、「新人」と呼ばれていた11。
1924年2月に「対支文化事業」をめぐって、出淵勝次外務省亜細亜局長(対支文化事 務局長)と汪栄宝駐日公使との間で非公式な覚書が交換された、いわゆる「汪-出淵協定」
である。その直後に、外務省文化事業部は「特選留学生」について立案している。1924 年2月29日の案では、その立案理由について、次のように述べられている。
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日本ノ高等専門教育ヲ了ヘ、帰国後、相当年月ヲ閲シタルモノニシテ、
更ニ学術ノ蘊奥ヲ究ハメン為、本邦ニ来遊シ、一、二年ノ間、勉強ヲナ シ度希望ヲ有スルモノナキニアラス。之等ノ中ニハ其ノ在学当時ノ関係 上、ワガ学校関係者ニ於テモ、之カ指導ヲ希望スル向モナキニアラス12。
この案では、「一応支那公使に協議をへ」いう保留条件がつけられた。外務省は 1924年3月10日に公使館に照会した。駐日公使館は2度の催促を受けた後、4月24 日に電話で、教育部から回訓がなかったため、公信では返答できないが、「一般補 給」に影響がなければ、異存がないとの返答をしている13。
4月29日に「特選支那留学生選定及び給与標準」が決定された。「専門教育ヲ修了シ タル優秀ナル支那人ニシテ、更ニ本邦ニ於テ学術ノ攻究ニ従事セムトスル者」を資格対 象者とし、定員は10名であった 14。給費月額は150元以内、別途研究費の支給も可能 であり、補給期間は基本的に2年間であった15。
1926年度に改正が行われ、定員が20名に増やされた。その理由としては各大学に推 薦された候補者が多数あること、制度実施の成績が良好であること、「対支文化事業」
の研究所事業のための中国人研究員養成などが挙げられている16。
1928年度には、「対支文化事業」の上海委員会中国側委員の要求に応じ、「定員外 特選留学生」という枠が設けられている。それは上海自然科学研究所入所内定者を対 象とし、上述した中華学芸社のメンバーが半数を占めた中国側委員も推薦権を持つこ ととなった。「定員外特選留学生」は家族手当をも含めて月225元が支給された。
1927年12月に上海委員会第 2 回総会において、7名が選出されたが、3名が永久延期 または辞退している。それ以降、上海委員会総会は開会されず、「定員外特選留学 生」も1928年度の4名のみに止まった。その1人が、後述する台湾大学初代校長代理 羅宗洛である。羅を「定員外特選留学生」に推薦したのは中華学芸社総幹事鄭貞文で ある17。
「特選留学生」の選定と補給は「定員外特選留学生」を除ければ、日本側の「一方 行為ニ依」るものであり18、駐日学生監督処など中国側は関与していない。応募者は 所属する学校の大学総長或いは学部長等の推薦を得て出願し、外務省文化事業部と文 部省との協議により決定された19。学費は大学総長や学部長等宛に送付し、指導教官 から本人に交付された。1930年代になると、応募者の思想傾向も選考の重要な基準と なり、警視庁なども関係した。
外務省文化事業部は選定基準を中国側に伝えることに消極的であった。1926 年に、
駐日学生監督処は「従来多数ノ支那留学生ヨリ留日学生監督処ニ対シ、特選支那留学生 ノ選定基準ニ関シ、問合セ来ルヲ次テ、同監督処ハ職責上之ヲ知悉シテ居ルノ要アル」
とし、2度問い合わせている20。
2. 「特選留学生」学費補給制度の実施とその性格
前述したように、「特選留学生」の選定は外務省や文部省など、主に日本政府側が行 う。中国の学術研究状況などに対する配慮よりは、日本の国益が優先されている。日本 の国家政策の一環としての性格が強く見える。それは「特選留学生」の専攻分野の不均 衡、また、満洲事変後の選考基準や選定者の変化などに現れている。
(1).「特選留学生」の専攻分野と研究場所
「特選留学生」の選考基準は、専攻分野が最も重要視された。外務省は「研究科目ノ 種別ニ最モ着眼」すべきであるという文部省の意見を取り入れている21。医学分野重視 など、日本の研究情勢が強く反映されている。
1924-40年にかけて90名が選定されたが22、医学分野は48名であり、53%を占めて いる(表1、図1)。医学分野の中でも基礎医学より、臨床医学などが重視される傾向が 見られる。日中戦争中の1938-40年に、6人が選定されたが、全員医学専攻である(図 3)。防疫衛生学、法医学など、戦争と直接に関係する研究分野が重視されている。
法学分野は1924-30年にかけて0であるが、31-37年にかけて9名が選定され、その 内、国際政治を専攻する者が5人であった(表2)。それは、満洲事変後、中国の外交に 対する、日本側の関心が高まったことと関係している。特に日本が国際連盟での対処を 迫られた1933年には、国際政治専攻の2人を含め、法学関係で4人が選定されている。
国際政治専攻の研究テーマに「国民政府ノ外交及外交ノ行政」(1933年度選定)、「最近 中ソ外交史」(1936年度選定)などがある。「国民政府ノ外交及外交ノ行政」は40の在 外公館に参考資料として配布されている23。
研究機関については、各帝国大学と国立千葉医科大学を主としている。90人の内、71 人(78.9%)を占めている。特に東京帝国大学に28人(31.1%)が所属している。ま た、医学の関係で、6人が慶應義塾大学に所属している。早稲田大学に所属した3人は、
法学と工学分野である。(表1)。
一方、「特選留学生」の専攻分野は、当時中国で学術研究が進展しつつある分野と大 きな開きがあった。欧米、日本と比べて、中国の学術研究が遅れていたが、現地の研究 材料を利用できる生物学、地質学において一定の発展を遂げていた24。また、儒学など、
伝統との関係もあり、文科を重視する傾向がある。それらの傾向を示すよい例として、
1948年に行なわれた第1回中央研究院院士(会員)選挙が挙げられる。院士に81名が 選出されている。数理科学、生物科学、人文科学の3組に分けられ、生物科学組には、
動植物学のほかに、医学なども含まれている。医科、工科、農科、理科、法科、文科な どの分け方に従って再分類すれば、図2のとおりである。81名の内、理科、文科、生物 学科などはそれぞれ23、22、16人であり、医学科は7人である。
(2).満洲事変後、選考基準と選定者の変化
