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レア・マニングと「バスク・チルドレン」

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レア・マニングと「バスク・チルドレン」

砂山 充子 はじめに 2019 年 9 月 28 日、イギリスのケンブリッジでブループラークの除幕式がおこなわれた。「デ イム・レア・マニング、子供の福祉と女性の権利のために尽力。ホマートン・カレッジで教師 としての訓練を受ける。かつてここにあったニュー・ストリート・ラゲッド・スクールで教壇 に立った」とある。マニングの友人で政治家のスタン・ニューエンス(Stan Newens)が除幕し た。翌2020 年 1 月 15 日にはブループラークが設置されたアングリア・ラスキン大学でマニン グを記念するイベントが開催された。かつてマニングが居住したハーロー(Harlow)には彼女 の名前を冠したデイ・ケア・センターもあり、壁面には教え子の隣で微笑むマニングの彫刻が ある。スペインのビルバオにはレア・マニング・ガーデン(Jardines de Mrs.Leah Manning)とい う名前の広場がある。なぜ、イギリス人女性の名前がビルバオの広場につけられたのか。それ は彼女がスペイン内戦中にバスクの子供たちのイギリスへの疎開に尽力したからである。「バ スク・チルドレン」1 と呼ばれる約4,000 名の子供たちがイギリス人教師とスペインをつなぐこ とになった。 本稿ではマニングの人生をたどりながら、なぜ彼女が「バスク・チルドレン」について心を 砕いたのだろうという点をあきらかにする。また、「バスク・チルドレン」の疎開に到るまでの プロセスや彼らのイギリスでの滞在、スペインへの送還にマニングがどのようにかかわったの について、諸組織の議事録などの一次史料2 から明らかにしていく。 これまでの研究ではマニングが「バスク・チルドレン」の疎開に尽力したことは語られても その動機については言及されていない。1991 年にはマニングの友人でもあったニューエンスと ビルが執筆した評伝が出版された3。彼女の自叙伝や当時の新聞などを利用し、コンパクトにま とめているが、彼女の教育者や政治家としての活動が中心の記述となっており、スペイン内戦 期についての言及は数ページのみである。アンジェラ・ジャクソンはスペイン内戦下のイギリ 1 「バスク・チルドレン」の渡航、イギリス政府の対応などについては拙稿を参照。砂山充子「スペイン内 戦と子供たち―バスクからイギリスに渡った子供たちを中心に」専修大学人文科学研究所編『災害―その 記憶と記録』専修大学出版局、2018 年。

2 今回主として使用する史料はウォーリック大学がデジタル化した Warwick Digital Collections(以下 WDC

と略記する)である。https://cdm21047.contentdm.oclc.org/ から閲覧できる。史料の一部はロンドンの Marx Memorial Library にも所収保存されており、そちらも閲覧したが、今回引用の際には WDC の所蔵レファレ ンスを使用する。

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ス人女性についての研究でマニングに触れてはいるが、内戦に関わった多くの女性の一人とし て名前をあげ、「バスク・チルドレン」の疎開に尽力したと述べているだけである4。スペイン 内戦でイギリスの労働運動が果たした役割について研究をしているブキャナンの著作でもマニ ングの名前は所々で言及されるにとどまっている5。内戦に関わった外国人女性知識人について の著作でウサンディサガもマニングに触れている6。ウサンディザガはマニングの自叙伝を「単 なるルポルタージュとしてだけでなく、文学的にも歴史的にも素晴らしい」7 と高く評価してい るものの、ごく簡単にマニングの紹介がされているだけで、議員を務めた期間やマニングが共 産党員であったなどといった事実誤認がいくつかある。マニングの思想は労働党の中でも左派 で、スペイン内戦中に国際義勇軍の資金集め等にも協力しているので、共産党にシンパシーを 抱いてはいたが党員であったことはない。彼女が熱心に活動をしたイギリス全国教員連合 (National Union of Teachers)でもマニングが共産党員なのではないかと疑われ調査された。当 時の共産党書記長のハリー・ポリット(Harry Pollitt)から「みんなレアのことが大好きでとて も尊敬している。(中略)しかし党はきっちりとした運動組織で、レアは完全なる個人主義者 だった」8 という回答を得ている。マニング自身はこの点について「何人かは共産党に入党した。 より多くの人々は裾野の広い組織に所属し、共産党員と一緒に働いた。私自身もそうした」9 語っている。 1970 年にはマニングの自叙伝が出版された。マニングの自叙伝については情報が正確さを欠 いているとの指摘もある10。確かに年号の違いや人名の誤りなどが散見されるが、数十年前の 出来事を振り返っているので致し方あるまい。ただこうした誤りが単に記憶違いなのか、意図 的なのかはわからない。自叙伝でマニングは雄弁に自らの人生を振り返り、おそらくは議事録 や会議録といった史料には現れない交渉などについても語っている。本稿では自叙伝にも大き く依拠しながら、マニングと「バスク・チルドレン」のかかわりについて検討していきたい。

4 Angela Jackson, British Women and the Spanish Civil War, Routlegde, London, 2002. 本書はインタビューや音 声資料、回想録、研究書等を駆使して、多くのイギリス女性のスペイン内戦へのかかわりを明らかにした 労作である。

5 Tom Buchanan, The Spanish Civil War and the British Labour Movement, Cambridge University Press, 1991. Tom Buchanan, Britain and the Spanish Civil War, Cambridge University Press, 1997. Tom Buchanan, The Impact of the

Spanish Civil War on Britain, Sussex Academic Press, 2013.

6 Aránzazu Usandizaga, Escritoras al frente : Intelectuales extranjeras en la Guerra Civil, NEREA, San Sebastián, 2007.

7 Ibid., p.47.

8 Leah Manning, A Life for Education, Victor Gollancz, London,1970, p.109. 9 Ibid., pp.107-108.

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1 レア・マニングの生涯

エリザベス・レア・マニング(nee. Elizabeth Leah Perrett 旧姓はペレット)は 1886 年 4 月 14 日、イギリスのウースターシャーのドロイトウィッチに生まれた。12 人兄弟姉妹(そのうち 生き残ったのは6 名)の長女だった。母親は教師で、父親は家族の経営していた木材業で働い ており、家族は救世軍のメンバーでもあった。レアが14 歳の時に両親は彼女だけをイギリスに 残してカナダに移住したため、彼女はロンドンに住む母方の祖父母に育てられた。ヴィクトリ ア朝時代のイギリスで兄弟姉妹のうち一人だけを残して祖父母と生活をするというのは特段珍 しいことではなかった。レアはそれまでの長女の役割から脱して、家族の中で一番年下になり 可愛がられるのが嬉しかったと語っている11。祖父はきわめて時代を先取りしている人物で急 進主義でありながら、熱心なメソジストでもあった。家のあらゆる部屋にはグラッドストンの 肖像が飾ってあったという12。宗教と政治的急進主義が両立するということを学んだのはこの 祖父母の家庭での生活だった。一緒に育った同世代の血の繋がらない叔父で初恋の相手でも あったディヴィッド13 をボーア戦争で失ったこともあり、彼女は反戦、平和主義の立場をとる14 ロンドンの学校ではスチュワート・ヘッドラム(Stewart Headlam)と出会う。ヘッドラムは アングリカンチャーチの牧師でキリスト教社会主義の信奉者だった。その影響を受けたレアは ケンブリッジで師範学校に通った際に当時、キングス・カレッジに通っていたヒュー・ダルト ン(Hugh Dalton)の紹介を得てフェビアン協会に入会する。ダルトンは政治活動を通して生涯 の友人となる。ダルトンはのちに国会議員となり、1930 年代にはドイツの脅威に対して再軍備 を主張し、チェンバレンの宥和政策に反対を唱えた人物である。彼女が初めて教鞭をとったの はケンブリッジの貧しい子供たちの学校だった。放課後には子供たちが滞在できるセンターを 作り関連組織と連携して恵まれない子供たちへの食糧や牛乳を提供していた。

1914 年には太陽物理学者のウィリアム・マニング(William Henry Manning)と婚約する15 同時に学校に退職届を出したが、働き続けてくれないかと依頼された。「既婚の先生!そんなの 1914 年にはあり得なかった」16 との言葉に表されているように、当時、女性は結婚すると仕事 を辞めることが多かった。女性参政権運動が高揚しつつある時代でも、女性に求められる規範 は依然として「家庭の天使」であり、結婚して夫と子供のために尽くすというものだった。マ

11 Manning, A Life for Education, p.12. 12 Ibid., p.20.

13 ディヴィッドは祖母の以前の婚姻での息子だった。マニングの家系図は Bill & Newens, op. cit., pp.84-85.

