[翻訳] クリストファー=ポルマン著 アイデンテ ィティと他者性への法の寄与 : われわれの生活の 法的物象化に関する若干の見解
その他のタイトル [Translation] Christopher Pollmann, La contribution du droit a l'identite et a
l'alterite Quelques idees sur la reification jurique de notre vie
著者 村田 尚紀
雑誌名 關西大學法學論集
巻 51
号 4
ページ 775‑790
発行年 2001‑10‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/00023554
る ︒
アイデン.ティティと他者性への法の寄与 訳者はしがき
ここにクリストファー 11 ポルマン「アイデンティティと他者性への法の寄与~われわれの生活の法的物象化に関する若干の見
解 ー ﹂
( C h r
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Q u e l q u e s
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n j u
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e vie)を訳出するにあたり︑まず拙訳の本誌掲載を快諾されたメッツ大学講師クリストファー
1 1 ポルマン氏に感謝の意を表す
ここでポルマン氏を簡単に紹介する︒氏は︑一九五九年ドイツ・ポンに生まれ︑ハンプルグ大学を経て︑フランス・モンプリエ
第一大学においてミシェル
1 1 ミ
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ユ (
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1991) ︑一九九四年より現職にある︒氏は︑とくに法哲学・政治権力論に関心
を寄せ︑現在は人権の発展とヨーロッパ統合を通じて進む個人的アイデンティティ︑集団的アイデンティティの法的形成︑政治的 ーわれわれの生活の法的物象化に関する若干の見解ーー' クリストファー
ポルマン著 1 1
アイデンティティと他者性への法の寄与
一 四
三
︵ 七
七 五
︶
村 田 尚 紀
︵ 訳
︶
1 社会の変化とアトム化に直面する安定性の必要 はじめに
︿ 目
次 ﹀
も な
い ︒
印するものなのか?
第五一巻四号
一九九九年︱二月一四日ー一八日︑ロベール
1 1 シューマン・ストラスプール大学で開かれた第三回日仏公法セミナー
﹁ 憲
法 の
変 容
1 第三・千年紀前夜の日仏における立憲主義﹂において氏が行った報告の原稿︵未公刊︶の全訳である︒
アイデンティティとは人間に内在する実体的なものなのか︑それともアイデンティティは人間を取り巻く諸々の関係が人間に刻
この問いに対して︑ポルマン氏は︑後者の立場をとり︑アイデンティティフィケーションとしてのアイデン
ティティの構築に法が果たす役割を考察しようとしている︒論考は︑氏の現在の関心を示すエスキスであって︑氏自身が断ってい
るように︑論争誘発を狙いとする暫定的な考察を多く含んでいる︒読者は︑この点に留意しておく必要がある︒たとえば︑アイデ
ンティティの概念規定の欠如︑アイデンティティがアイデンティティフィケーションとして存在するにすぎないとする︿人間
1 1
タ
な ま
プララサ﹀という視角の妥当性などがただちに問題となるであろう︒とはいえ︑生の社会関係が法的関係となる際に法的言説の果
たす能動的役割についての考察は︑慎重かつ積極的に受けとめるぺき点を含んでいると考え︑訳出に踏み切る次第である︒
なお︑訳出にあたり︑原文のイタリック部分は︑傍点で表すことにし︑必要に応じて原語を挿入することにした︒報告は︑報告
者自身が述べているように︑学際的な研究方法を要するテーマを扱っており︑訳者の理解の至らない点も多々ありうる︒したがっ
て︑拙訳には思わぬ誤りがあるかもしれないが︑その責任が訳者自身のものであって︑報告者ボルマン氏にないことは︑いうまで
アイデンティティの必要と欠如のますます大きくなる乖離
拙 訳
は ︑
機能に関する研究を進めている︒ 関法 一 四 四 ︵ 七 七 六 ︶
想像上のアイデンティティを作り出す法的ディスクール
︑ ︑
︑
個人の要塞線としてのアイデンティティ
