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智山學報 第58 - 012森口 光俊「真言密教求道者の「-生の心-」 : 「本不生」私解」

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全文

(1)

言密教 求道者

不 生

私 解

森  

  光  

  [

1

]  は じめ に

 

法 大 師著 「

蔵宝

真 言密教

求道

心の

を十

階梯

に配 して 思想

的、

践 的に

究され てい る。

密教

枢 要

人に 「秘 密の 蔵」 を開 く鑰 が

えられてお り 「如 実 自心 、 『開 けよ、 宝は こ れ で ある。 「

如来

自内

」、 そ こに

来の マ ン ダラ世 界が

限の

光輝

っ て い る。 こ れ は秘

心 = 自性 清 浄心 = 浄菩提 心 = 汝の 心その もの で ある 』 とい

こ とにある。

 

こ こ にい

う大

来の 「自内 証 智」 の 「自内 証(自ら が 自らに証 ら か に し た)こそ が 「

絶対 否定の覚智)で あ り、

密教

如来

は 「本 不生」 を覚智 し、

覚者

と して

慈 悲の

姿

を示 現 され てい る

当体

である。

 

如 来の

智さ れ た 「

の 要語は簡 略 する とこ ろ、

 

本不

起二

無 自性

(無我)=空 、 =不生 不 滅(八不) = 戯 論 寂 滅(絶対 無 分 別)、 = 自

(無 自性で ある本性)

清浄

、 二 諸

相、 = 一切 如 来、 = 法 身

如来

自内証

= 一

切智

智 (一切智を有する者の智 慧) 、 = 不二 、 ;

自性

清 浄心 (浄菩提 心)= 秘

密荘厳

心一

生(吾人 ・自己 )の

心 品

指示

する 。

 

そ れ ぞ れの 要 語はその位 相 を異にする思想 的背 景に基づ く原 理 的

意味

して い る。 説 明の 言い 換え言葉の中で な か な か捉 えがた い 。 真 言

教の

求道

にあ っ て は 「本 不 生」 が分 らない とい

こ とは、 その 道の すべ て が分 ら な い

根源

で あ り、 自己の 完 成(成悉 地):瑜 伽 ・

法 (如来 との合 一 )、 蘇 息

穏(い わ ゆる安 心)、

覚 り

の 智慧の完 成の

心で あ る。

 

本不 生示 す とこ ろ の

が、 ま た

体 的に はい か なるこ と と して理

さ れ るべ

以下は 「

求道真言密教

基 本 的 な

えと して 「

(2)

智山学報第五 十 八輯 不生」 の

究極

は 「一生 の心一」 である こ とを、 主 として大

の 教 学 的

論考

以 外の 吾 人に親 しい

資料

に よ

考察す

。   [

II

]  本不 生、 直観 的イ メー ジ

II

1

不 生 :「生 ・滅 不 可得」

 

不生一不 滅(八 不)の こと は 「

わ れ 。 この こ とを

言密 教で は 「

本不

の 一

し た。 「

」 は

本初

際 限 ・

実 際の

る。 「縁

」(相互依存同時生起)する生 ・滅 ・

変化

の万

は、 生 じた とい

ことはない か ら、 滅した とい

こ と も ない 、 万 象に始 まりの 始 ま りも、終 わ りの 終わ り も ない こ とを言 う。

 

因 ・縁 ・生起を形 成 する種々 の は 「無 自性無 実体)一 あ り 、 こ れ らにその 「原 因 を無 限に遡 、 その

一 原 因は 「」 で ある。 万

の 生起とい

う視点

か ら して

原 因 ら れ 、 無 限

遡求

無始

に おい て生

を言

こ と はで きない か らこれ を 「不 生

 

の 変

に み る消滅とい

視 点か ら して も、 既に万

限遡

の 「不 生」 と して、 生 起 してあるの で は ない か らその消 滅 とい うことはあ りえない 、 「不 滅 で ある (本 来 法 然。 法 爾 法 然)。 こ の万 象、 愛 別 離 苦 等 の 観 念、 生 ・ 滅 ・変 化 「不 可

根源

あ り

して 「本 不生 とい

 

この 縁 起 世

実 際 :「

不 生

覚智

さ れ た当体が 「真 言 教 主

法 身大

如 来

」 で ある。

当体

である と は、 「本不 生」 の 森 羅 万

、 無

自性

と して生 成

変化

きわ ま り

宇宙

世 界、 その不 生 一不 滅 生 成

変化

の で

るこ と、

法 身大

日如 来の 働 き(現成活 動)その もの である こ とである。 「自 内 証」 と はこの 当体

らを 自らが証 ら かに した と言

こ とである (cf.那須1))。

 

如 来の

慈 悲 (覚智におのずか ら伴 う)は人 間の 歴 史 と時代 を超 えた

常恒

の い の ち、 人の

び と悲 しみ の境 を超え た大い なる心の

平安

と して、

人に

常恒

作動

しつ つ 、 遍

し、 顕 現 して い る。 悲 しい か な、

れ な る か な、

実の       もだ

己に 目

め よ と。 大 師は 「大覚の慈父これを観て何ぞ黙 した まわ ん」(宝鑰 )と確 言 される。 (

18

(3)

真言密教 求 道者の 「一生の心一」

 

「本不生」私解 (森口)

II

2

に とっ て 、「本 不生」 は人 間の 人 間 的現

実 的世 界全体 の

解体

と再

搆築

を意 思 する実践 的思 想、 世 界

である。 こ の

実践

的思 想は吾 人 の 現 実の 「絶対 否定」 を さ らに透脱 して 聖 なる 「六

」 の

宇宙

、 世

界観

と して完 結 する。

 

宝 鑰 論 宗の 祖 、龍樹の 思 想 ・三論を信 奉 する)を、 「覚心 不生

」 と して

心[’