14 Manning, A Life for Education, p.27.

15 結婚証明書には 1913 年とあるが、マニングの自叙伝では 1914 年に婚約とある。結婚証明書は Bill &

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ニングは教師として働きながら、第一次大戦が始まるとケンブリッジで救急看護奉仕隊(VAD Voluntary Aid Detachment)でボランティアの看護師としても働いた。教師の仕事が終わると病 院へと向かっていた。看護師として働いた経験が後に「バスク・チルドレン」への対応やスペ インへの医療品援助組織で役に立つことになるが、多忙を極め精神的にも不安定だったため、 1918 年に長女が誕生するも生後数週間で亡くしてしまう。 1920 年にはケンブリッジに新設されたオープン・エア・スクールの校長に就任する。また他 の何名かの女性と共に治安判事に任命される。1920 年代にはケンブリッジで独立労働党や教員 組合で熱心に活動し、学校関係の雑誌にコラムを持ち数年にわたって連載を持っていた。1924 年にはイギリス教員組合(National Union of Teachers)の全国代表委員会のメンバーに選出され、 1930 年にはイギリス教員組合委員長になった。女性が委員長を務めるのは 60 年の教員組合の 歴史の中で4 人目だった。就任演説では「20 世紀の偉大なルネッサンスは教育に絶対的な価値 を置くことです」17 と教育の重要性を主張した。1931 年 2 月には下院補欠選挙で労働党からロ ンドンの東イズリントン地区から出馬し当選を果たした。しかし同年 10 月の総選挙では保守 党が勢力を伸ばし敗北した18。その後は全国教師連合役員に任命され、1942 年までそのポジショ ンに留まる。 1930 年代にファシズムが台頭すると、それまでの平和主義者としての立場は揺らいでいく。 「私の思考は異なる回路をたどり始めた。10 代の私はディヴィットの無駄な死の経験から、戦 争は野蛮で相違を解消する原始的な方法だと思っていた。文明化した社会は外交という手段を 使うべきだと考えていた」19 と語る。レフト・ブック・クラブ(1936 年創設)や反戦・反ファシ ズム委員会の活動に積極的に関与する。反戦・反ファシズム委員会のメンバーとして、1934 年 10 月のアストゥリアス武装蜂起後のスペインを視察訪問した。1936 年の労働党大会ではエレ ン・ウィルキンソン(Ellen Wilkinson)やアナイリン・ベヴァン(Aneurin Bevan)ら労働党内の 左派メンバーとともにスペインの共和国政府に武器供与をすべきだと主張したものの、受け入 れられなかった。労働党も保守党同様にスペイン内戦への不干渉政策を支持した。エレン・ウィ ルキンソンは 1936 年の自らの選挙区のジャロー行進20 で主たる役割を演じたことでよく知ら れ、後には教育大臣も務めた人物である。マニングはエレンがとても好きだったという。スペ イン内戦で共和国側を援助する活動には多くの女性たちが党派の違いをこえて参加していた。

17 Bill & Newens, op. cit., p.24.

18 この時に当選を果たしたのがセルマ・カザーレである。カザーレや同時代のイギリスの女性政治家たち

については、奥田伸子「「政治」に参加する女性たち−戦間期イギリスの女性議員と官僚―」『名古屋市立大

学人文社会学部研究紀要』15 号、名古屋市立大学、2003 年 11 月、161-186 頁を参照。 19 Manning, A Life for Education, p.141.

20 ジャロー行進とは失業と貧困にあえぐジャローの労働者が 1936 年 10 月 5 日から 31 日にジャローから

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スコットランド出身の保守派の政治家アソル伯爵夫人(Katharine Marjory Stewart-Murray, Duchess of Atholl)も新聞紙上にアピールを出し、「スペイン救援全国合同委員会」(National Joint Committee for Spanish Relief 以下、NJCSR と略記する)の代表を務めるなど尽力した。アソル 夫人はスペイン内戦へのかかわりを契機に「赤の公爵夫人」と呼ばれるようになった。 マニングは「私は政治が好きだが、政治家ではない」21 と語る。自分が思ったことをすぐ実現 しようとする姿勢から、向こう見ずと思われることもあった。選挙で候補者を立てようとする 際にも、資金調達の目処が立たなくてもまず進めてしまうのだった。これと同じことが「バス ク・チルドレン」の受け入れの際にも起こった。イギリス政府が子供たちの受け入れを認めた 時に出した条件の一つが、政府としての資金援助は一切しない、ということであった。したがっ て運営資金は自分たちで調達しなければならなかった。 マニングは生涯を通じてあちこちへと旅もしていた。ドイツには何度も行っている。最初に ドイツに行ったのは1918 年で、スペイン風邪の影響で学校が閉鎖された時だった。ある人から ドイツでは封鎖のために子供たちの栄養状態が悪化していて、彼らを支援しているクウェー カー組織が人材を探しているという話を聞いたからだった22。マニングはスペイン語はあまり できなかったがドイツ語は話せた。ドイツではバカンスを過ごしたこともあったし、度々訪れ るユダヤ人家族がいた。ローザ・ルクセンブルクにも面会したという23「バスク・チルドレン」 のために何度もスペインとイギリスの往き来をしたのはもちろんのこと、家族が移住したカナ ダを始め、ソ連にも何度か出かけている。第一次大戦末期や1930 年代のドイツでは、戦争の悲 惨さやファシズムの台頭を目の当たりにした。第二次大戦後まもなくティトー政権下のユーゴ スラヴィアに招聘されている。女性組織の招聘でポーランドを訪問した際には共産主義とカト リックが両立していることに驚いている24 マニング自身は「決して際立ったフェミニストであったことはない」25 というが、マニングは 生涯を通じて女性や弱い人々に心を寄せていた。議会や全国教師連合では常に男性たちから敵 視されながらも怯むことなく活動を続けた。マニングは回想する。「男性政治家は女性の同僚に は悪意のある物言いをした。『彼女が今の職を得たのは誰もやる人がいなかったからさ。彼女は きっと失敗するだろう』というのを聞いた」26。当時のイギリスで男女同一賃金を訴え、産児制 限や無痛分娩などの問題を取り上げたというのは立派な「フェミニスト」だったと言える。

21 原文は I am a political animal, but I am not a politician. Manning, A Life for Education, p.76. 22 Ibid., p.69.

23 マニングはローザ・ルクセンブルクについて、想像していた激しい革命家というイメージとは異なり、

とても楽しく面白い人物だという印象を得た。Ibid., p.70.

24 Ibid., p.212.

25 Alison Oram, “Leah Manning”, in H. C. G. Matthew, Brian Harrison (eds.), Oxford Dictionary of National

Biography, Vol.36, Oxford UP, 2009, p.502.

