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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

「朝鮮通信使」をめぐる戦後日本市民社会の歴史実 践:在日朝鮮人歴史家・辛基秀(1931-2002)の活動 を中心に

山口, 祐香

http://hdl.handle.net/2324/4475218

出版情報:Kyushu University, 2020, 博士(学術), 課程博士 バージョン:

権利関係:

(2)

「朝鮮通信使」をめぐる戦後日本市民社会の歴史実践

:在日朝鮮人歴史家・辛基秀(1931-2002)の活動を中心に

九州大学大学院

地球社会統合科学府地球社会統合科学専攻 山口祐香

令和3年 2 月

(3)

1

目次

序章 ... 3

1.本研究の目的 ... 3

2.先行研究における本研究の位置づけ ... 5

(1)歴史実践の概念について ... 5

(2)歴史学における通信使研究の萌芽 ... 7

(3)通信使の歴史を活用した関連文化事業に関する研究 ... 8

(4)研究の意義―戦後日本社会における通信使の歴史実践の位置づけ ... 13

(5)研究課題および研究方法 ... 21

3.構成 ... 22

第 1 章 「通信使」への道程 社会運動から歴史研究へ ... 24

1.社会運動家・辛基秀 ... 24

(1)「朝鮮人」の自覚 ... 24

(2)学生運動の青春と挫折 ... 26

(3)朝鮮総連での葛藤 ... 30

2.「通信使」への関心 ... 33

(1)在日朝鮮人歴史家たちと 1970 年代日本社会 ... 33

(2)「江戸時代の朝鮮通信使」へのまなざし ... 36

3.『季刊三千里』にみる通信使の語り... 39

第 2 章 映画『江戸時代の朝鮮通信使』の制作と上映運動 ... 44

1.歴史を映画化する ... 44

2.映画制作過程 ... 46

3.上映運動の展開 ... 50

4.在日朝鮮人歴史家たちの訪韓とアイデンティティ ... 55

(1)訪韓の背景... 55

(2)「韓国」との距離 ... 58

第3章 「交隣」への模索―「朝鮮通信使の道をたどる旅の会」の歴史実践 ... 61

1.「朝鮮通信使の道をたどる旅の会」について ... 61

(1)歴史実践としての「旅」 ... 61

(4)

2

(2)「朝鮮通信使の道をたどる旅の会」の発足経緯 ... 62

(3)実施概要 ... 64

2.参加者たちの旅行記 ... 66

3.「『交隣』の始まり」 ... 86

第4章 歴史の「陰」を射つ―関西の市民運動と連帯する辛基秀の歴史実践 ... 89

1.「大阪築城 400 年まつり」への抵抗 ... 89

(1)「官製のまつり」との闘い ... 89

(2)京都耳塚法要の試み ... 96

2.「青丘文化ホール」の活動 ... 100

(1)在日朝鮮人の私設ライブラリ及びミュージアムの発生 ... 100

(2)辛基秀と「青丘文化ホール」 ... 104

(3)在日の博物館を目指して ... 106

第5章 「日韓交流」へ向かう通信使―ローカルな歴史実践の拡大の中で ... 112

1.地域における通信使顕彰事業の拡大 ... 112

(1) 2つの「芳洲会」 ... 113

(2)「盧泰愚ショック」 ... 117

2.拡大する通信使の歴史展示 ... 120

(1)政府主催の交流事業・学術界の動き ... 120

(2)地方自治体における通信使への着目と実践 ... 122

3.「縁地連絡協議会」の設立 ... 126

4.「本当に訴えたかったこと」 ... 132

終章 ... 140

参考文献一覧 ... 149

(5)

3

序章

1.本研究の目的

本研究は、朝鮮通信使(以下、通信使)の歴史をめぐり、1970 年代から 1990 年代にかけ て活発化した市民による歴史実践を取り上げ、その軌跡を意義付けようとするものである。

特に、それらの歴史実践の起点として、通信使を題材とするドキュメンタリー映画や多くの 著作を発表し、多くの一般市民に向けてその歴史的意義を発信した在日朝鮮人1歴史家・辛 基秀(シン・ギス/1931 2002)の活動に着目し、それまでの日朝関係史に対する否定的 なイメージを覆す「善隣友好の使者」としての通信使像が広く発信されると共に、多くの 人々を巻き込みながら「平和」や「日韓友好」を標榜するローカルな歴史実践へと発展・拡 大させていった過程を実証する。

通信使とは、近世の日朝を往来した外交・文化使節団として一般的に知られる歴史である。

近年では、日本や韓国の各自治体や市民団体により、観光客誘致や国際交流を目的とする通 信使の歴史顕彰事業や関連文化イベントが活発に行われている。例えば、毎年 8 月に開催 される⾧崎県対馬市の「アリラン祭り」や、毎年 5 月に開催される韓国・釜山市の「朝鮮通 信使祭り」では、華やかな衣装を身につけた日韓の参加者による通信使の再現行列を中心に、

様々な日韓文化交流イベントが開催される。これらは、それぞれの地域の観光の目玉である と同時に、今日を代表する日韓交流事業の1つとなっている。

特に、この通信使の関連史料群を UNESCO の遺産保護事業の一つである「世界の記憶」

に登録申請する共同事業が日韓の民間団体主導で進められ、2017 年に「朝鮮通信使に関す る記録―十七世紀~十九世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」という表題で登録が 実現したことは、通信使の歴史が日韓間の友好交流を象徴する歴史として共有されている

1 本研究における在日朝鮮人とは、日本の韓国併合を背景に渡日した朝鮮人およびその子 孫たちを指し、韓国・朝鮮籍、日本籍、その他の国籍に関わらず「在日朝鮮人」として表 記する。呼称としては「在日朝鮮人」「在日韓国・朝鮮人」「在日コリアン」など様々なも のが一般に使われているが、本研究で扱う在日朝鮮人歴史家達はアイデンティティ上の理 由から自身を「在日朝鮮人」と称していたことを考慮し、引用文中の表記を除いて、論文 中では「在日朝鮮人」の呼称を統一して用いる。また、在日朝鮮人を世代ごとに表現する 際には、「在日~世」と表記する。更に、朝鮮半島全体を地域として指す場合は「朝鮮」

を使用し、朝鮮由来の言語や文化は「朝鮮語」「朝鮮文化」などと表記する。また、1948 年に成立した「大韓民国」および「朝鮮民主主義人民共和国」については、それぞれ「韓 国」「北朝鮮」という略称を用いる。

(6)

4

ことを示す上で意義深い出来事であった。直近の日韓関係が 2018 年の徴用工判決を境に急 速に悪化する中で、同年 10 月 30 日に「対馬宣言」という声明も発表されている2。この宣 言は、深刻な両国関係の悪化を憂慮した⾧崎県対馬市と釜山市の関係者によって企図され、

政治的対立を克服し、通信使の平和と友好精神を継承しようという目的で発表された。ここ では、通信使を両国の国交が断絶されていた時代に交流を通じ関係回復に貢献した歴史と して記憶し、民間レベルでの交流と協力の重要性の見直しを呼び掛けている。今や通信使の 歴史は単なる日朝関係史上の出来事という範疇を超え、平和的かつ友好的な日韓関係や文 化交流を象徴する歴史として広く認知されるようになったと言える。

このように、専門の研究者が行う歴史研究の対象としてのみならず、地方自治体や民間団 体といった非アカデミアの人々が通信使の歴史顕彰に携わっている現象については、後述 するように、歴史学者の保苅実が提唱した「歴史実践」という枠組みに位置づけることが出 来る。

