神 奈 川 大学 法 学 研 究 所研 究年 報19
法 哲 学 か ら み た 自 然 保 護
関西大学法学部教授
竹 下
(法哲学)
賢
竹下私は法哲学を専門としていますが︑法哲学にはちょっとぬえ的なところがあって︑哲学的にも専門でないし︑
法学的にも専門でない︒むしろどっちつかずの存在であるというようなことになるかもしれません︒しかし︑今日は
ちょっとつなぎの役を果たすことができるというふうにも思っていまして︑それは︑一つ大きなグランドセォリーの
ようなことを話して︑自然の権利の思想というものが非常に大きな議論につながるんだということですね︑そういう
話を︑大風呂敷の話をさせていただきたい︒それで︑後の畠山先生には︑行政法のご専門ですから︑法学的な側面と
いうものでお話しいただいたら︑割と割り振りができてつなぎができるんじゃないかと独り善がりで考えておりま
す︒
それで︑私のレジュメを見ていただきましたら︑﹁はじめに﹂というところで結論めいたことを書いています︒こ
れは先ほど自然の権利というようなことでいろいろ限定的に山田先生がお話しになりまして︑そういう結論というも
のを踏まえれば︑私自身も全くそのとおりに考えております︒権利アプローチというものの問題性というのは︑従来
の権利論の立場から動物の権利というものにつなげていくのは理論的に問題があるし︑最終的な自然保護に展開して
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グランドセオリーということになってくるかと思いますので︑できるだけ分かりやすいような形で話をさせていただ したがって︑まず環境国家論というものについてお話しさせていただきたいと思います︒この点はかなり抽象的な
す う
0 くような論が出てる話のではないか︑の結の日今︑あまあまのえのから考てくと︑もい まだま︒すがいざごろこと‑
完結した議論にはなっていないんですけれど
私 も
、
こういうことでご 種の見取り図的な状況だというふうに思います︒しかし︑
ざい そ
ま ︑・つレ
ツ て
の' そ れ に い ろ い ろ
、
ドイ きましたけれども︑環境国
家論というものを背景にし
交 ら 介 ご 紹 か 生 先 告 あ
る一定の理論︑先
い ほ
と思います︒
その点については︑
た ど 私 だ も が
ないかというようなことか い
神 病 川 大 学 法 学 研 究 所 シ ンポ ジウ ム(2000・11・11) 竹 下 賢(闘 西 大 掌 法 学 邸)
くにも限界があるんじゃ
は じめ に
わ た しの環 境 国家 論 の枠 紙 み か らす る と、 環 塘 保 鍍 に悶 して はi櫓 利 ア プ ロー チ か ら責 任 ア ブmチ へ転 換 す る こ とが 要 請 さ れ ます 。 た だ 、 権 利 ア ブ 回 一チ の 有 効 性 を 否 定 して しま うと い う犠 絶 で は な い ので 、 この 点 につ き補 足 を 必 要 と し ます 。 と もあ れ 、 わ た しの 環 境 田家 論 の大 枠 を お鱈 しす る こ と に します 。
1環 境 国 豪 鏑
「環 境 国家 」 の蟹 念 は も と も と、 当 時 の 西 ドイ ツの環 境 法 学 者M・ ク レプ フ ァ ーの 編 著 書 「U鵬[olt8ta8t環 境 国 家 」 に よ って 導 入 され ま した 。 わ た しの 環 境 国窟 諭 も、 これ に 大 い に依 拠 して い ま す が 、わ た しな り に理 諭 展 開 を 深 め て い ます のT.こ こ で述 べ る理 紬 の 責 任 は わ た しに あ り ま す。
環 境 国家 諭 は 国家 論 の レベ ル で の 変 助 理 絵 で すeし か し、 これ は 唯 物史 親 や 杜会 遵 化給 の よ うに 、歴 史 の必 然 的 な発 展 岳 則 を 主 張 す る理 論 で は な く、 舗 値意 識 に導 か れ た 人 間 に よ っで 、人 為 的 に連 成 され るべ き発 展 につ いて の 理 論 で す4ま た 、 この理 諭 は 、 西 欧 の 先 進 国 に つ い て そ の歴 史的 な変 動 の 事 実 を踏 まえ つ つ も、 モ デル 化 した慶 助 理諭 で す の で 、 伽 々 の 国家 に お け る変 助 の現 実 と こ の モデ ル との 関 係̀ま、 新 た に 具 体 的 に 提起 され るべ き 問題 だ と い え ま す。
