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文の文法性と容認度 -ドメニコ・ラガナ氏の「これは日本語か」をめぐって-

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(1)

丑研究ノート①

文の文法性と容認度

-ドメニコ・ラガナ氏の「これは日本語か」をめぐって-

GrammaticalnessandAcceptability

-ConcerningProblemsPresentedbyaBookNamed“KorewaNihongo Ka?,'("IsitcorrectJapanese?")writtenbyDomenicoLagana-

江村裕文

EMURAIIi「ofumi

Oはじめに(問題の所在)

1生成文法の目的

21二1本譜における文法的な文と非文法的な文 3「文法性」と「容認度」について

4「容認度」の程腔のはぱを生じさせる要1人|について

Oはじめに(問題の所在)

独学で日本語のかなりの水準のji1K度の能力を狸得し、文筆業のかたわら数年iiiiまで法政大学社

会学部で「日本語表現論」を扣当しておられたドメニコ・ラガナ氏は、その箸「これは日本語かl

の巾で、言語教育について次のように書いている(、。

[1本譜習得の初級段|増を超えて、自然な|」本譜を話したり書いたりできるようになるために、

日本語の文法と取り組んでいるiJIi洋人にとっては、必要なのは、微妙な、日本人特有の心理柵 造や、L1本の社会における、複雑な対人'10係に関する詳しい説lリjなどよりも、むしろ英語など のように、自動iiiI、他動詞、肋、11詞、係助iii1w格助詞、MI調、接続ijiilなどの使い方に関する徹 底的な指導である。

そして、次のように具体的な方法をあげている、)。

1たとえば、係助詞、格助i河なら、係助詞、格助詞の意味やその使い方を教えてから、教材 として使われている短篇小i税などに出ているものにはアンダーラインをさせること

2どうしてその文脈では、その助詞が使われているのか、その代わりに別の助詞が使われた ら、どの程度意1床が違ってくるのか、どうして非文法的、または不自然な文になってしまう のか、その文の榊造をそのままにしておいて、別の助詞を使うことができないとすれば、Mリ の助詞を使うためには、全体の文の榊造にどのような変化を力Ⅱえなければならないのか、な どなど、ありとあらゆる可能性を、微)賎的に説明すること。

その」二で、学習者には「暗記している文を、原文のまま書かせる」ということを行い、原文と 異なった部分があった場合には、

19学習者が香いた文は文法的か、非文法的か。

263

(2)

騨懸灘鶚:ii〃“蕊蕊蕊:11蕊!

研究ノート

罎蕊ZiLiJ口上蕊蕊鼠

2文法的であるとすれば、意味は、原文と同じか、どうか。

3文法的であっても、意味が違うとすれば、どうして違うか。

4非文法的であるとすれば、どうして非文法的であるか。

5全く非文法的ではないが、坐りが悪いとすれば、どの程度どういう文法規則から逸脱して

いるか。

というようなことを、徹底的に説明することが大切であると書いている③。

ラガナ氏はここで、「文法的な文」について示唆的な研究として、「変形生成文法」を日本語

に適用している言語学者たちの研究をあげている④。

なぜかと言えば、そういう言語学者たちは、文法的な例文をあげるのみにとどめる、豊普通の 国語学者たちと違って、日本語で適格文だけを生み出し、適格でない文は生成しないような規 則の集合を決定する目的で、文法的な構文パターンだけでなく、非文法的な例文をあげて、そ

の文法性と非文法性を論じているからである。

ここで問題になっている「文法性」について、ラガナ氏は次のように書いている⑤。

文法性(grammaticalness)というのは、特定の言語において、その母国語話者にとって、適 格(well-fOrmed)と認められる文のことであり㎡母国語話者は、当然のこととして、その言語の 文法を所有し、その言語で作られた文が、他のすべての母国語話者と共有している文法の規則

によって正しく作られているかどうか、ということについて直観的に判断を下すことができる。

この考え方が「生成文法」の立場から見て妥当なものなのかどうか、以下で検討したい。1で

は、まず「生成文法」の基本的な考え方について概略し、次に2で、ラガナ氏の調査結果に見ら れる、日本語における文法的な文と非文法的な文についての文法学者の判定と日本人学生の判定 のずれを観察し、3では、その判定のずれに関わる「文法性」と「容認度」について考察し、4

では、「容認度」の程度はばがなぜ生じるのか、について考えてみたい。

Oの注

①ラガナ(1988)、54ページ

②同上55ページ

③同上55-56ページ

④同上56ページ

⑤同上56-57ページ

1生成文法の目的

チヨムスキー(1965,1970)は、「言語理論は、主として、まったく等質的な言語社会における理

想上の話者・聴者(idealspeaker-listener)を対象として扱うものであ①」い「ある言語の文法 というのは、理想状態における話者・聴者の内在的言語能力(intrinsiccompetence)を記述する

ことを意図するものである。②」と述べている。

梶田によれば、「言語(alanguage)という語は、・・・文の集合という意1床で用いることにす

る。たとえば、英語なり日本語なりの言語は、それぞれ、(その言語の文法にかなった)文の集

合であると考えることができる。③」「言語を構成している文(sentence)・・・にはそれぞれ音

Hosei University Repository

(3)

文の文法性と容認塵

形と意1床がある。(1)」「文の19f形と意Iljkを表記したものを、それぞれその文の高声表示(phonetic representation)、趣1床表示(semanticrepresentation)といい、⑤」「{''1介の役illリを果たす統語榊 造によってむすびつけられている⑥」のである。そのことをチヨムスキー(1968.1976)は、「あ る言語の知識を習11卜した人は、音と意Ⅱkとを特殊な方法でllU係づける規則の体系を体得したので あ⑦」り、「ある喬諦を知っている人は、可能な文の無限染合に音と葱l1jkとを確定的に付」7.する 規則の体系を体得している。⑧'」と述べている。したがって、「言語ごとにそれぞれ特有の規則 の体系があって、その規則にしたがって音声表示と意味表示が組み合わされる。⑨」ことから、

「そのような各言語ごとの規則の体系をⅡそしく把握し網羅的・明示的に記述することが、個別言 語の言語学的研究の主要な課題である。'⑩」ということになる。「言い換えると、ある言語の言 語学的研究において求められるのは、その言濡の文をすべて、そしてそれのみを、生成 (generate)するような規則の体系である。このような規則の体系およびその記述をその誘語の (生成)文法((generative)grammar)という。`⑪」