A

コに配し、 「八不 に戯を絶ち 、 一空 を観 ず ば、 心 原 空

に して、 無 相 安 楽な り」、 八不正

(空性 無得) = 戯 論 寂 滅(絶対 無分 別)で ある と

教 判

さ れ る。 ま た

文殊菩

薩の 教

「絶

」嘩 厳の 「建乗」 に 対する)に配 され 「空畢 竟、義用最 幽真な り般 若心経鍵)

か れ る。

道者に あ っ て は 「義 用 最 も幽真」 で ある こ の

境位

を明 晰に体 感、 理 解 する こ と、

戯論寂滅

を透

しない 限 り、究極の第 十住 心 :

真言密

教の 世界 「

A

コは得られ ない 。

 

[‘

A

]→ [

A

]の 階

はは るかに は る か で ある 。 こ こ に、 絶 対 否 定か ら聖化 さ れた 「絶 対

肯定

如来

(自 内 証 )の顕 現 と遍

が提示 さ れる。 以 下 はその

観 的 イメー ジで ある。

  第

心、 「不生不 滅」 戯 論 寂 滅 :経験以

の世

Ut

[ ‘

A

]。       こんとん

 

、 ま だ 現象世界が存 在 し てい な かっ た太古の時代に、 「渾 沌」 の 。 この神は 目も鼻 も口 も耳 も ない 全 の ノ ッ ペ ラボウ であっ た、同情 した友 人の 神々 は       あな 「つ の竅あ りて以っ て視聴 食息す。 此 れ独 り有る こ と なし」 と、 苦心 して       うカt      あ な  カt その顔の表面に 「 穿っ てや っ た。 「日に 一 を 鑿 ち七 日 渾沌死 す 。 「 穿 りあが っ て、 目と鼻と口 と耳が 開い た とた ん、「渾沌」 の神は 死 んで し まっ た 』。 (井筒 2) 、 所 収文によ る。 cf.「荘 子」福永 解 3)

 

井筒

氏は 「渾 沌 は ま だ

存在

て い 非 現象

無 物

意味

する とい

。 これ によ れ ば吾人 は 「経験 以 前の 世界」、 絶対無分 別 ・       こ ん と ん 戯 論 寂 滅か ら

乖離

した 「

」 の死 後 、 人知の分 別 妄想 世 界、 主 ・ 生 ・ 死 、

、 好 ・悪 などの現

を生 きてい る の である。 分別妄 想(戯論)の うちに

らを

まして 熾 烈な現

に 目

め る こ と は ない 。 縁起 し

(4)

智 山学報 第五十八輯 てある万

は 「

不滅  

」 で 。       しる し

 

  第十住

心、

如来

の顕

性 清 浄の宇宙 ・世

の 「

」 の

直観

A

]。

 

真 言 求 道者に は万 象 世界の 真 実 とそは顕な もの と して

に提 示 さ れて い る。 「本 不生」 を覚 智さ れた

法身大

如 来

と、 その心で ある諸仏 如 来の マ ン ダラ、

宇宙

 

は 「

言 う究極

体性本体)

よっ て 「六

」 して顕

する。 相互依

生起の 「六大」 の響 きあ う       あらわ

羅万 象 と して 遍 在 する (即 身成仏 義)。 こ れ は

者の境 地に顕で あ る 「秘密 宇宙世 界 。 見 える者に見 え 、聞こ え ない 者に は聞こえ ない 。 真 言 密教の 「密教」 た る所 以で ある。

 

この 秘 密の鍵が 「

心 をる こ 」 ;『

如 来

人は

本来同

平等

」 である』(「平等」 と は仏 教用語 )とい

こ とで ある。 そ こ に、

人 が 「

智 を

感得 す

るための 、 さま ざ

修行

の形 が提示 さ れ る。

 

吾 人は

言密 教の

(行 法と 理論)二相に よっ て、 全 人格 的 如 来の

徴 的に表 現 され る清 浄三 密(身体 的活動 、真 実の言 葉 、慈悲の心 )と求 道 者 吾 人の 三密 (身口三業 :行 為)

平等

を瑜伽

感得

しなけれ.ばな らない 。

如来

感受

し 得るか、

ない かは

人の 問題で あ り、 「信

及」(顕得成仏)の

如何

る。       しる し

 

の a,は こ の 「

不生」 で ある

如来

遍満

現の

る者 に

え、

る者 に聞こ える、 秘

真実世界

を 理

するため の 一 通 路 で ある。 我々 は如 来の前 に、

来と 「平等」 の存 在である。 如 来 と平等の心 が 「

然」 と人 「人 ・間」 の

のあ り方の真 実、「平 等 を求続 けい るの である。

b

.は [ ‘

A

]の

の解、 あら ゆる束縛か らの

徹底

的 開

で ある。

 

(a) 如 来 と そ満 す世 界 ・本体)と しの 五

とその 心の 真

の イメー ジ。

 

/湿っ た暖かい土 、 それは最上の もの であり不 可欠の もの である。 / 清 らか な冷た (20)

(5)

真言密 教求 道者の 「一生の心一」 「本不生」私解 (森口) い水 、そ れは最上の もので あ り不 可欠の ものである。/ 森 を渡っ て くる豊か な風 、そ れ は 最 上の もの であ り不 可 欠の もの であ る。 /深い 森、 広葉樹も針 葉樹も 入 り混 じっ た 原生の匂い のする静寂 、そ れは最 上の もの で あ り、不 可欠の もの で ある。 /黄 金色 の宮である火 、その源を太 陽に もち光と熱を与 えて くれ る もの である火 、それ は最上 の もの で あ り不 可欠の もの である。 /そ し て この意識、 僕とい う存在を産み出 し僕と い う存在がや がて そこ に帰っ て ゆ く永遠に不 滅である もの 、 そ れ は最上の もの であり 不可欠の もの である。 / (山尾4)cf.大日経住心 品。 岩 本5))   (

b

)  「本 不 と し遍 満 す秘 密 無尽 蔵 、 調 和 世 界の イ メ ー ジ。   山も緑、 水 も緑、 緑 一天 地 あ る 。 その 緑には無限の 変化が あ る。 その無 限の変化を その ま まに孕んで緑 は 天 地 を 染 め 出 してい る。 そこで は、 どの草 木も我 こ そ は本 当の緑だ と 主張 して他の緑を排 斥 する ようなこ とは しない 各 自が 自己の緑を 持ち な が ら他の と一つ に なっ て 、 夏の 山 野 を 限 りな く充 実さ せて い る。 (福 永6)・ 「竇詩解)