2自 由 国家 と社 会m
この変 動 羅 諭 は 、 こ の よ う に国 寂 の 目的 理 念 と して の 価 値 を 、 問 題 に す る こ とに な りま ず 。 出発 点 は 、 封麓 国家 を打 破 した近 代 国 家 に あ り ます が 、 この 田 家 は 願 民 の 自 由 を 保薫 す る 「臼 由 国 家 」 で あ りま した.こ の 自由 の 理 念 は 、 田 民 の もつ 理 性 的 人 格 とい う性 質 か ら導 か れ 、 そ の 人 格 性 を信 頼 して 、基 本 的 な国 家 設 計 を門 民 各 臼 の 自 己 決 定 と合 意 に 委 ね る制 度 の根 拠 と もな りま す。 ここ で は 、国 民 の 側 の 自 由 な生 活 を 阻 害 しな い権 利 、 防 御撫 と して の 自 由権 が 、 重 要 鉱機 能 を果 た しますn
しか し、 この 「臼 由 田家 」 の 国家 設 計 は、 経 満 的 側 面 で 廠 業 社 会 を 生 み 出 し、 財 廠 を も た な い融 層 の 自 由 の 侵害 と い う事 轍 を 招 き ま した 。 こ こ に登 塙 す るの が 「社 会 国 家 」 で あ り、 この 国 家 の 目 的 理念 に 国民 の福 祉 に あ り、 国 家 は田 民 の率 福 な生 活 を 平 簿 に係 障 す る こ とに 向 か い ま す 。 こ こで の機 能 雛 念 は 、一 定 の 生 活 採 障 を求 め る撫 利 、 請 求 権 と して の 生 存 権 だ とい う こ とに な りま す 。
この 国家 の 転 携 に つ い て 、 つ ぎ の2点 で注 意 が 必 聾 で す 。 まず 第1に 、 これ ら の国 家 に 典 型 的 な権 利 で あ る自 由権 と生 存権 と は 、 そ の権 利 の性 質 を そ れ ぞれ 興 に して い る と い う こ とで す 。 自由 権 は 、 侵害 とい う直隷 的 な 行為 に対 す る 規 馴 を 、 その 主 た る手 段 と して い ます が 、 生 存 轍 は 、 国 民 の一 定 程 度 の 生 活 を可 能 に す る た め の給 付 を 、 そ の主 た る手 段 と して い ます0前 者 は 、 直線 的 な 瞬 聞 的 現 制 で あ る の に対 して 、後 者 は、 空 閥 的 な水 続 的 給 付 で す。
えるわけ きである
です と が︑その際に︑種の社会的な変動理論をも考えているということ いうような基本的姿勢については︑この環境国家論もそういう問題関 基本的にその問題視角については︑つまり自然の法的保護のあり方であるとか︑
にな 心 自
るわけです︒
そ
をともにしている
の変動理論とい とに考ふううい りべ直見を方すあ値価的法のの然 境と主主環と義う祉福いさお話をれておりました︒で︑義とろこ保と現代法というとこ護で︑環境保護法の限界とうい てい聞よでとこなういいただいたらいんですがきの境置前をしておりますので︑環国家論の話をするための
環 境
れは で 保 れ く
レジュメから離れ
して 護
︑
環 境 保 護 法
と現代法というと第
は る 三
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ヘヘへとカと思レ
要するに第
て こ 環 話 こ ろ 境
二 ま の す
0
そ
あたりにかかわって
神 奈 川 大 学法 学 研 究 所研 究 年報19 田先生のレジュメの 考えますが︑それは
第 特
ポイントを取り出した
二 に い
と 山 と
お話の中からちょっと出発
し 話のつながりといたしま
ては︑先ほど山田先生の きたいと思います︒