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マニングは自叙伝で夫や義両親に愛情を持って接していたと語るが、夫とはかなり早い時期 から一緒に生活をすることはなくなっていたらしい27。第二次大戦後の1945 年にはエッピング 選出の下院議員となり政治家として活動を続ける。1950 年に議席を失って以降は政治家として ではなく、教育者としての仕事に尽力する。家族計画にも取り組み、未婚のカップルに避妊法 を提供するクリニックをハーローに設立した。これは当時、議論の的となった。そして1970 年 に退職するまで、ハーローの学校で教壇に立ち続けた。晩年は退職教員向けの住宅に住み、1977 年9 月 15 日 91 歳で亡くなったが、遺体は遺言により献体され葬儀はおこなわれなかった。マ ニングは教師として恵まれない子供の学校、女子校、男子校など、あらゆる種類の学校で働い た。その自叙伝のタイトル通り、彼女の人生はまさに『教育に捧げた人生(A Life for Education)』 であった。 2 マニングとスペイン内戦 マニングとスペインとのかかわりは、アストゥリアス蜂起(1934)後のスペインを訪問した ことに始まるが、それ以前の1931 年の夏、下院のテラスで一人のスペイン人女性と知り合いに なっていた28。その女性から1934 年 11 月初旬にスペインの状況についての手紙を受け取って いた。 スペインでは1931 年 4 月に第二共和国が成立し、左派政府が誕生していたが、1933 年の総 選挙では右派が勝利した。1934 年 10 月、右派の政府に対して、アストゥリアスの炭鉱労働者 が蜂起した。マニングはその年のクリスマスに反戦・反ファシズム委員会の依頼を受けて、ア ストゥリアスを訪問した。反戦・反ファシズム委員会ではレフト・ブック・クラブで知り合っ たジョン・ストレイチー(John Strachey)とともに共同事務局長をつとめていた。訪問の目的は スペインでのファシズムの勢力伸張と左派政党の動きについて調査することだった29。アス トゥリアスで捕られた労働者たちがいかにひどい拷問を受けたかや、その犠牲となった女性や 子供たちについて報告している。孤児がカトリックの施設に収容されることになり、それまで の「民主主義」「スターリン」「レーニン」「博愛」という名前から、カトリック名に改名させら れ、洗礼も受けされられたというエピソードを綴る30。アストゥリアスの女性たちがいかに勇 敢に革命に参加したかについても語っている31。マニングは自分と同じ教師経験者で国会議員

27 夫ウィリアムは 1952 年に死去した。Bill & Newens, op. cit., p.79. 28 Leah Manning, What I saw in Spain, V. Gollancz, London,1935, p.136. 29 Ibid., p.30.

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になったアストゥリアス選出の社会党のマティルデ・デ・ラ・トーレ(Matilde de la Torre)とベ ネランダ・ブランコ(Veneranda Blanco)との面会を望んだが叶わなかった32。マニングはこの 訪問の体験を『私がスペインで見たこと(What I saw in Spain)』という著作として発表している が、「多くの血を流したひどい弾圧はおさまったものの、私は本能的にそれが終わりではなく、 スペインにおけるもっと恐るべき事態の始まりだ」33 と感じていた。スペインの抱える問題は 解決したわけではなく、また何らかの政治的な動きがあると思っていた。それが的中したのが スペイン内戦の勃発だった。 1936 年にスペイン内戦が始まった時34、マニングは労働党議員プリット35 とともにソ連にい た。エレン・ウィルキンソンも代表団を率いてソ連にいた。マニングはウィルキンソンにも翌 日一緒にロンドンに戻って、スペインに行くためのアレンジをしないかと声をかけていた。し かし、ウィルキンソンはすでに船で出発した後だった。マニングは1934 年にスペインへの入国 でトラブルがあったウィルキンソンはともかく、自分は問題なくビザを取れるだろうと考えて いた。 彼女はすぐにソ連からロンドン経由でスペインに入国するルートを模索した。友人のスペイ ン人を介して、知り合いの駐英スペイン大使のアスカラテ(Pablo de Azcárate)と連絡を取る。 アスカラテは駐仏スペイン大使アラキスタイン(Luis Araquistáin)に掛け合ってくれた。パリ行 きのフライトが予約され、スペイン入国準備が整うまでの間、パリのスペイン大使館に滞在し た。マニングはもはや議員ですらない彼女をスペインの人々が歓待してくれたのは、アストゥ リアス蜂起についての著作で弾圧の残虐さを告発したことが評価されたのだと考えていた36 大使館に数日滞在し、スペイン入国書類を入手したが、それは人民戦線側の5 つのグループが サインしたものだった。つまり共和国陣営のスペインへの入国許可を得たことになる。11 月 3 日にパリを出て国境の町イルンに向かい、イルンからアリカンテにフライトした。そこで1 泊 してからマドリードに向かった。こうした変則的なルートをたどらなければならなかったのは、 内戦により国が二分されていたため、反乱軍側の地域を避けながらのマドリード行きだったか らだ。予定よりも時間がかかったがそれが幸いした。彼らがマドリードの南10 数キロメートル にあるヘタフェの空港に到着した時、空港は爆撃を受けた直後だった37。そこから彼らは多く 32 Ibid., pp.106-107. ブランコは社会主義者の家庭を訪問しただけで逮捕されていた。

33 Manning, A Life for Education, p.109.

34 マニングは 1937 年と書いているが、実際には 1936 年。「嵐が始まった時」と書いているが、渡西の時期

を考えると、7 月 18 日の内戦勃発直後ではないと思われる。Ibid., p.112.

35 マニングは Johnny Pritt と書いているが、本名は Denis Pritt である。Ibid., p.112. 彼がソ連にいたのはモ

スクワ裁判傍聴のためだった。モスクワ裁判とはスターリンが反革命分子を裁くためにおこなった公開裁

判で市民とジャーナリストが参加していた。第1回開催日は1936 年 8 月 19 日である。

36 Ibid., p.113.

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の外国人特派員が宿泊していたホテル・フロリダに向かった。マドリードの中心のグランビア 通りは拳を振り上げた興奮した人々で溢れ、パシオナリアの異名で知られる共産党指導者ドロ レス・イバルリの声が響いていた。マニングはアラキスタインからデル・バジョ(Julio Álvarez del Vayo)外相宛の手紙を携えていた。マドリードでの戦闘は激しく、共和国政府はその時、バ レンシアへの移転準備の最中だった。デル・バジョはすぐに現れて、アラキスタインからの手 紙を読むと「レア、これこそが君のやることだ。君の議員時代の仲間たちに現在の状況を伝え、 代表団を出すようにと言ってくれ。我々は輸送手段や医療品、武器が必要だ」と訴え、さらに、 すべての外国人は午前中にマドリードを出なければなら図、交通手段を手配したので、バレン シアに行くようにと付け加えた38。ニューズ・クロニクル紙のウィリアム・フォレスト(William Forrest)が同行していた。バレンシアに向かう途中、アナーキストの検問を受け、マドリード に戻るようにと言われた。2 日の拘束後にマドリードが持ちこたえたとのニュースが伝わり、 無事にバレンシアへたどり着いた。デル・バジョは彼らが一刻も早くイギリスに帰国するよう にと説得した。バルセロナも訪問してから帰国したが、マニングは今回のスペイン訪問をほと んど周囲には知らせていなかった。「スペイン人友人のバラガン夫妻と数名の大使館員以外、夫 でさえも、私がスペインにいるなどと露ほども思っていなかった。私はモスクワで恒例の秋の バカンスを楽しんでいるはずだった」39 と語る。 議会ではフォレストが演説をすることになっていた。マニングはロビーで各議員を待ち伏せ し、自由党のロイド・ジョージ、労働党のグレンフェル(David Grenfell)に呼びかけた。保守 党にはグレンフェル経由で依頼してもらった。しかし、労働党首アトリーの態度は冷ややかだっ た40。満杯の会議室でフォレストは「穏やかなトーンで冷静にしかし力のこもった」41 スピーチ をした。グレンフェル率いる代表団がマドリードを訪問することになった。マニングは振り返っ てこれがのちに活動を始める「スペイン医療支援委員会」(Spanish Medical Aid Committee、以 下、SMAC と略記する)の活動の萌芽になったと考えていた。内戦中を通してマニングは「バ スク・チルドレン」援助だけでなく、SMAC での活動を熱心におこなっていた。