しかしながら、上記のような現代における通信使の歴史実践が近年活発に行われている 現象については、当事者たちの記録や回顧録に加え、ここ最近、いくつかの学術研究が著さ れるようになってきたものの、大部分は 1990 年代以降の通信使を活用した対馬での観光振 興策を中心に、あくまで「日韓交流」の文脈から通信使の歴史顕彰事業の意義を検討するも のに留まっており、歴史的にも掘り下げた体系的な研究は未だなされていない。元来アカデ ミア以外ではほとんど知られることのなかった通信使の歴史に一般の人々が関心を寄せる ようになった契機は、1970 年代頃にまでさかのぼることが出来る。その際に重要な役割を 果たしたのが、日朝関係史に関する独自の研究活動を展開していた在日朝鮮人歴史家たち であった。とりわけ、本研究の主要アクターである辛基秀は、初めて通信使の歴史を映像化 したドキュメンタリー映画『江戸の朝鮮通信使』を 1979 年に発表し、通信使の歴史を広く 一般に知らしめると共に、各地の通信使に関わる史料の発見や対馬市における通信使行列 再現などの様々な顕彰事業が行われる直接的な契機となった。辛基秀自身も通信使に関す る様々な論考を著し、通信使関連の書画や民芸品を収集する日本有数のコレクターでもあ った。彼らの影響を受けた同時代の市民運動や地方自治体の関係者たちによって通信使を 題材とする様々な実践が連鎖していき、1980 年代後半以降韓国側のアクターとの直接交流 が可能になって初めて「日韓交流」事業としての通信使の歴史実践が成立していくのである。

したがって、以下では市民による通信使の歴史実践が活発化した 1970 年代から 1980 年代 を中心に、主要なアクターとなる在日朝鮮人歴史家たちの視点を軸にしながら通信使をめ ぐる様々なアクターたちの活動を検討することが不可欠となる

2 「“韓日葛藤を乗り越えよう”…30 日民間人の次元で‘対馬宣言’」『連合ニュース』、2019 年 10 月 24 日

(7)

5 2.先行研究における本研究の位置づけ

(1)歴史実践の概念について

本研究の狙いを明らかにする前に、まずは本論の重要概念として用いている「歴史実践」

について説明しておきたい。

「歴史実践」(historical practice)とは、歴史学者の保苅実が「日常的実践において歴史 とかかわりを持つ諸行為」 として提示した概念のことである3。ここで挙げられる諸行為と は、歴史小説を読む、映画やドラマを見る、博物館に行く、学生が歴史の授業に出る、会話 の中で過去の出来事について振り返るなど、人々のあらゆる日常の営みが対象となる。すな わち「歴史」を専門家が研究する範疇のみに留めておくのではなく、あらゆる人が過去を歴 史として想起し、語り、記述し、用い、楽しむ営み全般を実践行為として取り上げたもので ある。

オーストラリアの先住民アボリジニのオーラル・ヒストリーを研究する過程で保苅は、

1966 年にアメリカのケネディ大統領が村を訪れたという「歴史」(実際には訪問の事実はな い)を語る人々や、洪水を引き起こす大蛇や大地の精霊が語る「歴史」を物語る人々と出会 うこととなる。その際に保苅は、近代歴史学の範疇からは「間違った歴史」として捨象され てしまう彼らの語りに着目し、アカデミックな訓練を受けた専門的な歴史研究者が過去の 事実の真偽を確定し、歴史を記述していく基準そのものを問い直しながら、アボリジニたち を一人の「歴史家」として受け止めることで彼らの「声」に本気で耳を傾ける方法を採用し た。歴史実践を「本来の目的や、もののついでや、方便や、偶然や、義務なんかが複雑に絡 み合って行われている日常的実践の中で、身体的、精神的、霊的、場所的、物的、道具的に 過去とかかわる=結びつく行為」4と定義するように、保苅は、全ての人が日常の諸行為を 通じて過去と関わりを持ちながら「歴史している(doing history)」主体であることをクロ ーズアップしてみせたのである。

その後 2004 年に保苅自身は病で死去するものの、彼の提唱した歴史実践の概念は大きな 反響を呼んだ。歴史学研究会は、アカデミアに留まらず社会の中での歴史の在り方が問い直 される現代における重要概念であるとして歴史実践を取り上げ、「歴史に携わるすべての 人々が日々取り組む史料・方法・叙述から研究、教育、社会にかかわる一連のこと」として 定義し、歴史実践の総体的な検証を試みている5

また、歴史実践の枠組みは歴史学(特にオーラル・ヒストリー研究)や社会学の具体的な 成果の中でも実際に用いられている。具体例としては、原爆被害の歴史を振り返る「被爆 70

3 保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史 実践』、岩波書店、2018 年、22頁。

4 保苅実、同上。

5 歴史学研究会編『第 4 次現代歴史学の成果と課題3 歴史実践の現在』、績文堂出版、

2017 年、4頁。

(8)

6

年のつどい」に関わる主宰者たちの歴史実践を取り上げた八木良広の研究6や、阪神淡路大 震災を記憶し祈念する神戸市民たちの取り組みを「『想像し続ける』歴史実践」として位置 付け、時間と空間を超えた他者との出会い直しが行われる様相を明らかにした稲津秀樹の 研究7、戦時中の日本軍による中国・海南島侵略時の被害者たちの証言を調査する行為を、

研究者による「歴史研究」ではなく一つの「歴史実践」として捉え直し、彼らの証言を単な る過去の事実に関する知識や情報として聞くのではなく、「過去の出来事が現在にもたらさ れる」正当な手続きとして受け止める必要があると述べた斎藤日出治の報告8などが挙げら れる。ここでは、過去をめぐる人々の様々な営みや歴史の語りを捉える枠組みとして歴史実 践を用いた検討が行われている訳である。また、社会運動史研究者の大野光明は、「一つの デモや集会のなかに、一枚のビラのなかに、歴史は息づいている」という表現を用いながら、

社会運動に関わる様々な人々が現在と対比し意味づけるために過去の出来事を呼び戻し、

参照し、また歴史を生産し、流通させる歴史実践を行っていると主張している。その上で大 野は、従来の運動を行う<主体、獲得目標、戦略・主体、結果>に着眼点を置いた研究では 見えてこなかった、幅広い人々の経験や運動のダイナミズムを生き生きと描く社会運動史 研究の可能性に言及している9。このように、歴史実践とは、その時代、その状況にあって

<いま、ここ>を生きる様々な人々が、過去の出来事や人物たちと繋がりながら自らを取り 巻く現状を意義付け、望ましい未来に向けた行動を選択していくための営みであると定義 することが出来るだろう。

本研究が射程とする通信使の歴史顕彰事業もまた、歴史学を専門としない多くの一般市 民によって担われ、日韓を象徴する友好的な歴史としてのイメージを醸成してきた。歴史実 践の枠組みで見るとき、こうした人々もまた、専門・非専門の枠を超えた「歴史している」

主体であり、彼らが通信使の歴史について関連史料の収集や研究を行う、書籍や映像作品を つくる/目にする、関連イベントを企画・運営する/参加するなどといった全ての諸活動も また歴史実践の事例として位置づけることが出来る。したがって、本研究は、通信使の歴史

6 八木良広「原爆被害をめぐる「私たち」の歴史実践―保苅実の問題提起への反応とし て」日本オーラル・ヒストリー学会編『日本オーラル・ヒストリー研究』第 13 号、2017 年、19 26頁。

7 稲津秀樹「阪神・淡路大震災を「想像し続ける」歴史実践のために―「1995 年生まれ」

の空間性と帰属感覚」塩原良和・稲津秀樹編『社会的分断を越境する』、青弓社、2017 年、250 271頁。

8 斉藤日出治「歴史とは何か―<歴史研究>から<歴史実践>へ」『大阪産業大学経済論 集』第 21 巻第 1 号、2019 年、71 78頁。

9 大野光明「運動のダイナミズムをとらえる歴史実践―社会運動史研究の位置と方法」大 野光明・小杉亮子・松井隆志編『社会運動史研究Ⅱ 運動史とは何か』、新曜社、2019 年、47 64頁。

(9)