第2に 、 「社 会 国 家 」 へ の 変 動 は 、 「自 由 国 家 」 の 廃 棄 を意 味 して は お りませ んa「 社 会 国 家 」 は 「自由 社 会 」 で の富 の分 配 の 不 平 等 を 、 所 得 の 再分 配 に よ っ て是 正 しま す。 し か し、 それ は一 定 程 度 の生 活 を 平 等 に保 障 す る こ とに とど め 、 そ れ 以上 に つ い て は 、市 場 経 済 に よ る産 業 社 会 を維 持 し ます 。 また 、 「自 由 国 家 」 に お い て保 障 さ れ る生 命 ・自由 ・ 財 産 への 権 利 に関 して 、 財 産 権 が 主 と して 制 限 され る こ とに な りま す。 と い う こ と は、 自
由国 家 原 理 を あ る程 度 に制 約 す る形 で 、 社 会 国家 原 理 が 導 入 さ れ る と い う こ と です 。 3環 境 国 家
こ の よ う な 「社 会 国 家 」 で 維 持 され た 産 業 社会 が 、現 境 破壊 を もた らす こ と に よ って 、 国 家 の 目的 理 念 が 新 た に立 て られ るべ きだ とい う こ とに な りま す。 生 態 系 と しての 自然 環 境 の 保 全 が 、 「環 境 国 家 」 の 目的 理 念 で す 。 「社 会 国 家 」 が一 定 程 度 の 幸 福 な住 活 を保 障 す る と い う こ とは 、 健 康 を 害 す る まで に は ゆ か な い 原 因 を も永 続 的 に排 除 して 、 快 適 な生 活 環 境 を維 持 す る こ とを 意 味 して い ます 。 これ に対 して 、 「環 境 国 家 」 は生 活 環 境 と して の 自然 環境 で は な く、 生 態 系 と して の 臼 然環 境 を保 全 管 理 す る こ と を、 目的 理 念 とす るの で す 。
自由 国 家 と社 会 国 家 にお いて 、 目 的 達 成 の主 た る 手段 は 、 そ れ ぞれ 「規 制 」 と 「給 付 」 で したが 、 環 境 国 家 の それ は 「計 画 」 とな りま す 。 共 生 関 係 に あ る生 態 系 と して の 自然 の シ ス テムを 探 究 して 、 それ を 基 礎 に した 保 全 計画 を 作成 す る こ とが 、 この 国 家 の 主 た る任 務 と な り ます 。 こ こで も、 「環 境 国 家 」 は 「自 由 国 家 」 と 「社 会 国 家 」 を 否 定 す る もの で
は あ り ませ ん 。 第3の 国 家 原 理 と して 、 環境 国家 性 が導 入 され る と い う こ とで す 。 生 態 系 と して の 自然 の環 境 保 護 は 、 この よ うな 国 家 的 な 任務 と して は じ めて 可 能 にな る 大 プ ロ ジ ェ ク トだ と思 い ます 。 この 意 殊 で 、 自然 環 境 の 保護 に と って 重 要 なの は 、 権 利 ア プ ロ ーチ で は な く、 責 任 ア ブ ロー チ で あ る と述 べ て い る の で す。 た しか に、 各 人 の 権 利主 張 が 、 訴訟 を 通 じて 、 臼然環 境 の保 全 に つ な が る こと を 、 否定 す る必 要 は あ り ませ ん 。 し か し、 重 要 な の は 、 自然 保 護 の 課 題 を 担 い うる 中心 は 国 家 で あ る と い う認 識 で すa
お わ りに
だ が 、 こ う した 一 般 諭 に 照 ら して わ が 国 を み る な ら、現 状 で は、 こ う した 「環 境 国 家 」 の 実現 は 程 遠 い もの だ とい え ま す 。 環境 庁 の環 境 省 へ の昇 格 は決 ま った に して も、 自然 の 生 態 系 の保 全 計 画 の た め に は 、 環境 保 護 を 国 家 の任 務 規 定 と して憲 法 に 掲 げ る とか の 仕 方 で 、 これ を 国 家 の 基 本方 針 と して採 用 す る こと が必 要 で す。 ま た、 この も とで現 行 の 全 国 総 合 開発 計 画 や環 境 塞本 計 画 、 さ らに 脅然 保 護 法 や 廟然 公 園 法 な どの 自 然 保 護立 法 の も と で の保 全 計 画 を再 編 成 し、科 学 的 な生 態 系 ア セ ス メ ン トに連 結 させ るべ きで す 。 これ が 、 自 然 の た め の 適正 手続 とい え る もの だ と思 い ます 。