 

III

 

か ら観る 日本人の

の 死生観

III

L

諸相

 

(a) 小

八雲7>「

の 一

る 日

人の 生。     仏教で は露の 玉 を魂とい 宇宙と考えてい る。 人間と は眼に見えない 究極の 単 子が仮に集 まっ て 姿を現した露の玉の ようなもの であ りそれ以上の もの で はない 。  露 が消えうせ るの と 人 が消 え去るの との違い は無い 。露の一滴一滴は、私 達の太 陽 が燃え始め る よ りも何 兆もの時代を遡っ た昔か ら、 また、 この 私達の 宇宙が い つ か大 空間 か ら姿を消し た後も、 恐 ら くこれ らの 分 子 は彼 ら を造っ た 不思議な力にうな が さ れて、一 その と き出現 するはずの世界にあっ て誰と も知らぬ人々の 「心」 の結成に 必 ずや ま た加わる で あろ う。

 

時代

に おける 日

人の 心、 人 間 ・の 玉 ・ 「そ れ以上 ではない とい

八雲の理解で ある。 日本 的無 常 感 と部分 的華 厳の思 想に よるか。 如 来 の 大宇 宙、 吾 人 も 一 個の

宙である。 相互

依存

生起の 「六

」 の

きあ う森羅 万 象 とし て の一個で ある。 露の玉 が そ うであ る よ

に縁 起の全 個 を写 して全 個 とし て ある、 その全個の 「不生」 で ある。 誰 とも知 らぬ人々 の 心の

成に

必ず

や また加わる で あろ

と は願 望であ る。

言 教

は自心 を如 実に

(6)

智 山学報 第五十八 輯

るこ とに よっ て 、

理 と して平

存在者

であ り、 「

不生」 で ある こ と に解

され た 「

密荘厳

世界」 の

生 き

  死 んで姿を消すこ と で凡て が無 くなる とい うとい う考 え方は妄 想 も甚だしい 個 性 、 私 達の特 異性は どうな るのか ?私た ちの観念や情緒や 記 憶力は ど うなるの か?私たちの 個々別々 の希 望や心 配は、愛情や憎 しみ は どうな る か ?一 私 たちの特異性は永 遠の大 きい 秩序の 中で は、 一分子 なうご きと 同 じ程 度の 意味し か持た ない 。

 

万象世界の

真実 際

は 「

不 生」 で。 そ もそ も絶 対不 変の 「自我」 など は ない 。

悪、

憎、 生滅 ・断常は

我の妄 想である。

戯論寂

滅 :人は こ こ 立 っ て、聖 化さ れた万

「不生」 の 自己の 自性清 浄、 真 実の意 味をこ そ見つ めるべ る。     ある もの は た だ無窮の生命だけで 存在る よに見える もの はそ れの震 える影       あ ま た に過 ぎない 。 一 数多の 影が来て は過 ぎ去る。 影の造 り主の みが永遠の営み をつ づ け る。 不思議な力、 永遠の大きい秩 序、 無窮の 生命、 〔影の 造 り主]。

 

こ こ に 「如 来 提示 さ れい るわけでは ない 。 言わ れ る よ

如来

は無 窮の 生

: 「本 不生」、 始め も ない 終わ りも無い お おい なるい の ちである。 しか し 「

造 り

あ りき)

と しての 吾 人で はない もの として の

森羅

、 自性 清 浄の宇

その ものである。 また、 八 雲 が こ こ に

えてい ない の は、

如 来覚者

つ れば あふ れ る必

の 「

慈 悲」: 「

」 で そ し 、 人の

真実

発で あ る。 「露 の 一」 儚い とい う情 緒

動 的 あ きらめでは な く、

涼の 一 滴が一瞬の う ちに全 個 を映 し、 その全個の それぞれ が直 ちに全個 を映 す宝蔵である ご とく、 自性 清 浄の 主体 とし て全個の 一が 自己で あ り、 一 個の

が全個である輝 きの尊

をこそ知るべ である。 (

b

 

人の

伝統

の 中の死生

(加藤8) 、 他)   (日本人の)死の哲学 的 イメージ は 「宇宙」 の 行 き 、 そこ に しばら くと どまり、次 第に融け な が ら消 えて い くこ と である。 宇宙の中で は個入差が排除さ れ る。 (22 )

(7)

真言 密 教求道者の 「一の心一」:「本不私解 (口) 宇宙の中へ 「入る 」 ま た そこへ 「る 」 感情 、 多 くの 日本 人に共 通だろ うと想像さ れ る。    「無常 常住 否 定 思想 に は宇宙」 は無常 の もの と して の 「宇宙」 の え られ てい る。 無常の持 続 、宇宙のその 中で の 全て の もの の変化 (とい う 理解であ る。)

 

  感情 的に は 「宇宙 秩序」 の 、知的自然の秩序」 を 「あきら め」 をもっ て 受 け入 れ、 「あき らめ 」 が 自己制御を可 能にする。    「自然 、 「自然の秩 序」、日本人の 「自然」 は究極 的に は人 間が そこ か ら生れ、 死ん でそこ にっ て ゆくとこ ろ と考え られて い る。   現 代日本人は意識 する とこ ろ で はない が、加 藤の 指摘 する とこ ろ、八 雲の 「

