1.通信使顕彰事業の拡大
これまでの章で見て来たように、1970 年代後半以後の在日朝鮮人歴史家たちの歴史実践 は、日朝関係史や在日朝鮮人の人権問題に関心を持つ多くの市民から共感を集めた。すな わち、人的交流や情報のやり取りがまだ限定的であった当時の日韓関係を背景に、「朝 鮮」へのネガティブなイメージを転換させると共に、日本人が内なる朝鮮観を見直し、朝 鮮半島の人々や国内の在日朝鮮人らとの間でナショナルな境界を超えた連帯の在り方を模 索する上で貴重な歴史として通信使は受け止められてきたのである。
ところが、1980 年代に入ると、両国政府によって「日韓新時代」が戦略的に打ち出さ れ、ソウル・オリンピックの開催決定や韓国国民の海外旅行自由化が進むことにより、観 光などを目的とする両国間の人的往来と交流が漸次拡大していく。更に決定的だったの は、1989 年に韓国で民主化が実現したことである。1990 年代以降は、民主化による韓国 側の政治家の急激な世代交代を受け、既存の政府間または政治家間の交流チャンネルが弱 まっていくことと対照的に、両国の市民社会や地方自治体間の交流やビジネスが飛躍的に 増大していくこととなった240。言い換えれば、1980 年代後半以後における日韓の一般市民 は、直接交流を通じて文字通り「顔の見える隣人」として相手を改めて意識するようにな ったと言える。
こうした日韓をめぐるマクロな変化が起きる時期を境に、両国の政府次元で「日韓友 好」の観点から通信使の歴史を取り上げる諸事業が行われるようになり、またそれらに刺 激された各地域の自治体や市民団体を主体とする通信使の歴史実践が活発化し、全国の関 連自治体をネットワーキングする全国組織としての縁地連が 1995 年に結成されていく。
つまり、1980 年代後半から 1990 年代にかけては、それまでの在日朝鮮人歴史家たちや、
人権や韓国・朝鮮への連帯といった意図から通信使に関心を寄せたアクターたちとは別 に、国際交流や地域活性化、観光振興というベクトルから通信使に着目したローカルなア クターたちによる実践が新たに浮上してくる時期であると言えるだろう。そこで本章で は、こうした 1980 年代以後の日韓関係の変化を踏まえ、ローカルなアクターたちが取り 組んだ新たな通信使の歴史実践の具体例(滋賀県高月町・⾧崎県対馬市・岡山県牛窓町・
山口県下関市)を概観すると共に、その過渡期を生きる在日朝鮮人としての辛基秀が自ら の活動をいかに位置づけ、歴史実践を行っていったかを跡付けていく。
240 李元徳「構造転換期の日韓関係―争点と課題」小此木政夫・張達重編『戦後日韓関係 の展開』第 4 章、慶応義塾大学出版会、2005 年、136頁。
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(1) 2つの「芳洲会」
1980 年代において、地域における通信使の歴史実践の題材として脚光を浴びたのが、対 馬藩で朝鮮外交を務めた儒学者の雨森芳洲(1668~1755)の存在である。雨森芳洲は、近 江国伊香郡雨森村(現在の滋賀県⾧浜市高月町雨森)に生まれ、江戸に出て木下順庵の門 下生として儒学を学び、対馬藩に仕官して「朝鮮方佐役」(朝鮮担当部補佐役)に就い た。後に第 8 回(1711 年)・9 回(1792 年)の通信使来日に際しては、藩の真文役(朝鮮 外交の文章作成、通信使接待役)として随行し、朝鮮語と現地事情の知識を生かして朝鮮 外交の折衝を務めると共に、通信使一行とも交友を深め、申維翰の『海游録』にもその様 子が描かれている。芳洲のもう一つの功績は、朝鮮語学習や日朝外交に関する自身の経験 に基づく数多くの著作を残したことである。特に、晩年に藩主への意見書として著した
『交隣提醒』では、藩として朝鮮との貿易を行いつつ、幕府―朝鮮間の外交実務交渉も担 当する対馬藩の複雑な立場を踏まえ、対朝鮮外交における注意事項や諸事態への対処に関 する現実的な提言が列挙されており、「誠信の交わり」と表現されるように日本とは異な る朝鮮の風俗・慣習・言語・人情に精通して尊重する外交姿勢の重要さを説いている。
先述のように、1970 年代から 80 年代にかけ、在日朝鮮人歴史家たちの活動を起点に、
日本の研究者や一般市民の通信使に対する関心は大きく高まっていくが、雨森森芳洲に関 する歴史研究の着目はそうした通信使研究や近世日朝関係史における対馬藩研究が活発化 する時期と符合している。例えば、1982 年に田中健夫『対外関係と文化交流』、泉澄一の