しか し、 わ が 国 の現 状 が と うて い ここ ま で達 して い な い と い う こ とで あ れ ば 、権 利 ア プ ロー チ で も って 、 訴 訟 の 面 か ら、行 政 の 決定 を環 境 保 護 の方 向 に督 正 す る こ とが 、 望 ま し い 選択 と な りま すOさ らに 、現 在 を社 会 固家 か ら環 境 国 家 への 過 渡 期 で あ る と位 置 づ け る な ら、 自然 の 権 利 訴 訟 は 、伍 値 意 鐵 の転 換 に 資 す る 有益 な教 育 効 果 を も っ た行 為 で あ る と
いえ ます 。
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うことで言いますと︑その取り上げ方というのはかなり︑先ほど話されたことと似通っておりまして︑それはつまり︑
近代法というものの限界︑これを一つ認識する必要があるということであります︒
近代法というものの基本的な図式というのは︑物権と債権についてですね︑物権︑先ほども申されたような物と人
の支配関係と︑債権上の人と人の契約関係というようなもので考えられています︒人間というものでは相互性という
ようなものが人間と人間の間で考えられていて︑物と人というものの間では相互性じゃなしに︑支配と服従といいま
すか︑利用といいますか︑そういう関係がそこでは考えられているということでございます︒
近代法が実は福祉主義に展開するんですが︑すでに現代社会の近代法は福祉主義の方向へもう変容しているという
ことですね︒この点をまず押さえるべきであろう︒だから︑これは近代法というものの修正という形で福祉国家の法
というものができ上がってきたということです︒つまり︑人と人の契約関係においても︑たとえば労働契約について
労働者保護の側面というようなことが出てきたりしますが︑結局は一種の生活環境保障ですね︒そういうようなもの
が法的に行われていくというような形で︑単純にその法的関係というものが︑自由な人間とそれを取り巻くものとい
う関係では捉えられなくなってくるのです︒
そこにおいて︑国家はその役割を変えていったということになるわけで︑つまり︑それはある一定の生活環境を保
護するために︑最低限の給付︑何か物を与えるというような方向に国家はその役割を転じてきている︒つまり︑自由
な国家というものにおいては︑つまり近代法関係が支配する自由な国家ということでは︑人間の自由な行動あるいは
自由な意思決定というようなものを確保するために︑国家というのは侵害するものを排除する︑そして人間の自由な
行動というものを保障してやる︒その自由な行動を保障したら︑そのあと人間はどのように行動を行ってもいい︒自
由に自己決定をやれと︑つまり︑契約を自由にやれと︒ところが以前そういう自由国家であったものが︑今度は国家
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は自由にやるということは残しつつ︑最低限の生活保障というものを必要とするために︑例えば税金を取っていわゆ
る所得の再分配をやるとか︑いろんな形で生活環境保障というものを行ってきているんです︒
これは︑もう一九世紀のlIもっと前から保障的なものはあるんですが1十九世紀の後半ぐらいからそういう形
の国家が形成されてきています︒そういう話は一種の西洋モデルの発展図式ということになるのですが︑そういう形
の福祉国家ここには社会国家と書いていますがーー社会国家とか福祉国家というものが自由国家の後に登場して
きたということになるわけです︒
それが︑レジュメの一ページ目ですけれども︑二のところで今お話したようなことになるわけです︒特に自由国家
の問題点であったのは︑やはり産業社会の発展というものが国民の生活を︑ともすれば窮乏に陥れるというようなこ
とになって︑だから︑社会国家の典型的な権利として考えられるのは憲法二五条の生存権なのです︒つまり︑一定の
生活保障︑最低限度の保障というような感じになりますけれども︑今はそれ以上の生活保障を求める権利︑請求権と