= 日

伝統

生 死 は 、

通 する世 界

がある。

感情的

には 「

宇宙

の秩

」 の、

的に は 「

然の 秩 序」 を 「あ き らめ」 をもっ て

け入れ、 「あ きらめ 」 が 自己 制御 を可能にす る もの と して 、 一

お お む ね さ れ て 。  これ は 日本 人の 伝 統の 「自然 的 あ きらめ」 と仏 教 的 「無 常 感」 に よ っ て形 成さ れた心情で ある。 日本 人の 漠 然 とした心情 として正 しい 。 宇 宙の 中 へ 「 る 」た そ へ 「

感情

あ る

 

無常

・「

無我

・「

あ きら か わ が

典 的

情緒

に共 通 する

感情

は、 あ きらめの

漠然

と した

情念

に した が っ て諸

行無常

の 響 きあ り と し、 生 死 流 転の この 世 を、 仮の 世 (宿 世、 宿 業)と してあ きらめ、 逃避 と遁世の 傍 観 者に、 地獄の 怖 畏、 嘆 きや哀感な ど と して しまっ た。 さら に は被 虐の 己 と し、「あ る が ま ま受 動 的全 肯 定、公理 を蹂 躙 して 即

的な

利の

仏 (神 )

論者

と な る。 不生の 「あ る が ま ま」 の

諦観

と、 あるが ま まの恣意 的在 り方、 あ きらめの心 情 とは似て非なる もの である。

 

我々 は、人 間に無 関心な大 自然の みに

入 する詩 的

観 力 を有 して い る。 しか しそこ にある 「

の心は 日

的心情 と して の 自然 崇拝、 畏敬の 対 象、 祭る現 人

溶解

して日

的 無

哀 感の 情 緒に変容されて きた。 歴 史の で真 言 密 教の信 仰 と実践は習俗 的混

加持祈

疇(い わ ゆ る雑 密)、

(8)

智 山学報第五十八輯 シ ャーマ ニ ズ 、 霊 能な どの うち に非 知識 と して 自ら貶め て きて もい る。

 

日本 仏 教

の基

仏 教思想

の 総

体系化

で あ る

言 密教は、人 間科 学(自己実験の体 系)と して の信 仰の理

践(事 ・教の 分裂 、事相の野 沢分裂 : 貴種の画、 そ れ故の両者の複雑さと混 乱、 貴種化と呪術 化はおい て)、 その 心その 生 を

提示

してい る。

 真

教は 日

人の

伝統

の中の 死 生

観 

 

 

わ れ る感 情 的に 「 宙の 秩 序」、 知 的に 「

然の秩 序」 を 「あ きらめ」

け入れ

恣意 的

ある が ま まの 生死

を助 長 して きた だけで あっ たの か。

 真

言教

はユ ガ

体験

果の をこ、 不 生で 「ある が まま」の

真実

の 意 味、 その

発の 生 の

真実

をこ そ、 秘密 とい

呪術に 閉 じ込め る こ と な く、

抽象

有情

生 として放 置

る こ とな く、 個の 主体(無 自性である 自性清浄 の 自己)を生 きる

教 として明晰に示 し語る伝 統 を形成 すべ っ た。

 

現 代の真 言 求

者にあっ て、

如来

大師

の教 えは

(々)や カ ミ に あるの で は ない 。 殊に情緒 につ きる もの こ とで は ない 。 情 緒では 一 神 教徒の カ ミ に対

、 そ こに

発 す

根本

的に狂

の 、

信仰

の 暴

を前に

寛容

(西欧の悲惨な 宗教 対立 と自己主 張に起 因する言葉)も

対話

批判

り立た ない 。

 

に至る世界の

悲惨

は、

ら を

偶像

とする

自我

陥穽

づ くこともな い カ ミ の正

と、

他者

信仰

現を

偶像

と してその

存在

拒絶

する理

信仰

にある。 そ して、 問題はこ の

世界

々 が、 既に ま きこ まれて し まっ て 存る こ とにある。

 III

2

.武田

泰淳

史記

 

非持続

対持続

で あ る全

」 の

諦観

しみ。    お よ そ個人 に して も、 血 族に して も、 集団に して も持続が本能であ る。 本能で は あるが持続は困難である。   こ の持 続の困難なこ と は、 史記で は、 栄枯盛衰 、生者必 滅的な意味、 時間的な変化の 意味で問題にさ れて い るの で は ない 。   持続が、 転換を ふ くむ持 続であ り、 持 続 を書 くことは非持 続 を書 くこ と に な る とは言 え、そ れ は時の 流 れに詠嘆する風に

察さ れてい る の では ない 持続 すべ き ものが持 続し ない の を、 (

24

(9)

真 言密教求 道者の 「一生の 心一」 「本不生」 私解 (森口) た だ悲し むべ き現 象と見 送るの で はない   史記 的世界で は、持 続と(転換 )は空間的 に、全体的に考え ら れてい る。 あらゆる もの を包含 して、持 続 してい る。   個 別的 非 持続 、 自壊作 用 、相互中断作用は む しろ全体的持続を支えて い る。 全て は史記 的世界 全体の 対持 続を支え満たす もの、空 間 的なの で ある。 (pl41−2.本 (記)と世

i

家の 並 列 p105 .持 続と転換pl33 ,)  「 に よ も、諸 国持続現 象風 見送る気は起こ らず、全体の 絶対持続 を把 握する諦観が うまれ るの で ある。 (武田9))

 

武田

泰淳

は 「司 馬」 の 、 『司馬 遷 は生 き恥 を さ ら した お とこ で ある       き わ

腐刑

刑 )

 

口惜 しい 、

念 至

、 な さけなや、

退

まっ た と知 り な が ら、 お めおめ と生 きてい た。

  

そ して

執念深

く 「

記」 を書い て い た』 とい

。 そ して最

に、 「忍び得ぬ 悲 しみ を以っ て 司馬遷 は、

匈奴

問題を見

っ てい た。

しみ を以っ て見守っ て いたの は、 こ の 問題ば か りで は な い 世界全体である。」 と結ぶ。

 