周知のように︑集団的アイデンティティとりわけナショナルなアイデンティティは︑過去一 0 年ほどの間にますます重要になっ
てきた︒このことは︑本報告のテーマ設定の正当な理由となりうるが︑そのような政治的現実を超えて︑アイデンティティは︑人
間と社会にとって基本的な問題である︒﹁私は誰か?﹂という問いは︑学問的次元と同様に日常生活の次元においてもわれわれの
ところが︑アイデンティティの形成において法が果たす役割はほとんど研究されていないようである︒それが学際的な研究方法
によってはじめて可能になることはたしかである︒このような視角から︑本報告は︑アイデンティティが個人的・集団的力の精神
的とりわけ法的な構築物であり︑他者性はその裏返しであり︑したがってアイデンティティと不可分のものであることを示そうと
するものである︒われわれは︑まず︑アイデンティティが物質的に存在するのではなく︑アイデンティフィケーションという精神
的な営みとしてのみ存在することをみる(‑)︒そのうえで︑法的言説が想像の産物としてのアイデンティティをどの程度構築す
るのかということを検証することができるであろう︵二︶︒
この領域はほとんど開拓されていないので︑ここでは暫定的な考察と命題を提示することになる︒これは︑なにより︑議論と意
見交換を誘発しようとするものである︒
アイデンティティと他者性への法の寄与 心を奪うものである︒ 3 2 ー 2
は じ め に
ますます際だつ個人および集団の安定性の欠如
一 四
五
他者の境界画定によるアイデンティフィケーションーー吐太の二項対立的・ニ元的傾向
アイデンティティの内容とは権力である
︵ 七
七 七
︶
第五一巻四号 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 必 要 と 欠 如 の ま す ま す 大 き く な る 乖 離
社会の変化とアトム化とに直面する安定性の必要
け︑契約上の義務を履行し欠陥や損害の責任を負わなければならないからである︒
︵ 七
七 八
︶
個人的・集団的アイデンティティが必要であることは︑明白なことに属するようにみえる︒語源│ー﹁同こを意味するラテン
語 の
i d
e m ーー'が示すように︑アイデンティティの必要とは︑実際︑安定性・継続性の必要であり︑変化してはならないというこ
( 1 )
とである︒この必要は︑社会が変化の中にあってその人的構成要素が解体しているだけに︑いっそう強いと考えられる
( 1
) ︒
し
かしながら︑物質的には︑安定性も継続性も︑よってアイデンティティもまたない︒それは︑個人と集団の変化が迅速なだけに︑
ますますアトム化する世界において︑個人と集団の根本的な可変性・流動性 I しかもつねに顕著であるーは︑実際的・心理
的な理由から耐えがたいものであることが明らかになる︒
い相手のアイデンティティを要求する商品交換
資本主義社会における社会諸関係とくに商品交換は︑一定の不変性すなわち相手のアイデンティティを必要とする︒部屋を貸し
たり︑押し入り強盗に警戒したり︑結婚したりする人にとっては︑契約相手が﹁同こであることが重要であるが︑それはとりわ
何世紀にもわたる商品交換の拡大は︑相補的な二つの仕方でアイデンティティの必要性を高めている︒一方で︑あらゆる交換が
↓化を含みながらも~一定の安定性を前提している。さもなければ、交換当事者の間に不均衡が生じるからである。ただし、
交換が近親者や知り合い︵家族や部族︑村︶のなかで道徳的義務に基づいて行われる場合︑安定性は必ずしも個人的な安定性では
なく︑むしろ集団全体にかかわるものである︒たとえば︑提供されたサービスに対して受益者の卑属が支払うことがありうる︒し ー いっそうのことである
( 2
) ︒ 関法
一 四
六
一 四 七
たがって︑他方で︑そしてなかんずく交換の商業的性格こそが︑個々の場合における主体のアイデンティティを要求するのである︒
実際︑商業取引は︑一般に短期間に行われ︑集団的な義務とくに道義的な義務を伴わないものである︒周知のように︑商業取引は︑
( 2 )
個人の自由に基づく︒まさに自由な個人として︑すなわち同じく自由な他人から孤立した個人として︑﹁近代﹂人は︑法的関係の
網を通して自らの生活を組織するが︑法的関係の網は個人のアイデンティティをその相手のアイデンティティと同じように想定し︑
創造するのである︒
①強い孤独に脅かされる人
以上に素描した個人化
( i n d i v i d u a l i s a g