しての生存権というものが︑社会国家における典型的な権利として考えられるものであるわけです︒
その場合にやはり考えられるのは︑自由権というものと生存権というものとは性格が違うということです︒このあ
たりのところが環境権を考える場合に環境権と言ってしまうと問題なんですがーー環境国家を考︑尺る場合になか
なかヒントになると思っています︒自由権というのは︑侵害行為があったときに︑それに対抗する︑一種の妨害を排
除する規制を手段として保障されているということなんですが︑生存権という場合には︑=疋の生活環境を保障する
ということが目的となっていて︑その生活環境を保障するためには規制という手段もありますけれども︑典型的には︑
ある一定の生活環境を保障するために物を与えることも含めて︑一定の給付的な側面というものが非常に重要な手段
となってくるということです︒
この社会国家の考え方に︑かなり関係してくるのが環境問題であるわけですが︑先ほども山田先生の話の中に出て
きましたように︑公共の福祉という考え方を用いて一定の保護を考えていく︑自然物の保護を考えていくという考え
方があります︒これが私が言うところ︑人間の生活環境の保護の充実としての自然環境保護であるわけで︑これは社
会国家レベルで考えられる問題︑あるいは福祉国家レベルで考えられる問題であるわけです︒だから︑社会国家とい
うのは大体国民の幸福な生活というものを平等に保障するということになりますから︑その国民というか人間として
国民が幸福な︑快適な生活を送るということになれば︑その快適な生活を送るための手段として︑自然とか︑そうい
うものとのつながりができるだけ保障されることになる︒景観なんかもそういう部類に入ると考えることができるの
ですが︑そうすることは︑つまり社会国家の中での枠組みの中で自然保護というものが考えられるというように言え
るかと思います︒
ところが︑そのあたりのところで問題が出てくることになります︒それは︑要するに先ほども言われましたように︑
自然物の保護といっても︑あくまで生活環境から見ているということで︑システム保護的な意味合いがないというこ
とです︒先ほど申されたシステム的というのは︑言葉に反して自然というものの生態系というものを考えない︑そう
いう保護でしかなくなってしまうんじゃないかということです︒
それから︑アマミノクロゥサギを保護したところで︑それは別に人間の命とどうこう関係ないというようなことで
あれば︑それは一体生活環境とどういうつながりがあるのかというようなことも︑疑問点として当然出てくるかと思
います︒そういうような疑問点を踏まえて︑一定の新たな方向性というものをやはり探る必要が出てくるであろう︑
こういうことになってくるわけです︒
それで︑環境国家の話になるわけですが︑その前に︑先ほど松田先生のお話の中で出てきた︑不確実性とかリスク
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の問題︑これをどう考えるかということですね︒この話も非常に抽象レベルの問題で恐縮ですけれども︑そういう話
をさせていただきますと︑松原純子という先生が﹃リスク科学入門﹄という本を書かれております︒そこ(同書五頁)
で引き合いに出されている﹃偶然性と二十世紀﹄という本があるわけですけれども︑それは≧坤巴しdo蒔という人の
書物です︒そこに書いてあるのは︑二十世紀の情報社会では︑乱数発生装置というものが非常に利用されている︒さ
まざまな分野で乱数が使われていて︑その中で確率論的な予測を得ようとする︑科学的な作業というものが非常に支
配的になっている︒つまり︑くじ引きとかその他︑要するに個人の感情というようなものが介入するようなものでさ
え︑そういうものを排除して何らかの形で予測を可能とする一種の法則性︑と言ったら悪いのかもしれませんけれど
も︑そういう偶然性を逆に利用するやり方︑つまり確率論というものが︑非常に重要な数学の分野になってきたとい
うことが言われております︒
これはもう一般的に︑社会生活の分野だけではなしに︑もっと根本的に物理学における確率論︑要するに量子力学
につながっている︒その量子力学の話とこの話がどうつながるのか︑私はちょっとまだわからないんですけれども︑