悲 しみ とは、 作 者司 馬遷 自

の偲び

ない 悲 しみ。 そして司馬 遷が見た 、 書い た 「史記世 界

と悲しみあ り 、 ま たそれ は中国の 、 泰

が 「司 馬遷 を書時点の 日

国、 そ して西 洋を含む世界に対 する

淳の 諦

と、 悲 しみで もあっ た。       ほ ん ぎ       せい か

 

司 馬遷 「史 記 項 羽本 記高 祖 本 記

酷使列伝

刺客

な ど、 人 間と人 間、国と国、世

の 中心 と なる

力 者、

帝、 王属(族)諸 侯、

官僚

、 それ らの 興亡 、抗 争の 歴 史で あ る。 そ れ ら は興 り、 滅びる。 持 続 し、断た れ る。 並

拮抗

し、

る。 人 間の

限 的世界の 「史記」で ある。

 

この 人 間の

事実

泰淳

は、 「

史記

では

栄枯盛衰

、 生

必 滅 的 な意 味、 時 間 的な

変化

意味

で問 題に されて い るの で は ない

し、

史記

の 「

非持続

対的持続

把握す

諦観

しみ と し

。 (cf,川西10))

 

泰 淳い う 「諦

、 「悲」 とは、 生

必 滅、 栄枯盛衰の 絶対 条 件 :「無 常」 の と、 自壊

用、 相互 中断作 用 とし て、個 別 的非

続で あるその

々 が全

持続

えて、 その全て で ある全体の 絶対 持 続を支 え

もの 、 空 間 的(俵 」 に一目さ れ うる)とい 史 記 世 界の 人 間と その 営みへ の 「

諦観

」 で ある。 絶 対 条件 を生 きる人 間が 、懊 悩 と悲痛 と快

の 営み として

絶対持続

(10)

智山学報第五十八輯 てい る こ との 全体

しみ が 、 そこに おの

か ら発

る とい うの で あ る。

泰淳

が こ の

品に仏 教 的世 界

主張

しよ

としてい るわけで は ない 。 しか し浄土

の 出家 者であ りのちに

作家

と なっ た仏

教者

と して、 「人 ・ 間 」 : 人の 世 の

ない あ りように対 する深い ま な ざ し 「 が あ り 、 「

し み」 がある。

 

私 は

泰淳

史記全体 世界

の 「

非持続

絶対持続

の諦

と悲 しみ」、 これ を

如 く考

る。 絶対 条

を 生 きる人 間、

非持続

が人類の本 能、 煩悩 と して絶対

持続

する 歴史、 その

の 同

時的

空間的

として の

諦観

。 そ れ をその よ

に生 きざるを

ない 人 間 深い

み である。

真 言求道者

は 「世 間宝鑰)の 現 代の 具体 と して 確 認すべ で ある。 泰 淳の ま な ざしは、 阿弥 陀

如来

の絶

済にむけられ てい る であろ う。 (発 表時に 「 持 続の絶対持 続の諦 観と悲しみ」 を 「本不生」 に同定 し た が、 その 意 味を異に する こ と上記の 如 くである の で こ こで は、 泰淳の 意に限定 した。)

III

3

. 「本 不 不 滅

体験

 

(a)

 

テ イ ク ッ ト ・ハ ンの

体験

 

の満 月の夜 、私は母 とい っ しょ にい ま し た 一 道 すが ら、母 はずっ と私に つ い て き たの です。一 。 ある晩 母が夢に現れ てか ら とい うもの、 私は 母の死 を喪失 と は感じ な く なりました。 一 め た とき私平和 、 母の生 も死 もすべ て観 念であっ て真 実で は ない 、 と悟っ たの です。 母の実在は生 も死 も超 えた もの、 生まれ た から存在したもの で な く、 死ん だ か ら存在する こ と を や め たの で も ない 。 存在と 非存在は 別々 の わ か れ たもので ない と、 わ かっ たの です。  存在は非存 在との関係 において のみ存在し、何 もの も存在す るこ とをやめ る こ とは で きない 。 無か ら有を 生みだすこ と はで き ない 。 これ は哲学的 な 思 惟で は あ り ませ ん。 こ の身に起 きた事 実で した。 一 悲 し か り消 えま した。 母を失っ た とい う想い る観念にす ぎない こ と を 理解 したの です。

  

。 柔ら か な月光あふ れる 庭に出て、その光を母の存在の ように体験し ま し た。 単なる想念で はない の です、 私 は本当に、 い つ で もどこ でで も母のすがた を見る ことが で きる の です」。 (テイク ・ナ ッ ト。ハ ンu))

 

ハ ン の

体験

は祖 先

拝の

感情

ではない 不 生 不

体得

した

禅徒

見性

で                 (

26

(11)

真言密 教求 道者の 「一生の心一」 「本不 生」私解 (森口) ある。

教で は瑜伽 観 法に よ る 「入我 我入」成 就の 心の 一具体 として の

りよ

である。

 

b

 

政隆

:「

不 生

 