1936 年 8 月 8 日に開催された社会主義医師連合(Socialist Medical Association)とインターホ スピタル社会主義協会(Inter-Hospital Socialist Society)の合同会合で SMAC の設立が宣言され る。医師のハイヤシンス・モーガン(Hyacinth Morgan)、チャールズ・ブルック(Charles Brook) とインターホスピタル社会主義協会の1 名が代表部となった42。SMAC はスペインに医療品や

38 Manning, A Life for Education, p116. 39 Ibid., pp.117-118.

40 アトリーは 1937 年 12 月にイギリス人義勇兵が戦っている前線を訪問しこの訪問を契機にアトリーの態

度は変化し、スペイン共和国へのイギリスからの支援を後押しするようになった。Ibid., p.119.

41 Ibid., p.119.

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医療スタッフを届けるために設立された組織でスペイン内戦に人道的支援をすることを目指し た最初の組織だった43。各地で会合を開いては資金を集め、スペインに医師や看護師、医療品、 食料、車両などを送った。前線や後衛での病院も運営していた。活動中に命を落としたメンバー もいる。 SMAC では、人道的目的のために政治信条の違いをこえて協力し仕事をするかという点を 巡って、内部で様々な葛藤や対立があった。主たる論争は共産党員や彼らに近しい人々と一緒 に仕事をするかという点だったが、本稿での記述はマニングにかかわることに限定する44。マ ニング自身は既に指摘したようにSMAC であれ、BCC であれ、裾野の広い組織でイデオロギー の違いを越えて人道的な観点から活動していた。SMAC は主たる援助対象は共和国陣営であっ たが、反乱軍陣営のために戦い負傷したモロッコ兵45 を救護したケースもあった。BCC も共和 国陣営を支持する家庭の子供たちだけでなく、反乱軍陣営を支持する家庭の子供たちも避難さ せた。中心的な活動をした人物の一人でもあるイサベル・ブラウンは労働党員だったが1921 年 に共産党に入党していた。マニングは資金集めについてこう語る。 「当初、会合をアレンジし、資金を集めるのは簡単だった。一回の会合でトレイが指輪やブ レスレット、ブローチ、時計、ありとあらゆる宝石でいっぱいになった。現金が1,000 ポンド くらい集まることもあった。イサベルと私はもっとも効率的な方法で資金を集める方法をわき まえていた。とは言っても、私はイサベルほど上手ではなかった。(私は感情的になりすぎ、ふ としたきっかけで泣き出してしまうのだった。)私も上達し、二人ともパッと見ただけでいくら 集まったのかわかるようになっていた。」46 1936 年 12 月に設立メンバーのチャールズ・ブルック医師が辞任し、後任を決めることになっ た。1936 年 12 月のモーガン宛の書簡でマニングはイサベル・ブラウンと医師のマラック (J.R.Marrack)と相談した結果、SMAC の事務局の仕事を無償で引き受ける意志があると伝え た。マニングは馬鹿げた考えだと思うが、事務局長は男性で医師の方が良いだろうとの意見が あるので、マラックに無給の書記(Honorary Secretary)を引き受けてもらい、実質的な仕事は マニングがやっても良いと提案した。ただし、マニング自身、多忙を極めるので(週に5、6 回 は会合に参加していた)、彼女が働けない場合に備えてアシスタントを雇うという案を伝えた47 と略記する。ref.292/946/41/188, WDC. 43 Buchanan, 1997, op. cit., p.101.

44 SMAC 内部での争いについては以下を参照。Buchanan, 2013, op. cit., pp.43-63.

45 スペイン内戦では当時植民地だったモロッコの兵士が反乱軍側で戦っていた。

46 Manning, A Life for Education, p.120.

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それに対して、モーガンはすでに会議でマニングを無給の書記に任命することが決まったと返 信した48。事務局長にはジョージ・イエーガー(George Jeger)が就任した。モーガンはマニン グや共産党員のイサベル・ブラウン、イサベルと近いマラックがSMAC で中心的な役割を担う ことは望んではいなかった。マニングの自叙伝によると、ジョージとサントス・イエーガー (Santos Jeger)兄弟はマニングが親しくしていたユダヤ人の友人だった。ジョージはショーデッ チの区長、サントスは医師で二人とものちには労働党下院議員となる。ブキャナンによるアディ ソン文書(Addison Papers)からの引用によると、ジョージが SMAC の仕事を引き受けたとき、 業務は混沌状況で「ジョージのタイピストの主たる仕事はイサベル・ブラウンのためにジョー ジの行動を見張るものだった」49 という。そしてマニングが「バスク・チルドレン」の仕事を始 め忙しくなると「二人の関係はうまくいかなくなり、マニングはジョージを嫌い、事務所に出 勤もしなければ、直接話をすることもなかった」50 という。のちにSMAC を解散する段階になっ て、マニングはジョージを含めたスタッフの生活の心配をしていることから考えても、自叙伝 の記述からも二人の関係はそんなに悪くなかったと思われる。 当初、資金集めはうまくいっていたが、彼らはろくにスペイン語も出来なければ、スペイン の状況をわかっていなかった。混乱状況の中であまりに「素人っぽく無計画」51 だったとマニン グ自身認めている。そこで彼らはロシータ・タヴソン(Rosita Davson)というポーランド人女 性を雇うことにした。ダヴソンはタフで長時間労働を厭わない人物でスペインでの生活経験も あり、スペインを良く知っていた。そして流暢なスペイン語を話せた。ダヴソンはスペイン語 の他にフランス語、ドイツ語、ロシア語が話せ、様々な国の義勇兵が戦っていたスペインでは 適役だった52。当初は通訳としてかかわっていたが、次第にスペインでの医療品配給、人の往来 なども含めて、SMAC 委員会の仕事の実務面のかなりを担った53。マニングはダヴソンと良い 関係を築いていた。マニングは彼女と2 年連続で夏をバレンシアで一緒に過ごし、病院や前線 への物資の手配をおこなった54。SMAC で果たす役割が大きくなると、組織の中でダヴソンが スペイン寄りだとの批判が出るようになる。バルセロナにいたダヴソンがイギリスの備品をス 292C/946/2/147(ii) マニングは 12 月 7 日と書いているが、返信を出したモーガンは 17 日付けだったと書い ている。モーガンが急いで返信を出したのが21 日だったことを考えると、手紙を受け取ったのは 17 日だっ たのだろう。

48 “Letter from H.B. Morgan to Leah Manning”, Dec. 21st,1936, ATUC, Spanish Medical Aid Committee, ref. 292C/946/2/147(i), WDC.