n )
は︑人間が︑これまでの多くの社会と違って︑他者とのほとんど有機的な関係をだ
んだん享受しなくなっていることを意味している︒すなわち︑自らの自然環境や同時代人︑さらに過去および未来の世代との有機
( 3 )
的な結びつきをである︒この実存的な孤独のなかで生きること︑つまり不断の変化にさらされることは︑耐えがたい不安定性をも
( 4 )
それは︑個人がパーフォーマンスと生産性という要求にたえずせきたてられているだけに︑いっそう強い脅迫となる︒実際︑生
きている人の特徴の一っは、明らかに、苦痛~分自身や他人の苦しみーにわずかしか耐えられないということである。しか
るに︑常により高い結果を出せという命令は︑個人と集団に対してたえずより大きな忍耐力を要求する︒
環境と自らの過敏症とに脅かされている個人と集団は︑安定を強く願う︒しかし︑この欲求は実際に満たされることがない︒
ますます際だつ個人および集団の安定性の欠如
人 間
社 会
が ︑
っして︵完全には︶安定しておらず︑恒常的に発展しているということは自明のことといってよいが︑そのこと I t
はめったに観察されない︒さらに︱つの社会の内部において︑振る舞いや態度︑生活感情が場所や集団を超えて変わらないという
こともけっしてない︒﹁大きな文明﹂でさえ︑凝集力をもったことなどけっしてない︒それは︑通常あとから付与されたものであ 2 た
ら す
︒
アイデンティティと他者性への法の寄与
︵ 七 七 九
︶
( 7 ) 想 像 上 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ を 作 り 出 す 法 的 デ ィ ス ク ー ル
ティないし架空のアイデンティティの中にある︒ アイデンティティは︑必要であると同時に実現不可能なものであることが明らかになり︑アイデンティティを求める欲求が︑病
︑ ︑
︑ ︑
理的なものであるのと同じくらい生理的なものであることが明らかになった︒このディレンマの答えは︑想像上のアイデンティ
︑
︑
︑
︑
︑
アイデンティティの感情ないし想像上のアイデンティティに通じるアイデンティフィケーションの努力があるにすぎない︒アイ
デンティフィケーションが行われると︑アイデンティティが架空の構築物として現れ︑それによって人間は︑人間相互の区別とそ
の結果生じる孤立化︑人間の周囲の技術的・社会的変化を構成し︑それに耐えようとするのである
( 1
) ︒
個人も集団も安定性を欠き︑同質性を欠くのであるから︑このアイデンティティは内的な基盤を有しない︒それは︑他者との境
( 8 )
界線の画定によってはじめて創造されるものである︒アイデンティティは︑まずもって消極的なものであり︑活動が抑圧されてい
る間の抑圧された感情のはけ口としての一定の人間カテゴリーの拒否をしばしば伴う︒したがって︑他者性は︑対立物として知覚
され︑アイデンティティの投影機 1 標的または絆または鏡 I として道具化される︒この境界を画定するのが法であろう
( 2
) ︒
アイデンティティは︑異なる個人または集団との関係においてはじめて存在理由をもつ︒アイデンティティは︑自然人や一定の
法人の精神的な顔ないし形であるようにみえる︒アイデンティティの内容は︑法によって構成される権力のようにみえる
( 3
) ︒
語源的意味におけるアイデンティティというものは存在せず︑アイデンティフィケーションは必然的に心理的な他者との境界画
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
定によってはじめて可能であるからこそ︑通常のオリジナルな意味のアイデンティティは︑想像上存在するにすぎないことが肯定 ティも存在しないのである︒
第五一巻四号
︵ 七 八 0 )
( 5 )
る︒個人についても同じことである︒すなわち︑われわれの意識がわれわれをだまし︑自らの一貫性と恒常性を信じ込ませるので
( 6 )
ある︒実際には︑自我は存在しない︒自我は心の投影に過ぎない︒したがって︑個人のアイデンティティも集団のアイデンティ 関法
一 四
八
人間は︑自らをコントロールし︑生きる時間をはっきりと定め領有するために︑そして存在を自らのものとするために︑個人お
( 9 )
よび集団としての安定を強く望む︒この願望は︑とりわけ個人の生の最たるものすなわち肉体の排除としてあらわれる︒つまり︑
肉体は︑多くの人において︑法からと同様に個人の意識から︑隠されるのである︒実際︑法は︑物と人