さらに「ある言諦の文法、その言語を母語とする人間によって修イIILされ、なんらかの形で大脳

の言語111枢に収められていて、読み11ドき聞き話すその他さまざまな形の言語連用(linguistic

perfOrmance)において使用されるもの⑫」であり、「このように人1111によって修得・記憶・使用

されるものとしての文法のことを、その人間の爾縞能力(Iinguisticcompetence)という⑬」わけ

であり、その結果、ラドフオードによれば、「母語の話し手は、2敵類の統語的直感力、すなわ

ち、文の適格さに関する直感力と文の榊造に関する直感力を持っている⑭」のであり、「話し手

が文の適格さに関して直感力を持っていると言うとき、その意味は、語のある連続がその言語に

おいて文法的であるかどうかを判断する能力を持っているということなのである。⑮」

この考え方によれば、母語iiiIi者は、ある文に接したときに、その文がその訂語の文法に照らし

て正しい文かそうでないかを判断できる能力を独得しており、言語迎11]の一つとして、その判断 を行うことができるということになる。

】の注

①Ⅱチヨムスキー(1965.1970)、3ページ

②同上5ページ

③梶田(1974)、167ページ

④同上同ページ

⑤|司上同ページ

⑥同上同ページ

⑦チヨムスキー(1968,1976)、50ページ

③同上164ページ

⑨梶田(1974)、168ページ

⑩同上何ページ

⑪同上同ページ

⑫同上同ページ

⑬同上同ページ

⑭ラドフオード(1981.1984)、4ページ

265

(4)

l塗竺ニー_エニーム曲謹j

研究ノー」諭

霞百丁

⑮lTij上同ページ

2日本語における文法的な文の非容認度と非文法的な文の容認度

というわけで、ラガナ氏は、久野'億’'1本文法研究」i新日本文法研究」『談話の文法j、柴谷 方良『'三|本語の分析」、ノド上和子了変形文法と11本譜」等において、「文法性の度合の観点から 分析されている又の中で、西洋人学習打にとって特に難しい文法上の問題が含まれているものを 列挙して、①」様々な大学の学生たちに「自然な文」「坐りが恐い文」「きわめて不自然な文」

という雑準で判定してもらったところ、i才i語学打が「坐りが悪い文」「不'二l然な文」「非文法的 な文」と判定している文が「自然な文」と判定されていたり、逆に「自然な文」と》'1リ定している 文が「坐りが懇い文」「きわめて不自然な文」と判定されていたりして、「懲見の食い違いが予 想以上にも大きく、自分の目を疑うほどだった。②」という。

ラガナ氏は、にれは}」本語か」に、付録B「11本の前1譜学者の判定」として各言語学者のあ げている例文を1~236にわたって列挙し(3)、付録Aとして、そのそれぞれの例文に対する「日 本の学生の判定」をあげている④が、以卜・では、「2-1」で文法学者が文法的だと判|祈している のに、’三1本学生は不自然だとしている文、次に「2-2」で文法学者が非文法的だと判断してい るのに、日本学生はピ|然だとしている文について取り扱いたい。

2の注

(のラガナ(1988)、62ページ

②|司上同ページ

③同上216-233ページ '④’同上207-215ページ

2-1文法的な文の文法性

文法学者が文法的だと判断しているのに、|]水学生は不ILl然だとしている文は以下の通りであ

る。不!÷I然だという回答が60%以上のものをあげる。

2-1-1「京都が外人がいる。」について

久野(1973)は、「第4jWTI=|「'9を表す「ガ」」の'11で、所有を衣す「~ニーガアル」と、存在

を表す「~ニーガアル」の二つの構文の途いを指摘するために(1)をあげている(1)。

NcL 例文 ○ × 無回答 総数

236 久野 京都が外人がいる。 02 0.6 99.0 0.2 1856 235 柴谷 僕に英語が苦手なことを忘れたのかい。 72 9.1 83.7 0.0 1856

233 柴谷 '1,1m〔は会社で早01リjから会織が始まる, 9.8 24.2 65.9 0.1 1506

229 柴谷 (あなたは私が)おうらやましいでしよ

つ⑩

14.7 19.0 65.9 0.4 1506

217 ノド」二 太郎が風で父の帆子を飛ばした。 19.0 16.4 64.4 0.2 1856 Hosei University Repository

(5)

文の文法性と容認塵

(1)a、太郎にお金がある。

b・京都に良い住宅地がある。

そして、「第一に、(1)bは極めて自然な文であるが、(1)aは坐りが悪い。これは、「太郎がお 金がある」の「太郎が」が持っている〔総記〕の意1床(すなわち「太郎だけが」)が、それから派 生した「太郎に」にも残されているためと思われる。②」としているが、注に「「太郎にそんな お金がありますか」は極めて121然な文であI)、「太郎に」に〔総記〕の意味が含まれているとは 思われない。どうして(1)aを疑問化すると坐りがよくなるのか明らかでない③。」と書いている。

また、「第二に、「が」の前の名詞句がillj等動物を表す場合、両文のIHIの違いがはっきりしてく る④。」とし、(2)をあげている。

(2)a・太郎に弟がある。

b・*京都に(大勢の)外人がある。

(2)の文法性は、「弟が」が「ある」の主語ではないことを示している。

同時に、

(3)a.*太郎がお金が居る。

b・京都が外人が居る。

において、「(3)aが非文法的で、(3)bが文法的であることは、所有の「ある」と存在の「ある」

は、同じ形式として取り扱えないことを示している。⑤」と書いている。ここでも注で、「主語 が高等動物である場合、存在を表す「ある」は、その主語が充分長い関係代名詞節で修飾されて いない限り、非文法的である。⑥」とし、(4)をあげている⑦。

(4)a.*京都に外人があった。

b,*京都に変な外人があった。

c・京都に私がよく知っている外人があった。

また「所有を表す「ある」の目的語が高等動物である場合には、「ある」の代わりに「いる」

も用いられる。③」とし、(5)。(6)をあげている⑨b

(5)a・太郎は弟がある。

b、太郎は弟がいる。

(6)a・太郎はお金がある。

b・*太郎はお金がい()苫)る。

つまり、「京都が外人がいる」については、格別「京都が外人がある」、「京都に外人がいる」、

「京都に外人がある」または、「京都は外人がいる」、「京都は外人がある」等と比較して、文法 的であるかどうか、という議論をしているわけではなく、〔所有〕の「太郎がお金が居る」が非 文法的なのに対して、〔存在〕の「京都が外人が居る」は文法的だということである。

2-1-1の注

①久野(1973)、53ページ

②)同上同ページ

③同上56ページ

④同上53ページ

⑤同上同ページ

267

(6)

EF騏詫生.:、塒・鶴..・・・---_..::..::騨響、鱈U

研究ノート

職:rIii ̄Ⅱ二I蕊巍

⑥同上56ページ

⑦同上同ページ

③同上同ページ

⑨同上同ページ

2-1-2「僕に英語が苦手なことを忘れたのかい。」について

柴谷(1978)は、「第5二章格助詞」の111に、「I主語・直接目的語・'111接目的語と「が」・

「を」・「に」」という節を立てている。そこで柴谷は「主語その他の範鴫と格助詞は--対一の絶 対的関係にあるという考え方を破棄し、この関係はイⅡ対的なものであると考えなければならない。

①」とし、まず、主語が、題目化されない場合(7)のように「主格助詞「が」を伴って表胴化さ れる。②」場合をあげている。

(7)菊子が着替えを持ってきた。(川端『山の音」)

