真
言密教 求道者
の
「
一生
の
心
一」
:
「
本
不 生
」
私 解
森
口
光
俊
[1
] は じめ に弘
法 大 師著 「秘蔵宝
鑰」 は 、真 言密教
の求道
心の深
まり
を十階梯
に配 して 思想史
的、実
践 的に考
究され てい る。真
言密教
の枢 要
は吾
人に 「秘 密の 蔵」 を開 く鑰 が与
えられてお り 「如 実に 自心を知る」 こ と 、 『開 けよ、 宝は こ れ で ある。 「大
日如来
の自内
証智
」、 そ こに如
来の マ ン ダラ世 界が無
限の光輝
を放
っ て い る。 こ れ は秘密
荘厳
心 = 自性 清 浄心 = 浄菩提 心 = 汝の 心その もの で ある 』 という
こ とにある。こ こ にい
う大
日如
来の 「自内 証 智」 の 「自内 証」(自ら が 自らに証 ら か に し た)こそ が 「本
不生」(絶対 否定の覚智)で あ り、真
言密教
の教
主大
日如来
は 「本 不生」 を覚智 し、覚者
と して大
慈 悲の姿
を示 現 され てい る当体
である。如 来の
覚
智さ れ た 「本
不 生」 の 要語は簡 略 する とこ ろ、「
本不
生」=縁
起二無 自性
(無我)=空 、 =不生 不 滅(八不) = 戯 論 寂 滅(絶対 無 分 別)、 = 自性
(無 自性で ある本性)清浄
、 二 諸法
の実
相、 = 一切 如 来、 = 法 身大
日如来
の自内証
の境
= 一切智
智 (一切智を有する者の智 慧) 、 = 不二 、 ;自性
清 浄心 (浄菩提 心)= 秘密荘厳
心一衆
生(吾人 ・自己 )の自
心 品等
を指示
する 。そ れ ぞ れの 要 語はその位 相 を異にする思想 的背 景に基づ く原 理 的
意味
を有
して い る。 説 明の 言い 換え言葉の中で な か な か捉 えがた い 。 真 言密
教の求道
者
にあ っ て は 「本 不 生」 が分 らない という
こ とは、 その 道の すべ て が分 ら な い 信仰
の根源
で あ り、 自己の 完 成(成悉 地):瑜 伽 ・観
法 (如来 との合 一 )、 蘇 息安
穏(い わ ゆる安 心)、覚 り
の 智慧の完 成の核
心で あ る。「本不 生」 の 示 す とこ ろ の
何
が、 ま た具
体 的に はい か なるこ と と して理解
さ れ るべ きであろう
か。 以下は 「求道真言密教
」 の 基 本 的 な考
えと して 「本
智山学報第五 十 八輯 不生」 の
究極
は 「一生 の心一」 である こ とを、 主 として大師
の 教 学 的論考
以 外の 吾 人に親 しい資料
に よっ て考察す
る 。 [II
] 本不 生、 直観 的イ メー ジII
−1
.本
不 生 :「生 ・滅 不 可得」不生一不 滅(八 不)の こと は 「不生」 の 一
語
で解
る とい わ れ る 。 この こ とを真
言密 教で は 「本不
生」 の 一語
で示
し た。 「本
」 は本初
:無
際 限 ・真
実 際の意
であ
る。 「縁起
」(相互依存同時生起)する生 ・滅 ・変化
の万象
は、 生 じた という
ことはない か ら、 滅した という
こ と も ない 、 万 象に始 まりの 始 ま りも、終 わ りの 終わ り も ない こ とを言 う。因 ・縁 ・生起を形 成 する種々 の 個 は 「無 自性」(無 実体)一 「空」 で あ り 、 こ れ らにその 「第一原 因」 を無 限に遡求 して も 、 その
第
一 原 因は 「不可得」 で ある。 万象
の 生起という視点
か ら して第
一原 因は得 ら れなとい うこ とは 、 無 限遡求
の無始
に おい て生起
を言う
こ と はで きない か らこれ を 「不 生」 という
。万
象
の 変化
に み る消滅という
視 点か ら して も、 既に万象
は無
限遡求
の 「不 生」 と して、 生 起 してあるの で は ない か らその消 滅 とい うことはあ りえない 、 「不 滅」 で ある (本 来 法 然。 法 爾 法 然)。 こ の万 象、 愛 別 離 苦 等 の 観 念、 生 ・ 滅 ・変 化 「不 可得
」 の根源
的あ り方
を指
して 「本 不生」 という
。この 縁 起 世
界
の真
実 際 :「本
不 生」 を覚智
さ れ た当体が 「真 言 教 主法 身大
日如 来
」 で ある。当体
である と は、 「本不 生」 の 森 羅 万象
、 無自性
と して生 成変化
きわ ま りの無
い宇宙
・世 界、 その不 生 一不 滅の 生 成変化
その もの であ
るこ と、法 身大
日如 来の 働 き(現成活 動)その もの である こ とである。 「自 内 証」 と はこの 当体、自
らを 自らが証 ら かに した と言う
こ とである (cf.那須1))。如 来の
大
慈 悲 (覚智におのずか ら伴 う)は人 間の 歴 史 と時代 を超 えた常恒
の い の ち、 人の喜
び と悲 しみ の境 を超え た大い なる心の平安
と して、吾
人に常恒
に作動
しつ つ 、 遍在
し、 顕 現 して い る。 悲 しい か な、哀
れ な る か な、真
実の もだ自
己に 目覚
め よ と。 大 師は 「大覚の慈父これを観て何ぞ黙 した まわ ん」(宝鑰 )と確 言 される。 (18
)真言密教 求 道者の 「一生の心一」
「本不生」私解 (森口)
II
−2
.求
道者
に とっ て 、「本 不生」 は人 間の 人 間 的現実
、現
実 的世 界全体 の解体
と再搆築
を意 思 する実践 的思 想、 世 界観
である。 こ の実践
的思 想は吾 人 の 現 実の 「絶対 否定」 を さ らに透脱 して 聖 なる 「六大
縁起
」 の宇宙