7

そのものではなく、通信使の歴史を通じて人々が過去をどのようにして認識し、受け止め、

顕彰し、利用しているのかといった実践の様相に焦点を当てて記述していくことを主眼と している。

(2)歴史学における通信使研究の萌芽

言うまでもなく、市民による歴史実践に先行して、通信使に関しては歴史研究の領域で膨 大な成果が既に挙げられてきた。「通信使」とは、室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮国 王からの国書・進物を携えて来日した外交使節を指す総称である10。とりわけ、文禄・慶⾧

の役以来に一時途絶えた日朝の国交が回復するに際し、徳川家康からの国書に対する回答 と戦乱中に連れ去られた朝鮮人捕虜の刷還(連れ帰る)を目的として 1607 年から 3 回派遣 された「回答兼刷還使」と、その後 1811 年まで 9 回派遣された通信使を指して一般に「(朝 鮮)通信使」と呼んでいる11。またその派遣目的も、朝鮮側の倭寇禁止要請、日本側の大蔵 経要請、国内統一祝賀、日本の国情探索、徳川幕府の新将軍襲職祝賀など、当時の日朝両国 の対外政策や国内事情、東アジア情勢を反映したものとなっている12。更に、江戸時代の通 信使は文化使節としての側面も備えており、平均 400 名ほどの行列一行が江戸までの 6 か 月かけて往復する間に海路・陸路沿いの宿舎で日本の儒学者や文人たちと盛んな交流が持 たれた。

日本の朝鮮史研究における通信使研究の動向を整理した横山恭子は、①戦前(1910~1940 年代)、②戦後(1950~1970 年代)、③近年(1980~1990 年代)の3つの時期に区分し、国 内の政治的・社会的影響を多分に受けながらも、政治・外交面、文化・思想面における成果 を上げつつ通信使研究が展開した過程を説明した13

まず、戦前における日本の朝鮮史研究は朝鮮統治政策に則る形で進められた。通信使につ いての最初期の論考は 1910 年 11 月に発刊された『歴史地理臨時増刊 歴史地理朝鮮号』

に収録されている「江戸初期における朝鮮との修交」(辻善之助)、「江戸時代における朝鮮 使節の来朝に就て」(藤田明)などに見ることができる。これらは、内朝融和政策に合わせ、

日本と朝鮮半島との歴史的・地理的近接性・文化的共通性を示しつつ、江戸時代に朝鮮から 格上の日本に朝貢するため派遣された使節、すなわち朝貢使節としての観点から通信使を 取り上げ、その態度や儀礼を否定的に記述している。一方で、『日鮮史話』を著した松田甲、

田保橋潔、中村栄孝ら朝鮮総督府で歴史編纂に取り組んだ関係者らによって、通信使の紀行 文などを基に中世日朝交渉や通信使来訪、対馬藩の関与等に関わる実証研究も進められ、後

10 伊藤亜人ほか編『新版 韓国朝鮮を知る事典』、平凡社、2014 年、388頁。

11 朝鮮史研究会編『朝鮮史研究入門』、名古屋大学出版会、2011 年、151頁。

12 横山恭子「朝鮮通信使をめぐる研究動向」『歴史学研究』第 966 号、2020 年、18 1 9頁。

13 横山恭子、同上。

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8 の通信使研究に多大な影響を及ぼした。

戦後になると、戦前の非実証的主義的で国家主義的な歴史学への反省に立った戦後歴史 学が新たに掲げられ、朝鮮史研究もまた、日本の敗戦と朝鮮の解放を受け、旧京城帝国大学 関係者や在日朝鮮人研究者、日本人の若手研究者も新たに加わりながら戦後の再出発を始 めた14。特に 1970 年代以降通信使研究は急速に増大し、多角的なアプローチからの研究成 果が 1980 年代にかけて次々と発表されることとなった。まず筆頭に挙げられるのが中村栄 孝『日鮮関係史の研究』全 3 巻(1965 1969 年、吉川弘文館)であり、外交・経済・文化 の観点から江戸時代の日朝関係を網羅的に取り上げた大著である。また、通信使来日と対馬 藩の関係を考察した田中健夫『対外関係と文化交流』(1982 年、思文閣出版)や田代和生『書 き替えられた国書』(1983 年、中央公論社)、『朝鮮王朝実録』を活用し、対外交渉史の立場 から通信使の歴史的背景を解明した三宅英利『近世日朝関係史の研究』(1986 年、文献出版)

なども登場するようになった。

(3)通信使の歴史を活用した関連文化事業に関する研究

このように、1980 年代にかけて通信使の歴史研究が徐々に盛り上がりを見せてくる一方 で、通信使の歴史を題材とする様々な地域活性化事業や文化交流事業が行われるようにな った。とりわけ、1980 年に日本で最初の通信使再現行列を行った対馬市は、毎年夏に行っ ていた「厳原港まつり」を 1988 年に「アリラン祭り」に改称し15、韓国との交流を全面に 押し出した様々な政策やイベントに乗り出した。対馬以外にも、山口県・広島県・岡山県・

京都府・滋賀県・岐阜県・静岡県などの各市町村が通信使を題材とした地域おこしの取り組 みを実施している。1995 年にはこれら通信使ゆかりの全国の自治体をネットワーク化した

「縁地連絡協議会」(以下、縁地連)が設立され、事務局となった対馬は多くの自治体や市 民団体を巻き込んだ通信使の歴史顕彰事業の中心的存在となった。更に、日韓共催の 2002 年サッカーワールドカップを記念して、同様の団体が釜山市の行政主導で設立され、日韓の 行政と民間団体が協力する形で通信使の歴史顕彰事業が現在に至るまで行われている16。特

14 朝鮮史研究会編、同上、4頁。

15 「アリラン祭り」の名称については、2012 年に発生した対馬の仏像盗難事件(市内に ある観音寺所蔵の県指定有形文化財「観世音菩薩像」および海神神社所蔵の国指定重要文 化財「銅造如来立像」が韓国人窃盗団によって盗まれ、韓国国内で発見された事件)を受 けて、主催側の朝鮮通信使行列振興会が事件に対する抗議の表明として「アリラン」の語 を削除することを決定し、以降は「対馬厳原港まつり」の名称を継続して使用している。

16 2001 年の「釜山海まつり」にて韓国初の通信使行列再現が行われ、翌年 3 月には「朝 鮮通信使再現委員会」が発足した。2002 年と 2003 年には、縁地連と朝鮮通信使文化事業 推進委員会が「朝鮮通信使縁地交流事業に関する日・韓共同協力意向書」および「朝鮮通 信使日・韓文化交流事業共同推進協定書」に調印し、日韓の民間団体を中心に共同で朝鮮

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に、2000 年代初頭は「冬のソナタ」などの韓国発の大衆文化コンテンツが日本で爆発的な 人気を博した「韓流ブーム」の到来によってかつてないほどに日韓の文化交流が活発に行わ れた時期でもあり、日韓親善に資する文化交流使節団としての通信使の歴史がクローズア ップされ、「韓流ブームの元祖」として各所で取り上げられる現象も見られた17

このように、通信使の歴史が様々な文化事業の形で「復活」してきた現象に関する先行研 究も近年少しずつみられるようになった。その特徴は、地域振興の起爆剤として通信使の歴 史に着目し、その顕彰事業を積極的に行っている対馬市と釜山市の行政の取り組みや民間 団体の活動を紹介したものが多い点にある。たとえば、申英根は対馬市の概要と観光政策と しての「厳原港まつり」の実施過程を取り上げ、通信使の再現行列などを活用した韓国人観 光客誘致の取り組み状況について説明している18。また、現代において通信使の歴史を活用 する事業が活発化した背景について、村上和弘は、①1980 年代以降通信使研究の学術的蓄 積が進み、その成果が広く社会に発信され理解が深まったこと、②非友好的・非平和的な交 流のみが強調されがちであった日韓関係史の中で、国家間・民間での友好的・平和的な交流 の時代が存在したという「象徴性」を持つこと、③「行列」という要素自体のパフォーマン ス性が高く現代的なイベントと親和性が高いという 3 点を挙げつつ、離島の地域振興と日 韓交流という目的を掲げて通信使の歴史再現に携わる対馬の取り組みと、韓国に対する複 雑な島民感情の相克を考察した19