満洲事変後、「特選留学生」をめぐって、二つの変化が現れた。一つ目は、思想傾向 が選考の重要な基準となり、選考に警視庁が関係していることである。二つ目は、学生 運動のリーダーなどの経験を持ち、反日運動に影響力を持つと思われる者が複数選定さ れていることである。中には、研究に関心がないことが確認できる者も含まれている。
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つまり、思想傾向の選考は、必ずしも「思想穏健」者のみが選定されることを意味し ているわけではない。むしろ、二つ目の変化のように、一見矛盾したことが起きた。満 洲事変後、選考の手続きはこれまでの書類選考に、外務省文化事業部での面接と警視庁 による選別が加えられている。1936 年度の選考について、外務省文化事業部は次のよ うに論じている。
適当ト認ムル者七名ヲ選抜シ、当省ニ出頭セシメ、林第一課長、宮崎 第二課長、面接シ、各学生ノ人物、健康、研究状態、将来ノ希望等ニ就 キ、口頭試問ヲナシ、其結果適当ト認メタルニ付、更ニ警視庁外事課ノ 意見ヲ徴シタルモ思想傾向等ニモ悪シキコトナラントノ事25。
文化事業部は、「特選留学生」を含む学費補給生の思想傾向に関する全面調査にも乗 り出している。1937年4月に、留学生諸調査事務を担当する小林隆助嘱託が警視庁や 各道府県に調査を依頼し、留学生名簿を送付している。警視庁などは中国人留学生の思 想調査を「国家ノ為」、「此機会ヲ利用シテ留学生在学ノ学校ト連絡ヲ取ル上ニ極メテ好 都合ナリ」とし、依頼に応じている26。
満洲事変後、選定された者は二つのタイプに分けられる。一つは「思想穏健」27、「政 治に興味を持たず」、研究に専念する者である。もう一つのタイプは、学生運動のリー ダーなどの経験を持ち、反日運動に影響力を持つと思われる者である。第二のタイプの 者は満洲事変以降、選定されるようになった法学専攻者に特に多い(表2)。
法学専攻者は9人であり、東京帝国大学の7人と早稲田大学の2人である。9人のう ち、3人が台湾と満洲国出身であるが、彼らは本籍地を中国内地としている。張秀哲な どの例を見ると、外務省は彼らが本籍地について偽っていることを把握しているはずで あるが、特に追及していない。
これら3人の例を個別にみてみよう。台湾人張秀哲は中山大学在学中、台湾革命青年 団を組織し、1927 年に在上海日本領事館に検挙され、台湾高等法院に治安維持法違反 で、懲役2年猶予5年の判決を言い渡された。1929年8月19日に、台湾総督府警務局 長発、外務省アジア局長宛、「台湾人張月澄(張秀哲の本名――引用者)等治安維持法 違反(台湾革命青年会)事件に関する件」が通告された28。張は曁南大学外交領事学専 攻をへて、元拓務大臣永井柳太郎などの紹介で、東京帝国大学大学院に進学し、特選留 学生に選定された29。
吉林省出身、回族の韓桂琴は1926年に共産党に入党し、満洲事変後、北平学生抗日 連合会のリーダーになり、国民党中央党部と外交部で行った学生デモをリードした。
1932年に同じ共産党員の張友漁とともに来日し、翌年に張と結婚している30。張友漁は 日本共産党が出した『産業時報』の資料を利用し、北京の『世界日報』に「東京特約通 信」を書いている。特別高等警察がそれに目を付け、韓と張の家を調査した31。
早稲田大学の朱大璋は満洲事変の際、留学生帰国運動のリーダーであった。その名前 が警視総監から外務省文化事業部に送付された「満洲事変による在留民国人留学生の動 静」の中に出ており、名前の傍らに文化事業部の者によって線が引かれている32。1935
年になると、文部省と特別な関係を持つ者として留学生の間に知られている。1935 年 に、中華留日同学会の組織をめぐって、共産党系の留学生と国民党系の留学生が対立し た。共産党系は文部省など日本側の黙認を取り付けるために、朱大璋を中華留日同学会 の委員にした33。
朱大璋は前述した1937年の留学生思想調査で、警視庁に次のように指摘されている。
留学生ヲ煽動シ、反日運動又ハ留学生監督排斥運動ヲナシタルコトア リ。且ツ某女子留学生ヲ中心ニ日大生葛承徳ト恋ノ葛藤ヲ生シ、一般留 学生ノ指弾ヲ受ケシコトアリ。又専大日語班教師及ヒ日語個人教授ヲ為 シ収入ヲ得居リテ営利的職業留学生トシテ相当非難アリ34。
つまり、朱大璋は、学生運動の経験を持ち、また今日の言葉でいうと、アルバイトを している。しかし、「特選留学生」は研究に専念することが要求されている。それを保 証するために、「特選留学生」が外務省に提出する誓約書の中で、「報酬ヲ得テ他ノ業務 ニ従事セサル」という規定が設けられている。朱はあきらかに誓約に違反している 35。 にもかかわらず、文化事業部は朱に対し一年補給延長を決めている。その延長の理由と して、小林隆助嘱託は次のように書いている。
特選留学生ノ補給期間ハ通常二ヶ年ナルモ、研究中途ニアリテ、熱心 ニ研究スルモノニ対シテハ、更ニ一ヶ年間延期スルコトト致シ居リ。朱 大璋ハ真面目ニ熱心ニ勉強シ居ルヲ以テ今一ヶ年間補給ヲ継続スルコ トト致度36。
前述したように、小林嘱託が警視庁などに留学生の調査を依頼し、朱大璋の情報も把 握しているはずである。朱大璋と文部省や外務省との関係を明白に示す公文書はない。
「特選留学生」であった陶晶孫が「博士の来歴」という小説を書いているが、その一節 がヒントになる。主人公維羞は「特選留学生」の補助を受け、博士になったが、ある日、
大学“学生課”の密策という雑誌記事を目にした。某大学が左翼運動弾圧のため落第生 に毎月学資を補助しスパイとして用いたという内容である。それを読んだ維羞は「対支 文化事業」から学費の補助を受け、「雑誌に書かれていることと同じではないのか」と 自己をスパイに重ねて、帰国した後には、「日本政府の賠償金悪用の内幕」について訴 えようと決意した37。
3.「特選留学生」経験者の歴史的役割
以上考察してきたように、「特選留学生」学費補給制度の実施状況から、日本の国家 政策の一環としての性格が強く見られる。中国側の状況より、日本の国益が優先されて いる。それが原因の一つとなって、帰国後の「特選留学生」が中国の学界で一定の地位 を占めたのは、羅宗洛など、極少数である。一方、羅宗洛ら、一部の「特選留学生」経 験者が1945年終戦時、台北帝国大学接収にあたった。「学問の世界には国境なし」、台 湾大学を「世界の大学」に建設するという理念に基づき、日本人教授の多数留用を主張 した。つまり「特選留学生」学費補給制度には、国益や国家政策の論理では論じきれな
37 い歴史的役割が含まれていた。
(1).「特選留学生」経験者の中国の学界における地位