、 世界観
と して完 結 する。「秘
蔵
宝 鑰」 に 「三論 宗」(八宗の 祖 、龍樹の 思 想 ・三論を信 奉 する)を、 「覚心 不生心
」 と して第
七住
心[’A
コに配し、 「八不 に戯を絶ち 、 一念に空 を観 ずれ ば、 心 原 空寂
に して、 無 相 安 楽な り」、 八不正観
(空性 無得) = 戯 論 寂 滅(絶対 無分 別)で ある と教 判
さ れ る。 ま た文殊菩
薩の 教え
「絶乗
」嘩 厳の 「建乗」 に 対する)に配 され 「独空畢 竟の理、義用最 も幽真な り」(般 若心経秘鍵)と説
か れ る。求
道者に あ っ て は 「義 用 最 も幽真」 で ある こ の境位
を明 晰に体 感、 理 解 する こ と、戯論寂滅
を透脱
しない 限 り、究極の第 十住 心 :真言密
教の 世界 「秘密
荘厳
心」匚A
コは得られ ない 。[‘
A
]→ [A
]の 階梯
はは るかに は る か で ある 。 こ こ に、 絶 対 否 定か ら聖化 さ れた 「絶 対肯定
」 の如来
秘密
世界
(自 内 証 )の顕 現 と遍在
が提示 さ れる。 以 下 はその直
観 的 イメー ジで ある。第
七住
心、 「不生不 滅」 戯 論 寂 滅 :経験以前
の世界
の直
Ut
[ ‘A
]。 こんとん『その昔 、 ま だ 現象世界が存 在 し てい な かっ た太古の時代に、 「渾 沌」 の神が居た 。 この神は 目も鼻 も口 も耳 も ない 全 くの ノ ッ ペ ラボウ であっ た、同情 した友 人の 神々 は あな 「人には皆七つ の竅あ りて以っ て視聴 食息す。 此 れ独 り有る こ と なし」 と、 苦心 して うカt あ な うカt その顔の表面に 「穴」 を穿っ てや っ た。 「日に 一つ の 竅を 鑿 ち、七 日に して 渾沌死 す」 。 「穴」 が全部穿 りあが っ て、 目と鼻と口 と耳が 開い た とた ん、「渾沌」 の神は 死 んで し まっ た 』。 (井筒 2) 、 所 収文によ る。 cf.「荘 子」福永 解 3))
井筒
氏は 「渾 沌」 は ま だ一物
も存在
して い ない 非 現象、未
現象
の 無 物空
間 を意味
する という
。 これ によ れ ば吾人 は 「経験 以 前の 世界」、 絶対無分 別 ・ こ ん と ん 戯 論 寂 滅か ら乖離
した 「渾
沌」 の死 後の世界 、 人知の分 別 妄想 世 界、 主 ・客、 生 ・ 死 、苦
・楽
、愛
・憎 、 好 ・悪 などの現実
を生 きてい る の である。 分別妄 想(戯論)の うちに自
らを晦
まして 熾 烈な現実
に 目覚
め る こ と は ない 。 縁起 し智 山学報 第五十八輯 てある万
象
世界
は 「不
生一不滅
不苦
一不楽
一」 で ある 。 しる し第十住
心、如来
の顕在
:自
性 清 浄の宇宙 ・世界
の 「徴
」 の直観
[A
]。真 言 求 道者に は万 象 世界の 真 実 とその 心は顕な もの と して
始
に提 示 さ れて い る。 「本 不生」 を覚 智さ れた法身大
日如 来
と、 その心で ある諸仏 如 来の マ ン ダラ、宇宙
・世界
であ
る 。世
界
は 「六大
」 と言 う究極
の徴
(体性 ・本体):地 ・水 ・火 ・風 ・空 ・識
に よっ て 「六大
縁起
」 して顕在
する。 相互依存
同時
生起の 「六大」 の響 きあ う あらわ無
尽蔵
の森
羅万 象 と して 遍 在 する (即 身成仏 義)。 こ れ は覚
者の境 地に顕で あ る 「秘密の 宇宙 ・世 界」 である 。 見 える者に見 え 、聞こ え ない 者に は聞こえ ない 。 真 言 密教の 「密教」 た る所 以で ある。この 秘 密の鍵が 「実の
如
くに自
心 を知る こ と 」 ;『大
日如 来
と吾
人は本来同
一 :「平等
」 である』(「平等」 と は仏 教用語 )という
こ とで ある。 そ こ に、吾
人 が 「本
不生」:大
日如
来の覚
智 を感得 す
るための 、 さま ざま
な行
・学
:修行
の形 が提示 さ れ る。吾 人は
真
言密 教の事
・教
(行 法と 理論)二相に よっ て、 全 人格 的 如 来の象
徴 的に表 現 され る清 浄三 密(身体 的活動 、真 実の言 葉 、慈悲の心 )と求 道 者 吾 人の 三密 (身口意三業 :行 為)の平等
を瑜伽感得
しなけれ.ばな らない 。如来
を感受
し 得るか、得
ない かは吾
人の 問題で あ り、 「信得
及」(顕得成仏)の如何
にあ
る。 しる し次
の a,は こ の 「本
不生」 で ある大
日如来
の遍満
と顕
現の徴
:見え
る者 に見
え、聞
こえ
る者 に聞こ える、 秘密
の真実世界
を 理解
するため の 一つ の 通 路 で ある。 我々 は如 来の前 に、如
来と 「平等」 の存 在である。 如 来 と平等の心 が 「自
然」 と人 「人 ・間」 の 現実
のあ り方の真 実、「平 等」 を求め続 けてい るの である。b
.は [ ‘A
]の寓
話の解、 あら ゆる束縛か らの徹底
的 開放
で ある。(a) 如 来 と その遍満 する世 界の徴(体性 ・本体)と しての 五
大
とその 心の 真実
の イメー ジ。/湿っ た暖かい土 、 それは最上の もの であり不 可欠の もの である。 / 清 らか な冷た (20)