『雨森芳洲全集』全 4 巻(1979 1984 年)が刊行されたことなどにより、近世日朝外交 における実務者として活躍した芳洲の事績が広く知られるようになった。また、1989 年に は、日韓比較文化研究者の上垣外憲一が一般向けの新書として『雨森芳洲 元禄享保の国 際人』(中央公論社)を刊行し大きな反響を得た。同書では芳洲の生涯や『交隣提醒』な どの著作を紹介すると共に、比較文化論の視点から読み解くことで、近代の西欧諸国に先 んじて民族・文化の平等と相互尊重を説いた先進的な外交思想家としての姿を描いてい る。
この雨森芳洲について、その歴史を顕彰するローカルな市民団体の活動が 1980 年代に 入り活発化した。1つは、その出生地であり「雨森芳洲関係資料(重要文化財 86 件、市 指定文化財 150 件)」を所蔵する滋賀県⾧浜市の「芳洲会」、もう1つは、対馬市に拠点を おく「対馬芳洲会」である。
まず、⾧浜市の「芳洲会」の始まりは戦前にさかのぼることが出来る。元来、18 歳で雨 森村を出た芳洲が対馬藩に仕官した後に現地で没し、その子孫たちも明治以降対馬や東京 に住んだことから、芳洲に関する様々な史料は出生地である近江の雨森村ではなく対馬や 東京で⾧らく保管されていた。ところが、1920 年に雨森集落近くにある富永尋常高等小学 校の藤田仁平校⾧が、地域の教育振興のために始めた先人調査の過程で芳洲の存在を知 り、対馬の郷土史家や東京の雨森家の子孫たち、更に行政・教育関係者と協力しながら、
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当時地元では全く埋もれていた芳洲の事績調査と顕彰活動を始めた241。1924 年 3 月には芳 洲の顕彰団体として「芳洲会」が伊香郡をあげて設立され、総裁に滋賀県知事、会⾧に伊 香郡郡⾧が就任し、東京の子孫から雨森家に伝わる関係資料が一括して寄贈された。芳洲 会では、集落にあった雨森屋敷を買い取って教育施設としての「芳洲書院」を開設し、雨 森芳洲の顕彰・教育振興活動や芳洲文庫の管理を行ってきた。
古代史研究者の上田正昭は、江戸時代の儒者である新井白石に関する調査の過程で同門 であった雨森芳洲に関心を持ち、1968 年秋に雨森集落を訪れた。その際、芳洲書院で閲覧 した『朝鮮風俗考』『交隣提醒』などの文献資料を通じて芳洲の思想に強い感動と共感を 覚え、これを契機に雨森芳洲や通信使に関する研究を新たに始めることとなった242。上田 は芳洲の歴史的意義について「江戸時代の知識人としては、まさしく抜群の国際人であっ た。…すぐれた教育者であり、語学者であったばかりでなく、いわゆる「鎖国」のなかで の自主対等の外交を実践した外交家であり、アジア、とりわけ東アジアのなかの日本のあ るべき姿を展望しえた、きわめてまれにみる思想家であった」243と高く評価しており、地 元住民による芳洲の歴史顕彰を積極的に支援した。また、辛基秀の映画『江戸時代の朝鮮 通信使』内では、『交隣提醒』の内容や高月町の芳洲書院、芳洲神社を取り上げ、芳洲文 庫の世話人が「芳洲先生は他の方とは全然違う朝鮮観を持っておられた」「対馬にいて、
朝鮮と日本の間を取り持っていらっしゃった」と語るインタビューの様子が挿入されてい る。同年 6 月に京都府立勤労会館で開かれた映画上映会と講演会に上田が登壇した際に、
バス 1 台を貸し切って会場に駆け付けた雨森家の子孫たちが急遽加わり、檀上で上田と握 手するサプライズも起きた。この時期に通信使の映画公開や先述のような芳洲研究の成果 の刊行が相次いだことが芳洲の再評価に繋がったと言えるだろう。
241 佐々木悦也「雨森芳洲関係資料の伝来と芳洲の思想を受け継いだ⾧浜市の取り組み」
NPO 法人縁地連朝鮮通信使関係地域史研究部会編『朝鮮通信使地域史研究 活動報告
―』、2017 年、30 31頁。
242 上田はこの時の雨森訪問と文庫見学について以下のように回想している。「…とくに
『交隣提醒』のおわりのころの箇所で述べている「誠信の交りと申す事、人々申す事に候 へども、多くは字義を分明につかまつらざる事これあり候。誠信と申し候は、実意と申す 事にて、互ひに欺かず争はず、真実を以て交り候を誠信とは申し候」と書かれている文章 が強くわが胸にこだました。十八世紀の前半に、誠信外交の本質をみごとに表現したこの ような人物がいたのかと驚嘆した。夕暮れ迫るなかを懐中電灯をもって一字一字読んだ時 の感動は今も忘れられない。…朝鮮通信使にのめりこむようになったのには“芳洲だまし い”への実感があった」/上田正昭『人権問題研究叢書⑬ 歴史のなかの人権文化』公益財 団法人世界人権問題研究センター、2015 年、138 139頁。
243 上田正昭「いまに生きる芳洲だましい」『季刊青丘』第 8 号、青丘文化社、1991 年 5 月、72頁。