とにかく二〇世紀の科学的な物の考え方の基本にあるのは確率論であって︑そのことについて︑ある人は確率論が働
く場合︑偶然性というのは無秩序から秩序を生み出す道具であると述べています︒だから︑数理統計学というような
ものの意義が非常に強調されているということになるのです︒
こういうような確率論的な事象というもののなかで︑二〇世紀の人間は生きていく必要があるんだと︑松原先生は
書いているのですが︑そこでは︑また次のようにも述べられています︒私たちはこれから安全論議とかリスクアセス
メントの問題に取り組む必要があるんだけれども︑しかしながら︑これは専門家の関与する科学的︑技術的問題では
なく︑社会的意思決定を含む公衆の問題であり︑その当事者は専門家と一般公衆の両者であるというように述べてお
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られます︒
このことは︑一つはこうした社会的な価値決定というか決定の問題ということに︑やはり科学者だけでなしに︑
我々もそこに介入していくということ︑一種の民主的手続ーこれはどこまで民主的ということは問題になりますけ
れどもーということと︑もう一つは︑確率論というものが法則性による必然性の予測という従来とは根本的に異な
った︑数学的な意味合いを持っていること︑こういうことから出ていることでもあります︒これはまた︑今日は時間
の関係で話ができませんけれども︑中西準子先生という﹃水の環境戦略﹄を書かれたリスクマネージメントの先生で
すが︑自然科学の方の先生ですけれども︑その先生もそういう意味のことを書かれております・
そういうように考えていきますと︑それでは先ほどの話とどう関わるのかということになりますが︑この不確実性
の時代というものの到来と︑社会国家︑福祉国家ができた時代というものとは︑時代的に軌を一にしているというこ
とがあるのです︒最近かなり有名になった︑古典的になったとも言えるんですが︑ベックという人が
開HωH内OO国ω図いいG︒O鵠﹀零という︑﹃危険社会﹄と訳されていた︑そういう本を書いております︒このベックが危険
社会と呼ぶものは︑近代化と文明化ということが必然的に生み出した︑そういう危険というものに取り巻かれるよう
になった現在の社会です︒だから︑近代というものの必然的な発展がそういう危険を生み出して︑そしてそのリスク
を回避する︑そういう手だてを今や考えなければならない︑そういう時代になっているんだといいます︒だから︑そ
ういうような時代の中で︑先ほどの社会福祉の問題もありますし︑そうすると︑例えば生活環境を脅かす公害の問題︑
これもそういう問題のもとで考えることができることかと思います︒
問題点というものを意識していくことにしますと︑そのような危険に立ち向かうという形は︑社会国家的な考え方
が︑いわゆる産業社会である資本主義社会が生み出してきた危険を社会福祉的に︑労働者保護的に是正していくこと
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と同じようなことだと言えます︒﹃危険社会﹄の論者においても︑近代化がもたらした環境破壊︑生活環境破壊に対
処していく︑例えば排水規制とか︑そういうことで対処していくという方向性とが見られ︑十分に並行した状況を考
えることができるということになるわけです︒
そういう社会は︑先ほども松田先生の話に出てきた保険の成立というものが︑この社会国家の成立とほぼ同時期に
出てきているというようなことからも︑この社会国家的︑あるいは福祉国家的な︑そういう考え方が︑どうも一定の
環境基準を決めていくという方向を取ることが分かります︒だから︑生活環境保護もどうもそれは一定の規格を決め
るやり方と似ていて︑この生活環境保護もこの程度のものを最低限保障しようという︑それをある程度計算して出し
ていくという︑そのような世界ですね︒それらのものはかなり通底的に考えることができるし︑その基本はリスク回
避の意味合いで考えられるのではないかということです︒
公害問題から環境問題へという︑私もスローガン的な話はしているんですけれども︑ただ︑それは公害問題が完全
に環境問題に転換するんじゃなしに︑公害問題を含みながら環境問題が登場するのです︒しかしながら︑狭義の環境