真言密 教求 道者の 「一生の心一」 「本不生」私解 (森口) い水 、そ れは最上の もので あ り不 可欠の ものである。/ 森 を渡っ て くる豊か な風 、そ れ は 最 上の もの であ り不 可 欠の もの であ る。 /深い 森、 広葉樹も針 葉樹も 入 り混 じっ た 原生の匂い のする静寂 、そ れは最 上の もの で あ り、不 可欠の もの で ある。 /黄 金色 の宮である火 、その源を太 陽に もち光と熱を与 えて くれ る もの である火 、それ は最上 の もの で あ り不 可欠の もの である。 /そ し て この意識、 僕とい う存在を産み出 し僕と い う存在がや がて そこ に帰っ て ゆ く永遠に不 滅である もの 、 そ れ は最上の もの であり 不可欠の もの である。 / (山尾4)cf.大日経住心 品。 岩 本5)) (
b
) 「本 不生」 と して遍 満 する秘 密の 無尽 蔵 、 調 和 世 界の イ メ ー ジ。 山も緑、 水 も緑、 緑 一色の夏の天 地で あ る 。 その 緑には無限の 変化が あ る。 その無 限の変化を その ま まに孕んで緑 は 天 地 を 染 め 出 してい る。 そこで は、 どの草 木も我 こ そ は本 当の緑だ と 主張 して他の緑を排 斥 する ようなこ とは しない 。 各 自が 自己の緑を 持ち な が ら他の緑 と一つ に なっ て 、 夏の 山 野 を 限 りな く充 実さ せて い る。 (福 永6)・ 「雪竇詩」解)[
III
]「本不生」 か ら観る 日本人の 伝
統
の 中の 死生観III
−L
「本
不生」解
の 諸相(a) 小
泉
八雲7>「露
の 一滴
」 に見
る 日本
人の 生。 仏教で は露の 玉 を魂とい う小宇宙と考えてい る。 人間と は眼に見えない 究極の 単 子が仮に集 まっ て 姿を現した露の玉の ようなもの であ りそれ以上の もの で はない 。 露 が消えうせ るの と 人 が消 え去るの との違い は無い 。露の一滴一滴は、私 達の太 陽 が燃え始め る よ りも何 兆もの時代を遡っ た昔か ら、 また、 この 私達の 宇宙が い つ か大 空間 か ら姿を消し た後も、 恐 ら くこれ らの 分 子 は彼 ら を造っ た 不思議な力にうな が さ れて、一 その と き出現 するはずの世界にあっ て誰と も知らぬ人々の 「心」 の結成に 必 ずや ま た加わる で あろ う。時代
に おける 日本
人の 心、 人 間 ・儚い 露の 玉 ・ 「そ れ以上の もの ではない 」 という
八雲の理解で ある。 日本 的無 常 感 と部分 的華 厳の思 想に よるか。 如 来 の 大宇 宙、 吾 人 も 一 個の宇
宙である。 相互依存
同時
生起の 「六大
」 の響
きあ う森羅 万 象 とし て の一個で ある。 露の玉 が そ うであ る よう
に縁 起の全 個 を写 して全 個 とし て ある、 その全個の 「不生」 で ある。 誰 とも知 らぬ人々 の 心の結
成に必ず
や また加わる で あろう
と は願 望であ る。真
言 教徒
は自心 を如 実に智 山学報 第五十八 輯
知
るこ とに よっ て 、真
理 と して平等
の存在者
であ り、 「本
不生」 で ある こ と に解放
され た 「秘密荘厳
世界」 の無
尽蔵
を生 きる者
であ
る。 死 んで姿を消すこ と で凡て が無 くなる とい うとい う考 え方は妄 想 も甚だしい 。 一 私たちの個 性 、 私 達の特 異性は どうな るのか ?私た ちの観念や情緒や 記 憶力は ど うなるの か?私たちの 個々別々 の希 望や心 配は、愛情や憎 しみ は どうな る か ?一 私 たちの特異性は永 遠の大 きい 秩序の 中で は、 一滴の震える露の玉の分子の個々 の特異 なうご きと 同 じ程 度の 意味し か持た ない 。万象世界の
真実 際
は 「本
不 生」 である。 そ もそ も絶 対不 変の 「自我」 など は ない 。好
悪、愛
憎、 生滅 ・断常は自
我の妄 想である。戯論寂
滅 :人は こ こ 立 っ て、聖 化さ れた万象
「不生」 の 自己の 自性清 浄、 真 実の意 味をこ そ見つ めるべ きで ある。 ある もの は た だ無窮の生命だけで 、 存在する ように見える もの はそ れの震 える影 あ ま た に過 ぎない 。 一 数多の 影が来て は過 ぎ去る。 影の造 り主の みが永遠の営み をつ づ け る。 不思議な力、 永遠の大きい秩 序、 無窮の 生命、 〔影の 造 り主]。こ こ に 「大日如 来」 が提示 さ れてい るわけでは ない 。 言わ れ る よ
う
に如来
は無 窮の 生命
: 「本 不生」、 始め も ない 終わ りも無い お おい なるい の ちである。 しか し 「造 り
主」(
始
にあ りき)、 その影
と しての 吾 人で はない 。 「不生」その もの として の森羅
万象
、 自性 清 浄の宇宙
世界
その ものである。 また、 八 雲 が こ こ に捉
えてい ない の は、如 来覚者
の満
つ れば あふ れ る必然
の 「大
慈 悲」: 「平等
不思議な力の働 き」 で ある。 そ して 、 人の今
の真実
の活
発で あ る。 「露 の 一滴」 儚い とい う情 緒、受
動 的 あ きらめでは な く、新
涼の 一 滴が一瞬の う ちに全 個 を映 し、 その全個の それぞれ が直 ちに全個 を映 す宝蔵である ご とく、 自性 清 浄の 主体 とし て全個の 一個が 自己で あ り、 一 個の自
己が全個である輝 きの尊厳
をこそ知るべ きである。 (b
)日
本
人の伝統
の 中の死生観