さらに柴谷は、「我々の文法範曜主締が他の研究に於ける主綿と著しく異なる点は、与格「に」

を伴う名詞句のあるものも主語と見微す点にある。(3)」とし、与格助詞「に」がついた「与格主 語の典型的なもの④」として(8)をあげている。

(8)意志の弱い子に、本当の意味での恐いことが出来るはずがなかった。(立原「冬の旅(上)」)

そして、「与格主語をとる述語要素には、所有・可能・必要を中心とした概念を表す状態述語 (助詞・形容詞・形容動詞)が多い。⑤」と指摘し、これらの「述語に意1床的に準じ、与格主語を とるもの⑥」として「所有概念を表すもの」、「可能概念を表すもの」、「必要概念を表すもの」

として例文をあげているが、このうちの「可能概念を表すもの」の例文として提示されているの が「僕に英語が苦手なことを忘れたのかい。」である⑦。与格の主語として「僕に」、それに対 応する状態述諦として「苦手な」を倣えている例文は、(8)に準ずる資格で文法的だと主張され ているわけである。ただし、柴谷は「「lhf手だ」と葱1床的に同類だと考えられる「上手だ」や

「得意だ」は与格主語をとらないようである。③」と指摘し、「所有・可能・必要を表す述語でど れが与格主語をとるかに閲しては個人篭があるようである。⑨」とし、「どの述語が与格主語を とるかということは、一般的な意味素性(又は特徴)から規定するのはむずかしい。⑩」として いる。つまり、「僕に英語が苦手なことを忘れたのかいc」という例文は、ここで柴谷のいう

「与格主語」という観点からは文法的だということになるけれども、その判定には個人差がない わけではないと言っているわけで、文の文法性については保留していることになる。

2-1-2の注

①柴谷(1978)、221ページ

②同上222ページ

③同上同ページ

④同上同ページ

⑤同上223ページ

⑥同上同ページ

⑦同上同ページ

⑧同上224ページ Hosei University Repository

(7)

文の文法性と容翌度

⑨同上何ページ

⑩同」二同ページ

2-1-3「小原は会社で早朝から会;識が始まる。」について

柴谷(1978)は、「第3章埋め込み柵造」の中で、「小原は会社で早朝から会議が始まる。」と いう例文を提示している①)。自動詞の「始まる」「続く」「終わる」が他動詞の「始める」「続け る」「終える」とは異なり、「し始める」「し続ける」「し終わる」とは分析できないことを指摘 し、「'二l動詞「始まる」「続く」「終わる」を独立した本動詞として認めなければならない。②」

とし、その例文として「小原は会社で早朝から会議が始まる。」(曾野「冬の蛍」)を提示してい る。そのためこの例文に関しては解説らしいものはないままに、当然文法的に適格な文と判定さ れて提出されている。

2-1-3の注

①柴谷(1978)、153ページ

②同上同ページ

2-1-4「(あなたは私が)おうらやましいでしょう。」について

柴谷(1978)は、「第7章文法現象の諸相」の中で、「(あなたは私が)おうらやましいでしょ う。」という例文を提示している(D・柴谷は、時枝誠記が「状態述語には主格名詞節を対象とし ても主語としてもとるものがあると指摘している」ことを紹介し、その具体例として「面白い」

「にくらしい」「おかしい」「淋しい」「恐ろしい」「暑い」「来い」等をあげている②。しかし、

「「好きだ」「できる」「わかる」等の述語を含む文では岐初の名詞節が主語であって、主格名詞 節は主語ではない。つまり最初の名詞節は尊敬語化を誘発するが、主格名詞節はしない。③」と

し、(9)をあげている。

(9)a、111111先生は私が好きだ。

b、IIl田先生は私がお好きだ。

c・*私は山田先生がお好きだ。

また、「なつかしい」「したわしい」「いたわしい」という表現について、「AはBが~」の文脈 においては、「Bが」に表れる主格名詞は統語的には主語として働いているが、述語の「対象」

である④。その際に「なつかしい」を「おなつかしい」、「したわしい」を「おしたわしい」、

「いたわしい」を「おいたわしい」とDM〔敬語化しても適格である。(10).(11)。(12)を参照。

(10)a、私は山田先生がなつかしい.

b、私はIIIm先生がおなつかしい。

(11)a,私は山田先生がしたわしい。

b、私は山田先生がおしたわしいつ

(12)a、私は山田先生がいたわしい。

b、私は111田先生がおいたわしい。

この場合AとBを逆にすると繭敬語化はできない。(13)を参11(!。

(13)a・llIIlI先生は私がなつかしい。

269

(8)

戯蕊蕊鑿と二一一一と蕊iiii鍵l

研究ノート

魑蕊逐宇 ̄て】鷺麺

b,*山田先生は私がおなつかしし、。

つまり、「好きだ」「できる」「わかる」などが述語の文と「なつかしい」「したわしい」「いた わしい」などが述語の文では主語の分布が異なっていると言えるわけである⑤。

ところで、「うらやましい」はこれらとは異なり、両方の統語特性を示す⑥。(14)を参照。

(14)a.(私はあなたが)うらやましいワ。

b,(あなたは私が)うらやましいデショウ。

すなわち、これらの文の両方が尊敬語化を引き起こす⑦。(15)を参照。

(15)a.(私はあなたが)おうらやましいワ。

b、(あなたは私が)おうらやましいデショウ。

というわけで、「(あなたは私が)おjうらやましいでしょう。」は文法的に適格な文と判定され

ている。

2-1-4の注

①柴谷(1978)、351ページ

②同上349ページ

③同上350ページ

④同上351ページ

⑤同上同ページ

⑥同上同ページ

⑦同上同ページ

2-1-5「太郎が風で父のI胴子を飛ばした。」について

井上(1976)は、下巻の「第4承基底の格」の中で、「太郎が風で父のllj目子を飛ばした。」と いう例文を提示している①。まず井上は、(16)をあげ、aは他動詞化形式素「as」を持つ文、b は自動詞文で「~は」の部分は総験者格であると税Ⅲ]している②。

(16)a・太郎が風で帽子を飛ばした。

b・太郎は風で帽子が飛んだ。

さらに井上は、「(16)には、縦波可能な所有関係がある。これらの文で、経験者格と所有格の 名詞句が|司一でない場合は、割ルhljはどうであろうか。③」として(17)をあげている。

(17)a・太郎が風で父親の鯛子を飛ばした。

b、?太郎は風で父親の帆子が飛んだ。

そして、「a文は完全によい文である。辺)」としている。

2-1-5の注

①井上(1976)、95ページ

②同上93ページ

③同上94ページ

③同上何ページ Hosei University Repository

(9)

文の文法性と容潔度

以上、文法学者は文法的だと判断しているのに、日本人学生は不自然だとしている文について、

文法学者の解説・説Iリ]について概略した。それぞれ、久野や柴谷や井上の文法解説の該当箇所を 読んでいくと、いかにその文が文法的な文であるか、納得されられるようになっていたり、特に