前述のように、「特選留学生」学費補給制度は、中国の学術研究状況に対応していな い。「特選留学生」経験者が帰国し、トップレベルの研究者となるなど、中国の学界で 一定の地位を占めた者は極少数である。それを示す資料として、1948 年に選出された 第1回国立中央研究院院士(会員)の出身状況が挙げられる。81名の内、日本留学経験 者は5名であり、アメリカ留学経験者の49名に大差をつけられた(表3)。5名の内、
「特選留学生」経験者が2名であり、生物科学組の羅宗洛と、数理科学組の蘇歩青であ る。ほかの3名は郭沫若、楊樹達など人文科学組から選出した者であるが、彼らが日本 で学んだ専門と関係がない38。
「特選留学生」経験者に中国の学界で地位を占めた者が少ない理由は二つ挙げられる。
一つ目の理由は前述した「特選留学生」の専攻分野の不均衡である。医学専攻者、特に 臨床医学を専攻する者が多い。彼らは、医学博士学位を得た後に帰国し、開業医になる ことが多かった 39。二つ目の理由は、「特選留学生」経験者を受け入れる研究施設が少 なかったことである。1934-1935年に外務省文化事業部は留学生の帰国後の状況につい て大規模な調査を行っている。「対支文化事業」の上海自然科学研究所は次のように返 答している。
中央研究院ノ如キハ日本留学生ハ一歩タリトモ踏ミ入ルヲ得ズ、其他 中央工業試験所、清華大学、北京大学、金陵大学、復旦大学、交通大学、
滬江大学、中央大学、浙江大学、協和医学校、浙江之江大学等ノ教育部
(ママ)関係ハスベテ米国留学生ノ勢力範囲ト言ヒ得ベク、又仏国留学 生ハ中法大学ヲ掌握シオル外、教育部関係ニ於テ侮リ難キ勢力ヲ扶植シ オルガ如シ。之ニ反シ日本留学生ハ所謂地盤トモ称スベキモノナク、…
…40。
つまり、アメリカ、フランス留学経験者はミッション・スクールや両国の対中国文化 事業がサポートしている機関を「地盤」としているのに対し、日本留学経験者にはそれ らに相当するものがない。中央研究院は、上海自然科学研究所などの「対支文化事業」
に敵愾心を示し41、日本留学経験者を排斥している。
「特選留学生」経験者の一つの選択は、上海自然科学研究所に入所することである。
しかし、「対支文化事業」は日本外務省が管轄している。「特選留学生」と一部の指導 教官は上海自然科学研究所に対し、よいイメージを持っていなかった。最終的に入所を 選んだ陶晶孫の場合も、彼が小説『博士の来歴』の中で、帰国後の進路について、「日 本人の文化事業の研究所に至っては、彼は絶対に行きたくなかった」と書いたように、
入所に抵抗感を持っていた42。
前述した「定員外特選留学生」は上海自然科学所入所が義務付けられているが、その
一人、北海道帝国大学農学博士羅宗洛は指導教官坂村徹の支持を得、上海自然科学研究 所に入所しなかった。1930年に、羅は帰国し、中山大学に赴任した。1931年に坂村は 欧米出張の帰り道に、羅を香港に呼び出し、東京方面が羅を上海自然科学研究所に入所 させようとする伝聞があったが、応じないようにと、羅宗洛に再三忠告した43。
羅は中山大学、曁南大学、中央大学、浙江大学などを転々した後、1944年に中央研究 院植物研究所所長になった。前述したように、中央研究院院士に選出されるなど、中国 の学界において、地位を占めた極少数の「特選留学生」経験者の一人である。羅が職場 を転々とした主な原因は、中国科学社を拠点とするアメリカ留学経験者が、アメリカの 文化事業のサポードを得て、生物学界に大勢力を築いていたことにあった44。羅は前述 した、中華学芸社の中堅メンバーでもあり、『中華学芸社報』に「社務を振興する管見」
を投稿している。その中で羅は、アメリカやフランス留学組が両国の対中国文化事業な どのサポートを受け、中国全国の研究機関、高等教育機関を受け持つ「学閥」になって いること、それらに比べて、日本留学組が遅れをとっていることを指摘している45。 以上考察してきたように、アメリカ留学経験者などと比べて、「特選留学生」経験者 は、中国の学界において、大きな地位を占めたとは言えない。しかし、羅宗洛を初めと して、「特選留学生」の一部が1945年終戦時、台北帝国大学接収を行い、台湾大学と しての再建に貢献した。
(2).羅宗洛らの台北帝国大学接収
1945 年終戦後、羅宗洛は教育部に働きかけ、台湾区復員補導委員会主任委員に任命
された。10月に台湾に渡り、台北帝国大学接収に当たった。羅は台湾大学初代校長(代 理)であった。羅とともに、台湾区復員補導委員会委員として、接収にあたったのは陳 建功(教務長、東北帝国大学理学博士)、陸志鴻(工学院院長、羅宗洛の後任を受け校 長、東京帝国大学工学士)、蘇歩青(理学院院長、数学系主任、東北帝国大学理学博士)、
馬廷英(地質学系主任、東北帝国大学理学博士)、蔡邦華(農学院院長、鹿児島高等農 業学校卒、ドイツ留学)などである46。
陳建功、蘇歩青、馬廷英も「特選留学生」経験者である。ほかに、「特選留学生」経 験者であり、初期の台湾大学に関係したのは沈璿(蘇歩青の後任を受け、理学院院長)、 叶曙(教務長代理、病理学系主任)、陶晶孫(付属熱帯医学研究所所長)などである47。
羅宗洛らは台湾に到着した後、約3週間にわたって、各教授の訪問、研究室の参観を 行った。台北帝国大学の教授には北海道、東北帝国大学の出身者が多く、羅らと先輩、
後輩関係にあたる。11月15日、台北帝国大学に対する正式的な接収が行われた。医学 関係を除く全大学の接収は、10時から午後3時半まで、5時間半で終わった48。
羅宗洛は1945年11月21日の『台湾新生報』に「国立台北大学49の展望」を寄稿し ている。「学問の世界には国境なし」、台湾大学を「世界の大学」に建設するという理念 を表明している50。
羅は、教育・学問の論理に違反するものとして、台北帝国大学が台湾青年の入学を制 限し、台湾学者を採用しなかったこと、中国国内では国民党が大学をコントロールしよ うとしたこと、その双方を批判している。さらに、羅は台湾大学が台湾省行政長官公署 下では、以上のようなことはもう起こらないと、行政長官公署を牽制しようとした。
羅がこの文章を寄稿した背景には、二つのことがある。一つ目は台湾人の教員及び学
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生が接収の寛大さに不満を募らせていたこと、二つ目は台湾省行政長官公署が台湾大学 に圧力をかけたことである。