(加藤8) 、 他) (日本人の)死の哲学 的 イメージ は 「宇宙」 の中へ 入っ て行 き 、 そこ に しばら くと どまり、次 第に融け な が ら消 えて い くこ と である。 宇宙の中で は個入差が排除さ れ る。 (22 )真言 密 教求道者の 「一生の心一」:「本不生」私解 (森口) 宇宙の中へ 「入る 」 ま た そこへ 「帰る 」 感情は 、 多 くの 日本 人に共 通だろ うと想像さ れ る。 「無常」 は 「常」、「常住」 の否 定の 思想で あるが一般に は 「宇宙」 は 「無常」 そ の もの と して の 「宇宙」 の 「常」 と考え られ てい る。 無常の持 続 、宇宙のその 中で の 全て の もの の変化 (とい う 理解であ る。)
感情 的に は 「宇宙の 秩序」 の 、知的には 「自然の秩序」 を 「あきら め」 をもっ て 受 け入 れ、 「あき らめ 」 が 自己制御を可 能にする。 「自然」 、 「自然の秩 序」、日本人の 「自然」 は究極 的に は人 間が そこ か ら生れ、 死ん でそこ に帰っ て ゆくとこ ろ と考え られて い る。 現 代日本人は意識 する とこ ろ で はない が、加 藤の 指摘 する とこ ろ、八 雲の 「露の 一
滴
」= 日本
人の伝統
の中
の 生 死 には 、共
通 する世 界観
、考
え方
、感
情
がある。感情的
には 「宇宙
の秩序
」 の、知
的に は 「自
然の 秩 序」 を 「あ き らめ」 をもっ て受
け入れ、 「あ きらめ 」 が 自己 制御 を可能にす る もの と して 、 一般
お お む ねに解 さ れ て きた とい う 。 これ は 日本 人の 伝 統の 中の 「自然 的 あ きらめ」 と仏 教 的 「無 常 感」 に よ っ て形 成さ れた心情で ある。 日本 人の 漠 然 とした心情 として正 しい 。 宇 宙の 中 へ 「入 る 」 また そ こへ 「帰
る」感情
であ る 。「
無常
」・「無我
」・「寂
静」 は諦観
「あ きら か に した」 で ある。 わ が古
典 的情緒
に共 通 する感情
は、 あ きらめの漠然
と した情念
に した が っ て諸行無常
の 響 きあ り と し、 生 死 流 転の この 世 を、 仮の 世 (宿 世、 宿 業)と してあ きらめ、 逃避 と遁世の 傍 観 者に、 地獄の 怖 畏、 嘆 きや哀感な ど と して しまっ た。 さら に は被 虐の 自己 と し、「あ る が ま ま」現実の 受 動 的全 肯 定、公理 を蹂 躙 して 即物
的な功
利の徒
、無
仏 (神 )論者
と な る。 不生の 「あ る が ま ま」 の諦観
と、 あるが ま まの恣意 的在 り方、 あ きらめの心 情 とは似て非なる もの である。我々 は、人 間に無 関心な大 自然の 営みに
直
入 する詩 的直
観 力 を有 して い る。 しか しそこ にある 「仏教
」 の心は 日本
的心情 と して の 自然 崇拝、 畏敬の 対 象、 祭る現 人神
、祭
祀祈
禧等
に溶解
して日本
的 無常
哀 感の 情 緒に変容されて きた。 歴 史の 中で真 言 密 教の信 仰 と実践は習俗 的混合
の加持祈
疇(い わ ゆ る雑 密)、智 山学報第五十八輯 シ ャーマ ニ ズ ム 、 霊 能な どの うち に非 知識 と して 自ら貶め て きて もい る。
日本 仏 教
史
の基幹
:仏 教思想史
の 総合
的体系化
で あ る真
言 密教は、人 間科 学(自己実験の体 系)と して の信 仰の理論
と実
践(事 ・教の 分裂 、事相の野 沢分裂 : 貴種の参画、 そ れ故の両者の複雑さと混 乱、 貴種化と呪術 化はおい て)、 その 心その 生 を提示
してい る。真
言密
教は 日本
人の伝統
の中の 死 生観
、、
に
言
わ れ る感 情 的に 「宇 宙の 秩 序」、 知 的に 「自
然の秩 序」 を 「あ きらめ」受
け入れ恣意 的
ある が ま まの 生死観
を助 長 して きた だけで あっ たの か。真
言教徒
はユ ガ合
一体験
の結
果の 心をこそ、 不 生で 「ある が まま」の真実
の 意 味、 その活
発の 生 の真実
をこ そ、 秘密 という
呪術に 閉 じ込め る こ と な く、抽象
的有情
、衆
生 として放 置す
る こ とな く、 個の 主体(無 自性である 自性清浄 の 自己)を生 きる宗
教 として明晰に示 し語る伝 統 を形成 すべ きであっ た。現 代の真 言 求
道
者にあっ て、如来
、大師
の教 えは神
(々)や カ ミ に あるの で は ない 。 殊に情緒 につ きる もの こ とで は ない 。 情 緒では 一 神 教徒の カ ミ に対す
る神
、 そ こに発 す
る根本
的に狂気
の 、信仰
の 暴力
を前に寛容
(西欧の悲惨な 宗教 対立 と自己主 張に起 因する言葉)も対話
も批判
も成
り立た ない 。現
代
に至る世界の悲惨
は、自
ら を偶像
とする自我
の陥穽
に気
づ くこともな い カ ミ の正義
と、他者
の信仰
の表
現を偶像
と してその存在
を拒絶
する理性
や信仰
にある。 そ して、 問題はこ の世界
に我
々 が、 既に ま きこ まれて し まっ て 存る こ とにある。III
−2
.武田泰淳
「史記
」 の体
験「
非持続
の 絶対持続
で あ る全体
世界
」 の諦観
と悲
しみ。 お よ そ個人 に して も、 血 族に して も、 集団に して も持続が本能であ る。 本能で は あるが持続は困難である。 こ の持 続の困難なこ と は、 史記で は、 栄枯盛衰 、生者必 滅的な意味、 時間的な変化の 意味で問題にさ れて い るの で は ない 。 持続が、 転換を ふ くむ持 続であ り、 持 続 を書 くことは非持 続 を書 くこ と に な る とは言 え、そ れ は時の 流 れに詠嘆する風に考
察さ れてい る の では ない 。 持続 すべ き ものが持 続し ない の を、 (24