こ こ では僧、 一 般を対

とされ た 「法 話

。 現生の

遠 的意

の 諦観 :「如 実 知 自心

真姿

だ〉、 〈現在 活 きて い る私の 生命は、字宙 根 本の大 生 命が私 とい う個 体の上 に 顕 現 した もの で ある〉と確 認さ れ てい る。 境 地にい た る体 験 的修 行の 説 は こ こに略 した。   「 う存 在が法爾 法然の 宇 宙界の 中の一存在で あ り、私の如 実の相は本不 生の       よつ 境 地に観る如 く、本 来空寂であ る。 空寂は即ち 死であ る。 仍て私の真の相 は、 死の姿 で あっ て、現在 見る所の す が たは因 縁 によっ て生 じた暫有的存在で し か ない の で あ る (*。 現在 活きて い る私の生命は、宇 宙根本の大生命が私 とい う個 体の上に顕現し た もの で あっ て 、その本質は宇宙の大 生命である か く して私は こ の 自己 なる生命を乗 り越えて、 宇宙 大生命におい て活 きる ことに なる。 それ が即 ち真 言道の如実知 自心な ので あ る」。「人 生 五十 年は仮の もの、む しろ永遠の死 の状 態が 私の本 当の姿であ る。 そこ に永 遠に変わ ら ない の生命の真姿が あるの だ」。 (那須12))  「空 寂即 ち死 、 本 不生 一 空 寂一 死一 如 実知 自心 と われ る 。 *お そ らく我執の人生 を軽 く見て開放 すべ の意であろ

。 私に、 空 寂は死で は な く戯論 寂 滅(絶対 無分 別 )= 自性 (無 自性で あ る本性)清 浄で あるか ら、

にそ れ を透

して い の ちの

れ る聖

され た世

とな ると

える。  (c)  道 元禅 師の 「生不 滅」:“生死” 解  生 よ り死に うつ る とこ こ ろ うるは、こ れ あや まりなり。 生 は ひ と と き ( 一時) く ら位)にて で に さき(先)あ りのち (後)あ り、 かるが ゆゑに仏法の なか に は、生す なは ち不 生 といふ 。 滅 もひ と とき ( 一時) 位 ) 、 また さき(先 )あ りの ち (後)あ り、こ れ に よ りてす な は ち 不滅 といふ 。 生といふ ときに は、生 よ りほ か に もの なく、滅 とい ふ と き は、 滅のほ かに もの な し。          (道元禅 師13)) 道 元の

哲学

「不 生 の 断 定。 始 もない

わ り

も無

い とい

こ と、 只

(12)

智 山学報 第五十八 坐 ・

無所得

空に 「生 を明 らめ、 死 を明 らめ 」 た、 日

心の明

もあ

る。 「この 生死は、 すな は ち

い の ちな り」 とい

。 以下は 、 『

如来

い の ち一生 の心一 を生 きる』

心であ る。  [

IV

]  本不生 : 「一の心一」 の体 験 工

V

1

.東 寺の 長 者 孝 源の 信得 及 :「一生 ノ

  (

a

) 徳

敞僧

時代

につ い 、 「真言宗教相事相と が相対 す る が如 く で、事 相の 方面で修法祈 禧の如 きは依 然と して勢 力 を有 し仁和 寺、 大 覚 寺、 三寶院、 勸 修寺の 門 跡寺院 が本山で、 東寺が之を統べ る」 と言 う(宇井 14) 。 運敞 僧 正 (1614 −1693 ・寛 文 元 年 1661 、智 積 院第七 代 となる)につ い て私は先 に、 こ の 時

に同時代 的に展 開する、運敞 と黄

隠元 その

子た ち との

流、 盤 珪 一

、 運

孝源

孝源

関係

。 運

学論

。 盤珪、 浄厳 の

対社 会的活動等 時代

様相

概観

した。 盤 珪 一

孝源

関係

、 当

の 主題で ある

孝 源

の 「

信 得

及」 の

内容

につ い て は

れ る とこ ろ で はなか っ た。 (森 口 15)こ こ で

主 題 つ い 、 関

の 問題と

える とこ ろ を

指摘

する に留めた い 。

 孝源

貴種

出 自

よ り出家 して 御 室 真乗 院、 事 相の 指 導者、 大

正 であ り、

貞享

1684

年)、

統括す

東寺

長者

に な

る。 「

宗 

字諸法本不

生の

まで は

解了

分際

にて 」 と 言 う。 さ らに求め る とこ ろあ り、 禅

師盤珪

を問い

悟達

され たこ とに

敬 意

し たい 。   盤 珪、孝 源両 師の 応 接 に盤珪 の 曰 く、 厂此 心 、 本 来 不生、 纔に心 を擬 すれ ば即生死。 元と よ り圓 明。 知

すれ ば即 隔礙 を なす」 と。

源、 禮

の賦 に

言 う

(盤珪 法語 ・鈴木16)

龍光

して

迷 を

ず /

来曾っ て錯る

精 を弄 ずる こ とを

 

不一生ノ心一地

 

能所 を絶 す/

に鏡 中に入 りて明 を識 ら

              壬 申卯花念四 日。 西 山蒭孝源 合 掌。 (

28

(13)

真言密教求道者の 「一生の心一」 「本 不生」 私解 (森口)       盤 珪 :  不不 滅

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不 生

本地       孝源 : ノ心一地」  能所を絶 す

      

ll

      『本 ・               『本 地 法大 日如 来 =  『本一生ノ心一地

      ↓↓

       「一ノ心一」

 

孝源

は 「

絶 す と し 如 来所 求能 求 、 を絶 して透 脱、信 得 及した。

に記さ れ るハ イフン に は意味 深い ものが あ る。 これ を私 に 「

  

」 :

法身大

如来

一 生 地』、「 ノ心 一地」 即ち如 来 との合一 (「入我 我入」)、 信

及 し

た 自ら の 「 生 ノ

」 の

であると解 する。       ゆ  が   彼 こ そ こ の 近 世 に あっ て 真 言 求 道 者の 枢 要、 如 来との 瑜 伽 (y。ga)の 境 地 「一

た 一

 

本 不 生の 一一 で る 「 、 不生の 一

 

不 滅 あ る 。 こ れ は また、 不 可

の 「一 生の 心一 は 秘

密荘厳蔵

(無尽蔵)、

如 来

の 心 に透 脱 し た

自性清浄

の主

と して のい の ち満 ち盗れる聖

され た世 界をい る 「一 生 の心一」 で ある と

える。 「不生」 な れ ばこ の 生死 すな わち 「

来の御い の ち を生 くる な り」で ある。

 

b

教二相の そ れ ぞ れの 問 題

 孝

源は

真 言密

教 の

行 法

事相

伝授

指 導者

で あ っ た。

道の 成 就、 「

得 及」 はあ くまで 「可 能 性」 で 。 「従 来   曾つ て錯る  魂 精 を弄 ずる こ と」 とい 魂 精を弄 ずる とは魂 精を もてあそぶ こ とで あ り、 こ の 語は禅家 に