その他にも、教育学の観点からは、日韓共通の友好的な交流史を象徴する通信使は、双方 の歴史に興味を持ち、歴史認識の相違点について考察を促すという点で、国際理解のための

通信使関連文化事業に取り組む基盤が作られた。その後 2009 年に釜山市の外郭団体とし て「社団法人釜山文化財団」が設立され、通信使祭りや学術シンポジウムの開催、釜山市 内の朝鮮通信使歴史館運営など関連業務を担っている。

17 たとえば、通信使来日 400 周年を記念して 2007 年 7 月 8 日に大阪市内で開かれた日韓 文化交流シンポジウムでは、李御寧(イ・オリョン)元韓国文化相と梅原猛・国際日本文 化研究センター顧問(当時)が「韓流 400 年~通信使から始まった日韓交流」と題する講 演会を行っている(「朝鮮通信使 400 年、文化交流シンポ 来月 8 日、大阪・北区」『朝日 新聞』2007 年 6 月 23 日)。また、西日本新聞では 2016 年 7~8 月に特集連載「江戸時代 の韓流 朝鮮通信使」を組み、九州各地に残る通信使関連の史跡や資料を辿りながら当時 の日朝交流の様子を取り上げている。

18申英根「対馬市における韓国との国際交流および地域活性化について―⾧崎県対馬市の

「対馬アリラン祭」を事例として―」九州大学大学院人文科学研究院『史淵』第 151 輯、

2014 年、136 158頁。

19 村上和弘「<日韓交流の島>というイメージをめぐって―戦後における<対馬>観と<

韓国>観 」『人文学論叢』第 9 号、愛媛大学人文学会、2007 年、71 79頁。

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教育教材としての可能性も指摘されている20。2005 年に東アジア初の共同歴史教材として

『朝鮮通信使 豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ』が刊行されたのは象徴的である。制作を主 導したのは広島県と韓国・大邱市の教職員によって構成される日韓共通歴史教材制作チー ムで、朝鮮通信使研究に⾧年携わってきた在日朝鮮人研究者の金両基氏らが助言役と歴史 考証に携わった。制作チームは 2002 年以降 7 回の往来を重ねる中で議論を行い、「戦争と 平和」「文化交流と相互理解」というキーワードに基づいて文禄・慶⾧の役とその後の通信 使派遣を取り上げ、日韓双方の視点に留意した歴史認識の共有を目指した21

更に、2017 年の「世界の記憶」登録以降は、通信使の歴史や自治体レベルでの顕彰事業 の実態および「世界の記憶」登録事業の推進過程などについてまとめた研究が相次いで発表 された22。また、通信使を歴史的資源として地域振興や日韓交流に生かそうとした個人や市 民団体の取り組みについては、当事者の声を集めた回顧録やジャーナリストによる取材の 成果としていくつかまとめられており、詳細な過程を知ることが出来る23

20釜田聡「日韓の中学校歴史教科書叙述の比較検討―朝鮮通信使の教科書叙述を中心に

」(『上越教育大学研究紀要』第 25 巻第 2 号、2006 年、551 563頁)、木村幸一

「日韓交流体験と朝鮮通信使学習による国際理解の可能性」(『滋賀大学大学院研究学研究 科論文集』第 11 号、2008 年、61 73頁)、加賀大学「人物史学習を通した双方向の 国際理解教育の構築に向けて:主題学習「雨森芳洲と朝鮮通信使」(『神奈川大学心理・教 育研究論集』第 37 号、2015 年、141 145頁)など。

21 日韓共通歴史教材制作チーム編『朝鮮通信使‐豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ』、明石 書店、2005 年。

22 「世界の記憶」登録事業を取り上げたものとしては、仲尾宏・町田一仁編『ユネスコ貴 世界記憶遺産と朝鮮通信使』(明石書店、2017 年)、拙稿「朝鮮通信使関連文化事業におけ る越境する市民公共圏―「世界の記憶」登録推進事業をめぐる対立と協働」(『グローバ ル・ガバナンス』、2019 年、113 129頁)、韓国語文献としては、

한일문화교류기금편『조선통신사기록물의 ‘UNESCO 새계기록문화유산’등재』

(경인문화사、2018 년)(韓日文化交流基金編『朝鮮通信使記録物の

‘UNESCO 世界記録文化遺産’登載』景仁文化社、2018 年)、한태문「유네스코 세계기록유산 ‘조선통신사 기록물’의 등재 과정과 현황」(『항도부산』제36호, 부산광역시사편찬위원회, 2018, 53-97면)(韓泰文「ユネスコ世界記録遺産‘朝鮮通信使 記録物’登載過程現況」釜山広域市史編纂委員会編『港都釜山』第 36 号、2018 年、53 97頁)などが挙げられる。

23例えば、嶋村初吉編『対馬新考 日韓交流「宝の島」を開く』(梓書院、2004 年)、嶋村 初吉『海峡を結んだ通信使―対馬発 松原一征「誠信の交わり」の記』(梓書院、2007 年)、永留史彦・上水流久彦・小島武博編『対馬の交隣』(交隣舎出版企画、2014 年)など が挙げられる。韓国語文献としては、심규선『심규선 기자가 전하는 조선통신사, 한국 속 오늘』(도서출판 월인, 2017년)[シム・ギュソン『シム・ギュソン記者が伝える朝鮮

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以上見て来た通信使に関する先行研究では、歴史学領域における研究が着実に積み重ね られていると同時に、日韓交流の歴史的なキーワードとしての通信使に着目した地方自治 体や民間団体の事業、歴史教材開発の取り組みなどに関する事例研究が提示されているこ とが分かる。一方で、現在の日韓で「通信使=日韓友好」と見なされる図式に対して、現在 の歴史学研究者の間からは批判的な意見も多い。例えば、木村直也は、1970 年代以降さか んに出版された文献の一部、特に一般向けの文献について、江戸時代の日朝関係に関する平 和的・友好的な側面のみ強調し、単純化し過ぎている点を指摘している24。また、先に挙げ た横山は、「世界の記憶」に登録された資料群に、通信使研究に不可欠な『対馬宗家文書』

などが含まれておらず、絵画や屏風など視覚的な美術品・芸術品が大半を占め、政治・外交 面や経済・負担面の資料の登録が限られている点を指摘し、登録運動を主導した日韓の民間 団体の文化・思想面を重視した活動経歴や選定方針の下、江戸時代の通信使に関する「平和」

「友好」のイメージが誇張される一方で、史料に基づく実証的研究の成果があまり知られて いないと主張している25

こうした先行研究の状況を踏まえて浮上してくるのが、ではなぜ・いかにして通信使は

「日韓友好」の強力な言説となり得たのかという問いである。この点を明らかにする上で重 要なアクターとなるのが、本研究で扱う在日朝鮮人歴史家たちである。

先に研究史を確認したように、日本では、通信使研究は早い時期から取り組まれてきたも のの、⾧らく朝鮮から上位国である日本に送られた「朝貢使節」との認識が一般的であり、

1960 年代までは一部の学術研究を除いて通信使はほとんど一般に知られていない歴史であ った。しかし、その後近世における日朝交流の意義が再評価され始める中で、豊臣秀吉の朝 鮮出兵後の戦後処理と近世日朝の友好的な関係構築に貢献した「善隣友好使節」としての通 信使イメージを打ち出す在日朝鮮人歴史家たちの活動が顕著に見られるようになる。例え ば、1974 年に通信使の紀行文を翻訳・出版した姜在彦(カン・ジェオン)や、1976 年に『李 朝の通信使』を出版した李進煕(イ・ジンヒ)らは、その著作を通じて通信使が日本にもた らした文化的痕跡や当時の日本人知識人らとの交流の様相を描いた。更に、先述の辛基秀の 映画『江戸の朝鮮通信使』は、その上映運動が市民の手によって全国展開したこともあり、