なぜ文法的かは説明していなくて、ただ文法的な文として提lLl1されているだけの例もあった。文

法的な文として、文があげられているだけの場合には、それをあげている文法学者の主張が聞い

てみたいところである。

2-2非文法的な文の文法性

次に、文法学者が非文法的だと判断しているのに、11本人学生は自然だとしている文について 取り扱いたい。

文法学者が非文法的だと判断しているのに、’1本人学生は111然だとしている文は以下の通りで ある。自然だというlijl答が90%以」2のものをあげる。

2-2-1「私は毎朝子供達に弁当を作ります。」について

柴谷(1978)は、「第3章埋め込み構造」の「3・て」で、いわゆる「やり・もらい」の補助 動詞としての「てもらう」や「てくれる」について詳細に分析及び記述しているが、概略すると、

柴谷はまず(18)をあげ、

(18)母親は子供に握り鮨をつくってやった。

ABCD

この文の搬造は(19)と同じであることを指摘している①。

(19)母親は子供に本をやった。

ABCD

そして、その深厨構造として(20)を仮定し②、

(20)[lリ:親は子供の為に[母親がイ・供に握り鮨をつくる]やる]

「この榊造は、表層文(18)の愈味を一瞬明剛;にしているし、また「くれる」・「やる」が課 す深届構造制約も満足させるものである。)③」と述べている。この(20)に対するルヒの中で、柴 谷は「この独立した「名詞句の為に」が表層化きれ、「やる」・「くれる」とI呼応する「名詞句 の為に」が省略される場合がある④」と述べている。つまり、そういう手続きを経て、深屑構造 (20)は表1簡文(18)になるというわけであるc柴谷は、この指摘に続けて「もう一つの問題は、

271

NOL 例.〕文 ○ × 無回答 総数

柴谷 私は毎朝子供達に弁当を作I)ます。 96.9 L1 1.7 0.3 1506

久野 この試験に合格するためには、日本語を

よく知らなければならない。 94.2 3.2 2.6 0.0 1856 久野 僕は来京で生まれたよ。 93.0 5.0 2.0 0.0 1506 井上 跡かたもなく焼けてしまった建物の上

を、ヘリコプターが飛んでいた。 90.5 48 4.3 0.4 1856

久野 岐近は年のせいか、酒を飲むことができ

なくなった 90.1 5.5 4.3 0.1 1506

(10)

ヘーコ■--卓■■ヨ

研究ノート

懸蕊ごドアif蕊鰄

「作る」や「買う」は普通独立文では間接11的語をとらないということである。例えば、次の文 は少し不自然に感じられる。⑤」として、「私は征朝子供達に弁当を作ります。」という例文を 提示している⑥。つまり、柴谷がここで言おうとしていることは、「私は毎朝弁当を作ります」

「私は毎朝子供達に弁当を作ってやります」は適格だけれども、「やる」の呼応関係を考慮すると、

「私は毎朝子供達に弁当を作ります。」は不適格ということになるということである。ただし、完 全に非文法的ということではなく(*がついているのではなく)、「少し不自然に感じられる。」

ということ(??がついている)だから、將干の保劉があるということであろう。

2-2-1の注

①柴谷(1978入109ページ

②同上113ページ

③l司上同ページ

④同上167ページ

⑤同上168ページ

⑥同上同ページ

2-2-2「この;試験に合格するためには、「1本語をよく知らなければならない」について 久野(1983)は、「第7燕「知らない」と「知っていない」」の中で、「この試験に合格するた めには、日本語をよく知らなければならない。」という例文を提示している①。久野は「「知っ

ている」の否定形の種々の活用変化②」の例として(21)をあげている。

(2])二の膿'趣'…繼〔:$,型霊|蝿〕誓え…いでL望う。

そして、aの「「知らなければ」は、「(これから)理解できるようになる」の意味の動作動詞と 解釈すれば、文法的かも知れないが、意|X|されている意1床、即ち、現在の状態を表す形式として は不適格である。代わりに、「知っていなければ」を用いなければならない。③」としている。

それならば、ここであげたように二つの文を対比して「愈図されている意1床」を問題にすると いうことをしないで、ただこの例文だけを提示し、「自然な文」「坐りが悪い文」「きわめて不自 然な文」という基準で判定したということになれば、ここで久野が指摘しているように、「(こ れから)理解できるようになる」の懲味ととって、例文が「自然な文」と判定されたのも不思議

ではないと言えるc

2-2-2の注

①久野(1983)、】10ページ

②同上liilページ

③同上同ページ

2-2-3「僕は来京で生まれたよ。」について

久野(1983)は、「第8章否定辞と疑問助iii1のスコープ」の中で、「僕は東京で生まれたよ。」と

いう例文を提示している①。久野は、様々な文を検討し、また仮説をたてては修正するという手

Hosei University Repository

(11)

文の文法性と容認度

続きを経て、この章のテーマの「否定辞と疑IIM助詞のスコープ」として(22)をあげている②。

(22)i日本語の否定辞「ない」と疑1111助詞「か」のスコープは極めて狭く、通常、その 直1iiiの動詞、形容詞、「Xだ/診/です」に限られる。このスコープ制限の例外は、「マルチ プル・チョイス式」焦点と、疑問調である。

Ⅱ主題は、否定辞と疑問助詞のスコープの外にある。

その上で、久野は[附記I]として「日本締の「か」以外の終助詞についても、その「スコー プ」に制限があるように思われる。③」とし、(23)をあげている④。

(23)a、俺は東京で生まれた。

b、??俺は来京で生まれたぞ。

c、俺は東京で生まれたんだぞ。

そして(23)aについて、「この文は直接終助詞「ぞ」を附加すると、極めて不自然な文となっ てしまう。(23)cに見られるように、文全体を「の」で名詞化してから、コピュラを附して、「ぞ」

を用いなければならない。⑤」としている。それから、「終助詞「よ」も、同様の特性を示す、

⑥」として(24)をあげている。

(24)*僕は東京で生まれたよ。

つまり、「俺は東〕;(で生まれたぞ」が不催1然であるとのとIiiIじ理H1で、「僕は東京で生まれた よ」も不自然であるという説明である。

2-2-3の注

①)久野(1983)、141ページ

、)同上140ページ

③同上141ページ

④同上同ページ

⑤)同上同ページ

⑥同上同ページ

2-2-4「跡かたもなく焼けてしまった建物の上を、ヘリコプターが飛んでいた。」について ノド上(1976)は、」X巻の「第3章名詞句の構造」の「「そば」「むこう」[上」「下」「前」「後」

など」という項目で、「跡かたもなく焼けてしまった建物の上を、ヘリコプターが飛んでいた。」

という例文を提示している(1)。丼_上は、(25)をあげ、

(25)a・建物が跡かたもなく焼けてしまった上を、ヘリコプターがjl§んでいた。

b、?跡かたもなく焼けてしまった建物の上を、ヘリコプターが飛んでいた。

(25)bは「建物の姿もないところで使えるかどうか、疑問である。②」としている。つまり、

ヘリコプターは「建物が跡かたもなく焼けてしまった上」は飛ぶことができるが、「跡かたもな く焼けてしまった建物」はあり得ないから、その上を飛ぶことはできないというわけである。

2-2-4の注

①井上(1976)、194ページ

②同上何ページ

273

(12)

睡塑醤L--=二一=蕊i麺

研究ノート

魎HiZrTと番;i…

2-2-5「最近は年のせいか、酒を飲むことができなくなった。」について

久野(1983)は、「第9章「れる・られる」と「できる」」の中で、「最近は年のせいか、酒を

飲むことができなくなった。」という例文を提示している①。久野は、「動作可能形「れる・ら

れる」は、主語の内的能力を表し、「できる」は、外的条件にltI来する能力を表す。②」とし、

(26)をあげている。

(26)a、最近は年のせいか、酒が飲めなくなった。

b、??岐近は年のせいか、酒を飲むことができなくなった。

ここで久野は、「(26)bの適格庇の判断についても、(Nil人差が多いと思われるが、(26)a(26)b を比較して、前者のほうが、意1床内容にぴったりした表現であるという判断に就いては、異論が ないものと思われる。③」としている.