問題というのは︑実際には公害問題とは違う一個の求心点を持っているというように考えています︒それはつまり︑
社会国家が出てきたときに︑そうしたら自由国家的なものを排除するかと言えば︑社会主義国家というのはある程度
それを排除したところがあり︑現在また復活させているんですが自由国家的なものを底に置きながら︑上に社会
国家を乗せていくという構成になっています︒
このようなイメージで環境国家も考えてもらいたいというところがあります︒ではその環境国家の社会国家的でな
いところは何かということが問題になってきます︒
それで︑﹁おわりに﹂のあたりで話をさせていただきますと︑レジュメの一枚目の裏の方を見ていただいたら分か
58
りますように︑環境国家というのは単に生活環境に止まらない︑自然環境というものを保全していくことを目指す必
要がある︒だから︑この自然環境というのはどういうことかということになると︑例えば環境基本法ですね︒あの環
境基本法は公害対策基本法を受け入れてその上に何か乗せたような構成で︑有機的連関がないまま並列しているよう
な感じのところがあるわけで︑一方では生活環境︑公害対策基本法を中心とした生活環境保全というものを考えて︑
他方ではリオ宣言を踏まえた地球環境保全というものをもう一方の柱として持っているのです︒
ところが︑生活環境保全のなかにも自然環境というものを考えていく要素があるんですけれども︑その自然環境と
いうのは︑実はそれを保全しようとすれば︑それは自然はもう生態系としてつながっているので︑自然環境というも
のは単純に生活環境でない部分にもつながっています︒それを地球環境と言うことになれば︑そのときに新たな問題
性の認識︑人間の立場というか︑人間の見方としての新たな視点というものが必要となってきます︒それは今日松田
先生もお話しになった︑結局︑人間と自然の共生の意識であって︑とうてい人と物の従来の近代的な支配関係ではな
い︒それから人間の生活環境としての自然環境との関係でもない︒つまり︑関係の底には何か︑人間と自然が共生し
ているというようなことを踏まえた自然保護に対する責任の思想のようなものが一番根底に来るのではないかという
ように考えています︒
その際︑今日も最初にキーワードとして計画ということが交告先生から紹介されました︒私はこの計画というもの
には︑つまり︑自然生態系の中で人間がどういう形で生きていく方向性を探っていくかという︑一番その基本のとこ
ろから︑つまり︑これはもう法律的には上がってこない︑さっき言った責任の思想のような︑そういう根底的な思想
から考えるべきだと思います︒そして︑それを踏まえた形で︑例えばここに書いてある全国総合開発計画ーiこの前︑
五全総というのができたわけですが︑あれはあれで終わりだとも言われているんですけれども1国土環境保全的な
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計画というものを立てて︑それから環境基本法が求めている環境基本計画というようなものとそれをつなげていき︑
それをさらにもろもろの自然保護立法が求めているような計画というものに︑システム的に連関させて整備していく
ことが今後必要であろうかと思います︒そのときに︑社会国家的な意味合いでの環境保護は︑ようやく環境国家的な
意味合いでの環境保護ということになるであろうと考えています︒
ただ︑初めに申しましたように︑現在のところは権利アプローチで訴訟の面から環境の保護というような方向に向
かうというように︑そうせざるを得ないという︑今の法制的な枠というか︑そういう限界というものがあるかと思い
ます︒それはそれで仕方ないと思うんですけれども︑それは同時に︑今言ったような方向での次のステップへの大き
な芽を持っているのだというように私は考えております︒
以上︑まとまらない報告でしたけれども︑終わらせていただきたいと思います︒(拍手)
60
自 然 の 原 告 適 格 に つ い て
北 海 道 大 学 法 学 部 教 授 畠 山 武 道
(行政法・環境法)
畠山それでは報告いたします︒それで︑今日のシンポジウムの進行の仕方を十分把握していないところがありま
して︑レジュメを作ったんですけれども︑ちょっとあちこちに話が跳ぶかと思います︒現行法は今どうなっているん