台湾人教員は、日本の統治時代に、抑圧されてきた。表4と表5からわかるように、
台北帝国大学の台湾人教授と助教授はそれぞれ1人であり、台湾人学生数に比べても、
比率が低い。羅は11月15日の日記に、接収後に台湾人青年教員が「この大学は一体日 本人を主体とするのか、それとも中国人を主体とするのか、『光復』したのは台湾なの かそれとも日本なのか」と憤激したと記している51。
台湾省行政長官公署は、人事と経費の面で、台湾大学を圧迫し、コントロールしよう とした。これについて、多くの先行研究が行われたため、ここでは、深く踏み込まない こととする52。
羅は「国立台北大学の展望」の中で、大学建設の具体的な問題として、教員、学生及 び設備の3要素を挙げている。教員の選択については、学問と人品を基準とし、国籍な どを問わない。今後は、優秀な台湾人学者の採用に努めること、日本人教授の内、学問 に優れた者を留用することを論じている。表6からわかるように、文政学部を除き、羅 は日本人教授の多数を留用しようとした。
前述したように、台北帝国大学の教授には羅らと先輩、後輩関係にあたる者が多い。
その関係から、羅らは各日本人教員の状況を知り、学問と人柄を基準とし、留用か解職 かを判断している。
理学部については、羅は10月22日の日記に、次のように記している。
今日の午前と午後、早坂一郎教授が2回拙宅を訪れ雑談した。早坂教 授は二高と東北帝大地質学教室出身で、雪峰兄(接収委員馬廷英の字―
―引用者)の先輩にあたる。私にとっては大先輩だ。専攻は古生物学で、
この分野の権威である。人柄は正直で豪快、純粋な学者肌であり、辛辣 な言葉を吐き、権勢を恐れないことから日本軍部に相当嫌われたらし い53。
文政学部については、羅は10月23日の日記に、次のように記している。
筱海(接収委員陸志鴻の字――引用者)、雪峰の両兄が徒歩で大学に 視察に行った。4時に文政学部の台湾人学生が2人来て、日本籍の教授 を留用しないことを希望すると述べた。しかし、筱海、雪峰が戻り言う には、早坂一郎教授の話によれば、文政学部の矢野教授がよい英文学者 である。そうであれば、文政学部の日本籍教授をすべて解職するわけに はいかない54。
工学部では、学部長庄司彦六は羅の二高時代の物理学教授であった55。また、農学部 の教授はほぼ北海道帝国大学出身であり56、北海道時代の羅宗洛と親しく付き合った者 も多かった。羅は10月20日の日記に、次のように記している。
後藤先輩が消息を聞いてやってきた。概ね20年ぶりの再会だ。握手 して抱き合い、あまりの喜びに泣き出した。(中略)わが師が台湾にい らっしゃった時、私のことを度々口にしたと言う。盧溝橋事件の時、
私は確かに南京にいたはずだが、その後にすぐに消息不明となり、安 否が気懸りだと57。
1945年11月24日の日記に、羅は彼のために開かれた北海道帝国大学同窓会につい て記している。前述した羅の「国立台北大学の展望」とも関係している。それによれ ば午後5時、農場で晩餐会が開催された。奥田元農業学部部長が挨拶を行った。主旨 は、台湾大学を国際的な大学に発展させるように、彼らが全力で協力することであ る。それに対し羅は礼を述べた58 。
羅は坂村徹から、「学問の世界には国境なし」という考え方を学んだと回想している。
「特選留学生」時代に、外務省文化事業部が羅の研究費支出が多すぎるとの認識から制 限を要求したのに対し、坂村は電話で「科学の世界には国境がない。羅の研究費を認め ないなら、教授を自らやめる」と怒鳴りつけたと羅は述べている59。
羅宗洛、蘇歩青、蔡邦華などは、台湾省行政長官公署と対立したこともあり、中国 大陸に戻った60。1957年に、羅宗洛は日本植物学会に出席するために来日した。当時 は未だ日中国交が正常化していなかった。羅は「私の多年の念願」として、当時、郷 里広島に住んでいた恩師坂村徹を訪ねることを希望した。学会の特別手配で、羅は夜 行列車で広島に行き、駅で出迎えた坂村とともに、直接広島平和記念公園に向かっ た61。後に羅らは「文化大革命」の中、日本との関係や台北帝国大学接収などで、「審 査」を受けることになる62。
1978年に羅宗洛がなくなった時、日本の研究者は追悼記念文を書いている。「羅先生 は、偉大な科学者であるばかりでなく、信義を重んじる方でもありました。特に台湾大 学校長時代に、日本の研究者達に計り知れない程の深く大きな印象を残しました」63。 また、1981年に、坂村徹夫人は羅宗洛夫人宛の手紙の中で、「羅さんは……台湾で山根、
小田教授等の日本人を懸命に助けました。彼らは日本に戻ってからも羅さんに感謝し、
また喜んでいます」と述べている64。
終わりに
以上考察してきたように、「特選留学生」学費補給制度の制定は、日本外務省が中国 人留学帰国者の意見を取り入れる形で行われた。その実施は外務省や文部省など、主に 日本政府側が行う。中国の学術研究状況などに対する配慮より、日本の国益が優先され ている。日本の国家政策の一環としての性格が強く見える。それは「特選留学生」の専 攻分野の不均衡、また、満洲事変後の選考基準や選定者の変化などに現れている。
「特選留学生」経験者で、帰国後に中国の学界で一定の地位を占めたのは、羅宗洛な ど極少数である。しかし、1945年終戦時、羅宗洛ら、一部の「特選留学生」経験者は、
台北帝国大学接収を行った。羅宗洛は、台湾大学を「世界の大学」に建設し、学問と人 柄に優れた日本人教授の多数留用を主張した。それは、彼が日本留学で学んだ「学問の 世界には国境なし」という理念に基づいたものである。つまり「特選留学生」学費補給 制度には、国益や国家政策の論理では論じきれない歴史的役割が含まれていた。
41 附録 1924-1940年の「特選留学生」名簿
(表の続き)
補給開始年度 名前 専攻 学科 研究機関 出身地(省)
1924 陳方之 医 病理学 東大 浙江
程立 医 婦人科 慶應 浙江
周頌声 医 生理学 京大 山東
沈璿 理 天文学 東大 江蘇
余霖 医 外科 九大 浙江
1925 夏禹鼎 医 薬理学 東大 浙江
楊子韜 医 小児科 九大 広東 陶熾 医 生理学 東北大 江蘇 陳開勳 農 釀造 大蔵省釀 雲南 羅宗洛 農 植物生理 北海道 浙江
石増栄 医 眼科 京大 奉天
1926 陳覚生 農 農業経済 東大 広東
沈敦輝 農 実験遺伝 東大 広東
韓祖望 工 京大 浙江
虞紹唐 工 京大 浙江
張定釗 理 化学 東大 江西