ここでも、二つの文を対比し、どちらが「意1床内容にぴったりした表現か」ということを問題 にしないで、ただこの例文だけを提示し、「自然な文」「坐りが悪い文」「きわめて不自然な文」

という基準で判定したということになれば、例文が「自然な文」と判定されたのも不思議ではな いと言える。

2-2-5の注

①久野(1983)、150ページ

②同上同ページ

③同上同ページ

以上、文法学者は非文法的だと判断しているのに、日本人学生は自然だとしている文について、

文法学者の解説・説明について概略した。個々には、「少し不自然に感じられる」とか「別のあ る解釈をすると文法的かも知れない」、あるいは「個人差が多いと思われるが、(文法的な表現 と並べて)比較すると非文法的だ」等の解脱や税|リIがついているものが見られる。そういう文の 場合には、それが自然だ、文法的だと判断されるかもしれないという条件をもともと持ち合わせ ていたのではないかとも考えられる。

2-3「文法的」な文は「自然な」文か

以上、「2-1」「2-2」では文法学者たちが文法的だと判定しているのに、日本人学生は自然 な日本語ではないと判定した文と、文法学者たちが非文法的だと判定しているのに、日本人学生 は自然な日本語であると判定した文について、それぞれ文法学者たちは何故その文が文法的だと 考えているか、また何故その文が非文法的だと考えているか、紹介した。

1で紹介したようにw母語話者はある文が文法的かどうか判断できる能力を有している。とい うことは、ある文が文法的に適格であるかどうかを判断できる能力を持っているということであ I)、言い換えれば、ある文の「文法性」について自分自身の「言繍能力」によって判定できるは ずなわけである。ここでの問題は、文法学者が「文法的」だと判定した文は、日本人学生が「自 然だ」と判定したという文のことになるのかどうか、あるいは逆に、文法学者が「非文法的」だ と判定した文は、日本人学生が「不自然」だと判定した文のことになるのかどうか、ということ である。つまり、ラガナ氏は、例文を提示して日本人学生にその文法性を判定してもらうときに、

Hosei University Repository

(13)

文の文法性と雪麹匿

「文法的な文」「あまり文法的ではない文」「きわめて文法的ではない文」あるいは「非文法的な 文」といった判定基準によって判定してもらったのではなく、「自然な文」「坐りが悪い文」「き わめて不自然な文」という』IL準で判定してもらったとI!;いている①のであるが、それはどうして か、という疑問がここで生じるのである。

それに対してラガナ氏は、「「文法的な文」「非文法的な文」というjI1語を使ったら、無回答の 連続しか期待できない、と思って、「'二I然な文」「独立文としては坐りが悪い」「きわめて不自然 な文」というわかりやすい表現を使うことにした。(2)」と答えており、それは、「私の経験では、

特定の日本締の表現について文法的かどうか、と聞いてみると、日本の艦い人たちは、言語に深 い輿1床を持っているわずかな一部を|縦いて、困ったような顔になり、精神的な麻揮状態にでも陥 ったかのように、’1野く黙り込んでから、日本艦には文法はないからわからない、と答えるからで ある。③」と述べている。その上で、「結局、11本では、日本鵠の文法の記述のために調査を行 おうと思ったら、忌み言葉のように、「文法的」、「非文法的」という11]語を避けなければならな い。そこで、日常会話を身につけようとしている外'五1人に役立つような規則を立てるために、

"文法的”にはともかく、L|本譜をl止国語とする個人として、特定の商い回しに対して違和感を 覚えるかどうか、教えていただきたい、というアプローチなら、うまくいくと思ったのである。

④」と書いている。ラガナ氏のとった処置は、彼の個人的な総験に支えられた適切な処値として、

それなりに納得のいくものではあるが、その結果、日本人学化の下した「|:1然な文」「坐りが恐 い文」「きわめて不〔l然な文」という判定が、文法学者のいう「文法的」に適格かどうかという 判定と同じ雑準なのかどうかというlilI題が残ってしまったというわけである。

2-3の注

①ラガナ(1988)、62ページ

②同上113ページ

③同上同ページ '④同上何ページ

S「文法性」と「容認度」について

3-1チョムスキーの「文法性」と「容認度」

チョムスキーは、「「容認可能な(.、acceptable..)」という用諦を用い、完全に自然で、紙・鉛雅 をⅢいての分析(paper-and-pencilanalysis)をしなくても、すぐに理解でき、どこにも妙な (bizarre)ところ、異様な(outlandish)ところなどのない発話をさすこととする。①」とし、「明 らかに、容i認可能性(acceptability)は、程度の'111題であ②」るとしている。

また「文法性」と「容認iiJ能性」については、「「容認可能な ̄acceptable..」という概念は、

「文法的な“grammaticar.」という概念と汎lr1されてはならない。容認可能性(acceptability)は、

言語運用の研究に属する概念であり、一方、文法性(grammaticalness)は、言語能力の研究に槙 する概念である。③」と区別をし、さらに、「文法性も、明らかに程度の問題である。しかし、

容認可能性の尺度と、文法性の尺度とは、一致しないものである。④」と指摘している⑤。

このチョムスキーの指摘に従えば、ラガナ氏の調在によって明らかになったのは、ラガナ氏が 275

(14)

ImE魁Hf選出畠と、-- -毬竺凹雪』

研究ノーート

鰄蕊蓮一rF蕊顯

岐初に得ようとした、ある文の「文法性」ではなく、「文法性」と「容認度」の両方の基準が複 雑に入り交じった判定の結采だったのではないかと考えられる。あるいは、それほど問題が錯綜

していないと考えても、少なくとも、文法学者がその文の「文法性」を問題にして、その文が文 法的に適格かどうかを問題にしているのに対して、|]本人学生のほうは、その文が、「文法性」

