1.「大阪築城 400 年まつり」への抵抗
(1)「官製のまつり」との闘い
映画『江戸時代の朝鮮通信使』の成功は、多くの人がその歴史に触れる歴史実践の機会と なったと同時に、地域や民衆の文化風俗に残る通信使の痕跡を掘り起こし、国家中心的な従 来の歴史記述とは異なる友好的な日朝交流の歴史の提示が在野の歴史家たちによってなさ れた出来事でもあった。当然、彼らの目線は肯定的で友好的な歴史にばかり向けられたので はない。公的な歴史では語られない人々の歴史や、戦争や社会の「暗部」と見なされてきた 歴史の存在をすくい上げることで、多様で公正な社会の実現を目指そうとした。「江戸時代 には絵巻物など日韓関係のカラフルな映像が残っているんです。それは、やはり豊臣秀吉の 朝鮮侵略の反省があるからなんですね。…江戸時代が光の部分だとすると、近代は(日韓関 係の)陰の部分だと思うんですよ。」182という発言にも表れているように、辛基秀の場合、
現実社会における様々な差別や歴史認識の問題を克服するためにも、通信使交流の明るい 時代を取り上げることと、通信使が派遣されるきっかけとなった朝鮮出兵や、近代以降の植 民地期の苛酷な歴史を取り上げることは表裏一体の行為であった。そこで、映画公開と上映 運動の次に辛基秀らが取り組んだ活動の1つが、本章の対象となる 1983 年 10 月に行われ た「大阪築城 400 年まつり」への異議申し立てを行う市民運動と、日朝文化交流の拠点と して 1984 年に開設した「青丘文化ホール」(大阪市天王寺区)の運営である。
1980 年代に入ると、日本は後にバブル景気へと向かう経済の絶頂期を迎えた。好調な経 済力と日米同盟を背景に日本は国際社会での存在感も高め、エズラ・ヴォーゲルの『ジャパ ン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーとなり、国内では「戦後政治の総決算」として憲 法改正を方針に掲げる中曾根康弘が 1982 年に首相に就任したが、こうした日本の国力拡大 は韓国などで戦前の軍国主義への復帰準備となる「右傾化」の兆候として危機感をもって受 け止められ、1982 年 6 月に中国・韓国との間で日本の歴史教科書の記述をめぐる第一次歴 史教科書問題が起こった183。また、国民レベルでは、1981 年にソウル・オリンピックの開 催が決定したことで一般の人々の韓国に対する関心が高まった一方で、前年の 1980 年に韓 国では光州事件が勃発し、民主化運動の盛り上がりと軍事政権による弾圧の激しさは国際
182 「「映像が語る『日韓併合』史」の編者 辛基秀氏にきく」『社会新報』1987 年 12 月 18 日
183 木村幹「歴史認識問題の展開に見る日韓関係」磯崎典代・李鍾久編『日韓関係史 1965 2015 Ⅲ社会・文化』第 5 章、東京大学出版会、2015 年、122 123頁。
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的に報じられ、1960 年代から続く日韓連帯運動も最高潮を迎えた。こうした状況や歴史教 科書問題の発生を受け、韓国の民主化運動への連帯と支援の動きの中から、植民地過去の問 題に関する研究活動や在日朝鮮人の民族差別問題について学び、自己(の政府や社会)の責 任を問い直しながら、それらの問題に取り組んでいこうとする人々が現れた184。