)真 言密教求 道者の 「一生の 心一」 「本不生」 私解 (森口) た だ悲し むべ き現 象と見 送るの で はない 。 史記 的世界で は、持 続と(転換 )は空間的 に、全体的に考え ら れてい る。 あらゆる もの を包含 して、持 続 してい る。 個 別的 非 持続 、 自壊作 用 、相互中断作用は む しろ全体的持続を支えて い る。 全て は史記 的世界 全体の 絶対持 続を支え満たす もの、空 間 的なの で ある。 (pl41−2.本 (記)と世
i
家の 並 列 p105 .持 続と転換pl33 ,) 「表」 に よっ て も、諸 国興亡の個別的持続を現 象風に 見送る気は起こ らず、全体の 絶対持続 を把 握する諦観が うまれ るの で ある。 (武田9))武田
泰淳
は 「司 馬遷」 の始に 、 『司馬 遷 は生 き恥 を さ ら した お とこ で ある き わ(
腐刑
、宮
刑 )口惜 しい 、
残
念 至極
、 な さけなや、進
退谷
まっ た と知 り な が ら、 お めおめ と生 きてい た。そ して
執念深
く 「史
記」 を書い て い た』 という
。 そ して最後
に、 「忍び得ぬ 悲 しみ を以っ て 司馬遷 は、匈奴
問題を見守
っ てい た。彼
が悲
しみ を以っ て見守っ て いたの は、 こ の 問題ば か りで は な い 世界全体である。」 と結ぶ。悲 しみ とは、 作 者司 馬遷 自
身
の偲び得
ない 悲 しみ。 そして司馬 遷が見た 、 書い た 「史記の世 界全体」 へ の諦観
と悲しみであ り 、 ま たそれ は中国の 、 泰淳
が 「司 馬遷」 を書い た時点の 日本
と中
国、 そ して西 洋を含む世界に対 する泰
淳の 諦観
と、 悲 しみで もあっ た。 ほ ん ぎ せい か司 馬遷 「史 記」 は項 羽本 記、高 祖 本 記 、
晋
世家
、酷使列伝
、刺客
列伝
な ど、 人 間と人 間、国と国、世界
の 中心 と なる権
力 者、皇
帝、 王属(族)諸 侯、官僚
、 それ らの 興亡 、抗 争の 歴 史で あ る。 そ れ ら は興 り、 滅びる。 持 続 し、断た れ る。 並列
、拮抗
し、突
出す
る。 人 間の極
限 的世界の 「史記」で ある。この 人 間の
事実
を泰淳
は、 「史記
では栄枯盛衰
、 生者
必 滅 的 な意 味、 時 間 的な変化
の意味
で問 題に されて い るの で は ない 」 と解
し、史記
世界
全体
の 「非持続
の絶対的持続
を把握す
る諦観
と悲しみ」 と して捉
える 。 (cf,川西10))泰 淳い う 「諦
観
」、 「悲」 とは、 生者
必 滅、 栄枯盛衰の 絶対 条 件 :「無 常」 の もと、 自壊作
用、 相互 中断作 用 とし て、個 別 的非持
続で あるその個
々 が全体
的持続
を支
えて、 その全て で ある全体の 絶対 持 続を支 え満
たす
もの 、 空 間 的(俵 」 に一目さ れ うる)とい う、 史 記 世 界の 人 間と その 営みへ の 「諦観
」 で ある。 絶 対 条件 を生 きる人 間が 、懊 悩 と悲痛 と快楽
の 営み として絶対持続
し智山学報第五十八輯 てい る こ との 全体へ の 「
悲
しみ」 が 、 そこに おのず
か ら発す
る とい うの で あ る。泰淳
が こ の作
品に仏 教 的世 界観
を主張
しよう
としてい るわけで は ない 。 しか し浄土宗
の 出家 者であ りのちに作家
と なっ た仏教者
と して、 「人 ・ 間 」 : 人の 世 の 逃れ得
ない あ りように対 する深い ま な ざ し 「諦観」 が あ り 、 「悲
し み」 がある。私 は
泰淳
の史記全体 世界
の 「非持続
の絶対持続
の諦観
と悲 しみ」、 これ を次
の如 く考
える。 絶対 条件
を 生 きる人 間、個
の非持続
が人類の本 能、 煩悩 と して絶対持続
する 歴史、 その全
歴史
の 同時的
、空間的
全体
として の諦観
。 そ れ をその よう
に生 きざるを得
ない 人 間へ の 深い悲
しみ である。真 言求道者
は 「世 間三個の住心」(宝鑰)の 現 代の 具体 と して 確 認すべ きで ある。 泰 淳の ま な ざしは、 阿弥 陀如来
の絶対
的救
済にむけられ てい る であろ う。 (発 表時に 「非 持 続の絶対持 続の諦 観と悲しみ」 を 「本不生」 に同定 し た が、 その 意 味を異に する こ と上記の 如 くである の で こ こで は、 泰淳の 意に限定 した。)III
−3
. 「本 不生」 不生不 滅の体験
(a)
テ イ ク ・ナ ッ ト ・ハ ンの
体験
「十月の満 月の夜 、私は母 とい っ しょ にい ま し た。 一 道 すが ら、母 はずっ と私に つ い て き たの です。一 。 ある晩 母が夢に現れ てか ら とい うもの、 私は 母の死 を喪失 と は感じ な く なりました。 一 め ざめ た とき私の心は平和で 、 母の生 も死 もすべ て観 念であっ て真 実で は ない 、 と悟っ たの です。 母の実在は生 も死 も超 えた もの、 生まれ た から存在したもの で もな く、 死ん だ か ら存在する こ と を や め たの で も ない 。 存在と 非存在は 別々 の わ か れ たもので ない と、 わ かっ たの です。 存在は非存 在との関係 において のみ存在し、何 もの も存在す るこ とをやめ る こ とは で きない 。 無か ら有を 生みだすこ と はで き ない 。 これ は哲学的 な 思 惟で は あ り ませ ん。 こ の身に起 きた事 実で した。 一 悲 しみがすっ か り消 えてい ま した。 母を失っ た とい う想い が単なる観念にす ぎない こ と を 理解 したの です。