近世の明るい日朝交流の歴史イメージが多くの人々に知られる契機となった。通信使の「世 界の記憶」登録運動時に日本側学術委員会副委員⾧であった町田一仁氏が「通信使は数ある

通信使、韓国の中の今日』図書出版ウォルイン、2017 年]が近年刊行され、韓国における 通信使研究の概要、通信使の歴史顕彰を行う韓国の自治体及び民間団体の紹介、通信使を 報じた韓国の新聞各社の記事紹介、関係者インタビューなどが記述されている。

24 木村直也「東アジアの中の近世日朝関係史」北島万次・孫承喆・橋本雄・村井章介編

『日朝交流と相克の歴史』校倉書房、2009 年、80頁。

25 横山恭子、前掲論文。

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日韓交流事例の中でも、在日研究者や市井の人々の啓蒙運動から始まった珍しい例」26と振 り返るように、彼ら在日朝鮮人歴史家たちは日本人研究者たちによって発表される実証的 な通信使研究の成果を参照しながら、自身が主宰する雑誌での連載や書籍、講演などを通じ ていち早く「善隣友好の使者」としての通信使像を打ち出し、同時期の人々に大きな影響を 与えたのである。

通信使研究と在日朝鮮人歴史家の相関について従来の研究では、例えば張俊順が、1970 年代における朝鮮通信使研究ブームの背景に彼らの研究や著作が大きな役割を果たし、朝 鮮通信使に関する理解と大衆化が試みられ、韓国における研究にも刺激を与えたと述べて いる27

しかしながら、1970 年代における在日朝鮮人歴史家たちの活動がその後のローカルな市 民による通信使の歴史顕彰事業に強い影響を及ぼしていることは、現在の事業に従事して いる当事者たちも認知している28一方で、従来の研究では、日韓の国際交流事業として通信 使の歴史が活用される現在の事例の紹介に重点が置かれ、その「前史」であるはずの 1970 年代から 1980 年代にかけての日本国内における市民の豊かな実践は取り上げられてこなか った。ここで留意するべきなのは、1980 年に初の通信使再現行列が対馬で行われたように、

通信使を題材とした各地の事業が本格的に取り組まれるようになるのは、韓国の民主化実 現やソウル・オリンピックの開催などを経て、個人の自由な海外旅行や自治体間・市民間の 国際交流が活発化し始めた 1980 年代に入ってからという点である。戦後の日韓両国は 1965 年に国交を回復するものの、その後も 1970 年代にかけて⾧らく軍事独裁政権が続いた韓国 では一般国民の行動や海外との情報のやり取りなどは著しく制限されており、日本におい ても韓国に対しては植民地や軍事独裁のイメージから来る否定的な偏見や無関心が一般的 であった。先に挙げた在日朝鮮人歴史家たちの活動や映画の上映運動に対する市民の積極 的な参与が見られるのはまさにこの時期のことである。そうであるならば、国家による規制 が緩和され、自治体間・市民間の日韓交流が増大する以前の時期において、教科書にも載ら ないマイナーな歴史であった通信使が大きな社会的関心を呼び起こした現象は、これまで の研究が前提とした「国際交流」の枠組みでは捉えきれず、同時代の日本の状況や人々の問 題意識に即した分析でもってその意義を再検討することが必要であると言えだろう。

26 筆者による町田一仁氏インタビュー(2016 年 8 月 16 日福岡市内にて)

27 張俊順、前掲論文、439 463頁。

28 たとえば、縁地連の設立者であり現理事⾧の松原一征氏は、回顧録の中で「辛基秀、姜 在彦(申維翰『海游録』訳注者)、李元植(大著『朝鮮通信使の研究』の著者)、金両基の 諸先生は一級の研究成果を残されている。縁地連は在日の研究者に大きく支えられてい る。とりわけ、埋もれた通信使の歴史を掘り起こし、通信使による町起こしに尽力された 辛基秀先生の功績は大きい。資料収集にも奔走されて、屈指の通信使コレクターとしても 知られている。」と述べている。/嶋村初吉、前掲書、80頁。

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(4)研究の意義―戦後日本社会における通信使の歴史実践の位置づけ

以上の先行研究における課題を踏まえ、本研究では 1970 年代以降に顕著な盛り上がりを 見せて来た通信使をめぐる豊かな実践について、その様々な事例を戦後日本社会という見 取り図の中に位置づけながら俯瞰し、なぜ多くの人々が通信使の歴史に着目したのか、彼ら にとっての「通信使」とは何だったのかということを明らかにしていくものである。更にそ の手掛かりとして、「善隣友好の使者」としての通信使像が打ち出される上で最も重要な立 役者となった在日朝鮮人歴史家・辛基秀の歴史実践について、同時代の人々との協働を掘り 下げながら検討していくものとする。

1910 年に始まる日本の韓国併合に前後して、植民地となった朝鮮半島からは多くの朝鮮 人が留学や働き口を求めて日本国内に流入した。その内で戦後も様々な理由で日本に残っ た人々とその子孫は「在日朝鮮人」として戦後を生きることになった。旧植民地出身者であ る彼らは、日本社会での苛酷な民族差別や社会的権利上の不利益、経済的困窮にさらされる と共に、戦後日韓関係の変遷や東西冷戦に伴う南北朝鮮の分断により、日本・韓国・北朝鮮 という3つの国家のはざまに置かれ、それぞれの国家や国際関係の状況から強い影響を受 けつつ、極めて複雑な政治的文化的境界を生きる存在になった。思想史研究者の尹健次は、

在日朝鮮人とは近代日本による植民地支配によって生み出された存在であるとして、その 在り様について次のように表現している。「在日朝鮮人はひとつの歴史的・運命的存在とし て、日本・南北朝鮮の3つの国家ないし社会が伝える言語や教育・道徳・宗教・偏見・差別・

迷信、そして生活の糧を得るための苦闘、イデオロギーや民族組織、男と女そして家族の愛 憎、などのすべてが織りなす生を営んだ」29

そして、日本に生活の基盤を置きながらも、独特のエスニック・マイノリティ集団として 生きる在日朝鮮人は、自らを取り巻くポストコロニアルな諸問題の解決に向けた様々な運 動を戦後展開してきた。例えば、植民地解放直後に行われた民族学校の開設運動や朝鮮半島 の国家建設に関わる運動を始め、南北分断後はそれぞれの国家を支持する民族組織に分か れ祖国統一に向けた運動が展開された。そして、祖国の分断状況が⾧期化し、2 世以降の世 代が増えてくる中で、在日朝鮮人の日本定住が現実化し始める 1970 年代以降は、国内の差 別的構造や制度への抵抗から、就職差別撤廃や指紋押捺拒否、地方参政権の要求などに関わ る様々な運動が行われ、他方では、既存の民族組織に縛られない形を目指した人々により、

民族の歴史文化や言語を守りつつ、日本の中に生きるエスニック・マイノリティの地位向上 や他の地域住民との共生を図ろうとする文化運動が 1980 年代以降活発に行われるようにな る。これらの運動は時に国内の他のマイノリティ集団や在日朝鮮人問題に関心を持つ日本 人市民とも連帯しながら全国各地で展開されていった。