陳建功 理 数学 東北大 浙江 戴夏民 医 皮膚科 九大 浙江
程祥栄 理 化学 京大 浙江
范垂紳 農 細菌学 北海道 奉天 徐誦明 医 病理学 九大 浙江
(表の続き)
補給開始年度 名前 専攻 学科 研究機関 出身地(省)
1927 程衡 文 哲学 東大 直隷
張準 工 建築 東大 奉天
馬堃 工 電機 早稲田
戈紹龍 医 細菌学 九大 江蘇 何卓群 医 内科学 東北大 広東 閻徳潤 医 生理学 東北大 奉天 李祖蔚 医 外科学 千葉医大 福建 李維民 医 内科学 京大
1928 王兆澄 農 東大 安徽
陶慰孫 理 京大 江蘇
陳子霖 理 京大 浙江
陳世燦 農 農芸化学 九大 河南 劉先登 医 内科学 九大 湖北
定員外 曾広方 医 薬学 東大 広東
楊自汧 医 細菌学 東大伝染 湖北
1929 楊永年 医 細菌学 慶應
楊述祖 医 寄生虫 東大伝染 陜西 蘇歩青 理 幾何 東北大 浙江 朱鳳美 農 植物病理 東大 江蘇
1930 袁淑範 医 薬学 東大 奉天
李鼎勛 医学 内科 東大 湖南
劉祖霞 医 内科 九大 江蘇
賀維彦 医 生理学 慶應 河北 蘇記之 医学 皮膚科 九大 上海
1931 陳振純 法 経済 早稲田 福建
張鎔 医 産婦科 千葉医大 浙江
陳錫鑫 農 京大 江西
羅雄才 理 化学 理化学研
1932 黄丙丁 医 皮膚科黴 東北大 福建
馬廷英 理 地質 東北大 遼寧 劉伯文 農 農芸化学 北海道 湖北 林炳東 美術 西洋画 本郷洋画 福建
1933 呉墩礼 法 国際政治 東大 福建(実は台湾)
張秀哲 法 国際政治 東大 福建(実は台湾)
李岐山 理 地質学 東大 河北
何作霖 法 法学 東大 広東
金国珍 法 政治学 東大 湖北
戴尚文 医 薬物学 慶應 福建(原籍安徽)
張惺庵 医 皮膚科 慶應 山東 楊志雄 医 内科 東北大 雲南 孟憲盡 医 整形外科 九大 山東 張定釗(前出)
羅宗洛(前出)
43
(名簿 出所)
補給開始年度 名前 専攻 学科 研究機関 出身地(省)
1934 呉士綬 医 外科 東大 浙江
李鴻祺 工 建築 東京工業 奉天 魏怡春 医 内科 長崎医大 福建
1935 楊鴻烈 文 東洋史 東大 雲南
余錫蝦 文 哲学 東大 四川
朱大璋 法 民法 早稲田 江蘇 陳錫元 医 外科 東京慈恵 広東
余蔚英 農 東京農業 広東
銭稲孫 文 東洋文庫 浙江
1936 康選宜 法 国際政治 東大 四川
邱致中 文 社会学 東大 四川 鐘季襄 医 解剖学 岡山医大 江西 徐政聞 医 小児科、 東大 山東
韓桂琴 法 国際政治 東大 河北(実は吉林)
郭文宗 医 衛生学 京大 旅順 李茂之 医 生理学 東北大 河北
林登発 医 内科 九大 福建
葉曙 医 病理学 千葉医大 湖北
景凌灞 医 外科 慶應 河北
1937 蒋天勲 法 国際政治 東大 江蘇
馬希融 理 東北大 雲南
桂毓泰 医 外科学 京大 陜西
1938 張天曦 医 内科 九州 湖北
1939 林伯輝 医 内科 九州 福建
孔禄卿 医 法医 千葉 浙江
陳志藻 医 医化学 東北 山東 侯扶桑 医 衛生学 国立公共衛江蘇
1940 蒋本沂 医 衛生学 京都 江蘇
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015412400、「2.参考」在本邦留学生補給実施 関係雑件/送金関係 第一巻(H-5-0-0-3_1_001)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015411700、「分割2」 在本邦留学生補給実施 関係雑件(H-5-0-0-3)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015001100、「 1.文化事業部関係 自大正十二 年 至昭和四年 (8)対支文化事業ノ概要 昭和二年十二月」 東方文化事業関係雑件 第 一巻(H-0-0-0-1_001)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015516400、「2.昭和四年」在本邦特選留学生 補給実施関係雑件/資格取消関係(H-5-3-0-1_4)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05016150500、「2.最近ニ於ケル文化事業ノ概要 昭和三年十月」 参考資料関係雑件 第一巻(H-7-2-0-4_001)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015428800、「4.十一月」 在本邦一般留学生 補給実施関係雑件/送金関係 第四巻(H-5-1-0-1_3_004)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015428100、「7.七月 」 在本邦一般留学生補 給実施関係雑件/送金関係 第三巻(H-5-1-0-1_3_003)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015429500、「4.四月」 在本邦一般留学生補 給実施関係雑件/送金関係 第五巻(H-5-1-0-1_3_005)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015430100、「1.昭和六年度中華留学生学資送 金 一 月 」 在 本 邦 一 般 留 学 生 補 給 実 施 関 係 雑 件 / 送 金 関 係 第 六 巻(H-5-1-0- 1_3_006)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015412800、「2.昭和五年八月分」 在本邦留 学生補給実施関係雑件/送金関係 第二巻(H-5-0-0-3_1_002)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015413200、「5.昭和五年十一月分」 在本邦 留学生補給実施関係雑件/送金関係 第二巻(H-5-0-0-3_1_002)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015430600、「1.昭和六年度中華留学生学資送 金 六月」在本邦一般留学生補給実施関係雑件/送金関係 第六巻(H-5-1-0-1_3_006)(外 務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015434900、「 2.