。 柔ら か な月光あふ れる 庭に出て、その光を母の存在の ように体験し ま し た。 単なる想念で はない の です、 私 は本当に、 い つ で もどこ でで も母のすがた を見る ことが で きる の です」。 (テイク ・ナ ッ ト。ハ ンu))
ハ ン の
体験
は祖 先崇
拝の感情
ではない 。 不 生 不滅
を体得
した禅徒
の見性
で (26
)真言密 教求 道者の 「一生の心一」 「本不 生」私解 (森口) ある。
真
言密
教で は瑜伽 観 法に よ る 「入我 我入」成 就の 心の 一具体 として の在
りよう
である。(
b
)那
須
政隆師
:「本
不 生」解
。こ こ では僧、 一 般を対
象
とされ た 「法 話」 を取
り上 げる 。 現生の永
遠 的意義
の 諦観 :「如 実 知 自心」〈そ こに永
遠 に変
わらない私
の 生命
の真姿
があるの だ〉、 〈現在 活 きて い る私の 生命は、字宙 根 本の大 生 命が私 とい う個 体の上 に 顕 現 した もの で ある〉と確 認さ れ てい る。 境 地にい た る体 験 的修 行の 説 は こ こに略 した。 「私 とい う存 在が法爾 法然の 宇 宙界の 中の一存在で あ り、私の如 実の相は本不 生の よつ 境 地に観る如 く、本 来空寂であ る。 空寂は即ち 死であ る。 仍て私の真の相 は、 死の姿 で あっ て、現在 見る所の す が たは因 縁 によっ て生 じた暫有的存在で し か ない の で あ る (*)。 現在 活きて い る私の生命は、宇 宙根本の大生命が私 とい う個 体の上に顕現し た もの で あっ て 、その本質は宇宙の大 生命である。 か く して私は こ の 自己 なる生命を乗 り越えて、 宇宙 大生命におい て活 きる ことに なる。 それ が即 ち真 言道の如実知 自心な ので あ る」。「人 生 五十 年は仮の もの、む しろ永遠の死 の状 態が 私の本 当の姿であ る。 そこ に永 遠に変わ ら ない 私の生命の真姿が あるの だ」。 (那須12)) 「空 寂は即 ち死である」 、 本 不生 一 空 寂一 死一 如 実知 自心 とい われ る 。 *お そ らく我執の人生 を軽 く見て開放 すべ しの意であろう
。 私に、 空 寂は死で は な く戯論 寂 滅(絶対 無分 別 )= 自性 (無 自性で あ る本性)清 浄で あるか ら、直
にそ れ を透脱
して い の ちの満
ち盗
れ る聖化
され た世界
とな ると考
える。 (c) 道 元禅 師の 「不生不 滅」:“生死” 解 生 よ り死に うつ る とこ こ ろ うるは、こ れ あや まりなり。 生 は ひ と と き ( 一時)の く ら ゐ (位)にて 、 すで に さき(先)あ りのち (後)あ り、 かるが ゆゑに仏法の なか に は、生す なは ち不 生 といふ 。 滅 もひ と とき ( 一時)の くらゐ (位 )にて 、 また さき(先 )あ りの ち (後)あ り、こ れ に よ りてす な は ち 不滅 といふ 。 生といふ ときに は、生 よ りほ か に もの なく、滅 とい ふ と き は、 滅のほ かに もの な し。 (道元禅 師13)) 道 元の哲学
「不 生」 の 断 定。 始 もない終
わ りも無
い という
こ と、 只管
打智 山学報 第五十八輯 坐 ・
無所得
空に 「生 を明 らめ、 死 を明 らめ 」 た、 日常
心の明解
でもあ
る。 「この 生死は、 すな は ち佛
の御
い の ちな り」 という
。 以下は 、 『如来
の御
い の ち一生 の心一 を生 きる』核
心であ る。 [IV
] 本不生 : 「一生の心一」 の体 験 工V
−1
.東 寺の 長 者 孝 源の 信得 及 :「不一生 ノ心一地」(
a) 徳
川期
の 運敞僧
正の時代
につ い て 、 「真言宗は教相と事相と が恰も相対 す る が如 く で、事 相の 方面で修法祈 禧の如 きは依 然と して勢 力 を有 し仁和 寺、 大 覚 寺、 三寶院、 勸 修寺の 門 跡寺院 が本山で、 東寺が之を統べ る」 と言 う(宇井 14)) 。 運敞 僧 正 (1614 −1693 ・寛 文 元 年 1661 、智 積 院第七 代 となる)につ い て私は先 に、 こ の 時代
に同時代 的に展 開する、運敞 と黄檗
隠元 その弟
子た ち との交
流、 盤 珪 一孝
源
、 運敞
一孝源
、孝源
一浄厳
との関係
。 運敞
一 浄厳
の教学論
争 。 盤珪、 浄厳 の対社 会的活動等 時代
の様相
を概観
した。 盤 珪 一孝源
の関係
、 当考
の 主題で ある孝 源
の 「信 得
及」 の内容
につ い て は触
れ る とこ ろ で はなか っ た。 (森 口 15))こ こ で は当
主 題 につ い て 述べ 、 関係
の 問題と考
える とこ ろ を指摘
する に留めた い 。孝源
は貴種
の 出 自、幼
少よ り出家 して 御 室 真乗 院の 僧、 事 相の 指 導者、 大僧
正 であ り、貞享
元年
(1684
年)、事
・教
二相
を統括す
る東寺
の長者
に なっ た 人物
であ
る。 「我
が宗
阿字諸法本不
生の義
、今
まで は解了
の分際
にて 」 と 言 う。 さ らに求め る とこ ろあ り、 禅師盤珪
に法
を問い悟達
され たこ とに敬 意
を表
し たい 。 盤 珪、孝 源両 師の 応 接 に盤珪 の 曰 く、 厂此 心 、 本 来 不生、 纔に心 を擬 すれ ば即生死。 元と よ り圓 明。 知覚
すれ ば即 隔礙 を なす」 と。孝
源、 禮謝
の賦 に言 う