このような戦後における在日朝鮮人運動史については既に数多くの先行研究が出されて

29 尹健次『「在日」の精神史1渡日・解放・分断の記憶』岩波書店、2015 年、6頁。

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きた30。また、こうした多様な運動の展開には、在日朝鮮人のアイデンティティの問題も密 接に関係するものとして研究が行われてきた。先述のように、在日朝鮮人は、日本人をマジ ョリティとする社会の中にあって、国籍や民族に関わる3つの国家の境界を生きる存在で あり、その帰属の曖昧さゆえに被る様々な不利益やアイデンティティの相克を経験しつつ 生き抜いてきた。朝鮮で生まれた後に来日した在日 1 世と呼ばれる人々は、日本に住みな がらも、いつかは帰るべき「祖国」として朝鮮半島を見なす意識を強く持つ世代とされてい る。彼らの多くは、戦後になると荒廃した朝鮮半島の国家建設運動に身を投じるが、その故 郷である朝鮮半島が南北に分断されたことで、韓国と北朝鮮をめぐる激しいイデオロギー 対立に巻き込まれながら、それぞれの立場で祖国統一に向けた運動へと向かうこととなっ た。同時に、日本国内で仕事や家庭を持つ生活者としてあろうとする時に、障壁となる国籍 の問題を抱えた多くの在日朝鮮人は、民族を選ぶか、(日本人として)帰化を選ぶかという 選択を迫られることになり、後者は民族を捨てた「同化」であるとして在日朝鮮人社会にお いて厳しく非難されることもしばしばあった。特に、日本で生まれ育った在日 2 世以降の 世代が台頭してくる 1970 年代からは、日本人との結婚や韓国籍への切り換えなど在日朝鮮 人の生活状況が個人によって多様化する中で、それでもなお様々な場面で直面する差別の 現状や、在日朝鮮人としての民族性、日本社会で生きる自身の在り方について、人々は更な る葛藤の中で模索をすることとなり、こうした在日朝鮮人社会の変化を背景に、民族差別撤 廃や日本人と同等の権利を求める運動は活発化してきたとされる。在日朝鮮人の若者の語 りを分析した社会学者の福岡安則は、このように複雑に分岐した在日朝鮮人のアイデンテ ィティを民族性の強弱に基づいて、祖国志向・同胞志向・共生志向・個人志向・帰化志向の 5つの類型に分類し、「同化か、異化か」では単純化できない在日朝鮮人の多様なアイデン ティティの様相を説明した31。この安田の研究を皮切りに 1990 年代以降は様々な角度から 在日朝鮮人のアイデンティティをめぐる検討が行われた。

しかしながら、こうした従来の戦後在日朝鮮人研究が、民族運動や政治闘争を取り上げた ケーススタディや、アイデンティティの複雑性・多様性のみを論じるものに偏ってきたとし て、より個々人の現実に即した実践に関する研究が必要だとする意見が提示されている。

例えば、オセアニア地域研究を専門とする社会学者の山中速人は、在日朝鮮人の社会的存 在について、その独自性を主張する人々とあくまで祖国との一体性を主張する人々との間

30 戦後の在日朝鮮人運動の通史に関しては、梶村秀樹『解放後の在日朝鮮人運動』(神戸 学生・青年センター、1980 年)、朴慶植『解放後在日朝鮮人運動史』(三一書房、1989 年)、梁永厚『戦後・大阪の朝鮮人運動 1945-1965』(未来社、1994 年)、文京洙・水野直 樹『在日朝鮮人 歴史と現在』(岩波新書、2015 年)などに詳しい。また、在日朝鮮人運 動史研究会編『在日朝鮮人史研究』(1977 年~現在)では、在日朝鮮人に関わる様々な運 動史や生活史などの研究成果を紹介している。

31 福岡安則『在日韓国・朝鮮人 若い世代のアイデンティティ』中公新書、1993 年。

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で論争が続いている現状に対し、個人のエスニシティは彼らが社会に産み込まれ、その影響 を受けながら自己を確立していく「社会化(Socialization)」の過程で後天的に獲得されてい くものという認識に立ち、プロトタイプとしての祖国の文化や価値観からの変容度合いに 応じて、在日朝鮮人のエスニック・アイデンティティを類型化する方法を批判した32。そこ で山中は、従来の研究が主対象としてきた政治史や経済史のみならず、在日朝鮮人の生活・

文化・風俗をめぐる歴史研究を発展させ、祖国とは異質な社会の中にあって現実を生き抜く 人々の営為における苦労や知恵や試行錯誤の集積を記録することで、差別され「暗い」「辛 い」ものとして民族コミュニティを捉えるのとは異なる、新しい在日朝鮮人史研究の方向性 を主張した。すなわち、個々の在日朝鮮人がどのような「朝鮮人」であるかは、その人がど のような生活文化の中で育ち、「民族的なもの」と出会い、社会化されたかという個人史の 丹念な追跡によって初めて明らかになる。そして、在日朝鮮人のエスニック・アイデンティ ティを、必ずしも日本社会への「同化」か「孤立」かといった二者択一的なものに回収でき ない多様なものとして捉え直すことで、複数の文化や価値が併存する現実社会に葛藤しつ つも対応し、自己を破綻させることなく肯定的・創造的に生きる個々人の営みを意義づけよ うとする山中の主張は興味深い示唆を含んでいるように思われる。

また、自身もアメリカ在住の在日朝鮮人であるソニア・リャンは、「ディアスポラ」の概 念を用い、民族分断・冷戦・ホスト社会の閉鎖的構造などの理由から帰るべき「故国/居住 国」を失った状態を生きる在日朝鮮人 1 世たちの生活誌を描き、特にそれまで取り上げら れてこなかった在日朝鮮人 1 世の女性たちをめぐるジェンダーとアイデンティティの関連 について光を当てている33

済州島出身在日朝鮮人の生活誌研究などを行う伊地知紀子は、日本社会において「奪われ た民族の回復」を叫ぶ運動体としての一元的な在日朝鮮人像を前提に在日朝鮮人の多様性・

多元化が論じられている現状を批判し、現状に対処する中で行われる即興的で創発的な 個々の生活実践に着目することで、日常の生活世界から在日朝鮮人を取り巻く歴史や社会 を捉え直す姿勢の必要性を唱えている34

更に、社会学者の李洪章は、戦後在日朝鮮人社会の変遷について、1950 年代の帰国運動 や 70 年代以降の反差別闘争などといった「大きな物語」ばかりが注目され、個人による様々

32 山中速人「在日朝鮮人のエスニック・アイデンティティ形成と複合文化状況―在日朝鮮 人史研究のひとつの対象をめぐって―」在日朝鮮人運動史研究会編『在日朝鮮人史研究

Ⅳ』、緑蔭書房、1996 年 9 月 30 日、93 103頁。

33 ソニア・リャン『コリアン・ディアスポラ―在日朝鮮人とアイデンティティ』明石書 店、2005 年。

34 伊地知紀子「営まれる日常・縒りあう力【語りからの多様な「在日」像】」上田正昭他 編『歴史のなかの「在日」』、藤原書店、2005 年、337 355頁。

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な実践が捨象されてきた現状を課題として提起している35。その上で李は、個人を「『創造 性』の主体」と位置づけ、「異化と同化、あるいは抵抗と迎合などといった単線的な理解で は決して捉えることができない人々の「生」」36を描くことで、在日朝鮮人をめぐる政治社会 的な状況に強く影響されながらも、その中で個々の現実的な状況に即して常に他者との関 係性やアイデンティティの像を結び直し、自らの主体的な生を構築しようとしていく人々 の実践を意義づける研究の可能性を提起している。

上記のような問題意識に立つとき、膨大な先行研究の中で在日朝鮮人による戦後の様々 な運動の実態が掘り起こされ、その過程や成果が明らかにされてきた今日においてもなお 必要とされているのは、その運動の当事者たる「個人」に光を当て、彼らの実践を意義づけ る研究であると言えよう。もちろん、在日朝鮮人によって書かれた文学作品やエッセイ、自 叙伝などは既に膨大な量が存在している。有名無名を問わない書き手によるそれらの作品 は、公的な記録には描かれない在日朝鮮人個人のライフヒストリーや日常生活、運動経験の 詳細、内面の心情、アイデンティティの葛藤などを描くことで「在日の歴史」の多様な側面 を示す貴重な歴史の語りとなっている。しかしながら、こうした在日朝鮮人作家や彼らの作 品に関する研究は文学研究の領域で盛んに行われてきた一方で、管見の限り、歴史研究に活 動の重点を置いた在日朝鮮人歴史家たちに関する学術研究はこれまで行われてこなかった。