49 ブキャナンによる Addison Papers からの引用。Buchanan, 1997, op. cit., p.105. Addison Papers は SMAC の

運営責任を務めた医師Christopher Addison のメモである。

50 Ibid., p.105.

51 Manning, A Life for Education, p.121. 52 Ibid., p.121.

53 Rosita の果たした役割については SMAC の議事録に詳細に記されている。

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ペインに譲渡しようとしていると批判された55。批判はあったにせよ、SMAC の活動はダヴソ ン、そしてスペインに滞在していたピーター・チャーチル(Peter Churchill)56 に依存する部分が 大きかった。 マニングは国際旅団の活動も援助していた。内戦勃発1 周年の 1937 年 7 月 18 日にはロンド ンのトラファルガー広場で国際旅団を援助する委員会が主体となってデモをおこなったが、マ ニングはイサベル・ブラウンらと講演をした57。国際旅団の負傷兵や家族のための資金集めが 目的だった。 1938 年 7 月にはマニングは SMAC のメンバーとして再びスペインに行ったが、以前とは状 況が変わっていて入国にも数時間かかった。マニングはどういった活動が仕事と認められ、入 国が認められるかを細かく調べて書き送っている。数カ所の病院に加えて、トラックのガレー ジ、兵服の修理工房なども訪問した。修理工房では服の修理だけでなく、病院のリネンの修理 等もしていた。そこではバスクやアストゥリアスから避難してきた女性たちがたくさん働いて いた。マニングは不足している物資、綿布、針、ボタンなどを調達した。工房の活動を少しで も援助すれば避難民の女性たちの助けにもなると考えたからである58 山あいの小さな病院や前線の病院を訪問することもあった。ダヴソンと運転手のアレック・ ワインマン(Alec Wainman)59 が同行した。エブロ河の戦いの前線病院ではナン・グリーン(Nan Green)が働いていた60。ここには重傷を負って運び込まれていたハリー・ドブソン(Harry Dobson) という青年がいた。ドブソンはマニングが南ウェールズ61 で開いた反ファシズムの講演会に参 加していた。ドブソンはトニイパンディでの反ファシズム大会後、収監されたが、出所するや

55 Buchanan, 1997, op. cit., p.105.

56 Peter Churchill はスペインではソ連の飛行士と一緒に住んでいたという。Manning, A Life for Education,

p.121. ピーターは第二次大戦中にはフランスで特殊作戦執行部の仕事をした。Winston Churchill は叔父。 57 Charlotte Franken Haldane, “One Year’s Fight for Democracy in Spain”, International Brigade Wounded and Dependents’ Aid Committee, July, 1937, ATUC, ref.292/946/16b/80, WDC.

58 Leah Manning “Reports received from Mrs. Manning and circulated to the Committee in accordance with resolution 10th August 1938”, ATUC, ref.292/946/42/16, WDC.

59 ワインマンは 1936 年 9 月から 38 年 8 月までスペインで SMAC の運転手として働いた。運転手の仕事の

かたわら写真を撮影していた。オックスフォード大学で言語を学び、スペイン語だけでなく、イタリア語、 ロシア語も話せ、のちにはカタルーニャ語、バスク語まで学んだ。2019 年にカタルーニャ歴史博物館で彼 の写真展が開催された。”Beyond the Trenches (1936-1939): Photographs by Alec Wainmann”, Museu d’Història de Catalunya, 2019.息子のジョンがキュレーターを務めた。ジョンは数年前、偶然にスーツケースの中から父親 が撮影した写真を発見した。この展覧会では前線でハリー・ドブソンの看病をするマニングの写真が展示

されていた。ジョンはSerge Alternés のペンネームで、父親の写真を掲載した本を出版した。Serge Alternés,

Alec Wainmann, Lives Souls: Citizens and Volunteers of Civil War Spain, Rondsdale Press, 2015.

60 ナン・グリーンは SMAC の病院で働いていた。夫のジョージは 1938 年 9 月に SMAC での活動中に命を

落とす。ナン・グリーンについては、Paul Preston, Palomas de Guerra, Plaza & Janés, Barcelona, 2001.を参照。

61 バスクと同じ炭鉱地帯の南ウェールズの人々はバスクに対して親近感を抱いていた。ウェールズとスペ

イン内戦についてはRobert A. Stradling, Wales and the Spanish Civil War, University of Wales Press, Cardiff, 2004.

がある。「バスク・チルドレン」とウェールズについては、砂山充子「「バスク・チルドレン」の受け入れを

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否やスペイン行きを志願したという人物だった62。マニングはドブソンが亡くなるまでずっと 彼の傍らにいた。「私はこの訪問で出会った極限状態の下、勇気を持ち、沈着に溌剌と働き、プ ロとして仕事をしている医師や看護師たちをとても尊敬している」63 と記している。後衛の基 幹病院で働く看護師は前線に行きたがっていたが、マニングは彼女たちに基幹病院の重要さを 説明した。あるところでは、レントゲン用の器具やフィルムの要求を、別の病院では薬のリス トを受け取った。 3 「バスク・チルドレン」の受け入れ交渉 SMAC を通じての物資供給中心の仕事が変化したのは 1937 年の春だった。共和国政府の首 都マドリード攻防戦が膠着状況になると、反乱軍は攻撃の矛先を北部のバスク地方に向けた。 マニングは一刻も早くバスクの女性や子供たちを避難させなければならないと考えた。そのた めにはビルバオへ赴く必要があった。その頃、マニングは資金集めの集会をイギリス各地で精 力的におこなっていたが64、ある集会を終えて帰宅したマニングを一人の男性が待ち構えてい た。彼はマニングにビルバオへ向かうようにと提案をした。ロンドンからビルバオに行くには、 フランス領バスクのサン・ジャン・デ・リュズに飛びそこからビルバオへ入るというルートが あった。この時、マニングはひどい風邪を引いていたが、この申し出を断ろうとは全く思わな かった65。その日に彼女が空港に到着するとは誰も思っていなかったため、空港には誰も迎え に来ていなかった。彼女は車に乗りイギリス領事館へと向かった。在ビルバオのイギリス領事 のスティーヴンソン(Ralph Stevenson)は彼女に会うなり、すぐに帰国するようにと説得しよ うとしたが、マニングは断固として受け入れず、バスクの子供たちのイギリスへの避難を実現 するためにバスク政府首班のアギーレに紹介して欲しいと依頼した66 スティーヴンソン領事とマニングの間はあまりうまくいかなかったが、ニューズ・クロニクル (News Chronicle)記者のフィリップ・ジョルダンの仲介を得てスティーヴンソンがマニングを アギーレのところに連れていってくれた。バスク州政府の多くのメンバーがマニングとの会合 に出席していた。マニングはアギーレが口にした4,000 名という数字に驚いた。マニングはそ れまでにマドリードやバレンシアからフランスに避難した250 名から 500 名位の子供について

62 Leah Manning “Reports received from Mrs. Manning and circulated to the Committee in accordance with resolution 10th August 1938”, ATUC, ref.292/946/42/16, WDC.

63 Ibid.

64 1937 年 3 月 14 日には Canning Town, 16 日 Sutton, 19 日 Burnt Oak, 21 日 York、Spanish News:The Organ of

the Friends of the Spanish Republic ,Vol 1. No.10, March 12, 1937. 及び Bulletin of the National Joint Committee for Spanish Relief, No.4, March, 1937.