(盤珪 法語 ・鈴木16)) 。龍光
一接
して妄
迷 を散
ず /従
来曾っ て錯る魂
精 を弄 ずる こ とを不一生ノ心一地
能所 を絶 す/
直
に鏡 中に入 りて明 を識 らず
壬 申卯花念四 日。 西 山蒭孝源 合 掌。 (28
)真言密教求道者の 「一生の心一」 「本 不生」 私解 (森口) 盤 珪 : 不生不 滅の本地 ・不生の佛心
↓
不 生丁
本地 孝源 : 「不一生ノ心一地」 能所を絶 すll
『本 ・「不一生ノ心」 一地』 『本 地 法身大 日如 来』 = 『本一生ノ心一地』↓↓
「一生ノ心一」孝源
は 「不一生 ノ心
一地」能
所 を絶 す と して、 如 来一所 求 ・能 求一我れ 、 を絶 して透 脱、信 得 及した。句
に記さ れ るハ イフン に は意味 深い ものが あ る。 これ を私 に 「本 ・不一生」「
本
・地」 :法身大
日如来
『本
「不一 生ノ心一」 地』、「本一 生 ノ心 一地」 即ち如 来 との合一 (「入我 我入」)、 信得
及 し得
た 自ら の 「 生 ノ心
一」 の表
明であると解 する。 ゆ が 彼 こ そ こ の 近 世 に あっ て 真 言 求 道 者の 枢 要、 如 来との 瑜 伽 (y。ga)の 境 地 「一生ノ心
一」 を言い 得た 一人である 。本 不 生の 一生の 心一 で ある 「生」 、 不生の 一生の 心
は不 滅で あ る 。 こ れ は また、 不 可
得
の 「一 生の 心一」 は 秘密荘厳蔵
(無尽蔵)、如 来
の 心 に透 脱 し た自性清浄
の主体
と して のい の ち満 ち盗れる聖化
され た世 界をい きる 「一 生 の心一」 で ある と考
える。 「不生」 な れ ばこ の 生死 すな わち 「如
来の御い の ち を生 くる な り」で ある。(
b
)事
教二相の そ れ ぞ れの 問 題孝
源は真 言密
教 の行 法
:事相
の伝授
、指 導者
で あ っ た。求
道の 成 就、 「信
得 及」 はあ くまで 「可 能 性」 で ある 。 「従 来 曾つ て錯る 魂 精 を弄 ずる こ と」 とい う。 魂 精を弄 ずる とは魂 精を もてあそぶ こ とで あ り、 こ の 語は禅家 に古 く
より提説
されてい る言葉
「弄
精魂」 で ある 。 無 限定に して全 一である本来
の 「主 人公」 を求
めて依然
と してマ トはず
れのそ れに堕して しま う言い で ある (小 川隆17)) 。智 山学報第五 十 八輯
こ こ に
孝
源は全一者如来
との 「入我
我入」、 「顕得
成仏」 を果た し得たの で あるが、事
・教二 相の 最も肝 心な こ と は 、 機 根 に即 した (歴史 的には師資は 選 ば れてい た。 口伝と言う秘密の 世界に)「纔
に心を擬 すれば即 生死」、 「毫 釐の 差 あれ ば天 地懸
隔す
」 の 間髪の 間の苦 闘とその解 決で あ り、 「信得 及」 の如
何 にあっ た はず
であ
る。孝
源は 「我
が宗
阿字諸法本
不 生の義
、今
まで は解了
の分 際
に て 」 とい い 、行法
事
相
の伝
授 者、指
導
者であっ た。 い っ たい 教相学解
、行法事相
の伝授
と はい か な るこ とで あっ たの か。残
念な が ら真言
教徒
の この 間髪
の 間の 苦 闘と その解 決の具体は寡 聞に して詳
らかでは ない 。運
敞
と黄檗
隠元 その 弟子 た ち との 交流 、盤 珪一孝源の 交流があっ た。 この時代
、 盤 珪 をは じめ真 言
、 禅徒
の 対 社 会へ の 新 しい 動 向が あっ た。 盤珪は 「不 生」 の証拠
が無
い とい い 、時代
の人
々 に 「不
生の仏
心」 を説
き、岡山藩
に儒者
達の 廃仏の動
きに応接
した。真言律 師浄厳
は文献学的究明
と共
に、光
明真
言の 観 ・誦、 結縁潅 頂等
、 一般者
との 通路
を開い た 。お よ そ一世
紀
遅 れて豊:山の法住
、律 師
慈 雲 一天廬懐 圓な どの 、 開明 的 町人 居士 「勝 慧」者
へ の い わ ゆ る安
心論
、観法
(長谷 18))、戒 定の 教 相 学へ の 現状 批 判 (栂尾ユ9>)はあっ た が 、 一部の努
力に もか か わ らず 基本
的に真
言師
達は 「劣 慧」 の 「衆
生」 とい う言葉
と、 「事相
の方
面で修法祈禧
云 々」 を大事
と し て、 験者効験
の習俗 的
呪術
の中に大衆
を放
置し個
の 「 一生の心
一 」 の開 明化
を期 する に はい た らなか っ た (cL 森口20))。 真 言 密 教 の 日本の神 (々)か らの営
々 た る呪縛
、 「仏神
習合」 の 時代の 終 り、 その廃 仏 毀 釈の無 残。 こ れ ら を我々 は克服 で きてい るの であろ うか。 律 師慈 雲 一釈 雲照 、禅 師河 口慧海等
の実
践も雲散霧消
し た。日本 人は少な くと も知っ てい た。
自
我の妄執
か ら解放 しえ た とこ ろ に心 身 の静ま り、 心の 平安
がある こ と、 その 厂心」 を知っ てい た。 それ が時代の 中 で村 社 会の 、 体 制 維持の 基底にあっ て 、 もの 言わぬ民衆の あ り方の 一つ の 装置
と して作 用 した もの であっ た として も。私は
孝
源の 「一生 ノ心一」 の実
際を時代の資料
に求
め得
て い ない 。 「現 代 (30
)真言密教求道者の 「一生の心一」
「本不生」 私解 (森口) 社 会」の 一人、我々 の あ りよ うの 具体と して の 「一生の心一」 は、 聖
化