古 く

り提説

されてい る

言葉

精魂」 で 。 無 限定に して全 一である

本来

の 「主 人公」 を

めて

依然

と してマ トは

れのそ れに堕して しま う言い で ある (小 川隆17)

(14)

智 山学報第五 十 八輯

 

こ こ に

源は全一

者如来

との 「入

我入」、 「顕

成仏」 を果た し得たの で あるが、

肝 心 と は 、 機 根 に即 した (歴史 的には師資は 選 ば れてい た。 口伝と言う秘密の 世界に)「

に心を擬 すれば即 生死」、 「毫 釐の 差 あれ ば天 地

」 の 間髪の 間の苦 闘とその解 決で あ り、 「信得 及」 の

何 にあっ た は

る。

 孝

源は 「

宗 

字諸法本

不 生

解了

分 際

に て 」 い い

行法

授 者、

者であっ た。 い っ たい 教

相学解

行法事相

伝授

と はい か な るこ とで あっ たの か。

念な が ら

真言

の この 間

の 間の 苦 闘と その解 決の具体は寡 聞に して

らかでは ない 。

 

隠元 その 子 た ち との 流 、盤 珪一孝源の 交流があっ た。 この

時代

、 盤 珪 をは じめ

真 言

、 禅

の 対 社 会へ の 新 しい 動 向が あっ た。 盤珪は 「不 生

証拠

い とい い

時代

々 に 「

岡山藩

に儒

達の 廃仏

応接

した。

真言律 師浄厳

文献学的究明

に、

言の 観 ・誦、 結縁潅 頂

、 一

を開

 

お よ そ一世

遅 れて豊:山の

法住

律 師

慈 雲 一廬懐 圓 、 開明 的 町人 居士 「勝 慧

い わ ゆ る

観法

(長谷 18))、戒 定 教 相 学 批 判 (栂尾ユ9>)は た が 、 一

もか か わ らず 基

劣 慧

う言

と、 「

事相

面で

修法祈禧

云 々」 を

大事

と し て、 験

者効験

の習

俗 的

の中に

大衆

置し

の 「 一

一 」 の開 明

を期 する に はい た らなか っ た (cL 森口20))。 真 言 密 教 の 日本の神 (々)か らの

々 た る

呪縛

、 「仏

習合」 の 時代の 終 り、 その廃 仏 毀 釈の無 残。   こ れ ら を我々 は克服 で きてい るの であろ うか。 律 師慈 雲 一釈 雲照 、禅 師

慧海等

践も雲

散霧消

し た。

 

日本 人は少な くと も知っ てい た。

我の妄

か ら解放 しえ た とこ ろ に心 身 のま り、 心の 平

がある こ と、 その 厂心」 を知っ てい た。 それ が時代の 中 で村 社 会の 、 体 制 維持の 基底にあっ て 、 もの 言わぬ民衆の あ り方の 一

と して作 用 した もの であっ た として も。

 

私は

源の 「一生 ノ心一」 の

際を時代の

資料

て い ない 。 「現 代 (

30

(15)

真言密教求道者の 「一の心一」

 

「本不生」 私解 (森口) 社 会」の 一、我々 の あ りよ うの 具体と して の 「一生の心一」 は、 聖

さ れ た永 遠の い の ちの今を生 きる 、主 体 的に考 える力 ある者 とし て、 「慈 悲の器」 に ふ さ わ しい か否かで ある。 そこ に立 っ て 「自分と自分 を と り ま く社 会状 況の あ りの ま まの姿対する はっ き りした洞 察を持 ち、精神 的強 靭さ を そ な えて人々 と 共 に生きる」(ナッ ト・ハ ン2ユ)

 

仏 教 徒 (真 言求 道者 )の

現の につ い て 「自己究 明

当然

の こ と、 仏 教、 空の 思想は人類 全 体、集団的実践 につ い て は、 こ れ まで の歴

におい て具 体 的、総

的な理

構 築

して こな か っ た。 こ れ こそが今

の課題で ある と思わ れる 」(立川22))と

々 人の

、 世 間にあっ て 自性 清 浄の主

と して

らを

め ることな く、悪 趣の 闇に

すこ と な く、

むこと な く、

真実

へ の

苦悩

覚悟

しな け れば な らない とい うこ とで る。

 

生活 する

の 責任は 、 個が全個を映してい るその

己 と して、 全 個である他個 と と もに 「不生」 な れ ばこの 死すなわ ち 「

如来

い の ち を 生 くるな り」 に 目覚め るた めの 働 き、 そ こか ら

え発 信 する 「自性 清 浄」 の 主

と して の

る こ と を肝 要 とする。

 

孝源師

の 「

信得

及」 の

表 明

に、 私は

言 密教の

近 世の夜 明 け」 を想

が、

けて はい ない と

じて い る。

の 求 道は

相 を掲 げる現代の 真 言

教 にも

きな問題 をなげか けて い る と考える。 (cf. 森口23))

IV

2

言求 道 者の 「一の心一」 体験       がちりん か ん ぽう

 

(a)

 

輪観法

に よる、

々 の 日

の 心とし て の 「 一 一 」 の

立。

 

秘 宝の 蔵の 鍵 は我々 に与 えられて い る。 この 道は

来の慈 悲の加 護の 働 きで ある と同

己の

と して の

である。

求道者

は、 人

来の 清 浄の三密 と求 道 者 吾人の 三密 との 本 来平 等(「」 と は仏 教用 語) 己を顕にする瑜伽

観法

修行す

る。 修 行にあっ て、

来 を

る こ とは

己が 自己を祈る こ と、

真実

の 自己 :「自性 清 浄」 の

己を

認 する こ と、 そ の 「一生の 心一 を生 き る とい

こと に帰 結 する。

(16)