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は知っていて今回もそれくらいの人数だと予想していたからだ67 マニングがビルバオに到着したのは1937 年 4 月 24 日だった。フィルスによると、この時、 ビルバオに行ったのは、マニングだけではなく、クウェーカー組織のエディス・パイ(Edith Pye) も一緒だったという68。しかしその点についてマニングは触れていないし、自叙伝にパイの名 前は一度も出てこない。彼女がパイに言及していないのは単に記憶違いなのか、意図的なのか はわからない。その2 日後の 4 月 26 日、反乱軍を支援するドイツ、イタリア空軍機によりゲル ニカが爆撃される。ゲルニカ爆撃の日、マニングはフィリップ・ジョルダンやジョージ・ステ ア69 らジャーナリストたちと一緒に過ごしていた。ゲルニカ爆撃のあと、マニングはバスクの 子供たちの避難をなんとか実現しようとあちこちに連絡を取り始める。ステアが『ザ・タイム ズ』紙に送電し、『ニューヨーク・タイムズ』にも掲載された記事により、戦略目標ではない小 さな町への爆撃のニュースは瞬く間に世界中に伝わった。イギリス世論もこのニュースを境に 共和国陣営支援へと大きく動き、政府による「バスク・チルドレン」引き受けの大きな契機と なった。 5 月 2 日、マニングは労働党党首クレメント・アトリー宛に「爆撃が続いているので、ゲル ニカが繰り返される前に女性や子供を救いたい。バスク政府はイギリスに 4,000 名を運ぶ船を チャーターすると言っている。NJCSR がすぐに行動を起こしてほしい」という電報を送った70 労働組合会議(Trade Union Congress)のエルネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)にはフランスの 組合による数百名の子供の受け入れ準備が整ったと伝え、ゲルニカの再来があるかもしれない ので、イギリスでも受け入れを検討してほしいと依頼した71。同様の文書を労働組合会議のウォ ルター・シトリン(Walter Citrine)にも送った72 1937 年 5 月 3 日にはシトリンからマニング宛に「交渉は続行中である。ロンドンでバスクの 代表との直接交渉は控えたし」73 という電報が送られている。この文面からマニングがいかに 積極的に動いていたか、それを面白くないと思っていた人が少なからずいたことがわかる。そ 67 Ibid., p.125.

68 Jim Fyrth, The Signal was Spain, Lawrence and Wishart, London, p.221.

69 ステアが滞在していたのはアルバセギ-ゲリカイス(Arbacegui-Gerrikaiz,スペイン語名は Munitibar)とい

う村で、ゲルニカから15km ほどのところである。Nicolas Rankin, op.cit., p.13. ジョージ・ステアについて

Nicolas Rankin, Telegram from Guernica, Faber and Faber, 2003. 及び Buchanan, “The Journalism at War”, in

The Impact of the Spanish Civil War on Britain, Sussex Academic Press, 2013.を参照。

70 Leah Manning, “Telegram from Leah Manning to Clement Atlee”, May 2nd, 1937, ATUC, ref.292/946/11/90, WDC. 71 Leah Manning, “Telegram from Leah Manning to Ernest Bevin”, May 2nd, 1937, ATUC, ref. 292/946/11/91, WDC. フランスでは労働組合が中心となって避難民を受け入れたが、子供の受け入れはフランス労働総同盟の機 関の「スペイン児童の子ども受け入れ委員会」が中心におこなった。フランス総同盟は共産主義者によっ て管理されていたという。タラ・ザーラ『失われた子どもたち』三時眞貴子・北村陽子監訳 岩下誠・江川 布由子訳、みすず書房、2019 年、72 頁。

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の直後の「インタビューのメモ(私的で機密文書扱い)」でシトリンはマニングがイギリスで多 くの人々に送電をしていて、アトリー宛のものがシトリンにも送られてきており、エレン・ウィ ルキンソン宛のものは「マンチェスター・ガーディアン」紙に掲載されたと報告している。駐 ロンドンのバスク代表リサソ(José Ignacio Lizaso)もマニングのやり方が気に入らなかった。 リサソはウィルフリッド・ロバーツ(Wilfrid Roberts)議員からマニングからの電報を見せられ たが、そこにはロンドンのバスク代表部が子供たちの避難のための船をチャーターするように との依頼が書かれていた。リサソはマニングに雇われているのではないので、バスク州政府か らの指示を待つと述べた74 シトリンは5 月 3 日付のメモ75 で、マニングからの電報についてコメントを残した。マニン グが様々な人に連絡を取っていることに不快感を示し、バスク州政府からの連絡があってしか るべきだと考えていた。マニングが熱心に動いていたので、スペインではマニングがNJCSR の 代表と受け止められていた。バスク州政府の代表が4 日に労働組合会議に来ることになった。 リサソは4 日にバスク州政府からの電報を受け取り、4,000 名の子供たちの避難のために二 艘の船のチャーターを命じられたが、これが彼がバスク州政府から受け取った唯一の電報だっ た。すなわち主導権を握り、バスク州政府からの指示を受け、実際に避難を遂行した中心人物 はマニングだった。マニングがあまりに積極的に動いたため、それを面白く思わなかった人も 多かった。「内務省も外務省もバスクにシンパシーを抱いてはなかった。どちらも面倒なことだ と思い、私をでしゃばりなお節介だと思っていた」76 とマニングは回想する。マニングは 教員 組合や政党などでの活動でも常に個人主義だったし、彼女自身そう言われていたと告白してい る77。何かを思い立つと実現可能性などはあまり考えず、まず動き出す。そうした姿勢は資金調 達の目処が立たなくても、候補者を担ぎ出そうとしたケンブリッジ時代の党での活動にも表れ ている。それは彼女の生き方そのものであった。 労働組合会議のシトリンはバスクからの子供受け入れ方法は2 通りあると考えていた。一つ は労働組合会議が中心になって引き受けるという方法、もう一つは何らかの組織を立ち上げ、 そこに様々な組織から代表をだすという方法だった。前者は金銭面、手続き面を考えても難し いので、後者がよいとされた。代表を出す組織として、労働組合会議、労働党、セイブ・ザ・ チルドレン(Save the Children Fund)、クウェーカー組織、NJCSR であった。SMAC には共産党 のイサベル・ブラウンが参加していたが、シトリンは共産党との協力はしなくないと考えてい

74 Walter Citrine, “Memorandum of Interview”, Basque Children Committee, Minutes and Documents, May 4th- 6th 1937, ATUC, ref.292/946/39/114, WDC.

75 Walter Citrine, “Memorandum of Citrine”, May 3rd,1937, ATUC, ref.292/946/16a/40, (I, II, III), WDC. 76 Manning, A Life for education, p127.

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た785 月 5 日の NJCSR の会合で特別委員会の設置が了承された。この時に提案されたメンバー は労働組合会議から2 名、クウェーカー組織から 1 名、SMAC から 1 名、カトリックからウェ ストミンスター大聖堂司祭1 名、NJCSR から 3 名(うち 1 名は NJCSR の事務局長のマクナマ ラ)、さらに労働党が望めば代表1 名を受け入れることになった79 5 月 14 日付のマニングからシトリンへの電報では、出発に向けて準備は整いつつあるが、ス ティーヴンソンから外務省からの許可はまだ出ていないと連絡があったという。マニングはシ トリンに人道的観点から至急許可を得てくれるように望むというメッセージを送った805 月 3 日には下院でバスクからの子供たちの受け入れについて取り上げられていたが、許可は出てい なかった。外務省から子供たちを受け入れの決定がされた後もマニングは交渉を続け、受け入 れる子供の人数を倍にし、年齢を引き上げさせた81。こうした交渉を行う中で彼女にも身の危 険が迫ってきたのだろう。1937 年 5 月 18 日付でバスク州政府からマニングは通行証を受け取っ ているが、そこにはバスク領域内での自由な移動の保証に加えて、必要な場合の武器の使用許 可がスペイン語とバスク語で明記されている82 4 「バスク・チルドレン」の疎開とイギリスでの生活 実際の疎開をどのようにおこなったのかを見ておこう。マニングは人々が避難するようにと いう雰囲気づくりを以下の3 点に気を配った。細心の注意を払った周知方法、避難者選定にお ける完全なる公平性、面倒を見る人へ信頼関係の構築である83。ラジオや新聞を通して、キャン ペーンが行われた。バスク州政府首班のアギーレ、大臣、司祭などが話をし、マニングの写真 や組合、政治家とのインタビューが連日新聞に掲載された。ラジオ・ビルバオを通じて子供の 疎開を呼びかけ、新聞では「母親への手紙」を掲載した。 マニングは公正性を打ち出すために、まず、自力で避難生活を送れる人を募り、その人たち をハバナ(Habana)号とゴイセカ-イサラ(Goizeka-Izarra)号で脱出させた。5 月 6 日に女性 1,000 名と子供たち2,500 名がフランスへと避難した。5 月 9 日にはフランスからの船 3 隻で 2,000 名