とは別の基撫で、適当かどうかを判定していたと言えるのではないだろうか。この点について、

ラガナ氏の考えていることを以下に紹介したい。

3-1の注

①チョムスキー(1965.1970)、11ページ

②同上同ページ

③同上12ページ

④同上13ページ

⑤但し、チョムスキー自身が「文法性」と「容認皮」というように表現している内容は必、ずし もここで述べているような相違ではない。チヨムスキー(1965,1970p、13)は、「言語運用の研究 は、文法的な文の中で、蛾も単純な形式を持つ構造の容認可能性を調べることから始めてゆくの が得策であろう。」とし、「(1)繰り込み構文(nestedconstructions)、(2)自己埋め込み構文(selfL embeddedconstructions)、(3)多分枝構文(multipIe-branchmgconstructions)、(4)左枝分かれ

榊文(left-branchingconstructions)、(5)右枝分かれ榊文(right-branchingconstructions)(p、14)」

のような各構造について、「(1)繰り込みを反復すると容認不可能性を助長する。(2)自己埋め込 みは容認不可能性を、さらにいっそう強く(radically)助長する。(3)多分枝榊文は容認可能性に は、最適(optimaDである。(4)長く複雑な要素の繰り込みは容認可能性を減らす。(5)右枝分か れのみ、あるいは左枝分かれのみを含む場合で容認不可能性のIリ」らかな例はない。(P、15)」と述 べている。つまり、例えば、構造として「埋め込み」があるのは文法に関する問題であるが、何 回埋め込むかというのは迎I1jの問題であ})、そのlnl数が多くなれば、記憶の負担が大きくなるこ とによって「容認ITJ能性」が低くなる、というような議論をしているわけである。この立場は、

我々がここで|M1題にしたい「文法性」や「容認度」とはいささか食い違っていることは指摘して おかなければならない。

3-2ラガナ氏の意見

ラガナ氏は「規範文法」について、「現在では、規範文法は、必ずしも記述文法や、科学的調 査研究に基づく文法体系と対立するものではなく、記述された体系的文法の、菰要な部分を、教 育、あるいは災ji]のために$Ⅱ織的に述べるものである。①」とし、「特に外'nil謡を教える場合に は、規範文法に頼らなければならない。そして、その言語における基礎的な文法的事実を中心と して、その国で標準的、あるいは一般的とされている文型について規則を立て、「正しい」ある いは「一般的な用法」として教えるべき用法とそうでない用法を、区別する必、要がある。そして、

ある程度、規範的な態度を収らざるをイIILない。②」と述べている。その上で、「日本の学校では、

'u:国語については規範文法は教えられていないようである。③」とし、そして「日本の学校では、

「この場合には、こう言わなければならない」、「こう言ってはいけない」という立場から、実用 のために、かなり徹底的に分析され、教えられてきたのは敬語だけである、と言えば、乱暴な発 Hosei University Repository

(15)

文の文法性と容認画

訂だろうか。④」と問いかけ、「しかし、一般の日本人が思っているよりも、多くの文型につい ては、何がestablishedusage(確定語法)か、何がdividedusage(慣用の揺れ)か、何がill‐

establishedusage(不確定語法)か、何がdubioususage(疑わしい語法)か、何がunacceptable

usage(容認不可能な語法)か、ということを教養のある日本人に聞いてみても、暖味な返事か、

それとも、あまり頼りにならない税明しか得られないのである。⑮)」と現実を厳しく指摘した」x

で、「私の体験では、上級、更にそれ以上の段IiMrへ進もうとする学習者にとっては、省略や敬語

よりもむずかしく、それよりも使い分けにくいのは、助詞である。特定のコンテキストでは、ど

ういう構文パターンが「文法的」、「正しい」、「適切」、「自然」とされているのか、ということ について必、ずしも頼りになる規則もないし、私も、岐近、「日本語は、やはり、世界で特殊な言

語なのではないか」、という疑問に襲われてしまったことがある。⑥」と述懐している。だから

こそ、日本語の「規範文法」を考えるうえで、久野氏らの文法研究は「結局、諸氏の説にはあま り説得力のないところがあるが、全体としては、私が日本へ来る前から、いろいろな文学作品の 日本語を、自分なりに分析して、自分のために立てた“規範文法.、の規則と一致するのである。

⑦」とし、「時に日常会話における、いろいろなパターンを、文法的に分析するのに大いに参考 になった。⑧」と述べ、「私の考えでは、氏のアプローチは、「外国人」学習者にとっては理想 的なものではないか、と思う。⑨」と一定の評llliを与えながらも、「規範文法の伝統のない日本 語の場合には、文法性の度合が問題になってくる助詞などの使い方については、信じられないほ ど個人差が大きく、同じ町で生まれ育った日本人でも、個人によって、判定が違うという問題が

ある⑩」と指摘している。

そういう前提を考噸した上で、ラガナ氏は2で一部を紹介したアンケート調査を行ったわけだ が、その結果は「実際に使われているとはどうしても信じられないようなパターンが ̄自然な文鰄 だという回答に次から次へとぶつかり、集計の結果を分析することができず、全く思いがけない 袋小路に入り込んでしまった。この調査の結タイLに基づいてどの程度一般化することができるか、

わからない。⑪」ということになり、「一般化したら、日本人は、文学的表現はもちろん、日常 会話で使われている基本的なパターンについても、何が文法的か、何が非文法的かということだ けではなく、何がにI然なI]本譜か、何が不自然な|]本譜か、ということもわからない、という信 じ難い結論に達してしまうからである。⑫;」と絶望的に述べ、「問題は、多くの若い人が、日常 使っているIリ睡1語について、どういう)'1法が.文法的”で、どういう用法が“非文法的”か、全

く見当がつかないことにある。⑬」と結論づけている。

そして、文法学者に「きわめて非文法的と判定されている構文パターンに「○」をつけた学生 に、久野氏らが書いていることを教えてみると、それに対する反応によって、三つのグループに 大別することができる。⑭」としているが、ここでラガナ氏が「きわめて非文法的と判定されて いる榊文パターン」と書いている文も、先に述べたように、各文法学者がその文について述べて いる部分を見ると、それほど「非」文法的だとは言っていない例もあるということはここで指摘 しておかなければならないだろう(2-2参照比さて以下に、ラガナ氏があげている三つの'二1本

人学生グループをあげる⑮。

「1「言われてみれば、やはり自然な日本締ではない」と、自分が判断を誤ったことを、す

ぐに認める2学生。

2「確かに、この場合には、その`学者が文法的としているFIPい方のほうが正しいだろう。

277

(16)

I腱蝿蟻:↓;〃=-:;蝉蕊蝋U

研究ノーート

鰄鰄- 1i蕊螂

でも、こう言っても別におかしくないのではないか」と答える学生。

3「その学者の説は、文法的にj[しいかどうかわからないが、僕としては、自然な日本語 だと思う」と、いくら久野氏らの説をljllかされても、あくまで自分の意見を通す学生。このグル ープに属する学生たちは、「○」をつけたのなら、自然な文だ、と言い張って、有名な学者だろ うと、一流の作家だろうと、「学者たちはみんな翻訳調の日本語を書くのだ」、「悪文を書く作家 が多いのだ」と、母国語については、ILl分以外にだれの梅威も認めない。」