八月(昭和六年)」 在本邦 一般留学生補給実施関係雑件/帝国大学関係 第五巻(H-5-1-0-1_4_005)(外務省外交史 料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015061500、「4.第十一回調査会 昭和八年十 一月二十九日 分割1 」東方文化事業調査委員会関係雑件 第三巻(H-1-4-0-2_003)(外 務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015515200、「 1.昭和七年度選定」 在本邦特 選留学生補給実施関係雑件/選定関係(H-5-3-0-1_3)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015061500、「4.第十一回調査会 昭和八年十 一月二十九日 分割1 」東方文化事業調査委員会関係雑件 第三巻(H-1-4-0-2_003)(外 務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015413700、「分割3」 在本邦留学生補給実施 関係雑件/送金関係 第三巻(H-5-0-0-3_1_003)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015515300、「 2.昭和八年度選定」 在本邦特 選留学生補給実施関係雑件/選定関係(H-5-3-0-1_3)(外務省外交史料館)。
45
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015515400、「 3.昭和九年度選定」 在本邦特 選留学生補給実施関係雑件/選定関係(H-5-3-0-1_3)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015062000、「1.第十二回調査会 昭和十一年 四月十六日 分割2 」 東方文化事業調査委員会関係雑件 第四巻(H-1-4-0-2_004)(外務 省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015515600、「5.昭和十一年度選定」在本邦特 選留学生補給実施関係雑件/選定関係(H-5-3-0-1_3)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015515700、「6.昭和十二年度選定 」在本邦 特選留学生補給実施関係雑件/選定関係(H-5-3-0-1_3)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015515800、「7.昭和十三年度選定」 在本邦 特選留学生補給実施関係雑件/選定関係(H-5-3-0-1_3)(外務省外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05016143400、「 3.学校補給中華民国留学生名 簿 昭和十四年十二月」 在本邦留学生調査関係雑件 第十三巻(H-7-1-0-12_013)(外務省 外交史料館)。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015511200、「 8.蒋本沂 京都帝国大学」 在 本邦特選留学生補給実施関係雑件 第二巻(H-5-3-0-1_002)(外務省外交史料館)。
理12.22%
文5.56%
医 53.33%
法 10.00%
工 5.56%
農 12.22%
美術1.11%
図1 「特選留学生」の専攻学科
理28.40%
文27.16%
医8.64%
法7.41%
工6.17%
農3.70%
生物、人類、心理18.52%
図2 中央研究院院士の専攻学科
(出所:筆者作成の1924-1940年「特選 留学生」名簿に基づき、作成)
(出所作成:「院士名録」、国立中央研究院編『国 立中央研究院院士録 第一輯』、1948年に基づき、
筆者作成)
(出所:筆者作成の1924-1940年「特選留学生」名簿に基づき、作成)
医100.00%
理10.26%
文10.26%
医43.59%
法23.08%
工2.56%
農7.69%
美術2.56%
理15.56%
文2.22%
医55.56%
工8.89%
農17.78%
図3 1924-1930、1931-1937、1938-1940年
「特選留学生」専攻の変化
1924-1930 1931-1937 1938-1940
47
東京帝国大学 京都帝国大学 東北帝国大学 九州帝国大学 北海道帝国大 慶應義塾大学 早稲田大学 千葉医科大学 慈恵会医科大 長崎医科大学 岡山医科大学 国立公共衛生 東京工業大学 東京農業大学 理化学研究所 釀造試験所 東洋文庫 本郷洋画研究 計比率(%)
医科96712060411110000004853.30%理科3340000000000010001112.20%
農科4101300000000101001112.20%
法科700000200000000000910.00%
文科40000000000000001055.60%
工科12000010000010000055.60%
美術00000000000000000111.10%総計281211133634111111111190100.00%
比率(%)31.113.312.214.43.36.73.34.41.11.11.11.11.11.11.11.11.11.1100 表1「特選留学生」の専攻、研究機関の統計
(出所:筆者作成の1924-1940年「特選留学生」名簿に基づき、作成) (出所:筆者作成の1924-1940年「特選留学生」名簿などに基づき、作成
研究場所名前学科指導教官本籍地略歴
1931早大陳振純経済塩沢昌貞福建1928年国民革命軍総司令部交通局秘書官。
1933東大張秀哲国際政治神川彦松 福建(実
は台湾) 台湾革命青年団メンバーとして検挙され、懲役2年猶予5年の判決。1930-32年に曁南大学外交領事学専攻。1933年、元拓務大臣永井柳太郎などの紹介で、東京帝大大学
院に入学。
東大呉墩礼国際政治神川彦松 福建(実は台湾) 台湾富商の子。北京大学予科を経て、1930年に北平大学政治学科を卒業。同年、東京帝大に入学。