( p e r s o n n e s )
しか認識し
( 1 0 )
ない︒生きた肉体は︑物でも人でもない︒アイデンティティ感情によって︑個人は︑自らの孤立化と周囲の変化に耐えることがで
( 1 1 )
きるだけでなく︑パフォーマンスの命令に抵抗することができるのである︒
ハ ン
ス
1 1 ケルゼンは︑生活のプロセスはしばしばきわめて抽象的なものとして知覚され認識されるから︑物象化がここで問題と
なるということをすでに指摘していた︒このような関係の物への転化︑機能の実体への転化は︑名詞化された言語のおかげで生じ
( 1 2 )
るのである︒その理由は︑おそらく︑名詞が︑とりわけ法によって増大している社会規制・制御を促進するということである︒実
( 1 3 )
際︑法的言語は︑名詞に富んでいる︵さらにそれは︑権力の掌握を意味する他の多くの要素を含んでいる︶︒そのことは︑なによ
( 1 4 )
りも︑数え︑測り︑比較することを可能にし︑現代生活において一般に商品という形態をとるますます多くの物質的客体が存在す
ることに対応する。法の領域を超えて、ドイツ語~それは概念的でそれゆえにとくに法に適しているー、より広く印欧語は、
行為を反映する動詞によって特徴付けられる部族語よりもいっそう名詞化されている︒
物象化は法的言説に逼在し︑それを通じて現代生活︑現代社会に浸透する︒たとえば︑個人の国籍は︑個人の本質的な特質の一
つとして現れる︒ヨーロッパでは︑たいていの人が︑実際に︑自らの国籍を自らの存在の一部と考え︑﹁あなたは誰ですか﹂とい
( 1 5 )
う問いに対して︑自然の情としてフランス人とかドイツ人︑イタリア人⁝⁝と言って答えるのである︒性についても同様である︒
こちらも︑拘束力が強いが︑選択の余地がきわめて限られているため︑国籍よりもいっそう拘束力が強い︒性を自然なものと感じ
アイデンティティと他者性への法の寄与
︑ ︑
︑
1 個人の要塞線としてのアイデンティティ
一 四
九
できる︒以下︑われわれは︑アイデンティフィケーションおよびアイデンティティを創造上の構築物と考える︒
︵ 七
八 一
︶
化 す る も の で あ る ︒ 第五一巻四号
︵ 七
八 二
︶
ることは︑性の社会的・法的属性を無視するものであり︑女性的だとか男性的だとかみなされる振る舞いを自然なものとするもの
国家や共和制︑フランス︑ドイツのような公法の基本概念は︑多様な社会関係とその発展を静的なそしてさらに法人格を備えた
姿に凝固する︒法律はといえば︑一般意思の表明として仕立て上げられるのであるが︑この一般意思は︵明らかに︑その存在は︑
探求されたことがないし︑いずれにしても証明されたことがないにもかかわらず︶︑何らかの一貫性と持続性をもつかのようであ
る︒すでに︑意思 1 個人意思ーーという観念が︑意識的欲動および無意識的欲動︑感情と思想の複雑な混合物を凝縮させ︑物象
契約の諸観念~たとえば、買い、売り、婚姻ー|は‘過程すなわち生活の表出を客体すなわち物に変換し、とくに発展の予測
できない撹乱的な側面を抑制することによって︑発展をよりよく制御することを可能にするのである︒かくして︑買う
( a c h e t e r )
または売る
( v e n d r e )
という行為は︑買い
( a c h a t )
と 売 り
( v e n t e )
になる︒さらにいえば︑誰かとともに生活する
( v i v r e )
1
したがって︑発展するーという行為は︑婚姻
( m a r r i a g e )
に変換される︒︵ドイツ語は︑結婚するという行為に対応する
, , H e i r a t
"
と結婚生活に対応する
, , E b e "
とを区別するから︑後者は︑フランスの婚姻観念よりもずっと物象化を突き詰めている︒︶
より広く︑﹁自由﹂や﹁平等﹂のような抽象概念が︑ぼんやりとした可変的な精神的資質や態度を概念化し︑統一し︑現在化し︑
制御可能なものにする︒しかし︑法的言説が︑通常言語によって開始された作業をフォローするにすぎないことは明らかである︒
例 と
し て
︑ ﹁
川 ( f l e u v e )
﹂というものだけを考えてみよう︒それは︑不安定で不調和な実体に基づいて想像上の客体を構築するが︑
その実体においては︑水源の水と河口の水の間にほとんど一致はないし︑途中の景色の間にもほとんど一致はないのである︒
生きた素材︑それゆえに発展し︑変化し︑不調和で︑そのうえそのもの自体を捉えることができない素材に基づいて︑言語と法