近現代史研究者の外村大は、在日朝鮮人の歴史について一般の人々がどのように考えてき たか、在日朝鮮人歴史家たちが、いかなる歴史事象を強調し、どのように評価してきたかな どについての考察は、在日朝鮮人のアイデンティティのあり方との関連において重要であ るとして、その主体である個人に着目した歴史研究の必要性を述べている37。ここに、本研 究が「在日朝鮮人歴史家」という個人を設定し、研究や市民運動を通じた彼らの「歴史する」

実践を取り上げる意義がある。

戦後の在日朝鮮人知識人の内からは、近代以降の日本人が朝鮮人に向ける差別意識の根 底には、朝鮮を日本よりも下位の存在と位置づけるいわゆる「皇国史観」が存在するとして、

その克服を目指し歴史研究を行う「歴史家」たちが登場してくる。例えば、1950 年代には 先述の姜在彦や李進煕を始め、『朝鮮人強制連行の記録』(1965 年、未来社)を著した朴慶 植(パク・キョンシク)など、在日本朝鮮人総聯合会(以下、総連)に所属する在日朝鮮人 歴史家たちが、戦前の日本帝国主義の抑圧や強制連行、および民族解放運動・社会主義運動 における在日朝鮮人の活動を取り上げ、日本国内の排外主義や歴史に対する無知・無関心へ

35 李洪章『在日朝鮮人という民族経験 個人に立脚した共同性の再考へ』、生活書院、

2016 年、3頁。

36 李洪章、同上、9頁。

37 外村大「<研究ノート>朝鮮人強制連行―研究の意義と記憶の意味」外村大研究室ホー ムページ、http://sumquick.com/tonomura/note/2011_01.html(2020 年 8 月 25 日最終ア クセス)

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の対抗と、朝鮮民族としての誇りを確保することを目的とする歴史研究を盛んに行った38

「朝鮮史研究も雑誌の発行も全て運動だった」39という姜在彦の回想にも表れるように、自 ら行う歴史研究は、彼らにとっては在日朝鮮人としての運動の一環であった。それまで暗く 悲惨で否定的なイメージを押し付けられ、日本や本国のアカデミアでもあまり関心を持た れてこなかった在日朝鮮人の歴史を自ら取り上げ、記録し、その意義づけを図るといった 様々な歴史実践を行うことそのものが、歴史の中における民族の主体を回復することであ り、浴びせかけられる偏見や抑圧的な社会状況を変革するための重要な意義を持つ営みで あった。ところが、後にこうした在日朝鮮人知識人たちの個人活動は当時の総連指導部の方 針と対立したため、1960 年代後半以降、多くの人々が総連と距離を取り始め、同時期の独 裁政権下にある韓国の民主化問題や在日朝鮮人問題に共感する日本人知識人たちの強い支 持を受けながら在野の歴史家としての活動を始めていくことになった。自身の専門である 近代思想史や朝鮮古代史の研究を深めていた姜在彦や李進煕が中心となって創刊に携わっ た日本語雑誌『季刊三千里』(1974 年)はその一例である。第 1 章で紹介する同雑誌は、祖 国統一の問題や在日朝鮮人を取り巻く社会問題に関する提言を行うと共に、通信使を含む 様々な日朝関係史のテーマを取り上げた多数の論考を発表していく。このように、「善隣友 好の使者」として通信使の歴史が脚光を浴び始める 1970 年代は、それまで所属していた民 族組織を離れ個人の活動を新たに開始した在日朝鮮人歴史家たちが、「皇国史観」に象徴さ れる近代の歴史観への異議申し立てを目指す多様な歴史実践を日本人に向けて打ち出して いく時期でもあった。

こうした在日朝鮮人歴史家たちの中でも、通信使の歴史実践において特にユニークな働 きを行うのが辛基秀である。第 1 章で詳述するが、戦前生まれの在日 2 世である辛基秀は、

京都で幼少期を過ごし、植民地解放後は同時期の多くの在日朝鮮人と同じく戦争で荒廃し た朝鮮半島の国家建設に向けた民族運動などに参加した人物である。また、神戸大学在学中 は、自治会委員⾧として反米学生運動に参加し、南北分断後は総連に所属しながら祖国統一 に向けた民族組織の運動に従事するなど、⾧らく運動家としての経歴を重ねて来た。1970 年前後に総連を脱退した辛基秀は、関西を拠点にして『季刊三千里』への執筆や市民向けの 朝鮮史セミナーの講師などを行いながら、映像という表現方法を用いて在日朝鮮人史や日 朝関係史を描き出す独自の活動を開始する。また、1984 年大阪に開設した「青丘文化ホー ル」で朝鮮関係資料の収集・展示や地域住民に向けた文化交流活動に取り組むと共に、通信 使関連の膨大な書籍を執筆し、対馬を始め各地の博物館での通信使展示や通信使顕彰事業 のプロデューサー的役割も果たすなど、多角的な歴史実践を展開した。更に、通信使以外に

38 外村大『在日朝鮮人社会の歴史学的研究―形成・構造・変容』、緑蔭書房、2009 年、4 頁。

39 「古希をむかえられた姜在彦さんに聞く」『季刊 Sai』第 22 号、1997 年、49 50 頁。

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も広い関心対象を持ち、在日朝鮮人の本名宣言を題材にした映画『イルム』(1983 年)、朝 鮮半島出身の労働者を取材した記録映画『解放の日まで』(1986 年)の制作、被差別民衆や 朝鮮人海女、元従軍慰安婦の取材などに携わっており、社会の中で差別にさらされてきたマ イノリティの歴史や生活に関する資料収集とメディア化をライフワークとした。

こうした辛基秀の活動について特筆するべきは、終生在野の歴史家の立場を貫きつつ、同 時代の日本の市民運動や地域おこしに関わるローカルなアクターたちと密接に関わり合い ながら日朝関係史をめぐる様々な歴史実践を行った点である。したがって、その歴史実践は、

在日朝鮮人としての運動に留まらず、同時代の日本の市民運動や地域おこしに関わる様々 なアクターたちと関わり合いながら、新たな歴史観の創出を目指した過程として描出する ことができる。

戦後の日本社会では労働運動や反米・反戦運動など様々な担い手による社会運動が繰り 広げられた。「1968」のフレーズに象徴化される 1960 年代に盛り上がりを見せた学生運動 やベトナム反戦運動の歴史は 50 年を経た今まさに盛んな研究の対象となってきているが40、 これらの運動の多くは内部の分裂や内ゲバなどの暴力行為が行われる中で、一般の人々か らの支持も得られなくなり、次第に衰退していくこととなった。

こうした 1960 年代における「政治の季節」の次に現れたものとしてしばしば引き合いに 出されてきたのが、1960 年代以降、ヨーロッパを起点に盛り上がりを見せた「新しい社会 運動」である。「新しい社会運動」とは、従来の社会主義・共産主義運動や労働運動とは異 なり、国家の管理に対する個人の自律性やアイデンティティを重んじ、平和、環境、女性、

地域主義、マイノリティの権利や人権などの必ずしも物質的利益にもとづかない様々な価 値や文化の創造を主張する運動として端的に説明される41。国際社会学者の梶田孝道は、「新 しい社会運動」の名付け親であるフランスの社会学者トゥレーヌの議論を引用しつつ、労働 者階級と資本家階級が可視的な敵手として対峙した産業社会と異なり、今日の脱産業社会 においては、意思決定・知識・権力の累積と集中に基礎を置く中心機構と、受動的に変化に 従属する人々との対立が起こる「中心 対 周辺」の構図が顕現すると述べた42。梶田はこの