東大何作霖憲法美濃部達吉広東 1924年に北京大学卒。1928年に国民革命軍第五軍司令部秘書長。1929年に蒋介石と李済深との争いで、日本に避難。早稲田大に入学。1931年東京帝大に入学。
東大金国珍政治蝋山政道湖北1925年に北京大学卒。北京大学上海同学会の中心人物。
1935早大朱大璋民法遊佐慶夫江蘇 満洲事変を受け、留学生帰国運動のリーダー。1933年に早稲田大学法学部卒、同大学院入学。1938年に帰国、維新政府に参加、後に汪兆銘政府立法院委員。
1936東大韓桂琴国際政治神川彦松 河北(実は吉林) 北平学生抗日連合会のリーダー。満洲事変に抗議し、国民党中央党部と外交部で行った学生デモをリードした。1932年に北平大学卒。1933年に早稲田大、1934年に東京帝大に入学。共産党員。
東大康選宜国際政治横田喜三郎四川 1927年北京大学卒。曁南大学教授。上海各大学教職員連合会常務委員。1936年に視察の名目で来日、東京帝大に入学。 表2 法学専攻者リスト
(出所:筆者作成の1924-1940年「特選留学生」名簿などに基づき、作成)
49 表3 1948年第1回中央研究院院士の出身状況65
(出所 羅豊「夏鼐与中央研究院第一届院士選挙」『考古与文物』、2004年4号に基づ き、筆者再作成)
表4 台北帝国大学接収時の教授と助教授数
(出所 羅宗洛「接収台北帝国大学報告書」、李東華など編集校正『羅宗洛校長与台大 相関史料集』、国立台湾大学出版中心、2007年、154、175頁に基づき、筆者作成)
表5 台北帝国大学接収時の学生数66 文
政 理 工 農 医 合 計 中国人 12 6 11 0 136 165 日本人 206 50 168 140 132 696 朝鮮人 0 1 0 1 0 2 合計 218 57 179 141 268 863
(出所 羅宗洛「接収台北帝国大学報告書」、李東華など 編集校正『羅宗洛校長与台大相関史料集』、国立台湾大学 出版中心、2007年、156頁
日本 米 英 独 仏 白 瑞西 合計
人数(人) 5 49 9 6 5 2 1 6 83 比率(%) 6.00% 59.00% 10.80% 7.20% 6.00% 2.40% 1.20% 7.20% 100.00%
留学経験有り 留 学 経 験無し
文政 理 工 農 医 合計
台湾人 0 0 0 0 1 1
日本人 23兼任1 11 16兼任1 18兼任1 18兼任1 86兼任4
台湾人 0 0 0 0 1 1
日本人 9 11兼任1 9 13兼任2 21兼任1 63兼任4 教授
助教授
表6 台北帝国大学接収後の日本人教授留用、解職数67
(出所 何卓恩「台湾大学接収が改造中的“国界”与
“省界”―基于『羅宗洛日記』(1945-1946)的観察」、
『中山大学学報』、2016年4号、 97頁から引用)
1957年、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)の前で、羅宗洛(左)と坂村徹68 文政 理 工 農 医 合計
留用 4 10 14 17 14 59 解職 19 1 3 2 4 29
51
1 松本亀次郎「附中華留学生教育小史」、『中華五十日遊記』、東亜書房、1931年、92-93頁。劉 真編集『留学教育:中国留学教育史料(第3册)』、国立編訳館、1980年、1317-1318頁。その 内、柯劭忞、伍連徳等は、「対支文化事業」の関係者であるが、日本に留学していない。
2 Joyce K. Kallgren; Denis Fred Simon, Educational Exchanges: Essays on the Sino- American Experience, Pacific Affairs,1989, p. 30.中華文化通志編集委員会編集『中華文化 通志98 第十典中外文化交流 中国与北米文化交流志』、上海人民出版社、2010年、114頁か ら再引用。
3 「対支文化事業」の主な事業内容は、北京人文科学研究所及び上海自然科学研究所の設立・運
営、東方文化学院東京及び京都両研究所の設立・運営、中国人留学生の教育などである。阿部 洋『「対支文化事業」の研究 - 戦前期日中教育文化交流の展開と挫折』、汲古書院、2004 年、
緒言を参照。
4 1940年に「対支文化事業」が興亜院に移管されるが、その後の「特選留学生」関係公文書は発
見されていない。
5 代表的な研究として、阿部洋『「対支文化事業」の研究 - 戦前期日中教育文化交流の展開と挫 折』、汲古書院、2004 年が挙げられる。
6 中村みどり「「対支文化事業」と陶晶孫 : 特選留学生としての軌跡」、『中国研究月報』
67(5)、2013年5月、14-31頁。
7 「五校特約」の主な内容は、1908年より15年間にわたり、第一高等学校特設予科で65名、東
京高等工業学校で40名、東京高等師範学校で25名、千葉医学専門学校で10名、山口高等商業 学校で25名、合計165名の官費留学生を受け入れることである。経費は中国各省の負担となっ ている。舒新城編集『近代中国留学史』上海文化出版社、1989年、65-66頁を参照。
8 外務省文化事業部「対支文化事業の概要」、『日華学報』第3号、1928年2月、70-72頁。前掲、
中村みどり「「対支文化事業」と陶晶孫 : 特選留学生としての軌跡」、15頁を参照。
9 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B05015000600、(第17画像目)「1.文化事業部関係 自 大正十二年 至昭和四年 (3)岡部事務官支那出張文化事業意見 大正十二年」東方文化事業関 係雑件 第一巻(H-0-0-0-1_001)(外務省外交史料館)。
10 上野太忠「指導力の移動(下)」、『朝日新聞』(東京)(1940年12月13日)。
11 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015123300、(第89画像目)「分割1」各国ノ団匪賠 償金処分関係雑件/支那ノ態度 第一巻(H-2-2-0-2_1_001)(外務省外交史料館)。
12 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015512700、(第2画像目)「1.特選留学生 大正十 三年二月」在本邦特選留学生補給実施関係雑件/方針関係 第一巻(H-5-3-0-1_1_001)(外務省外 交史料館)」。句読点は筆者による。旧漢字を新漢字に変換した。以下同。