78 Walter Citrine, “Memorandum of Interview: subject Spanish situation Evacuation of Basque Children”, May 4-6th, 1937, ATUC, ref. 292/946/16a/39, WDC. このメモは「プライベートかつ機密」とされている。

79 Walter Citrine, “Memorandum of Interview: subject Spanish situation Evacuation of Basque Children”, May 4-6, 1937, ATUC, ref. 292/946/16a/39, WDC. このメモは「プライベートかつ機密」とされている。

80 Leah Manning, “Telegram from Leah Manning to Walter Citrine”, May 14th, 1937, ATUC, ref. 292/946/37/180, WDC.

81 当初、外務省から許可が出たのは5歳から 12 歳までの 2,000 名だったが、交渉の結果、7歳から 15 歳

までの約4,000 名を受け入れることになった。

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の老人と子供たちを送り出したが、このうち半分は自活できる人、残りの半分はバスク州政府 が準備したフランス領バスク84 の滞在場所に行くことになった。5 月 16 日にはハバナ号とゴイ セカ-イサラ号はバスクに戻り、再び 4,000 名を避難させたが、この人たちは自活できる人だっ た。 フランス南部やフランス領バスクやスペイン東部には家族のグループが避難した。イギリス、 ベルギー、ロシアには子供たちだけで避難した。のちにメキシコに行った子供たちもそうだっ た。マニングの担当は渡英する子供たちの面倒をみることであったが、結果的には他国へ向か う場合の出港にも立ち会った。様々な会合に参加し、子供たちの両親や同伴する教師、助手た ちとの集まりでも話をした結果、スペイン側では人々の信頼を得ることに成功した。他方で、 カンタベリー司教や自由党のロイド・ジョージ、労働組合会議のシトリンらに電報を送り、避 難の必要性を訴え続けた。 大きな障害があった。イギリス政府が4,000 名もの子供たちの受け入れを望んでいなかった という事実、それにイギリス領事スティーヴンソンの頑なな態度だった。そこでマニングはジョ ルダンに助けを求めることにした。ジョルダンは名案を教えてくれた。領事が国王就任式85 出席のため、ビルバオを留守にすることになり、その間の領事代理でマニングの友人のオハン グレン(Ojanguren)86 の元で手続きを進めるという案だ。ただし、実際にオハングレンがどの ような手続きをおこなったのかは不明である。 ビルバオ郊外のサントゥルセから約4,000 名87 の「バスク・チルドレン」、95 名の教師、120 名の子供の面倒をみる助手(セニョリータス)、15 名の聖職者を乗せた「ハバナ号」がイギリ スのサウサンプトンに向けて出港したのは、1937 年 5 月 21 日早朝だった。マニングも同行し、 船酔いに苦しむ子供たちの面倒をみた。「リチャード、オードリーと私は2 昼夜の間、下痢と吐 瀉物の水たまりの間を滑りながら走り回った。子供たちに水を与えながら、波を荒げているの はファシストじゃないのよと話すのだった」88 と語る。サウサンプトンに到着し、検疫を受けた 子供たちはしばらくの間、近くのノース・ストーンハムの屋外キャンプに滞在した。キャンプ で健康診断を受ける子供たちを見守る白衣姿のマニング89 や、エプロンをかけて子供たちの散 髪をするマニングの写真90 も残っている。キャンプは一時的な滞在場所だったので、その後の 84 バスクはスペインとフランスの両国にまたがった領域である。 85 この時に戴冠したのはジョージ6世。戴冠式は 1937 年 5 月 12 日に実施。

86 マニングは Oganguerran (p.127),Oganguerren (p.130) と誤記。Manning, A Life for Education, pp.127, 130.

87 「バスク・チルドレン」の正確な数については諸説ある。登録したが実際には乗船しなかった子供もい

て、その数が明らかにならないと正確な数は判明しない。

88 Manning, A Life for Education, p131. リチャードは Richard Ellis、オードリーは Audrey Russell のことで、

ともに子供たちに同行した医師。マニングはリチャードの姓をHill と書いている。

89 Ramón Guerra de la Vega, Los niños de la Guerra Civil, 2017, Madrid, p.26.

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滞在場所のアレンジをする必要があった。子供たちは徐々にイギリス各地に設置された施設へ と引き取られていった。

子供たちのイギリス滞在の面倒をみる役割を担ったのが、この目的のために設置された組織 「バスク子供委員会」(Basque Children’s Committee、以下 BCC と略記する)だった。BCC の最 初の会合は1937 年 5 月 31 日に下院で開催された。出席者は提案にあった人数よりも多く 28 名 が集まった。労働党、救世軍、クウェーカー組織、SMAC、労働組合会議などから集まり、そ の場でこの組織がNJCSR の下部組織ではないと確認された91。今後、疎開した子供たちの面倒 はこの組織が中心的に担っていく。 すでに1936 年 9 月にスペイン内戦に対して不干渉の方針を決めていたイギリス政府は、バ スクからの子供たちの受け入れを認めたものの、費用は一切出さないという条件を出した。し たがって、子供たちの面倒を見ること、そのための資金調達はすべて BCC に任されることに なった。受け入れる子供は共和国陣営を支持する家庭の子供だけでなく、反乱軍陣営を支持す る家庭の子供も含まれていた。 子供たちのイギリスでの滞在先は修道院やカトリックの学校の場合もあれば、篤志家が提供 した大邸宅も、小規模な家の場合もあった。中には収容所のような場所もあった。子供たちが 滞在した場所は当初は「センター」と呼ばれ、のちに「コロニー」と呼ばれるようになるが、 コロニーはイングランドのみならず、ウェールズやスコットランドにもあり100 ケ所以上あっ た92。ただし、それぞれの設置時期や閉鎖時期は異なっており、未だにその実態がよくわかって いないコロニーもある。 BCC が中心になって、子供たちの送り出しや滞在の調整をおこなったが、実際にあちこちの コロニーを実際に訪問し、問題点を調整したのはマニングだった。急遽閉鎖しなければならな くなったコロニーに収容されていた子供の行き先の確保にも動いた。例えば、1937 年 9 月 17 日のBCC 会議での報告によると、ダイムチャーチ、ブラッドフォード、スカーバラー、ブライ トンのセンターについての報告がなされ、閉鎖しなければならない場所については代替施設に ついても報告もされた。 ロンドンの北東エセックスのセイドン・ボア(Theydon Bois)にはマニングの名前を冠したコ ロニーができた。ナタリア・ベンジャミン(Natalia Benjamin)93 はマニングの邸宅だったと述べ セス日、2021 年 1 月 15 日)

91 “Minutes of the Executive Committee meeting of BCC”, May 31st, 1937, ATUC, ref.292/946/39/107, WDC.