的言説は︑客体の世界をつくりあげる︒概念構造によって秩序立てられ︑階層化されて︑客体世界は︑生活そのものよりも容易に︑
把握され︑操作され︑管理され︑制御される︒とくに︑法は︑しばしば調停不能な﹁物質的﹂生活の敵対関係や対立を︑言語的な で
あ る
︒
関法
一 五
〇
他者との関係における自己および集団の境界画定は︑他者を低く見積もることによって︵たとえば国民感情を通じて︶自己や集
団を評価することを明確に狙いとしているかぎりにおいて︑二元論的性格を有する︒この二元論は︑人や状況︑客体ならびに以上
の構成要素を二元的なカテゴリーに分ける法の二項対立的構造を想起させる︵法の二元的カテゴリーとは︑合法│違法︑有罪ー無
罪︑承認できる修正と承認できない修正︑権限ある審級と権限のない審級︑直接普通選挙と間接普通選挙︑内閣提出法案と議貝提
出法案︑国民投票による憲法改正と議会による憲法改正などである︶︒とりわけ不正と公正ーより広く権利と義務 1 とは︑区
別され、全面的に主役に割り振られる。これは、さらに、西欧文化の二元論的性格に対応するものである(文明ー野蛮、科学—イ
デオロギー︑個人ー共同体︑男│女⁝⁝︶︒
しかしながら︑﹁物質的﹂生活において︑現実の法的構成を考慮しなければ︑﹁不正と公正とは︑誰しもがそのどちらかでしかな
( 2 0 )
くなるほどに明確に一刀両断に区別できるものではない﹂︒たとえば︑加害者と被害者の区別は︑経済的・心理的その他の要素を
( 2 1 )
考慮しない訳にはいかない︒そこで︑法は︑考慮すべき要素を制限することを明確に目的とする︒
この点︑フランス第五共和制憲法における憲法上の権利および義務に関して︑国際的取り極めの権釦r│実際にはきわめて限ら
( 2 3 )
︵
2 4 )
れているーーや、留保されている法律発議権~ロビーイングを無視するー、憲法院の判決に従う義務ーただし憲法院の解釈
は変わることがあるー︑対外的な国家主権とその対内的な不可分性が挙げうるが︑これらは多かれ少なかれ︑現実的であると同
時に加工されたものである︒ 2
( 1 6 )
︵
1 7
)
矛盾つまり取り扱い可能で解決可能な矛盾に変換する︒複雑な社会においては︑実際︑解決できる対立が︑解決できない紛争に
( 1 8 )
とって代わるべきなのである︒
( 1 9 )
他者の境界画定によるアイデンティフィケーション~の二項対立的・ニ元的傾向
アイデンティティに関する手続と法的操作の類似は︑まさしく法がアイデンティティの確定に貢献すると考えさせる︒すなわち︑
アイデンティティと他者性への法の寄与
一 五
︵ 七
八 三
︶
アイデンティティの内容とは権力である
( 2 7 ) ( 2 8 )
語源が証明するように︑﹁法人格は︑人間を法的生活の舞台に登場させるために︑ローマ的作法の内部で発想された観念である﹂︒
( 2 9 )
人格とは︑つまり︑権利・義務の投錨点を創設する想像上の構築物である︒いわゆる自然人は個人の法的表現であり︑﹁自然
( p h y s i q u e )
﹂という形容詞は︑︵自然人
( n a t e r l i c h e p e m o n )
というドイツの観念における自然
( n a t i i r l i c h )
という同義語と同様
( 3 0 )
に︶社会的な構築物が︑実は問題なのだということを忘れさせる︒そこで︑アイデンティティは︑個人または集団が保持するかま
たは耐え忍ぶ権力を場合によって組織・合理化・正当化・隠蔽する法人格に対応する自然の構造を︑構築するようにみえる︒
ここで問題となる権力を詳しく説明する前に︑権利と権力の関係を詳しく述べよう︒権利を行使するということは︑義務が誰か
に対する関係においてのみ存在するのと同じように︑必然的に他者に関係する︒したがって︑法的地位というものは︑行使する権
力または我慢しなければならない権力が存在することを裏書する︒ところで︑権力というものは︑能動的であろうと受動的であろ
( 3 1 )
うと︑結局︑正当であるかぎりにおいてのみ︑我慢できるものであろう︒個人主義的な資本主義社会において︑正当性は︑法
( d r o i t )
や権利
( d r o i t s )
という形態をとり︑さらにアイデンティティという形態をとる︒ハインリヒ
1 1 フ
ォ ン
1 1 クライストが述
( 3 2 )
べ た よ う に ︑ ﹁ 正 し く
( d r o i t )
あ れ ︑ そ し て 誰 も 恐 れ る な ﹂ ︒