また、文法学者が文法的だと判定している文を、それは自然ではないと判定した学生の注釈に、

「差別用語」とか「使ってはいけない」というTI{:き込みがあるものがあり、それについてラガナ 氏は、「それが葱味するのは、日本の学生たちは、「自然な日本語」、すなわち、「文法的」に

「正しい」日本語というものと、対人関係などの観点から「正しい」日本語、すなわち、「礼儀正 しい」日本語、自分、相手、話'11の人物に対して社会的にふさわしいとされている言葉の選択と いうものを汎|剛しがちである、ということである。⑯)」と説明し、「多くの日本人は、母国語の 構文に関する規範意識をほとんど欠いているので、「**太郎は庭にある」とか「**太郎は花 子を結婚している」式の日本語でない限り、日本語の文法については、「正しい」敬語が使われ ているかどうか、という程度の判断力しか持っていないのである。⑰」と書いている。

ラガナ氏は、森有正の「日本語に規則を樹て、変でない日本語を:書きうるようにしようとする と、規則は現実と同じように襖雑になり、規則の規則としての特性が失われてしまう恐れがある のである。⑱|」を引用し、「やはI)、日本における鷲くべき個人差や、すべての日本人のideolect による「無限の可能性」を老Mi[して、Ⅱ本譜の助詞などの使い方について規則を立て、すべての 日本人に“変でない‐日本語と判定されるような日本文の書き方を、外国人に教えようと思った ら、森有正と同じように、おおげさに言えば、規則の数は、日本の人口とあまり変わらないほど 鴨しくなり、規則の規則としての特`性が失われてしまうだろう。⑲」と述べ、結i論として、「現 在、ある程度統一されているのは、語鍵や敬語だけである、ということになるだろう。榊文に関 しては、特に若い人たちの場合には、標バヒ語も共通語も存在せず、存在するのは、万華鏡のよう に、目まぐるしく、無限に変化する、同一体系の無数の変異体や個人言語の混補である、と言わ なければならないだろう。そして、現在の実際の`慣用について規則を立てることは、森有正と同 じように、悲観的に見れば、万莱鏡の'1Jのガラスの小片の模様の変化について規則を立ててみる ようなものだろう。⑳」と述べている。

3-2の注

①ラガナ(1988)、47ページ

②同上I可ページ

③同上48ページ

④同上53-54ページ

⑤同上54ページ

⑥同上32ページ

⑦同上120ページ

⑧同上58ページ

⑨同上同ページ Hosei University Repository

(17)

文の文法性と容哩度

⑩Iril上同ページ '⑪同上113-114ページ

⑫同上114ページ

⑬同上112ページ

⑭同上130ページ

⑮同上1可ページ

⑯同上133-134ページ

⑰同上136ページ

⑱森有jlX1971)、121ページ

⑲ラガナ(1988)、195ページ

⑳同上198ページ

3-3「文法性」と「容認度」の判定基準のありかについて

西江(1980)は、「次の七要素の束としてひとつひとつの..伝え合い”が成立して①」おり

「個々のメッセージはこの七つの要素が溶け合ったものなので、ある実例に接した場合は、その 七つのすべての面からの考察が必要となるだろう②」と指摘している。つまり、あるコミュニケ ーションが成り立っているときには、そのコミュニケーションはここで西江が列挙した薑七つの要 素から成り立っているということである。「その七婆素とは、

1.ことば 2.身体の動き 3.人物特徴

4.人物の社会的背景 5.空|M1と1時IHI 6.環境

7.生理的反応(順は重要度とは関係ない>(3)」である。

西江(1980)にはこの七つの要素の指摘に続いて、それぞれについての説明がなされているが、

3でラガナ氏が行った調査では、ここで西江が'111題にしているようなコミュニケーション全体、

あるいは“伝え合い”の全体が問題になるのではなく、日本語という言語の一例としての文が提 示きれ、それについて判定がされていたのであるから、ここでは「1.ことば」について考慮す ればよいであろう。

西江によれば、鐘伝え合い”の一要素である「ことば」には岐低限

「i言語」

「iiパラランゲージ(paraIanguage)」

「iii脈絡(context)(知識・記憶など)」

「ivイデオロギー的背景(宗教・政治など)」の四つの部分が指摘できる④。

ここでの「言語」は、「社会的規約としての、または体系としての言語であり、それはある数 の音の11i位と多数の意味の単位(たとえば11i語)と、そのIllij者が成している組み立て規則から成 り立つものであるとぎれる。それは実際に人の'二1から話されたことばから抽象化されたものであ って、現在までのところはその抽象化の結来は記述という手段によってのみ実際に示すことので

279

(18)

t鑿鑿iiiiX:1塁ニー~野:熱鍵麺

研究ノート

懸蕊蕊irWIltiiil;蕊蕊謬

きるものである。⑤」

次に「バラランゲージ」については、「しかし、現実に人の口から出ていることばは、その人 物の個性を伴った声で話されているのであって、それには言語のみか、男女声の別、年齢的特徴 などはもちろん、声の大小、強弱、太い細い、優しさ恐さなどの声の質をはじめとし、早口・遅 口、つつかえなど、さらには命令調、お願い調、皮肉、温かさ、言い聞かせ調などの感情的、性 格的な面での声遣いが必ず込められているものなのである。また、声の遠近も重要なものである。

言語に付随するそのような部分をパラランゲージと呼ぶこともある⑥。」と説明している。

次に「脈絡」については、「ことばを交わすということは単に言語としての単語を交わしてい るのではなくて、そのひとつひとつがことばを通じて当人が過去に記憶した個人的意味領域を持 った単語や句を交わしあっているのである。言うならば、ことばはその時の話題に関する個人的 記憶や思い出に満ちているのだ。そしてそれが会話の脈絡を成しているのである。⑦」と説明し ている。

そして最後の「イデオロギー」については、「多くの社会ではことばの背最は強力な宗教観や 政治イデオロギー、または道徳などの価値判断に支えられているものである。そして、そうした ものが言語そのものによって形成されていることは言うまでもないであろう。③」と述べている。

「言語」が音と意味の単位の組み合わせであるのであれば、「文」についての判定は、その音 の単位・意味の単位および組み立て規則について、それが正しいかどうかという判定、つまり

「文法的」な判定であると言える。チョムスキーが「文法性」を問題にしたのはこの「言語」の レベルの問題であった。次の「パラランゲージ」は、コミュニケーションに参加している、こと ばを発している当人に関する、あるいは当人の声に関する問題であるから、ある声について、そ れが誰の声であるか、知らない人の声なのか、どういう感情を込めた声なのか等々が問題になる のであって、ラガナ氏の行った調査のように、誰の発話でもない、書かれている「文」について は問題にならない。「脈絡」もまたラガナ氏の調査の場合には問題にならない。何故ならば、ラ ガナ氏が提示した「文」は、もともとあったはずの「脈絡」から取り出した、いわば標本として の「文」を問題にしたものであったからである。「イデオロギー」は、簡単に言えば、言語でつ くられた「物語」であり、ある「ことば」が発されるときに、そのことばを発することがその場 ではふさわしいのかふさわしくないのか、その相手に対して発していいのかそれとも自制すべき なのか、そのことばを発することは相手に対して敬意を示すことになるのかそれとも相手を馬鹿 にすることになるのか、等々、そのことばを発することに関する価値評価の判断の基準であるか ら、さきに「日本の学生たちは、「自然な日本語」、すなわち、「文法的」に「正しい」日本語と いうものと、対・人関係などの観点から「正しい」日本語、すなわち、「礼儀正しい」日本語、自 分、相手、話中の人物に対して社会的にふきわしいとされている言葉の選択というものを混同し がちである⑨」というラガナ氏の指摘を紹介したが(3-2参照)、この指摘を踏まえれば、「言語」