この頃大阪では、1981 年 4 月 8 日に、大阪府知事、大阪市⾧、大阪商工会議所会頭、関 西経済連合会会⾧、日本万国博覧会記念協会会⾧の五者会談による基本的な合意がなされ たことに基づき、松下幸之助を会⾧とする財団法人「大阪 21 世紀協会」が翌年発足し、1983 年から 2001 年までの⾧期間に渡り、大阪を含む近畿一円を世界にひらかれた国際的で文化 的な都市圏にするための様々な政策提言や行事を行う産官学共同の「大阪 21 世紀計画」が 始められることになった185。協会副会⾧は五者会談の代表が就任し、企画委員会の座⾧に梅 棹忠夫(国立民族学博物館館⾧)、佐治敬三(大阪商工会議所副会頭・サントリー社⾧)、副 座⾧に上田篤(大阪大学工学部教授)、作家の小松左京と堺屋太一、山田稔(ダイキン工業 社⾧)が就任するなど、関西を代表する経済人・文化人が数多く名を連ねた。この企画委員 会では「世界と日本の豊かな未来に貢献しようとする大大阪づくり」に向けたグランドデザ インを策定し、「関西国際空港の早期実現」「住民、行政、産業界協力事業の提唱」「都市景 観の向上」「人材育成の提唱」「公共政策の一体的推進」の5つの基軸とそれぞれに関わる重 点事業の提言を打ち出した。こうした取り組みの背景には、1970 年代からバブル景気の時 期にかけ、東京一極集中が進み、日本における大都市としての大阪の存在感が低下しつつあ る現状を打開しようとする意図が込められていた。特に、製造業が集中的に立地していた大 阪は、深刻な人口流出と併せ、工場の国内・海外移転に伴う産業の空洞化を受け、規制緩和 と臨海地域の大規模な開発、戦前から残る老朽化した住宅街の区画整理や戦後に形成され た「スラム」の撤廃などを進めることで、観光業を始めとする新たな産業や多くの人々を再 び大阪に引き寄せ、「世界都市」としての魅力を引き上げようとする政策が試みられており、
「大阪 21 世紀協会」の設立もその一環として位置づけられる186。
そして、この「大阪 21 世紀計画」の幕開けイベントとして企画されたのが「大阪築城 400 年まつり」であり、委員⾧には元通産官僚で作家の堺屋太一が就任した。行事趣旨について は「大阪城築城着手 400 周年を機会に、大阪の歴史をかえりみて、21 世紀に向かう大阪の あるべき姿を考え、国際的で文化的な新しいまちづくりを推進しようという意義ある催し である」187と紹介され、1983 年 10 月 9 日のオープニングパレードを皮切りに、国際文化 イベントやシンポジウム、コンサート、スポーツ大会など多種多様な市民参加型の催しが大 阪城公園一帯を会場に実施された。
184 李美淑、前掲書、137 139頁。
185 新大阪新聞社編『大阪府年鑑 昭和 59 年版』、1984 年、561 562頁。
186 砂原庸介『大阪 大都市は国家を超えるか』中公新書、2012 年、108頁。
187 新大阪新聞社編、同上、565頁。
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【写真2】「大阪築城 400 年まつり」公式ガイドブック
ところが、この「大阪築城 400 年まつり」に対して市民運動の領域から激しい批判が上 がった。端を発したのは、1981 年夏に持ち上がった大阪駅前に豊臣秀吉の立像を作る計画 に対し、彫刻家の粕田光男氏が手作りのパンフレット(題「大阪駅前に豊臣秀吉の銅像を建 立する運動の発想意識を告発する」)を配布し、日朝関係史や被差別部落形成の観点などか ら批判した出来事である188。前章で登場した柏井宏之氏は、この粕田氏の反対運動に触発さ れ「ちょっと待て!大阪築城まつりにモノ申す会」(以下、「モノ申す会」)を設立し、辛基 秀らと共に「大阪築城 400 年まつり」に関する異議申し立て活動を展開した。
柏井氏は、1940 年に植民地統治下の韓国・京畿道水原郡に生まれた。関西学院大学在学 中の 1960 年代は安保闘争や三池闘争、生協運動などの社会運動に参加した後、「勤労者サ ークル協議会」を設立し、各地の労働運動における演劇や音楽公演、詩作などの文化活動に 関わってきた人物であり、特に 1980 年代にかけては、金芝河や金大中救援運動を行う出前 コンサートを支援するなど、韓国の民主化運動や在日朝鮮人と連帯する活動に重きを置い ていた189。同時期の関西地域では、光州事件1周年となる 1981 年 5 月から 6 月にかけ、勤 労者サークル協議会の自主上映部部門を担当していた宮林彦吉を中心に「五月の風」実行委 員会が結成され、「はじけ!鳳仙花」と題し、金芝河の詩を題材とする版画制作を行ってき た画家・富山妙子の巡回展や、関西芸術座の新屋英子が在日朝鮮人女性の一代記を演じる一 人芝居『身世打鈴』の連続公演など市民による一連の文化運動が展開されるなど190、隣国・