それでは︑いかなる権力なのか?法人格が含みあるいは組織する権力は︑二つのカテゴリーの管轄にある︒すなわち︑権力には︑
私的な権力と公的な権力があるのである︒私法が権利や義務について述べるとき︑権力の規模は︑多かれ少なかれ明確であること
がしばしばであり︑ときに書かれていないことや隠されていることがある︒権力は︑契約において︑かなり明確にあらわれる︒契
( 3 3 )
約当事者は︑﹁何かを与えたり︑何かをなしたり︑なさなかったりする﹂義務を相互に負うのである︒たしかに義務のほうが権利 3 関法
第五一巻四号
( 2 5 )
国・職業・性などの帰属を明らかにすることを通じて︑さらにそれだけでなく他者に対するさまざまな権利を持つ人の法的地位に
( 2 6 )
よって︑法はアイデンティティの確定に貢献するのである︒それによって︑われわれは︑まっすぐ権力観念に導かれる︒
一 五
︵ 七
八 四
︶
* * * よりも言及されやすいが︑両者は︑直接に結びついたものとしてあらわれる︒なかには債務者に対する債権者のあれこれの権利に
( 3 4 )
明確に言及している条文もあるのである︒
所有権に関しては︑権力は︑黙示的であったり隠されていたりするにすぎない︒実際︑所有権は︑物に対する力であるかのよう
( 3 5 )
に表現される︒しかるに物に対する力ならば︑法的保障は必要ないであろう︒意のままに物を処分する権力は︑排他的にすなわち
( 3 6 )
他者を排除して行使されるかぎりで保護を必要とするのである︒その語源が示すように︑所有権は︑結局︑他者に対する権利であ
( 3 7 )
ることが明らかになる︒若干の条文がそのことを明確に示しているのである︒
公的領域において人が所有しあるいは支配を受ける権力には︑二種類ある︒第一に︑国家および他の公法人に対する権利および
義務︑すなわち基本権︑兵役
( s e r v i c e n a t i o n a l )
を履行する義務︵まもなく廃止される︶︑行政客体に対する公権力の特権などで
ある︒第二に︑市民の基本権および政治的権利 1 したがって選挙や選挙の自由が含まれるのであるがーは︑隠然としてではあ
れ︑他の市民に消極的なインパクトを与える︒たとえば︑必然的に限られたメディア市場においては︑新聞を創刊したりテレビ局
を開設したりする自由は︑実は︑それだけ他の市民が同じことをする可能性を制限するのである︒選挙の際に立候補したり候補者
リストを提出したりすることによって選挙に参加することは︑他の候補者が勝つチャンスを減らすことである︒この考察は︑けっ
して権利や自由の範囲を明らかにすることを狙いにするものではない︒それは︑単に︑人権が問題になる場合でも︑権利は︑つね
に他者に対する権力を含むということを示そうとするものなのである︒
自然人同様︑法人も権力と義務が集約されたものである︒たとえば国家は︑その排他的かつ絶対的な権力を行使する領土と国民
の画定によって︑相互に区別される︒さらに諸国家は︑国家間における支配従属関係に入る︒
人間は︑相互の権利義務を有することによって人になる︒﹁人は︑自らの権利に値する︒人を人たらしめるものは︑同時にその
アイデンティティと他者性への法の寄与
一 五 ︱ ︱
︱
︵ 七
八 五
︶
第五一巻四号
( 3 8 )
人の権利がその人に与えるものである﹂︒この土台に立脚して︑次の仮説を出すことができる︒すなわち︑人とその人の個人的・
集団的アイデンティティを構築することによって︑法は︑人のナルシシスト的な願望と人間の権力欲を刺激し︑方向づけ︑枠づけ︑
( 3 9 )
隠蔽することを目的とする︒多くの事実を無視することによって︑法的言説は︑とくに個人や団体の経済活動をあらゆる共同体的
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な拘束から解放しようとするものである︒したがって︑法的言説は︑権力を行使する人のためらいを和らげ︑権力に従属する人の
抵抗する理由をやりこめることによって︑権力の位置を創出し︑調整しようとするのである︒
アイデンティティは︑世界におけるわれわれの位置︑個人としてあるいは集団として他と異なるわれわれの存在の意識であるよ
うにみえる︒この位置と存在は︑他者との境界画定︑自己の確認︑権利・義務によって︑創造され︑生きられ︑あらわれる︒アイ
デンティティは︑われわれの孤独の要塞であり︑法的に表現されたわれわれという存在の実体なのか?
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