さ れ た永 遠の い の ちの今を生 きる 、主 体 的に考 える力 ある者 とし て、 「慈 悲の器」 に ふ さ わ しい か否かで ある。 そこ に立 っ て 「自分と自分 を と り ま く社 会状 況の あ りの ま まの姿に対する はっ き りした洞 察を持 ち、精神 的強 靭さ を そ な えて人々 と 共 に生きる」(ナッ ト・ハ ン2ユ))こ とであろう
。仏 教 徒 (真 言求 道者 )の
自
己実
現の 道につ い て 「自己の 究 明は当然
の こ と、 仏 教、 空の 思想は人類 全 体、集団的実践 につ い て は、 こ れ まで の歴史
におい て具 体 的、総括
的な理論
の構 築
をして こな か っ た。 こ れ こそが今後
の課題で ある と思わ れる 」(立川22))という
。個
々 人の今
、 世 間にあっ て 自性 清 浄の主体
と して自
らを貶
め ることな く、悪 趣の 闇に堕
すこ と な く、怯
むこと な く、真実
へ の苦悩
を覚悟
しな け れば な らない とい うこ とで る。生活 する
真
言求
道者
の 責任は 、 個が全個を映してい るその自
己 と して、 全 個である他個 と と もに 「不生」 な れ ばこの 生死すなわ ち 「如来
の御
い の ち を 生 くるな り」 に 目覚め るた めの 働 き、 そ こか ら考
え発 信 する 「自性 清 浄」 の 主体
と して の個
を形
成す
る こ と を肝 要 とする。孝源師
の 「信得
及」 の表 明
に、 私は真
言 密教の事
・教二相
の 「近 世の夜 明 け」 を想う
が、夜
は未
だ明
けて はい ない と感
じて い る。彼
の 求 道は事
・教二 相 を掲 げる現代の 真 言密
教 にも大
きな問題 をなげか けて い る と考える。 (cf. 森口23))IV
−2
.真
言求 道 者の 「一生の心一」 体験 がちりん か ん ぽう(a)
月
輪観法
に よる、我
々 の 日常
の 心とし て の 「 一生の 心一 」 の確
立。「秘 宝の 蔵」の 鍵 は我々 に与 えられて い る。 この 道は
如
来の慈 悲の加 護の 働 きで ある と同時
に自
己の働
きと して の道
である。求道者
は、 人格
的如
来の 清 浄の三密 と求 道 者 吾人の 三密 との 本 来平 等(「平等」 と は仏 教用 語)で ある自 己を顕にする瑜伽観法
を修行す
る。 修 行にあっ て、大
日如
来 を祈
る こ とは自
己が 自己を祈る こ と、真実
の 自己 :「自性 清 浄」 の自
己を確
認 する こ と、 そ の 「一生の 心一」 を生 き る という
こと に帰 結 する。智山学報第五十入輯
真言密教
一般
の求道者
に あっ て も自
己実
現、 祈 りとその形 :行 を 自 ら実践 し ない か ぎ り、 蘇息
安 穏は得 られない 。 ましてや仏 教徒 ・仏 法者と名乗る確
信 も持 ち得ない 。 大 慈 悲を感受す
る ことも不可能
であ
る。これは世
間
の僧
:吾
人自
ら と、檀信徒
と称
する求道
者の 個の 宗 教確
立の 問 がち りんかん 題で もある。 そのた めの行
:観法
に は 「月輪観
」 が 適 当である。 (あ字観、 月 輪観の 両観並行の難*一般者には象徴秘 密の文字が取 り付 きに くい 。 また、 あ字 観 自 体 、象徴 さ れ る 本 不 生の理解がい かに得 ら れてい るか を前提とする。 シ ンプル に月輪 観の みで この両 者を行 うべ きで ある。 月輪6
図の展 開によっ て、観法の 目的と結果を 始に提示で きる。 (cf,森口ee)))(b) 我々 は既 に 「本不生」 の 具 体 と体 験の 種々 相を理
解
した。我
々 にゅ だ ね られる秘密
の宝蔵
の鍵
:自
ら開 き自
ら知るべ き第一 の鍵は、 世界
と心の真実
の在
りよう
がは じめ に提 示 されてい るこ とで あ っ た。真
言求道
者は自
助努
力によっ て自己の確
立を は た さ なけれ ば な ら ない 。月
輪は 「意識 と存在
の ゼ ロ ポ イン ト」(井筒25))、「戯論 寂 滅」 に開か れ る : 広 大無辺、時
空を超 えた如
来(虚空 法界)その もの を象徴 す
る。 「一切有 情は こ とご とく普賢の 心 (自性清 浄心 :浄 菩提心)を含せ り。 わ れ 自心を見 る に形月輪の ご とし。 何が故に か月輪をもっ て喩とな す とな ら ば、 い わ く、 満 月円 明の体は、すなわち菩提 心 と相 類せ り。」 (宝鑰 p198 )
例 え ば
我
々 は体験
と名
づ けるこ とも出来 ない 「熟 睡」 を日々 に体験 して い る。 意 識 するこ と も肉
体 も明晰に把 握 する こ とも出来ない が、常
識的
にわ れ わ れの健 全、 健 康の源 基で ある。 私は これ を 「戯 論 寂滅」 の境地、 第七住心 厂義
用 最 も幽真」 の それ 、 「自性清 浄心」 で ある と考
える。 我々 は、 気づ くこ とのない こ れ を内在 してい る。 そ れ を意識の ゼロ ポ イ ン トと して体 験 する こ とが 出 来る。(第一段 階)
我
々 は蓮華
上 に図示
さ れる円 月 :月輪
に対 座 して観 想 に入 る 。始
め に 「数息観
」 を通 じて禅定
・三昧
を修す
る 。 この意識
と存在
のゼロ ポ イ れ ん ン トの境 地におい て月
輪の 「広観
」 厂斂観
」 を修
する。 心は広 大 無辺、時
空 を超 え うる。 自らの 悲喜
・苦 楽
の生死 を超 時 空の 大い なる い の ちとして開放
(32
)真 言密教 求道 者の 「一生の心一」 :「本不 生」 私解 (森ロ) するこ とがで きる。 が ち り ん