「周辺」と指す領域について、地理的に見た周辺部の後発地域のみならず、例えば少数民族 や女性などの社会的・政治的マイノリティも含められるとし、「新しい社会運動」とは、こ

40 1960 年代から 70 年代にかけての社会運動と市民社会については、小熊英二『1968 上 若者たちの叛乱とその背景』『1968 下 叛乱の終焉とその遺産』(2009 年、新曜社)、安 藤丈将『ニューレフト運動と市民社会 「六〇年代」の思想のゆくえ』(世界思想社、

2013 年)、小杉亮子『東大闘争の語り―社会運動の予示と戦略』(2018 年、新曜社)、平井 一臣『べ平連とその時代 身ぶりとしての政治』(有志社、2020 年)などを参照。

41 坂本治也編『市民社会論 理論と実証の最前線』法律文化社、2017 年、43頁。

42 梶田孝道「新しい社会運動―A・トゥレーヌの問題提示をうけて―」『思想』730 号、岩 波書店、1985 年 4 月、212 213頁。

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うした人々が「自己決定」「自主管理」「アイデンティティ」の追求によって特定の主体の遂 行する特定の近代化・社会発展・生活様式に反撃し、自らの運命の主体的な選択、すなわち

「脱疎外」を目指した運動であると説明している。

日本においては、高度経済成⾧に伴う急激な産業化・工業化によって生じた社会の歪みを 受けて 1970 年代から 1980 年代にかけて盛り上がったとされる「新しい社会運動」は、反 公害運動、消費者運動、住民運動など多様な事例の広がりを見せた。また、並行して国内の エスニック・マイノリティである在日朝鮮人の差別問題や隣国の韓国の状況に関心を寄せ る人々の運動も活発化した。例えば、1970 年代韓国の軍事独裁政権下における人権弾圧問 題や 1973 年の金大中拉致事件、1980 年の光州運動などは当時の日本社会にも衝撃を与え、

「日韓連帯運動」と呼ばれるような民主化を求める韓国民衆に連帯を示す日本人市民グル ープの運動が起こった43

また、在日朝鮮人コミュニティにおいても日本で生まれ育った在日 2 世以降の世代が増 大し、国籍や民族をめぐるアイデンティティの多様化に関する議論や、指紋押捺や進学・就 職・結婚などの諸制度上における民族差別撤廃に向けた運動が活発になる中で、在日朝鮮人 たちが置かれた現状に問題意識を持ち共に行動を起こす人々も現れていく。自身も日本の 学生運動や総連での民族運動に加わった経験を持つ辛基秀も、拠点である大阪を中心に、在 日朝鮮人や被差別部落をめぐる人権運動、日韓連帯運動、行政の施策に反対する文化運動な どの市民運動に関わる他のアクターたちとつながりを持ち、通信使を含む日朝関係史を題 材にした様々なイベントやシンポジウムなどを企画している。更に、本論で詳しく紹介する ように、先述の雑誌『季刊三千里』などの在日朝鮮人歴史家によるメディアや、辛基秀の企 画による映画『江戸時代の朝鮮通信使』の上映運動などには、歴史学の専門家はもちろん、

こうした戦後市民社会の変化の中で「新しい社会運動」に加わったり、韓国問題や在日朝鮮 人問題に関心を持ったりする中で、自身の活動を模索した多くの日本人市民や在日朝鮮人 が賛同を示し加わっている。べ平連運動にも参加し『春先の風』などの作品で朝鮮人への共 感を描いた岐阜出身の詩人・吉田欣一が、1979 年には岐阜市内で開かれた通信使の映画上 映会に参加し、以下のようなメッセージ文を寄せている。

『江戸時代の朝鮮通信使』と云う歴史ドキュメンタリフィルムに接して、眼を洗われるよ

43 日韓連帯運動に関しては、T.K 生『韓国からの通信 1972.11~1974.6』(岩波書店、

1974 年)、青地晨・和田春樹編『日韓連帯の思想と行動』(現代評論社、1977 年)、柳相 栄・和田春樹・伊藤成彦編『金大中と日韓関係―民主主義と平和の日韓現代史』(延世大 学金大中図書館、2013 年)など、当事者による記録が刊行されている。また近年は、この 日韓連帯運動を日韓のトランスナショナルな公共圏形成の観点から検討した学術研究とし て、李美淑『「日韓連帯運動」の時代―1970 80 年代のトランスナショナルな公共圏とメ ディア』(東京大学出版会、2018 年)が刊行されている。

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うな感銘を受けた。大垣市竹島町に今も残る朝鮮軕に乗せていた『朝鮮王』の装束等の『朝 鮮通信使』の史跡を見るにつけ、それは朝鮮と日本との友好と云うことだけではなくて歴 史観に新しい何物かを加えてくれた。…

映画『江戸時代の朝鮮通信使』は私にとって、あなたにとって、その生き方に何かを 加えるものがあろうと私は信じている。44

加えて、現在のような通信使を題材とする日韓交流事業が成立していく過程についても、

辛基秀の活動と地域における歴史実践の展開を関連づけながら説明する必要があろう。既 にいくつかの先行研究が取り上げているように、地方の関係者が 1980 年代後半以降通信使 の歴史に着目していく背景には、高度経済成⾧後の地方の過疎化に悩んだ人々が、住民の郷 土に対する誇りを高め、観光客を誘致するための魅力的な街づくりに歴史資源を活用しよ うとする意図があった。特に、1988 年の韓国の民主化以降に日韓の自治体間・市民間交流 が増大していく状況は、通信使は韓国との友好を象徴する歴史文化コンテンツとして脚光 を浴びていく追い風となった。第 5 章で詳述するように、この時期の辛基秀は、通信使とゆ かりの深い各市町村の郷土史家や行政関係者と協力し、各地の資料館での通信使展開催、対 馬の通信使再現行列の時代考証や縁地連の結成準備などで積極的に支援している。

これらの背景を踏まえる時、通信使をめぐる辛基秀と彼を取り巻く人々の取り組みは、

様々な「境界」を超えようとする歴史実践として新たな像を結び始める。本論文ではこの「境 界」という語を単なる国境線を指すに留まらない、複数の意味を含むものとして用いること とする。繰り返し述べてきたように、戦後日韓関係や南北分断の状況を背景に、日本・韓国・

北朝鮮という3つの国家のはざまに置かれた多くの在日朝鮮人たちは、それらの国境を物 理的に行き来する困難に加え、自分自身をアイデンティファイするにあたり、日本と韓国、

南北朝鮮といった幾重にも内在するナショナルな境界がもたらす障害をいかに克服するか という難題も引き受けなければならなかった。ゆえに、1970 年代から 1980 年代にかけて の通信使をめぐる辛基秀たちの歴史実践は、第一に、近世の対等な日朝交流史の存在を掘り 起こすことで、当時の日本社会における否定的な朝鮮イメージを覆し、民族差別に苦しむ在 日朝鮮人が朝鮮の歴史に誇りを持たせると共に、現実の在日朝鮮人差別を変革する意図を もって取り組まれていく。同時にその試みは、戦後日本社会における市民運動が大きな転換 を見せる同時代の状況下で、「中心 対 周辺」構造の見直し、すなわち近代に由来する国 家や社会の在り方を問い直す市民運動に携わった様々な人々にとっても、<いま、ここ>を 生きる自身の価値観に影響を及ぼし、日本と韓国・朝鮮との連帯を実感させるオルタナティ ブな歴史認識の顕現として受け止められたのである。更には、文化人類学者の中村八重が、

1980 年代以降活発化した対馬における歴史顕彰事業について、韓国との歴史的な関係性を 強調した自治体間の国際交流を展開することで、国家という「中心」に対し、地方という「周

44 映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』毎日新聞社、1979 年、226頁。

参照

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