92 現在までのところで分かっているコロニーについては、このページを参照。“Directory of colonies” , Basque

Children’s Association ’37, https://www.basquechildren.org/colonies/directory (アクセス日、2021 年 1 月 10 日)

93 ナタリア・ベンジャミンはハバナ号でイギリスに渡った教師の娘である。2003 年に設立された Basque

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ており94、筆者もそう記述したが95BCC の議事録を読んでみると賃借物件だったと判明した。 当初、ウォンステッド(Wanstead)地区事務所が建物の賃借を拒否したことが報告されている96 マニングの邸宅ではなかったものの「レア・マニング・ホーム」という名前で知られ、マニン グが頻繁に訪れ子供たちの面倒をみていた。賃借拒否問題は解決し、レア・マニング・ホーム はロンドンの教員組合のメンバーを中心に運営された。 マニングはBCC のメンバーとして、子供たちが幸せに過ごせるように尽力した。各地の滞在 場所を訪問し、問題があれば解決に尽力した。誰も内戦が長期化するとは思っていなかった。 子供たち自身も受け入れる側もイギリスでの滞在はせいぜい3 ヶ月くらいだろうと思っていた。 実際にはそれ以上に滞在が長くなり、最終的に帰国をせずにイギリスに残った子供たちもいた。 次第に資金が不足し97、子供たちの帰国により閉鎖する施設も出てきた。施設を提供している 組織の都合で子供たちの滞在が難しくなる場合もあった。資金集めのために子供たちもイギリ ス各地を巡り、時には外国にも出かけ、バスクやスペインのダンスや歌を披露した98。スイス・ ツアーの報告99 や、アメリカ・ツアーの計画100 もなされている。 キャンプでの子供たちのレクリエーション活動が足りないと思ったマニングはレクリエー ションやトレーニングの協会やフォークソング協会などと連絡を取り対策を検討した101。ノー ス・ストーンハムのキャンプでは、映画上映会や人気ボクサーを招いての催しが開催され、レ ア・マニング・ホームでは子供たちは隣接するゴルフ・コースやエッピングの森で散歩したり、 サッカーをしたりしていた102外部の学校に通いさらに高い知識を身につける子供たちもいた。 必要とあれば、SMAC に協力を求めた。キャンプでチフスが発生すると、ワクチンを至急準 備して欲しいという要請をした103。肺結核で死亡した少女の葬儀の準備を任されたのもマニン

94 Natalia Benjamin, “Woodberry, the colony at Theydon Bois” http://www.basquechildren.org/-/docs/colonies/ theydonboiswoodberry,(アクセス日、2020 年 12 月 15 日)

95 砂山充子、2018 年、前掲論文、p.237.

96 “Report on the centres by Mrs. Manning”, BCC, Sept.17th,1937, ATUC, ref. 292/946/37/43, WDC.

97 子供1人当たり、1週間に 10 シリング。現在の金額では 25 ポンド程度。

98 「バスク・チルドレン」の歌やダンスの公演活動については、M.Isabel Gejo-Santos, “De Leah Manning a

Rosita García Ascot. Cantar y bailar para vivir. Redes filantrópicos en torno a los niños vascos refugiados en Gran Bretaña (1937-1939)“, en Adelaida Sagarra Gamazo (coord.), Liberales, cultivadas y activas Redes culturales , lazos

de Amistad , Ediciones Universidad Salamanca, 2017. を参照。

99 1939 年 1 月の BCC の議事録で報告されている。6 名の子供たちがスイスのリゾート地で公演をし、多く

の資金が集まり大成功だった。“Minutes of BCC”, Jan.10th,1939, BCC, ATUC, ref.292/946/40/15, WDC.

100 このツアーについてはアメリカ人ジャーナリストで国際旅団でも戦ったルイス・フィッシャー(Louis

Fisher)からイサベル・ブラウン宛に連絡があった。子供たちだけでなく、付き添いの BCC のメンバーが アメリカを回るのに良い時期と思われた。 “Minutes of the joint meeting of BCC and NJCSR”, Feb.8th,1938. ATUC, ref. 292/946/39/33, WDC.

101 “Minutes of Executive Committee meeting of BCC”, June 21st ,1937, ATUC, ref.292/946/39/85, WDC.

102 Terry Carter, “Vicente Romero returns to Theydon Bois” https://www.basquechildren.org/-/docs/colonies/ theydon boisvicenteromero (アクセス日、2020 年 12 月 4 日)

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グであった104 バスクが反乱軍側の支配下に置かれて以降、マニングの反乱軍陣営への訪問は不可能で、帰 国する子供たちについての交渉に出向くことも、帰国に同行することもできなかった。マニン グのスペインへの訪問先は共和国陣営の領域だったカタルーニャ、バレンシアになる。 1937 年 10 月にはカタルーニャを訪問し、NJCSR の委員会で避難民について報告している。 「これは1919 年にドイツでの援助活動で見たのと同じ光景だ。ガリガリの手足、異常に膨らん だお腹、虚ろな眼差し、青ざめた顔色」105 と避難民の栄養状態の悪さを懸念する。11 月には NJCSR と BCC の合同会議で、ビルバオを訪問したメンバーの報告がおこなわれた。内容は秘 密裏と確認された報告会では、ビルバオでは未だ貧困状態で暮らしている人が多いこと、子供 たちの帰国を要請しないとどうなるのかと心配に思っている両親もいること、反乱軍陣営政府 は子供500 名の帰国のための船を送る準備があるなどが報告された。バスクから避難していた 親たちと面会したマニングは、子供たちが無理やり帰国させられてしまうのではないかという 彼らの懸念を伝えた。議論の結果、個別対応ではなく、在カタルーニャのバスク代表と連絡を 取ることになった1061938 年 1 月には両親がカタルーニャに避難している子供たちが 100 名程 度いることが報告されている。バスク代表からマニングあてに、イギリス以外のヨーロッパ諸 国も子供たちの受け入れを考えているとの連絡があったとも報告された107 5 内戦終結後のマニングと「バスク・チルドレン」 スペイン内戦は1939 年 4 月 1 日に反乱軍の勝利に終わる。それでもマニングの仕事は終わ らなかった。親を失ったり、親が投獄されたりして帰国できずにイギリスに残っていた「バス ク・チルドレン」をどうするかという問題があった。内戦で共和国側の敗北が濃厚になると、 カタルーニャにいた人々は次々と国境を越えた。彼らの多くは南フランスのキャンプ108 に悲惨 な状況下で収容されていた。SMAC の仕事としては、スペインに物資支給、医療提供に行って 負傷者や寡婦になったイギリス人たちの生活を立て直す手助けをする必要があった。 「バスク・チルドレン」については、内戦中からそれぞれの行き先、滞在先の調整をしてい

104 Dolores Ugalde 1937 年 7 月 4 日に 14 歳で死去。ただしここでは少女の名前は Dolores Ugarete と書かれ

ている。“Minutes of BCC”, July 1937, ref.292/946/39/1, WDC. 正しい綴りの出典は Gregorio Arrien, ¡Salvad a

los Niños! Historia del exilio vasco en Gran Bretaña, 1937-1940, Sabino Arana Fundazioa, 2014. 巻末に所収されて

いる子供のリストによる。p.796.

105 Leah Manning, “Report to the National Joint Committee on the Refugee Problem in Catalunya”, Oct.2nd 1937, ATUC, ref.292C/946/3/4.WDC.

106 “Minutes of Joint meeting”, BCC, NJCSR, Nov.23rd 1937, ATUC, ref. 292/946/39/43, WDC. 107 “Minutes of BCC”, BCC, Jan.12th,1938, ATUC, ref. 292/946/39/35, WDC.

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