は「自然な日本語」、「文法的」に「正しい」H本譜に関わり、「イデオロギー」は、対人関係的、

社会的に「礼儀正しい」日本語に関わると考えることができる。つまり、「言語」は「文法性」

の判定に関わり、「イデオロギー」は「容認度」の判定に関わるわけである。そう考えると、そ の一つの「文」だけで判定されるはずの「文法,性」と、その「文」が成り立つようなコンテキス トが容易に想像できるような「文」の場合と、そうではない「文」の場合で、「容認度」に差が 出てくる可能性についても説明できる。繰り返して述べれば、「言語」としての「文」を問題に Hosei University Repository

(19)

文の文法性と容鴎度

する「文法性」と、その「文」をことばとして発する条件や場面、相手、場所等々の、コミュニ ケーションにおける「非言語的」要素を考慮しなければならない「容認度」では、その判定基準

はずれていて当然だし、チョムスキーの「文法性」は「言語能力」に関わり、「容認度」は「討

語辺ノドj」に関わるという指摘にも矛盾しないわけである。

以上、チョムスキーが指摘した「容認、「能性の尺度」と「文法性の尺度」(3-1参照)のずれ が生じる判定基準のありかについて考察した。

3-3の注

①西江(1980)、229ページ

②,同上何ページ

③同上230ページ

④同上同ページ

⑤liij上230-231ページ

⑥同上231ページ

⑦’51上231-232ページ

⑧同上232ページ

⑨ラガナ(1988)、133-134ページ

4「容認度」の程度のはばを生じさせる要因について

4-1敬語について

ラガナ氏は、繰り返し、日本語が外国人にとって難しいのは、敬語ではなく助詞の使い方であ ると11$いている(3-2参照ルー股に日本人は、日本締が難しい点について、平仮名・片仮橘・

漢字・ローマ字がある「表記法」と並んで、「敬語」がllII題になると考えがちである。「皮肉に も、|了|本人は、敬i譜という単なる言葉の選択にすぎないものが、われわれ西洋人にとっては、

~日本文法.、の一播大きい困難である、と思い込んでいるのではないか。,⑩」とラガナ氏が指摘

している通りである。ところが、ラガナ氏は、「フランス語におけるような規範文法さえあれば、

文法的には申し分のない、教鍵のある日本人に何の違和感も覚えさせないような[|本文を背くこ とは、別に困難なことではないだろう。要するに、「礼儀正しい11本譜」だけでなく、「文法的 に正しい日本語」についても、規則らしい規則さえあれば、日本語は、構文的にはフランス語な どよりも学びやすい言語だろう。だが、「1本では、構文について一般的に認められているのは、

敬語に閲する規則だけである。しかし、敬語法は、非常に複雑なので、場合によって、日本人に とってもむずかしいのではないか、という反i満がlIlるだろう。だが、敬語法については、学習者 の参考になる確かな規則があるのである。学習者が学ぶのに困るのは、徹底的に研究され、無数 の教科iIドで徹底的に説明されている、複雑なものではなく、その構造について個人によって雅準 が違う、「規則のないもの」なのである。②」とはっきり述べている。つまり規則がはっきりし

ているから、敬語はそれほど1町題ではないと主張しているのである。にもかかわらず、日本人は

敬語、あるいは対人関係における日本語の使い方にこだわっているために、文の「文法性」より

も、対人関係的な「適壼切度」のほうに判定J1風Lがずれてしまうということが起こりうるのである。

281

(20)

■----■=■ ̄ ̄

研究ノート

鱸蕊T〒2‐蕊籔鰯

4-1の注

①ラガナ(1988)、187ページ

②同上186ページ

4-2例文の提示の仕方

「2-1」及び「2-2」において、文法学者たちが「文」の「文法性」について説明する際に、

文法的な文と非文法的な文を併記していた(2-1.2-2参照)。それに対してラガナ氏の調査に おいては、ただ問題になる文だけが例文として提示されていて、それを「○」なり「×」なりで 判定するというやり方を取っていた。「私が解釈に困っているのは、たとえば、「*私は背中が 寒くなることを感じた」などのような文の、不思議としか言えない容認度である。①」とラガナ 氏は何度もこの文を引き合いに川しているが、(27)のように提示して聞くのと、(28)のように 提示して聞くのでは、結果に差が生じた可能性があるのではないだろうか。

(27)私は背中が寒くなることを感じた。

(28)a、私は背中が寒くなることを感じた。

b、私は背中が寒くなるのを感じた。

つまり、当該の文が「非文法的」だとしても、「文法的」だと考えられる文と併記されている 場合と、その文だけが提示きれている場合では、その「容認度」に差が出てくる可能性があるの である。(28)aは(28)bと比較することによって「不自然」と感じられる度合いが燗すのではな いだろうか。これに対して、(27)だけを例文として提示された場合には、(28)bの存在に気がつ かない場合は特にそうだが、「「自分は使わないが使う人がいる」、または「いるかも知れない」

と答える人もある。②」ということになってもしかたがないのではないか。

4-2注

①ラガナ(1988)、103ページ

②同上130ページ

4-3その文の使用場面の想像のしやすさ

母語話者は自分の母語の文について、文法的に正しい文かどうか、直観的に判断ができるはず であると文法学者が想定していることはlで紹介した通りである。ところが、文法学者はその文 が構造的に文法的なルールに従っているかどうかという観点からのみ、文法性を問題にしている のに対して、ラガナ氏のアンケート調査に参加した[|本譜厭語話者の判断は、その文が構造的に 問題があり、違和感を感じるような文でも、そのような文が使用きれるような場面なり脈絡が想 像できれば、その文は問題ないと解答していると考えられるような結果を示している。

例えば「2-2-1」であげた「私は毎朝子供達に弁当を作ります。」という例文は、文法学者 (柴谷)の解説によれば、「私は毎朝弁当を作ります。」や「私は毎朝子供達に弁当を作ってやり ます。」ならば問題はないということであったが、例えば「夫は毎朝ジョギングに出かけますが、

私は毎朝子供達に弁当を作ります。」という脈絡でならば、つまり、「夫は毎朝~をするが、私 は毎朝~をする」という枠組みの表現で考えれば、随分iii:容度が高くなるのではないだろうか。

被験者は(柴谷が注目している)「子供たちに」という「名iiiil句に」があるかないかという判定 Hosei University Repository

参照

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