188 柏井宏之「上からの<まつり>と民衆の対抗 『大阪築城 400 年まつり』の場合」『新 日本文学6』第 441 号、新日本文学会、1984 年 6 月、63頁。
189 境毅、前掲ホームページ。
190 富山妙子『アジアを抱く―画家人生 記憶と夢』岩波書店、2009 年、189頁。
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韓国の民主化問題の関心を持つ市民グループの運動が大きな高まりを見せていた。この時、
宮林彦吉と大学の同窓生であり、青年運動を共に行ってきた柏井氏はこの「はじけ!鳳仙花」
事務局に参加している。また、1973 年に大阪・梅田の喫茶店劇場で始まった『身世打令』
は、その後各地の民族団体、市民団体、キリスト教会、学校などで公演が重ねられ、2005 年 までに 2000 回を数えるロングラン公演となったが、日本人である新屋英子が演じるに当た っての役作りや衣装、日朝関係史に関するアドバイスには辛基秀が親身になって関わって いる191。「はじけ!鳳仙花」運動に携わった当時の状況について、富山妙子が「東京で開く こうした行事はいつも知識人の中でおこなわれてきたが、関西一円での展覧会や上映会は、
身体障害者もいれば、女性解放グループの日にはキャバレーのホステスもいて、関西の層の 厚みをつくづく感じさせた。『ともかく、一緒にやろやないか』という大阪と、あちこちの 意向を伺い、セクトへの配慮の結果、細ってゆく東京との対比がくっきりと浮かび出てくる のだった」192と振り返るように、同時代の関西という空間においては、韓国問題を始め、社 会における様々な人権問題に意識的な市民たちの運動が起こされると共に、アクター同士 が比較的自由にそれぞれの運動体を越境しながら協力するネットワークが構築されていた ことが伺い知れる。
こうした状況下で行動を開始した「モノ申す会」は、1982 年 12 月 8 日には、大阪府・大 阪市・「大阪 21 世紀協会」に対し、①豊臣秀吉の「大阪築城」を祭ろうとする根拠、②築城 の時期を「交渉に基づく国際性に恵まれ」たとする『基本理念』の歴史叙述の偽造について の指摘と撤回、③府・市・商工会議所が主催した 1942 年 1 月 9 日の「マニラ陥落豊太閤奉 告三五〇年祭り」の自己批判の明確化、④街づくりの一方的な“天下人”側に立つ評価の問題 性、⑤大阪城天守閣の「文禄・慶⾧の役」(壬辰・丁酉の倭乱)を美化する「侵略展示」の 指摘、⑥府・市の<まつり>の費用負担と人員の出向の現状、などといった項目について申 し入れを行い193、3 月 8 日には府担当者側との公開討論会を行った194。その他にも「モノ申 す会」は市民向けシンポジウムや、「秀吉の罪状糾明バスツアー」「“昔築城、今新空港”で犠 牲にさらされる山・川・海・人々を訪ねる旅」などと題した歴史探訪ツアーを企画した。
「大阪築城 400 年まつり」に対する「モノ申す会」の批判はまず、歴史的な大阪の繁栄を 表象する人物として豊臣秀吉を挙げ、その功績を肯定的に取り上げた企画趣旨や歴史展示 の在り方に向けられた。
191 新屋英子『女優 新屋英子―私の履歴書 』解放出版社、2005 年、54頁。
192 富山妙子『はじけ!鳳仙花 美と生への問い』筑摩書房、1983 年、242頁。
193 柏井宏之・辛基秀編『秀吉の侵略と大阪城―ちょっと待て!「大阪築城 400 年まつ り」』、第三書館、1983 年、153頁。
194 討論会当日には「モノ申す会」側の代表として、北尻得五郎(元日弁連会⾧)、山本敬 一(元大阪府議会副議⾧、全港湾関西地本委員⾧)、中北竜太郎(弁護士)、新屋英子、柏 井宏之が出席している。