13 同上、(第9画像目)。
14 同上、(第6-7画像目)。
15 同上。
16 同上、(第23画像目)。
17 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015153500、(第93-107画像目)「1.第二回総会 昭 和二年十一月」上海委員会関係雑件/総会関係(H-3-2-0-1_1)(外務省外交史料館)。
18 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B05015475200、(第2画像目)「10.選抜曹(ママ)
学生ノ定員増加ニ関スル件 昭和六年八月」(第2画像目)在本邦選抜留学生補給実施関係雑件
/方針関係 第一巻(H-5-2-0-1_1_001)(外務省外交史料館)。
19 前掲、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015512700、(第7画像目)「1.特選留学生
大正十三年二月」。
20 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B05015474300、(第8画像目)「1.選抜及特選支那留 学生選定標準及手続ニ関スル件 昭和二年二月」在本邦選抜留学生補給実施関係雑件/方針関係 第一巻(H-5-2-0-1_1_001)(外務省外交史料館)。
21 前掲、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015512700、(第14画像目)「1.特選留学生 大正十三年二月」
22 短期留学であった東方考古学会の庄尚厳、前東陸大学校長唐継堯の妹婿董澤の2名を除い
た。
23 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05016040600、「14.張秀哲著「国民政府ノ外交及外交 ノ行政」保管転換ニ関スル件 昭和十年九月」寄贈品関係雑件 第十四巻(H-6-2-0-26_014)(外 務省外交史料館)。
24 竺可楨「日本気象学発達之概況」、『科学』、1927年12巻4号。
25 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015515600、(第5画像目)「昭和十一年度選定」在本 邦特選留学生補給実施関係雑件/選定関係(H-5-3-0-1_3)(外務省外交史料館)。
26 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B05016141600、(第2画像目)「支那留学生思想調査 昭 和十二年四月」在本邦留学生調査関係雑件 第十一巻(H-7-1-0-12_011)(外務省外交史料館)。
27 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B05015509600、(第2画像目)「7.戴尚文 慶応大学」
在本邦特選留学生補給実施関係雑件 第一巻(H-5-3-0-1_001)(外務省外交史料館)。
28 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02031443000、「3 昭和4年8月21日から昭和4年8 月29日」(第1-19画像目)台湾人関係雑件(A-5-3-0-3)(外務省外交史料館)。
29 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015516600、「4.昭和十年」在本邦特選留学生補給 実施関係雑件/資格取消関係(H-5-3-0-1_4)(外務省外交史料館)。
30 韓桂琴の別名は韓幽桐。「韓幽桐」、中国中共党史人物研究会編『中共党史少数民族人物伝』
第3巻、民族出版社、2012年。
31 張友漁「一九三〇年代の留学生活」、人民中国雑誌社編『わが青春の日本 : 中国知識人の日 本回想』、東方書店、1982年、102-103頁。
32 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B05016144300、(第2、5画像目)「1.留日学生ノ動 静ニ対シ地方長官ヨリ報告 昭和六年九月中」満洲事変ニヨル留日中華民国学生ノ動静関係雑件 第一巻(H-7-1-0-13_001)(外務省外交史料館)。
33 楊凡「与郭沫若在日本的交往」、中国人民政治協商会議全国委員会文史資料委員会編集『革命史 資料20』、1991年、127-128頁。
34 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B05016141600、(第18画像目)「2.支那留学生思想調 査 昭和十二年四月」在本邦留学生調査関係雑件 第十一巻(H-7-1-0-12_011)(外務省外交史料 館)。
35 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B05015511500、(第3画像目)「1.朱大璋 早稲田大 学」在本邦特選留学生補給実施関係雑件 第三巻(H-5-3-0-1_003)(外務省外交史料館)。
36 同上、(第15画像目)。
37 陶晶孫「博士的来歴」、『大衆文芸』2巻2期(1929年12月)、215頁。前掲、中村みどり
「『対支文化事業』と陶晶孫」、24頁を参照。
38 「院士名録」、国立中央研究院編『国立中央研究院院士録 第一輯』、1948年。
39 「南京市開業医師一覧表」、南京市政府秘書処編『新南京』、1933年、11-16頁など。医学専 攻者の一部は南満医科大学、北平大学医学部、中山大学医学部などに勤務した。
40 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B05016132800、(第11-13画像目)「分割4」在本邦留 学生調査関係雑件 第四巻(H-7-1-0-12_004)(外務省外交史料館)。
41 1929年3月の国民党第三次全国代表大会で行った中央研究院報告の中で、上海自然科学研究所
との競争が中央研究院発展の原動力の一つであると明言されている。「国立中央研究院向国民党 第三次全国代表大会工作報告稿」中国第二歴史档案館『中華民国史档案資料滙編第5輯第1編教