智山学報第五入輯

  真言密教

求道者

に あっ て も

現、 祈 りとその形 :行 を 自 ら実践 し ない か ぎ り、 蘇

安 穏は得 られない 。 ましてや仏 教徒 ・仏 法者と名乗る

信 も持 ち得ない 。 大 慈 悲を

感受す

る ことも不可

る。

 

これは世

ら と、

檀信徒

する

求道

者の 個の 宗 教

立の 問       がち りんかん 題で もある。 そのた めの

観法

に は 「月

輪観

」 が 適 当である。 (あ字観、 月 輪観の 両観並行の*一般者には象徴秘 密の文字が取 り付 きに くい た、 あ字 観 自 体 、象徴 さ れ る 本 不 生の理解がい かに得 ら れてい るか を前提とする。 シ ンプル に月輪 観の みで この両 者を行 うべ で ある。 月輪

6

図の展 開によっ て、観法の 目的と結果を 始に提示で きる。 (cf,森口ee)))

 

(b) 我々 は既 に 「本不生」 の 具 体 と体 験の 種々 相を理

した。

々 にゅ だ ね られる

宝蔵

ら開 き

ら知るべ き第一 のは、 世

と心の

真実

りよ

がは じめ に提 示 されてい るこ とで あ っ た。

求道

者は

力によっ て自己の

立を は た さ なけれ ば な ら ない 。

 

輪は 「識 と

存在

の ゼ ロ ポ イン ト」(井筒25)戯論 寂 滅 か れ る 広 大無辺、

空を超 えた

来(虚空 法界)その もの を

象徴 す

る。   「一切有 情は こ とご とく普賢の 心 (自性清 浄心 :浄 菩提心)を含せ り。 わ れ 自心を見 る に形

 

月輪の ご とし。 何が故に か月輪をもっ て喩とな す とな ら ば、 い わ く、 満 月円 明の体は、すなわち菩提 心 と相 類せ り。」 (宝鑰 p198 )

 

例 え ば

々 は

体験

るこ とも出来 ない 「熟 睡 々 に体験 して い る。 意 識 するこ と も

体 も明晰に把 握 する こ とも出来ない が、

にわ れ わ れの健 全、 健 康の源 基で ある。 私は これ を 「戯 論 寂滅」 の境地、 第七住心 厂

用 最 幽真」 の 、 「自性清 浄心」 で ある と

える。 我々 は、 気づ くこ とのない こ れ を内在 してい る。 そ れ を意識の ゼロ ポ イ ン トと して体 験 する こ とが 出 来る。

 

(第一段 階)

々 は

蓮華

上 に図

さ れる円 月 :

対 座 観 想 入 る

め に 「

数息観

・三

を修

。 この

意識

存在

のゼロ ポ イ       れ ん ン トの境 地におい て

輪の 「広

」 厂

斂観

する。 心は広 大 無辺、

空 を超 え うる。 自らの 悲

苦 楽

の生死 を超 時 空の 大い なる い の ちとして開

32

(17)

真 言密教 求道 者の 「一生の心一」 :「本不 生」 私解 (森ロ) するこ とがで きる。       が ち り ん

 

(第二段階 )この

如来

徳性

象徴

する 「

虚 空界)と瑜 伽 合一 する。 自我 を超 えて 「

性清 浄」 なる こ と 「虚 空

界」 な る月輪の

し と

せ よ。

 

想え、 月の明照なる

心も照

な り。 月の

清涼

な る如 く自心 も清 澄 な り。

白なる如 く自心 も

質 な り。 月の 清

なる

自心 も浄性

な り。 月の 円満せ る如 く

心 も満

な り。 月の

な る

心 も独

な り。               (cf.興教大 師26)

 

(第三 段 階)こ れ が 自 己の 「自性 清 浄 心」 で る 「一 生 の

一」 で ある。 我々 は観 法 を徹見 し、 如来と平等の い の ち に 開放さ れてある、 全 個の 一

己で あ り、 一

己 が

蘇 息安

自己 を

。 その 「一 生 の の 日常

際を生 きる の で ある。 あ や ま たず 「 一

 

」 を

見守

る は おの

来の

るい の ち を生 くる な り。

 

IV

3

大 師 色 即 是 空」 の

対 否定

を透 脱 空 即 是 色」 の

み ( 事無碍 )に、 聖化 さ れ た万 物の生成 変

する

限に豊か な生の

に注 目さ れ た。 世 界の 真 実は調 和 ある 一

宇宙

的生

命体

、 万

は 「

不生」、無 自性 と して 万

の 全て と

係して生成 変化 しつ つ 無 限に生

出 され 、 その あらゆる 「生の

実相 を展 開してい る。

 

こ の

世界

覚者

徹見

さ れ る世

、 「秘 密の

宇宙

・ 世 界」 で ある 。

真 言求

道者

は 「空即 是 色」 の

さ れ た

、 一

じ る

他 己との 世界真 実

羅万 象が現

に展 開 してい るこ とを見 す えつ つ 生 き る。 「 生の 心 一 」 を生 きる ことその ま まが

である。 こ の

来の 慈 悲 の加

きである と同

己 の

と しての る。 それが真言

求道

者の で あ りそれ を

じ生 きる と ころ に人生、 生死に 一貫 す

性 清 浄」 で ある 「一 生の心一」 の

蘇息安

が あ り人 間の

尊厳

が あ る。

 

道 者は

らの 「不 生」 の

確信

ちに、 現 実 世 界 :「非

持続

の絶

持 続」(泰 淳)で あ る世

・歴 史 ・

間と して

明晰

把捉

して 生 きな けれ ば な

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